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Author: Bruce Rutledge

Bruce Rutledge worked as a journalist in Japan for 15 years before moving to Seattle to found Chin Music Press, an independent book publisher located in Seattle's historic Pike Place Market.

窪田ガーデン財団理事長 ジョイ・オカザキさん

窪田ガーデン財団理事長 ジョイ・オカザキさん

サウス・シアトルに20エーカーもの土地を擁する窪田ガーデン。高知県・奈路出身の造園家、窪田藤太郎氏によって開かれた緑豊かな庭園は知る人ぞ知る穴場でしたが、シアトルの発展と共に今や人気観光スポットへと変貌しています。32年にわたり見守り続けてきた窪田ガーデン財団理事長、ジョイ・オカザキさんに話を聞きました。

取材・原文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:大井美紗子 写真:窪田ガーデン財団、デンショウ、本人提供

※本記事は『北米報知』2020年3月13日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ジョイ・オカザキ(Joy Okazaki)■窪田ガーデン財団発足の1989年以来、財団理事として従事。2012年より財団理事長。レニアビーチ近郊に育ち、レニアビーチ高校、ワシントン大学を卒業。建築会社のポルティコ・グループでのプロジェクト・マネジャー、シアトル市の公園・レクリエーション局勤務、ターナー・コンストラクションでのシニア・プロジェクト・マネジャーを経て、現在はプロジェクト・マネジメント・コンサルティングを行うヒカリ・コンサルティングを経営。夫と11歳の秋田犬であるコナと共に、エドモンズ在住。

窪田ガーデンがシアトルの人気観光地となるまで

窪田ガーデンにて、窪田藤太郎氏(1965年撮影)

まだ私有地で一般公開されていなかった頃、小学生だったジョイ・オカザキさんは、しょっちゅう窪田ガーデンに忍び込んでは中を探検して遊んでいた。自宅はそこから1マイルもない近所にあった。ジョイさんは回想する。「おたまじゃくしやカエルを見つけたり、橋や池を眺めたりして過ごしていました。そこが庭園だなんて全然知らなかった」

幼いジョイ嬢は将来、自分が実に20エーカーもの敷地を持つこの窪田ガーデンと深いつながりを持つことをまだ知る由もなかった。

窪田ガーデンは、日系移民の窪田藤太郎氏によって1927年から造園が開始された。訪れた人の多くは、庭園の持つ不思議な魅力に引き付けられる。それは藤太郎氏の魂が注ぎ込まれているためではないか、とジョイさんは考えている。「造園計画をどのように実行へ移すつもりですかと尋ねられると、藤太郎はこのように答えていました。『神様がなんとかしてくださる』と」

1988年にワシントン大学建築学科を卒業したジョイさんは、その翌年、発足したばかりの窪田ガーデン財団に理事として参加する。理事会に加わったのは、ほとんど好奇心からだった。「非営利団体が一から始動する過程を見るのは楽しいだろうと思いました」。以来、ジョイさんは32年もの長きにわたって理事を務める。2012年には理事長に就任した。

窪田ガーデンにて、窪田藤太郎氏(1965年撮影)

この間も、窪田ガーデンは目まぐるしい変化を遂げた。庭園は、かつての隠れた名所から、サウス・シアトルの必訪スポットに。観光客、庭園マニア、そして、シアトルからも癒しを求める人々が詰めかける。来場者は2014年に5万6,000人を超え、2019年には10万8,000人を突破した。「90年代は、ノースウエスト・フラワー&ガーデン・ショーに行って広報活動に励んでいたくらいなのに」と、ジョイさんは笑う。「その時にはよく質問をされたものです。窪田ガーデンってどこにあるのってね」

映画化と書籍化が実現

1973年に94歳で亡くなった藤太郎氏の追悼に、息子のトム
さん、タクさんが造ったムーン・ブリッジ(1991年撮影)

窪田ガーデン財団は、この人気が今後もさらに高まることを期待している。昨年にはドキュメンタリー映画と書籍を発表した。1989年の財団発足当時は、映画も書籍も夢物語に過ぎなかった。理事会でも、庭園保存に尽力するシアトル市をいかにサポートするかが焦点となっていた。「官民提携(パブリック‐プライベート・パートナーシップ)」という言葉が生まれる前から、財団とシアトル市はそれを行ってきたのである。「他組織から支援を募るほか、ボランティア募集、特別プログラムやツアーの実施、広報活動といったことが財団の仕事でした」と、ジョイさん。シアトル市には予算の制約があるので、その分、財団ができる範囲でサポートをした。

90年代に入ると、庭園の歴史を調査・記録することに重点的に取り組んだ。藤太郎氏の息子であるトム・クボタさんらに話を聞くほか、ニュースレターの発行、ウィキペディアのページ作成、ウェブサイトの立ち上げを通して、ガーデンの歴史と年代記を構築。同時に、20世紀に撮影された、窪田家の歴史を物語る家族写真の多くを保存するようにした。写真は財団が保管し、日系人の歴史資料をデジタル保存している非営利団体のデンショウ(伝承)によるデジタル・リポジトリでは閲覧もできる。

ジョイさん。1990年の年次ミーティングにて、初代財団理事長のハーベイ・ワタナベ氏と

「ジョイにはしっかりとビジョンがあるように思います。責任感を持って窪田ガーデン財団の理事長を務めていますが、それは日系アメリカ人コミュニティーへの深い造詣とつながりが基盤にあるからでしょう」と、ジョイさんについての印象を語るのは、デンショウ創設者でジョイさんの長年の友人でもある日系3世のトム・イケダさん。「ジョイのおかげで、庭園にまつわる数百もの貴重な写真・資料がデジタル保存され、研究者や歴史家、そして家族らが、将来何代にもわたって閲覧できるようになりました」

2019年にはシアトル市によりエントランスと塀が新しく造られた

ジョイさんの活動を支える原動力は何か。それは、庭園を長く存続させたいという強い願いである。「子どもたちとのつながりを構築する必要があると感じています。次世代を担う子どもたちに愛されてこそ、庭園の管理も引き継がれていきますから。スカベンジャーハント・ツアーやソープ・カービングのワークショップといった子ども向けのプログラムを始めたのも、それが理由です」

今こそ庭園の歴史を語る時

20世紀が終わりを迎える頃、庭園の歴史を調査し、認知を広げる活動を続けて10年の時が経とうとしていた。理事会の一部では、「この歴史を1冊の本にまとめてはどうか」という声が上がり始める。「実際に検討を始めたのはおそらく今から16年前のことです」と、ジョイさんは振り返る。「しかし、本にしようにも手段がありません。古い写真や新聞・雑誌の切り抜きは手つかずのままで、資金もない状態でした。当時は庭園で行われるプロジェクトに多少の資金を援助してもらうのが関の山だったのです」

窪田ガーデンは市民のイベント会場としても利用される。この日はキンセアニェーラ(ラテンアメリカ発祥でアメリカの一部でも行われている15歳の少女の誕生日を祝う会)と舞踏パフォーマンスがコラボレーション(2017年撮影)

それでも映画化と書籍化は進められ、先にドキュメンタリー映画が2019年12月に公開。「Fujitaro Kubota and His Garden」は驚くほどの要望を受け、サウス・シアトルにあるアーク・ロッジ・シネマズにて封切りと相成った。サウス・シアトルの報道機関、サウス・シアトル・エメラルドによれば、「映画は先行上映から大盛況。その人気ぶりを受け、上映シアターをひとつ追加したが、常連客が映画館に入れず引き返すほどだった」という。

一方の書籍は、愛書家で知られる理事会メンバー、エリザベス・バトラーさんの先導で、映画に先行して話が進んでいた。「エリザベスは庭園もさることながら、大の文学好き。編集委員会を取りまとめ、本作りを引っ張っていってくれました。出版はチン・ミュージック・プレス(原文筆者のブルース・ラトリッジが経営する地元の出版社)を通じて行いました」

ジョイさんには、刊行に当たり、窪田藤太郎のストーリーを語るのに今以上にふさわしい時期はないという確信があった。「藤太郎は日本からの移民で、反移民感情をよそにビジネスを立ち上げて大成功を収めるも、第二次世界大戦中の日系人強制収容で何もかもを奪われた人物です。戦後に再びビジネスを立て直し、元の場所に返り咲きました。移民やアジア系への差別感情がなくならないアメリカでは、このようなストーリーを今でもよく耳にしますよね」。書籍『Spirited Stone: Lessons from Kubota’s Garden』は2020年3月17日に発刊されている。

庭園の未来を見据えて

季節折々の風景に癒される空間は、シアトル市民の憩いの場

理事会がドキュメンタリー映画と書籍により窪田ガーデンの認知を広める中で、ジョイさんは数々の課題にも目を配る。急務のひとつは、トイレ施設の設置だ。「年間10万人を超える来場者があっても、庭園内にはトイレ施設がないんです」。財団はトイレ施設の設置に向けて動き、100万ドル近い州の助成金を得ることができた。2022年までにはピクニック・エリアを含め、トイレ施設とその周辺環境が整備される予定だ。

財団は、その先を見据えた活動も始めている。「窪田ガーデン近くを流れるメープス・クリークとその景観を保つため、そしてガーデンの緩衝地帯として、周辺地域の土地を買い取るべく、シアトル市に働きかけるようになりました。雨水流出の影響や、山腹地域が南側の地域に雨水氾濫をもたらす可能性なども考慮してのことです」

窪田ガーデンがあるレニアビーチ地区も、この数十年での変化が著しい。窪田ガーデンは、今や急成長するシアトルに欠かせない、市民の安らぎの場となっている。そうした意味でも、コミュニティーにおいて、かつて以上に重要な役割を担う。「都市部の密度を上げるより、このような安らぎの場を持つほうが大切だと人々に知らせたいですね」とジョイさん。「この庭園と財団が将来にわたって存続できることを願っています。窪田ガーデンは私にとって、今までもこれからも、ずっと特別な場所です。なぜ、私はこんなにも窪田ガーデンのことを気にかけるのだろうと改めて考えてみると、それはきっと、子ども時代に築いたつながりのおかげだと思い当たりました」

池におたまじゃくしを見つけ、園内を駆け回る子どもたちが、次世代としてジョイさんら財団に加わる日も近いことだろう。そして、ジョイさんが望む、窪田ガーデンが永遠に続く未来を作っていってくれるはずだ。

窪田ガーデン Kubota Garden
9817 55th Ave. S., Seattle, WA 98118
www.kubotagarden.org

1987年からシアトル市が所有し、一般に公開されている窪田ガーデンは年中無休、入場無料。エントランス近くにある金属製の箱に詳細地図あり。各種ツアーやボランティア活動は現在休止中。入場の際はワシントン州の新型コロナウイルス対策ガイドラインの行動指針に沿うことが必要。その他詳細、最新情報は上記の公式ウェブサイトまたは公式Facebookページにて(www.facebook.com/Kubota-Garden-144013716362)にて。

〇映画「Fujitaro Kubota and His Garden」
https://ddr.densho.org/ddr-densho-354-2125/(デンショウ)

〇書籍『Spirited Stone: Lessons from Kubota’s Garden』
https://spiritedstone.wordpress.com(チン・ミュージック・プレス)

ワシントン州日本文化会館代表  カート・トキタさん

日本と日系人の文化や伝統を伝える集いの場として設立されたワシントン州日本文化会館(JCCCW)。代表を務めるカート・トキタさんに、JCCCWと自身の家族との関わりやJCCCWの使命に対する思い入れについて、話を聞きました。

※本記事は『北米報知』2月28日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

取材・原文:ブルース・ラトリッジ
翻訳:宮川未葉
写真:鎌田賢祐

カート・トキタ(Kurt Tokita)■タコマ生まれ。父親が空軍に所属していたため、テキサス、ワイオミング、ハワイ、台湾、フロリダと移り住み、その後ベルビューに戻って中学と高校に通う。ワシントン大学に進んだが、ロサンゼルスで大学編入・卒業を果たし、そこで16年間暮らした。2001年にレントンに移り、2003年にワシントン州日本文化会館(JCCCW)に関わるように。2011年には理事長に就任。長年IT分野で仕事をし、現在はアドバンスト・マイクロ・デバイス(AMD)社のシニアソフトウェアエンジニア。子どもは2人、アーロンとトリーがおり、共に20代。
 

過去を現在に結び付ける場に

シアトルにある非営利団体、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)には、歴史的な写真、アートの数々が壁や展示ケースに並ぶ。1階の中心にはロジャー・シモムラさん制作の大きな壁画もあり、3つのパネルに分かれ、日本人・日系人の1世、2世、3世にまつわるモチーフが描かれている。その時代ごとに使われていた炊飯器、米国における人種差別的な日本人描写など、さまざまな題材が見られる。また、廊下に展示されている美しい木彫りや貝殻を使った宝飾品の多くは、砂漠地帯のアイダホ州ミニドカに強制収容された日系人により作られたものだ。館内では地元の切り絵アーティスト、曽我部アキさんの作品も飾られている。

JCCCWの理事長を務めるカート・トキタさんの父親の写真も、館内の壁にかけられている。ミニドカで撮影された、10歳の頃の写真だ。「父とその兄弟たちはまだ幼く、収容所での体験は上の世代となる祖父たちとはだいぶ違うものでした。同じ建物内にたくさん子どもがいたので、楽しい思い出となったようです」と、カートさんは説明する。JCCCWは単なる博物館ではない。館内を歩くと、グループで太鼓の練習をしている音が聞こえてくる。1階の武道館道場もよく利用されているという。「道場には5、6団体が夜や週末に集まります」。館内には全米各地から寄付により集まった日本の手工芸品や古物などの販売所、宝石箱もある。JCCCWは、まるで過去を現在に結び付ける役割を担っているかのようだ。

JCCCWの歴史的な建物には、これまでの日系人の歩みを物語るアート作品や工芸品が多数展示されている

豊かな歴史を持つJCCCWは、1902年に設立された北米最古の日本語学校の本拠地でもある。「週末には95人、平日には成人の生徒が150人ほど通います。中国への関心が高まる中で生徒の数が減るかと思いきや、今でも日本語への関心は高いようですね」と、カートさん。JCCCWの外には、カートさんの父親が子どもの頃、仲間と草野球を楽しんでいたという小さな空き地がある。「右利きなので、打った球が道に飛び出てしまいます。そこで、みんなスイッチヒッターになって球を左打ちしました。酔っぱらいが丘の上に座って観戦していたこともあったそうで、当時はそれがエンターテインメントだったんですね」

カートさんは2011年1月にJCCCWの指揮を執るようになった。すべきことはたくさんある。建物は古く、保存修復にはお金がかかる。毎春開催される「ともだち・ガーラ」というディナーショー兼オークションのイベントで集まる寄付は、JCCCWにとって大切な資金源だ。「寄付はいつでも歓迎します。クラスを取るなどどんな形でもいいので、ぜひ多くの方にご協力をお願いしたいです」

JCCCWとの不思議なつながり

カートさんはJCCCWの建物の中にいる時に自身の家族の過去が明らかになるという不思議な体験をしてきた。たとえば、ある日の会議中、カートさんの祖父母とその8人の子どもが第二次世界大戦終結直後、しばらく同じ建物内で暮らしていたことがあるとわかった。「JCCCWに関わるようになって初めて、ここで親族が暮らしていたことを聞きました。『それは初耳だ!』と、本当に驚きました」。祖父母たちは2階の1室に2年から2年半くらい住んでいたという。当時、JCCCWはハント・ホテルまたはハント・ホステルという名で宿泊所として機能していた。戦時下で強制収容された日系アメリカ人たちがシアトルに戻り、金銭的に立ち直れるようになるまで、ここに集まって狭い部屋で一緒に暮らしていたのだ。

