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Author: 天海 幹子

東京都出身。2000年から2005年まで姉妹紙『北米報知』ゼネラル・マネジャー兼編集長。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。2020年11月に日本に帰国。同年、著書『ゼッケン67番のGちゃん』を刊行。

演歌 〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第22回 〜 演歌 〜

娘が沖縄から東京にやって来た。歌の仕事を頼まれたと言う。その収録だ。

「演歌なんだよ。そのコーラス」

「あなた、ジャズ歌手じゃなかったの?」

ジャズをやりたいというから苦労して、ニューヨークのジャズ専門学科を出させたのに。

「頼まれちゃったからしょうがないんだけど、パチンコ屋さんで流す歌らしい。面白いじゃん! 今、コロナで仕事ないし」

「ソロなの? あなたに歌えるかしら? 難しいんだよ、演歌は」

「ちゃんと演歌歌手のおじさんが歌うんだけど、バックが6人くらいで、ソレ、ソーレ、ってやるみたいな。でも難しいんだよ、歌詞が。意味わかんない」

アメリカ生まれだからしょうがない。

見せてもらうと、昭和中期生まれの私でもわからない言葉、読めない字がある。傾かぶけとか、「漢」は輩やからと読ませたいのかな? 

「ま、演歌なんて、究極の男心、女心を歌ったようなもんだから、その気を出して歌ったら? ニッポン男児は、これと思った女は、体を張っても守り抜く、みたいな」

「女心は?」

「好きなあんたのためなら、死んでもいい。誰かに取られそうなら、殺してやる! くらいの情熱的な恋心よ」

フーン、と練習している。

「この、睦月むつき、皐月さつき、神無月かんなづき、って、1月、5月、10月でしょ? それってなんなの?」そうか、語呂を合わせてるんだ。

「私だったら、睦月むつき、水無月みなづき、神無月かんなづきにするけどね。3、4、5文字で調子がいいじゃない? ま、一年中、ってことよ。一生あんたを守り抜く、みたいな」

花の名前も出てくる。女性のたとえとして、大和なでしこ的な、蓮華れんげ、牡丹ぼたん、撫子なでしこ、桜って。LGBTQ支援者には怒られそうだけど。これも日本の文化なんでしょうね。

「それが出たら、どこのパチンコ屋で流すか教えてね。友だち引き連れて、聴きに行くわ」

結構楽しみである。

日本の夏 〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

6月27日、関東地方はそれまで2週間ほど雨もほとんど降らずに梅雨が明けてしまった。暑い。東京都心は1週間以上連続の猛暑日。朝8時前から華氏98度(摂氏37度)。節電の要請もあり、クーラーは控えている。45年ぶりの「日本の真夏、懐かしい!」というノリで、どうせ暑いのなら、汗だくで庭仕事をしてしまおう! 去年全滅させたと思っていた竹が出てきているので、ほじくり返して、朝から冷水シャワーの気持ちのいいこと! 扇風機の前に座ると、子どもの頃、姉妹で風の取りっこしたことを思い出す。扇風機に向かって、「ああーっ」と大声で叫びっこ。姉妹3人で誰の声がいちばん響くかとか、たわいもない遊びが懐かしい。

昭和中期はクーラーなんて一般家庭には存在しなかった。冷蔵庫も木でできたドアが2つ、上の冷凍用と下の冷蔵用に分かれていて、リヤカーで大きな氷を積んだおじさんが、日本橋の家の前を通り届けてくれた。大きなのこぎりでジャリジャリ言わせながら、冷凍庫のサイズに切ってくれるのを傍で見ている子どもの私たち。たまに飛んでくる氷の飛沫。傍にいるだけでも涼しい。家は窓だらけで、冬は寒いけれど、夏は風が入ってくる。

「ああ、いい風だぁ!」

と、デカパンに上は裸、首には白い濡らしたタオルをかけて微笑む若き父。懐かしい昭和の夏。中学生になると、

「暑い!」

と文句を言い、

「夏が暑いのは当たり前だ!」

と反論を許されず、しょうがなく受け入れていた。小学校と違い中学からは夏の制服が白の長袖。暑いんだわ。

その頃引っ越した目黒の家も窓だらけ。45年ぶりの日本の夏に亡き父の思い出を重ねて、しのんでいる。

と、目黒区役所からのアナウンスが入る。「光化学スモッグが発生しました。窓を閉めて外出を避けてください!」

外は37度。冷房なしにはきついなぁ。いつまで? 解除のアナウンスが入るのかしら?

夕方になり、外には少し青空も見え、庭の木々がそよ風にサワサワ揺れている。5時前に区役所に電話してみた。

「普通は解除の連絡をするのですが、じきに閉館になってしまいますので、今日はしないと思います」

「クーラーのない高齢者はどうするんでしょうね?」

「あ、それなら窓を開けてください。熱中症のほうが心配ですから」

そろそろジーンジーンと、アブラゼミが一斉に鳴き出してくる頃である。

シアトルのわが家の住民、その2〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

日本に戻ったがシアトルの家はそのまま賃している。住民はウクライナ出身の両親がいて、某航空会社に勤める極めてプライベートな男性。

2月、用事でシアトルに帰った時に失敗をしてしまった。いきなりドローンを持って庭に侵入したのだ。「シアトル市のゴミ出しやリサイクルなどの規則を守り、期日に家賃を納めてくれれば、私は住民の生活には干渉しない」と宣言したばかりだったのに。いつもはテキストで知らせるのだが、スマホを忘れて直行してしまったから。

家を貸しているために、今回はシアトル滞在中、知人の家にご厄介になっていた。そのオジサンが屋根のふき替えが終わり、どんな風にできたかとドローンを飛ばしチェックしている。満足そうに見せてくれた。

「それ、うちもやってくれる? うちの屋根もいつ頃ふき替えをしないといけないか考えなくっちゃ」

と言うと、喜んで来てくれた。オジサンがホストしている高校生を学校に送りがてらついでに寄ろう、ということになって車を発進させた直後、スマホを忘れたのに気が付いたのだ。でも、遅刻寸前! すぐ終わるから「ま、いいか」ということになったわけだ。

サーっと裏庭でドローンを飛ばし、家の上空をくるりと反対側までチェックし、こちら側に戻ったところだった。緩やかに屋根に近付いてきたと思ったら、ピタっとランディング。猫と鉢合わせしたヒキガエルのように、動かない!

「あっ、電池が切れた」

と言われても……。替えの電池持って来たんじゃなかったの? 遅かりし。

置きっ放しにするわけにはいかず、まずははしご。幸い隣家のスーザンがポーチにいた。説明すると快く貸してくれたが、問題は極めてプライベートなうちの住民。彼らの外のデッキからでないと屋根に届かない。電話で前もって知らせておかなかったことを後悔しながら、フロントドアをノックした。彼女が出てきたので説明をする。仕事中だろうか、うちの住民は出てこない。

オジサンが慎重に屋根に上り、ドローンを回収。ゆっくりゆっくりはしごを下りて、隣家に返し、全て終了。

家に帰ると案の定、うちの住民から「敷地内に入るときは前もって連絡をするべき」とのメッセージがスマホに入っていた。誰の敷地だ! と思いながらもひたすら謝るが、ひと言。

「屋根はこの夏ふき替えの必要なし。これであなたたちも安心して夏を楽しめるわね。良かったわ!」

シアトルのわが家の住民たち、その1〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

「みきこ、あなたのうちのテナントがけんかしている。うるさくて眠れない!」

と隣家のスーザンから、東京に帰っている私にメッセージが来た。現地時間午後11時1分。彼女はDVだと思うと言う。早速テナント(男性)にテキストを送り、隣人の苦情を伝えた。

「友人が集まってポーカーをしていたのだけれど、ちょっとうるさ過ぎましたネ。気を付けます」とのこと。それで、

「シアトル市では朝7時から夜11時までが『昼間』と解釈されている」

とメッセージを送ると、

「では、11時まではどんなに騒いでもいいってことですね?」

「まあ、理屈ではそうなるのだけれど、実際、隣人と問題なく生活したいのなら、話は別だわね」

彼の両親はウクライナ出身だそうだ。先週はポーチにつないでおいた高価な自転車を盗まれ、ちょうどロシアのウクライナ侵攻と重なり気落ちしていた時だった。それで友人が励まそうと集まったようだ。でも、スーザンは信じない。

「女の子の声が聞こえたわ」と。

いずれにしても、少し恥ずかしかったのは否めないようだ。静まり返ったし。テナントには、「シアトル市のゴミ出しやリサイクルなどの規則を守り、ちゃんと期日に家賃を納めてくれれば、私はテナントの生活には干渉しない」と宣言したばかりだった。

「ウクライナの親戚は大丈夫? 少し心配しているけれど」

と伝えると、「気にかけてくれて、ありがとう」とうれしがっていた。一件落着。

下の住民(男性)は、離婚して3人の娘、4歳から13歳までがいる。子どもの親権があり、1週置きの週末だけ一緒に私の家の地下アパートで過ごす。普段は車で10分くらいの所にガールフレンドと住み、その週だけは金曜からアパートに来て準備をする。

「彼はいいお父さんだわ」とスーザンのお気に入り。「かわいそうに、この週末、子どももいたんだわ。あんなけんかを子どもも聞いてしまったのね」

彼も上の住民にうるさいと文句を言ったようだ。だが、彼の問題はトイレが詰まってしまったことだ。家にあったプランジャーより性能のいいのを探し、娘たちが来る前に自分で解決しようと躍起になっているところだった。以前使ったことのある水道業者を紹介したが、土日は料金が高い。どうにか直った! と少し経って連絡があった。

「やっぱりいい父親だわ」と言うスーザンは、近所の見張り番。隣のポーチで年がら年中タバコを吸いながら、道行く人をチェックし夜も耳をそばだて、たまに自分で「パトロール」をしてホームレスのRVを監視している「おせっかいオバサン」だ。なぜか私とは直接話したがらないが、私はとても感謝している。(続く)

日本の水際対策、官僚の視点?〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

シアトルで会計士とタックス・リターンの話をして帰国した。

去年3回訪れたうち、3月はコロナ禍の水際対策が緊急事態宣言の解除直後でも、陰性証明の書類不備のため3日間ホテルに監禁された。7月は五輪直前の水際対策で3日間の監禁。11月末は緩和の時期で、晴れて自宅に直行できた。

