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Author: 天海 幹子

東京都出身。2000年から2005年まで姉妹紙『北米報知』ゼネラル・マネジャー兼編集長。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。2020年11月に日本に帰国。同年、著書『ゼッケン67番のGちゃん』を刊行。

北米報知ジャパンツアー2025祈りの地・沖縄へ〜みんなの広場〜

北米報知ジャパンツアー2025
祈りの地・沖縄へ

北米報知、秋の日本ツアーは大相撲観戦から始まった。参加者29名。ほとんどが日本を何回か訪れている。初めての人は2名。そのため旅程はフレキシブルで、事前に申し出れば、途中からの参加も、旅程をスキップして個人行動をとるのもかまわないツアーだった。

沖縄の伝統的な守り神、シーサー

旅程は大 相 撲の翌日、電 車でJICA横浜(海外日系人協会、海外移住資料館)の見学、横浜中華街を含む市内観光、金継ぎ体験(東京)、新幹線で博多、長崎の後、沖縄観光と沖縄のガラス細工、紅型びんがた 染め体験、と盛りだくさん。JICAから桜木町駅に向かう途中、当時の香淳皇后こうじゅんこうごう の歌碑が目に入った。ここは戦後の日本に向けたアメリカからの支援物資(ララ物資)が届いた港。

「ララの品 つまれたる見て とつ国の あつき心に 涙こぼしや」

この物資は日系人を含むアメリカ人からの温かい援助だった。

ララ物資の碑。赤レンガパークそば、マリン・アンド・ウォーク・ヨコハマ前に建つ

大人数のため参加者を分けて、私は大相撲の代わりに鎌倉行き希望者の引率をした。

鎌倉といえば大仏を見逃すことはできない。江ノ電の電車を降り10分ほど歩くと高徳院(浄土宗)に着き、門の中をのぞくと高さ11.3メートル、台座を含むと13.35メートルの国宝、鎌倉大仏が目に入る。造立が開始されたのは1252年というが作者は不明。目の長さだけで1メートルもあり、うっすら目を開けてやや下を向き加減で座禅を組んでいる姿は、そこにいるだけで心を落ち着かせるパワーがあるようだ。

高徳院の大仏

高徳院から徒歩5分ほどのところに長谷寺がある。長谷観音の名で知られている本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ9.18メートル)の尊像だ。

観音山の裾野から中腹に広がる境内に向かい散策路を上っていくと、鎌倉の海や街並みが一望できる見晴台がある。梅雨の時期には40種以上、約2500株のアジサイが映え、その風情は素晴らしいと聞くが、時機を逃してしまった。

出口の山門の手前には地蔵堂があり、何千もあるかと思われるお地蔵さまや水子地蔵の眺めは圧巻。ご先祖様のご供養のために建てられている。

長谷寺千体地蔵。先祖供養や水子供養のために奉納される

その後、江ノ電に乗り江の島に向かった。駅から江の島大橋を渡り、展望台まで歩いて25分ほど。登り道がつらい人のためには有料のエスカレーターもある。展望台のてっぺんからは晴れていたら富士山が見えるはずなのだが、曇りで残念だった。

新幹線で福岡へ向かったグループを後に私は沖縄へ戻り、4日後に那覇で出迎えた。

翌日、首里城へ。首里城は1429年から1879年まで450年にわたり続いた琉球王国の古城、世界文化遺産である。琉球独自の政治、外交、文化の中心として栄えた。6年前、火災に見舞われ現在も復旧工事中のため、内部の修理の状態は部分的にしか見学できない。2026年に完成を予定している。

首里城へ。ツアー参加者の皆さま

修理中の首里城正殿

首里城へ向かう入り口の守礼門

毎年11月3日(文化の日)を中心に開催される「首里城復興祭」。今年は6年ぶりにほぼ完成の正殿がテレビに映った。余談だが、首里城公園入口の守礼門は、2000年に発行された2千円札に映し出されている。沖縄ではこのお札を日常的に使い、ツアーの参加者も手にしていた。

守礼門が印刷された2000年発行の二千円札

沖縄ワールドではエイサー、三線のショーと食事の後、ひめゆりの塔、平和記念公園へ向かった。沖縄は日本でただ一つの戦場となり、4人に一人が亡くなっている。戦場に出向かなかった女性、子どもたちの隠れていたガマ(鍾乳洞)や、平和のいしじを見て回った。断崖絶壁の海岸に面して設置された平和の広場には、沖縄戦で亡くなった国内外の20万人余りの戦没者の刻銘碑こくめいひが、放射状に円弧の形で広がっている。その中心の「平和の火」は毎年戦争の始まった6月23日に灯もされ、そこから刻銘碑に通じるメイン通路は、中心線が6月23日「慰霊の日」の日の出に合わせて伸びている。

沖縄戦終結とされる「慰霊の日」6月23日に灯される平和の火

沖縄人の中に溶け込んでいる風情の中に、「いちゃりば、ちょうでい」という表現がある。「そこに居合わせば、みな兄弟」という遠い親戚同士のような感覚で、他人ではないのだ。それが平和の礎に外国人の名も含まれている理由だろう。平和を望む気持ちはみな一緒。戦争は二度と繰り返したくないという切実な願いなのだ。

平和の礎。国内外の20万人余りの戦没者の刻銘碑が平和の火に向かい弧を描いて建てられている

平和の広場が設置された断崖絶壁から見た海岸

ひめゆり学徒隊の追悼慰霊碑。平和を祈る場所として多くの人々が訪れる

ガマ。沖縄陸軍病院第三外科が置かれていたほり。学徒隊が多くの犠牲者を出した洞窟。自決した人も多い

最後の観光は、沖縄本島の北方面、古宇利こうりビーチで沖縄の海に触れ、ワルミ大橋を渡り、世界遺産の今帰仁城跡なきじんじょうあとへ。琉球大国が北山、中山、南山に分かれていた14世紀ごろから中国との貿易が盛んだったが、1416年中山に攻められ、1609年には薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上。現在は巨大に積み上げられた石の城壁に囲まれた城跡が残り、県民の精神的拠り所として参拝者が訪れる。沖縄は日本で一番初めに桜が開花するところで、1月中旬には寒緋桜かんひざくらが咲き誇るとのこと。

古宇利ビーチ

今帰仁城跡

次の美ら海水族館は車で約10分と近い。サンゴの大規模飼育で沖縄の海を再現し、ジンベイザメや巨大なマンタ、水深200メートルから700メートルで生きる深海の生き物の生態も観測できる水族館だ。イルカのショーなど、館内外のプログラムも多く2時間ほどでは見尽くせない。

今回のツアーは盛りだくさんで、特に沖縄ではそれぞれにもう少しゆったりした時間があれば、みんなもっと満喫できたのでは? と反省している。初めての沖縄で見るものが多く、せっかく来たのだからと詰め込んでしまった感があった。2度目からはオプションで興味あるものに集中する、という手もありかな? と思う。

天海幹子/沖縄

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300レストラン〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第50回 300レストラン

シアトルに住んでいた頃、子どもたちが集まった日曜のブランチでいく店は、大抵「300(スリーハンドレッド)」だった。イージーオーバーかサニーサイドアップの目玉焼きをご飯の上にのせ、ソーセージかハム、またはベーコンをサイドに、卵の黄身がたらりと流れてきたあたりでお醤油をかけて食べるのだ。考えただけでもツバキがゴクリ! 

でも、それがなんで「300」? 

1976年に渡米し、初めてアメリカでおいしいと思った料理がこれだった。場所は サウス・ジャクソン・ストリートにあった「300レストラン」。300とは、シアトルの住所はイエスラー・ウェイから南へブロックごとに番地が100ずつ増えていく。ジャクソン・ストリートは300番台なのだ。 

オーナーは日系のテリー・ナカノさん。お母様の鶴子さんは当時2館あった日本映画上映館の一つ、東洋シネマを経営していた。夜のレニア街は危ないから行くなと言われていたが、なんのその。私は友だちと月1回は寅さんを観に行っていた。 

鶴子さんは細身で背も高く、とても上品な方だったけれど、どういうわけか、暴力団の親分の連れ、などといううわさも立っていた。当時の日系移民の世界はとても狭く、変なうわさも、ひいき目のうわさも飛び交っていたと思う。当時は、アジア人女性はストレートな長い黒髪が神秘的な憧れを彷彿ほうふつとさせるという、アメリカ人にとってのステレオタイプがまかり通っていた。それをくつがえそうと努力したのが、日系クイーン委員会の会長だったテリーさんなのだ。 

毎年コンテストで日系クイーンを決める。合気道でも日本舞踊でも、何か特技を披露し、スピーチをする。ナヨナヨした日本女性の殻を破らせ、いっぱしのアメリカ人としての人間性を自他共に認めさせるという目的があったのだろう。選抜された日系クイーンたちは、ほとんどがシアトル市の肩書きある公務員になった。ちゃんと意見を論理的に主張でき、マネージメント力も、人を引っ張っていく能力も培った。 

そんなテリーさんのレストランの奥でソーセージをひっくり返して調理していたおじさんがいた。

ちょっと怖い顔をして、無口で、ただただ焼き物をしている。聞いたところ、戦艦ヤマトの生き残りの1人という。が、その話を本人が語ることはなかった。戦争から生還するということは屈辱に等しく、神風で散る、捕虜になる前に自決するというのが美徳とされていたからだ。何年か経って、川部メモリアル・ハウスに入ってから、電話でインタビューができるか聞いたことがあるが、答えはノー。  

今年は終戦後80年になる。毎年8月になると、あのおじさんのことを考えてしまう。何も考えずに「300レストラン」で仕事をしてた頃が、幸せだったんだろうな、と。

アメリカ国歌:星条旗〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第49回 アメリカ国歌:星条旗

私はアメリカの国歌が好きだ。領地争いの戦場で兵士が立てた国旗、白み始めた空にたなびいている星条旗を、間近で命を落とした戦友(の魂)と共に、遠くから眺める勇敢な兵士たちの安堵感、やり遂げたという誇り。以前、姉妹紙・北米報知のコラム「静かな戦士たち」で、収容所から志願してヨーロッパの戦場に向かい、全米で最高の勇士に捧げられるパープル・ハーツを受賞した日系米兵「イエス・イエス・マン」とのインタビューを通して彼らの心情を書いた。アメリカ人としての、自由と勇気の象徴が感じられる歌だ。アメリカの国の勝利をうたっているのではない。 