今から2年ほど前には、カートさんの曽祖父母もJCCCWにつながりがあったことを知った。カートさんが父親と共にJCCCWで地元放送局のKCTSからインタビューを受けていた時、父親が不意に「この写真は、おまえのひいおじいさんのスズキだ」と告げたのだ。「何だって!? という感じで(笑)。曽祖父母がここにいたなんて思ってもみませんでした」。カートさんの曽祖父母は、終戦直後に裏の建物に住んでいたという。「それまで聞いたこともなかった。どうして誰も教えてくれなかったのでしょうね」

強制収容の歴史を象徴する、母の腕に抱かれたナタリー・ハヤシダ・オングさんの有名な写真。カートさんはJCCCWでナタリーさん本人との出会いを果たした

最近では、ナタリー・ハヤシダ・オングさんとの出会いもあった。ナタリーさんは、会館の壁にかかっている有名な歴史的写真に写る本人だ。その写真はベインブリッジ島で撮影されたもので、一張羅を着たナタリーさんの母親が、まだ赤ちゃんのナタリーさんを腕に抱き、強制収容所に送られるのを待っている瞬間を捉えたものだ。「当時を知る写真として重要で、かなり印象的な1枚です」とカートさん。ナタリーさんは、現在住んでいるヒューストン郊外から、たまたまJCCCWを訪れていた。話していくうちに、ふたりそれぞれの家族同士に多くのつながりがあることがわかった。「家族ぐるみで付き合いのあった友人だと判明し、その写真が今まで以上に大きな価値のあるものとなりました」と、カートさんは続ける。館内にいるとこのようなことがよく起こると話すカートさん自身が、JCCCWの歴史を語る生き証人のようだ。

カートさんとJCCCWとの運命的なめぐり合わせがかなってから、かれこれ10年以上が経つ。ロサンゼルスで大学を出て、そのままロサンゼルスのIT企業で働いていたが、2001年に同じ会社のシアトル事業所に移った。以前から建築に興味を持っていたカートさんは、建築プロジェクトに携わってみたいと考えていたところ、友人の影響で、2003年に設立されたJCCCWに関わるようになった。「最初は建築のプロセスに関心があったのですが、私の家族が実はここに住んでいたとわかり、突然、プロジェクトが個人的に思い入れのあるものになりました。いろいろ調べていくうちにたくさんの歴史が詰まっていることを知り、取り壊すのは良くないと考えを改め、新しい会館を建てるという当初の計画を取り止めました。父やその兄弟が今の事務室に住んでいたなんて、素晴らしい偶然だと思いませんか」

 

親族の歴史を記録として残したい

カートさんの祖母は、キャデラック・ホテルを経営し、実業家として成功していた。「祖母は腕のいいビジネスウーマンでした」。祖父は著名な画家だったが若くして亡くなり、祖母は8人の子どもを育てながら3軒のホテルを経営した。一時はアパート1棟も持っていたとカートさんは付け加える。子どもの頃はクイーンアンのコンドミニアムに住む祖母を2年おきくらいに訪ねていた。「子どもと遊んでくれるような人ではなかったので、行っても退屈でした。『かごの中におもちゃがあるよ』と言われて中を見ると、2、3歳児向けのおもちゃしか入っていないんです。ひと晩泊まるという決まりで、翌朝8時にシズおばさんが迎えに来て、4人の子どもがいるおばさんの家で、その週の残りの日を過ごすことになっていました」

日本とアメリカ、日系人の歴史がさまざまなモチーフを通して表現されている、ロジャー・シモムラさんによる壁画

カートさんは高校生の頃、祖母にいたずらをして叱られたことがある。祖母から夜の8時にかかってきた電話を受けたカートさんは、「今は朝8時か夜8時か」と聞かれ、ふざけて「朝だよ」と言ったのだ。それを聞いていた母親に、祖母が仕事に行ってしまっては大変と諭され、すぐに折り返したが電話に出ないので、カートさんは母に言われてレドモンドからノース・ビーコンヒルにある祖母の家まで車を走らせた。祖母はバス停にいたと言う。「祖母は80歳になってもシータックまで毎日花を売りに行き、松茸狩りやサケ釣りも大好きでした。あの時は本当に申し訳なかった……」

2011年、カートさんの祖父について書かれた『Signs of Home: The Paintings and Wartime Diary of Kamekichi Tokita』がユニバーシティー・オブ・ワシントン・プレスから出版された。カートさんの祖父は、日本が真珠湾を攻撃した日から日記をつけ始め、戦争が終わるまで書き続けることを誓った。同書は、当時の1世の希望と不安がつぶさにつづられている日記を紹介し、また1940年代の美術界におけるカートさんの祖父の絵画について、その位置付けを評している。「著者のバーバラ・ジョンズさんとは、家族ぐるみで仲良くなりました」と、カートさんは話す。

JCCCW前にて。カートさんとナタリーさんを挟み、ナタリーさんの夫のアル・オングさん(左から2人目)、JCCCW日系文庫ボランティアの関根楢千代(ならちよ)さん(左端)、ブルース・テラミさん(右端)が並ぶ

カートさんの父方には85人ほど、母方には135人ほど親族がいる。「お餅を作る時期になると、全米から親族が飛行機でやって来て、昔ながらのやり方で、実際に火を使ってお餅を作るんです。全部で150パウンド近くのお餅が入った大量の袋で居間がいっぱいになります。みんなが集まるといろいろな話に花が咲きます」。貴重な物語を古い世代がいなくなる前に記録し、歴史として残しておきたいとカートさんは考えた。そして、親族をインタビューし、映像として残す作業を今日まで続けている。母親は病気になって2015年に亡くなった。それまでにインタビューできなかったことが心残りだったそうだ。「チャンスを逃してしまったことで、このような物語を早く撮影して残さなければという危機感がつのりました」

歴史、工芸、写真、映像撮影、アートにずっと魅了されてきたカートさん。古いカメラをコレクションしているのも、その表れだ。最近では、ポートランドのアンティーク・ショップで、1台のカメラを買った。「取扱説明書に名前が書いてあり、その人がブレマートン周辺の島に住んでいたことがわかりました。その人の家族を探し、カメラを返して欲しいか聞いてみようと思っています」。そんな見ず知らずの人のことにまで心を配るカートさんだからこそ、運命的な出会いに恵まれ、JCCCWをここまで率いてくることができたのかもしれない。

 
ワシントン州日本文化会館(JCCCW)

2003年に設立された非営利団体。日本・日系の歴史、伝統、文化の保存・振興・共有を目的としている。1902年に設立されたシアトル日本語学校の場所にあるJCCCWは日系コミュニティーの歴史に深く根差し、これからの世代のために遺産を保存することに取り組む。シアトル日本語学校、西北日系博物館、日本の物専門の再販店である宝石箱、日本語書籍を集めた図書館の日系文庫などの運営ほか、幅広い教育、文化、レクリエーション、社会事業を行う。現在、新型コロナウイルス感染拡大のため、一部のサービス(宝石箱のオンラインストアで購入した商品の受け取り、不要品の寄付など)を除いて一時閉館中(2020年9月末時点)。最新情報はウェブサイトにて。

JCCCW: Japanese Cultural & Community Center of Washington
1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144
☎206-568-7114
www.jcccw.org


ともだち・ガーラが初オンライン開催

シアトル日本語学校の子どもたちからのメッセージ

毎年開催されるJCCCWのファンドレイジング・イベント「ともだち・ガーラ」では、コミュニティーが一堂に会してJCCCWとそのプログラムを支援する。また、日本・日系の文化や伝統の振興に貢献した個人・団体の表彰も行われる。今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により、8月11日にYouTubeにてオンライン開催された。約40分という短い時間となったが、館内の新エレベーター設置についてほか、日系ホライズンのカルチャー教室が敬老ノースウェストから引き継がれてJCCCWで開催されることなど、各関係者から活動報告と共に支援への感謝が伝えられ、踊りのパフォーマンスも披露された。全容はJCCCW のYouTubeチャンネル(www.youtube.com/user/JCCCWA)にて視聴できる。

シアトルの日系コミュニティーを支えた三原源治氏による、強制収容される心情を込めた一句を紹介する場面も

脚本家・俳優・監督  レーン・ニシカワさん

詩人、脚本家、俳優、映画監督、そして日系コミュニティーの語り部としての顔を持つ日系3世のレーン・ニシカワさん。日系人およびアジア系アメリカ人を題材に、独自の視点から作品を発表してきました。最新作となる映画では、第二次世界大戦中に強制収容所へ送られた12万人もの日系人の苦悩を描きながら、今なお社会にくすぶる人種問題をめぐって私たちは何ができるのかを問いかけています。これまでの作品に込められたテーマや撮影秘話などについて話を聞きました。

取材・原文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:シュレーゲル京希伊子

※本記事は『北米報知』2月14日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

レーン・ニシカワ(Lane Nishikawa)■脚本家、俳優、監督。ハワイに生まれ、サンフランシスコで育つ。現在はサンディエゴ在住。サンフランシスコ州立大学在学中からアジア系アメリカ人を題材にした作品を発表し続けている。自ら脚本を書いて演じたワンマンショー3部作に続き、第二次大戦中に実際に起きた日系部隊によるアメリカ兵の救出劇を描いた長編映画などを製作。最新作では、戦争によって翻弄された日系人コミュニティーの苦悩をドキュメンタリーで描く。

アジア系俳優への偏見を乗り越えて

レーン・ニシカワさんの活動領域は多岐にわたる。詩や脚本の執筆から、俳優として演技までこなし、自らメガホンも取る。さらに作品を通じてアジア系アメリカ人のたどってきた歴史を語り継ぐ活動家でもある。これまで映画、舞台、創作文などさまざまな表現方法を用いて日系人の軌跡を描いてきた。そんなニシカワさんを、オスカー受賞歴もあるスティーブン・オカザキ監督は「最も感動的な作品を生み出すアジア系アメリカ人のひとり」と評している。

生まれはハワイ州ワヒアワ。幼少期にサンフランシスコに移り、早くから地元の演劇界で活躍した。サンフランシスコ州立大学ではアジア系アメリカ演劇を専攻し、創作文、民族研究、演劇について学ぶ。ちょうどアジア系アメリカ演劇の機運が盛り上がりを見せる時期だった。アジア系アメリカ人を題材にした舞台を数多く観る中で、それまで「口語自由詩」の創作に没頭していたニシカワさんの関心は演技に向かう。ほどなくしてサンフランシスコのジャパンタウンで毎年恒例となっているストリートフェアでの公演を皮切りに、各地で自らワンマンショーを上演するようになった。

デビュー作となった「ライフ・イン・ザ・ファスト・レーン(駆け足の人生)」の初演は1985年。アジア系アメリカ人の作家が直面する出版までの険しい道のりをインタビュー形式で描いた、ニシカワさん創作のワンマンショーで、架空の番組ホストからの質問に対し、作家に扮したニシカワさんが答えるという設定だ。黒人地区で育ったという生い立ちや、第442連隊戦闘団の亡霊を見たというくだり、さらにはアジア人男性との結婚を控えた娘に対する父親の嘆きを偶然聞いてしまったというようなエピソードを織り交ぜ、社会に潜む人種への偏見をさりげなくあぶり出す作品は大成功を収めた。「50都市くらいで上演されたのではないでしょうか。アメリカ、カナダ、ヨーロッパと回りました」。同じ頃、ニシカワさんはアジア系アメリカ人の劇団を任され、1986年に芸術監督に就任する。任期は10期にも及んだ。「私の在任中、数多くのプロデューサーや監督を輩出し、若手劇作家も支援しました」

2017年製作の第442連隊、第100歩兵大隊退役軍人とその家族を題材にした短編ドキュメンタリー映画「ネバ―・フォアゲット(忘れない)」の撮影セットでスタッフと打ち合わせ中(本人提供)

1991年になると、自身にとって第2作となるワンマンショー「アイム・オン・ア・ミッション・フロム・ブッダ(アジア人として生きる)」を発表する。アメリカ人と言えば白人を指すような、まだまだ保守的だった演劇界で、アジア系の役者が主役級の役を射止めることの苦労を描いた作品だ。「舞台だろうと映画だろうとテレビだろうと、私を起用するところなんてありませんでした」。そんな自身の経験から、この作品の構想を思い付いたという。当時のニシカワさんは、地元サンフランシスコでこそそれなりの実績はあったものの、ハリウッドを擁するロサンゼルスではオーディションに出たところで端役しかもらえない。「『血圧を測ります。銃弾が動脈をかすめましたからね』。台詞は、たったそれだけですよ」。だったら自分で演じようと、日本人ラッパーから寿司を毛嫌いする肉体労働者まで、90分の作品の中で1人18役をこなした。ニシカワさんの狙いは大当たりし、同作は1993年にサンフランシスコのローカル局から全米に向けて放映された。「ベイエリアだけでも、20万近くの人が観てくれました」

続く第3作「ミフネ・アンド・ミー(三船と私)」では、アメリカのメディアが過去150年間でアジア系アメリカ人をどのように捉えてきたのかを、自身が敬愛する日本人俳優、三船敏郎を通して鋭く描いた。「祖父は日本出身で、三船の大ファンでした。私は顔立ちが日本人でも、この地では決して三船のような存在にはなれません。そのことを悟った私は、どうしてもメディアが作り上げたアジア系アメリカ人像について掘り下げたかったのです」

人種問題を扱う作品はやがて戦争、そして日系人がテーマに

1996年の作品「ザ・ゲート・オブ・ヘブン(天国の門)」は、一変して遠く離れたドイツのダッハウ強制収容所が舞台となる。そこに囚われていたユダヤ人を解放する日系人兵士の物語だ。この作品は批評家から絶賛された。

「オンリー・ザ・ブレイブ」出演者。ユニバーサル・スタジオにて(シェーン・サトウさん提供)

この頃からニシカワさんは映画にも取り組むようになり、いくつかの短編を手がけた後、2006年に初の長編映画「オンリー・ザ・ブレイブ(勇者たち)」を世に送り出す。1944年10月、フランスのヴォージュ山中でナチス軍に包囲された「失われた大隊」の救出。第141歩兵連隊第1大隊(通称テキサス大隊)を日系2世で編成された第442連隊と第100歩兵大隊が、救出が絶望視されていた中で甚大な犠牲を払って助け出したという実話に基づいている。この作品に対するニシカワさんの思いはとりわけ強い。

「私には第442連隊とMIS(アメリカ陸軍情報部)に属していた伯父が7人います。撮影当時にはひとりを残してすでに全員他界していました。父は補充要員として訓練を受けたのですが、盲腸が破裂したため半年間入院。退院したのは1945年で終局が見えていましたから、戦場に送られることはありませんでした」

JACLサンディエゴ支部役員と共に。後列左端がニシカワさん(本人提供)

