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Author: 楠瀬明子

福岡県生まれ、九州大学法学部卒。1988年より11年余り北米報知編集長を務め、1993年に海外日系新聞協会・優秀記事賞を受賞。冊子「ワシントン州における日系人の歴史」(在シアトル総領事館、2000年)執筆。

第30回 日本の親を老人ホームに入居させたい。どんなステップを踏めばいい?〜日本の親は大丈夫? アメリカからの遠隔介護

アメリカ在住者に向けて日本の介護・お役立ち情報をお届け!

第30回 日本の親を老人ホームに入居させたい。どんなステップを踏めばいい?

高齢になると、わずかな段差でつまずいて転倒・骨折したり、脳梗塞で倒れて緊急入院となることもあります。入院後は身体機能の低下などにより、介護が必要となるケースも少なくありません。介護の場は「在宅」か「施設」のいずれかです。親と離れて住んでいる、自分の子どもがまだ小さくて親の面倒をみる余裕がないといった理由で在宅介護が難しく「施設入居」を選択する場合、入居までの流れはどうなるのしょうか。今回はそのステップを紹介します。

老人ホーム選びからスタート。
入居までにかかる期間は約1カ月から2カ月間

希望条件に沿っていくつかのホームを絞り込んだら、資料を取り寄せてサービス内容や予算、立地、運営会社の財務状況や企業理念などを読み込んで比較検討しましょう。その後、複数のホームを実際に見学してみます。ホーム見学では、入居者の表情や暮らしぶり、スタッフの対応、周辺環境や最寄り駅からのアクセスなどを確認します。

入居したいホームを決まったら、申し込みをして事務手続きに進みます。ここで注意したいのが、必要書類のひとつ「健康診断書」の取得です。病院に健康診断の予約を入れ、実施後、診断書が発行されるまでに約2週間から3週間かかることがあります。仮押さえ中に必要書類をそろえられるよう、早めに準備を進めましょう。

入居したいホームの体験入居。
契約前に体験して最終判断を

必要書類がそろい、面談や入居審査を終えたら、体験入居を行いましょう。体験入居では3日から1週間ほど実際にホームで生活をし、「食事の味が合うか」「ホームの雰囲気は暮らしやすいか」「希望したサービスを提供してくれるか」などの最終確認をします。体験入居中に問題がなければ、本契約に進み、そのまま本入居となります。契約時には、「入居契約書」「重要事項説明書」「管理規定」などの説明があり、納得した上で契約・捺印を行います。契約時には保証人・身元引受人も必要となります。「重要事項説明書」には、ホームのサービス内容やスタッフの配置、医療体制などが記載されています。契約前に、利用料金に含まれる項目や、入居金の返還規定、退去時の原状回復費などをしっかり確認し、不明点があれば遠慮せず質問しましょう。日本の老人ホームに入居するには、意外と時間がかかります。また、契約時に必要な書類も多いため、早めの準備がおすすめです。
 
時代は変わりました。家族だけで介護を抱える時代ではありません。自分だけで悩まず、専門家のチカラを借りてチームを組んで前に進んでいきましょう。私たちはあなたの応援団です。いつも全力で応援しています。
 
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ペリーに先駆けた偉人ラナルド・マクドナルド生誕200年を祝う〜みんなの広場

ペリーに先駆けた偉人
ラナルド・マクドナルド生誕200年を祝う

ペリー来航(1953年)の5年前に日本へ上陸していたことで知られるラナルド・マクドナルド。「マクドナルド友の会」は8月23日、コロンビア川の北岸に位置するフォートバンクーバー国立史跡公園内のグラントハウスで、マクドナルドの生誕200年祝賀昼食会を開催した(以後、マクドナルド)。

マクドナルドは1824年、フォートジョージ(現オレゴン州アストリア)で、北米先住民チヌーク族の母とスコットランド人で英貿易会社勤務の父との間に生まれ、フォートバンクーバーで少年期を過ごす。ある時、ワシントン州西北端に漂着した日本人の話を伝え聞いたマクドナルドは日本に強く心ひかれるようになり、日本行きを決心する。成長した彼は、日本へ渡る手段として捕鯨船の船員となり、1848年、念願の北海道沖に到着する。それまでの働きに対する報酬と引き換えにボートを手に入れ、漂着を装って利尻島に上陸したのだ。 

マクドナルド生誕200年祝賀昼食会にて。後方にマクドナルドの肖像、手前には今春発行された記念切手の図案が見える

その後、移送先の長崎では日本人のオランダ語通詞たちに英語を教え、日本初のネイティブ英語教師となる。教え子の一人である森山栄之助は、後に激動の幕末期の対外交渉において通訳として大役を担うまでになった。一年足らずの滞日だったものの、マクドナルドは日本の歴史に大きな功績を残した。 

マクドナルドの命懸けの冒険と歴史的偉業に胸揺さぶられた人は少なくない。ノンフィクションや歴史小説に定評のある作家の吉村昭氏は、資料を駆使して『海の祭礼 (1986年)』を執筆。マクドナルドを世に広く紹介した。また、オレゴン州では1988年、出生地アストリアのクラトソップ郡歴史協会傘下に「マクドナルド友の会」が誕生した。以来、同会は彼の功績を広める活動を行い、利尻島の若者を対象とした短期訪米プログラムなどを続けている。 

祝賀会では、ゲストとして吉岡雄三在ポートランド総領事を迎え、地元会員のほか、マクドナルドが上陸した利尻島や漂流日本人たちの出身地である愛知県からの参加もあった。生誕200年を迎えるにあたり、2019年には会員であるスティーブン・コール博士による『海の祭礼』の英訳版がクラトソップ郡歴史協会から出版された。さらに、日本では今春、かねてから要望のあったマクドナルド記念切手の発行も実現。マクドナルドの業績が、一人でも多くの人に認知されることを願っている。

(楠瀬明子/シアトル)

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末次毅行さん〜日本調理師連合会師範/日本食普及の親善大使 

当地で日本料理店のオーナー・シェフを長年務めた末次毅行すえつぐたけゆき  さん。今春、日本食文化の普及および教育者としての次世代への継承を評価され、旭日双光章を受章しました。現在は妻の美苗みなえ さんとモーゼスレイクに住み、活躍の場を若い世代に譲る準備を進めつつあります。

取材・文:楠瀬明子 写真:在シアトル日本国総領事館、本人提供

末次毅行■1944年、鹿児島県指宿生まれ。高校卒業後に板前修業を始め、大阪で辻調理師学校に入る。学校を通じてパリ、コロラド州デンバーの料理店で働くと、さらにワシントンDC、カリフォルニア州を経てシアトルへ。ビューリエンの薩摩レストランを皮切りに、デンバー支店ほか、日光(シアトル)、ビストロ薩摩(ギグハーバー)、和食薩摩(モーゼスレイク)を開業した。現在はモーゼスレイクの職業訓練校で日本料理の指導に当たる。
 
アメリカに渡ることを夢見て料理人に
 
旭日双光章の前には、2009年に在シアトル総領事表彰、2016年に農林水産省「日本食普及の親善大使」任命、2021年に同省の日本食海外普及功労者表彰も受けている末次さん。インタビュー冒頭で、「これまでに、ワシントン州内の全カレッジで日本料理のデモンストレーションや指導をしました」と述べる。従来、先輩の背中を見て覚えるという料理人の技術を、アメリカで人々に正面から教えてきたこと、そして数多くのデモンストレーションで日本料理を紹介できたことに、大きな誇りを感じている。
 
中学生の頃、指宿の海を背にして
日本での板前修行時代、京都での休日
 
1944年、鹿児島・薩摩半島南端にある指宿いぶすき 町(現・指宿市)に7人兄弟の末っ子として生まれた。実家は祖父母の代に佐賀から移り、指宿で唯一、みそとしょうゆの醸造業を営んでいた。しかし、末次さんが指宿高校に進んだ頃、事業不振に陥る。東京にいた兄姉を頼って上京し、転入した都立三鷹高校では得意の柔道で活躍した。
 
防大志望を翻し、料理人を目指すことにしたのは、後にベニハナ・オブ・トーキョーを開くロッキー青木さんのアメリカでの成功を、図書館の雑誌で目にしたことがきっかけだ。高校卒業後は料理人となって、自分もアメリカに渡ると決めた。「思い返せば小学2年の頃、担任の先生から、アメリカでは皿洗いや掃除夫もマイカーを持っていると聞いて驚き、強い憧れを持ったこともあったのです」
 
辻調理師学校の辻校長と。「いただいた手紙は全て大事に保管しています」

板前修業は、伯父が総支配人を務めていた熱海・大観荘を振り出しにスタート。やがて大阪に移り、そうこうするうちに3年近くが過ぎた。本人も認める、せっかちな性分。いつになったらアメリカに行けるのかと悩み始めたところで、「阿倍野の調理師学校を卒業すると、毎年1人は海外派遣される」と耳にした。それならと、板前修業の傍ら、辻調理師学校(現・辻調理師専門学校)で1年間学ぶことに。夜働きながら昼は学校という忙しい日々ではあったが、職場の理解も得られ、時には課題練習に協力さえしてもらえた。「高い授業料の価値は十分ありました」
 
パリの市場で買い出し
辻調理師学校は、元新聞記者でフランス料理に造詣の深い辻 静雄さんが4年前に開校したばかり。第5期生として同校で習得したことや、辻校長との出会いとその後の交流は、末次さんの料理人人生に大きな影響を与えた。在籍当時の生徒数は約250名。渡米という大きな目標に向かって努力した甲斐あって、学校推薦でアメリカ・デンバーでの日本料理店就職への道が開けた。
 
2度目の挑戦でかなったアメリカでの就職
 
シアトル訪問中の母を囲んでの家族写真

「ところが、アメリカ政府からビザが下りないんですよ。経験が足りないという理由で」。がっかりしていると、学校からパリ行きの話が来た。こちらは驚くほどすんなりと渡航が実現し、パリに開店したばかりの日本料理店で働くことに。1966年の話だ。
 
パリでは、包丁を握ると共に、必死にカタカナでフランス語を覚え、語学学校にも通った。1年半後、日本への帰国は、マルセイユを出港しスエズ運河を経ての船旅。エジプト、インド、香港と寄港しながら40日かけての帰国だった。第三次中東戦争の勃発でスエズ運河が航行不可となったのは、その数カ月後である。
 
帰国して学校へ挨拶に行くと、例のデンバーの料理店から再び卒業生派遣の話が来ていた。その料理店経営者の姪も、たまたま同じ頃にデンバーへ留学すると言う。今度こそとビザ取得に訪れた東京で顔を合わせた経営者の姪は、後に妻となった美苗さんだ。美苗さんに3カ月遅れて1967年の暮れ、末次さんも包丁と現金135ドルを持って、ついに渡米を果たした。
 
デンバーの料理店では3年勤務の約束だったが、ほかの都市の料理店も早く見たくてたまらない。1年半を過ぎると、武者修行を願い出た。4,750ドルで購入した念願のマイカー、シボレー・インパラに乗って、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンDCと日本食文化の講演とデモンストレーションで回り、DCの料理店に勤務。デンバーの美苗さんには、食費を切り詰めて毎週末に1時間の長電話をかけた。
 
デンバーに戻ると、半年だけシアトルのレストラン、帝みかどで働くことに。シアトルへ向かう途中のラスベガスで、美苗さんの伯母や友人も立ち会い、美苗さんと結婚。シアトルでは、美苗さんの親戚筋に当たる窪田竹光さん(当時の北米報知社主)、森口貞子さん(宇和島屋創業者、森口富士松さんの妻)らによりレストランで披露宴が開かれた。
 