先日、フットボールの全米1位を決めるスーパーボウルをテレビで観戦した。スポーツの試合ではゲーム開始前に必ず全員起立で国歌斉唱が行われる。私が属していた黒人のクワイア(合唱団)もいろいろなスポーツゲームに呼ばれ、国歌を歌った。イチローが始球式をした2022年のマリナーズのゲーム、シーホークスのフットボール、バスケットボール、アマチュアキックボクシングなどなど。 

昨日のゲーム開始の前に歌手が歌いだして、フーっと昔のことを思い出してしまった。あれは、ワシントン大学の女子バスケットボールの国歌斉唱に行ったとき。試合が始まり、出番は終わったので帰ろうと駐車場へ行ってみると、私の車がない! すぐそばでレッカー車が私の車を載せて、発車しようとしている。慌てて何が起こっているのか聞いてみる。

「ちゃんと駐車代、払いましたよ」

「ゲームのある日は違ったやり方で支払うんだよ。だからレッカーする指示が出た」

「そんなこと、どこに書いてあるんですか?」

指さした先は暗くて、何も見えない。

「今、国歌斉唱をしてきたんです。私たちが歌わなかったら、ゲームは始まらないんですよ。別にゲームが見たくて来たわけじゃないのに」

「そうなのか……」

と車を下ろしてくれることになった。

歌ってくれたら見逃してやる、ということで、その広い駐車場で一曲歌うことになってしまった。さて、何の曲? もちろん、今歌ってきた国歌だ。思いっきり、

「O say can you see, by the dawn’s early light, What so proudly……」

「オッケー、オッケー、もういいよ」

みんなに見られて恥ずかしそうだ。そんなわけで、180ドルは払わなくてもいい、ということに。

星条旗のパワーだね。

YOUR SONG〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第48回 YOUR SONG

ラジオからエルトン・ジョンの「ユア・ソング」が聞こえてきた。懐かしい。この曲は私がアメリカに来るきっかけになった前夫と知り合った頃、彼から送られたLPに入っていた。1972年ごろのことか? 

ヒッピー時代の終わりころ、私たちは6年間の遠距離恋愛を続け、やっとシアトルで一緒になった。結婚したかと思ったら、「やっぱり英語をちゃんと話せる人がいい」と言い出した彼。図書館員の資格を持つ彼は、読んだ本の読後感を語れる相手と一緒にいたいとさりげなく離婚を提案。こっちは日本でいい仕事を辞めて、盛大なさよならパーティーをしてきたというのに。「こんな奴と今後50年も一緒にいるより、もっといい人を探そう!」と承諾。1年半の結婚生活にピリオドを打った。 

ヒッピー時代の人間は、トラブルより好きなことをして、他人にも好きなことをさせるのが「平和」と考える。相手を尊重しているように見えて、実は責任逃れなのだけれど、若い時は分からない。フラワー・チャイルドの時代「Make Love, Not War」。どうせベトナム戦争に行かされて死ぬんだから、思い付きで好きなことをやるのさ、って時代。でもみんなわりと穏やかだったなぁ。前夫は私がフランスにいた時、誕生日に50本くらいの赤いバラの花束を送ってくれたりして。でも花はいつかは枯れるものさ。 

その、「ユア・ソング」は日本語では「僕の歌は君の歌」と訳されている。うまく言えない若者の気持ち、「シンプルだけど、言葉にして書いちゃったけど、いいかな? 君がいる限り、この世界は素晴らしい」って、そんな歌だ。 

三くだり半をもらった彼のことを思い出すのが嫌だ、と50年近くも聞いていなかったが、ラジオからの音色に、不思議と彼の嫌なことも良かったことも思い出さなかった。自分が若かったころ、何が好きだったか、どんなふうに生きていたか、着ていた洋服や靴まで思い出したのだ。あの頃流行っていたお店、レストランなどなど。 

送られた曲は「僕の歌は君の歌」。私の勝手な解釈でもオッケー! ってことね。

沖縄B&G海洋センター〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第47回 沖縄B&G海洋センター

B&G海洋センターって、なんだろう? と思って行ってみたら公共プールだった。入場料、高齢者160円。中にはジャクージもある。 

広い芝生の入り口前にはシーサーの守り神がいる。「B&G」とはブルーシーとグリーンランドの略だそうだ。公益財団法人B&G財団は、モーターボート競走の収益金を活用して設立された財団で、海洋スポーツを通じて青少年の豊かな人間形成と体力を育むことを目指して、1973年に全国480カ所の施設を建設した。創立者はもちろん笹川良一氏。2015年3月時点の基本財産は73億円。市町村との連携も図っている。なんかとてつもない感じがするけれど、中はとても親切な従業員がいて、更衣室やトイレなど行き届いている。 

シャワーをくぐると幼児用の浅いプール、その奥にジャクージ。そして25メートルプールは小学生用に浅くなった広いレーンと泳げる子用のレーン、大人用も歩くレーンと泳ぐレーンとゆったりしている。お昼近くに行くと空いていて、1レーンを独り占めにできることが多い。その時間帯はお年寄りが多く、ジャクージでユンタク(沖縄語でゆったりだべっているという感じ)している。同じ年齢層かと思う人たちに交じると、実は私より10歳以上年上! だったりするのには驚かされる。 

そこでは水着も売っている。最近の水着はセパレート型で、上はノースリーブか半袖、下はももの半分ほどまでのショーツ。最後にプールで泳いだのはシアトルのコミュニティー・センター。7、8年前だったろう。そんな形の水着なんぞ見たことがなかったが、こちらでは皆それを着ている。私のはそれほど派手ではなく、胸も開いていない普通の水着。売っているのは窮屈そうだし、しっかり泳げるのか心配で、買う事は考えてもいなかった。 

現在股関節の治療も兼ねて、8往復ほど泳いでジャクージ、という夢のような生活をしているのである。平泳ぎに飽きるとノシ泳ぎ。海でイカになったような気持ちで(最近は横泳ぎと言うらしい)。背泳ぎも両手は腰のあたりの水を掻くだけ。もしかして、クリオネ? なんて優雅な姿を思い浮かべながら。 

ジャクージと温水プールを出たり入ったりしていると、学校の授業で来ている子どもたちともすれ違う。更衣室でも一緒になることも多く、先週ふと気が付いた。子どもたちがじっと私を見つめるのは、私の水着が異様に映るからなんだろう。考えたらこれまで半年以上通っているが、オールドファッションな水着を着ている人には出会ったことがない。最近の子は、ももの上までさらけ出し細い肩ひもの水着を着た人なんて、見たことないんだろうな。学校に帰るバスの中でうわさしているのかも。「あのおばあちゃんの水着、下着みたいだねー」なんて。そろそろ新しいのに買い替える時期かな?

NAPジャパンツアーと共に、四国、宇和島へ〜みんなの広場

NAPジャパンツアーと共に、四国、宇和島へ

コロナウィルスからようやく解放! と感じた2023年春、北米報知社(NAP)が企画している日本旅行が再開した。今年10月のツアーは四国への旅、ということで、私も沖縄から3日間だけ合流した。20人ほどの参加者はほとんどが中高年層の日系人で、すぐ輪に溶け込んでしまった。

ツアーはシアトルを出発し羽田に到着後、約2週間かけて、羽田、高知、松山を巡る。私はその中盤の松山から宇和島をバスで一緒に回った。

愛媛県の名産はミカン、真鯛、カツオなど、おいしいものがいっぱい。道の駅を何カ所か回り、夕飯には鯛めしやカツオの刺身などを堪能。ツアーでは天神産紙工場で和紙の紙すき体験、四万十しまんと川遊覧、土居真珠工場、宇和島城など、ひとり旅では経験できないことを満喫した。

紙すき体験に集中するトミオさん

四万十川の屋形船では現地で捕れたアユの塩焼きが出され、アユの餌は何かという質問から、台風の被害の話へと広がった。アユは川底に生える苔を食べて生きている。四万十川は川底がなだらかで、風のない時はまるで池のように穏やかだ。そこに生える苔は泥がたまって埋もれてしまうことが多く、川底を混ぜ返してくれる台風が年1回くらいは必要とのこと。ところがここ数年、年数回の台風に襲われ、2005年9月の台風14号では水位がおよそ10メートルも上がり、359戸に被害が及んだ(土木学会年次学術講演会講演概要集Vol.61-2)。そんな話はまるでうそのように、池の水面と同じように穏やかな日差しの中で、アユの塩焼きを食べながらゆっくり下る遊覧船は、久々の癒やしを与えてくれた。

四万十川の屋形船から。晴天に恵まれ
四万十川の遊覧終了!

その後2時間ほどバスに乗り、こじんまりとした夕暮れ間近い宇和島城を散策し、ホテルへ。

和島城。夜はライトアップが美しい
直美さんとトミオさん

宇和島市外れの海岸沿いにある土居真珠工場 (www.doi-pearl.co.jp) では、3代目社長、土居一徳かずのりさんと加工販売部の清家直美さんが出迎えてくれた。直美さんは、1940年後半から活躍したシアトル初めての日系女性産婦人科医、ルビー・イノウエ先生の従妹の娘さんだ。故イノウエ先生はシアトルの宇和島屋創始者、森口富士松氏と同じ宇和島市の出身、北米報知社発行人で前宇和島屋CEO、トミオ・モリグチさんとは敬老ホーム関係でも親しかった。私自身、かつてシアトルに住んでいた頃お世話になった、当時まれなる女医。

土居真珠は、1957年に1代目延徳のぶのりさんがアコヤ貝の稚貝の採苗さいびょうを始め、真珠養殖業へと移行した。その後、加工販売部、真珠養殖体験ツアーの開始など、60年余り浮き沈みを繰り返しながら続けてきたそうだ。

真珠の養殖場

近海ではハマチの養殖が盛んで、養殖のために使われる餌の食べ残しが真珠養殖に必要な海を汚し、両立は困難とのこと。また、真珠の人気は流行に左右され(ミニスカートには似合わないらしい)、当時の海外向けの販売はアメリカを経由することが多く、国内外の景気、経済状況に左右される不安定な状況の中にあった。

養殖がダメなら加工して販売すればいい、という考えの2代目秀徳ひでのりさんは、真珠加工の免許を取り真珠加工販売部門を立ち上げた。しかし90年代は、漁場の荒廃やアコヤ貝の大量「異常へい死」勃発など、自然との闘いや過剰生産などに加え、バブル崩壊、世界的不況という外部要因との闘いの時代でもあった。

3代目一徳さんは、宇和島を訪れた観光客に養殖場を案内する真珠養殖体験ツアーを始める。そのほか、パールパウダーを使った化粧品作り、「パールエステ」の開発など、新しいことに挑戦している。パールパウダーの成分は美容、健康に良いとされ、現在化粧品、食品などの材料に使用されている。愛媛県資源循環優良リサイクル製品にも指定された。  