ニシカワさんは、できるだけ多くの人にこの作品を観て欲しいと考え、10年もの間、上映の機会を求めて奔走した。「配給会社を確保し続けなければと手を尽くしました。新作の資金集めも兼ねていましたが、本当に苦労しました」。そこで次作ではドキュメンタリーの手法を取ることに決め、やっとのことで国立公園局の日系アメリカ人強制収容所プログラムから助成金を得る。「日系アメリカ人市民同盟(JACL)のサンディエゴ支部が資金面でスポンサーになってくれたおかげで、資金調達が格段に楽になりました」

キャンプと言えばサマーキャンプの世代が描く日系人の強制収容

最新作の「アワー・ロスト・イヤーズ(失われた歳月)」は、戦時中に立ち退きを命じられ、強制収容所に送られた日系人たちの実態を描いたドキュメンタリー作品だ。製作に当たり、ニシカワさんは7都市を訪ね、実際に収容所で暮らした人たちとその子ども、孫の世代を取材し、アメリカ史の汚点とも言える収監政策が日系社会に残した心の傷に光を当てた。さらに、戦後補償をめぐる連邦政府との闘いにも触れながら、現在の政治を取り巻く状況に対して、少なからず不安を感じる日系社会の心の内を代弁し、負の歴史を繰り返さないことの重要性を訴える。

「オンリー・ザ・ブレイブ」の撮影セットにて。左からマーク・ダカスコスさん、ジェイソン・スコット・リーさん、ニシカワさん、
ユージ・オクモトさん(シェーン・サトウさん提供)

「2世だった私の両親や1世の祖父母は、強制収容について多くを語りませんでした。辛く、苦しい時間だったのでしょう。日系人が失ったものの大きさは計りしれません。沈黙が彼らの苦悩を物語っています。収容所はキャンプと呼ばれましたが、私たち3世はキャンプと聞くとサマーキャンプを連想する程度でした。戦後補償の動きが出てきて初めて、祖父母や両親たちの世代の声に真剣に耳を傾けるようになりました」

作品には、ノーマン・ミネタ元運輸長官やマイク・ホンダ元下院議員、作家のジョン・タテイシ氏といった日系社会を代表する、そうそうたる人物たちのインタビューも収められている。さらには、日系社会以外の声も拾おうと、アメリカ・イスラム関係評議会(CAIR)の元サンディエゴ支部長のハニフ・モヘビ氏や、ユダヤ系団体の名誉毀損防止同盟(ADL)地域ディレクター、アマンダ・サスキンド氏なども登場する。

「政治家や市民リーダーだけでなく、イスラム系団体にもユダヤ系団体にも取材しました。予算は限られていましたが、単に強制収容の事実だけを追うのではなく、戦前の暮らしや収容所での生活、そして解放されて3世へと生命が受け継がれる中、戦後補償を勝ち取るまでの流れで捉えたかったのです」

ニシカワさんは、どんなに深刻な題材でもユーモアを交えることを忘れない。そのほうが聴衆の心に響くからだ。「扱う題材が特殊であればあるほど、場面ごとに緩急を付けるためにもユーモアは欠かせません。たとえば、作品には収容所の調理係の話が出てきます。彼は養鶏場で育ったので鶏は調理できますが、七面鳥の調理の仕方がわからない。感謝祭で七面鳥を生焼けのまま出してしまい、食べた人たちがトイレに駆け込むという一幕がありました。当然、調理係はクビ。ほかにも、父親がたった15ドルで車を売らなければならなかったと嘆く女性が出てきて、どんなにいい車かと思えば実は中古のポンコツ車だったというシーンもあります」

ただし、現実をユーモアで覆い隠すようなことは決してしない。「作品の中で、ユダヤ系のサスキンドさんが『憎悪のピラミッド』について話す場面があります。これは、最初は何気ない人種差別的な発言でも、それが暴力へと発展し、ゆくゆくは国家レベルの犯罪行為へとエスカレートしていく、という考え方を図で示したものです」。ニシカワさんは、今日の状況も同じような構図をたどっているのでは、と危惧している。それは「アワー・ロスト・イヤーズ」のテーマとも結び付く。

「この作品で描いているものは、異なる世代間や家族の結び付き、母国への忠誠心、愛する者のためには自己犠牲をいとわない、燃えるような気持ち、それに喪失と悲しみです。日系人はかつてこうしたことを体験させられました。日系人の強制収容につながった大統領令9066号は、混乱の時代のアメリカで発せられた暗黒の決定です。私たちは未来の世代に対して、この事実を忘れることなく語り継ぎ、そして同じことがどんな人種にも、どんな地域社会にも、何よりもアメリカ人ひとりひとりに対し、繰り返されないようにする責任があります」

最後に、ニシカワさんは作品に込めた思いを伝えてくれた。「私の作品をきっかけに、人々の日系人への見方が変わり、ありのままの姿を知ってもらえればと願っています。日系人だけでなく、全てのアメリカ人に観て欲しい作品。これは紛れもなくアメリカの物語だからです」

   DVD情報
写真提供:ビル・マンボ・コレクション

ニシカワさんによる映画最新作「アワー・ロスト・イヤーズ」は「オンリー・ザ・ブレイブ」と共にDVD化され、以下のウェブサイトなどでオンライン購入もできる。
https://njahs.myshopify.com

INTERVIEW:フジマツ・コーポレーションCEO(宇和島屋元CEO、ソイソース・北米報知発行人) トミオ・モリグチ

新しいビルも増え、街の景色が変わりつつあるインターナショナル・ディストリクト。この地区に、小売店、ホテル、アパートを構える「富士松ビレッジ」の建設計画が新たに進んでいます。この再開発の立役者が、本誌発行人で、宇和島屋元CEOでもあるトミオ・モリグチ。日本町の復興とインターナショナル・ディストリクト繁栄にかける思いを明かします。

トミオ・モリグチ■  宇和島屋元CEO。本誌、姉妹紙『北米報知』の現発行人。1936年にタコマに生まれる。1961年にワシントン大学で機械工学の学位を取得後、ボーイングに技術者として入社したが、父親の富士松さんが病に倒れ、1962年に亡くなると、宇和島屋を引き継いだ。家族経営のスーパーマーケット事業をその後の数十年でチェーン展開し、ノースウエストで最も評判の高いブランドとなるまでに成長させた。2007年にCEOを退き、2016年まで会長を務めた後、現在は自身の不動産会社であるフジマツ・コーポレーションの経営に取り組んでいる。コミュニティー・リーダーとしての活動も多岐にわたり、敬老ノースウェスト、ピュージェット・サウンド・エナジー、サンフランシスコ地区連銀、KCTS 9、ワシントン大学、シアトル・カレッジーズ、パシフィック・サイエンス・センターなどでボランティア理事を務めてきた。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:宮川未葉 写真:ハントシンガー典子、鎌田賢祐 
写真提供:モリグチ・ファミリー、宇和島屋、本人

※本記事は『北米報知』2020年1月10日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

このコミュニティーは、変化しなければなりません

1952年のモリグチ一家。モリグチは後列左から3人目。兄弟姉妹と母の貞子さん(前列左から3人目)、父の富士松さん(同4人目)も写っている

戦争で失われた日本町のルーツを復活させたい

子どもの頃は父親の富士松さんと共に、「(インターナショナル・ディストリクトの)メイン通りをよく散歩していた」と言う。第二次世界大戦後に強制収容所での生活から解放されたモリグチ一家は、戦前に家族で経営してきた宇和島屋を再建しようとしていた。

宇和島屋の旧店舗の前に立つ富士松さん

戦時下、シアトル周辺に住む日系移民とその家族は、ほぼ着の身着のままで強制収容所に送られたため、もともとタコマにあった店を手放さざるを得なかったのだ。モリグチは当時をこう回想する。「私はまだ10歳ほどでした。いつもの散歩中に、父は荒れ果てた店の前に立ち、店主と話し始めました。フィリピン人が経営する小さな食料品店でした。父が片言の英語で『この店は売りに出しているのか』と尋ねると、その店主は『どうぞ!』と鍵を父に投げてよこしたのです」。

宇和島屋の旧店舗。1964年撮影

後にノースウエスト最大規模の食料品店チェーンとなる宇和島屋のシアトルでの歴史は、ここから始まった。その後、宇和島屋は、現在も青い瓦屋根の旧店舗が残るS. Weller St.に移転。シアトルで初めて開店したS. Main St.の店舗跡地は、駐車場としてモリグチが引き継いでいた。昨年末からプロジェクトが始動した複合商業施設の富士松ビレッジは、まさにそのシアトル初店舗があった区画に建設される。5th Ave. S.沿いのS. Jackson St.とS. Main St.の間、インターナショナル・ディストリクト駅の対面に位置する。「メイン通りは昔、日本町として栄えた場所でした」。日本語名を付けることは、父親への敬意だけでなく、この地域を日本町として復興させるのに役立つからだとモリグチは語る。

同じく1952年、兄のケンゾーさん(右)とS. Main St.にあった宇和島屋の旧店舗で働くモリグチ

INTERVIEW: ワシントン州日米協会理事長 カーリン・ザーグ・ブラックさん

政府機関であるシアトル港湾局で、多岐にわたる業務を担当するカーリン・ザーグ・ブラックさん。毎日が目も回る忙しさでも、カーリンさんは「天職」だと言い切ります。なぜなら「人と人をつなぎ、共通項を探すことに何よりの喜びを感じる」から。そう考えるようになったカーリンさんのルーツは、神戸での日々にありました。阪神淡路大震災から25年の節目を迎える1月17日を前に、現在までの軌跡をたどってもらいます。

取材・原文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:大井美紗子 写真提供:本人、JASSW

※本記事は『北米報知』2019年11月8日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

地域のお祭りに参加するカーリンさんと他の留学生。1988年、広島にて

シアトルで生まれ、広島経由で神戸へ

カーリンさんが育ったのは、シアトルのキャピトルヒル。多様性に富んだ街だ。スティーブンス小学校、ミーニー中学校、ガーフィールド高校と公立校を進み、どの学校でも日本語、中国語、韓国語を話す友だちに囲まれていた。そんな環境に身を置いていたことが、アジアに興味を持つ、そもそものきっかけだったのかもしれない。ドイツ語話者の両親には勉学や国際性、留学の大切さを教えられて育ったが、いざ留学しようと考えた時に心引かれたのは、両親の生まれ故郷であるヨーロッパよりもアジアだった。

広島で、高校のクラスメートたちと出かけた遠足

カーリンさんは国際ボランティア団体であるAFSのプログラムに参加し、ガーフィールド高校を予定より早く卒業して、広島市ののどかな農村地帯へと留学する。1988年のことだ。受け入れ先の高校にとっては、初めての交換留学生。ホームステイをしたのは3代続く山の上の農家で、自転車・バス・電車を乗り継ぎ、1時間半かけて通学した。熱心な先生たちの指導もあり、広島での1年間でカーリンさんの日本語はライティング、リーディング共に中学生レベルにまで飛躍を遂げる。その後、上達した日本語を生かすべく、カリフォルニア州ロサンゼルス・エリアにあるポモナ・カレッジへ進学して留学生寮へ入り、アジア研究を専攻。そこでは日本史と日本文学を学んだ。

その間、京都の同志社大学でも1年間学び、ホームステイを経験。その時期に集中して学んだことで、日本語スキルはさらに磨かれた。大学を出た後も、外国青年招致事業であるJETプログラムに国際交流コーディネーター枠で応募し、今度は神戸市へと渡った。神戸市は、姉妹都市であるシアトル出身で英語も日本語もできる人を探しており、カーリンさんはまさにぴったりの人材だった。

阪神淡路大震災、復旧現場の前線で

神戸には1993年から1996年までの3年間滞在した。「素晴らしい経験だった」とカーリンさんは振り返る。神戸市とシアトル市、神戸港とシアトル港は姉妹関係を結んでいる。外国領事や外国訪問団と調整を行いながら、カーリンさんは2都市・2港の橋渡し役として活躍した。その経験は、現在のシアトル港湾局での仕事につながっている。

1995年1月の阪神淡路大震災直後。カーリンさんは災害救助犬を連れたスイスのレスキュー隊、日本の消防庁と共に神戸で復旧作業を行った

1995年1月に阪神淡路大震災が発生した際も、神戸にいた。震災直後の1週間、現場で復旧作業に従事した。主な仕事は、災害救助犬を連れて神戸入りしたスイスのレスキュー隊と、日本の消防庁・自衛隊員たちの通訳。がれきの間から人を掘り起こすような最前線の現場で1週間、働き尽くした。その経験があるので、「今でも災害準備は常に怠らないようにしている」とカーリンさん。震災後、神戸市との雇用契約を延長した。理由は「徐々に復興していく神戸の様子を見守りたかったから」。2次災害対策のために、シアトルやその他さまざまな場所から支援者が訪れ、カーリンさんは彼らの通訳に奔走した。

シアトル市と神戸市の強いつながり

1997年にシアトルへ戻り、シアトル・神戸姉妹都市協会で働くことになった。翌年からは議長となり、18年にわたり務め上げた。シアトル市も神戸市も、複数の都市と姉妹都市提携をしているが、初めて提携を結んだのは、お互い神戸市とシアトル市。2都市は深い絆で結ばれている。

米国の姉妹都市制度は、アイゼンハワー大統領によって1956年に始められた。当時のシアトル市長であるゴードン・クリントン氏、ワシントン州知事のアルバート・ロゼリーニ氏を始め、シアトルの公立校の多くもこの制度を利用したいと要望を出し、翌年の1957年にはシアトル市と神戸市の姉妹都市提携が結ばれた。全米でもいち早くスタートした姉妹都市なのだ。

カーリンさんは、姉妹都市関係で要になるのは「草の根での人と人との交流」だと語る。「私たちは世界中の人とつながる必要があります。人とのつながりこそが、世界平和を実現する方法だからです」。より多くの人がつながり、世界がより良い場所に近付いていくことを考えるだけで、いつもワクワクするとカーリンさんは話す。

2017年には、シアトル・神戸姉妹都市提携60周年が祝われた。60周年用のフライヤーを作成したカーリンさんは、2都市のつながりの強さを再確認したそう。世界的な青少年育成団体であるYMCA間の交流は50年を超え、シアトルヨットクラブと須磨ヨットクラブ、ロータリークラブ、ソロプチミストクラブ、シーフェアでも人材の行き来がある。

カーリンさんは、2016年からシアトル港湾局で勤務し始めた。シアトル・神戸姉妹都市提携60周年および姉妹港提携55周年記念事業に着手する直前のことだ。「最高のタイミングだった」とカーリンさんは説明する。シアトル港湾局と姉妹都市協会を行き来し、訪問団の手助けに注力できた。「神戸は第二の故郷。大学を出て初めて、社会で働き始めたのが神戸でした。神戸で私の人生は変わったんです」

神戸との関係でとりわけ思い出深いのが、2002年、姉妹都市提携45周年の記念事業の際に当時のシアトル市長、グレッグ・ニッケルス氏の通訳を務めたことだと言う。神戸市にある、人と防災未来センターを見学した後、ある学校を訪問した。学校で生徒たちによる避難訓練を見学し、市長と生徒たちの対話の場も設けられた。ニッケルス市長は、阪神淡路大震災で消防署と警察署が倒壊してしまった話を聞いて、大変なショックを受けた。シアトルに帰ると、すぐに消防署の状態を聞いて回った。「災害時、消防署は市民の司令塔にならなければいけない。倒壊することなどあってはならない」と。それが契機となって莫大な火災徴収費が課され、シアトル市内の消防署がきれいに建て替えられた。新しい消防署も次々に造られた。