デンバーに戻って働いた後、カリフォルニアを経て1972年、再びシアトルに。美苗さんと、デンバー生まれの娘、恵理子さんも一緒だ。以前も働いた帝に勤め、3年間で1万2,000ドルを貯めた。同僚と8人で「日本人魂の会」を作り、タコマを早朝4時に出てシアトルまで全員で走ったのも良い思い出となっている。
 
「おいしく美しい料理」を理念に
 
料理人として、ビジネスマンとして、教育者として、シアトルでの多彩な活動が幕を開けた。1976年、シータック空港近くのビューリエンに薩摩レストランを開業し、10年後の1986年には思い出の地、デンバーに支店として200席の大型レストランもオープンした。
 
料理は、従来の和食にとらわれることなく、材料もソースもいろいろと工夫。「おいしい」のはもちろん、「美しい」日本料理の創作に挑む。ただし、丁寧にだしを取るなど基本は徹底。妥協のない確かな味に、常連客の通う店となった。コミュニティー・イベントや正月行事では、得意とする野菜のむき物を駆使した華やかな飾り付けで場を盛り上げた。1987年のブラックマンデーの余波でデンバー店を閉じることになったのは大きな痛手だったが、その後も切磋琢磨し、美苗さんと共に大小さまざまなレストランの開店と閉店を経験。その喜びも苦労も分かち合った。
 
ビストロ薩摩の三段重ね弁当「味御膳」
20年余り続けた個人宅へのケータリングでの料理

オーナー・シェフとしてウェスティン・シアトルのホテル内に大規模な日本料理店、日光(1997~2002年)を共同経営。その後はギグハーバーでビストロ薩摩(2002~2016年)を開店する。並行してノースウエスト航空(現デルタ航空)とユナイテッド航空の機内食を請け負い、アメリカン航空の和食コンサルタントも担った。ファストフード店のビジネスを手掛けていた時期も。モーゼスレイクでは、弁当とケータリングを中心とする和食薩摩を開いた。料理の腕は、日本調理師連合会の調理師師範(2000年)、全米司厨士協会の名誉アカデミーシェフ(2001年)として認められた。2002年春には、京都で催された世界司厨士協会の世界会議に参加し、諸外国のシェフとの貴重な出会いを体験した。
 
2001年、日本食の料理人では初めて全米司厨士協会の名誉アカデミーシェフに選出
料理教育とデモンストレーションには、独立当初から情熱を注いだ。1984年からは薩摩クッキングスクールの看板を掲げて出張授業に赴いたほか、コミュニティー・カレッジや職業訓練校でも「シェフ・タック」として指導に当たった。モーゼスレイクでは、2016年からコロンビア・ベイスン職業訓練校の料理プログラムで日本料理を教えている。また、イベントや物産展などで担当した調理デモや講演は数え切れない。「日本食の伝道」を使命に、機会があれば積極的に日本料理紹介に努めてきた。
 
シアトル日系人会といった多くの日系団体にも携わった。日本語学校維持会では副会長を、シアトル鹿児島県人倶楽部では2018年まで30年近く会長を務めた。日系社会にとどまらず、薩摩レストランのあったビューリエンでは22年もの間、ロータリー・クラブ・メンバーとしても活動した。
 
1995年には、地元の主だったレストランに呼びかけ、11店をチャーター・メンバーとしてシアトル日本料理店協会を設立。以来、会長を務めてきた。50店余りが参加し、親睦を深め、共通の関心事項についてセミナーの開催なども重ねた。「世代交代や時代の変遷もあり、残念なことに今はほぼ休眠状態。若い世代だと、何でもオンラインという発想になるようで」。それでもなお、会の存在意義を強く信じている。
 
若い世代へバトンを引き継ぐ
 
2021年には、農林水産省から日本食普及への貢献を表彰された

モーゼスレイクへは2016年に移ってきた。三菱重工業が開発していた小型旅客機のMRJ(三菱リージョナルジェット)の試験飛行地となり、200人もの日本人社員に和食を提供する役割を求められ、思い切っての転居だった。開発が中止された今は店を閉め、前述の職業訓練校での指導に注力する。
 
「言うんですよ、生徒たちに。私は135ドルだけ持って片道切符でアメリカに来て、これだけのことができた。君たちもしっかり学んでいれば道は開ける、って」。全寮制の連邦政府プログラムで、1年かけて学ぶ生徒たちは真剣だ。「料理の背景に文化あり(Food Behind Culture)」をモットーとするシェフ・タックの下で、料理実習に加えて日本の食文化、そして末次さんが最も大事にしている料理の心も習う。教え子とは卒業後も連絡を取り合い、日本での和食研修制度があると聞けば背中を押し、選考に漏れたと知っては一緒にくやしがる。
 
今年6月29日、総領事公邸で行われた勲章伝達式・祝賀レセプションには、美苗さんと娘夫婦も出席
モーゼスレイクの自宅デッキにて。「夏は暑いですが、カラッとしていて過ごしやすいですよ」と美苗さん

念願のアメリカへ来て56年。来年は80歳になる。いつ会っても穏やかな笑顔だが、「実は、気が短くて、けんかっ早いのです。そのため、若い頃には失敗もありました」と告白。しかし「いろんな人に助けられて、ここまで来ました」と振り返る。それは、時に採算を度外視しても一途に進む情熱と料理への真摯な姿勢を買われてのことだろう。板前修行中だった成人式の日の朝に詠んだ歌がある。
 
二十歳はたとせ  の基礎に築くは大願の成就の道は険しからまし
 
大願の海外勇躍なるも山あり谷あり波瀾万丈の道を、美苗さんとの二人三脚でしっかりと歩み、日本食伝道の役目を全うする末次さん。今後はモーゼスレイクで、「シェフ・タック奮闘記」をまとめるつもりでいる。
モーゼスレイクでは職業訓練プログラムで指導
野菜のむき物を使って日本の花鳥風月を見事に再現

楠 活也さん〜シアトル別院仏教会輪番

夏の盆踊りがシアトル市民に広く知られるシアトル別院仏教会は、創立から120年を超える歴史を持ちます。輪番りんばん(主任開教使)を務める楠 活也さんに、シアトルに着任するまでの異色の経歴を含め、これまでの活動やパンデミックでの苦労などを語ってもらいました。

取材・文::楠瀬明子 写真::楠瀬明子、本人提供 

楠 活也■1977年生まれ。長崎県長崎市で育ち、長崎東高校を卒業後、宮崎大学教育学部に進学。在学中、青年海外協力隊の隊員としてアフリカのジンバブエに渡る。大学卒業後は3年間、宮崎県内の小学校で勤務。京都で仏教を学んだ後の2010年、開教使としてカリフォルニア州ローダイに赴任し、2017年春からシアトル別院仏教会輪番を務めている。

シアトル別院仏教会▪️シアトルで1901年に創立された、浄土真宗本願寺派の寺院。毎日曜日に日英両語で礼拝が行われており、夏の盆踊りはシアトルのシーフェア行事のひとつとして親しまれている。1941年完成の現在の建物はシアトル市の歴史的建造物に指定されている。葬儀、法事、結婚式の相談にも応じている。                                          


Seattle Betsuin Buddhist Temple

1427 S. Main St., Seattle, WA 98144

開館時間:月~金9:30am~3pm

☎️206-329-0800、seattlebetsuin.nihongo@gmail.com

https://seattlebetsuin.com

行事案内

●除夜の鐘 12月31日(土)12pm〜・・・大晦日正午より、阿弥陀仏の前で1年を振り返り感謝をしまえうための鐘きを。除夜の鐘の出張サービスも受け付けている。

元旦会がんたんえ 2023年1月1日(日)10am〜・・・人々が集まり、新年に当たり1年間を穏やかに過ごせるよう念じる。


寺に生まれ、ぐるりめぐって今また寺に

江戸時代初期から続く長崎市内の寺に次男として生まれた。実家の光源寺は、病気で亡くなった母親が墓で産み落とした赤子のために幽霊となって飴を買いに来るという民話「産女うぐめの幽霊」で知られる。また、明治時代から日曜学校が続けられており、2009年には日曜学校の卒業生たちによって、長崎市内を「ひかり子ども会創立100年」の看板を下げた路面電車が走るなどした。

だが当人は、寺の息子であるのが嫌だったと言う。

「寺で生まれ育つと、寺の息子としていつも周囲の目にさらされています。寺に生まれた友人たちは大抵そうなのですが、皆それが嫌なのです。私には、自分のことを誰も知らない遠くへ行きたいという気持ちが常にありました。地元の大学へ行かずに宮崎大学に進んだのも、アフリカのジンバブエに渡ったのも、遠くに行きたかったからです」

小学校でソフトボールを始め、中学、高校、大学はずっと野球ひと筋。常にチームの中心となって活躍し、守っては捕手を務め、チームではキャプテンとして信頼されていた。プロ野球選手になることを夢見て練習を重ねるも、そのうちに自分の能力の限界を感じてくる。それでも、何かしら野球に関わっていきたいと思っていた。青年海外協力隊に応募し、隊員に選ばれてアフリカ南部の国、ジンバブエ(旧南ローデシア)に向かったのは大学4年の時。子どもたちや青年に、野球を指導するのが任務だった。

中学生の頃。プロ野球選手を目指して練習に明け暮れる毎日だった

「初めての海外で不安はあったはずなんですけれど、ただただワクワクしてました」。当時はまだインターネットも普及しておらず、現地の子どもたちにとって野球は未知のスポーツ。「前任者のやっていたことを引き継いで、小学校を回っては一生懸命教えました」。かつて英国植民地だったアフリカの貧しい国で、いちばん大事であろう農業でも、今後必要となるコンピューターの技術でもなく、毎日野球を教えていることに疑問を感じる瞬間もあった。だが、「何か楽しみを持たなければ、人は生きていくことはできないのです」という現地の人の言葉に支えられ、活動を続けていった。

青年海外協力隊として渡ったジンバブエで。右端が楠さん

2年4カ月のジンバブエ滞在を終えて大学に戻ると、卒業後は宮崎県の小学校で教鞭を執った。「学校の部活で野球を教えたい」との思いから、教員免許を取得していた。しかし教師3年目に悩みや迷いが生じて退職。再び海外を目指すことにした。

家族の助言もあり、選んだのは開教使としての海外伝道。ジンバブエに行く前にすでに得度(仏門に入り僧侶になること)は済ませていたので、京都の中央仏教学院に入学して、仏の教えをより深く学んだ。「それまで、ほかのお寺さんのことは知らなかったのですが、京都で学んでいると、ずっと昔から日曜学校を続けるなど自分の実家はすごい寺だと改めて感じました。今でも悩んだ時に戻る原点は日本の寺、父の姿です。結局、寺を嫌いだった私が、ぐるりと回って寺に戻って来たのです」

2010年に、カリフォルニア州北部の町、ローダイに開教使として着任。その直前には、幼なじみの綾乃さんと結婚した。「小学校では同じクラスで、中学、高校も一緒でした。でもそれ以上のことはなく、大学も別々だったのですが、同窓会で再会して……。アメリカに行くと言う私について来てくれました。ありがたいことです」。2016年には長男の結也ゆいや君が誕生した。そして翌年、楠さんは39歳で家族と共にシアトルへ。

創立120年の節目も経て

海外の数多い仏教会の中でも、重要な拠点は本願寺の支部との意味で「別院」となり、主任開教使も「輪番」と称される。楠さんは、シアトル別院仏教会に新輪番として着任した。

シアトル仏教会の歴史は古い。19世紀末から、多くの日本人男性が米国西北部の製材所や鉄道で働くため渡米。1900年の米国国勢調査によれば、シアトルにも2,990人の日本人が住んでいた。そういう中で1901年、シアトルに仏教青年会が発足。日本から初代開教使が着任して同年11月に浄土真宗本願寺派のシアトル仏教会が誕生した。