 3代目社長、一徳さん。触っているのが日本のアコヤ貝。中央はオーストラリア産、一番手前がベトナム産

アコヤ貝

一徳さんは、真珠に関する全ての物から可能性を掘り起こすことで、業界の活性化を目指している。祖父から受け継いだ、伝統真珠への熱い思いは世界一、と自負する。

私たちが見学したのは、核となる5ミリ強のドブ貝の貝殻を削って丸くした球(核)が、アコヤ貝の中で真珠としてコーティングされるように仕込む工程だ。帆立貝のような形をしたアコヤ貝は牡蠣の種類で、その貝柱は食用にもなる。貝殻の内側はアワビの貝の内側のように光り、美しい。貝のヒモの辺り3ミリほどの部分と、核となる球を生きている別のアコヤ貝に入れ込み、それが1、2年ほどで球をカバーしながら成長すると真珠になる。60パーセントくらいしか産出できないという。

核になる球をアコヤ貝に入れる様子

収穫した真珠の大きさ、満遍なくコーティングされているかなど、品質管理と加工がされ、やっと製品の値段が付く。大きい貝には大きい球を入れるが、大きすぎると貝にとってストレスになり、美しくコーティングされないとのこと。大きければ良い、という問題ではないのだ。

土居真珠の桟橋

一人旅では味わえなかった体験、見学を終えてホテルに着き、翌朝、皆に別れを告げた。久しぶりの英会話、参加者たちからは遠い親戚や家族のように温かく迎えられ、とても充実した3日間であった。

宇和島市長、岡原文彰さんがお見送り

NAPジャパンツアーは来年、北海道か沖縄旅行を企画している。

(天海幹子/沖縄)

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沖縄の歯医者さん〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第46回 沖縄の歯医者さん

東京から来ると沖縄の人は優しい。特に高齢者を大事にしている感じがする。バスを待っていたら、前に並んでいた若い男性が「どうぞ」と先に乗せてくれたり、礼儀も正しく、中学生でもちゃんと挨拶ができる。おじい、おばあと一緒に暮らしているからか。 

沖縄の公共施設はおもしろい。今帰仁なきじん博物館のトイレ3つのうち2つが和式。高齢者無料の公共バスは、覚えやすいようにか「右回り」「左回り」と呼ぶ。 

孫を連れてスーパーに行くと、買い物に来ているおばあが寄ってきて、あやし始める。まるで自分の孫のように。そのおばあの笑顔に逆に癒されてしまう。他人の子でも、遠い親戚、いや家族のように感じるのであろうか? 

何億年もの地球の歴史の中で、この今という時間と場所を共有しているという奇跡。アメリカやアイヌの先住民族、そしてこの琉球民族にも共通している「太陽、空気、雨、植物、大地、海などの自然はみんなのものである」という感覚。1万年以上続いた縄文時代には、人間が「所有する」という考えはなかった。その子孫の沖縄の人には余裕があって、だから、のんびり過ごしているように見えるのか…。 

そんなことを考えながら、歯科医の椅子に寝かされ歯周病予防の治療を待っていると、隣の高齢らしい患者に話しかけている歯科医の声が聞こえてきた。

「今までと生活を変えなきゃならんどー。自分の体、歯なんだからさ。ちゃんと磨いて、きれいにしておかんとね」 

隣のおばあは黙って聞いているようだ。 

「総入れ歯にするか、インプラントにするかは、よぅく考えて決めんとね。インプラントはお金と時間がかかるし、総入れ歯は保険がきくから、お金の心配はしなくていいさ。でも入れ歯を作ったところで、ちゃんと毎日はめてないといけないんだよ。はめてないと口に合わなくなるでしょ。あと4本しかない自分の歯を抜いて作るんだから、もったいないさぁ」 

歯科医は50歳代の男性。インプラントにしてこれから先あと何年使えるか。少々お金を使っても20~30年使えるなら良しとするが、後10年生きられるか、その間硬いものをかんで食べる生活をしているのか。 

では、総入れ歯? 最後の4本を全部抜いてしまって作るのか。これまで70年強、一緒に生き抜いてきた健康な4本の歯だ。最後まで生かしてあげたい。私には即答はできないと思った。これからはしっかり歯を磨いて、大事にしてあげないと。 

はい、ちょっと口開けてみましょうね」 

私の番が来た。

沖縄の味 ー ハイケイ〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第45回 沖縄の味 ー ハイケイ

娘婿が沖縄の農家でアルバイトをしている。ヤギの世話をしたり、時々新鮮な卵を持って帰ってくる。プリプリの生卵かけご飯を絶賛しているが、最近は持ってこない。なぜだか聞いてみると、雌鶏は2年くらい卵を産むとおしまいだそうだ。 

「で、どうするの?」 

と、娘がびっくりして聞くと、 

食べるのさ」 

と言う。子育て真っ最中の娘には言葉が出ない。 

「それが運命なんだよ」 

などと会話している。そのまま生かしておくより、おいしく食べてあげた方が幸せなのかな? と考えていると、40年も前の借家の大家さんを思い出した。 

ポートエンジェルスから8マイルほど西の雑木林の中のトレーラーハウス。同じ敷地に自作の池付きの家があり、犬2匹のほか鶏10羽ヤギ3匹ガチョウ1群れと暮らす40代ドイツ人のオバサンだ。小さな果樹園もある。 

家畜には名前が付けられ、ペットのように大切に育てている。黒茶色のヤギのアメリアは呼ぶと駆けて来るし、乳を絞って作ったヨーグルトに、庭のラズベリーを混ぜて時々持って来てくれた。ガチョウの大将、ジョージは私にほれ込んでいるようで、ジーンズの裾や靴ひもをカミカミして寄り添い、夫が来るとすごい勢いで、グワッ、グワッと、かみつきそうに追い払っていた。 

ある晩、ゴミを外に出しに行った夫の叫び声で外に出ると、アメリアの頭がゴミ捨て場にある。慌てて大家さんに連絡すると、以前は埋めていたんだが、どうせコヨーテに持って行かれるのだからそのまま置いた、と言う。家畜は時期が来たら食べ物になる、と言うのが宿命で、それまではペットのように大事に育てるが、これは食物連鎖なのだそうだ。 秋になった。私の「恋人」ジョージが見当たらないので聞いてみると、 

「ああ、彼は夕べの食卓に乗ったわ」 

そうか、感謝祭だったのだ。

所は変わり、沖縄の桜祭り。屋台で沖縄料理がいろいろ食べられる、とウキウキして物色していると、「ハイケイ」が目に留まった。チキンだと言う。 

「ハーイ、生まれて初めてのハイケイ! おいしいよ」 

大声と拍手ではやし立てられて、食べてみるとコリコリして、砂肝のように一寸硬めのチキン。味は沖縄風で、塩、しょうゆ系でいい味している。ビールに合うだろうなぁと微笑みながら食べて、ふと思った。もしかして、「ハイケイ」は、「廃鶏」? 卵を産まなくなった雌鶏なのか。おいしく食べてるから、成仏してね。

アンポ・ハンタイ〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第44回  アンポ・ハンタイ

6月16日、沖縄県議会議員選挙が行われた。名護市から3名立候補し、2名が選出された。1人は自民党、残る2人は無所属。その中の1人はワクチン接種反対者で、そのことしか掲げていない。当然票数は少なかった。 

彼は初めから当選するつもりではなく、社会の動向、ただワクチンが必要という政府の言いなりになっている市民に対し、「ちゃんと考えようよ」という態度を示していたのではないか。 

政府は2兆円超を投じワクチンを買いあさったが、消費期限を過ぎて破棄した自治体も多い。自治体に配布以前は製薬会社が保管し、約6000万回分、全体の6%に相当するワクチンが配布前に廃棄されていた(読売新聞オンライン)。ワクチン後遺症患者の話も副作用もメディアにはほとんど出てこなかった。 

自民党と無所属立候補者の政策の根本的な違いは、米軍基地の普天間から名護市辺野古へのこへの移設問題だ。自民党内閣がアメリカ政府と合意したため、今年1月からすでに工事を始めている。だが、玉城県知事は移転に反対で最高裁に上告した。理由は予定地のサンゴ礁の移動と軟弱地盤のための埋め立て。サンゴ礁を移動してしまうとサンゴの生息が危ない。埋め立ての土は糸満いとまん市から運ぶという。日本で唯一の戦場となった場所、ひめゆりの塔のある糸満市。県民の4人に1人が亡くなり、まだ発掘されていない戦死者の遺骨が埋まっている。それに加えて、地元小学校の上空を飛ぶ戦闘機まがいの米軍機の爆音に、子どもたちがおびえてしまう。誰もが安心して安全に学問を受ける権利があるのではないか? 子どもたちは沖縄の未来、日本の将来だと私は思う。 

内閣が合意したのは、日本を守るために基地の建設が必要、ということか。沖縄全島を合わせてもほんの少し東京都より大きいこの県に、米軍基地総面積の70%が集まっているのは、日本を守るためではなく北朝鮮、中国の動向を見張るアメリカ側のメリットだろう。台湾も東京より近い。 

この絶好の土地を得るために、米軍は一般庶民の私有地を賃貸したく、だが、大田昌秀前県知事はそれを拒否した土地所有者を代表し署名しなかったため国が代行し、基地の一部になってしまった。「国を守る」という目的なら、県よりも国が優先されるのか。今回の辺野古への基地移設も玉城デニー知事が署名を拒否したため国が代行してしまった。玉城知事はその見直し、きちんと話し合いがあるべきだったと最高裁に上告したが、却下された。 

1960年に改定された日米安全保障条約。改正の動きはないものか? 戦後およそ80年を経過した今、日本は敗戦国、植民地ではないはず。小学校低学年の頃、日本橋で安保反対デモ隊が近所を回っていた。大人たちが危ないから外に出るなと言う中、子どもたちは「アンポ・ハンターイ!」とふざけて家の中ではしゃぎまくっていた。  

「アンポって何? アンコの入ったボタ餅のこと」と本気で思っていた私。


参考文献

▪️第1パラグラフ: 読売新聞オンライン 
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20230330-OYT1T50061/ 

▪️第3パラグラフ:玉城県知事は移転に反対で最高裁に上告 
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240301/k10014376581000.html 