半世紀の時を超えて今伝えたい ヤキマに生きた日系人の物語

ワシントン州中部に位置するヤキマ。戦前までは日本町が形成され、多くの日系人パイオニアたちが暮らしていました。 しかし1942年、郊外のワパトにあった日本町を含むヤキマ地域から、1,000人以上の日系人が強制収容所に送られました。父方の家族がワイオミング州ハートマウンテン移住センターに強制収容となったパティー・ヒラハラさんは、祖父と父が残した当時の写真を発見。現在、ヤキマの日系人の体験を語り継ごうと精力的に活動しています。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:宮川未葉

 

アメリカにおける日系人の遺産を守ることは
日系4世である私の使命

 

ヤキマの日系人の歴史を伝える写真

第二次世界大戦の開戦で、当時のルーズベルト大統領は「大統領令9066号」を発令し、日系人を強制収容所に移送し た。日系人はそれまでに築いた財産や家、土地を急いで売り払わなければならず、多くを失うことになった。パティーさんは、強制収容の話を家族から詳しく聞いていたわけではなかったと話す。「私の家族の場合、パシフィック・ホテルなど不動産を所有していて、強制収容時にその処分を弁護士と不動産業者に頼んでいろいろとやってもらっていたと聞いていました。国立公文書館で私の家族について調べると、家族が住んでいた家の借り手に関するハートマウンテン、ヤキマ間の通信記録があり、そこから、その弁護士と不動産業者の名前がわかりました」

ヤキマの日系人の歴史を伝えたいというパティーさんの情熱に火が点いたのは、祖父のジョージさんと父のフランクさんがハートマウンテンで撮影した、2,000枚にも上る写真のネガを見つけたことがきっかけだった。1992年、祖父母の引っ越しを手伝いにヤキマに行ったパティーさんは、屋根裏に上がり、「ハートマウンテン」と書かれた小さな青い箱を見つけた。中には、850枚の写真のネガが入っていた。

パティーさんの祖父・ジョージさん、祖母・ コトさんと、まだ赤ん坊の父・フランクさん。 1926年、ヤキマにて
(写真提供:アナハイム市立図書館ヒラハラ・ ファミリー・コレクション

「1982年、ハートマウンテンにいた人たちの初の親睦会がロサンゼルスで開かれ、父はそこで写真を公開したんです。写真の存在自体は、その時に知りました」。しかし、パティーさんは、これほど多数の写真があるとは聞いていなかった。フランクさんが2006年に亡くなった後の2010年には、さらに1,200枚の写真のネガを見つけた。「父の自宅のクローゼットにあり、ケースに入っていて保存状態は良好でした。父が高校生の時の写真も、この中にありました」

フランクさんがハートマウンテンに送られたのは16歳の時だった。その後、1944年に高校を卒業。卒業アルバムの写真編集員で、生徒会委員も務めていた。「父と祖父は、趣味で写真を始めました。ハートマウンテンに着いたふたりは、歴史を記録する良い機会だと気付いたのでしょう」。 ジョージさんは収容所の外の畑で働いてお金を貯めて中古車を買い、収容所の外に出て写真用品を購入したり、イエローストーンほか、ハートマウンテン周辺の景色を撮影したりしていたという。

ジョージさんはまた、ハートマウンテンでバラック小屋の端に写真を現像する暗室と撮影室を秘密裏に造った。高さは1.2 メートルしかなかったが、さらに60センチほど地面を掘り、高さ1.8 メートルの空間ができた。ジョージさんは電気関係の仕事をしていて、ヤキマ仏教会の会館を建てた時に電気工事を担当したほど、もともと電気のことに詳しかった。物資が限られた中でうまくやりくりしてできた暗室は、ほかにはない精巧な造りだった。「祖父は証拠をつかまれないように細心の注意を払っていました。祖父が引き伸ばし機の前に立っている写真はありますが、それがどこなのかはまったくわかりません。ただ、国立公文書館に保存されている通信記録によれば、ハートマウンテンの役人は状況を把握していたのではないかと思います」

 

強制収容を語る重要な資料に

当時の貴重な写真を思いがけなく見つけたパティーさんは、「私の家族の写真で、ノースウエストの歴史の空白を埋めることができる」と意気込んだ。「ヤキマの日系人パイオニアのことを知らないアメリカ人は多いんです。ヤキマは独特の歴史を持つ地域。ハートマウンテンを出て行った1,018人の日系人のうち、ヤキマに戻ったのはわずか10パーセントでした。私は、第二次世界大戦前のヤキマバレーの日系人の歴史を広く伝えることに力を注ごうと決心しました」

戦前のヤキマには 1,000 人以上の日系人が住んでいた (写真提供:ヤキマバレー博物館ヒラハラ・ファミリー・コレクション)

パティーさんの家族を含め、戦後にヤキマバレーに戻った日系人は少数にとどまる。パティーさんは、ヤキマに住む日系人たちと協力して、ヤキマの日系人史を伝える取り組みを続けた。その結果、日系人たちの話が地元紙『ヤキマ・ヘラルド・リパブリック』を始め、全米のメディアで取り上げられるようになった。パティーさんは、自身が暮らすカリフォルニア州アナハイムでも、第二次世界大戦前後の日系人パイオニアやアリゾナ州ポストンへの強制収容のことを知ってもらおうと、1999年から市と協力して活動している。こうしてアナハイム市立図書館は、2018年に国立公園局日系アメリカ人強制収容地助成金を受けることになった。この助成金により、アナハイムのMUZEOに460平方メートルもの展示スペースが設けられ、「私はアメリカ人:恐怖時代の日系人強制収容―アナハイムの日系人パイオニアの知られざる歴史」展が、8月 25日(日)から11月3日(日)まで開かれる予定だ。

パティーさんは写真の寄贈も積極的に行っている。ヤキマバレー博物館のほか、フランクさんが1945年から在籍し、1948年に卒業したワシントン州立大学(以下WSU)には2,000枚以上の写真を寄贈。フランクさんは、WSUで陸上競技部に所属し、1946-1947年度の運動部委員にも選出された。「運動部委員は学生による投票で決められます。戦争が終わった翌年に日系人として選ばれるなんて、すごいことです」。また、写真はオレゴン日系基金にも寄贈され、その展示と共にポートランドに帰還した日系人についての話を今に伝えている。

ヒラハラ家が所有してい たパシフィック・ホテルの前 に立つ 2 人の男性
(写真提供:ヤキマバレー博 物館ヒラハラ・ファミリー・ コレクション)

パティーさんの取り組みには大きな反響があった。2018年4月には、WSU同窓会から名誉卒業生賞を受けた。「写真を寄贈したことにより、WSUはアメリカにおける日系人強制収容の研究分野で中心的存在となりました。これは、WSU卒業生でない私がWSUから受けられる最も名誉ある賞です。また、1966年に授与が始まって以来、初の日系アメリカ人受賞者でした」。そして、ヤキマ郡ユニオンギャップで同年8月に行われた、開拓時代の農業や当時の生活の様子を紹介するイベント「ワシントン州パイオニア・パワー・ショー」で、パティーさんは総指揮者に任命された。「祖父も1987年に同じ栄誉を受けました。おそらく祖父はこの栄誉を受けた最初の日系アメリカ人で、私は2人目です」

 

ヤキマは第 2 の故郷

パティーさんの父方の曾祖父母、祖父母は、ヤキマにあるタホマ墓地に今も眠る。「一家2世代が埋葬されているヤキマに行くと、第2の故郷に来たような感じがします」と、アナハイム育ちのパティーさんは語る。ヤキマに来た日系人パイオニアたちが自分たちの名を後世に伝えようと、その一画を購入していたのがタホマ墓地だ。

実は、内陸にあるヤキマ地域では当初、強制収容は実施されないことになっていた。しかし、「人種差別熱をあおり立てて日系人を強制収容所に送るよう要求すれば、競争相手を消すことができる」という農家の風潮が高まり、ヤキマの日系人コミュニティーにもその矛先が向けられた。「もし強制収容がなかったら、ひょっとすると今では大きなコミュニティーになっていたかもしれません」とパティーさん。「写真を寄贈したヤキマバレー博物館で2010年に展示が始まると、州内各地から人が訪れるようになりました。このようなコミュニティーがあったということに、みんな驚いています」

パティーさんは、これからもヤキマの歴史が語り継がれて欲しいと願っている。「ヤキマの歴史を知る人はごく少数です。アメリカにおける日系人の遺産を守ることは、日系4世である私の使命。歴史を保存する取り組みを次の世代にもつなげたい、それが今の私の夢です」

 

私の家族の写真で、ノースウェストの歴史の
空白を埋めることができる

 

パティさん(左)ワシントン DC のスミソニアン協会に一家の遺品を寄贈。2017 年、デービッド・スコートン会長と スコートン氏の個人コレクションの前で(写真提供:スミソニアン協会)

パティー・ヒラハラ(Patti Hirahara)■ヒラハラ家の写真を集めたヒラハラ・ファミリー・コレクションの調査と展示監督を、和歌山県、ヤキマバレー、ワシントン州立大学、オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州アナハイムで行う。ヤキマバレー博物館、オレゴン日系レガシー・センター、アナハイムでの展示制作に貢献。ヒラハラ家の遺品を、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館の「不正を正す―日系アメリカ人と第二次世界大戦」展に寄贈し、今年はハートマウンテン・ワイオミング解説センターに貸し出すことが決まっている。

多文化共生を実現するのは「地球市民」の子どもたち

ウォーリングフォードにある公立小学校のジョン・スタンフォード・インターナショナル・スクール(以下JSIS)では、英語で半日授業、もう半日は日本語またはスペイン語で授業を受けるデュアル・ランゲージ・イマージョン・プログラムを実施しています。同校の特徴と魅力について、保護者の方たちとシアトル市教育委員会のミシェル・アンシオー・アオキ国際教育主任に話を聞きました。

文:ブルース・ラトリッジ、翻訳:宮川未葉

日本語環境で自然に言語と文化を学ぶ

イマージョンとは「浸す」ことを意味し、母国語を使わずに他言語で教科内容を学ぶ。英語以外の言語「を」学ぶのではなく、その言語「で」学ぶ教育方法だ。シアトル学区で提供する日英デュアル・ランゲージ・イマージョン・プログラムでは、2000年の開始以来、何百人もの生徒が学んできた。JSISも同プログラム実施校で、この2018年度は468名の児童が日本語またはスペイン語で授業を受けている。

なぜ、同校の保護者は近所の一般的な小学校ではなく、JSISを選択したのだろうか。それは子どもにとって「豊かな経験になる」と信じているからだ。子どもが日本語コースに通う保護者のひとり、ハイディ・ライツマンさんは、学業だけでなく日本の言葉や文化も学ばせたいと話す。「親族の半分は日本人。ここで学ぶことは、息子の人生に大きな影響を与えるはず。誕生の瞬間から、この子には日本語と共に人生を歩んで欲しいと思っていたので、JSISの存在を知るやいなや『ここに入れなくちゃ』と直感しました」

同じく保護者のソフロナス由希さんは、日本での教師経験から、第2言語を自然に覚えることの難しさを痛感していた。「日本では全員が学校で英語を学びますが、一生懸命勉強し、お金をかけても、自然に話せる域に到達するのは難しいのが現状です」。由希さんは、ロサンゼルスのイマージョン校を訪問した際に、子どもたちが言語を自然に覚えることに感銘を受けた。シアトルにもあると知り、自分の子どもを通わせたいと心に決めていたそう。「学校でよくボランティアをするのですが、ほんの数カ月の間に子どもたちが自然に言葉を覚えていて驚きます」

夫が大阪出身で双子の娘が同校に通う、保護者のデイリン・オズビー・サンディさんは、別の言語・文化を知ると「世界が広がる」と話す。「物事の見方、やり方には、さまざまな選択肢があることを理解するだけで視野が広がります。とても貴重な体験です」。言語だけでなく、文化のイマージョンも素晴らしいと語るのは、保護者のエミリー・メノン・ベンダーさん。「JSISの大きな強みのひとつは、日本語とスペイン語という2言語があること。日本語と日本文化だけでなく、スペイン語圏の様子もわかり、さらに世界が広がります」

シアトル市教育委員会のミシェルさん(写真中央)とJSIS保護者の皆さん(写真左からハイディさん、デイリンさん、由希さん、エミリーさん)
移り変わるイマージョン教育

イマージョン教育は50年ほどの歴史を持つ。シアトル市教育委員会の国際教育主任でJSIS計画を進める委員会メンバーのひとりでもあった言語学者のミシェル・アンシオー・アオキさんによると、カナダのフランス語圏に住む英国系の保護者が、フランス語を知らないことで子どもたちが不利にならないようにと始めたフランス語のイマージョン・プログラムが始まりという。初期のイマージョン校では、「一方向性イマージョン」と現在呼ばれる方式を採用していた。「英語話者である生徒が、英語以外の目標言語に堪能となるようにするものです。こうしたプログラムには、もともと目標言語を家で話す子どもたちは入れないケースが多くありました」。しかし、「言語の維持」への関心が高まる中で、イマージョン教育も変遷を遂げる。「目標言語を話す子どもには、目標言語に加え、英語の時間が設けられるようになりました。この20年間の多くの研究から、最も効果的なのは、生徒が両言語で貢献し、教師だけでなくお互いから学べる『双方向性モデル』であるということがわかってきました」

JSISは4年前からオープン・エンロールメントのオプション・スクールとなり、従来の通学区外の児童も、シアトル市内在住であれば通えるようになった。ハイディさんは、「それ以来、日本語のネイティブ・スピーカーの入学者が増えました。スペイン語コースでも同じことが起こっています」と明かす。同校は、英語を話す児童が日本語を学べるだけでなく、日本語をもともと話す児童が日本語を維持するにも大きく役立っている。

 

多様性は障壁でなく強み

校名は、1995年にシアトル学区赴任となったジョン・スタンフォード元教育長の名前が由来だ。同校の誕生も、同氏によるところが大きい。「陸軍大将を退職したスタンフォード氏は、言語が生死を分けるという、言語の価値に関して普通とは違うグローバルな経験をしてきました」と、ミシェルさん。

学区内の学校を視察したスタンフォード氏は、行く先々で、次のような訴えを聞くことになる。「困りました。130もの言語を話す子どもたちに、どうやって教えれば良いのでしょう。英語を話すこともできないんです」。スタンフォード氏は、こう答えた。「それは大きな財産になります。他言語を話す子どもたちは国を豊かにしてくれます。安全保障、ビジネス、経済、どんな分野でも世界の一員となるには言語能力が不可欠ですから」。英語ができないという「欠陥」から「財産」への転換。ダ
イバーシティ(多様性)は乗り越えるべき障壁ではなく強みと見なしたスタンフォード氏の先見の明が、この言葉にはよく表れている。スタンフォード氏は、誰もが言語学習者となる国際的な学校構想について熱心に訴えた。シアトル学区は閉校が続いて生徒の流出に悩んでおり、この学区に来たいと思わせる何かを探していた。そして、当時のオプション・プログラム・アット・スワード・スクール(TOPS K-8スクール)校長であったカレン・コダマ氏が、同氏に賛同。開校準備の指揮を執ることになり、連邦政府に交付金を申請し、開校の準備を進めた。