シアトル別院仏教会全景。手前は年末に除夜の鐘が響く鐘撞堂

「当時のことですから20代の若者が多く、心の支えとなるリーダーをどこかで求めていたことでしょうね。また血気盛んな若者たちを束ねる必要もあったでしょう」と楠さんは推し量る。1908年には、シアトル日本町を貫くメーン街(S. Main St.)にシアトル仏教会の建物が完成。しかし、公営住宅建設の大型プロジェクトであるイェスラー・テラス・プロジェクトが計画されると、仏教会は立ち退きを余儀なくされる。同じメーン街を東に数ブロック移動した現在地に新仏教会が完成したのは1941年10月、日米開戦ふた月前のことだ。仏教会指導者や有力メンバーは開戦直後に逮捕され、そのほかのメンバーも翌春の日系人強制立ち退きでシアトルを去った。収容所から人々がシアトルに戻り、1946年になってようやく、米国海事委員会が使用していた建物がシアトル仏教会に返還された。

戦後再開したシアトル仏教会では、プログラムが次々と拡充。1948年には保育所が開設、ボーイスカウト連隊も結成された。このほかの活動も評価されて1954年、シアトル仏教会は別院に昇格。こうした歴史を積み重ねて、シアトル別院仏教会は2021年には創立120年を迎えた。

「このコロナ禍で、120周年イベントはオンラインと対面式の限定的なものになりました。昨年11月に行われた120周年記念法要の様子はYouTubeで見ることができます」。今年90周年となるはずだったシアトル別院仏教会恒例の盆踊りも、残念ながらバーチャルでの開催のみ。「来年の夏には、90周年を祝う盆踊りを行います。楽しみにしていてください」

大勢の人でにぎわうシアトル別院仏教会の盆踊り(2018年)

 

新型コロナによるパンデミックに突入して以来、この4月までは対面式での日曜礼拝はなく、ZoomやYouTubeで礼拝や法話が行われた。「本堂でひとり、機器に向かって話すわけですから、やはりもどかしさやむなしさを感じることがありました」。対面式での礼拝が復活し、人々が本堂に集えることのありがたみを実感するのは、コロナ禍を経たからこそだ。しかし、新たな課題も生じている。対面式での礼拝が再開されても、いったん人々が慣れ親しんだオンライン礼拝を全く失くすわけにはいかず、対面とオンラインとの二本立てとなったのだ。そのうえYouTubeの法話は、本堂で話す様子そのままではなく編集も必要となってくる。「そういう難しさはありますが、コロナ禍はオンライン伝道を推し進めるきっかけになったとも言えます」

2018年には、仏教会メンバーと共に光源寺を訪問し交流が図られた

子どもたちの活動の場を提供

昨年のハロウィンに妻の綾乃さん、息子の結也君と一緒に

子どもたちのためのプログラム、「ダルマスクール」も今秋からは以前のような活動が戻りつつある。ダルマスクールは、乳幼児から高校生を対象にした、子どものための仏教子育てプログラムで、ハロウィンや年末行事なども行う。日曜日のサンデースクールは、マスク着用ですでに復活中。実家光源寺のひかり子ども会で育った楠さんは、「アメリカでお寺に来るということは、この多種多様な文化の中で、子どもの生きる土台を作ることだと思います」と語る。妻の綾乃さんも、5歳までの幼児と保護者が集う日本語プレイグループ「お寺で遊ぼう!」をオンラインと対面式で開催し、気軽な参加を呼びかけている。

シアトルに来た時はまだ赤ん坊だったひとり息子の結也君は、この秋から幼稚園に通う。「息子も野球に興味を持っているようです。8月末のイチロー・ナイトには、私は出張で行けなかったのですが、妻と息子がスタジアムに出かけました」とうれしそうに話す。かつての野球少年は、今はファンとしてシアトル・マリナーズを応援し、時には仏教会対抗試合でプレーもする。

昔、遠くアフリカに出向いて、野球という楽しみを伝えようとした楠さん。今、仏の教えを広める開教使としてアメリカに来て、伝えたいことがある。

「大人、子どもにかかわらず、仏教の教えを通して、柔軟な心を養い、広い目を持って欲しいと思っています。そうすれば、この世の中で決して自分はひとりで生きているのではなく、家族、コミュニティーなど全ての命に支えられていることがわかります。ありがたいという気持ちが芽生え、他人にも優しくなれます」

お参りのメンバーの前で法話を行う

寺で育ち、寺を離れようとした時期を経て、寺に戻って来たこれまでの道のり。それは、この間に経験した多くの悩みや迷いともども、決して無駄ではなかったに違いない。ふと、お釈迦さまの手のひらの上にいる姿が思い浮かんだ。

 

北米報知とたどる シアトルの120年

姉妹紙『北米報知』の前身、『北米時事』が誕生したのは1902年9月のこと。以来、中断もしましたが現在に至り、2022年9月には120周年を迎えます。同紙が見つめてきた、日本、アメリカ、そしてシアトルの歴史の転換点を、当時の紙面と共に振り返ります。 

取材・文:楠瀬明子

姉妹紙『北米報知』新年号では1902年創刊時から1920年頃までの北米時事社の様子や記事内容を紹介。併せてご覧ください。
オンライン版はこちら➡https://napost.com
 

日米開戦直後も発行を続けた北米時事 

これまでに発行された紙面は、北米報知財団とワシントン大学図書館との共同プロジェクトでデジタル化が進められており、アーカイブの一部はオンラインで読むこともできる。筆者は1985年から1999年までの約14年間、北米報知で取材・編集に携わった。その当時の北米報知は、週3回発行。オフィスはインターナショナル・ディストリクトを貫く大通り、S. Jackson St.に面したビルの2階にあり、新聞社に用のある人は皆、階段をトントンと上ってきた。1980年代後半の社内には、手書き原稿を3人のタイピストが打ち込む邦文タイプの音が響き、編集室の壁際の大きな棚には数十年分の新聞が保管されていた。過去の新聞はコミュニティーについて全てを語ってくれる事典のようなもの。記者にとっては宝の山で、新聞発行のたびに大事にファイルしたものだ。 

1980年代まで同紙出版に使用されていた活版印刷機と写る、現発行人のトミオ・モリグチ。100字ほどの邦文活字版と共にアナコーテスの活版印刷博物館に保管されていたことがわかり、新たな引き取り先を探している。興味のある方は、編集部まで問い合わせを(community@napost.com)

しかし、北米報知の前身である北米時事のファイルは、社内になかった。「祖父のいた頃のシアトルを知りたい」、「新聞に掲載されたという父の文章を読みたい」と、戦前の記録を尋ねて日本から何人もが訪れたが、残念ながら希望に沿うことはできなかった。北米時事は、ちょうど80年前、1941年12月の日米開戦後も発行を続けたが、新聞社は翌春閉鎖。立ち退きを前に預けた新聞ファイルは、強制収容所から戻ってみるとネズミの巣となっていたのだという。

北米時事誕生の頃

北米時事がシアトルに誕生したのは1902年、日本では明治35年のことだ。シアトルという町は1851年、移住目的の12名の男女、12名のその子どもたちがウエスト・シアトルのアルカイポイント付近に上陸して始まった。シアトル市となったのは1869年。1889年には、アメリカ合衆国42番目の州としてワシントン州が誕生した。 

1893年、米中部のミネソタ州セントポールから西へ、ロッキー山脈とカスケード山脈を越えてシアトルと結ぶグレート・ノーザン鉄道が開通。1896年8月には、同社と提携した日本郵船のシアトル航路第1号船、三池丸がシアトルに到着し、華々しい歓迎式典で迎えられた。東洋貿易中継地点としてのシアトルの始まりで、それまで外国船を利用してタコマに上陸していた日本人も、以後は大半が日本郵船を利用してシアトルに向かうようになった。 

翌1897年には、アラスカ・クロンダイクで大量の金発見のニュースがシアトルに届く。それまでソーミル(製材所)が主要産業だったシアトルには、アラスカへ向かう船に乗り込もうと人々が全米から集まり、携行資材の調達地としても町は急激に発展した。 

中国人労働者排斥法(1882年)が制定されて以降、1890年代のシアトルには日本からの鉄道工夫供給の会社が数社設立されて、日本人上陸者も急増。そのため、タコマに1895年に置かれたばかりの領事館も、1901年にはシアトルに移された。1900年の国勢調査では、当時シアトルに2,990名の日本人がいた。シアトル日本人バプテスト教会(1899年)、日本人会(同)、シアトル仏教会(1901年)、広島県人会(同)、国語学校(1902年)と各団体が次々に発足。こうした状況を背景に1902年9月1日、歯科医・隈元 清を発行人として4名の出資者で北米時事は創刊された。

1919年10月30日付の北米時事。下段右の広告は、1892年にシアトルで開いた古屋商店のもの。古屋政次郎は銀行も設立し、大恐慌で破産するまでコミュニティー最大の成功者として日本人社会を支えた

にぎわう日常だったが…… 

現在、デジタル・アーカイブで読むことのできる最も古い紙面は、1917年12月14日付の北米時事だ。 

当時、アメリカは第一次世界大戦に参戦中。1面にはヨーロッパの戦況が、他の面にはシアトルおよび近郊の日本人1,400人の徴兵再登録や北米日本人会が催す戦時バザーの記事が掲載されている。また、行事案内と並び、入港する船の乗客名から、留置き郵便の受け取り人名の記載まで。紙面の半分以上を占める広告にはレストランや商店が多く名を連ね、現在のインターナショナル・ディストリクトに広がる日本町のにぎわいが伝わってくる。「ちん餅つきます」との広告や「冬場は帰朝者が多く(船が)満員に達する恐れあり、前もって申し込みいただけば手続きを行います」とうたうホテルや旅館の宣伝は、12月という季節を感じさせる。全8ページ。クリスマスと正月以外は年中無休という勢いだった。 

1906年、シアトルにキング・ストリート駅が完成。翌年に始まったパイクプレース・マーケットには、日本人農家も多く出店した。1909年には、現在のワシントン大学構内を会場にアラスカ・ユーコン太平洋博覧会が開かれ、日本からは渋沢栄一率いる実業団一行がジャパン・デーに出席した。1914年、当時ミシシッピー川以西で最も高いビルとなった38階建てのスミス・タワーが完成。また1916年に、水上飛行機を手掛けたのを最初に航空機製造のボーイング社が始まった。 

北米時事の隆盛は、1920年にはシアトルだけで約8,000人にもなった日本人人口に支えられていた。しかし排斥の機運は、中国人に代わって増えた日本人に対しても消えることはなかった。アメリカ連邦議会は1906年、移民法を改定して日本人を帰化不能外国人とした。さらに1908年には日本政府と日米紳士協定を締結。日本の外務省は移民旅券を発給中止とし、数少ない例外を除いては家族の呼び寄せと在米日本人の再渡米しか認めなくなった。 

第一次大戦中は需要の激増で労働者が不足するほどであったが、1918年11月の終戦と共に景気は後退。不況の中、排日の機運が再度高まりを見せる。他州に続き、1921年にワシントン州議会でも外国人土地法が成立した。州法の条文は単に外国人の土地所有を禁じているが、1906年の連邦法で帰化を拒否された日本人を明らかなターゲットとした「排日土地法」だった。1923年の州法修正により、アメリカ国籍を持つ未成年の日系人の土地所有も禁止され、子孫への継承の道も途絶えた。 

1924年になると新移民法が成立し、7月から施行された。外交官・牧師・教師・商人・旅客・学生と再渡航者を除いては、帰化不能外国人の入国が禁止されるというものだ。そのため、日本の祖父母の元に残されていた子どもは、在米の両親にあわてて呼び寄せられた。また、独身男性も日本から花嫁を迎える最後の機会とあって、駆け込みでの渡米者が多数、シアトルに上陸した。