油虫〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第43回  油虫

沖縄県名護市に引っ越して半年ほどになる。気候がよいし、アメリカに45年住んだ身にとって、日本人は優しい。特に高齢者に対してゆっくり説明してくれ、バカにされないのである。そのうえ、沖縄では懐かしの「昭和」を感じるのだ。最近の若い人は、特に東京などではアメリカナイズしていて個人主義である。沖縄はまだ、おじい、おばあの影響が濃いのかもしれない。道ですれ違う人はちょっと会釈をする。先週はアパートの階段で、制服を着た知らない中学生男子に挨拶をされた。 

私が育った昭和20年代後半から30年代の東京の下町では、ちょっと悪さをすると近所のおばさんが出てきて怒られる。少しひどいとおじさんが出てきて、ゲンコツを食らう。町中で子どもたちを育ててくれていた。人間に温かさがあり、他人を見てくれる余裕なんだろうな。 

沖縄での「昭和感」はちょっと違っている。街路樹の根元は雑草ぼうぼうだが、アメリカや東京のように、除草剤や毒をまいたりしていない。土から生まれ出て来た自然のものを、そんなに簡単に人間が制覇してしまっていいのだろうか? もっと自然を大切に、敬意を払っている感じがするのである。 

建物は少し古いところもあり、懐かしい。シャッターはサビてはいるが、グラフィティは見当たらない。横道に入っても小さな魚屋さんや、居酒屋、食堂があって、ちょっと話し込んだりしてしまう。

 先日はお風呂の排水溝のチェックに来たおじさんに、
「こないだ油虫が出たんですよ。こんな大きな、羽が光ってて」と、2インチほどに指を広げてみた。
「ああ、油虫ね」とわかってくれたのだ! 最近はゴキブリと言う。 

ゴキブリには特別な憎しみの情があって「油虫」なのだ。3歳ごろおたふく風邪でおやつを食べていた時、いきなり飛んできた油虫が私の頬にとまったのだ。その場にいた皆が大騒ぎして退治してくれた。小さかったからあまり覚えてはいないが、成長して引っ越した家で朝シャンをしている時に、天井から何かが落ちてきて、私の鼻先にとまろうともがいたのだ。髪の毛を洗っていたため見えなかったから手でつかみ、何よ! と投げて床を見た時の驚き、恐怖、腹立ちは今でもよみがえってくる。1.5インチ強の大きな油虫。足には毛が生えているではないか。つぶすのは気持ち悪いので、お湯とシャンプーで窒息死させてしまった。 

「昭和感」、良いことも悪いことも含めて歳を感じる。

母の日〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第42回  母の日

5月の第二日曜日は母の日である。私は6歳で母が他界してしまったので、あまりいい思い出がなかった。 

日本の母の日は、自分のおかあさんに「いつも面倒を見てくれて、ありがとう!」というメッセージをカードか、赤いカーネーションをあげて「無事、母の日修了」という事になる。アメリカでは、自分の母だけでなく、一般のおかあさんに「ハッピー・マザースデイ!」ということで、教会でも赤いバラの花を一輪もらったこともあるし、子連れで外出して知らない人からも「ハッピー・マザースデイ!」と言われた。 

私の通っていた日本の小学校では、母の日にクラスで赤いカーネーションをもらい、翌年は母がいなかったので、私だけ白いカーネーションになった。校門まで歩く間他の生徒に見られ、その後電車で乗り換えながら家に持って帰った。周りからなんとなく見られている感じがして、翌年からはそれが嫌で、校門を出る前に大きなゴミ箱の辺りで、踏みつけてめちゃめちゃにしたのを覚えている。カーネーションは、花びらがまとまっている額の所が異常に硬くしっかりしていて、7歳の子どもには簡単に崩すことができない。制服の革靴のかかとで、蹴って、擦って、つぶして、、、と試したがなかなか壊れない。だからカーネーションをくれるんだ、などと年々思えるようになったわけだ。ある年、それがいきなりなくなった。多分、先生か掃除のおばさんにあの行動を見られていたのかもしれない。 

私の子どもたちが通っていたアメリカの小学校では、クーポン券を手描きで作り、母親にカードと一緒に渡すのが流行っていた。長男は、マッサージの券。肩もみをしてくれる。10枚くらい束になっていて、一回に1分間とか。私も小さいころ、祖父の肩たたきをして1セッション10円もらっていたなぁ。断捨離をしていたら長女のクーポンが出てきた。朝ご飯を作ってくれるとのこと。果たして実際使ったかは覚えていないが、私の気持ちを書き留めたものがあった。 

「朝ごはん むすめが作るこんだては 苺の味と 母の日の色」あれ以来、私は母の日に「私に命を、ありがとう!」と仏壇の亡き母の写真に微笑んでいる。 

カトリックの小学校で信者でない私に白いカーネーションをくれたのは、もしかして、仏壇に飾れるように、と言う配慮だったのかもしれない、などと最近思う

落とし物〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第41回 落とし物

娘がカリフォルニアから、友だちを連れて7人で日本旅行に来た。昨日は新宿御苑をぶらぶらしたらしい。今朝の電話で、友だちが財布を落としてしまったので、御苑の拾得物係に電話してほしいとのこと。 

夕べは交番に届け出たが、夕方5時を過ぎていたので御苑には連絡できなかった。カリフォルニアの免許証、JRパス、デビットカード2枚で、現金は入っていない。赤い革製の小さなお財布だ。新宿御苑と言っても、広い。落としたのは「母と子の森」の辺りか、スターバックスの付近。 

早速、御苑のインフォメーションセンターに電話した。調べて折り返し連絡してくれるとのこと。スターバックスの新宿御苑店では、電話に出た女店員が、「少しお待ちいただけますか? ちょっとその辺りを見てきます」と、有無を言わさず探しに行ってくれたのだ。日本のサービスはすごい! と感激したが、見つからず。 

その後20分くらいして、御苑のインフォメーションセンターから見つかったとの連絡が。早い! アメリカだったらその日のうちに電話があればいいほうだ。 翌日、広島、岡山に行く予定の娘たちは、JRパスを落とした友だちとどうしようか思案中だったところ。 

われわれが育った時代は、失くした人が困っていたらかわいそうだから、一刻も早く返してあげようと、交番に届けた。現金を届けると、昭和のお巡りさんは10円くれたこともある。長女も20年ほど前、目蒲線(現在の目黒線)の西小山駅のベンチに2,000円ほど入った財布を忘れ、戻った時、そこにそのままあったことを思い出した。アメリカなら、空の財布をゴミ箱に見つけるくらいだろう。最近は、日本でもそれが日常になりつつあるのかと、危惧していた。日本人の、他人の気持ちを考えられる精神がまだ存在しているんだと、財布が見つかったことよりも、そっちがうれしかったのだ(娘の友だちよ、ごめん!)。 

新宿御苑はもちろんのこと、日本のスタバも捨てたもんじゃない!

おひなさま〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第40回 おひなさま

「おだいりさーまとおひなさま、ふーたりそろって、えびす顔。じゃなくって、なんだっけ?」

初孫の初節句。娘は来週、東京に来るので、沖縄に送らなくても家に飾っておいてあげたい、と思ってひな人形を探している。私が子どもの頃、日本橋の家にあったのはお内裏さまとおひなさまの一対で、決して豪華でなかったが、それなりにふっくらした顔立ちのかわいいセットだった。 

私は次女なので自分のものだとは思っていなかった。まあ娘たち3人、皆それぞれの結婚をして早めに家を出て行ってくれ、というのだかは不明だが、桃の節句はそんな意味が込められているのだろう。おひなさまの横に鮮やかな菜の花と桃の花の小枝が飾られ、思い出すと温かな、優しい気持ちになる。確か母が亡くなる前の年、幼稚園の年長組だったと思う。 

長女が生まれた時は初節句には間に合わなかったが、帰国した際、乃木坂付近の神社の蚤の市でおひなさまを買った覚えがある。お内裏さまが満載の大きな箱と、おひなさまがいっぱいの別の箱。なんだこれ、離婚びな? などと思いながら、好みのおひなさまに合いそうなお内裏さまを見つけた。そうか、これは再婚びななんだ! 私は「お仲人さん」である。 

満足した一対を買い上げ、シアトルに戻ってから娘たちが他州の大学へ通うまで、毎年飾っていた。そのおひなさまは今、倉庫に大事にしまってある。2年前に帰国した時は、娘に女の子が生まれるなどとは考えてもいなかったため、置いてきてしまった。 

今回は離婚びな、再婚びなはやめた。娘たちがたまに夫婦げんかをしているのを見て、あれは、やはりまずかったのかな? と思い始めているからだ。とはいえ、夫婦げんかは犬も食わぬとはよく言ったもので、翌日はけろっとしている。で、また始まるのだ。 

そんな折、急にハワイに引っ越す従兄妹が、2対あるとのことで翌日届けてくれた。早速飾ってみる。お内裏さまはどっち側だっけ? 昔は向かって右だったが、最近は左が多い。調べてみると、この習慣が始まった平安時代は男性が刀を左側に収めるので、おひなさまの左。おひなさまの右に座ると、誰かが攻めてきた時におひなさまを切ってしまうではないか。戦後は西洋式の、権力を持つ順に右から並ぶので、男性は向かって左になる。「右にならえ!」なのだ。まあ、いろいろ説はあるのだが。敗戦の影響がこんなところにまで及んでいたのか。おひなさまの並び方まで変えなくたっていいのにね。と言っても、まねをしたのは日本人である。 

孫には、疑問のある時にはきちんと問いただせる人間になってほしい。とすると、婚期を逃して、どんなおひなさまを飾っても思い通りにはならんだろうなぁ。 

とんだジンクスである。

赤い靴はいてた「きみちゃん」〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 39回 赤い靴はいてた「きみちゃん」

赤い靴はいてた女の子 いぃじいさんに連ぅれられて、行っちゃったぁ 横浜の埠はとば頭から 船に乗ぉってぇ、いぃ人さんに連ぅれられて、行っちゃったぁ 

麻布十番の広場、パティオ十番を歩いていたら、この歌のモデル「きみちゃん」の銅像に出くわした。昭和世代の人なら聞いたことがあると思う、あの歌だ。 

子どもの頃は「いい爺さん」だと思っていた。小学校に入る頃は、もしかして「ひい爺さん」かな?とも考え、そして高学年か中学生になると「異人さん」だとわかる。「いい爺さんに誘拐されちゃったの?」と思った頃から、外国人の「いい爺さんに養女にもらわれて行っちゃったんだ」と理解はしたが、何とも寂しい音色の歌だ。 