今回はジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)の2度目の接種をし、搭乗72時間以内の陰性証明もあり、入国に全く問題はないはずであった。ところがこの2回目の接種が厚生労働省の認可しているワクチンのリストに載っていないということで、3日間の自宅待機になり、毎日2回、アプリで居場所の確認をされることになった。狭いホテルの部屋でうずくまっていることに比べたら大したことではない。ただ、どうも政府、お役人たちの考えがわからないのだ。

厚生労働省・検疫所によると、J&Jは有効なワクチン2回接種証明書のリストに載っている。J&Jの場合は「1回の接種をもって2回分相当とみなす」とある。ところが次の項目、「ワクチンを3回接種していることが確認できる証明書リスト」にはJ&Jが載っていないため、自宅待機命令が出たのだ。私はこれを単純に「3回目」と呼ばないためだと解釈していた。現に「J&Jは認められない」とは書いていない。一貫していないのだ。

翌日、厚生労働省に抗議した。なぜJ&Jは認められていないのか、その理由を知る権利はあるのではないか、と。これは私ひとりの問題ではなく、アレルギー体質により1回目と同じJ&Jにしたほうが無難と主治医から言われた人など、ほかにもいるであろう人の不便さ解消のためでもある。

J&Jワクチンに関しては、以前にも問題があった。去年11月半ばごろまで日本では認められていなかったのが、岸田内閣に変わり、ビジネス関係の入国者については自宅待機が縮小された。私は例のごとく(私の抗議癖は有名なんです。自分では皆のため、と思っていますが)厚生労働省に電話で訴えた。なぜ、ビジネス関係者だけなのか。当地では問題ないのに日本人は日本でなぜ差別されないといけないのか。経済に貢献はしていなくても、グリーンカード保持者、留学生は文化交流の面で日米の橋渡しをしている。親の介護のために帰国しないといけない人は1日1日が大切なのだ。このような差別待遇をするという判断はどこから来たのか、と。私以外にも抗議をした人がいるのだろう。それ以後「ビジネス関係者」の言葉は削除された。

日本のお役人さんたち、自分たちの立場からだけでなく、少しは連携して物事を見られるように努力して欲しいと思いますね。

哀 愛 逢 祈りの碑〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

「また、あの日が来ましたね。皆さまのことを考えています!」

3月11日、東北の大震災以前からご縁のあった石巻、西光寺の「和尚さん」にテキストを送ると、今年(2022年3月10日)、お寺と遺族の会「蓮(はす)の会」、その他有志の協力で「哀愛逢(あいあいあい)祈りの碑」を石巻南浜津波復興祈念公園内に建てたことを知った。

亡くした人を愛し続け、祈りをささげる遺族の気持ちを「哀(かな)しみの中でも 愛するあの人をいつも心に 逢(あ)えることを道しるべに」と刻んだ震災祈念モニュメント。碑は台座を含め高さ2.2メートルの白御影石製。2人が寄り添う姿をかたどり、親子、恋人同士など、見る人それぞれに大切な人をイメージさせる(河北新報、2022年3月11日)。

毎年この日になるとイベントを催し、年々「これでもか!」というように大きくなっていくことに多少の違和感を覚えてはいたが、これが本当に遺族にはつらいものだと、和尚さんが話してくれた。趣旨から離れて上滑りしている傾向にあるのだ。

「遺族はあの日の記憶に今も震えて、自分のつらい記憶をイベントにして欲しくないとにぎやかな追悼儀式から目を背け、午後2時46分のサイレンも耳をふさいでじっと耐えている」

津波直後、友人の父母兄弟の通夜に、涙と鼻水でお経にならなかったと伝えてくれた西光寺住職の樋口伸生和尚は、「遺族を励まそうと『元気を出して』『時間が解決してくれる』などと声を掛ける」のはかえって負担になると言う。

「世間の騒々しさから離れて、仏の導きの声と自分の内側の嘆きを重ねること。悲しみと苦しみは癒えることがないことを認めて、全てを大切に生きていく決意を固めることが着地点です。3・11は心を痛めている人が静かに呼吸できる1日、いたわり合う日になるべき」と説く。「宗教に関心がない人は、宗教的なことに嫌悪感を覚えますが、義務教育と社会経験だけで人生のさまざまなつらいことに対応できない。宗教的な風情が必要と、ようやく世間の人が気付いたのかなとも思います」

「碑は震災以外でも、癒えない悲しみと、膨らむ大切な人への思いが支え切れなくなったとき、心のよりどころとして訪れて欲しい」との願いだ。

皆さんの霊が豊穣の大地から天に上り、そして戻って、大地と海をさらに肥やしていくように、いつも心の中でお祈りしています。合掌。

まごころサービス〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

「どうなさいましたか?」

父の遺した、築60年の家のトイレが詰まったので、郵便受けに入っていた宣伝マグネットのひとつに電話した時のことである。落ち着いた声の、中年かなと思われる受付女性の第一声に救われた感じがした。

実はその前日、別のマグネットの会社に電話して夕方来てくれた人と、この朝イチで高圧洗浄することにしてあったのをキャンセルしたのだ。

日本で配管掃除などいくらかかるかわからないが、さすがに13万円は高いと思い、いろいろ聞いても実際見てみないとわからないとのこと。でも、速攻やってくれそうだったので、13万でオッケーしたところだった。

昨日やってもらえるんだったら、あの「乗り」で発注してしまったかもしれない。でも、ひと晩トイレが使えずに不便したことを考えたら、「ほかに聞いてみてもいいんじゃないの?」という、持ち前のずうずうしさ、いや、プラクティカルなのが勝ってしまった。アメリカに44年もいるとこうなるもんだ、などと自分自身に言い訳をしながら。私の中にもうひとりの私がいて、たまに会話をすることがあるのだ。

2つ目のマグネットの会社の、朝10時に来てくれた職人は、プロっぽい。庭にある5個のマンホール(マス)のうち真ん中のをまず開けて、「ちょっとキッチンの水流してもらえる?」。最後のマスを開けて、「流れて来ていないね」と言うが、不思議と詰まったトイレの側のマスは開けてもいない。昨日の人は、そこだけを開けて「あっ、詰まってるね!」。当たり前だよね。

私が子どもの頃はくみ取りに来ていた浄化槽だが、「まず高圧洗浄をして、うまくいかなかったら、ぜーんぶの配管をやり直すことになるかもしれない」と昨日の人と同じことを言った。高圧洗浄は7、8万円でできるけれど配管全部となると200万くらいかかってしまう。「とにかく、やってみましょう」とスタートして20分ほど経過。

「スポッ!」と音がしたら、「今の聞こえた? 抜けたっ!」とうれしそうな顔。一緒に喜んでくれたのがありがたい。

会社に仕事終了の報告をし、確認のために携帯電話を渡された。

「あの、コメントがあるのですが」と聞かれもしないことを言ってしまうのが、アメリカ長期滞在経験者の私である。電話の開口一番の「どうなさいました?」と、修理する職人さんの判断の的確さと無駄のない仕事に感謝していると伝えた。

社名もまさに「まごころ水道サービス」。名実共に。ちょっと高かったけれど。

植民地、沖縄〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

暮れから正月にかけて沖縄に行ってきた。

沖縄は新型コロナ感染者の数が驚異的に増え、1月8日に1,759人と報告された。その日、東京では1,224人。去年暮れからPCR検査を無料にしたせいで、日本中、陽性と報告された人数が当然のごとく多くなっている。だから前週とは比べ物にならない。アメリカのように無料で検査ができるようにと政府や東京都に1年前から訴えてきた私には、後手後手にしか思えない。それまでの数がうそっぱちで、この数が実際に近い数なのだから、今さら驚き、恐怖に陥っても仕方がない。幸いオミクロン株で比較的重症には至らないようで、死者数も圧倒的に少ない(政府の発表も信用していないが)。そのうち風邪のようにどんどん広がって、10年後には大した話題にならなくなるのかもしれない。これが新型コロナウイルスの最期のあがきになってくれれば良いと思っている。

なぜいきなり沖縄で感染者が急激に増えたのか? 沖縄人は家族などが集まって飲み食いするのが好きなんだよ! と言う人もいる。でも、暖かいから野外でしょ? いつもそうなのになぜ急に?

答えは米軍基地からだと私は思っている。防衛白書によると、2021年3月31日時点で沖縄の基地は日本全国77カ所のうち、31カ所。常時利用面積比で言うと70.3%を占めている。そこに来る米兵たちは12月26日まで米出国時にPCR検査もせず(後々わかった)、ノーマスクで基地内の売店や食堂を出入りしていた。基地内で働く日本人の初のオミクロン感染者は娘の住む、うるま市民。付近にはキャンプ・ハンセンがあり、その付近で通訳をする娘婿いわく、休日にすることもない独身の若者兵士はノーマスクでタトゥー・パーラーに現れる。クラブももちろんオープンで「マスク会食」などは夢の中の話でしかない。

なんか規制はできないの? と思っても、日米地位協定でご法度。米軍基地とのつながりを強調しているニュースは、ネットでいつの間にか削除されている。岸田内閣も一時、米軍に「お願い」を出したがそこ止まり。1月9日、ようやく基地側が外出禁止令に合意した。それでも基地内で働く人への感染は防げない。だって、みんな基地内ではノーマスクだもの。

沖縄はGo To トラベルで一時感染者が増え、最大限の努力で感染者ゼロを記録した直後のこと。米軍による沖縄の被害、サンゴ礁の問題、米軍基地での埋め立て用に日本唯一の地上戦の場となった「ひめゆりの塔」付近、まだ遺骨も発見されていない中での掘り起こしと土砂採取を行う計画、それに反対している市民の声など、本土には伝わってこない話が多い。アメリカも日本政府も、沖縄はアメリカの植民地くらいにしか思っていないと感じるのは、私だけだろうか?