シアトルの日系人強制収容 

1929年秋に起きたアメリカの株価大暴落は、その後10年間も続く世界恐慌を引き起こす。1939年にはドイツ軍によるポーランド侵攻を発端としてヨーロッパが戦場と化し、続いて1941年に日本の参戦による太平洋戦争が始まると、第二次世界大戦の交戦地域はかつてない規模の広さとなった。 

戦中、シアトルの航空機産業は一段の飛躍を見た。ヨーロッパ戦線における米軍の主力爆撃機としてボーイング社のB-17 が大量に生産された。また、当時の超大型爆撃機であるB-29 は、長距離侵攻能力を買われ、日本本土への戦略爆撃に使用された。 

初期の頃は独身男性がほとんどだったシアトルの日本人社会は、やがて夫婦を単位とするコミュニティーへと変化し、1930年までにはアメリカ生まれが4,000人を超えた。北米時事には英語ページが加わり、1921年には、後の日系アメリカ人市民同盟(Japanese American Citizens League、以下JACL)シアトル支部の前身となる全米初の2世団体がシアトルに発足した。多くの子どもは日本語を学ぶために、毎日午後の国語学校へ通ったが、日本に送られ教育を受けてシアトルに戻って来る者、いわゆる「帰米2世」も少なくなかった。新たな日本人の入国は禁止されていたため、30年代の北米時事では若い帰米2世が記者として勤務。彼らは戦後、北米報知の編集長も務めた。 

北米時事は、真珠湾攻撃の翌日に発行人の有馬純雄が逮捕された後も、発行が続けられた。しかし、1942年3月12日の紙面に「本日政府の命令により一時休刊せねばならなくなりました」との挨拶を掲載し、これが北米時事の最後となった。この後、日本人・日系人の強制立ち退きが、3月末のベインブリッジ島を皮切りに、シアトル、レントン、ベルビューと続き、西海岸在住12万人の全米10カ所での収容所暮らしが始まった。

戦後のシアトルと日本人社会  

再び活気を取り戻した戦後のシアトルの日系コミュニティーでは、「天狗クラブ」の釣果報告や新聞社主催の松茸コンテストも紙面をにぎわせた。1954年11月には、コミュニティーからの松茸が航空便で皇室に献上された。写真は、1955年の松茸コンテストの様子

戦争の形勢が定まると、戦争終結を待たずに1945年1月から人々は収容所を去ることが許されるようになった。人々の帰還が進むにつれコミュニティーは活気を取り戻し、シアトルでは1946年6月、生駒貞彦を発行人、元北米時事の有馬純雄を編集長として、かつての北米時事が週刊紙『北米報知』としてよみがえった。 

北米報知はやがて1948年に週3日発行、1949年には週6日発行の日刊に。同年、シアトル日系人会も発足した。1952年に移民国籍法が成立すると日本人の帰化が可能となり、在米日本人の家族呼び寄せが認められ、日本人社会は一段と活況を呈した。 

1950年5月、在シアトル日本政府在外事務所としてシアトルに日本政府の代表機関が復活。対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)が1952年4月に発効すると、在外事務所はシアトル領事館に。4年後には総領事館となった。また、横浜・シアトル間の日本郵船の定期航路も1951年10月に再開された。シアトル市と兵庫県神戸市は1957年、姉妹都市提携を行った。 

1960年の皇太子ご夫妻のシアトル訪問は、渡米前から詳細が連日のように報道され、シアトルご到着で最高潮に達した。写真は、ワシントン大学植物園内のシアトル日本庭園で記念の白樺のお手植えをされる美智子妃(1960年10月8日付)

日米修好通商条約締結100年を迎えた1960年、吉田 茂元首相を団長とする日米修好通商百年記念親善使節団と皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)が訪米。ご成婚後初の外国訪問となった皇太子ご夫妻は、16日間の日程で米国内主要都市を訪問。シアトルへは、イリノイ州シカゴから10月4日にご到着後、日本人社会の熱烈な歓迎を受け、オリンピック・ホテル(現フェアモント・オリンピック・ホテル)前のビクトリー広場での歓迎会、同ホテルでの晩さん会に臨まれた。翌日はワシントン大学植物園内のシアトル日本庭園で桜と白樺の記念植樹の後、ボーイング工場を視察。日航機「シティ・オブ・ロサンゼルス」号で次の訪問地のオレゴン州ポートランドへ向かわれた。 

21世紀の世界をテーマにシアトル万国博覧会が開かれたのは、1962年。高さ184メートルのスペース・ニードルが建設され、会場のシアトル・センターとダウンタウンをモノレールが結んだ。白亜のサイエンス・センターの設計はシアトル出身の2世建築家、ミノル・ヤマサキによる。野外ステージを飾るウォール・アートは、戦前の呼び寄せ1世で戦後はシアトルに住んでいた山梨出身の画家、ポール・ホリウチが制作した。日本からは文楽の一行が訪れて公演したほか、姉妹都市の神戸からはシアトル市に梵鐘と鐘楼が贈呈された。シアトルの日本人社会にとって晴れがましさの増す博覧会となった。

■年表

シアトルの日系コミュニティーに関わる主な出来事 日米・世界の主な出来事
北米時事創刊 1902  
  1903 ライト兄弟が初飛行に成功
東洋人帰化禁止法 1906  
アラスカ・ユーコン太平洋博覧会開催 1909  
  1914 第一次世界大戦始まる
スペイン風邪猛威を振るう 1918 第一次世界大戦終結
ワシントン州外国人土地法制定 1921  
  1923 関東大震災
排日移民法施行 1924  
  1929 株式暴落。世界恐慌に発展
  1939 第二次世界大戦始まる
日米開戦 1941  
西海岸在住の日系人強制収容 1942  
  1945 第二次世界大戦終結
  1949 1ドル=360円と定められる
日本政府のシアトル在外事務所開設
(52年領事館、56年総領事館に)
1950  
日本郵船のシアトル航路再開 1951 対日講和条約調印
移民国籍法(マッカラン・ウォルター 移民帰化法)成立 1952  
皇太子ご夫妻がシアトル訪問 1960  
  1961 初の有人宇宙飛行成功
21世紀をテーマに シアトル万国博覧会開かれる 1962  
  1963 ケネディ大統領暗殺
ワシントン州外国人土地法撤廃 1966  
  1969 人類が初めて月面に着陸
  1971 ニクソン・ショックで1ドル=308円に
(73年から変動相場制)
  1975 ベトナム戦争終結
建国200年で日本政府が桜をシアトル市に寄贈 1976  
セント・ヘレンズ山の大噴火 1980  
強制収容への謝罪と補償「市民自由の法」成立 1988  
  1989 ベルリンの壁崩壊
  1995 阪神・淡路大震災
ニスカリー地震でシアトルに被害 2001 アメリカ同時多発テロ
  2007 初のスマートフォン(iPhone)発売
  2008 リーマン・ショックで株価暴落
  2011 東日本大震災 1ドル75円台記録
  2019 中国で新型コロナウイルス感染確認
シアトルで米国内初の 新型コロナウイルス感染者確認 2020  

 

排日土地法、ついに撤廃   

1921年からの排日土地法撤廃が実現されるまでには、時間がかかった。戦前の日本人排斥の悪弊であり、日本人の経済活動を制約するこの州法を撤廃するために、シアトル日系人会とJACLシアトル支部は1959年、外国人土地法撤廃運動基金募集委員会を発足させて活動を開始した。しかし、ワシントン州住民投票では1960年、1962年と支持を得られず、3度目の住民投票となった1966年にようやく僅差で勝利となった。それまで打ち出していた「東洋人排斥を目的としたもの」という主張を、「時代遅れのものであり、州の発展・開発を阻害している」との観点に置き換えて有権者に訴え、ようやく得た成果。全米各地のいわゆる排日土地法の中でも最後の撤廃だった。 

シアトルへの日本企業の進出も徐々に増え、1960年には日本企業の親睦団体「春秋会」(2002年にシアトル日本商工会へ名称変更)が発足し、1966年にはシアトル日系人会の賛助会員となって地元との連携も強めた。また1971年には、シアトル日本人学校(現シアトル日本語補習学校)を設立し、毎土曜日に幼稚園児から高校生までが日本語で学ぶ補習学校の運営を現在まで担っている。 

アメリカ建国200年を迎えた1976年は、シアトルでも祝賀行事が続いた。日本政府からは桜の若木1,000本がシアトル市に贈られ、シアトル日系人会、春秋会、ワシントン州日米協会からの石灯籠3基、シアトル日系人会からの記念碑一基と共に、ワシントン湖畔のスワード公園で贈呈式が行われた。記念碑は、自然石に「祝米国建国二百年祭」と三木武夫首相(当時)の筆文字が刻まれている。 

三木首相は前年の1975年、日米首脳会談のための訪米でシアトルに立ち寄っている。その際に北米報知紙上では、「米国留学中に困難に直面した若き日の三木武夫が、シアトル在住の同郷人の助けで学業を続けることができた」というエピソードが紹介された。 

1966年11月9日付、外国人土地法(排日土地法)撤廃の成功を報じる記事。シアトルでは12月に武士ガーデンで祝賀晩さん会が催され、約300人が出席した

1世の高齢化が進むにつれ、これまでの日系史を書き留めておかねばと、コミュニティーが資料・資金集めを担い、1969年に『北米百年桜』(伊藤一男著)、1972年に『続・北米百年桜』(同)が完成。盛大な祝賀会が催された。また、1世の介護施設として、1976年にはシアトル敬老(2019年閉鎖)がオープンした。 

北米報知は、1世購読者の減少から1981年7月末で無期休刊を発表。しかし、新聞の必要性を強く感じるシアトル日系人会有志が新聞社を買い取り、北米報知は同年10月から週3日発行として再開された。その後1988年に宇和島屋CEO(当時)のトミオ・モリグチが社長となり、発行回数の変遷を経て2005年に無料紙に変更。現在は、ソイソース同様に月2回、第2・第4金曜日に発行している。

日本企業の進出と地元新産業の台頭 

戦後の日本の高度経済成長について、その要因をアメリカの社会学者が分析した著作『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が発表されたのは1979年のことだが、80年代の日本はその言葉通り急激な成長を見せた。 

アメリカ進出の日本企業も数を増し、シアトルでは1972年に32社だった春秋会会員数は80年には85社、92年には170社となった。しかし、アメリカへの急激な日本企業進出やニューヨークのロックフェラー・センターなどの不動産取得は反感も生み、米国内にジャパン・バッシングの風潮が生まれた。1989年には運動会競技練習中のシアトル日本語補習学校教師が顔面を空気銃で撃たれる事件が起き、当初はジャパン・バッシングに起因するのではないかと危惧されるなど、人々の暮らしにも影響が及んだ。 

なお、ロナルド・レーガン大統領(当時)は1988年8月10日、第二次世界大戦時に敵性外国人として強制収容した日系市民への補償金支払いを盛り込んだ「市民自由の法」に署名し、法律が成立した。これは、JACLシアトル支部の提案が1972年のJACL全米大会で採択され、以後立法に向けて粘り強く続けられた活動が実ったものだった。 

日本経済のバブルが崩壊した1990年代以降のシアトルでは、日本の企業関係者の数は減少したが、逆に留学生数は増加を見た。1992年、ルイジアナ州バトンルージュで、ハロウィン・パーティーの場所を間違えた日本人留学生が発砲されて亡くなった事件が起き、シアトルは安全な都市として評価されたことも理由のひとつに挙げられている。 