実はきみちゃんは、外国へは行かなかった。当時不治の病だった結核を患い、9歳で亡くなってしまったのだ。 

母の名は岩崎かよ。未婚の母であるため風当たりが強く、北海道への開拓団として3歳のきみちゃんも連れて函館へ行く。そこで知り合った鈴木志郎と入籍したが、幼い子どもを連れての開拓は厳しく、やむを得ずアメリカ人の宣教師、チャールズ・ヒュエット夫妻に養女として託す。 

その2年後、入植はうまく行かず、かよと志郎は、ふたりの間に生まれた「そのちゃん」を連れて札幌に移る。志郎は新聞社に仕事を見つけ、同僚の野口雨情と共同生活を送るほど、両家族は親しくなった。そんな時、雨情はかよの残してきたきみちゃんへの思いを聞くにつれ詩をつづり、本居長世が曲をつけ、「赤い靴」の童謡が出来上がった。なるほど、寂しい歌なんだ。 

かよは、きみちゃんを思い続け、だが娘の死を知らないまま「きみちゃん、ごめんね」と言いながら昭和23年、64歳でこの世を去った。 

この話が明らかになったのは、異父姉妹の岡そのによる「赤い靴の女の子は、会ったこともない私の姉です」という投稿記事が昭和48年11月の夕刊に載り、当時、北海道テレビ記者だった菊池 寛が、5年もの年月をかけて調べ抜いた結果だそう。

「赤い靴はいてた女の子」は実在していたのだ! 帰任が決まったヒュエット牧師は、結核のきみちゃんのアメリカへの長い船旅を懸念し、現在の十番稲荷神社の場所にあった鳥居坂教会の孤児院に託した。そこできみちゃんは、3年間も闘病生活を強いられ、明治44年9月に亡くなっていた。 

パティオ十番のきみちゃんの銅像(作:佐々木至)は、心を打たれた十番商店街の人たちによって平成元年に建てられた。お墓は青山霊園に、お父さんの姓で「佐野きみ」と刻まれている。

きみちゃん、お父さんもわかって、良かったね。


▲ 麻布十番商店街の一角に建てられた、赤い靴の女の子・きみちゃん像

露天風呂〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 38回 露天風呂

久しぶりに日本から友だち2人を連れてシアトルに帰ってきた。家を少しあけておいたので、いろいろ片付けて、さて、お目当ては庭に設置したジャクジーである。中学校からの旧友たちと露天の風呂に入り、くだらないことをペラペラしゃべって時を過ごすはずであった。 

タブの掃除をして水を入れ替えたが、電源が入らない。何度試しても、ウンともスンとも言わなくなってしまった。しようがない、タブ関係の電気屋に電話して来てもらうことになったが、10日後の予約。せっかく掃除を手伝ってくれた友だちは風呂に入れずに帰ってしまった。 

「庭にジャクジーなんて、すごい金持ちだね」
なんて言われてしまったのだが、実を言うと、これは10年前の交通事故の加害者からの還付金で、コストコから安く買ったものなのだ。弁護士を立てたら請求した額の3分の1を彼が取り、私に同額をくれ、そして残りは救急車、入院費、その後2年間の整体施術料などとして手を付けずにあった。その残高が、2年後にいきなり入ってきたのだ。これは私の健康と癒やしのために使うべきだと解釈し、注文した。 

コストコからの配達人はカーブサイドまで、ということで家の前の歩道で下ろし、立ち去ろうとする。慌てて、裏庭まで搬送してくれないかと1人20ドルのチップで交渉。お互いマイノリティー同士で、スンナリ交渉成立。裏庭までは4、5ステップの石段がある。彼らは慣れたもので、ジャクジーを横に倒したかと思うと、側面の角は丸くなっているため、石段に毛布を敷いて、いとも簡単に転がしていく。そして庭の真ん中で梱包をほどいて帰ろうとする。設置場所は4フィート掘ってあるデッキの横だ。 

「ちょ、ちょっと待って。そこに下ろしてくれないかしら?」 
重た過ぎると言う。私の友だちも1人いて、その場に男は3人。270パウンドを動かせないのかな? 

「あなたたち、ひとりで私を持ち上げられるでしょ? 私は100パウンドだから、3人で300パウンドは持ち上げられるよね? これは270パウンドなんだけど」
と説明すると、やってくれたのだ。前もって測って穴を掘り、それに合ったタブを注文し、まさにピッタリ収まった。感謝感激! こんなことを思い出しながら、電気屋を待った。彼が主電源のスイッチをオンにすると、一発で電源が入る。なぜ?  

「スイッチはオフにしたら、30秒以上待たないと電源は入らないんだよ」 
気の毒と思ったのか、電気屋は出張料だけ請求し、帰って行った。 

今日は満月。以前は木の枝を切って月を見ながら入ったなぁ。 

盃に踊る月呑む露天風呂

初孫 – 沖縄(2)アメリカンビレッジ観光〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 37回 初孫 – 沖縄(2)アメリカンビレッジ観光

沖縄の娘宅近くの海

初孫が生まれたので沖縄・名護市に来ている。意見の違いで、親子げんかが始まった。詳細はご想像に任せるとして、せっかく孫と楽しい時間を過ごそうと思って来たのに……。少し距離を置こうと、バスに乗り1時間ちょっとの北谷ちゃたん に行ってみた。 

沖縄の若者は、なんてかわいいのだろう! と出会う若者に見とれてしまう。東京の若者のように見かけを気にし、メイク、服装など流行に沿ったり逆に奇抜にしてみたり、目立とうとする意識が感じられない。ただ、素朴なのだ。そもそも沖縄系、外国のルーツを持つ場合では目鼻立ちがはっきりしている(英語は苦手だが)。でも飾らない。そして、高齢者に敬意を表す。観光地なので観光客を大切にしないといけない、という教育ができている。むしろ、家庭で同居している「おばあ」から受け継いだものなのかもしれない。いつか日系人が話していた言葉、「年齢には特権があるのよ(Age has the privilege)」を思い出した。 

北谷のアメリカンビレッジを歩き回って、タコライスを食べた。誰の発案か知らないがこのアイデアに、沖縄っぽくて、ふと笑みがこぼれてしまう。温かい白いご飯の上にチーズをまぶし、さらにひき肉を炒めたものと刻んだレタス、そして最後にサルサで覆った絶品だ。熱くもなく冷たくもなく、この気候にマッチし、肉には不思議とマヨネーズが少しかかっている。店や作る人によって違うのだろうが、ひき肉も豚肉を使い、沖縄流にアレンジしているところが微笑ましい。大した料理ではないものの、心が温かくなる。ご飯とものすごく合う。 

娘との親子げんかがもたらした、ちょっとした気晴らし外出。恩恵あり! けんかがなかったらたぶん、娘宅に一日中滞在し、ひとりで沖縄観光などしなかったと思う。そして、考える機会ができたこと。私の初孫も「うちなーんちゅ(沖縄出身の人)」なのだ。バアバはそれなりの教育をしなければ。でもその前にまず、私の孫を育ててくれている娘に感謝!

初孫 – 沖縄(1)親子げんか〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 36回 初孫 – 沖縄(1)親子げんか

初孫が生まれたので沖縄・名護市に来ている。初めての母親と初めてのバアバは、子育てを通してぶつかるものなんだろう。「抱き癖」に関しての意見の違いで、親子げんかが始まった。

今回は孫の生後6カ月のハーフバースデーということで、歩いて2、3分のエアビーアンドビーに3週間泊まり、娘宅へ毎日通い、おさんどんをしながら初孫の成長を楽しみ、ハッピーな時間を過ごすはずであった。

ところが抱き癖のために、おむつを替えるたびに泣くもんで、私は家事の最中に呼び出される。泣いている孫を黙らせるよう娘に指示され、終わるとハイ、戻って続きをしてください、というルーティンになる。なんか使用人? と感じ始めたのは1週間ほど経った頃。

昭和後期に子育てを始めた私は、抱き癖が付くと「わがままになる」などの否定的な要素ばかりで、直さなければいけない、と周りからも言われ育児をしてきた。しかし最近は良い点を見直され、たくさん抱かれた子どもは安心感や信頼感が生まれ、オキシトシン、別名「幸せホルモン」が分泌される、ということである(ほどほどに、中庸も必要だけれど)。

そんなことは親子げんか後に調べてわかったのだが、それぞれに意見があるのはいいとして、売り言葉に買い言葉、のけんかになった。

「ママの意見なんて、聞きたくないわよ!(I don’t care for your opinion!)」
と、娘はけんかになると英語になったりする。それがまた、強く響いて腹が立つのだ。

「せっかくヘルプしに来たのに、勝手にしなさいよ! もう帰る!」
と、私も言い返す。

他人から見たらたわいもない言い合いなのだけれど、当事者としては、私の娘の子育てを本人から否定されたようで、傷付くのだ。

こういう会話、けんかができる仲というのは良いけれど、親しい仲にも礼儀あり。親に対して、失礼じゃない? 最近は、「言われるうちが華」なんて教育はしてくれないのだ。

少し距離を置こうと、バスに乗り1時間ちょっとの北谷ちゃたん に行ってみた。
「アメリカンビレッジは行くべきよ。サンセットビーチもいいし」 
と友だちに言われ、散策。

日本に住んでいる人から見たら広くてアメリカっぽいのだろうが、ゲーム館、お土産屋さん館、レストラン館など、別々の建物を1カ所に集めた、巨大ショッピングモールのようなものだ。その先の突き当たりがサンセットビーチで、だだっ広い普通のビーチ。名護からバスで南下しながら見えたビーチのほうがよほど海に入ってみたい。沖縄はそこら中が海で、緑と空に囲まれて自然のパワーが満喫できる。沖縄に住みたい、と思った。

洗濯物と物干しハンガー〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 35回 洗濯物と物干しハンガー

面白いことを発見した。30歳を過ぎた娘が、洗濯物の干し方を知らないと言うのだ。

シアトルのガーフィールド高校を出て、なんかの賞をもらい、ニューヨークの大学も卒業した「自慢の娘」が、である。私だって実家にいる頃、洗濯をそんなにした覚えもなければ、手伝ったことだってあまりない。でも日本で育っていれば、見よう見まねで人に聞くまでもなく、30歳になればどうにか干せた。