父性愛〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

父性愛

ピンポーン! 幼なじみのヒデちゃんが来た。「20年前にお世話になったお礼を言いたい」と伝えたら、訪ねて来てくれたのだ。

私が中学生の頃、近所に住んでいたヒデちゃんは高校生だった。個人的に話したことはあまり覚えていないが、父とはうちの前を通りがてら、挨拶をしていたようだ。父は家の前を通る子どもならみんな知っていた。

約20年前、一家で一時帰国をして都内に4年ほど住んでいた時、ヒデちゃんを偶然見かけた。

「ひょっとして、ヒデちゃん?」

高校を卒業してから30年も会っていなかったのによくわかったものだが、都議会議員をしている、とのことで頼みごとを思い付いた。アメリカ生まれの息子を都立高の帰国子女枠で受験させたいのだが、断られたのだ。「帰国子女枠というのは、海外に転勤等で移住した男性会社員の子女で、これまでに1件だけ、フランスに移住した画家の息子というのが例外としてある」とのこと。

早速、副都心のヒデちゃんのオフィスで教育委員会の方3名と直接話す機会を設けてもらった。

「父親だろうが母親だろうが、どんな目的で海外に移住したかは、子どもにとっては何の責任もなく、ただ『転勤』ではないとの理由で、行きたい高校の門が閉ざされてしまって良いものでしょうか?」

「普通に5教科の受験をすればいいでしょう。または私立を受けるとか」

「日本語はシアトルで毎週土曜日、補習学校に通っていただけなので、5教科は難しいし、そのための帰国子女枠なのではないのですか?」

「お母さまのおっしゃることはよくわかります。ただ、これは法律なので、われわれはそれを守るしかないのです。ではこれで失礼します」

「ちょっと待ってください! ではその法律を変えるにはどうしたら良いのですか?」

「それは、こちらの先生にうかがってください」

とヒデちゃんを指さして、あ然としている私を残しさっさと退場してしまった。

その後、その年のみ都内の4校だけは例外として認めるとのことで、息子は帰国子女枠で国際高校を受験し、無事入学できた。ヒデちゃんは都議会を通し、国会でも満場一致の決定で、高度成長期の海外転勤を奨励するために設けられた当時の法律を、現状に沿って改定すべく動いてくれた。夏には「正式に法律が変わりました」との連絡が入った。1998年のことである。

2000年にはアメリカに戻り、早20余年。そして日本に帰国。あの4年間のことをいろいろ考えていたら、ふと、ヒデちゃんにきちんとお礼を言っていなかったのではないか?と思い、連絡を取ったわけだ。当時、同性愛者などの人権問題もサポートしていたが、難病の息子を抱えて18年。今は議員を辞任している。

「お子さんの世話、大変ね」と言うと、

「でも、いちばん辛いのは本人だから」と、割と笑顔で言うヒデちゃんに、親であることの年輪と、ちょっぴり苦悩を乗り越えた優しさが見えた。

『愛の子』を読んで〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

『愛の子』を読んで

ルービン良久子さんの短編小説集『愛の子』を読んだ。

良久子さんは、小説『日々の光』の著者、村上春樹作品の翻訳で知られているジェイ・ルービン氏の奥さまでもいらっしゃる。心に響くショートストーリーが10編、ジェイ氏の英訳と共に昨年10月に出版された。

初頭の短編「愛の子」は、ハーフの子どもを持つ親はアメリカで一度くらい経験している、子どもたちの無邪気(?)な人種差別的発言が元になっている。私の息子も35年ほど前、ワシントン州都オリンピア市の幼稚園で「ケンジ、キムチ、チャイニーズ・プープー」とはやし立てられ、アジア人の多いシアトルに引っ越して来た経緯がある。「愛の子」は、その対処の仕方に素晴らしいと感嘆したのである。

その「愛の子」を読み、新婚旅行で初めて訪れた有楽町でのひと悶着を思い出した。

1981年、初夏のこと。夕方少し涼しめで、赤い革のブレザーを着ての外出。小柄な男性が「シガレット? シガレット?」と当時の夫に煙草をねだりに付いて回る。夫は「ない」と手を振りながら、やや無視して歩いて行く。と、今度は私のほうに向きを変え、同じように英語でしつこく付きまとわれた。

「うるさいわねー。『ない』って言ってんじゃないの」と、半ばうんざり放った言葉がいけなかった。私の生まれが日本橋の下町で、べらんめー調の江戸弁を聞いて育ったのが、久々に出てしまった。「なんだ、おまえ、パンパンかよぉ!」「だったらなんだってのよ!」「なにおー、このあまー!」と、飛び掛かって来そうになった時、周りの人たちが一斉にその男を止めてくれたのだ。夫は何が起こっているのかちっともわからず、少し離れて小さくなっていた。

初夏に革、しかも赤のブレザーを着て白人と歩く、というのが40年前の東京では、まだ一般化していない頃。「パンパン」、「オンリー」など進駐軍兵士相手の売春婦・妾の呼び名や「あいのこ」などが出回っていた頃だ。「勝てば官軍」の時代、「いい女(?)」を官軍の男に取られてしまう不満とは逆に、もしかしたら単純に英語をしゃべってみたかったのかもしれない、などと今なら思う。

昨年帰国して見た最近の日本、東京の光景は全く違っている。どんな時期に何を着ようが、誰も不思議がらない。あの頃とは別の国にいるような気もして、日本に不在だった年月の長さを改めて実感すると共に、酔っ払いにつっかかった若い頃を懐かしいとも思うのだ。

目黒不動尊と大鳥神社〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

目黒不動尊と大鳥神社

昨年末、44年住んだアメリカを引き上げ東京の実家に落ち着いた。さてこのコロナ禍で、築50年強の古屋敷の改築をどうしようと考えあぐねている今日この頃。キシキシ音を立てる押し入れの襖や、半分はげた桐たんすの引き出しを開けてみると、いろいろ出てくる。およそ20年前に他界した父の眼鏡など、「ああ、参観日にこれしてよく学校に来たっけ」とか、「なんでこんなに古い鍵やキーホルダーがあるのよ」などとひとり言を言いながら、とにかく古い荷物は片付けなければならない。

ほんの少し、父との対話を楽しみながら何気なく引き出しを開けてみると、どうして良いかわからないものに出合った。小さな桐の箱がいくつもある。表には赤い鶴の絵が色あせている。

「やーだ、へその緒?」。案の定である。3人姉妹なのになんで5個? と思い、開けてみると、姉の子どものと、もっと古いのはたぶん私が生まれる前に他界した兄のなのだろう。こういうの、父がいる時一緒にやりたかったなぁ。綿の間にくるまれた2センチほどの、干からびてわけのわからないようなものである。娘が首を突っ込んできて、「わっ、気持ち悪い!」と踵を返す。

これはお寺に持って行って供養と焼却をしてもらうのがいいように思った。そこで、父が亡くなる前日まで毎日散歩に行っていた、近所の目黒不動尊に行ってみた。もう何十年も、毎朝の散歩は15分ほどの林産試験場からお不動さんと決まっていた。子どもたちが住んだ4年間は毎週末一緒に「林試の森」でハトに餌をやり、お不動さんへ回り、帰りに付近の焼き鳥屋で1、2本買い食いをして帰ってくるのであった。

ちょうど参拝の時間で、お経と木魚の音が紅葉のすがすがしい秋の空気の中に響き渡り、何とも日本の晩秋を肌で感じたひとときであった。

詰め所のお守りを売っているところでちょっと質問。「他の社寺のお札・お守りのおたき上げは受け付けておりません」という張り紙がしてある。

「はい、お断りしています。きりがないので」という答えが返ってきた。檀家しか面倒を見ないらしい。この若い坊さんと掛け合っても堂々めぐりと思い、「こういう場合はどうしたらいいんでしょうね?」と聞いてみた。「神社にでも持って行かれたら?」。大鳥神社でも同じようなことを言われた。日本の宗教って、何なんだろう?

ネットで調べてみた。「へその緒はどうするの?」

「自分が死んだ時、一緒にお棺に入れて火葬してもらえばいいんだよ」という答え。なんだ、そんな簡単だったのか。

パチンコ打たずにワクチン打つ!〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

パチンコ打たずにワクチン打つ!

パチンコ屋でワクチン接種。

大阪からニュースが入ってきた。大阪市北区にある1,000人収容の大型パチンコ店、フリーダムは9月13日、14日と休業し、従業員を始めとして近隣の住民1,500人を対象に2日間、ワクチン接種を実施した。10月も2日間やるという。合計数千万円の喪失だそうだ。

「予約できなかったので、助かりました」

「初めて座ったんですが、椅子がフカフカでした。辺りがキラキラでね」

などと、感触は良い。

昨年春、パチンコ店はクラスターが発生しやすい、と非難を浴びて休業命令が出たが、クラスターはまだ発生していない。換気設備が整う環境に加えて、仕切りの中でパチンコする人はパチンコ台とにらめっこ。隣と話している余裕はない。当たり前だ。

ひとり置きにパチンコ台の前の回転する椅子に座り、医師、看護師が席を移動して順に回ってくる。接種後の経過観察中は残りの待機時間がパチンコ台の上部の電光掲示板に表示され、気分が悪くなった場合は、「おーい、玉が出ないよー」と店員を呼ぶボタンを押す仕組みになっている。なんともジーニアス! 接種後の感想は、

「遊ぶ感覚でできたので、面白かったですよ」

「今まで負けた分を取り返せるかな?」とは、常連客のひとり。

地域貢献のためもあるが、地域の人から支えられないと残っていけないという決断、ウィン・ウィン・シチュエーションはあっぱれである。

豊中市では、出張サービス「ワクチンカー」の派遣を始めた。希望するサークル、団体など24人集まると来てくれるワゴン車だ。家の近くで接種できることに加え、今まで少し不安があった人も友人・知人と一緒、ということで安心感がある。主催者側は、

「若い人たちは特に生活スタイルが多岐にわたっているので、その希望のチャネルに合わせることができたら、と始めました」と動機を語る。

吉村洋文大阪府知事は斬新だといつも思う。若さもあるけれど、地域に密着している。しかも決断が早い。なるほど大阪人に選ばれたわけだ。パチンコ屋さんは吉村さんに押されたわけではないと思うけれど、なんか一体感がある。小池百合子東京都知事はやらないだろうなぁ。面子?があるかも。ダサくって?