日本語とスペイン語を教えることになったのは、ビジネス的な判断からだ。「スタンフォード氏はビジネス界を強く意識していました。カレンが行った調査では、開校準備中の当時、ビジネス界はスペイン語と日本語が話せる人材を渇望していました。あと5年で中国語のニーズも高まるという話でした」と、ミシェルさんは続ける。シアトルの日系社会に与える影響も、それを後押しした。「日本語に決まったのは、1990年後半から2000年代まで、ビジネス界にとって重要な言語だったという以外に、もうひとつ理由があります。カレンは日系3世です。シアトルの日系コミュニティーは(第二次世界大戦中の強制収容や財産の没収など)過去に多くを奪われてきました。JSIS計画委員の多くがそれを認識しており、日本語はこの地域にとって非常に重要な文化的意義を持つと考えたのです」

当初計画されていたキンダーガーテンから高校までのイマージョン一貫教育は叶わなかったが、2000年秋には新しいインターナショナル・スクールがリンカーン・ハイスクールの地に開校した。やがて現在の地に移転すると、白血病を患い、開校を待たずに世を去ったスタンフォード氏の名前を校名とし、現在に至る。そして2019年秋、スタンフォード氏の遺志を継ぐかのように、デュアル・ランゲージ・イマージョン・プログラムを導入したリンカーン・ハイスクールが再オープンすることになった。シアトルの公立校で、同氏が熱望していたイマージョン一貫教育が、今ようやくスタートするのだ。

JSISの正面玄関ロビーには、故ジョン・スタンフォード氏の肖像画が飾られている
インターセクショナリティで新時代を拓く

イマージョン教育を通して子どもたちはどのように変わったのだろうか。ハイディさんは、自身の母が息子と話すのを見聞きするたびに、子どもの成長を実感すると笑顔を見せる。「普段は息子がどれだけ学んでいるか気付きませんが、息子が母との間で私とはできない会話をたくさんするようになっていて、私の決断は間違っていなかったと確信しています。このような絆が育めたことは幸運でした」

デイリンさんの2人の娘は、日本とハワイで日本の親族と会う時に通訳をしてくれるそう。「2人ともとても満足そうにしていて、こうして育まれた自信は、ほかの場面でも役に立つと思います。また、私たちはユダヤ系でもあるのですが、お正月とユダヤ教の過越(すぎこし)の祭りを結び付けるなど、他文化を関連付けて考えられるようになっています。まさに文化の橋渡しですよね。子どもたちはひとつの物事が複数の側面を持つことを理解しています。これはインターセクショナリティ(交差性)と呼ばれるそうですが、この言葉は私が子どもの頃にはありませんでした」。また、エミリーさんは、親族に日系人や日本人はいないが、小学5年生の終わりに実施される日本への修学旅行に付き添いとして参加した際、イマージョン教育のメリットを改めて理解できたと打ち明ける。「ほとんどの子にとって初めての日本。国外に出るのも初めてかもしれないのに、日本でちゃんとやっていけるスキルを持っています。日本に行ったことで、子どもたちの自信もぐんと高まりました」

そして、インターセクショナリティが、社会を変革していくような大きな力につながっていくと保護者たちは感じている。由希さんは、交換留学生としてオハイオ州で過ごした経験を持つが、教科書で習った「人種のるつぼ」とは裏腹に、学生たちが食堂で人種ごとに分かれて座っていることに衝撃を受けた。しかし、JSISでは日本と直接つながりのない保護者たちが、日本のことを知りたくて、由希さんに話しかけてくるそうだ。「シアトルのコミュニティーはいろいろな人々が混ざって一体となっています。子どもたちが幼いうちからインターセクショナリティの環境になじんでいれば、新聞で報道されているような多くの問題が解決できると思います」。エミリーさんもこう語る。「大事なのは『地球市民』という考え方。インターセクショナリティを目の当たりにする機会を実際に持ち、寛容性を培うことが大切です。何事も柔軟に考え、ひとつの方法だけではなく別のやり方も経験すること。そうすれば、そのツールを使ってどうしたらこの社会をもっと良くすることができるか問いかけることができるようになるのではないでしょうか」

 

2019年度シアトル学区オプション・スクール ※申し込み受付期間2/4(月)~22(金)
日英デュアル・ランゲージ・イマージョン・プログラム実施校
日本語コースがあるのはJSISと、同じくウォーリングフォードにあるマクドナルド・インターナショナル・スクールの2校。シアトル市内在住であれば申し込め、期間中にシアトル学区のウェブサイトから希望校申込書を入手し、オフィスまたはメールで提出する。応募者多数の場合は抽選。目標言語のネイティブ・スピーカーまたは目標言語を母国語とする親の元で育ったヘリテージ・スピーカーには優先枠がある(日本語面接あり)。編入を希望する児童も小学2年生以上は試験を受ける。詳細は問い合わせを。
Seattle Public Schools Admissions Center
2445 3rd Ave. S., Seattle, WA 98134
☎206-252-0760
admissions@seattleschools.org
www.seattleschools.org
※デュアル・ランゲージ・イマージョン・プログラムについては、ミシェルさんに
☎206-252-0191、maaoki@seattleschools.orgにて直接問い合わせを。

 

┃スクールツアー

▶John Stanford International Elementary School

日程:1月30日(水)9am~10am/5:30pm~6:30pm
場所:校内図書室 4057 5th Ave. NE., Seattle, WA 98105
☎206-252-6080
http://stanfordes.seattleschools.org
※2019年度キンダーガーテン日本語コースは1クラス。

▶McDonald International Elementary School

日程:1月31日(木)8:05am~9:30am/6:30pm~7:30pm
場所:校内カフェテリア 144 NE. 54th St., Seattle, WA 98105
☎206-252-2900
http://mcdonaldes.seattleschools.org
※2019年度キンダーガーテン日本語

NOTE
上記2校を卒業後、同じウォーリングフォードで、中学生はハミルトン・インターナショナル・スクール、2019年度からは高校生もリンカーン・ハイスクールで、日英デュアル・ランゲージ・イマージョン・プログラムを継続できる。

ポール・アトキンスさん ワシントン大学教授

藤原定家について、ワシントン大学で公開講演が行われたのは2018年10月25日のこと。講師はアジア言語文学科科長のポール・アトキンス教授です。今でこそ日本文化に深い造詣を持つアトキンスさんですが、初めて渡日した時は、日本についての知識は皆無に等しかったそう。その後いかにして日本への興味を深めていったか、また、定家の魅力とはどんなものなのか、たっぷり語ってもらいました。

取材:ブルース・ラトリッジ 写真:室橋 美佐 翻訳:大井美紗子

 

百人一首の撰者ではない!?
藤原定家が偉大な理由
 

「京都行こう」で人生が変わった

「祇園祭に合わせて、日本を初めて訪れたのですが、その当時はひと言も日本語を話せませんでした」

アトキンスさんが育ったのは、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」や「狼たちの午後」の舞台にもなった、ニューヨークの下町ブルックリン。そこで、日本文化とは縁もゆかりもない生活を送っていた。作家を志し、スタンフォード大学へ進学すると、英米文学を専攻しながらフィクションと詩作を研究。東アジア文化に初めて触れたのは、大学3、4年生の時だ。きっかけは道教、禅、それに「ビート・ジェネレーション」だったという。

ビート・ジェネレーションとは、西洋文明に反発して東洋文化に傾倒する作家グループで、当時の若者やヒッピーに大きな影響を与えた。ビートニクとも呼ばれ、『路上』の作者、ジャック・ケルアックなどは代表的な「ビートニク作家」だ。若きアトキンス青年は、中でも1950年代に活躍したビート・ジェネレーションの詩人、ゲーリー・スナイダーに憧れた。

スナイダーは50年代後半から60年代後半にかけて日本の京都に滞在し、禅や修験道について学んでいる。スナイダーの影響もあり、大学卒業後は京都へ行こうと決めた。といっても、日本の伝統文化に関するコースをひとつ選択していたくらいで、日本語は全くわからない。「それでも、京都が日本文化の中心地であることは知っていました。しかも京都で毎年7月に開催される祇園祭は、世界一の歴史を持つ祭礼だと。その祇園祭を見ようと思って旅の計画を練ったのです」。大学を出たてのアメリカ人が日本へ長期滞在する方法としては「JETプログラム」がよく知られているが、参加申し込み期限はとっくに過ぎていた。それでも、大学の卒業式を6月中旬に終えると、7月初めには京都の地を踏んでいた。

「計画を立てるのが遅すぎましたね。必要なことは京都に着いてから2週間で全て済ませました。英会話教師の仕事とホームステイ先を見つけ、ビザ発給を受け、日本語レッスンをしてもらうために京都YMCA会員向けの集中日本語コースに登録し、未来の妻となる女性にも会って。これだけのことが、たった2週間でできたんです」

日本への滞在はおよそ2年に及んだ。2年目の祇園祭では、勤務先だった英会話学校の同僚の紹介で、長刀鉾を引く機会にも恵まれた。祇園祭前祭のハイライト、山鉾巡行は毎年くじで巡行の順番を決めるのだが、長刀鉾は「くじ取らず」で、必ず先頭を巡行する名誉に預かっている。「貴重な体験になりました。それに、長刀鉾を引けるのは40歳未満と決まっていますから。若いうちに経験できて良かった」

国際交流団体が主催した京都文化博物館観覧の日のこと。隣り合った京都在住の女性に、能の公演へ誘われた。「詩人のエズラ・パウンドに興味があると言ったんです。パウンドは西洋世界に能を広めた人物。パウンドが好きなら、ということで誘ってもらいました」。以来、アトキンス青年は能に魅了され、足しげく公演へ通うようになる。「能の筋書きは非常にシンプルです。登場人物も、僧女・死霊など、衣装や能面を見るだけでわかるようになっています。英訳と照らし合わせながら話を追っていくうちに、やがて演者たちが何を言っているのか知りたくなりました。英訳ではなく、原文の意味を知りたいと」。そして、アトキンス青年はスタンフォード大学へ戻ることを決意。学士課程では英米文学専攻だったが、修士で選んだのは日本古典文学。修士論文は和歌をテーマにした。そして再び日本へ渡り、東京大学で能に関する調査論文を仕上げ、博士号も取得した。

 

でたらめと批判された定家の歌

アトキンスさんは、ワシントン大学ケーン・ホールでの藤原定家に関する一般公開講演で、「定家は、日本のT・S・エリオットのような存在です」と語った。日本国民なら誰もが名前を聞いたことがあるくらい重要な人物。しかし、なぜそこまで影響力があるのかをかいつまんで説明するのは、いささか難しいと言うのだ。「エリオットに関していえば、長編詩『荒地』で第一次世界大戦後の社会不安を見事に書き表したから、というのが理由になるでしょうが、定家の場合はどれかひとつ和歌を挙げて作風を語るということが、なかなかできないのです。エリオットと同じく、定家もまた単なる詩人ではありませんでした。批評家であり、理論家であり、編集者でもありました。定家と晩年に親交を結んだ西行は純粋な歌詠みでしたが、定家は違ったのです」

平安・鎌倉時代の歴史人物、藤原定家(1162~1241年)。その名を聞いて日本人が思い浮かべるのは、彼の歌よりもむしろ、『新古今和歌集』や『新勅撰和歌集』の撰者としての一面だろう。そのほかにも『源氏物語』の校訂・研究、歌論書の執筆、日記『明月記』の執筆など、その功績は多方面にわたっている。とりわけなじみ深いのが、『小倉百人一首』だ。冬休みの課題として暗唱したり、お正月に学校や家庭でかるた取りをしたりした人も多いのでは。最近では『ちはやふる』や『うた恋い。』など、漫画、アニメ、映画のテーマにもなっている。一般的には「定家の撰」とされている百人一首だが、アトキンスさんはそれに異論を唱える。「編さん者は定家であると600年以上思われてきましたが、近年になって別の説も浮上してきました。私も、定家が編さんしたとは思っていません。思うに、撰者として誰かひとりを挙げる必要があったのです。名の知られた定家は、代表者としてぴったりだったのでしょう」。では、真の編さん者は誰だったのか。アトキンスさんは、定家の子孫たちではないかと推察する。「『小倉百人一首』の歌は、わかりやすくて覚えやすい。非常にシンプルで、定家の歌風とは真逆だと言えます。定家の歌は技巧に富んでおり、『達磨歌』、つまり禅問答のように難解だとからかわれていました」

2017年に出版された、アトキンスさんの著作『Teika』(ハワイ大学出版)

インドの達磨によって伝えられた禅宗は、当時の日本ではまだ新しい宗教だった。仏教の一派とはいえ、経典を重視せず、座禅や問答(公案)によって悟りを開くことを目指していた禅宗は、ほとんど邪教扱いされていた。「定家が作る新傾向の歌も、禅問答のようにでたらめだといって批判されたのです。今の時代で『禅』といえば、誉め言葉になるでしょうけどね」。定家の作品には、本歌取り――つまり古歌のキーワードやストーリーを取り入れて新たな歌を作るスタイルが多い。読者は古歌に通じていなければならず、また作品の筋や情景を、頭をフル回転させて考えなければならない。「定家の歌を読む時には、大変な努力が要ります。でも努力なんかしたくない、単純明快がいちばんだという人もいるでしょう。そういう連中が定家を『でたらめ』呼ばわりするのです。定家だったら、『私の歌はでたらめの禅問答ではなく、深淵なる密教なのだ』とでも言うでしょうね。実際、定家の著作物の中にはそうした反論があります。『歌に通じている者なら、私の歌を理解できるだろう。知識がある者は口をつぐみ、無知な者だけが無駄口を叩く』とね」

日記と書、これが定家を
定家たらしめている2つの要素

 

『明月記』こそ定家の真価

アトキンスさんが学科長を務めるワシントン大学アジア言語文学科の日本語・日本文学プログラムは、2018年に在シアトル日本国総領事官邸にて、日本の外務省より外務大臣賞表彰を受けた。藤原定家についての公開講演を開催した和心会(Washin Kai)は、2018年春に創設された同学科のボランティア・グループで、日本の古典言語・文学・文化研究を支援すべく、定期的にイベントを企画している。公式サイト

定家の遺した日記『明月記』は、後年名前が付けられたものだ。定家自身はそれを「愚記」と呼んでいた。55年もの長期にわたって克明につづられており、3分の2が消失してしまっているとはいえ、当時の生活や宮中での動向を伝える貴重な資料となっている。平安・鎌倉時代、多くの公家たちが日記を遺しているが、定家の『明月記』はそれらと一線を画す。「なぜなら『明月記』には、定家の感情が生き生きとつづられているからです。当時の日記というのは、この儀式の時には誰それがいて、衣装はどんなで、これだけ領土をもらって、と事実を記録するのが目的でしたが、定家はそういう書き方をしませんでした。その場に座し、自分の内面と向き合って言葉をつづっていたのです」