80年代から90年代にかけてはシアトルとその近郊に多くの新しいビジネスの誕生・発展が目覚ましく、それまで林業・水産・航空機産業を柱としていたシアトルのビジネス図を塗り替えることとなった。コーヒーのスターバックス、コンピューター・ソフトウェアのマイクロソフト、会員制ホールセールのコストコ、オンライン・ショッピングのアマゾンなど各社が次々に生まれて成長を遂げ、今では米国内のみならず世界にビジネスを拡張するほどの成功を収めている。一方、他社を吸収合併しアメリカ唯一の大型旅客機メーカーとなったボーイングは、2001年に本社をシカゴに移転。また、航空機製造部門も徐々に他州へ移されつつある。 

シアトル地域に根を下ろし発展した新型ビジネスのひとつに、米国任天堂がある。マリナーズ球団に身売り話が持ち上がった1991年にはこの米国任天堂が大きな役割を果たすことになり、人々を驚かせた。「地元シアトルのコミュニティーのため」と球団買収に応じたのが、任天堂本社(京都)社長だったからだ。日本人がオーナーとなることに反発の声もあったが、マリナーズをシアトルに引き止めたい地元は総じて歓迎。最終的には49%を出資して1992年から筆頭オーナーとなり、マリナーズはシアトルに残った(その後、持ち株は2004年に米国任天堂に移り計55%に。2016年には大部分が地元の出資者グループに売却されている)。 

このような経緯もあり、マリナーズは大リーグの中では特に日本との接点が多く、これまでに多くの日本人選手が在籍している。その中で特筆すべきはイチローだ。2001年シーズンからの大リーグでは、首位打者2回、盗塁王1回。シーズン最多262安打を記録し、引退までに3,089安打、509盗塁。打って良し、走って良し、守って良し、の三拍子そろったプレーで日米のファンを魅了した。マリナーズの球団殿堂入りに続き、2025年の米国野球殿堂入りもほぼ確実と見られている。イチローの活躍によってシアトルが日本で知られるようになったと言っても過言ではないだろう。

日系のシアトル市長誕生  

2019年に中国で新型コロナウイルス感染が広がり始めると、翌年1月には、帰省先の武漢からシアトルに戻って来た男性が全米初の感染者として確認された。それに続いて、シアトル近郊の高齢者施設で感染・死亡者が続出。シアトルは突如、新型コロナウイルスのホットスポットとして全米から注視されることになった。 

Photos Courtesy of U.S. – Japan Council
米日カウンシルの2016年在米日系人リーダー訪日プログラムに参加したブルース・ハレル・シアトル市議会議長(当時。後列右から5人目)

やがて感染は全米に拡大。コロナ禍が長期化するにつれ、アジア系住民へのヘイトクライムが各地で報道されるようになった。また、2020年5月にミネソタ州ミネアポリスで起きた黒人男性の死に至る状況が動画で拡散すると、警察への抗議デモが各地で起きた。シアトルでも、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動のデモ隊は一部が暴徒化し、商店を襲ったり警察署を占拠したりの騒ぎとなった。 

12月10日に開催されたアジア系アメリカ人初のシアトル市長の誕生を歓迎する祝賀会で、演説をするハレル次期市長。2022年1月よりシアトル市長に就任

このような状況の下、治安が争点のひとつとなった2021年11月のシアトル市長選挙で、弁護士で元シアトル市議会議員のブルース・ハレルが市長に選出された。ハレル新市長の父方の祖父母は、ルイジアナ州ニューオリンズからシアトルに移住したアフリカ系アメリカ人、母方の祖父母は、1900年代初頭にシアトルに移民した日本人。大都市ボストン(マサチューセッツ州)とシンシナティ(オハイオ州)にアジア系市長が誕生したこともあって、全米メディアはアフリカ系アメリカ人として2人目、かつアジア系アメリカ人として初のシアトル市長誕生に注目した。2022年は、北米時事に始まった北米報知が戦争による中断などを経て迎える120年の節目の年。そして、シアトルに初の日系市長が就任する記念すべき年ともなった。 

祖父母はシアトル日本人町で花屋を営み、そこで生まれ育った母は戦中、家族とミニドカ強制収容所での暮らしを体験している。ワシントン大学でアメフト選手として活躍した息子は、卒業後に弁護士となり、シアトル市議会議員を経てシアトル市長に選出。その3代の歴史は、北米時事・北米報知の120年と重なる歴史でもある。 

 

北米報知財団とワシントン大学図書館との共同デジタル・アーカイブ・プロジェクト

『北米時事』と『北米報知』の紙面の一部をデジタル保存。誰でもオンラインで閲覧できるようにし、シアトル地域日系コミュニティーの歴史を今に伝えている。北米報知財団ではアーカイブ・プロジェクトへの献金を募っている(https://hokubeihochi.org/donate)。また、ウィング・ルーク博物館に保管されている紙面のスキャン作業を行うボランティアも募集中。詳細は下記まで。
The Nikkei Newspapers Digital Archive (NNDA) https://content.lib.washington.edu/otherprojects/nikkei
問い合わせ:info@hokubeihochi.org

歌舞伎アカデミー主宰者 大野メリーさん

歌舞伎アカデミー主宰者 大野メリーさん

この秋から始まるNHK連続テレビ小説が、昭和・平成・令和にわたる祖母・母・娘3代のドラマ「カムカムエヴリバディ」と発表されました。「カムカムエヴリバディ」とは、終戦直後の日本を席捲したNHKのラジオ英語講座、通称「カムカム英語」オープニング曲のタイトルです。この英語講座を題材とした朝ドラ制作のニュースに、“カムカムおじさん”として親しまれた同番組講師、故平川唯一(ただいち)さんの家族は大喜び。唯一さんの次女で、シアトル、タコマ地域を拠点に日本舞踊や長唄三味線を指導する大野メリーさんに話を聞くと、日米間の歴史を背景に「カムカムエヴリバディ」シアトル3代記が浮かび上がりました。

取材・文:楠瀬明子 写真:平川家、本人提供

大野メリー■4人兄妹の末っ子として1945年、東京に生まれる。日本舞踊を6歳で、長唄三味線を20代で始めてそれぞれの名取となり、舞踊では花柳芙美龍、三味線では杵家弥七蝶を名乗る。日本では、父・平川唯一(1902年~1993年)の主宰したカムカムクラブで英語を教えたほか、本田技研工業外国部などでの勤務を経験。日本の文化・伝統芸能をアメリカで紹介しようと1983年に歌舞伎アカデミーを創設。オンラインも駆使して日本舞踊・長唄三味線・日本語会話を教えている。

朝ドラ決定に沸く

平川唯一さんの次男で東京・世田谷在住の洌(きよし)さんに、NHKから今年度後期朝ドラについての連絡が入ったのは昨年7月。吉報は直ちにアメリカにも知らされた。「兄からそのことを聞いて、エーッとびっくりしました。兄はそれほど事の大きさがわかっていない様子でしたが、連続テレビ小説は私もこちらで毎日見ていますからね。

シアトルにいる長男、ビクターさんからの手紙を手にする平川唯一さん一家。メリーさんが9歳の時

友人も、素晴らしいニュースだと喜んでくれています。思えば波乱万丈の父の一生でしたから、ドラマとなるにもふさわしいでしょうね」とメリーさん。「東京では、今なお存命のカムカムクラブの英会話教室メンバーも大変喜んでくださっているようです。また、父の郷里である岡山でも」。岡山県高梁市の津川総合会館には、地元出身の“カムカムおじさん”にちなむドラマの発表を祝う横断幕が掲げられた。唯一さんの生家近くの公園は、木野山カムカム公園と名付けられている。

カムカムおじさんの誕生

「カムカム英語」として親しまれたNHKのラジオ英語講座を放送中の唯一さん

カムカムおじさんこと唯一さんは1902年、岡山県津川村(現・高梁市)に農家の次男として生まれた。父・定二郎さんは、出稼ぎにアメリカに行き、“鉄道働き”をしていた。『北米百年桜』(伊藤一男著)などによれば当時、グレート・ノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道など内陸での保線作業に多くの人手が必要で、日本からは船でシアトルやポートランドに一度に何百人と送り込まれていた。山中の鉄道で働く者にとってシアトルは、しょうゆなどを取り寄せることのできる食料供給基地であり、休暇を取って出かけては栄養補給や買い物をする町だった。

アメリカからは一度戻って来ただけで、それ以来長い間帰らない父親に、早く帰って来て欲しいと唯一さんが手紙を書くと、おまえたちも一度来てみるかと旅費が送られてきた。1918年、唯一さんは16歳で兄と共にアメリカに向かう。一緒に1年ほど鉄道の仕事をした後、父親は日本に戻ったが、せっかくの機会だからと兄弟はアメリカに残ることにした。

兄の隆一さんは自動車学校で自動車修理技術を学んだ後に日本に帰国。唯一さんは、最初はシアトル日本人町の商店で働いたものの、英語が話せずに接客に苦労。そこで、アメリカ人家庭にスクールボーイとして住み込んで、働きながら学校に通うことにした。タダイチでは呼びにくいと言われて、ジョーの名を選択。以後はジョー平川となって、幼い子どもたちに交じって小学校で学ぶことから始め、飛び級を重ねて3年後には8年生までを修了。ブロードウェイ・ハイスクール(現・シアトル・セントラル・カレッジ)、次いでワシントン大学に進んだ。

ゲストの少年少女たちに囲まれる唯一さん。手前の小さな女の子がメリーさん。「NHKスタジオにはよく遊びに行きました」

当初「発明家になろう」と物理を学び始めたが、1年後に方針を変更して演劇を専攻し卒業。1931年にロサンゼルスに移ると、東京出身のよねさんと出会い、結婚する。生まれた長男を抱えて1937年、一家は日本へと引き揚げた。その秋に得たのが、JOAK海外放送(現在のNHKラジオ国際放送)のアナウンサーの仕事だった。2名の募集に50人以上が応募するという難関。「父は運の良い人で、就職試験の朝に、その日の新聞に出ていた解説記事のひとつを英訳してみたところ、偶然それが試験の課題として出たというのです」とメリーさん。1945年8月には、国際部チーフアナウンサーとして、玉音放送を英訳し世界に向けて発信した。

その後いったんNHKを退職した唯一さんに、再度NHKから声がかかったのが、ラジオ英語講座の講師役。敗戦後の日本では、占領政策を実施するGHQ(連合国軍総司令部)の方針で、国内での英語普及が推し進められようとしていた。「終戦が昭和20年(1945年)の8月、私がその年11月に生まれ、翌年2月1日に英語講座が始まりました。私は赤ん坊の時からずっと、ラジオから流れる父の声を聞いて育ったわけです」

1992年、勲五等双光旭日章を受章した際の唯一さんとメリーさん。「私が日本とアメリカを数カ月ごとに行き来していた頃です」

英語講座は、誰もが知っている「証城寺の狸囃子」のメロディーにのせて「カム・カム・エヴリバディ〜」と歌うテーマソングで始まり、たちまち人気番組となった。アメリカでいちから英語を学んだ自分の体験を元に、「言葉は、赤ちゃんになって覚えていくのがいちばん」「外国語は楽しく遊びながら学ばなくては」と、日常生活に題材を取った平易な英会話が全国に放送された。敗戦後の虚脱状態の日本に笑いと明るさを少しでも取り戻したいとの願いも込めたというプログラムは、子どもから80歳代の高齢者まで幅広い人々を引き付けた。

カムカム英語は、NHKでの5年間の放送の後には民放で続き、カムカムおじさんの明るい穏やかな声はほぼ10年、ラジオから流れ続けた。その間に寄せられたファンレターは50万通余り。いかに多くの人が放送を心待ちにして平日午後6時から15分間の放送に耳を傾けていたかがうかがわれる。

末っ子メリーは舞踊が大好き

平川家では、子どもたちは両親をダディー、ママと呼び、4人の子どもたちはそれぞれ英語名で呼ばれた。長男の壽美雄さんはビクター、末っ子の萬里子さんはメリーだ。「というわけで、私は生まれた時からずっとメリーです。今も弟子たちから、メリー先生と呼ばれています」。平川家では、英語がごく身近にあった。