今の政治に問われていることは、機敏さ、大胆さ、そして柔軟さだと誰かが言っていた。小池都知事も少しはまねしてくれないかしら? 無理だろうな。「都民ファースト」でなくて「五輪ファースト」だったもの。

タトゥースリーブとスタンプラリー〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

タトゥースリーブとスタンプラリー

ハワイに住んでいる息子さんがいる方から相談された。彼の新しく付き合い始めた白人女性が左腕、肩から手首まで全部に入れ墨をしていると言う。

「どうも、結婚を考えているようでさ、どうしようかと思ってるのよ」

「入れ墨なの? タトゥーなの?」

「タトゥーなんでしょ、彼女は。でも私にしてみれば入れ墨だわ」

「だって、彼女の体なんだから、しょうがないじゃない?」

「そうは言うけれど、もし結婚したら、ハワイに会いに行くでしょ? 私、見たくないわよ」

「ハワイなら、暑いからカーデガンで隠すわけにもいかないわね。何が一体嫌なの?」

「その心意気が嫌なのよ。ねぇねぇ、見てちょうだいっていうような」

「自己顕示欲?」

「そうそう。最近の子だから、小さなタトゥーをかわいく、どこか自分だけに見えるところにするんなら、いいわよ。必要なら隠せばいいんだから。でもこれ見よがしにするって、何か心に問題があるように感じるのよ。私の大事な息子を任せられるかしら? しかも子どもが生まれたら、私の孫の母親でしょ?」

話はどんどん発展していく。

「孫は孫でしょ?」

「だけど、母親がタトゥーOKな子と、絶対ダメな母親を持った子とでは、その子の成長の過程で受け入れ方が違くなるじゃない? きっと孫もするわよ」と決めつける。

「日本に来て、一緒に温泉行けないってのも面白くないわね。その子(彼女)、日本のカルチャー知ってるの?」

「一応知っているけど、もうやってしまったから遅いわね」

もともと、入れ墨は罪人の島流し、家畜のお尻にする焼印のようなものだったわけで、その後のヤクザの唐獅子牡丹は、現在は芸術として認められている部分があるものの、温泉ではいまだに「お断り」が多い。娘の肩の小さなタトゥーを見つけられた時に、「次回からご遠慮ください」と言われたそうな。

「見たくない人の権利ってあるんじゃない? ヤクザだって普段は隠していて、これぞ! という時に、サーっと脱いで披露するって、ちょっとかっこいいけどさ。でもタバコだって吸わない人の権利、臭いが嫌だっていう人の権利だってあるんだから」

そうか、お風呂では見たくない人もいるわけだから。

「なんで腕にタトゥーしたか聞いてみれば?」

「息子に聞いたら、旅行が好きで、ネパールだとか、南アフリカだとか、行ったところの思い出を腕に入れて、片腕全部になっちゃったのよ。これをスリーブって言うんだってさ」

「なんか、JRのスタンプラリーだね。ははは」

「茶化さないでよ!」

静かな戦士たちに捧ぐ~日系2世復員軍人の声~

姉妹誌『北米報知』にて2003年に連載されていたのが、当時はまだ健在だった2世復員軍人の方々から生の声を集めたインタビュー記事「静かな戦士たち」。同紙で昨年11月から再掲載が始まり、大きな反響を呼んでいます。執筆したのは、本誌連載コラム「みきこのシリメツ、ハタメーワク」でおなじみ、北米報知元ゼネラル・マネジャー兼編集長の天海幹子さん。連載時の裏話と共に、2世復員軍人たちがそれぞれ背負う歴史について紹介してもらいます。 

写真:『北米報知』より転載

押さえておきたいキーワード

●442連隊(※1)
1942年2月、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(当時)の発令9066号の下、西海岸では11万人以上、シアトル市近辺では約7,000人の日本人、日系人が強制退去となり、収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの2世たち。未来の世代で日系人への偏見をなくせるよう、志願兵となった者も多く、ミニドカ収容所からだけでも300人以上の2世が志願したと言われている。日系人のみで編成された442連隊はヨーロッパの激戦地に送られ、ほとんどの青年たちは生きて帰って来なかった。

●ツーリレーキ/ミネドカ(※2)
カリフォルニア州ツールレイクおよびアイダホ州ミニドカ収容所のことで、当時の1世、2世の発音のカナ書き。現在の表記は「ツールレイク」「ミニドカ」だが、「ツーリレーキ」「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。 

●No-No Boys(※3)
1943年2月、収容所で暮らす17歳以上の全ての日系人を対象に出所許可申請書(Application for leave clearance)の提出が求められた。この別名「忠誠登録書」では、第27項:米軍に入隊し、いかなる土地でも戦闘に参加することを誓うか、第28項:日本の天皇への忠誠を否定し、合衆国に対して無条件の忠誠を誓うか、の2項目にYesかNoで回答しなければならず、「No」と答えた者は「No-No Boys」と呼ばれ、過酷な環境にあるツールレイクの収容所に送られた。日系コミュニティーの中で少数派となった彼らは反米的な「不忠誠者」と見なされ、厳戒態勢を敷かれる中で隔離された。

●帰米2世(※4)
日本からの移民1世を両親に持ち、幼少期に両親の国、日本に滞在し日本の教育を受けアメリカに戻った2世たち。 

ふたつの文化に挟まれて

日系2世で構成された442連隊は米国史上最多の勲章を受けた。名誉戦傷章のパープル・ハートは9,486人が獲得。写真はパープル・ハートを2度受章したホリカワさん

2000年から2005年まで北米報知に籍を置き、「静かな戦士たち」というテーマで回顧録を1年間連載した時にインタビューした2世復員軍人の方たちは、私の大切な「心の宝物」である。控えめな1世の親から受け継いだ価値観、他人に迷惑をかけないこと、忠誠を尽くすこと、ふたつの文化に挟まれた苦悩からくるピースメーカー、一見無表情で怖そうな容姿の内に秘められた温かさと思いやり……。442連隊※1として同じ戦争に加わった元兵士たち、それまで固く口を閉ざしていた彼らが、それぞれのストーリーを語ってくれた。その時の裏話である。 

2002年、2世復員軍人会(NVC)の理事をしていたトーシ・オカモトさんが北米報知オフィスに現れ、残り少ない「2世ベッツ」の生の声を記事にして欲しいと依頼された。リストは40人ほど。話したがらない方、認知症をわずらってしまった方を抜かし、年長者から2時間に限定してインタビューを始めた。主旨は、アメリカでも一般にはあまり知られていない442連隊とMIS(米軍諜報部員)の史実を英語でインタビューし、日本語で日本の国、日本人に届けることと、彼らの言いたかったことをそのまま記録として残すこと。あえて面白おかしくは書かなかった。 

今読み返してみると私の稚拙な文章はさておいて、それぞれの元兵士の思いと人柄がよみがえる。 

今年6月3日、日系2世兵士の偉業をたたえる記念切手が発売。442連隊として従軍したハワイ出身のシロク・ヤマモトさんをモデルに、第100歩兵大隊、442連隊のスローガンとなった「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)」の文言が入る

「トーシ、次はあなたの番よ。いつがいい?」とオカモトさんに電話した時、意外なことを言われた。「みきこ、僕はまだ準備ができていないんだよ」。どんな準備が必要なのか問うと、「いや、あんたには悪い評判があってね」と言う。「つまり、あんたがインタビューをするとだね、みんな死んでいくんだよ」。その頃13人中4人亡くなってしまった。いちばん初めのディック・ナイトウさんは当時92歳だった。元MISとして新日本国憲法の草案に寄与したジョージ・コウシさんも92歳で、彼の話が新聞に載る3日前に亡くなった。脳溢血で倒れた方もいる。NVC ホールの日系人記念壁除幕式でオカモトさんに会った時、「そのうち準備ができると思うよ。いつかね」と言ってしっかり手を握ってくれた。 

戦争体験に加えて、収容所から軍隊に志願、それによって家族がふたつに割れてしまうような辛い目に遭っても、皆一様に「自分はラッキーだった」と人生を肯定的に見て、そして442連隊の一員であったことに計り知れない誇りを持っている。亡くなる2週間前のインタビューで元MISのコウシさんには「ご自分の人生を振り返って、どうお考えですか」の問いにひと言、「良かった。悔いはない」と即答された。インタビューした元兵士が亡くなってしまうのは、高齢というのもさることながら自分の一生または半生を振り返り、終止符のようなものを打ってしまうからなのだろうか。そして私はその機会を彼らに与えてしまったのだろう。こうして、私のインタビューはMISの3人の方を最後に、終わってしまった。

星条旗 Star-Spangled Banner 

アメリカの国歌を聞くたびに、私の頭にはある光景が浮かぶ。実際には行ったことも見たこともないイタリアの戦場だ。10人の442連隊の2世兵士たちにインタビューした話を基に、頭の中に勝手に作り上げた私の世界である。この歌の一行一行に彼らの言葉がよみがえり、顔が浮かんでくる。 

後述のロバート・サトウさんいわく、そこは「この辺り(アメリカ北西部)と似ていて杉の木が多く、切ってしまうと隠れる場所がなくなる。冬は同じように雨が多くて寒い」場所で、敵陣を奪い掲げた星条旗が夜明けの薄い光の中で雄々しくひるがえっている。紺色の空が次第に茜色に変わっていく中、星条旗を見つめているのはジョージ・モリヒロさん。「戦争はね、人の殺し合いではなくて土地の奪い合いのために兵士が前進するんだ。夜のうちに谷間を渡り低地を横切り、高地を占領して昼間に眠る。敵も前進するから味方は後退する。その繰り返しだ。でも442連隊は決して後退はしなかった」。戦火の交わる「蛸壺壕には無神論者はいない」と確信する敬虔なキリスト教信者のポール・ホソダさん。「今生きるか死ぬかは、人間のコントロール下にないってこと、みんな知っているからね」。神の下には皆同じ人間で、それは神からのギフトだと信じるホソダさんは「日系人は他の移民と同じように信頼できる人種であるということを、移民になれない両親のために証明したかった(1924年の排日移民法によって、日本人や他のアジア人の移民は停止されていた)」。そしてそばには、大砲部隊で40パウンドのラジオを運ぶ小柄なアート・ススミさん。目の当たりに戦死した戦友を手厚く葬れなかったとの思いから、戦後は葬儀屋になった。「(亡骸と同じ屋根の下で眠るのは)怖くなかったですよ。戦争で周りに死んだ人をたくさん見てましたからね。でも葬儀屋は戦争と違って亡骸だけでなく遺族にも対応するんです」。戦場で向こうの手順がわかってくると、「1発目、2発目。次か?」と思う時の恐怖は「身体全体が、押さえている鉄兜の中に入り込んでしまうかと思われる」ほど。「母の千人針とチェリー(妻)からの分厚いラブレターの束とに助けてもらった」のはミン(ミノル)・ツボタさん。後ろのポケットに入っていたため炸裂弾の破片は貫通しなかった。千人針はツーリレーキ※2の収容所でツボタさんの母親が女性に会うたび、ひと針ずつ頼んで回ってできたものだ。「寅年の人はひと針以上縫ってもいいんですよ。虎は強いから縁起がいいでしょう」

兵役時のツボタさんと、母が息子の無事を願い、届けた千人針。新しい米袋を利用した帯はしっかりと形をとどめている

フランスでドイツ軍に1週間包囲されて動けなくなっていたテキサス大隊(141連隊第1大隊)救出のために送られた、2世兵士からなる第100歩兵大隊、442連隊は211人を助け出し800人の死傷者を出した。そのひとり、先述のナイトウさんはドイツ軍に右足を粉々にされ、戦場で7時間から9時間、救助を待っていた。「もう二度とアメリカの土を踏むことはないと思いました」。だが救護戦艦で帰国の際、肝炎を併発して朦朧としていた時、甲板から「ほら、ディック。自由の女神が見えるぞ」と戦友が抱きかかえて見せてくれた。安堵の涙でぼやけたその像の向こうに、諦めかけていた「ホーム・スイート・ホーム」の輪郭が次第にはっきりとしてきた。 

戦後、ホワイトハウスに招待され、「あなたたちは敵と戦っただけでなく、この国の偏見とも戦った。そして勝利を獲得したのです」とハリー・トルーマン大統領(当時)にたたえられた2世兵士たち。アメリカ史上、最多の勲章を授かった連隊だった。 

O say does that star-spangled banner yet wave   

O’er the land of the free and the home of the brave?