「あのさ、やったことないのよ。これ初めて」
「えっ、なんで?」
と聞いてから、ああ、アメリカでは干すことなんてなかったのだ、と納得。全て乾燥機である。

この夏、長女が2番目の子を沖縄で出産した。次女が、オークランドから手伝いに駆け付けた時のことだ。

「洗濯ばさみって、どういうときに使うの? このぶら下げるやつは、どういう順序でするの?」
などと、宇宙人と話しているかのよう。細かいことを気にし過ぎるというか、たぶん、効率の良いやり方があるはずだ、と思っているのだろう。
「どうでもいいのよ。風で落ちなければ大丈夫だから。好きにやってごらん」
ちょっとびっくりしたので、友だちに聞いてみた。
「うちも、なんでもやってくれる娘婿が干すんだけど、Tシャツでもジーンズでも広げないままホイホイかけていくから、乾いてもしわくちゃだったり、乾かなかったりで。最初は姑も口出さずに我慢していたけれど、たまりかねて指摘してしまいました。私の洗濯物でもないのにね」

最近はアメリカでも外に干すこと、太陽に当てることの良さが見直されているから、いきがってやってはみるものの、経験のなさは否めない。うちの娘婿も、タオルをハンガーにかけて干したために内側が生乾きで、娘が指摘すると、「だったら自分でやれよ!」とブチ切れたそうな。

タオルやシーツは斜めに引っ張らずに垂直方向に引っ張るとか、ワンピースの身ごろの縫い目を軽くのばすと乾いた時につらなくていいとか、シャツも広げてパンパンと手のひらで両側からたたいておくとシワにならないとか、日々の経験が物を言うのだ。

今まで考えたこともなかったが、たくさんの洗濯ばさみがぶら下がっている、角型物干しハンガーがなんとも効率が悪い。5個ほどの洗濯ばさみが4列ほどの、あれだ。ソックスを乾かすのなら、20枚、10足乾かせる。では、ハンカチはどうだろう? 両端にそれぞれ挟むと、4枚だけ。その間の洗濯ばさみは使われずに空いたまま。誰がこんなハンガーをデザインしたのか。子どもを育てたこと、洗濯をしたことのない人なのかな? それにしても、これまで誰も苦情を言わなかったのかしらね?

スズメバチの巣〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 34回 スズメバチの巣

庭のモサモサを剪定しようと思って見ると、オオムラサキツツジの枝に何やらぶら下がっていた。徳利か一輪挿しをひっくり返したような、直径15センチくらいの丸い蜂の巣に、3センチくらいの徳利の首が下に向かって出ている。私の胸辺りの高さだ。

2日間ほど、暇に任せて1時間ごとに観察していると、1度だけ3センチくらいの、頭がオレンジ色で足の長い蜂が出てきた。その後はシーンとして何も起こらないので、もしかしたら去年の巣なのかなと思いながら区役所に電話すると、スズメバチの駆除は負担してくれるそう。

巣はまだ完成していないらしく、その1匹が動き回っている。夜は他の蜂が集まってくるから昼間に駆除したほうが良いのだとか。だが20年くらい前、日本で夫に総武装させて駆除した時は、夜のほうが蜂は動作が鈍いからと、大きなコーヒー缶に入れて煙でいぶしたっけ。

シアトルでは、毎年夏に庭でBBQをすると、イエロージャケットが集まってくる。追い払ってもまた来るので、蜂用のトラップなど枝に仕掛けるのだが、土の中に巣を作るのもいる。そこで、新聞紙をねじり、火をつけたのを巣に差し込んで煙でいぶしたことも2、3回。うちの庭は蜂が多い。

子どもたちが小学生の頃に住んでいた家では、塀の石垣に蜂がたくさんいるからと、息子が友だちとホースで水をまいた。すると逆に額を刺され、当時流行っていた映画、エレファント・マンの顔になってしまい、翌日は学校を休ませた覚えがある。アレルギーらしく、次に刺されて気管支が腫れると窒息死することも考えられるため、医者は注射器を常時持つようにと言う。痛そうで怖いから、いざという時でも打てるかしら? とためらっている私に、その女医はヤクザのごとく腕をまくり、自分に刺してみろと畳みかける。子どもの命のためなんだぞ!と。

娘が刺されたのは、サンファン島のフェリーを待っていた時。缶入りのジュースの中に蜂が入り、知らずに飲んだため口の中を刺されたのだ。付近の店に駆け込むと、親切なカトリックのシスターが重曹をすり込んでくれた。即、痛みも引いて、腫れずに済んだ。アレルギーではなかったのが幸いだった。

そんなこんなで、蜂類は好きではないがそれほど怖くもない。自分で駆除しよう、と思い立ったら、すぐ行動! 夕方、暗くなる前にビニール袋を2重にし、そーっと下から包み込み、上を閉めて枝を切った。そのまま水を張ったバケツに入れ重石を置き、ひと晩寝かせて、さてオープン。やはり女王蜂1匹と卵が10個ほど。せっせと巣を作り、卵を産んでいる最中に仕留められたわけだ。同じ母親として少なからず同情もしたが、隣の家には小学生が2人いるし……。一件落着。

アキさんとの再会〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 33回 アキさんとの再会

武田 彰さんと最後に会ったのは、もう10年近く前になる。アキさんは今年、日本国から瑞宝双光章を受章。私もたまたまシアトルにいたのでランチをすることにした。アキさんの領事館勤務時代、領事館のあった建物近くのラーメン屋さんで、よくランチをしたことがある。退職当時、カナダに移住するための準備などで忙しそうだったのと、私が帰国してしまったため、連絡がいったん途絶えてしまったのだ。今回はいい機会だった。

「受章、おめでとうございます。どんな勲章なの、それって?」
開口一番の質問。はっきり言って、領事館勤務の職員が日本国から勲章をもらうということが解せなかったのだ。日本から送られた人では、たぶん受けることはないので。「これって、失礼な質問だけれど、誰だって知りたいことなんじゃないの?」と思ったから、聞いてしまった。

アキさんは普通に、
「そうでしょうね。なんか、39年勤めたら、長いからってもらっちゃったんでしょ」とご謙遜。この勲章は日本国の在外公館活動に寄与した人に贈られるものなのだ。文化担当職員として、コミュニティーとの連結を通して日本文化の理解促進に貢献した、ということだ。実際、インターナショナル・ディストリクト(日本町)の神戸テラスに行く途中の坂にあった日本館シアターのオーナー、エド・バークさんと大の仲良しで、維持に協力したようだ。

「1975年にアメリカに来て、領事館の仕事を見つけたので申請したら受かって、このままいるのカナって思っているうちに昇給していっちゃったから、居着いちゃった」
などと言っているが、継続は力なり!

1970年代にヨーロッパを回りアメリカに来る人は、結構意地があり、信念を持って出国した人が多い。全共闘、全学連など、学園紛争の真っ最中に学生だった人だ。現代の若者のように、軽く親が送り出して海外に出て来る人種とは違う。アキさんもそんなひとりではないのかな?

実は私とアキさんは1976年ごろ、キャピトルヒルからの14番のバスで毎朝一緒だった。私は東京銀行へ通勤。アキさんはベージュのトレンチコートを着た日本のサラリーマン風で、日本人がいることにびっくりしたので覚えていた。

私のほうがアキさんより3歳ほど若いが、まあ同世代。感覚も似ている同期の桜なのだが、私はせっかちでケンカっ早い。アキさんは一見穏やか。アキさんがソイソースに寄稿する「シニアがなんだ! カナダで再出発」と、この「シリメツ、ハタメーワク」を比べたら歴然としている?

侍ジャパンの裏ばなし〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 32回 侍ジャパンの裏ばなし

野球の「や」の字も知らない私が何を書くのか? と思う人もいるだろう。しかも数カ月も前に終わってしまったチャンピオンシップのこと。日本のテレビではいまだいろいろ話題が出る。特に栗山英樹前監督の人間的な素晴らしさにはほれぼれする。メンバー個人に対しての敬意、思いやり、信頼感……。5月31日で正式に退任した。

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)前から、どのチャンネルでも大谷翔平選手が出てくるので、仕方なく見始めた、というわけだ。監督、メンバーの人柄を映し出して、それだけで心温まる時間を得た。

栗山監督はチームを集めた時に、まずメンバーひとりひとりに手書きの手紙を送っている。「侍ジャパンというチームが日本の代表なのではなくて、あなたが日本の代表として、皆で力を合わせて戦い抜きましょう」という、信頼と団結を表わした内容の手紙だ。勝ち抜いた時、「チームが世界一」なのではなくて、「皆が世界一」なのだ、と。個人がチームの中に埋もれずにいられるよう、自信を持たせてくれたのだ。

試合前に小指を折ってしまった源田壮亮選手の意思を尊重し、チームから降ろさなかった。打率が素晴らしい村上宗隆選手の三振が続いていたが、準決勝の対メキシコ戦で栗山監督はこう言った。「今日の試合はお前のヒットで決めるから」。この監督の信頼に応え、侍ジャパンは決勝に進んだ。サンディエゴ・パドレスから来た、ダルビッシュ有選手は皆のまとめ役。そして、楽しんでゲームをしようというスタンス。36歳という年長者の願いは、野球離れになっている今の子どもたちに「少しでも面白いと思ってもらいたい」。ハーフだが日本語はよくわからない、セントルイス・カージナルスから来たラーズ・ヌートバー選手はチームに溶け込めるか心配だった。日本の選手たちは「たっちゃん」Tシャツを作り、全員着用でウェルカムを表明。ヌートバー選手の日本名、達治は祖父からもらった。涙が出るほどうれしかったらしい。

対アメリカの決勝戦直前にチームが集まり、大谷選手はひと言。「みんな、憧れている選手がいると思うけれど、今日だけは、その憧れをやめて欲しい。憧れてしまったら、自分たちは超えられないので。僕たちは勝つために試合をしているのだから」と、なんだか侍的な発言。

それはそうと、初のWBCにシアトル・マリナーズから出場したイチローさんは、どの番組にも顔を出さなかった。応援に駆け付けても良さそうなのに。テレビや新聞でもなんの話題もない。ネットでちらりと見てしまった。実は奥さんがその昔、アナウンサー時代に栗山監督と婚約していたが振られてしまって、それを根に持っているイチローさんが無視したようだ。

ネット記事を信じるか否かは、読者にお任せ。

マイナポイント〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 31回 マイナポイント

マイナンバーカード(マイナカード)の登録を2月末までにすれば、2万円分のマイナポイントをもらえるという。政府が任意で国民に登録を懇願している、ソーシャル・セキュリティーのようなカードだ。そのうち健康保険証へのひも付けが義務化される。

個人情報が漏れるのではないかと思い、これまで反対していたのだが、どうせそのうち義務化するなら、2万円分のポイントをもらっておいたほうが得かな、と申し込んだ。

区役所でカードを受け取り、健康保険証と公金受取口座をひも付けてもらうと、2万ポイントのうちそれぞれ7,500ポイント、後の5,000ポイントは2万円使うと入る仕組み。ただし、ポイントの受け皿として電子マネー口座を作らなければならない。私のポイントは今、宙ぶらりんでクラウドの中に隠れているようだ。

セブン-イレブンのnanaco(ナナコ)というカードを作れば良いということで、300円かかるけれど5分ほどで入手。これで済めば大助かり! 区役所に行き認証してもらえば、待望の2万ポイントが入り、いよいよ使えることになる。と思ったが、ちょっと考えてしまった。

最後の5,000ポイントは、セブン-イレブンで2万円使わないともらえない。コンビニは飲み物かお弁当、文房具など、本当にちょっとした用事で立ち寄る場所だ。仮に500円のお弁当を買うと40食分。毎日違ったお弁当を食べても6週間も食べるのか。5,000ポイントをもらい、うたい文句の2万ポイントをゲットということになっても、それで得た2万円でさらに40食分である。計80食分のお弁当を買う?