唯一さんが会長を務めていたローンテニスクラブで皇太子(現・上皇)ご夫妻と

カムカム英語の放送は1日がかりで、唯一さんは毎朝、弁当を2つ持って、当時愛宕山にあったNHKに出かけていたという。その日の原稿を朝から書いて準備し、午後6時からの放送に備えた。ラジオ放送を離れた後は英会話教室を主宰し、外国映画輸入会社副社長などの職にも就いたが、「ダディーの一生はカムカム英語をやるための一生だったんだなあ」と、晩年に子どもに語っていたと言う。

「父は、けんかっ早い私と違って、いつもにこにこして穏やかな人でした。私は母に似ているんですよ」と、メリーさんは両親の思い出を語る。母・よねさんは、東京・神田に生まれ育った“神田っ子”で、進取の気性に富んでいた。「小学校教師をしていた時に2人だけ選ばれて、アメリカの学校の様子を見に行ったそうです。その後、仕事を辞めて留学生として再度アメリカに渡り、その時に父と出会いました」。日本舞踊と清元(三味線による歌舞伎の伴奏音楽)をたしなむ母の好みで、娘2人も日本舞踊の稽古を始めた。

3歳上の姉は小学6年で踊りをやめてしまったが、6歳で始めたメリーさんの踊りは続く。高校3年生の夏休みには米軍基地に招かれて英語で子どもたちに「てるてる坊主」「絵日傘」の踊りを教えるなど、特技を生かした日米交流の第一歩となった。20歳で名取となり、花柳芙美龍が誕生。会社勤めの傍ら23歳で始めた長唄三味線でも、33歳で名取杵家弥七蝶となった。

アメリカを初めて訪れたのは20歳の時。長兄、ビクター(壽美雄)さんを訪ねたのだ。ロサンゼルス生まれの長兄は、貨物船に乗って15歳でアメリカに戻り、苦学してエベレット高校、ワシントン大学、ニューヨーク大学ロースクールを修了。当時は、シアトルの銀行に勤務していた。この最初の訪問でメリーさんはシアトル大学に1年間通い、その間には兄の勧めにより学校などで日本舞踊を披露することもあった。

やがてアメリカを拠点に

東京では、次兄や姉と一緒に父の英会話教室であるカムカムクラブを手伝って小学生を指導したり、企業に勤務したりと、得意の英語を生かす仕事を続けた。他方、シアトルを訪れた時は、日本舞踊や三味線演奏のステージで日本の伝統芸能を紹介することに生きがいを感じる日々。日米を往復するうちに、メリーさんの中で次第にアメリカの比重が大きくなっていった。

◀現在は日本舞踊、長唄三味線、日本語会話の全クラスをオンラインで行う。昨年、三味線メンバー国内外総勢13名で長唄三味線アンサンブル、小鍛冶四合奏をZoomで披露。その模様はYouTube(www.youtube.com/watch?v=o_Snsa5IlO0)で見られる

1983年にはついに歌舞伎アカデミーを創設し、弟子を取るように。90年代にはタコマ・コミュニティー・カレッジ、シアトル・セントラル・コミュニティー・カレッジ(現・シアトル・セントラル・カレッジ)などでの指導も始まった。各種イベントにも積極的に参加し、日本の伝統芸能の紹介に努めた。シアトル桜祭など、地元コミュニティーの日本文化イベントはもちろんのこと、依頼があれば遠方へも、衣装にかつら、時には三味線も携えて飛んで行く。シータック空港でそんなメリーさんの姿を見かけた人もあったかもしれない。その功績により2002年には、地元シアトルのエスニック・ヘリテージ・カウンシルから、諸外国の伝統芸能を米国内において発展させ上演することに貢献のあったパフォーミング・アーティストに贈られるゴードン・エクバル・トレーシー・アワードが授与されている。その他、自宅の稽古場の壁には数多くの感謝状が見られる。

2018年の欧州公演の際、共に三味線を演奏したナポリ在住の弟子、パオロ・コトロネさんと

コロナ禍の今も月曜日から土曜日まで、日本舞踊や長唄三味線、日本語会話の指導をオンラインで行う。この10年ほどは全米、時には米国外に住む弟子たちをオンラインで指導していたので、Skype、FaceTime、Zoomとオンライン授業はお手のものだ。「心血注いでカムカム英語を教えてきた父の背中を見て育ったからでしょうね。指導には根気が要りますが、教える喜びは何物にも代えられません」とメリーさん。2020年末のホリデーカードには、「父の足跡を踏襲しつつ芸道に精進して日米・日伊文化交流の懸け橋として70代後半のわが人生を全うできるよう、更に邁進してまいる所存でございます」とつづった。

日本の文化と伝統芸能を海外に伝えることに道を定めて40年。インタビューでは、「あと10年はやりたいと思っています」と明かす。相変わらず忙しい毎日だが、その合間には2匹の猫に癒されるひとときを楽しんでいる。

シアトルを舞台に、3世代は日米の歴史と共に

歌舞伎の踊りの部分に当たる日本舞踊。メリーさんが歌舞伎アカデミー一門で行うパフォーマンスは、米国内外で評判を呼んでいる。「コロナ終息の折には皆さまにお目にかかりたく願っています」

 

1900年代初頭、出稼ぎとして岡山からアメリカへ来て鉄道で働いていた祖父・定二郎さん。シアトルで苦学して身に付けたアメリカ文化と英語力を日本に持ち帰り、占領下の日本で英語ブームの立役者となった父・唯一さん。その息子でメリーさんの長兄・ビクター(壽美雄)さんは2018年に他界したが、銀行家として主にシアトルで勤務し、日本経済が急成長した1980年代後半には三菱銀行シアトル支店長を務め、ワシントン州日米協会会長などを歴任した。メリーさんは日本の文化・伝統芸能を伝える民間親善大使として活躍中だ。

話を聞けば聞くほどに、日米関係の変化を鏡のように映し出す平川家3代の記録。それもシアトルが主な舞台として登場することに驚かされる。これは、連続テレビ小説とは全く異なる、しかし正真正銘の「カムカムエヴリバディ」シアトル版のドラマなのだ。

メリーさんは今、かつてラジオでカムカム英語を聴いていた人を探している。「私の周りにも、カムカム英語で学んでいたのでアメリカに来た時ずいぶん助かったという方がおられます。当時を知る方、ぜひご連絡ください」と呼びかけている。クラス受講についての問い合わせを含め、メリーさんへの連絡は、kabukiacademy@msn.comまたは☎253-564-6081まで。

INTERVIEW:シアトル日系人会前共同会長 田原 優さん

戦後のシアトルにやって来たひとりの青年は、日系コミュニティーに根を下ろし、1世、2世の活動を引き継ぎます。後に、先人たちの歴史と文化をぜひ日系3世、4世にも伝えたいと、英文でまとめ始めました。そうして日本語と英語の橋渡し役を担うことに情熱を傾けてきた田原 優さんは、鮭釣りでも知られる人物。50年以上を共に歩んだ日系の釣り同好会「天狗クラブ」の歴史を大切にしています。

田原 優(たはらまさる)■  1936年東京生まれ。高校卒業後の1955年にシアトルへ。ワシントン大学で化学を専攻し、同大学の微生物学研究室に30年間勤務。シアトル仏教会(別院)理事長、シアトル日本語学校維持会会長、シアトル日系人会会長などを歴任。妻のアンナさんとの間に娘2人がおり、今は3人の孫との交流を楽しむ。趣味の釣りでは、地元日系コミュニティー創設の釣り同好会、天狗クラブで50年近く活動し、その歴史を『天狗過去帳』につづる。

取材・文:楠瀬明子 
写真:楠瀬明子、本人提供

砂漠の中の収容所暮らしではとてもできないことでしたから、
戦争が終わり、多くの人が鮭釣りを待ちかねていたのでしょうね

天狗クラブを語る

シアトルの日系コミュニティーが戦前に始めた釣り同好会である天狗クラブは、戦後間もない1946年に復活した。シアトルの日系コミュニティーにおいて、釣りは1920年代から人気がある。

︎インタビューで、天狗クラブの話に熱の入る田原さん

日系商店がトロフィーを提供し、多くの人が腕を競った。田原さんによれば、1936年に発行された『北米年鑑』には、釣り道具を扱う日系商店が8軒も記載されているとのことで、そのにぎわいぶりが窺える。1937年には有志が天狗クラブを発足させ、エリオット湾内のアルカイポイントとマグノリア、シアトル・ウォーターフロントを結ぶ水域でのブラックマウスサーモン・ダービー(黒口鮭競釣)が始まった。

天狗クラブの催すサーモン・ダービーでは、冬の数カ月間、毎週日曜にエリオット湾に出て釣果を競う。エリオット湾内の鮭釣りと言えば、ドワミッシュ川遡上直前の成熟鮭を狙う夏と秋が本番。しかし、その繁忙期には日系人グループにボートを貸し出す業者がおらず、まだ産卵時期にない鮭(通称、黒口鮭)を釣る冬の大会として始まったのではと、田原さんは推測する。天狗クラブは、年会費や当日の参加費を払えば、黒口鮭釣りを楽しむ人なら人種や国籍問わず誰でも受け入れてきた。定められた釣り場でイワシを餌に、シンカー(重り)を使って釣り上げるムーチングという釣り方に従うのがルールだ。「ムーチングは、日系人の編み出した上手な釣り方を見た人たちによって名付けられたのです。ムーチーとは人の物をねだるとの意味で、日系の釣り人が次々に鮭を釣り上げるのを見て、その餌をねだる者がおり、疑似餌ではなく、ねだって手にした餌を使っての手法で首尾良く釣りができたところから、この名が付いたと言われます」。戦後第1回となるサーモン・ダービーには172人の参加があったという。「日系人は強制収容から戻ったばかりでまだ釣りどころではない時期かとも思えますが、砂漠の中の収容所暮らしではとてもできないことでしたから、戦争が終わり、多くの人が鮭釣りを待ちかねていたのでしょうね」

1946年の再発足から70年を超え、今やワシントン州最長の歴史を誇る釣り同好会とされる。「再開してからこれまでの詳細な記録が残っています。ノートや新聞の切り抜き、写真などを積み重ねると高さ1メートル近くにもなる膨大な量です。そこで一念発起し、4年ほどかけてこれを1冊にまとめました」と田原さん。

『天狗過去帳』にある天狗の印判は、田原さんの母の手彫り

こうして2016年、シアトル日系人会発行として、約250ページの『天狗過去帳 Tengu-Tales Told by Fishermen & Women of the Tengu Club of Seattle』(英文)は世に出た。70年余りの間で、人は変わり、スポーツフィッシングをめぐる環境も変わり……と多くが移り変わった。50年を天狗クラブのメンバーとして過ごした田原さんだけに、その伝統と歴史への愛着は強い。歴史を語る言葉の端々にも、『天狗過去帳』の文章にも、その愛情がにじみ出る。

もちろん、エリオット湾の冷たい海風にさらされながら釣り糸を垂らす釣り人としても毎回、努力を続けた。その甲斐あって1995年と2006年の2度、チャンピオンとなっている。シーズン最後の天狗クラブ夕食会で受け取るチャンピオン楯は、さぞかしうれしいものであったに違いない。

氷川丸でシアトルへ

田原さんは1936年、東京・池袋の生まれ。だが、アメリカと無縁ではなかった。「父が警視庁に勤めていたため、私は東京生まれの東京育ちです。しかしハワイには叔母がおり、従兄が占領軍の一員として東京にやって来たことがあります。また、シアトルとロサンゼルスには父の長兄と次兄がいました」。都立北園高校を卒業した田原さんに、アメリカの大学で学ぶことを勧めたのはシアトルの伯父だった。