(戦火の飛び交う戦場に)彼らの立てた星条旗は、この自由の国、勇敢な兵士たちの故郷の上に今もなお、ひるがえっているのでしょうね 

アメリカ国歌の最後のフレーズで、この曲は2世兵士のために作られたように錯覚してしまう。それまではアメリカの「戦争の勝利」をたたえる歌だと思っていたが、実は「勇敢な兵士たち」をたたえる歌だったのだ。彼らに会った後では「星条旗」の持つ意味がもう少し深く胸にこたえる。 

タカハシさんの妻、ジューンさんは同じくミニドカの高校出身。2003年8月、収容所跡巡礼の旅に夫婦で参加した。手に持つのは、1世、2世、3世を有刺鉄線で結び付けるミニドカのロゴが付いた記念品の石

それを教えてくれた方が、またひとり亡くなってしまった。442連隊上級曹長のサトウさん。2003年のインタビューの直後に脳溢血を患い、2010年8月に2度目の発作、そして翌9月、帰らぬ人となった。ちょうどバスでのミネドカ※2の巡礼の旅の最中、久しぶりに会った収容所で過ごした仲間と楽しく歓談し、ホテルに帰り発作が起こったとのこと。お茶を入れてもらい、始まったインタビューでは、テキサス大隊救助に向かった武勇伝に花を咲かせた。442連隊、第100歩兵大隊が最前線に使われてしまったのは「自分たちの成果が逆にあだになってしまった」から。祖国アメリカへの忠誠を誓った2世兵士たちは、皆同郷で家族のように結束が固かった。そして闘志に燃えていた。「No-No Boys」※3ばかりが脚光を浴びて英雄のように扱われているが、1988年にロナルド・レーガン大統領(当時)が謝罪し、政府が日系人に対しての賠償補償金を決定したのも、数々の戦功により史上最多受章となった2世兵士の功績がなかったら実現しなかったと力説されたのが、まだ昨日のことのように思い出される。一度目の発作の後に会うと車椅子だったが、利き手のほうで私の手を握ってくれた。温かい、大きな手だった。 

追悼会の前日、夜空を見上げるとまたひとつ星が輝いた。もう病気とも戦わなくていい。頑張りましたね、ありがとう。安らかに、ただ静かに日系人が作る歴史を見守っていてください。ご冥福を祈ります。

MISになった帰米2世と東京裁判

「『勝てば官軍』だけが戦争に負けた者を裁くのは不公平だとか。広島に原爆を落とした、それで何十万人という市民が死んだ、こういうことに関わった人も裁判にかけないといけないだとか。そう言う人がいるけれど、アメリカは『官軍』だからしょうがないんだよねぇ。そういうことをね、あの当時、東京裁判で言ったアメリカ人もおるのよ。本当はねぇ、判事っていうのは、連合軍以外の人がやるべきだと」。日本降伏後、B級戦犯裁判にアメリカ軍属の調査官として加わった松井 尭さんの言葉だ。 

また、米進駐軍と共に日本に渡り東京裁判で法務官として活躍した元MIS軍曹、先述のコウシさんは「裁判そのものは公平だった。でも弁護団は言いたいことを十分に言えなかった」と言う。「アメリカ側から見たら公平な裁判だったし、そのために双方努力したんですよ。一緒になんもかんもした」。コウシさんはダグラス・マッカーサー元帥の下、新日本国憲法の草案にも寄与。東京裁判では日本人の弁護団(日米20人)と一緒に日本側の弁護をし、「チョット変な状態でした」と心の内をのぞかせる。彼の下にいた20人のMIS部員が協力した。 

戦後の日米両国をつなぐ貢献により、日本政府から勲章を受勲する2世復員軍人も少なくない。写真は日本政府より勲三等瑞宝章を受章した元MISのコウシさん

アメリカの国籍を持つ、日本人の心がわかる日系2世にしかできない職務だった。戦後の日本早期復興成功の陰に、どれだけ帰米2世※4の努力があったのかは見過ごされている事実だ。 

MISはほとんどが帰米2世だ。当時、2世は日本語習得のため日本の親戚に預けられることが多く、幼少時から両親と離れて過ごす。太平洋戦争が勃発し、アメリカへ帰れなくなった2世、逆に日本に両親が残り、ひとり帰米していた2世、同じ家族の中でも離ればなれになった長男と次男。収容所内で帰米2世のいる家庭では家族の中でも意見が違い、親が大変な思いで家族をまとめていた。「この戦争が家族をバラバラにしてしまったんですよ」。442連隊のナイトウさんは述懐する。 

当時の日系社会が、収容所に残った「No-No Boys」と志願兵の「Yes-Yes Men」に分断されてしまったのは周知の事実だ。「日本人だからと収容所に放り込んでおいて、今度はアメリカ人だから戦争に行けか? 冗談じゃない」と抵抗した「No-No」の意見は、大和魂を持った者ならよくわかる。だが、この土地で子どもを生んだ者なら、2世兵士の父親の気持ちもわかる。「ここがおまえの祖国なのだから、アメリカ人として立派に戦って来い」と。442連隊に志願したナイトウさんは戦後60年もの年月が経ち、「No-No」の気持ちがようやくわかったと言う。「彼らも僕たちと同じように、人間の権利に対して戦っていたんですね。違ったやり方でね」  

ジミー・カナヤさんは、442連隊で衛生兵として出陣。ドイツ軍の捕虜となり、3度の脱走を試みた体験を持つ。写真は半世紀連れ添った妻、キミさんと

日本語の堪能な2世兵士たちは442連隊に配属されず、軍の中で日本語教師を務めたり、翻訳課に配属されたりした。日本人捕虜の通訳のためにフィリピンに送られた岩本義人さんは、日本人に間違えられて射殺されそうになったこともある。戦後は日本で通訳として米国兵の刑事裁判に関わった。その頃、幼少期を過ごした熊本の親戚の家に行き3番目の兄とも久々に会えた。「兄は本当に日本の軍人のようでした。お互いに礼儀正しくしようと努めていたようです」。日本兵としてマレーシアで負傷したその兄と、アメリカ兵として行ったフィリピンでマラリア感染した弟は、ただ黙って縁側の陽だまりで休養していたと言う。 

先述の松井さんも終戦後は日本に帰り、「故郷」の両親に12年ぶりに会った。4歳下の弟は日本軍としてガダルカナルで戦死したとその時初めて知った。「惜しいことをしたとママが泣いとった」。兄弟皆アメリカで生まれたが弟は両親と共に日本に残り、戦前アメリカにひとり帰った松井さんには、複雑な心情を表す言葉がない。 

日本人の価値観を持った帰米2世のエピソードとして松井さんは「パンパンガール」の話をしてくれた。銀座のダンスホールは午後6時以降に進駐軍が使うため、近辺のガード下に日本人の女性が待ち伏せし、松井さんたちが通りかかると「兵隊さーん」と声をかける。「『なんだおまえらは。帰れ』って叱り散らすと、『私たちは敗戦国の女性ですわ』って、帰らない。『それじゃあ金やるから帰れっ』て言ったら帰ってった」。松井さんは「日本人の女性がそんなことをするなんて恥ずかしいと思って帰らせた」と言う。また、銀座の露店では勲章を売っている現役軍人がいた。戦争で苦労して得た勲章だと思った松井さんは、「こういうの、売らんでください」と言って3倍代金を払い、勲章は持って帰れと言ったが、「あんたにあげます。あんたみたいな人は今まで見たことがない」と、涙を流して別れた。後日、勲章を返しに行ったが、その人には二度と会えなかった。松井さんは代わりにその勲章を、今も大切に保管している。松井さんの「お堅い軍人」の面ざしの陰には、帰米2世の苦悩と誇りが見え隠れする。

戦争が残した傷  

エディー・ホリカワさんは戦後、MISの勧誘を辞退し、ヨーロッパにいた。戦争が子どもたちに及ぼす影響を目の当たりに見て、嘆いていた。「子どもたちが食べ物をせびりにくるんですよ。鍋を持ってね。白人の兵士たちは子どもたちを邪険に扱ったり、目の前でわざと残り物をゴミ箱に捨てたりしていたけれど、僕たち2世兵士はひとりひとりに少しずつ分けてあげました。アメリカの収容所にいる、日系人の子どもたちだと思ってね」。彼らの経験談からは一様に、アメリカ人としての正義感、父母から受け継いだ日本人の高潔さ、2世兵士の誇りが感じられる。

兵役時のホリカワさん。シアトルの日本町に生まれ、父親はホリカワ・ハードウェア・カンパニーを経営していた。フランスで足を負傷し、パープル・ハート受章につながったが、戦後も杖に頼る生活を余儀なくされた

「僕はね、戦争の話をするのが辛いんです。今までもずっとそうだった」とインタビューに応じながら途中で話を止めたのはミツル・タカハシさん。体の傷は治っても心の傷は癒えず、戦争が19歳の青年に落とした影は半世紀以上経っても拭えない。戦後の話に切り替えると快く話してくれた。最近行った日本からの帰りの飛行機で隣席した片腕の老人は、元日本軍の傷痍軍人だった。「その人は442連隊のことを知っていて、『日本人として恥をかかなくて良かったなぁ』と褒めてくれたんです。とても心がこもっていました」と表情が少し和らいだ。 