たとえば、明日で70歳を迎えるという夜のこと。この時代に齢70を迎えることがいかに稀有であるか、と定家はしみじみ噛みしめている。「父方の家族で70まで生きられたのは誰だったろう、と記録を調べています。それだけではなく、親戚たちがどこまで出世したかも気にしています。定家は官位への執着がとてつもなく強い人でした」。定家は昇進が遅かった。しかし、70歳の時に権中納言になる。「自分にしては上出来、と思っていたことでしょう。定家は生来病弱で、そのことを死ぬまでぐちぐちと嘆いていました」。結果的に定家は80歳まで生きた。歌道や出世レースのライバルたちよりもずっと長生きしたのだ。「定家は気難し屋だったと言われていますが、果たして本当にそうだったのでしょうか。単に自分に正直なだけだったのだと私は思います。ほかの人は聞こえのいい言葉を著作に並べていましたが、定家は違いました」。実際『明月記』には、出世へのこだわりや他人の悪口が多く見られる。「定家の偉大さは、自分の感情を赤裸々につづっている点にあります」

 

「鬼のような字」に自信

ワシントン大学アジア言語文学科は、東洋歴史・文学・社会学科として、1909年にハーバート・ヘンリー・ガウエン博士によって創設された。写真は、ガウエン博士が1927年にワシントン大学書店から発行した『徒然草』評論の小冊子

定家は、書家としても人並外れた作品を遺している。「彼の手書き文字は非常に読みやすいのですが、お世辞にも美しいとは言えません。たとえば彼の父、藤原俊成の筆跡のように、針金を思わせる鋭い緊張感というものは、定家の字にはありません。定家は徹底して、文字の読みやすさ・正確さを目指したからです」。定家は当時の人物としては真跡および伝称の筆跡が極めて多いのだが、それは彼が途方もない量の文字を書写したからにほかならない。「パソコンはおろかタイプライターもコピー機もない時代、人々は1冊の本をまるまる手書きで写し取っていました。大量の紙と墨、それに時間も必要ですね。年を取るにつれ、定家の筆跡はどんどん崩れていくのですが、そこには艶というか、真のオーラというものが宿っています。定家自身は自分の筆跡のことを『鬼のような字だ』と『明月記』に書いているのですが、読みやすさと正確さについては自信を持っていました」

日記と書、これが定家を定家たらしめている2つの要素である。「定家は、現代人にも非常に親しみやすい人物です。年齢を重ねてからの書には、筆舌しがたい哀愁が漂っていると思うのです」

ポール・アトキンス(Paul Atkins)■ワシントン大学アジア言語文学科科長。研究対象は、古典・前近代の日本言語・文学、前近代のアジア研究・演劇・詩、およびそれらの翻訳作品。2017年、『Teika: The Life and Works of a Medieval Japanese Poet』(ハワイ大学出版)を上梓。スタンフォード大学で学士・修士・博士号を取得。

※同記事の英文記事はこちら

ワシントン州議会下院議員 シャロン・トミコ・サントス さん

40年以上にわたりコミュニティー活動を続けるシャロン・トミコ・サントスさんは、1998年、ワシントン州議会下院議員に初当選。11月6日に行われた総選挙にも民主党から立候補し、見事再選を果たしました。ワシントン州下院教育委員会の委員長を務めるなど、教育の機会均等に尽力する政治家としてのキャリア、そして9月に開催した日米交流イベントについて話を聞きました。
取材:ブルース・ラトリッジ、室橋 美佐 翻訳文:宮川未葉

議員生活20年、

これが私の進む道

 

政治に足を踏み入れた高校時代

シャロンさんはシアトルで育ち、多くのマイノリティー学生が通うフランクリン高校を卒業している。政治の世界、特に教育格差や人権問題に関心を持つようになったのは、シアトルでアジア太平洋諸島系(API)アメリカ人の公民権運動が盛んになった高校時代の情勢が影響しているという。1970年前後は、インターナショナル・ディストリクトそばに計画されていたキングドーム・スタジアム建設の反対運動や、第二次世界大戦時の日系人収容への補償訴訟など、APIコミュニティーによる政治活動が積極化した時代だ。「シアトルにおける公民権運動は、(日系、中華系、ベトナム系、アフリカ系など)複数の民族コミュニティーが団結することで大きな社会的影響力を得ました。これはとても特別なことで、アメリカの他地域では見られません。シアトルで育ったおかげで、多種多様なコミュニティーや人権問題に意識が向くようになりました」

シャロンさんは、フランクリン高校でアジア系学生会議を仲間と共に結成。そして、政治活動家のルーサン・クロセさんと出会い、日系人強制収容補償運動に参加する。ルーサンさんは、アキ・クロセ中学校や低所得者向け住宅のアキ・クロセ・ビレッジでもその名が残る日系2世の平和活動家でシアトル学区教師だった、アキ・クロセさんの娘でもある。「15歳だった私にとって、ルーサンは最初のメンターでした。ルーサンの影響で、シアトル学区の人種隔離撤廃問題にも関
わるようになりました」

当時、シアトル学区は人種隔離を行っているとサンフランシスコの連邦裁判所判事から判断を下され、その撤廃計画案を同連邦裁判所が作成することになっていた。アジア系、アフリカ系、ユダヤ系などの非白人学生を一部の学校に隔離する公立学校の制度に対して、議論を重ねてきた公民権運動の成果として下された判決だった。しかし、シアトルの活動家たちは「サンフランシスコにいる人に、私たちのコミュニティーの何がわかるのか」と、シアトル独自の計画案作成を主張した。「私は、生徒代表として活動家たちと話し合いの席に参加しました。そして、生徒と学校の利益、ニーズをシアトルに住む自分たちで判断し、それに基づく計画を自分たちで立てるべきだと訴えました」。シャロンさんは、他の生徒と協力してシアトル市内の学校を巡って議論を重ねた。

活動家らと協力して地道なロビー活動を続けた結果、シアトル発の計画案が教育委員会に採用されることになった。「その時代、判事に逆らって『自分たちで計画を立てたい』と主張するのは、かなり過激なことでした。計画案は自発的人種隔離撤廃計画と呼ばれて、このシアトルでの活動は全米に知られるところとなりました」

 

ボブ・サントスさんとの出会い

2年前に亡くなったシャロンさんの夫、「アンクル・ボブ」ことボブ・サントスさんはフィリピン系アメリカ人で、キングドーム建設反対運動のリーダー的存在として著名な公民権運動指導者だ。インターリム(インターリム・コミュニティー開発機構)創立メンバーのひとりで、同団体の代表としてインターナショナル・ディストリクトの持続可能な成長に尽力した人物としても知られる。一方で、シャロンさんの父親のケネス・ミヤケさんもブレイン・ユナイテッド・メソジスト教会で牧師を務める傍ら公民権運動に関わり、妻のジョイスさんと共に活動していた。「私が政治に関わり始める頃には、両親と一緒に活動していたボブのことはすでに知っていました。公民権運動に加わるみんなが知り合いなんです。それと、実は、ボブの子どもたちと同じ中学、高校に通っていました。私と継娘がフランクリン高校を同じ年に卒業したなんて笑い話にされていますが、本当のことです」

シャロンさんの父、ケネス・ミヤケさんは、1世コン サーンズ(現在の敬老ノースウェスト)創設メンバーのひ とり。老人ホームで他の居住者やスタッフとコミュニケー ションを取れずに孤立していた日系1世のために、2世の 仲間と共に立ち上げた。

シャロンさんがボブさんと親しくなったのは、1988年にマイク・ローリー元ワシントン州知事の上院議員選挙運動をボランティアで手伝い、後に採用されて選挙事務所で働き始めた頃だ。ローリー議員は日系人強制収容に対する補償を積極的に支援していた政治家で、ボブさんは同氏の議会スタッフだった。「当時は、議会スタッフが勤務時間後によく選挙事務所を訪れていました。ボブはとにかく明るくて楽しい人。亡くなる直前まで、女性にモテていましたから! バーに仲間と集まるのも好きでした。無理やりカラオケを歌わせたり、一緒に踊りに行ったり、武士ガーデンへもよく行きましたよ」

ケニス・ミヤケさん(左)とボブ・サントスさん(右)。2人は公民権運動にも携わった

日系人女性議員の草分け

シャロンさんは1998年の初当選以来、ワシントン州下院議員を20年間務めている。今年の総選挙でも再選を果たしたばかり。「ワシントン州では上下院共に日系女性として初めての当選でした。そして、日系・メキシコ系アメリカ人のモニカ・ストーニア下院議員が選出される最近までは私1人だけの状況が続きました。モニカはコミュニティーのニューフェイスですね。ワシントン州の150年近い歴史で、今やっと2名になったところです」

そんなシャロンさんも、最初から議員を目指していたわけではない。「静かで目立つことはしない真面目な『大和撫子』になるように育てられましたから。自分の能力と性格からして、向いているのは立候補者ではなく、優れた右腕として議員を補佐する側だと思っていました。リサーチをしたり、政策案を提案したりする仕事を続けるつもりでした。政治家が好まれない理由はたくさんありますよね。人前に身をさらして、多くの人に話しかけて、お金を出してくださいと頼んで。私もそういうことは好きではないですから」と、シャロンさんは笑う。

 
シャロンさんが生まれた当時の家族写真。ケネスさんの生まれは倉敷で、シカゴの神学校で学ぶために米国に移住。後に、シャロンさんの母でカリフォルニア生まれの2世、ジョイス・イシザカさん(写真・右)とバークレーで出会う

とはいえ、シャロンさんは社会に奉仕することが自分の進む道だと考えてきた。「日系1世のコミュニティーで育ったことは大きく影響していると思います。長子ということで、弟や妹よりも日系1世と関わる機会が多かったんです。第二次世界大戦中に日系人が犠牲となった事実を伝えて、米政府に再び同じ間違いを起こさせないようにしなければという使命感がありました」。シャロンさんは、政府が常に約束を果たし、力を発揮できるようにするための公務は自分の義務であり、授かった天職だと語る。「立身出世のために立候補する人たちも多くいますが、私が立候補したのはそういう使命感にかられたからです」

議員スタッフとして働くことに当初は満足していたシャロンさんが、自ら立候補することを決めるに至った理由はほかにもある。議員に助言するという立場に歯がゆさを覚えるようになったのだ。「最高の右腕として一生懸命資料や政策案を準備して助言をしたとしても、結局は政治的立場を理由に、議員が助言とは違うことを実行するというのは、しばしばあります。その現実を知り、愕然としました。いろいろなリサーチや聞き取り調査をして、考え抜いて案を作り上げても、すっかり無駄になってしまう。それが嫌になってきました」。最終的にシャロンさんの背中を押したのは、自身が住む地区で教育機会の格差是正を求めて声を上げても、取り合ってもらえないという怒りだった。シャロンさんが住むレニアビーチ地区では、公立学校への公的資金分配や、教育プログラムの内容、教師が受ける支援など、あらゆる点でリソースが不足していた。「あるのは時代遅れの古い教科書1冊で、先生は生徒全員分をコピーしなければならない。レニアビーチは、貧しい非白人系のマイノリティー生徒が多い地区。こうした問題は30年前、私が高校生だった頃に解決されていたはずなんです。なのに、まだ教育機会の格差が解決されていなかった。私は強い怒りを覚えました」

「1911~2010年にチャイナタウン/インターナショナル・ディストリクトに暮らしていたフィリピン系アメリカ人を称えて」と題した高さ2メートルのキオスクには、活動家だった夫のボブ・サントスさん(2016年に死去)の全身写真が中央に入る

シャロンさんは、シアトル学区の教育長と教育委員会に働きかけた。しかし、当時の教育長と教育委員会は耳を傾けてくれず、その横柄な回答には腹立たしささえ覚えたそう。そんな折、同地区の州議会に欠員が出た。「私は納税者であり、地元の高校のために活動をしている市民。シアトル教育委員長が私の声を聞いてくれないのなら、ワシントン州の下院議員になって私の声を聞かせるまで」と、シャロンさんは決意を固めた。

そして、晴れて議員に選出されたシャロンさんの元に、シアトル学区の職員たちが、挨拶回りで訪れる。教育長もシアトル学区を代表して話をしに来た。「話の最後に、私は彼に言ったんです。『教育長、あなたが私の言うことを聞いてくれなかったので、私は本当に頭に来て、それでこの職に就けました。あなたに感謝しなければいけませんね。今度はあなたが私の言うことを聞く番ですよ!』と。彼は2度と戻って来ませんでした」。シャロンさんはその後、ワシントン州下院教育委員会の委員長の地位に昇り、現在も精力的に教育問題に取り組んでいる。

 

日米草の根交流サミット開催
日米友好の架け橋に

9月18日~24日に開催された第28回日米草の根交流サミット2018シアトル・ワシントン州大会。日本から135名以上の人々がシアトルを訪れ、州内各地で3泊のホームステイをしながら、異文化体験を満喫した
写真提供:ワシントン州日米協会/ナット・セイモア

シャロンさんは、日米友好関係強化のために両国の政財界リーダーのネットワークを促進する米日カウンシル(U.S.-Japan Council)のメンバーでもあり、日本関連イベントに参加するなど日米友好に尽力する議員としての一面も持つ。今年9月にワシントン州で開催された日米草の根交流サミットでは、元シアトル港湾局CEOでワシントン州日米協会元代表のテイ・ヨシタニ氏と共に、準備委員長を務めた。

国際親善を目的とする日米草の根交流サミットは、ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターが主催し、日本とアメリカで毎年交互に開催されている。第28回となる今年は初めてワシントン州で開かれ、ワシントン州日米協会が共催した。来年はワシントン州と姉妹提携する兵庫県で開催予定だ。日本からのサミット参加者は、シアトル酋長誕生の地であるブレーク島での開会式典に始まり、シアトル、ベルビュー、バション島、モーゼスレイク、タコマ、ポートタウンゼンドなど州内各所でのホームステイ体験、交流イベントを楽しんだ。開催の準備は2年前、テキサスで開催された草の根交流サミットの直後から始まり、シャロンさんは準備と資金集めに奔走した。

サミットの意義について、シャロンさんはこう語る。「サミットは市民外交そのもの。現代の国際関係では、市民外交が重要な役割を果たします。近年のわが国の情勢から、努力の末に確立された国際関係がいとも簡単に崩れかねないような状況の中で、草の根レベルで1人ずつ関係を構築していくことは大きな意味があります。このサミットの主役は、日米両国の普通の人々です。人間対人間の関係を築くきっかけを作るのが、サミットを開催する大きな目的です」

シャロンさんはまた、このサミットで生まれた個々の友好関係を世界へと広げて欲しいと強く願っている。「大局的には、世界はますます緊迫化しています。アジア地域で起こっている緊張や、米国と世界各地のパートナーとの間の緊張もあります。だからこそ、特に若者同士が草の根のつながりを持って、強い親近感と友情を育むことはとても大切です。今の大統領になって世界情勢は予断を許しませんが、民間の人々が、『アメリカは日本に対して反感を抱いていない』と感じることが大事。このことは声を大にして言いたいですね」

 

若者同士が草の根のつながりを
持って、強い親近感と友情を
育むことはとても大切
 

シャロン・トミコ・サントス(Sharon Tomiko Santos)■民主党所属のワシントン州議会下院議員(第37区)。教育のほか、人権、女性の権利、経済格差、ジェントリフィケーションなどの問題解決に取り組む。全米アジアン・パシフィック・アメリカン女性フォーラム、ワシントン大学ビジネス経済開発プログラムのアンバサダー役員会などで、数々の役員を務める。アジア太平洋諸島系コミュニティー・リーダーシップ財団のキップ・トクダ・コミュニティー・リーダーシップ賞、ワシントン州ジュニア・アチーブメントのリーダーシップ・ビジョン賞など、受賞多数。エバーグリーン州立大学(学士)、ノースイースタン大学(修士)を卒業。