姉2人妹2人の中のひとり息子として育った。両親、祖母、姉妹と一緒に。後列左端が田原さん

「1955年9月に、氷川丸に乗って横浜港を発ちました」。2週間の船旅の後に着いたシアトルで、エジソン・テクニカル・スクール(現シアトル・セントラル・カレッジ)に通い、英語などを学び始めた田原さん。そこで出会ったのは、田原さんより2カ月早く氷川丸でシアトルに到着した女性、アンナさんだ。ワシントン州で生まれたアンナさんは戦前、最後の引き揚げ便となった氷川丸で両親と共に日本に渡ったが、アメリカに残った姉を頼り、戦後にシアトルへ帰って来ていた。「氷川丸での到着が2カ月先輩というだけでなく、私より年上の姉さん女房で、これまでの苦労を共に乗り越えてくれました。本当にママ(アンナさん)のおかげだと私は常々言っているのです」

太平洋に面する漁港の町、ウエストポートで26.35パウンドの鮭を釣り上げた田原さん。2018年のウエストポート・フィッシング・ダービーで1位となり、賞金1万ドルを獲得した。これまでの最高記録はアラスカで釣った40パウンド。鮭釣りの醍醐味は、大きな鮭との力比べ、知恵比べにあると語る

真面目な人柄がそうさせるのだろう。人との出会いには恵まれた。田原さんが学業の傍ら、1957年から皿洗いとして働いたのは、パイオニアスクエアにあったサムズ・カフェ。その店主であったサム・キタノさんは、田原さんを釣りに誘い、一から鮭釣りの手ほどきをした。天狗クラブのダービーだけでなく、州外へも連れ立って釣りに出かけるほど。田原さんにとっては、釣りにとどまることのない「一生を通じてのメンター」という大事な出会いになった。

エジソンで2年間学んだ後、ワシントン大学に入学して化学を専攻した。アンナさんと結婚したのは3年生の時だ。人伝えで微生物学のヘレン・ホワイトリー教授から声がかかり、教授の研究室で働くことになった。「お父さんはロシア革命後に亡命した白系ロシア人で日本滞在経験があり、教授は私にも大変良くしてくれました」。そのまま30年間、ホワイトリー教授の研究室でリサーチ・テクノロジストとして勤務を続けた。ワシントン大学退職後は、当時の宇和島屋会長であるトミオ・モリグチ(本誌発行人)の依頼を受け、シアトル・センターでの「US-ジャパンフェア」開催を手伝い、それをきっかけに会長秘書役を10年以上務めた。宇和島屋シアトル店の現在地への移転やオレゴン州でのビーバートン店オープンなどにも関わった。この間に得たものは多い。「日米のいろんな方に会うことができました。また、コミュニティーのために、種々の団体役員として尽力するトミオの姿も見ました」

コミュニティーの息長い世話役として

「微生物の研究に長く携わっていたためでしょう。私はいつもすぐメモを取るのです」と、自己分析する田原さん。1963年入会の天狗クラブでも、すぐにボランティア書記を引き継いで、第18回(1962-63年)以降の活動記録をずっと取り続けてきた。また、天狗クラブの記録を残すだけでなく、同クラブ代表として対外的に声を上げる役も担ってきた。中でも誇りとするのが1981年、ウエストシアトルにボートハウスを残す運動に関わり、特別市議会での熱い思いのこもった証言で、シアトル市のボートハウス閉鎖計画を撤回させたことだ。ウエストシアトルのウォーター・タクシー発着場そばのシークレスト・ボートハウスは、今も天狗クラブの活動拠点であり、シアトル市民の楽しみの場でもある。ボートハウス敷地の一角には、天狗クラブの歴史を記した碑も置かれている。

60年近く通うシアトル仏教会(別院)の前で

田原さんの活躍の場は、天狗クラブにとどまらない。アンナさんとの挙式の場ともなったシアトル仏教会(別院)は、1901年に創立され、夏の盆踊りを開催するなど日本からの多くの人々に寄り添い、心のよりどころとなってきた。長女のジャネットさんと次女のシンディさんの加入した仏教会付属グループ「キャンプファイア」に保護者として深く関わったのを手始めに、田原さんは同仏教会でさまざまな役員を歴任し、2008年には理事長も務めた。ジャネットさんがシアトル日本語学校に通うようになると、田原さんは学校の運営に会計や理事として参加。2002年には、日本語学校維持会会長として同校の創立100周年記念行事を盛大に祝った。また、同校と密接な関係を持つシアトル日系人会にも深く関わって理事を長年務め、2015年からはツチノ・フォレスターさんとふたりで共同会長として活動した。インターナショナル・ディストリクト東部に立地する日本語学校の歴史は古く、1912年建造の校舎は市の歴史的建造物に指定されている。コミュニティー奉仕を目的として1949年に発足したシアトル日系人会と、日本と日系人の文化を伝える集いの場として2003年に創設されたワシントン州日本文化会館(JCCCW)の事務所は、その校舎内にある。大阪万博財団の助成金を得て田原さんら有志が設立した西北日系博物館もその一画に設けられている。

手製のベイクドサーモン。シアトル日系人会「日本のお正月の味」行事にて

シアトル日系人会がこれまで催してきた行事のひとつが、「お正月」だ。「実は私の趣味は、釣りのほかに料理なのです。家での食事作りも担当しています」と言う田原さんは1989年、日本の正月行事や料理の詳細を英語で解説した小冊子を執筆。シアトル日系人会の正月行事に役立ててきた。同会の「日本のお正月の味」行事に毎年持参する料理はもちろん、大きな鮭を使ったベイクドサーモンだ。

総領事表彰に臨んだ田原さん一家。左から、大村昌弘総領事(当時)、田原さん、妻のアンナさん、長女のジャネットさん、次女のシンディさん

2017年には、これら幅広い活動に対し、日本とアメリカとの相互理解および友好親善への寄与を認められて、総領事表彰を受けている。

日本語を話さない日系の若い世代に、
日本の伝統行事と言葉のひとつでも良いから伝えられたら

これからも……

今年でシアトル日系人会共同会長を退任し、これまでの活動にひと区切りが付いた。「これからは何を?」の問いかけに、田原さんはこう答える。「日本語を話さない日系の若い世代に、日本の伝統行事と言葉のひとつでも良いから伝えられたらと思い、そのために何かしたいと考えています」

通常は、平日の毎朝4時過ぎに起床し、夫婦で5時からジムに出かけ、アンナさんがプールで1時間泳ぐ間に自分はステップ運動に専念するという田原さん。これまでのワークアウトの成果だろう、とても84歳とは思えない元気さだ。また今後の活動に期待したい。

最終回 今日も金メダル

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

田舎の祖父母は、後継ぎである叔父夫婦と一緒に住み、晩年の介護も全て頼っていました。昔はそれが普通でしたが、私たちの世代は進学のために都会に出て、そのまま就職・結婚。親との同居は少なくなったため、手助けが要るようになると、子どもが郷里に戻る決断をしない限り、親の選択肢は支援施設に入るか、子どもの家に移り住むか、通いで支援してもらうかです。

近頃は、日本でも高齢者向け施設が増えました。友人のお母さんも施設での生活を楽しんでいるそうです。それでも、「どうしても自宅で」という人は少なくありません。先日、『シアトル・タイムズ』を始め多くの新聞で人気の身の上相談欄で、コラムニストのエイミー・デッキンソンが珍しく自身のことを書いていました。「数年前、私は勤務先(シカゴ・トリビューン)の許可を得て、シカゴから母の住むニューヨークへ移り住んだ。2人の姉妹と協力して介護をし、母は自宅で最期を迎えることができた……」。ああ、同じ状況だ。大変な思いもしただろうと、エイミーが身近に思えたものです。

福岡でひとり暮らしをする母の世話は、日帰りや泊まり込みで妹がしてくれています。彼女はまた、神戸でひとり暮らし中の姑のために、毎月1週間ほど夫婦で神戸へも出かけます。妹が福岡を留守にする間、私が帰省できない場合は、横浜在住の弟が福岡に帰り2泊ほど滞在します。夫の郷里、高知では、義母が脳梗塞で倒れて以来、義妹が両親の生活を毎日手伝っています。私たち夫婦が高知に到着すると、待ちかねた彼女は翌日から自分の子や孫に会いに東京へ出ていきます。

遠距離介護の私たち夫婦は今日もまた、日本で両親の暮らしの手助けをしています。シアトルでの再充電を楽しみにしながら。高齢の親に合わせたスケジュールで慌ただしく1日が過ぎる日本と比べ、シアトルでの夫婦ふたりの暮らしは、好きな時に起き好きな物を食べる自由な暮らしです。日本での忙しさがあるからこそ、シアトルでの自由の素晴らしさがしみじみと実感されます。

「生きている今日も幸せ金メダル」、「人生マラソン今日金メダル」。リハビリ中の義母が記した言葉です。死の縁から戻ってきた義母が、日々かみしめる思いに違いありません。私たち夫婦もまた、悔いのない1日1日を過ごしていきたいと思います。私たちの経験が少しでも皆さまの役に立つことがあれば幸いです。

第6回 日本国内を安く飛ぶ工夫

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

私たち夫婦の場合、夫の実家が四国の高知、私の実家が九州の福岡と、成田からまた遠く、さらに国内移動が必要です。電車では時間がかかり過ぎるため、東京・福岡・高知間の移動は飛行機を利用します。この費用を抑えようと、いろんなことを試みました。

日程がわかっている場合は、次の方法があります。まず、海外在住者向けチケットの利用。1区間当たり1万円相当で国内線航空券を購入できます。区間によっては、1万円を切る場合も。この特別運賃は、日本航空ではJapan Explorer Pass、全日空ではExperience Japan Fareと呼ばれ、ウェブサイトから購入可能です。1区間から購入できるので便利。ただし、予定が変わってキャンセルしても返金はありません。

もうひとつは、国内航空会社の発売する「旅割」(全日空)、「先得」(日本航空)など先行販売の格安航空券を購入すること。国内線航空券は2カ月前からの発売でしたが、近頃はそれ以前でも購入できるようです。予約・購入が早ければ早いほど割安で、キャンセルの場合も、払い戻し手数料と規定の取り消し料を払えば返金があります。今は低価格航空会社(LCC)が増え、東京(成田)―福岡線も就航。弟は、LCCを上手に利用して帰省しています。

日程が不確かな場合は、次の方法があります。まず、株主優待券の利用。航空会社は株主のために、航空料金が半額となる株主優待券を発行していて、金券ショップでも買えます。たとえば片道4万円のルートが5,000円の優待券使用で2万円で購入できれば、1万5,000円の節約になります。金券ショップに出向く手間はかかりますが、甥を始め若い人が利用しています。

もし65歳以上なら、高齢者割引も。日本航空では「当日シルバー割引」、全日空では「スマートシニア空割」があり、どちらも普通運賃の半分以下の料金が設定され、年齢を証明する公的書類を見せてカウンターで手続きできます。欠点は、空港に行って空席のある場合にのみ利用できること(全日空は当日朝に予約可能)。ですが、盆と正月、大型連休を外せば、大体いつも席は取れます。かつて、義母が倒れたとの連絡で急きょ羽田から高知に飛んだ時、私は普通運賃で3万6,000円の支払いでしたが、隣に座る夫は高齢者割引で1万2,000円ほど。以来、高齢者割引資格の生じる65歳の誕生日は、私にとって本当に待ち遠しい日となりました。

第5回 日本の施設事情

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

 

父が亡くなり、90歳で福岡にひとり暮らしとなった母。彼女の願いは、弟夫婦が退職後に福岡に戻って同居するというものでした。けれども弟は逆に、横浜のマンションでの同居を提案。自宅での暮らしに執着する母は、車で1時間のところに住む妹の助けを借りながら、現在もひとり暮らしを続けています。