これはダメだ。一度登録すると変えられないらしい。イオンカードはどうだろう? お弁当や食品もあるけれど、洋服や靴なども、孫のベビー用品も買える。そうしよう! と300円で即発行してもらい、区役所で認証。プリペイドの2万円を入れて、今度こそ完了した。

ところが後日、心配していた個人情報漏れが発覚。別人の情報がひも付けられる登録ミスも、2021年10月の本格運用から約1年間で約7,300件あったことが判明した。実は2021年2月までのプレ運用時点でも同様のミスが3万件以上見つかっており、本格運用が半年延期されていたのだ。健康保険証の間違いに気付いた人は、聞いたこともない処方箋の記載があり政府機関数カ所にたらい回しされたそう。前例がないとのことで。

せっかく2万ポイントもらえることになったけれど、発行後のマイナカードをキャンセルする方法ってないのかしら?

シニアの会話〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 30回 シニアの会話

近所の目黒通りに、家具・インテリアの総合取り扱い店、ニトリがオープンした。イケアのように店舗も広く、家具だけではなくキッチンの小物などあり、いろいろ見て歩くのが楽しい。オープンしたての頃、発送料が安くなるなどと聞いたもんで、すのこベッドフレームを探しに行った。

前もってネットで気に入った品を2、3点見つけ、ケータイで写真を撮ってから出かけた。この使い方など、われわれの年代には存在していなかったこと。娘が何でも写メするのを見てケータイの使い方を学んだのだ。

お店の店員に得意げに写真を見せる。品番など、必要な情報が完璧。ふたつはパイン材でできており、もうひとつはヒノキ材。一見同じようだが。どれも今、店にはないが注文は可能とのこと。送料が1,560円と聞いて、考えてしまった。店舗でピックアップもOK。1番安いのと2番目との差は2,500円で、2番目は送料込み。家からニトリまでバスで行けば停留所一つの距離。タクシーだって、最短距離でしょ。でも幅150センチは載せられるかしら?

近所に住んでいる友だちに何気なく愚痴ってみた。中学からの同窓生で、同じシニア層。早速LINEが来た。

「ねぇねぇ、今日と明日は忙しいけど、明後日なら手伝えるわよ」
「どうすんの?」
「すのこ、軽いんでしょ?」
「30キロだって」
「一緒にさ、お宅まで引きずるの手伝うわよ」

類は友を呼ぶんだろうけど、シニアのオバサン2人が目黒通りを幅150センチのスノコを引きずって歩くのって、どうなんだろうね。

「道を渡るときに、ちょっと外れちゃって、つまずいたりして」
「信号変わっちゃ大変だわね」
「目黒通りの反対側に交番あるわよ。お巡りさん、手伝ってくれるかしら?」
「大丈夫よ。30キロなら持ち上げられる。スーツケースより軽いもん」
「誰かに写真撮られてSNSに載ったりして」
「ちょっと、それ、絵になるわよね~。ギャハハー!」

やはり高いほう、配送込みのすのこベッドフレームを注文しよう。

マツコの威力〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第29回 マツコの威力

目黒区役所にたまたま居合わせたので、食堂でランチを食べることにした。メニューは定食A、B、Cとラーメン、丼ものなど、10種類以上ある。

この食堂で定食650円はちょっと高いのではないの? と思いながらも食券の自動販売機でBの鶏のから揚げ定食のボタンを押そうと思ったら、売り切れ。3台あるうち、誰も使っていない奥の機械もB定食だけ売り切れ。隣のおじさんは、今Bを買ったところ。そうか、作る数だけ食券を販売するので、隣の機械にはまだ入ってるんだ、と思い急いで移動、そしてゲット。どうも最後の1食だったようだ。Aのサバの塩焼き定食もCの野菜系の定食も、午後1時前なのでまだまだあると見える。

なんで、鶏のから揚げだけ売り切れなの? それは昨夜のテレビ番組にヒントがありそうだ。マツコ・デラックスがMCを務める人気番組「マツコの知らない世界」で、自称「から揚げエキスパート」、全国3,000種類を食べた女性からの紹介があった。

マツコいわく、から揚げは家でお母さんが揚げてくれるもの、という観念で、わざわざから揚げ弁当など買おうという感覚がなかったとのこと。そのエキスパートによると、から揚げをした油は残り油と言って、味付けた鶏の風味が絶妙に混ざり、から揚げ屋さんは油の換え時でも全取っ換えはせず、半分から3分の1くらいはその残り油を混ぜるそうだ。そしてお弁当の端に添えてあるキャベツやから揚げが載っているご飯は、その残り油が染みておいしいのだとか。そんな番組に影響されて、実はから揚げ弁当を探していたのだった。

ところで、マツコって誰? 私も帰国するまで、太った(失礼!)女装家の男性だということしか知らなかった。テレビの番組では歯に衣を着せぬものの言い方、自分を偽らず素直に発言するところに好感が持てる。自分を「アタシ」と呼ぶが、声や話し方を女っぽくはせず、思想が中立的である。以前ある雑誌の編集者をしていたため、テレビ番組の内容、人物について事前にリサーチしているのか博学なのかはわからないが、経験から出た人生の深みも感じられ、安心して観ていられる。不思議と癒されるのだ。私生活では自分自身、つまり男装らしい。「マツコ」というキャラクターを作り、定着させた技はあっぱれだと思う。

それゆえ、この日、区役所食堂のから揚げ定食が完売してしまったのは、マツコの威力だと私は秘かに思っている。

ガミガミおばさん〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第28回 ガミガミおばさん

だまされた! と気が付いたのは全て終了したあとだった。

40年余ぶりに帰国し、実家に住居を構え、インターネットはNTTドコモNTTフレッツ光というのをお店で契約をし、全て順調だと思っていた。

何カ月か経ち、「家の付近に2ギガが設置されて便利になったから、工事費無料で付け替えをしても良いか」という内容の電話がかかってきた。NTTの名前がチラホラ出て来ていたので、ドコモの子会社かと勝手に思い込んでしまったのだ。いろいろ聞かれて、結局は電話でファースト光というプロバイダーと契約をする形に。つまり、ドコモと二重契約をしたことになる。

インターネット回線のプロバイダーは、ドコモ光、auひかり、ソフトバンク光を始め、なんだかわからないけれど、「光(ひかり)」という字が付いているのが、34項目ほどある。東京辺りの電話回線は全てと言っていいほどNTTだ。それぞれの会社がNTTとの契約なので、NTTの名前を出されると混乱する。そのうち書類が届いたが、急きょシアトルに行くことになり、読んでいなかった。全て、ドコモの子会社との思い込みで……。

宅内工事の日にちを決め、その後1週間で外の工事。終わって書類にサインをするのかと思うと帰ろうとしている。

「何かサインしないでいいんですか?」
「そういうものはないです」
「でも、もし何かあったら、どこに連絡したらいいのか、いつ、何時に工事が完了したとか、そういう記録のようなものにサインしなくていいのかしら?」

「ない」の一点張りで会社の人と電話をしている。電話ではお互いに正当だと確認し合っている様子。で、私が話したいと言うと電話を渡してくれるが、何の進展もなくマニュアルに載っているようなことをリピート。らちが明かないので上の人に伝えてもらうように話し、工事の人に、
「私のように何か書類が欲しいという人はいないのですか?」と聞くと、「いますよ。でも、大体、『ない』と言うと『そうですか』って引き下がりますよ。こんなにガミガミ言われたの、初めてです」と声を荒立てた。

あぁ、これが小さい頃に聞いていた「ガミガミおばさん」ということか。イメージが違うなぁ。

個人的に怒っているわけじゃないと説明して、「じゃあ、あなたの名前を聞いてもいいかしら? 私がいない時に何かあって、娘がどこに連絡したらいいかわからないでしょ?」と言うと、名刺をくれた。なんだ、名刺を持っていたのか。初めからそれをくれていたらガミガミおばさんにならずに済んだのに。

ドコモに電話をすると二重契約だということがわかった。工事費、違約金を計算すると、ドコモを解約したほうが損害は少ないということで落ち着いた。今後2年間、何もトラブルがないことを祈る。

目黒の魚屋さん〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

最近の店は、顔なじみ、というのが少ない。アメリカに40年以上住んでいて、スーパー以外の店にはほとんど行かないし、店員もコロコロ変わってしまうから、帰国したら、と期待をしていたが、ガッカリだ。 昭和の日本橋、問屋街の長屋のようなところで生まれ育った私の望郷というのは、細い路地を毎日掃いている腰の曲がったおばあさん、狭いのにお構いなく好きな盆栽を家の戸口にごっそり並べて水をあげているおじいさんがいる。その辺の子どもたちはみんな顔を知られていて、うっかり悪さをすると、こらっ、と怒鳴られる。商店街に出ると、声をかけ合っているのが聞こえる。あの頃は貧しいながらも、コミュニティーというのがあったんだ。60年以上前の話。そんなことを今さら期待してもしようがないのはわかっているが。

近所のバス停からひとつ目、大鳥神社の向かい側に昔からの魚屋さんがある。通りかかっていつもお刺し身を買おうか迷いながら、つい、その向かいのスーパーで買ってしまう。今日はそこで買うことにした。

アジ、タイ、それからマグロの赤身と中トロの皿の3種、それぞれ500円。ホタテもある。全ておじさんがおろしたばかりの感じでおいしそう。どれにしようか迷ってしまう。

「これ、少しずつ混ぜてひと皿、っていうのできないかしら?」
と聞いてみると、無視された。ウンともスンとも言わずに薄ら笑い。
「中トロだけだって、1,000円になっちゃうよ」
「今日食べられなかったら、どうなるの?」
「明日でも大丈夫」