シャロンさん、州議会下院議員総選挙で勝利
地元・レニアビーチで祝賀パーティー

今年11月の総選挙で再選を果たしたシャロンさん。同月末にレニアビーチ地区内の友人宅で祝賀パーティーが開催された。友人、家族、地区住民などが集まるアットホームなパーティーだ。シャロンさんは今期もワシントン州下院教育委員会の委員長を務めることを報告。あらゆるバックグラウンドの子どもや青年が公平に教育機会と就労機会が与えられる法案を通していくと支援者に伝えた。

灯篭で照らす世界平和への道 ~From Hiroshima to Hope~

73年前の1945年、広島、長崎の原爆投下により同年だけで21万人以上が亡くなりました。シアトルのグリーンレイクでは、今年も8月6日に「フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープ(From Hiroshima to Hope)」が開催され、灯篭流しが行われました。フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープは原爆の犠牲者、そして全ての戦争犠牲者を追悼するイベントで、平和を広く訴えることを目的としています。主催するのはどんな人たちなのでしょうか。マーサ・ブライスさん(共同設立者)、シャーリー・シマダさん(会長)、フレッド・ミラーさん(事務局長)、ボランティアで当日の司会を務めたスタン・シクマさんに話を聞きました。

※姉妹紙『北米報知』での英語インタビュー記事を一部抜粋・編集しています。

戦争への不安が高まった80年代に初開催
「同団体が発足した1984年は、戦争への不安が非常に高まっていた時期でした」。当時、日系アメリカ人市民同盟(JACL)ワシントン支局で働いていたスタン・シクマさんは振り返る。「(米ソ冷戦中で)レーガン大統領がヨーロッパに巡航ミサイルを配備しようとしていました。配備されれば一触即発。ソ連はわずか10~15分で報復攻撃ができる状況。偶発戦争につながりかねない、非常に危ない状況でした。このほかにも、中米の戦争やアパルトヘイト問題の激化など、平和と正義に関わる問題が広がっていました」。マーサ・ブライスさんも、「世界の終末まで残りわずかだとされていました。医師、看護師、そして私のような医療研究者を会員とする団体であるWPSR(Washington Physicians for Social Responsibility)は、平和と人権保護について取り組んでおり、私は当時のプログラム委員長で核問題について特に懸念していました」と続ける。

(左から)スタン・シクマさん、マーサ・ブライスさん、シャーリー・シマダさん、フレッド・ミラーさん。
今年の灯篭流しを前にグリーンレイクにて

そんな情勢を背景に、JACLワシントン支局とWPSRとが共同で、平和を願う原爆の日イベントをビーコンヒルにあるブレイン・メソジスト教会で1984年8月6日に初開催した。基調講演をしたのはマイク・ローリー元ワシントン州知事(当時は下院議員)。第二次世界大戦中の日系人強制収容に対する補償を積極的に支援し、核軍縮問題にも取り組んでいた人物だ。最初の開催には、日系アメリカ人を中心に300人近くが集まった。

灯篭流しは当初は行われておらず、開催から数年後にマーサさんのアイデアで始まった。「ウィスコンシン州のあるコミュニティーで灯篭流しをしたと聞いて、なんて素晴らしい活動だろうと思いました。電話をかけて話を聞き、灯篭の作り方を教えてもらいました」。初めての灯篭流しは、グリーンレイクではなくワシントン大学構内にある池で行われた。「12メートルしか流れなかったんです! でも、灯篭の回収は今よりずっと簡単でした」と、スタンさんは笑う。

ワシントン大学で灯篭流しを始めた1988年には、JACLの総会議に合わせて同イベントが開催されていた。80年代は、日系人強制収容に対する補償の問題を巡ってJACLが活発に動いていた時代でもある。イベント中にレーガン大統領による補償への署名が決まったことがわかり、参加者の多くが途中退去で急きょワシントンDCに飛ぶことになったという。

文化や宗教の壁を越えて、平和への思いをひとつに
灯篭流しは広島に原爆が落とされた8月6日に行われるが、慰霊は原爆犠牲者や日本人に限定されたものではない。「原爆だけでなく、社会のあらゆるレベルにおける暴力の抑止をテーマにすべきだと当初から強く感じていました。また、さまざまなコミュニティーが関わる多文化的なイベントを目指しています」と、マーサさん。フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープはこれまで、いろいろな民族グループや平和運動を取り込んできた。たとえば、灯篭に書き入れるメッセージは、米国書道研究会による日本語メッセージに加えて、シーク教寺院の人々によるパンジャブ語(インドとパキスタンの国境地域で使われる言語)のメッセージも加わる。2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起こった後、特定の民族に対する暴行事件が多発し、シーク教徒の男性が射殺される惨事にまで発展した。フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープのパートナー団体であるウィング・ルーク博物館が、シーク教徒コミュニティーと協力して追悼イベントを行った。「そこで掲げられたメッセージにとても感銘を受けたので、シーク教徒コミュニティーを誘い込んだんです。それ以来、シーク教徒の人々は灯篭流しの素晴らしいパートナーになっています」と、フレッド・ミラーさんは説明する。

灯篭流しでは、シアトル古今太鼓の演奏が何十年も続けて行われている
(写真:Nick Turner、全面写真共に)

コロンバイン高校銃乱射事件があった1999年には、「若者による平和づくりをテーマにすべき」というフレッドさんのアイデアで、コミュニティーの子どもたちを基調講演者として招いた。若者の暴力にただ反対するのではなく、未来の平和へとつなげていく積極的な取り組みが必要だと感じたためだ。また、フレッドさんは、キリスト教の教会コミュニティーを積極的に回り、同イベントのポスターを配るようにしている。「アメリカの教会はコミュニティーが残っている貴重な場所。いろいろな形で教会との結び付きを強化しています。灯篭を水に浮かべると、宗教的なことが取り払われ、みんながひとつになれます」と、フレッドさんは話す。

戦争の悲惨さを胸に、アメリカで考えるヒロシマ、ナガサキ
シャーリー・シマダさんの母方の祖母は広島出身。原爆投下直後には、家族の安否を確認するために、手紙をやり取りしていたという。1960年に入って、シャーリーさんが広島の親族を訪ねると、祖母の甥が当時の話をしてくれた。「原爆投下の直後、彼はシャベルと手押し車を用意し、広島に徒歩で入りました。遺体をシャベルですくって手押し車に載せ、焼却炉に運ぶことを数週間続けたそうです。その時の臭いを今でも覚えていると話していました」

原子爆弾の恐ろしさを伝える展示には、多くの人々が足を止めた

スタンさんの母方の親類も広島出身だ。「帰米」である母親は、戦前は広島におり、多くの友人が広島に住んでいた。ある友人は原爆投下直後、状況がわからないまま列車に乗ると途中で止まり、車掌から「この先はもう線路がないから歩いてください」と言われたそうだ。アメリカで生まれたスタンさんは、原爆投下についてどう見ているのだろうか。「原爆が一般市民に対して使われたのは、世界の歴史の中で2回あり、その責任が私たちアメリカ人にあるというのは衝撃的なことです。多くの人は原爆が昔のことだと考えていて、当時の軍の司令官が悪かったなどと言う人もいるかもしれません。でも、私が思うのは、原爆を落としたパイロットも、司令官も、政府の役人も、みんな真っ当な人たちだったのだろうということ。それでも、あの時には最悪の判断をした。私たちとそんなに違いはないんです。実行を決めたのは民主的に選出された政府。だから、私たち全員に責任があります」

一方、フレッドさんはアメリカ軍人の家系だ。「曾祖父は南北戦争時の南部連合の兵士、祖父は第一次世界大戦の兵士、父は第二次世界大戦と朝鮮戦争、ベトナム戦争で陸軍士官です。そして私は、平和運動家になりました。どういうわけか、私はいつもはみだし者になってしまうんです」。80年代に核凍結運動を進めた団体であるピース・アクションで働いていたフレッドさん。90年代に同団体の代表者としてフロム・ヒロシマ・トゥ・ホープに参加したのをきっかけに、今では同イベントに欠かせ
ないメンバーになった。「最初の参加で強く感銘を受けました。今ではもうやめられません」。ひとりひとりの思いが、灯篭流しで毎年ボランティア活動を続ける意欲の原動力となっている。

シャーリーさんとマーサさんは共に80代。現在は委員会の再編成を進めると共に、この運動を引き継いでくれる若者を探している。「先頭に立って未来につなげていってくれる人がもっと欲しい。人々の関心をかき立てられる人を探しています」と、未来へバトンをつなげている最中だ。

フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープ
FROM HIROSHIMA TO HOPE
ウェブサイト: www.fromhiroshimatohope.org
フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープは、広島と長崎に落とされた原爆の犠牲者、そして戦闘と暴力の全ての犠牲者を追悼することを使命とする。毎年8月6日のイベント開催では、グリーンレイク湖畔で音楽のパフォーマンス、講演、仏教僧による法要、灯篭流しなどを行い、平和、暴力によらない紛争の解決、核軍縮を訴えている。

続きを読む “灯篭で照らす世界平和への道 ~From Hiroshima to Hope~”

KING5アンカー ローリー・マツカワさん

報道番組の顔として、エネルギッシュにニュースを届け続けるローリー・マツカワさん。シアトルのローカル局であるKING 5 では、35 年のキャリアを積んでいます。地域社会に貢献するさまざまな活動を含め、話を聞きました。

取材:ブルース・ラトリッジ 翻訳:宮川未葉

 

毎日、仕事で新しいことを学べる。
自分が得た情報を、視聴者に伝えたい

 

ミス・ティーンエイジからニュースキャスターへ

シアトルのテレビ・ニュースでおなじみ、ローリー・マツカワさんが報道の世界を志すようになったきっかけは、10代の頃、ミスコンテストへの参加を友人に勧められたことだった。見事に選ばれたローリーさんは、「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」としての活動の一環でアメリカ中をめぐることになる。行く先々でインタビューを受けているうちに、報道の仕事をやってみたい、この仕事は自分に向いていると思うようになった。当初は新聞記者を目指していたため、大学ではコミュニケーション学を専攻し、夏休みには出身地のハワイに2回戻って、日刊紙を発行するホノルル・アドバタイザー(現・ホノルル・スター・アドバタイザー)でインターンをした。その後にインターンをしたサンフランシスコのテレビ局、KPIXでは、ある人物から大きな影響を受ける。「ウェンディ・トクダというKPIXのニュースキャスターが私の面倒を見てくれました。取材にも付いて行くことができて、とても刺激になり、勇気付けられました」

1974年に日本を訪れたローリーさん。日本の子どもたちは、金髪でも青い目でもない「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」がいるのかと、信じてくれなかったそう

就職活動では、このインターンシップ中に当時サンフランシスコで起きた地震について報道した自身の映像をまとめ、100社に送った。そのうち、良い返事が来たのは2社。「1社は大手新聞社のロサンゼルス・タイムズからでした。もう1社は、カリフォルニア州レディングのローカル・テレビ局。どちらも魅力的なポジションで、本当に悩みました。ジャーナリストを志す者なら誰だって、ロサンゼルス・タイムズで働きたいと思うでしょう?」。しかし、「テレビの仕事は、若くて体力があって道具一式を運べる時にするもの」と思ったローリーさんは、テレビ局に就職することを決めた。「まずテレビを先にやって、しわしわになって歯がなくなったら新聞記者になろうと(笑)。それ以来、ずっとテレビの仕事をしています」

報道の仕事は、何より面白そうだと選んだ仕事だった。毎日、仕事を通して新しいことを学べる。自分が得た情報を、視聴者に伝えたいと思った。1970年代のアメリカで、アジア系女性としてジャーナリズムの世界に飛び込んだローリーさんだが、ちょうど大学を卒業する頃は、前述のウェンディ・トクダ氏のほか、ロサンゼルスで活躍していたコニー・チャン氏、トリシャ・トヨタ氏など、手本となるアジア系女性ニュースキャスターが少数ながらテレビ界にいた。そんな尊敬すべき先駆者たちの背中を見ながら、キャリアをスタートさせることができた。「私と見た目が似ている人たちが、大都市でキャリアを築いている。私も見習いたいと思いました」と、ローリーさんは振り返る。最初の仕事はレポーターだった。仕事はとにかく何でもこなす時期。レポーターをして自分の映像を撮影し、その編集もしていた。プロデューサーの仕事もした。「11時台のニュースをプロデュースして、そのニュースキャスターも務めるんです。いろんなことが学べた素晴らしい経験でした」

シアトルに来たのは1980年。最初の3年間はシアトルのローカル局であるKOMOで働いていた。そして、1983年にKINGに移った。この6月で勤続35年になる。

 

コミュニティーのために力を合わせて

 

2017年3月11日、東日本大震災後の復興を伝えるため福島を訪れたローリーさん。二本松地区で地域活性化の取り組みを主導している菅野瑞穂さん(右から2人目)が経営する有機農場を訪問した

テレビで大活躍のローリーさんは、一方でコミュニティーにも多大な貢献を果たしている。そのひとつが、アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会(AAJA)シアトル支部の設立だ。

AAJAはもともとロサンゼルスとサンフランシスコに支部があったが、大学時代の友人から、AAJAの支部をシアトルに作りたいと持ちかけられたのだ。AAJAは現在、21支部、会員1,700人以上の組織となっている。「AAJAの活動は、力を合わせてアジア系アメリカ人ジャーナリストの認知度を高め、業界にいる人々を支援すること。そのためには、プロとしての技能を向上させ、奨学金で支援すると共に、アジア系アメリカ人の問題がどう報道されているか監視する必要がある。設立当時は特に、それを痛感していました」

AAJAシアトル支部は、1985年にローリーさんら3人によって設立されたが、時を同じくして、日米自動車貿易摩擦が激化するデトロイトで、中国系アメリカ人男性が日本人と間違われて白人に撲殺される事件があった。「アジア系アメリカ人に関わる人種間の緊張が高まっていました。AAJAは、その真っただ中でニュース報道を監視していました。放送や新聞で人種差別的な中傷や不適切な言動があれば、そのニュース組織に対して批判を展開したのです。全国レベルで声を上げ始めました」。AAJAは幅広い支援ネットワークを通じ、さまざまな人種の若者に奨学金を提供してきた。「ノースウエスト・ジャーナリスト・オブ・カラー奨学金」は年間3~5人に支給され、非白人系の若者がジャーナリズムやコミュニケーションを学んでこの業界に入ることを奨励するものだ。シアトル支部は1986年から奨学金を支給しているので、これまでに10万ドル以上支給したことになる。「アジア系アメリカ人の親は子どもに、医師や弁護士、エンジニアになるようにと言いがちです。お願いだからジャーナリストになって、とは絶対に言いません。私たちは、ジャーナリストになりたい若者に希望を与えたいんです」

 

地域社会のためにみんなで力を合わせれば、
たくさんのことを成し遂げられる

 

ローリーさんは、これまで積極的にコミュニティー活動に携わり、団体役員を歴任してきた。「1980年代に私と一緒にキャスターを務めたマイク・ジェームズは、アジアン・カウンセリング・アンド・リファーラル・サービス(ACRS)の役員をしていました。彼から、『こういう団体があって、役員を探している。考えてみないか』と言われ、役員会に参加したのがきっかけです。地域組織の役員は、それが初めての体験でした」。以来、JACL(日系米国人市民同盟)シアトル支部、AAJAシアトル支部、YMCAグレーター・シアトルでも役員を務めた。ワシントン州日本文化会館(JCCCW)設立にも、ローリーさんが大きく貢献した。