私はシアトルで、年長の友人たちがリタイアメント・ホームに移り住むのを見てきました。母も施設へ移ってくれれば、食事の確保や安全確認の点から安心できます。妹の負担は軽減されますし、友人との交流の場が増えるのではとの期待もあります。しかし、施設に入った知人を「かわいそうに」と言う母にとって「施設」のイメージは決して良いものではなさそうです。確かにひと昔前の日本では、高齢者向け施設はそう多くはありませんでした。が、高齢化社会となった現在では、選択の余地は増えています。

かつて日本からの訪問者に、24時間看護サービスのシアトル敬老を案内すると、日本の「特養」に近いと言われました。特養とは、特別養護老人ホームの略で、社会福祉法人や地域自治体が運営する公的な施設です。費用は安くて済みますが、高齢者人口の増加につれて入居資格が厳しくなり、現在は要介護3~5が要件。地域によっては何年も待つ場合があり、待機者は全国で40万人と言われています。

これに対し、民間経営の有料老人ホームにはそのような制約はなく、入居一時金や介護なども、施設によりさまざまです。たとえば私の友人が探し出した介護付き老人ホームは、入居一時金が3,000万円を超えるものでした。これに対し、母の友人が入居している施設は、入居一時金が数十万円、月額利用料は14万円というもの。本当に千差万別です。

近頃は特に、「サ高住(さこうじゅう)」と略されるサービス付き高齢者向け住宅が増えています。バリアフリーなど高齢者を考慮した建物に、日中は介護スタッフまたは相談員が常駐しています。有料老人ホームのほとんどが入居権利を買い取る形なのとは異なり、サ高住の入居はアパートの1室を
借りるような賃貸借契約。アメリカのアシステッド・リビングやリタイアメント・ホームと同じような契約形態で、老人ホームより気軽に入居できます。

親の介護に日米を行き来する私たち夫婦は、子どもに同じような苦労はさせたくないと思っています。自分たちの将来に備え、日本でもアメリカでも施設を見ておこうと計画しています。

第4回 食事の支度を卒業

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

 

「卒業」という表現が多く使われるようになりました。学業を修了することだけでなく、アイドル・グループを去ることも、出演番組から降ろされることも、全て卒業の言葉でひとくくり。その言い方をすれば、私のふたりの母は食事作りを卒業した女性たちです。高知の義母の場合、その卒業は突然起きました。4年前、牛乳を温めようと台所に立ち、倒れたそうです。15分ほどして気付いた義父が救急車を呼び、医療センターへ。脳梗塞でした。発見が早かったので血栓を溶かす薬を使うことができ、命を取り留めました。私たち夫婦はたまたま東京にいたので、翌朝早く羽田から高知に向かいました。左脳に梗塞の起きた母は、体の右半分にマヒが出ました。また、言語をつかさどる機能の大部分は左脳にあるとのことで、その言語機能が損なわれて失語症に。口から音が出ないだけでなく、考えと言葉の結び付きがプツンと断ち切られてしまうのです。

緊急治療病院での2週間とリハビリ病院での3カ月を経て、母は退院しました。その間、療法士の指導で口から出る音が少しずつ増え、字を見て物を指し示す練習や、絵を見て物の名前を言う練習などを重ねました。退院後は毎日、音読、足し算、引き算に取り組むなど一連の課題を、「お勉強」と言って義妹と共に繰り返しました。努力の甲斐あり、ひと言も物が言えなかった母も、今では短い電話をかけられるまでになりました。

私にできることは、病気で味覚が変わり、喉も半分マヒしている義母に、喜んで食べてもらえる食事を用意することです。福岡の私の実母は、食事作りを徐々に卒業しました。6年前に父が亡くなり、ひとりになった母は、父の一周忌法要を前にうつになったのです。食欲もなく体がしびれ、ベッドから起き上がれなくなった母。妹と私は、父の法事以前に母の葬儀を出すことになるのではと心配したほどです。かかりつけの医師に診療内科の受診を勧められ、私と妹だけでなく弟夫婦も加わって、交代
で実家に滞在。つきっきりの日々と投薬で、なんとか乗り切ることができました。「女やもめに花が咲くと言っても、90歳になって初めてひとりになると毎日が寂しくてたまらない」と言う母。配食サービスも試したものの、気に入らずに終了。幸い、東京にいた妹夫婦が退職後は車で1時間ほどのと
ころに越して来てくれており、今も妹が毎週何日かずつ泊まり込んでいます。

帰省した私にできることは、この母の昔話に耳を傾け、食事を準備し、「おいしいね」と一緒に食べることなのです。

第3回 「いま何時?」の父2人

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

 

私の父は6年前に、94歳で亡くなりました。最後に足腰こそ弱りましたが、体の丈夫な人でした。かつては、上半身裸になって、よく庭で木刀を振っていたものです。

その父には残念ながら、90歳少し前くらいから認知症の症状が見えてきました。「今、何時かな?」と数分おきに尋ねる。散歩に出かけて帰り道がわからなくなる。時々、厳しい表情で周囲の人を怒鳴りつけるようにな
る……。読書家で、毎日日記をつける人でしたが、そういう習慣も消えていきました。

母にとっていちばんショックだったのは、デイサービスの送迎バスで自宅に帰り着いても、「家に帰る」「お母さんのところに帰る」と言って、父がバスを降りようとしなかったことです。両親はそれまで、互いを「お母さん」「お父さん」と呼んでいました。母は父に「私はここにいますよ。ここが家ですよ」と言うのですが、どうしても降りず、「では、お帰りになる前に、ここでちょっとお茶でも」となだめすかして下車させたと言います。

その時の父にとって、家というのは「自分の生まれ育った家」であり、お母さんというのは「父を産んだ人」だったのです。記憶はずんと遡ってしまうもののようです。

義父は今、同じ94歳です。この1、2年で義父にも「今、何時かな?」「今日は何日?」が始まりました。けれども、私の父と大きく違うことがあります。「僕には何もすることがない」と漏らしていた父と違い、義父
は庭仕事や家回りの修理などにまだ精を出しているのです。

高齢化と共に認知症が増えるのは仕方がないと覚悟していますが、周囲を見ると食事の支度などいつまでも家事を受け持つことの多い女性のほうが、認知症の発現が遅いことを感じます(毎日の献立を考えるだけでも頭を使います)。

母が専業主婦として全てを切り盛りしていた実家には、サラリーマンを退職した父のする仕事は何もありませんでした。それに引き換え自営業の義父は、義母が小学校教師として働いていたので、家庭内に自分の仕事、役割分担がありました。いろんな要素があるとは思いますが、家の中に仕事
分担を持つということは、退職後の生活にとって非常に大切なことだと思われます。

義父は先頃「要介護1」と認定されましたが、家回りの片付けなどにまだまだ頼もしい存在です。私たち夫婦は、両親の世話をすることによって、これからの自分たちのあり方を学んでもいます。夫が率先して行う家事分担が近頃増えているのはうれしい限りです。

第2回 ケアマネさんとの面談

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

 

高齢となった親の暮らしに手助けが要るようになると、地域の自治体を通じて最初にやって来るのはケアマネジャー、略してケアマネさんです。

私が初めてケアマネさんに会ったのは、10年以上前のこと。心筋梗塞を起こして手術した母が退院。一方、父にはアルツハイマーの症状が出始めていました。当時、弟妹は東京に住んでいましたから、地元福岡での今後の両親の暮らしには何らかの手助けがどうしても必要だったのです。

ケアマネさんは、面談により介護の必要度を探ります。これに医師の診断書も加わり、手助けの必要性が認定されるのです。認定には現在、「自立」と「要支援」「要介護」があり、要支援は2段階、要介護は5段階に分かれています。手助けが必要とされる程度の軽い「要支援1」から最も重い「要介護5」まで7段階に渡る認定がされると、それに応じて介護保険による支援の範囲が決まります。

介護保険による支援は、大きく分けると2種類あります。1つは、買い物や掃除、入浴介助などをするヘルパーさんの派遣や、デイサービスへの通所手配など。もう1つは、玄関の上り口や浴場、階段などに取り付ける手すり工事などへの助成と、ベッド、手押し車などレンタル料の助成です。いずれも、認められれば実費の1割程度の自己負担で済みます。

手術後の母は要支援1、父は要介護1と認定されました。ケアマネさんとの面談では皆、試験感覚でつい張り切ってしまうようです。日頃はいろいろと混乱を見せていた父の口から、スラスラと月日も住所も出てきたのには驚かされました。正直、家族としては、面談で両親の普段のありのままの姿を見て評価してもらいたいところです。

認定度により頻度は違いますが、翌期の介護計画を立てるため、ケアマネさんは定期的に自宅訪問をします。これには父母以外の家族が同席するようリクエストがあり、時間をやりくりして、妹か私が立ち会いしました。が、これが母には屈辱だったようです。当時80代半ばだった母は、現役主婦を自任していて、まだ元気でした。時には「なぜ、話をするのに私ではいけないの。ボケてはないのに」と憤慨。ケアマネさんに抗議するという母に、「娘が都合が悪くなりましたのでと言って、ひとりで会えば?」と、電話口でなだめたこともあります。こうして、いろいろありましたが、週1回のヘルパーさんによる手伝いと週2回の父のデイサービス通所が始まりました。

第1回 私の後悔ー市民権について

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

福岡の実家に住む私の母は、10年前の心筋梗塞で現在の心臓機能は70%ほどという95歳。夫には、数年前に脳梗塞で倒れ回復中の91歳の母と、物忘れのひどくなってきた94歳の父がおり、ふたりとも高知の実家に住んでいます。幸い、私たちには1人ずつ妹がいて手伝ってくれていますが、私たちが帰郷して短期間でも交代すれば、妹たちは休暇を取ることができるのです。というわけで、私たちは介護人のアシスタント役です。

「行きはよいよい、帰りはこわい~」とは、わらべ歌「通りゃんせ」の一節です。日本に何カ月も滞在してアメリカに戻る時の入国手続きは、毎回少々緊張します。係官に「なんでそんなに長くいたの?」と尋ねられて「親の介護で」と答えると、「なんで、親のために帰らなきゃならないんだ?」と言われ、親の介護を子が担うのは当然という考えはない文化もあることに初めて気付かされました。高齢になればそれなりの施設に入ることの多いアメリカでは、そちらが多勢なのでしょう。永住権のままの私は毎回、無事にシアトルの空港での入国手続きが済むとほっとします。

実は、市民権を取得するかどうかについては、長い間迷っていました。もともと夫の留学で始まったアメリカ生活であり、「僕は長男ですから、いずれ郷里の高知に帰ります」と言い続けた夫です。けれど、東京生まれの長男、ロサンゼルス生まれの長女、シアトル生まれの次男という3人の子どもたちが成長し、アメリカに根付くと、私には違う思いが生まれました。日本から戻る飛行機から見下ろして、水と緑のシアトルが目に映ると心からほっとするようになりました。

ところが、です。今の私には、市民権の申請は難しいことがわかったのです。障害となるのが、国外滞在日数です。市民権取得の要件のひとつに、「過去5年間の半分以上アメリカ国内に住んでいたこと」というのがあります。この数年、先年亡くなった父の看護時も含めて日本での滞在日数が多かった私には、かなり厳しい要件なのです。

9・11以降、永住権のままでの長期出国は徐々に難しくなっており、私たちの帰省も1回につき3カ月をめどにしています。それでも、高齢の親が3人もいると長くなることもありそうです。

これほど多く日米を行き来するようになる前に市民権を取得し、心置きなく看護できるようにしておけば良かったというのが、今の私の最も反省するところです。