それまで固く口を閉ざしていた2世兵士たちは高齢になり、少しずつ体験談を語り始めた頃だった。初対面のたった2時間で、堰を切ったダムのように流れてくるストーリーと彼らの感情は、ともすれば圧倒され、一緒になって涙したこともあった。彼らの信念と強い意志を直接聞けたことの光栄さ。この貴重な経験をどのように生かしていったらいいのだろう。私たちが現在、アメリカで平和に暮らせるのも、じっと耐えてきた「静かな戦士たち」からのギフトなのだ。後世に伝えること。そして戦争をなくさなければならない。戦争を、体を張って通り抜けてきた彼らだからこそ、平和を願う気持ちは大きい。 

13人の静かな戦士たち

442連隊

リチャード・ナイトウ

ワシントン州ケントに生まれ育ち、農作物の肥料を扱う店を経営。ミニドカへ収容されると、白人の妻と離ればなれに。米軍入隊を志願し、1943年9月15日、442連隊としてイタリアへ向かうも、ピサ近くで爆撃に遭い、右足を負傷。救護戦艦で帰国した。戦後はシアトルで宝石店を始める。

ロバート(ボブ)・サトウ

442連隊で上級曹長を務めた。タコマの南、ファイフの生まれ。戦争が始まり、農業を営んでいた家族と共にミニドカ収容所へ移る。高校を卒業し、徴兵されたのは1944年。6月からミシシッピ州シェルビー軍隊教習所で2カ月間の訓練を受け、いきなりイタリアの激戦地へ。11月にはドイツのライン河から50マイル地点で前線を張った。

ジョージ(ガンジロー)・モリヒロ

タコマ近くのファイフに生まれ、戦争が始まるとミニドカ収容所を経て入隊。ミシシッピ州シェルビー軍隊教習所で訓練後、イタリアに入り、17歳で442連隊の自動ライフル隊として最前線に。自動ライフルは21パウンドあり、普通の銃の2、3倍の重さがあった。サトウさんとは同期に当たる。

アート・ススミ

シアトルの日本町に生まれ、ウエスト・シアトルで高校を卒業。父が営む花屋を手伝っていたが、戦争でミニドカ収容所へ。442連隊の大砲部隊に所属し、40パウンドのラジオを運ぶ係になる。テキサス大隊救出時の負傷でブロンズ・スター受章。テキサス州名誉市民に。戦後は、バターワース葬儀社に長年従事する。米国傷痍軍人会(DAV)中佐。

パット・ハギワラ 

アラスカ州兵から442連隊に送られた4人の2世兵士のひとり。入隊し、イリノイ州で行進時の整列指導の任務に就いた頃、ミサコさんと出会い結婚。ミシシッピ州シェルビー軍隊教習所から442連隊補充兵として欧州戦線に赴く。戦後、除隊してミサコさんの故郷、ワシントン州へ。ワシントン大学で電気工学を学び、エンジニアとしてボーイングに長年勤めた。

ミツル・タカハシ

ミニドカ収容所で高校を卒業後、442連隊に志願し、ミシシッピ州シェルビー軍隊教習所から欧州戦線へ送られ、自動ライフル隊に。負傷して入院中にドイツが降伏。日本軍と戦う指令を受けるが、出兵前に終戦を迎えた。シルバー・スター、パープル・ハート受章。大統領の感謝状も受けている。

ポール・ホソダ 

開戦時はユタ大学1年生。収容経験はないが軍隊に志願し、1943年に442連隊に入隊。1944年に自動ライフル隊としてイタリアに上陸するが負傷し、退院後はナポリの輸送部隊に移された。予備軍に残り、朝鮮戦争に参加。戦闘技師からMIS、日本派遣を経て、フォートルイス基地のCIC(主に日系人対象の諜報部)に所属した。

エディー(英義)・ホリカワ  

10代の頃、両親が共に病没。戦争勃発でカリフォルニア州、ワイオミング州の収容所の移動を経てシカゴで某技術系学校に通い始めると1944年に徴兵。442連隊に入隊し、ライフル隊の軍曹に。1946年に名誉除隊。妻の徳禧久さんの影響で雄生流池坊に学び、夫婦でシアトル地域の華道普及に貢献する。

ジミー・カナヤ   

オレゴン州クラカマスの農家出身で、1941年に20歳で入隊。朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加し、1974年に引退するまで軍隊ひと筋のベテラン。第二次世界大戦は442連隊衛生兵として出陣したが、ドイツ軍に捕まり、6カ月を捕虜として過ごす。米軍の救済があり、やがて終戦。軍に残って学校に通い、19年かけて修士号を取得した。

ミン(ミノル)・ツボタ    

ケントで10人兄弟の末っ子として生まれた。徴兵前の1941年3月に米軍入隊を志願。高校時代から練習していたサクソフォンの腕が認められ、カリフォルニア州サン・ルイス・オビスポの部隊の音楽隊に入るが、真珠湾攻撃後、「在留敵国人」としてテキサス州フォートブリス駐屯地本部に送られる。新婚の妻と赤子を残して、442連隊として出兵し、1945年12月に帰還した。 

 
 
MIS

ジョージ・コウシ

コロラド州グリーンリーで10人兄弟の3番目、次男に生まれる。6歳の時、兄弟と熊本の両親の故郷に送られ、16歳で帰米。米国での教育を小学生からやり直し、デンバー大学で法科を専攻。1940年に徴兵され、翌年からMISとしてワシントンDCへ。占領下の厚木で軍曹として勤務した。除隊後は東京裁判の法務官に。新憲法草案にも寄与した。1974年、勲三等瑞宝章を受章。

松井 尭 

オレゴン州フッドリバーの農家に生まれ、母と共に3歳で両親の故郷、福岡県へ。やがて一家全員が日本に引き揚げるが、1934年の中学卒業と同時にひとり帰米し、叔父の住むシアトルに移る。1942年に徴兵。日本語学校の教官としてミネソタ州キャンプ・サベージ配属に。戦後は日本で戦犯調査官を務めた。三菱商事に30年勤務。1994年に勲五等双光旭日章を受章。 

岩本義人 

5人兄弟の四男、ワシントン州ワパトに生まれる。ホテル経営をしていた父が亡くなり、次男と三男は熊本の母方の叔父に引き取られた。ワイオミング州ハート・マウンテン収容所で入隊志願し、1943年にミネソタ州キャンプ・サベージで日本語学校翻訳課に配属。フィリピンへ送られるが、マラリア、ポリオに感染して戦線離脱。戦後、横浜の軍司令部裁判所で米国兵の裁判に関わった。 

ブラボー、なおみちゃん。よく言ってくれたね!〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

ブラボー、なおみちゃん。よく言ってくれたね!

プロテニス大坂なおみ選手が5月31日、全仏オープンテニス試合後の記者会見を拒否。あらかじめその意向は表明していたが、速攻、大会からルール違反とし1万5,000ドルの罰金が科せられた。その晩の日本のテレビでは、コメンテーター、お笑い芸人などが「気持ちはわかるが、プロにあるまじき行為。ちゃんと理由を説明してからするべき」と、日本人特有の「お利口さん発言」が飛び交う。

翌日、彼女はSNSで理由を説明。話し上手でなく記者会見の前には緊張し、ストレスで3年前からうつ状態に苦しんでいた、この会見のやり方がアスリートの心の健康に配慮がされていないと感じていた、と。そして全仏オープンにみんなが集中できるように、とその後の試合を棄権した。

うつの状態の人に説明しろと言っても難しい。それが簡単にできるなら会見もしただろう。お笑い芸人が「嫌でもプロだから」と応じるのと、アスリート、しかもチームで動く選手ではなく、フィギュアスケートなど、個人の動揺で結果が左右される競技と、根本的な違いが見えないのかしら?

そんなことを考えていたら20年ほど前、イチロー選手の記者会見が行われなかったことを思い出した。北米報知に勤めていた頃、いつものスポーツ記者の急用で、私が行く羽目になってしまった時のこと。野球のことなど何も知らない私は、会見だけしっかりメモを取ろうと、張り切ってロッカールーム前で他の記者たちと待機していた。当時の規則では、日本のメディアはイチローさんに直接質問できず、全て記者クラブを通す。イチローさんにもストレスだったんだろうね。「今朝、何を食べましたか?」などという個人的な質問はNG。当日の試合に関してのみ。

時間つぶしに、その日購入した眼鏡をチェックしていた。半分から上がドライブ用に遠くが見えて、下半分は地図など間近が見えるもの。つけたり外したり、ロッカールームをぐるぐる見回していたのだ。しっかりカーペットが敷いてあるので待合室かと思っていた。奥の壁際で小柄なアジア人が後ろ向きにこっちを見ながら、着替えようとしている。眼鏡のチェックで下を見て、そしてそちらを見ると、黒い下着1枚になったアジア人。天井際の名前を見て、「おお、イチロー!」。向こうもきっと「変な日本のオバさんが遠眼鏡で自分を凝視している」と思っただろうね。

「今日は記者会見なしです」とアナウンスがあったのは、その直後。アメリカは女性記者もロッカールームに入れるのに加え、こういう記者がいるからストレスになるんだな。

パワースポット、那須(後編)〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

パワースポット、那須(後編)

3日前に患ったぎっくり腰を押して那須に行った。全ての物に自然と備わっている力を高めて、宇宙とつながり大地と一緒に生きよう、と生活しているS家を訪れた。自然からの恵みを、感謝し大事にしている。山に囲まれ、温泉も豊富で3カ所温泉めぐりをした。

近くの日帰り温泉は、まさに昭和30年代にタイムスリップしたような、ただ硫黄の臭いのきつい湯舟が2つあるだけで、シャンプーなどのアメニティーもなく水道はお湯も出ない。床はキシキシ音を立て、子どもの頃父に連れられてよく行った、ひなびた温泉宿を思い出させてくれた。トイレは和式で水洗ではない。ただふたがのっかっている、という感じ。

「大丈夫だった?」と聞かれ、「何が?」と答えると、「トイレ。下から手がニューッと出てこなかったかと思って」

S家の彼らと話していると薄い透明な膜を張った、その向こうの世界を垣間見るようだ。実は私はそういうの大好きだから、すぐ乗ってしまって、そちらの世界と行ったり来たりする。類は友を呼ぶのだろう。

この硫黄温泉は、自然の胸に抱かれ温めてもらっているようで、自然との一体感、自然の中に私が入り私の中に自然が入ってくるというような感じが、今も持続している。

「みきこさん、手相見てもらわない?」と知り合いの鑑定士を紹介された。「私の鑑定は占うことではなくて、宇宙に1つだけのメッセージを、手のひらを通して伝えさせていただく……不安や心配を安心と安らぎに変えるよう、エールと元気をお届けする応援のメッセージ」と言う方。早速両手の写真を撮って、ケータイで送ってみる。私の生命線は短いが何本も何本も入っていて、本当にご先祖さまから護られているそうだ。左が先天的、右が現在とのこと。

「みきこさん、ご結婚は?」

「2度離婚したから、それはもういいんですけれどね」

「恋する乙女のような素晴らしい結婚線がしっかり、右と左に入っています!」

と言われて、途方に暮れている。悪い気はしないけれど。

天皇の御用邸が那須にあるのもパワースポットだからなのかはわからないが、ぎっくり腰が3日間で完治して帰ってきたのは事実だった。パワースポットは宇宙と大地の間にいる私たちに、人間の持っている自然の力を目覚めさせ、引っ張り出すパワーのある場所なのかもしれない。カタカムナ。

 

シアトル、くもりのち晴れ〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

新型コロナワクチン、どれにしようかな?