ということで、2皿買うことにした。アジとタイ。中トロは大好物だが、赤身のマグロは好きではない。税込みで1,000円払って、家に帰り、すぐ開けてみる。食べたいときが買いたいとき、なのだ。2皿目のアジの皿を開けると、なんと中トロが2切れ、端のほうに載っているではないか! 感激! もう待てない。

アメリカ生活以来、こんなにおいしくお刺し身を食べたのは初めてである。半分残して、明日は日本酒を買い、酒盛りをしよう! スーパーに行きがてら、おじさんにお礼を持って行かなくっちゃ。結局はマグロひと皿分以上のお土産になってしまうかも。この令和で、こんなこともあるんだ。これは癖になっちゃうだろうな。

安心・安全?〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

日本に帰国してびっくりしてしまうのは、政治家、役職の責任者などが「最善を尽くします」と言っていることだ。何か失敗をしても、「再発しないように最善を尽くします」と謝って、おしまい。なんか、口先だけの感じがする。やっと交代してもらった前総理大臣のモットーは、「安心・安全」だったし。一体誰のレベルで言ってるのかと思ってしまう。私の「最善」と違って政治家の「最善」は当たり前だし、それを平気で言って逃れるのも、言い訳にしか聞こえない。「自分はできる限り一生懸命したんだから、許してくれ」というか、「それ以上できないんだから、しょうがねぇだろ」という開き直りにも取れる。昨夏の参議院選にしても現総理は、「平和な日本、豊かな暮らし、人に優しい社会を作る責任がある」とテレビで宣伝していた。誰だって望む、聞きたいフレーズ。では、どうやって実現するの?

こんなあいまいな言い方が日本のやり方だったんだ、と40年以上も日本に住んでいないと驚く浦島花子さん。アメリカでは、誰にとってもわかる数字で表したりするもんだ。

もう何十年前の話を思い出してしまった。日本に来た時にアメリカへ荷物を送ろうと、郵便局本局へ行った時のこと。どのくらいのサイズでいくらとか、そんなことを表示してあるパンフレットとかないのかしらと思って聞いてみた。

「身長+胴回り」
とひと言。フーン、胴回りねー。おじさんの胴回りではないだろうし、荷物を持って来た私の?と思い、
「誰の胴回りですか?」
と聞いてみたら、
「荷物の箱のだよ。いちばん長いのが、身長。箱をぐるっと回るのが胴回り!」
と、あきれられてしまった。縦、横、高さとか言えないのかしらね。

微笑ましいのもある。苦肉の策、というか。娘が飛行機で東京から沖縄に帰る時、何気なく見たバッグの中にお茶の入ったペットボトルが見えた。
「これ、手荷物検査の前に全部飲まなきゃいけないんじゃないの? 飲める?」
と聞くと、
「日本は違うんだよ。持ってていいの。ただ、『はい、ふたを開けてひと口飲んでください』って言われるから、飲もうと口をつけると、『はい、そこまでで結構です』って飲まなくてもいいの」
とのこと。化学薬品とかだったら、飲めないからね。でも、逆に飲んで目の前で倒れてしまったら、もっと困るんじゃないのかしら?

チーズタッカルビ〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第25回 チーズタッカルビ

10月に入り、急に寒くなったり、また真夏日になったり、かと思えば大雨で洪水が記録されたりとなかなか秋晴れのさわやか日が訪れない。と杞憂していたところ、やっと来た。ちょうど毎月28日、不動尊の縁日の日である。空の青さが目に染みるほど。亡き父が毎日散歩していた懐かしのお寺にお参りを兼ねて行ってみた。男坂、女坂の階段を上がった上はお寺で、お参りの人で渦巻いている。ちょうどお経が始まったところだ。下の広場は屋台がひしめいている。

高校生の頃、お不動さんはもとより祐天寺、大鳥神社、八幡さまとお祭りのたびにハシゴした思い出がある。特に大晦日、元旦にかけては近所の悪ガキと肩を張って歩きまくった。当時はピンクに塗られたヒヨコを売っていたりしたものだ。小学生の頃に住んでいた日本橋では、べったら市なんかあったな。セルロイドのおままごとのお皿とか買ってもらって、それからだろう、縁日回りが身に付いてしまったのは。

その日も金魚すくいや射的などはともかく、もっぱら買い食いするのが目的で散策。綿菓子、あんず飴、焼きそば、お好み焼き、味噌おでんなど昔からの屋台のほかに、近頃はアユの塩焼き、広島焼き、チーズタッカルビなるものも出ている。取りあえずその韓国料理を食べてみたいと思った。

鶏肉、キャベツ、玉ネギに、薄く切ったお餅のようなトック、長ネギなどをキムチ味のソースでちょっと甘辛く炒め、最後にすり下ろしたチーズを絡め、溶けて熱々のところを頬張るのである。

「お持ち帰りですか?」
「ええ、すぐそこだから」

と、本当は立ち食いしたいのだけれど、古希を過ぎた老婆がひとりですることじゃないような気がして、詰めてもらった。

お金を払い、サーっと行こうとすると、
「おねえさん、お箸!」

と声をかけられた。わーっ、久しぶりだわ。おねえさん、なんて言われるの。一瞬振り返りそうになった。本当に私のこと? 

「大丈夫。うちにあるから」

ちょっと恥ずかしさを隠しながら、いそいそと、ホクホクしながら、家路を急いだ。

娘と同じ歳くらいの売り子さんだったが、何とも粋な屋台のお姉さんである。

お留守番〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第24回 お留守番

娘の友人宅を訪れた。赤ちゃんともうひとり、3歳のおにいちゃんがいる。電車が大好きな子で、英語にも興味がある。保育園から帰ってきて、娘に英語の発音を聞かせて欲しいと電車を持ってくる。

「パンタグラフってなんて言うの?」
「なにそれ?」

アメリカに住んでいると、パンタグラフなんて知らない。電車に乗らないし、電車なんて、玩具の中には入っていない。息子の子どもの頃、アメリカではそんなもの見なかった。男の子の玩具はもっぱらミニカーか機関車トーマス君である。

「なんだろうね? Overhead Wiring?」

でも、あのひし形の形をした部分は? 気に留めたこともなかった。いやはや子どもの観察力には参ってしまう。

楽しく騒いで、おいとまの時間になると、母親がおにいちゃんに聞いている。

「シンちゃん、ちょっとそこの薬屋さんに行ってくるけど、一緒に来る? それともお留守番してる?」

シンちゃんはちょっと考えた後、

「お留守番する」

それを聞いて私は、

「えっ、3歳でお留守番していいの? アメリカじゃあ、捕まっちゃうよ」

と、さりげなく言ったのが大間違い。私自身、アメリカの事情を知らず、カーシートで寝てしまった息子をほんの数分間車に置き去りにし、お巡りさんから怒られたことがある。ちょっと頼んでおいたコートをピックアップと、窓を少し開けてモールの中へ入り、出てきたらパトカーと野次馬が集まり、その騒ぎに起こされた息子は恐怖におびえ泣き叫んでいた。

その、シンちゃんは急に険しい顔になり、

「お巡りさんが来たらどうしよう!」

明らかに3歳児の注意力、理解度を軽く見ており、恐怖心を与えてしまったのだ。これを正さないとトラウマになりかねず、今後お留守番はできなくなってしまうかもしれない。一大事!

「日本の子どもはね、やっちゃいけないこととか知っているけど、アメリカの子はダメって言われていること、お母さんのいない時にやっちゃうかもしれないから、ひとりでお留守番はできないの。日本は大丈夫なのよ。ここは日本だからね」

などと、訳のわからない理屈を子どもにわかるようにこね上げた。実際捕まるのは親であるが、シンちゃんは自分が捕まるものと解釈してしまったようだ。

母親と一緒の説明をどうやらわかってくれたようで、お留守番をする、と言う。

「やっぱり、おにいちゃんだからね」と、母親は赤ちゃんを抱えて外出。クワバラ、クワバラ。

日本のお巡りさん 〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第23回 日本のお巡りさん

娘が引っ越しで置いていった自転車のタイヤに、空気を入れたい。確か近所の交番の隣に自転車屋があったはず。自転車を押して行ってみると、戸は開いているのに誰もいない。隣の交番で聞いてみた。

「隣の自転車屋さん、いないみたいなんですけど、空気入れってありますか?」

「ああ、ちょっと待ってね」

と言って奥から出してきてくれて、私が空気を入れようとするのを見ている。うまくいかない。するとお巡りさんは、スーッと手を出して入れてくれる。と思ったら、やはりうまくいかない。

「タイヤがおかしいのかな?」

「すいません。やっぱり隣に行ってみます」

お巡りさんは空気入れを戻しに交番の中に入った。窓を見ると「ただいまパトロール中」の案内板。日本のお巡りさんは、なんて粋なんだ!

自転車を直して、祐天寺に行ってみた。前の晩にテレビで見たお煎餅が祐天寺で売っているそうだ。ネット販売のほかに東京では数店舗でしか販売されていない。先代がいきなり倒れて、若い兄弟が四苦八苦して、つぶれそうなお煎餅屋さんを持ち直したという話だ。ちょっと高いけれど、おいしいお煎餅を作り出し評判が良いそうである。その名も「センベイブラザーズ」。小さな駅ビルらしき店は、いくら探しても見つからない。交番を訪ねてみた。3人ほどのお巡りさんが寄ってきて、所在地を調べてくれる。よくわからない。

「すいません。ちょっと自転車取ってきます。駐輪禁止のところに停めちゃったので」

と私のケータイを預けて、向こうがあれよあれよと戸惑っている間に自転車を取ってきた。別のお巡りさんが奥から出てきて、私のケータイを持っている。

「あそこにあるんだよね」

と説明してくれても、先ほど回った時にはケーキ屋と薬屋しかなかった。

「一緒に行きましょう」

と先導してくれる。

「あの、センベイブラザーズのお煎餅探しているんですけど」

「ああ、おいしいよね」

「えっ、食べたことありますか?」

「うん、もらったんでね」

などと話しているうちに、到着。先ほど何度も通りかかった、小物屋さん。小さなバッグとか、ちょっとしたアクセサリーとか売っているお店。

「ここで売っているんですか?」

「ほら、あそこ」

と指差したところのバスケットの中にあった! 自分でも買いに来ているのかもしれない。食べてみたかった「たまり醤油」はなかったが、焼いた生地の堅さが絶妙だった。

お巡りさん、ありがとう!