4カ月ぶりのシアトル。友だち4人でグリーンレイク一周ということになった。天気予報はくもり。外に出てみると、なんだ霧雨? あの、細かいミスト状。たくさん人も出ている。そうだ、シアトルではこれをくもりと言うんだ、と納得。

歩きながら、日本国籍の友人ふたりが帰国するのに当たって入国の心配をしている。高齢でワクチンをした人と、4月現在、50代でまだ順番が回ってきていない人。聞いていて考えさせられてしまった。私もしたほうがいいのかな? 来週日本に帰るし、2週間ないからダメだと決めつけていた。日本では高齢者にそろそろ始まる様子。ヨーロッパで重症、死人、強いアレルギー反応が出ているアストラゼネカは絶対打ちたくないし。もう少し様子を見てからにしよう。ワクチン反対者のひとりであった。

「ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)は? 1回で済むよ。でも、72%の効果しかない」

効果の話をしたら、100%でない限り気休めでしかない。ファイザー、モデルナの95%、94%だって、残りの5%、6%に絶対ならないという保証はないのだから。

ではワクチンをしたほうがいいのか。するならどれにするのか。みんな、どうやって選ぶのだろう。幸か不幸か、アメリカにはチョイスがある。

とりあえずJ&Jをネットで調べてみた。有効率を調べた時期が他社と違い最近である。つまり72%という確率の中には変異種も含まれている。他社のも変異種を入れてもう一度検査すれば、確率が少し下がるのでは? ま、これは私にとっては気休め。どうせ自分はかからないと勝手に決めているんだから。BCG? 昆布を何世代も食べていたから? と、ちまたにはいろいろうわさがあるけれど。

さらに、J&Jの有効性は他社より低いが、重病になった時に効き目を発揮する? ま、人それぞれでしょうが。と、思いきや、これまでにJ&Jの死亡者、副反応の報告がひとつもなかったのに、急に出てきた。他社製が売れなくなるから? やっかみの気もする。

「やったほうがいいでしょうね。気休めにしてもみんながすれば、世の中、ウイルスが広がるのを防げるでしょ?」

そうね。それにこの次日本から来る時に、アメリカ入国にはワクチン接種が必要、となったら……。

てなわけで、オリンピアまでJ&Jのワクチン接種に行って来ました。J&Jのワクチンはシアトル近辺で先週は完売だったので。

ホテル留置所?

一睡もせずに10時間半のフライト。無事羽田着陸。2度目の緊急事態宣言解除後のコロナ禍水際対策用書類は万端。乗客も半分で、PCR検査も含め2時間くらいで外に出られると思ったのが大間違いだった。

アメリカ出国72時間前のPCR検査の証明書で、もちろん陰性なのだが、唾液検査に口腔ぬぐい液(Oral Swab)と書かれ、唾液(Saliva)ではないとのことで、3日間のホテル隔離になってしまった。

外務省からの書類「COVID-19に関する検査証明」で「鼻咽頭ぬぐい液」か「唾液」のどちらかを選ぶので、唾液を選んだのだ。シアトル周辺では最近、口腔ぬぐい液(上下唇と歯ぐきの間、舌の上下を綿棒でぬぐい試験管の中に入れて提出。4月時点で厚生労働省は咽頭ぬぐい液と説明していた)が主流になってきている。

係官は「採取検体の記載がない」と言う。つまり、係官が見たいSalivaという文字が入っていないのでNG。厚生労働省はOral Swab を唾液ではなく口腔ぬぐい液と解釈している。

この最後の係官のところに来るまでは関所を難なく通過してきたのだ。検疫に対する質問に答え、誓約書にサイン。ロケーション探知等4つのアプリをスマートフォンに導入、設定。スマホを所持していない者は、自己負担でのレンタルを強要される。で、違反した場合は? 「氏名等が公表されることがあります」と、何とも日本的な答えに口の端で微笑みながら。何度も同じような質問に答え、やっと唾液検査。不必要に複雑化している感じがする。

唾液検査も問題なく通過。最後の再度チェックで引っかかったのだ。唾液は唾液じゃないの? しかも陰性。今やった検査のほうが重要ではないの?

専用バスに乗せられ、ホテルに着いたのは4時間後。お迎えは家に返し、3日後にまた羽田まで迎えに来てもらうことにして。

外務省の書類の「唾液」に、Oral Swabは不認可と書いてくれればいいのに。厚生労働省もちゃんと把握してるの? と、文句タラタラでバスに乗車。ホテルに着き、部屋に案内されるまで何人もの従業員に監視され、まるで「ばい菌」のように扱われた。「私たちは皆、陰性なんです!」と叫んでみても何の効果もなし。

さて小さな部屋に落ち着いて、外務省のサイトを開いてみたら、あったのだ! Oral Swabは不認可というひと言が。別のリンクに飛んで。

結局私の落ち度だった。予期していなかったホテル滞在の不便さ、「牢獄」の生活は不覚にも私のチョイスということになる。逆に、清潔なホテルで寝られること、決して「うまい」とは言えないが弁当が出てくることも、風呂にゆっくり入れることも感謝しなくては。しかも国民の税金で。この税金の無駄遣い、両サイドで何とかならないかしら?

明日、晴れて「出獄」!

森発言と五輪〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

みきこのシリメツ、ハタメーワク

2月早々の「女性蔑視」の森発言。そして辞退。「若手か、女性が良い」と世論が沸き立ち、後任は橋本聖子氏に落ち着いた。現在、順風満帆のはずであるが、コロナ禍の聖火リレーに賛否両論。リレーをひと目見ようと人が密に集まり、一時中止をした市もあった。

これだけ世界中で犠牲者が出ているのに、なんで五輪? この時期にお祭り騒ぎはないでしょう。長年練習を重ねてきたアスリートには申し訳ないが、感染抑制に貢献することを考えれば、おのずと結論は出るのではないかしら?

海外からの観客なし。一体何カ国集まれば「世紀の祭典」となるのかしら? 最低3カ国集まって、金、銀、銅メダルを取り替えっこしながら取ったところで、アスリートだって「ん?」とならない? 「参加することに意義がある」って、子どもの頃に習わなかったかなぁ?

でも、森 喜朗元首相の心情を考えると、ちょっと複雑な気持ちになる。あの森発言はメディアに踊らされた部分もあるからだ。彼は女性を軽蔑したのではなく、「女性の発言が長いなら(実際に国会中継を見ているとうなずける)会議の時間規制をしたらいい」というサゼッションをしたのである。彼のスピーチの一部のみを報道されたために波紋が広がってしまった。

翌日の謝罪、そして早急の辞退。以前若い議員に言った言葉、「政治とは決断すること。決断とは泥をかぶること」を実践したのだ。泥をかぶっても五輪を成功させたかった森前会長の人脈と交渉力は、2019年ラグビーW杯日本大会の開催成功でも証明される。

森前会長は首相時代から失言が多く有名だった。いきなり即答をしてしまうところは、どこぞの国の前大統領と同じだ。違うところは、森前会長は他人のこと、回りのことを思いやる点だ。会長の職を7年前に無償を条件に受け入れたがそれを否定され、アルバイトと同じ額の報酬で、それを懇談会費などに充てていた。首相時代の肺がん治療から、現在も人工透析を受けながら命をかけてこの大会に取り組んできた。

首相退任後の2005年頃、来沙されたことがある。当時、シローズ寿司で給仕をしていて、奥の部屋に銀ダラの粕漬けを運んだ時のことだ。

「ノルウェーの寒流で育った銀ダラは脂がのっていて、うち独自の酒粕に漬けたものです」とサーブすると、ひと口食べて一拍。そしてひと言、「ん、うまいっ!」

懐かしい思い出だ。

石巻の和尚さん~みきこのシリメツ、ハタメーワク

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「おわー! びっくりしました。ありがとうございます。もう、心はグチャグチャになってますが、仏の慈悲にすがって南無阿弥陀と念仏してお祈りいたします。もう、それしかないですから。10年、地道にこれしかしてません。新しいイベントもありません。ひたすら、ひたすら、南無阿弥陀仏です」

東北の大震災から10年。しばらく連絡していなかった石巻、西光寺の樋口和尚さんに「今日一日、みんなのことを考えて祈っています!」とメールしたら、返信がすぐに来た。

以前所属していたゴスペル聖歌隊で、2006年にお寺の本堂でコンサートをしたことがある。和尚さんと聖歌隊のディレクター、パット女史は宗教の違いを超えて、もっと大きな宇宙のスピリットに護られてか、不思議と意気投合してしまった。そして5年後の大震災。3週間連絡つかずの心配の中、ようやくメールが来た。お寺は丘の登りきったところにあるため被害はそれほどではなかったが、墓石180基が参道を埋め尽くしていた。

「今日の火葬は父親、妻、長女を津波に奪われた友人家族。涙と鼻水でなかなかお経になりませんでした。今日の火葬のお勤めにきれいな身仕度で臨むために、昨日の午後、1週間ぶりに自衛隊の簡易風呂に入りゴシゴシ洗いました。毎日ホコリまみれの私ですが、いま頑張らないと坊さんになった意味がありません。パットさん始め、皆さんの歌う姿を想像すると力が湧いてきます。ありがとうございます」

募金運動を続け、シアトルの街じゅうのホテルで不要になったアメニティー・グッズの寄付を集めた。大きなホテルに交渉に行くのは黒人メンバーには難しいが、津波被害国の日本人の私には問題ない。満杯のスーツケース2つを持って、翌年、石巻に向かった。復興はまだまだだったが300人ほどの方が歌を聴きに来てくれた。コンサートの後、まだライフラインも整っていないため、車の中で調理してくれたチキンとご飯のおいしかったこと!

「子供を亡くした母親の会」のメンバーの話は10年経っても色あせない。閉じ込められた車から上の2人は出られたが、末の弟を引っ張り出せずに手を放してしまった息子の話。バレリーナの6歳の娘が「どこかへ飛んで行ってしまった。私もあとを追って行きたい」と絶望的な母親。和尚さんの「今あとを追うと、違うところに行ってしまうから会えないよ。娘さんのしたかったことをやって、彼女の分も生きてみようね」という励ましの言葉など、フツフツと胸によみがえってくる。

「どんな環境にあっても心だけはつながっていたいですね。合掌」とメールをしたら、和尚さん、「ありがとうございます。あーめん!」

パワースポット、那須(前編)~みきこのシリメツ、ハタメーワク

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3日前に患ったぎっくり腰を押して、20年来の友だち夫婦に会いに那須に行ってきた。夫は写真家で、アフリカの砂漠に年に1度だけ咲く花のパワーを撮影したりする。妻はヘチマ水で化粧水を作っている。毎年、十五夜の満月の日に採水し、それを化粧水にして販売する。「月子」という名前だ。春先に植えたヘチマを丹念に育て、年に1度の採水を10月に済ませたところ。全てを刈り取って何もない小さな畑には、長い棒が1本突き刺さり、彼らはカタカムナと呼んでいる。

フラワーオブライフ

カタカムナとは1万3千年ほど前の日本の古代文化で、独特の3D文字、フラワーオブライフ(小学生の時、コンパスの使い方で習った、円の中の花びら模様)をベースにした、アイウエオの原形の48字を持っていた。80首ある詩は、なぜか渦巻き型に書かれている。言霊を元にした宇宙物理学で、陰と陽のように、目に見える現象界と見えない潜象界がかみ合わさっているという。私たちは宇宙とつながっている、宇宙に生かされている、という発想だ。地球も宇宙の星のひとつなんだから、当たり前だよね。

「夕べUFO来た? みきこさんの寝ている部屋のデッキに、UFOが来るって、泊まる人がよく言うのよね。真っすぐ南が神社だから」と、平気な顔して質問する。「夕べは満月だったから」。那須はパワースポットなのだそうだ。

類は類を呼ぶらしく、彼らの周りにはいろいろな人が集まってくる。考案者、小関 勲氏には会えなかったが、着物を来て仕事をする時の「たすき掛け」や特攻隊の「ハチマキ」にパワーがあると、「ヒモトレ」という丸紐を使っての紐の結び方を教わった。日本古来の日常の生活に取り入れられた知恵なのだろう。運動会で子どもたちがするハチマキの「勝つぞ!」という意気込みや、私が育った頃の受験生がねじりハチマキで、「がんばるぞ!」と集中力を出すのもそういうことらしい。子どもの頃に読んだピーター・パンの絵本に出てくるインディアン酋長も、羽の付いた革バンドをおでこに巻いていたなぁ。古い文化には国境がないのかもしれない。

そんなS家の人たちは、自然からの恵みを感謝し大事にしている。道の駅という、ローカルの産物を売るちょっとしたモールのようなものも近所にあり、野菜も豊富だ。少し行けば日帰り温泉もあり、3カ所行ってみた。(つづく)

コオロギせんべい ~みきこのシリメツ、ハタメーワク

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コロナ禍、緊急事態宣言が出されて暇つぶしに、パソコンでなにやら検索していたら「コオロギせんべい」というのに出くわした。コオロギを粉にしてせんべいにしたものらしい。

「なになに? エビセンみたいな味?」

ということで販売元の無印良品にオーダーしてみた。昨年5月に試作品として数量限定でネットに出したらその日のうちに完売。7月から正式に売り始めたそうだ。

食用コオロギで見てみると、コオロギバゲットやフィナンシェ(柔らかいクッキーのようなもの)で1枚に10匹入りと30匹入りがある。日本橋馬喰町の昆虫食専門レストランでは「コオロギラーメン、110匹入り」なども出ている。なんで今、コオロギなの?

昔、イナゴの佃煮なんてあったなぁ。最近また話題になり、どこかのおばあさんが、孫が送ってくれたイナゴの甘露煮をとってもおいしく食べ、大層感激したという話も聞いた。

そもそも将来の食糧危機を懸念して、世界中で昆虫食からたんぱく質を摂取しようという動きがあるのだ。フィンランドでは3、4年前からパンを売り出しているし、国際連合では2013年ごろから、昆虫食を奨励している。ただし国連のサンプル調理は、丸のままのバッタの形で料理したもの。いくら回りにトマトなどで色合い良くよそってみても、食欲が湧かない。

それで徳島大学では沖縄、奄美大島産のコオロギを粉末状にして研究をしていた。食品化するのに製造元も見つけにくかったしいろいろ苦労があったようだが、ようやくコオロギせんべいが誕生した。

「そんなにコオロギを捕まえて、全滅しないの?」などという幼稚な考えがまず頭に浮かんだが、もちろん養殖できる。大丈夫。コオロギのメスは成虫になるのに50日、1年間に6回ほど産卵する。1回に約1,000匹。だから理想的な環境で養殖すると、なぜかはわからないが1年間に250兆匹以上になるという計算。

先述のラーメンを提供する店、昆虫食の魅力を探究するチーム「ANTCICADA」ではコオロギを発酵させ、「コオロギ醤油」、「コオロギビール」なども開発し、「夢は宇宙進出!」とやら。

2020年世界の人口は78億を超え、2050年には100億人になると言う。地球上の3人に1人が何らかの栄養不良に苦しんでいる現在、昆虫食に目を向けたことは当然なのかもしれない。

というわけで、コオロギせんべいの到着を心待ちにしている。

臓器提供? ~みきこのシリメツ、ハタメーワク

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コロナ禍で帰国する際、「正式な遺言書を作らなくっちゃ」と思った。還暦もとうに過ぎているのに「今さら」なのだが、飛行機が落ちた場合、日本でコロナに感染した場合などと考え出し、慌てて弁護士に連絡をした。

持ち家、銀行口座など、死んだ場合の受取人は子どもたち3人と決めてあったが、弁護士にひとつ質問された。財産ではなく、臓器提供に関してだった。

私は臓器提供には賛成していない。自分勝手のようだが、天からいただいた身体は死に至った時、そのまま没するのが自然と思っている。私の臓器が人の助けになることは百も承知だ。完璧人間はいないわけで、それでもいただいたものに感謝しながら一生懸命、大事に生きるべきだと信じている。「人さまのあれが欲しい、これが欲しい」というのは、科学の発達という名目で、何か神を冒とくしているような気がするからである。

と、そんな話をある方としていた時、彼の友人の臨終での体験を聞いた。

まだ40代の女性、シングルマザーが、がんで亡くなった。彼女は臓器全ての提供を承諾していたため、臨終とされる前から部屋の外では臓器移植の医師団が待機しており、「脳死」と宣言された瞬間になだれ込んできた。とても丁寧な態度ではあったが、彼らの使命は臓器をいち早く摘出すること。死体がフレッシュなほどありがたい。彼女の遺体を、サァーッとベッドごと別室へ移動してしまった。

「高校生の息子さんが2人、そこに残されて何が起こっているのかわからず、見ていて本当にかわいそうでした。これからあの子たちの生涯、おそらく一生ついて回るでしょうね」

最愛の肉親がふっと息を引き取る時、まだ体の温かく柔らかいうちに手を握りしめ、腕をさすってあげたい。最後に、頬ずりをしておでこにキスをして、そして抱きしめて、「ありがとう」と言いたい。ひと晩一緒にいたいけれど無理なら、2時間でも、たとえ20分でも、思いっきり泣かせてください。私たちだけにして……。

そんなことが頭の中に浮かんできた。私の魂はスーッと体を離れて浮かび、天井から子どもたちが泣きわめいているのが想像された。それでいいんだ。私も安らかにこの世を去りたいと思う。

「その判断は正しいかもしれないですね。僕も考えてしまいましたよ」

ひと晩熟考し、弁護士には条件付きで臓器提供はしないことを伝えた。「私の子ども、孫、血縁関係にある者だけに提供する」と。自分でも、なんともいやらしい人間だとも思う。

断捨離

みきこのシリメツ、ハタメーワク

44年のアメリカ生活を畳んで、日本に帰国することが現実的になってきた。「さあ、断捨離!」と、ためておいたもの、知らない間にたまってしまったもの、日常に使っていたものなど、家の中を歩き回れば必ず、「どうしよう?」という物に出くわし頭を悩ます。そのうち、「はて、今私が死んだら、子どもたちは私の遺留品をどうやって処分できるのだろう?」と、父が残したものの処分が20年近く経った今でもいまだ終えていない状態で、考え込んでしまった。

40歳代の頃は、「今まで生きてきた時間と同じくらい生きられる!」と思っていたが、50代ではそうはいかず、60代になると、「今までの半分生きられるか?」。65歳を過ぎると、もう、あと20年がいいところ。そのうち、頭がしっかりして体も動き、自分として生きてる実感があるのは10年……。そんなことを考えると、死んだ後の子どもたちのために片付けをすることに、寂しさ、悲しさが頭を占め、憂鬱になってしまう。そこでタイムカプセルを作ることにした。

父の他界後2年近く経ち、アメリカで散骨をしたため空になった父の骨壺がまだ残っている。どう処分しようか、クッキージャーにしても誰も中身を食べないだろうし、と考えあぐねていた時、「これをタイムカプセルにしよう!」と思い立った。われながらいい案だと思い、せっせと捨てられない子どもたちの幼児期のお絵描きなどを入れ始めた。ふたの上には、「タイムカプセル。ママが死んだら開けてね」と書いたメモを付け……。やっぱり、自分が死ぬことを前提としている。しのびない。「そうだ、『10年後、2030年に開けるように』と書き換えよう!」

10年後の、子どもたちがそれを開けた時の笑顔、もしかして孫がいたらその子らのワイワイ、ガヤガヤなどを想像し楽しくなってきた。「断捨離」は私が死んだ後の子どもたちのことを考えるのでなく、すっきりして、これからの残された私の人生の再出発のため、と発想を変えた今、すんなり進んできた。これからの10年、物だけでなく、必要のないことに惑わされてウダウダ悩むのはやめよう。時間やエネルギーの浪費を避け、「切り捨て御免!」と、大統領選も結果のみに集中した。

「断捨離」とは単に物を捨てるためではなく、今までの執着心との決別を意味するのだと、改めて実感した。