当時、ワシントン州議会下院議員でソーシャルワーカーだったキップ・トクダ氏、そしてシアトル地方裁判所判事だったロン・マミヤ氏と共同設立した。「3人で集まって相談し、『ここに日本文化会館があったら最高だね』と話していました。最初は、どこにするか、どんな感じになるかはわかりませんでしたが、日系アメリカ人や日本出身の人々が集まって友好を深める場所にしようと思っていました」

ローリーさんの両親、フローレンス・エイコさんとジョー・サダオさんはハワイ在住。エイコさんの両親は広島から、サダオさんの両親は新潟からの移民だ

JCCCW設立に必要な多大な資金をまかなうため、コミュニティーを巻き込んだ。多くの日系アメリカ人・日本人家族からの寄付金に加えて、ワシントン州商務省からの助成金も受けた。「キップが商務省を通じて州助成金を獲得しました。キップの口説き文句は、『このような友好は州にもいろいろなメリットがある』というものでした」。JCCCWはシアトル日本語学校のある場所に置かれることになった。米国本土で最古の日本語学校であり、100年以上にわたって、地域社会が集う場としての役割を果たしてきた。この場所に設立することには、大きな意義がある。2003年に開館したJCCCWは、今年で創立15周年を迎えた。「地域社会のためにみんなで力を合わせれば、たくさんのことを成し遂げられます。私はいつも家族や子どもたちに力を注いできましたが、今は日本文化に重点を置いています。自分の文化と伝統について知ることで、自分の基盤がしっかりする。これは私にとって、とても大事なこと。自分の家族のルーツがどこから来ているのか、息子に知ってもらいたいんです。JCCCWは、まさにぴったりの場所です」

 

日系人の強制収容を伝える

ジャーナリストとして成し遂げた最も思い入れのある仕事としてローリーさんが挙げるのが、昨年の日系人強制収容に関する番組だ。「第二次世界大戦時、大統領令9066号によって、米西海岸に住んでいた12万人の日本人と日系人が強制収容所に送られました。これは米国にとって、司法上の大きな危機でした。理由もなく、適正な手続きも取らずに、政府が罪のない市民を収容所に入れていたんです。昨年は大統領令9066号発令から75年目にあたる節目。大統領令が人々にどのような影響を与えたのかを探る5部構成の番組を制作しました」。番組名は、「Prisoners in Their Own Land(自国で捕虜となった人々)」。その第3部では、ほとんど知られていない日系人家族間の対立について扱った。

「軍隊に志願した日系人と、抵抗して法廷で異議を唱え、刑務所に送られた日系人と、どちらがアメリカ合衆国への愛国心が強かったのか。現在でもお互いに口を利かない家族がいるくらい、両者の間には深い溝があります」。第4部では、強制収容された人々に対する政府の謝罪と賠償を求めて、シアトルの人々がどのような努力をしたのかを取り上げた。補償を要求するのは政治的な大事業。実現するには議会が法律を制定しなければならない。「シアトルには事を起こす人、考える人、まとめる人
がいて、全米の運動の口火を切ることができました。彼らが先頭に立って議会に法案を可決させ、レーガン大統領が署名するに至ったのです」。最後となる第5部では、その体験が今どのように語られているかについて伝えた。「シアトルには素晴らしい手本がたくさん。記憶を風化させないように、視覚芸術、オペラ、詩の朗読などで強制収容の話を今に伝えています」

このほかに30分の特別番組も担当した。子どもの頃にミニドカ収容所で暮らした人たちとローリーさんが実際にミニドカに行く、という内容だ。そこでの生活はどんなものだったのか、戻ってみて今どう思うか、さまざまな話を聞いた。このような番組を制作したことはとても特別な体験だったとローリーさんは言う。「長年の間に撮りためた、日系人にまつわる映像やインタビューを、いつか大きなプロジェクトに使おうと、とにかく保存してありました。それが2017年になって、ついに実現したんです」。番組では、このようなことが再び起こることがあるのか、という疑問も投げかけられた。「起こる可能性はあります。注意や警戒を怠れば」

ローリー・マツカワ(Lori Matsukawa)■スタンフォード大学(学士)、ワシントン大学(修士)を主席で卒業。アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会の生涯功績賞(2005年)、全米テレビ芸術科学アカデミーのノースウエスト支部でシルバー・サークル入り(2014年)など、数々の栄誉を受ける。アジア系アメリカ人ジャーナリスト協会シアトル支部やワシントン州日本文化会館を設立するなど、活発なコミュニティー活動も展開。夫と共にベルビュー在住。成人した息子が1人いる。

 

ワシントン州日本文化会館
JCCCW: Japanese Cultural and Community Center of W ashington
1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144
☎206-568-7114

2003年に設立された非営利団体。人々が集う場の提供、日本・日系の文化と伝統の共有、発展を目的としている。JCCCWの事業には、シアトル日本語学校、ノースウエスト日系博物館などがある。JCCCWの15周年を祝って今年3月に開催された「トモダチ・ガーラ」では、元駐米大使の藤﨑一郎氏とJPモルガン・チェース銀行ノースウエスト地区頭取のフィリス・J・キャンベル氏にトモダチ賞を授与した。

「トモダチ・ガーラ」で受賞者と並ぶローリーさん(写真:JCCCW)
 

ウィング・ルーク博物館 副理事長 キャシー・チンさん

「インターナショナル・ディストリクトでアジア系文化遺産を守りたい」。ウィング・ルーク博物館を通して、コミュニティーを巻き込みながらメッセージを発信し続けるキャシー・チンさんは、このチャイナタウンを「ホーム」と呼び、愛してやまない。その思いはどこから来るのか、背景となるファミリー・ヒストリーを含めて話を聞きました。

取材:ブルース・ラトリッジ 翻訳:大井美紗子

家族をバラバラにした中国人排斥法

キャシーさんの家族は曾祖父母の代からシアトルで暮らしており、キャシーさん自身もビーコン・ヒルで生まれ育った。マウント・べーカーにあるフランクリン高校を卒業してからは、カリフォルニア大学バークレー校へ進学して美術史を学んでいたが、毎年、夏休みにはシアトルの実家に帰っていたそうだ。「家が大好きなんです」と、キャシーさんは笑う。シアトルにいる間は、さまざまな博物館でインターンとして働き、ウィング・ルーク博物館も、そのうちのひとつだった。90年代初頭、大学3年生のキャシーさんは、同館でのインターンの際に衝撃の事実を知る。祖母が歴史の語り部として、同館の展示に協力していたことを知ったのだ。口述記録に携わったことなど、祖母の口から聞いたことはない。全く、寝耳に水だった。

祖母が語っていたのは、キャシーさんの父方の曾祖父母についてだ。1882年から1943年まで施行されていた中国人排斥法の影響で、中国人男性は妻をアメリカに呼んで家庭を築くことが許されなかった。そのため、アメリカへ出稼ぎのために渡った中国人男性は、中国へ戻って婚姻を結び、再び仕事のためにアメリカへ戻るというケースが多く、キャシーさんの曾祖父母も例外ではなかった。「曾祖母は、結婚直後にアメリカへ戻ってしまった夫の代わりに雄鶏の人形を抱いて、寂しさをしのいでいたんですって。そんな家族の歴史を、ウィング・ルーク博物館の展示から知りました」

母方は、キャシーさんの祖父母の代でシアトルへ移住した。「でも実は、母方は曾祖父とその父親もシアトルへ出稼ぎに来ていて、中国人排斥法のために家族は中国に残していたんです。なので、母方では私は『3世』ですが、もし中国人排斥法がなくて欧州系移民と同様にシアトルで家庭を築くことが許されていたら、私は『5世』になっていました」。口述記録によって自分の生い立ちがよくわかり、中華系アメリカ人としての立ち位置が明確になったキャシーさんは、同館勤務を決意。バークレーからシアトルへ戻って来た。

Photo by Dean Wong

「19世紀末の排斥法の余波が未だに現代のアメリカ人家庭に及んでいるなんて、きっとみんな思いもよらないでしょうね。(西部開拓の時代に)中国からも大勢の移民がアメリカに渡って来ましたが、その多くが国外へ追いやられました。もしそんなことが起こらなかったら、現在のアメリカの人種構成は、今と全く違うものになっていたはずです。当時は、誰がアメリカへ来られて誰が来られないか、誰がアメリカ人で誰がそうじゃないか、人種というレンズを通して決められてしまったんですね」

中国人排斥法は1943年に廃止されたが、1882年の施行から60年間にわたってワシントン州の中華系移民の生活に大きな影響を及ぼした。キャシーさんは、現在のイスラム系移民に対するアメリカの状況が、1882年の中華系移民に対するそれと酷似していると警告する。「排斥法は、いきなり制定されたわけではありません。制定に至るまでには、中華系を排除しようという風潮があり、それを渇望する世論があった。人間を差別する排斥法が、本来は個々の胸に隠されているべきだった感情を、大っぴらにしてもいいんだ、と人々に思わせた。禁断の扉を開けてしまったんです」。排斥法が施行されてから4年後の1886年に、シアトルでは大規模な反中国人暴動が起きた。中華系移民を排除しようと暴徒化した欧州系移民が当時のチャイナタウンに押し寄せて、中国人を船に押し込み、街からの立ち退きを強要したのだ。その暴動を機に多くの中華系移民はカリフォルニア州や本国へ逃げることになり、シアトルの中華系移民が激減。1943年までその人口が戻ることはなかった。

仲間の遺志を継ぐウィング・ルーク博物館

Photo by Annie Brady

インターナショナル・ディストリクトでは今、別の「立ち退き」が起きている。都市部の再開発と地価高騰で店舗や住民たちが郊外へ追いやられ、長くこの地に根付いてきたアジア文化が衰退の危機にあるのだ。その危機を食い止めるべく、ウィング・ルーク博物館は力を尽くしている。

同館が設立されたのは、公民権運動が盛んな1967年。設立には多くの活動家が力を貸したという。たとえば、インターナショナル・ディストリクトの非営利団体、インターリム創設者で『ボブおじさん』として親しまれたボブ・サントス氏。そして、博物館命名の由来になったウィング・ルーク氏は、有色人種としては初のシアトル市議で、文化財の保護に熱心な活動家だった。2015年7月、インターナショナル・ディストリクトの夜警中、銃撃戦に巻き込まれて亡くなったドニー・チン氏もやはり、サポートしてくれたひとりだ。「彼らは中華系の文化、アイデンティティー、歴史を見守ってくれていた仲間です。その遺志を継ぎ、同志たちとのつながりを作って支援すること――それがウィング・ルーク博物館の使命です」

Photos by Alabastro Photography

インターナショナル・ディストリクトには、宇和島屋、工房アット・ヒゴ、モモといった日系店舗、デンショウやフレンズ・オブ・ジャパンタウンなど日系組織も数多く存在する。「こうしたインターナショナル・ディストリクトで長年にわたって根付いてきた民族グループの店舗や組織が、インターナショナル・ディストリクトの価値を高めています。人はコミュニティーや文化とのつながりを求めるもの。本格的な中華料理を食べにチャイナタウンへ人が集まるのと同じように、シアトルを形づくるアジア人の民族性をこの目で見たいと、多くの人がウィング・ルーク博物館を訪れてくれます。民族的なダイバーシティはシアトルが誇るべきものです。これからも保護、支援を続けていかなければいけません」

インターナショナル・ディストリクトのコミュニティーは、家族経営の小規模店舗が中心。それだけに地価高騰や再開発による影響を受けやすく、保護が必要だとキャシーさんは話す。「何かしらの保護をしなければ、長年にわたって家族経営を続けてきた店舗も立ち退きを迫られます。インターナショナル・ディストリクトの歴史的な民族コミュニティーを受け継ぐためにも、保護活動が必要です」。ウィング・ルーク博物館の展示のほとんどは、地区内のコミュニティーを巻き込むものだ。「ウィング・ルーク博物館もコミュニティーの一部ですから。切り離して考えることはできないんです」ウィング・ルーク博物館を訪れると、まるで実際に地域の住民と会って、彼らの人柄に触れるような気分になれる。「人々の生の声が展示されているからでしょう」と、キャシーさん。押し入れに大切にしまい込まれていた写真や
思い出の品々が、その人物の歴史を物語る。同館では学芸員がいない代わりに、コミュニティーの住人が展示の計画や運営に関わる。同館の展示が評価されるのは、コミュニティーに根差した博物館として、地域住民が自分自身のことを展示しているからだ。

日系人の歴史をたどる、日本町マップ

イースト・コング・イック・ビル前景。ウィング・ルーク博物館は向かって右手にある。ビルは1910年、170人の中国人による共同出資で建てられ、何百人もの中華系・日系・フィリピン系移民を受け入れる居住区となり、文化的交流の場でもあった Photos by Otto Greule

今年2月10日、旧正月を祝う展示であふれる同館で、毎年恒例の獅子舞パフォーマンスが披露された。その翌日、2016年10月から続いていた特別展・第3期「ブルース・リーのある1日」が終了。現在は、ブルース・リーのシアトル生活に焦点を当てた第4期「ドラゴンここにあり」を展示中だ。「彼のシアトル生活は、ファースト・ヒルにあったレストラン、ルビー・チョウズから始まりました。ウエーターとして働きながらチャイナタウンで多くの時間を過ごし、ワシントン湖のほとりで思索にふけり、ワシントン大学とユニバーシティー・ディストリクトで哲学と武術を学んでいたんです。彼もシアトルに生きたひとりの人間だったのだと、親しみを覚えてもらえるような展示に
なっているはずです。ブルース・リーは偉大なパイオニアであり、イノベーターでした。彼をそこまで育てたのがシアトルという街であり、この街は今でもそんな特別な力を秘めています。今回の展示は、ブルース・リーについての新たな解釈になっていると思います」

2018年は、ウィング・ルーク博物館にとって記念すべき年でもある。アメリカ内務長官とワシントン州の全代議員団によって国立公園局の提携エリアに認可されてから、今年でちょうど5年になるのだ。5年前の出来事をキャシーさんは感慨深げに振り返る。「仲間のひとりが、満面の笑みで言ったんです。『これで僕らは、マウント・レーニアみたいなもんだ』って。国立公園に指定されたということは、アメリカ史の一部と認められたということ。この国唯一のアジア博物館が、アジア系市民の歴史が、アメリカ史の一部だと公認されたんだと考えると、胸が熱くなりました」

同館は、日系アメリカ人の歴史をたどるトレイル作りにも携わる。国立公園局のプランナーから助言を得つつ、フレンズ・オブ・ジャパンタウンなどと共に、ここ1年行ってきた取り組みだ。パイオニア・スクエアや日本町を通り、セントラル・ディストリクトに至るトレイルでは、寄り道スポット42カ所を選定。昨夏にテスト・ハイキングを済ませ、地図付きパンフレットも完成した。

多岐にわたって精力的な活動を続けるキャシーさん。いつでも帰れる「家」があるから頑張れるのだと話す。「私にとってのホームは、あくまでインターナショナル・ディストリクトのチャイナタウンです。自宅はビーコン・ヒルにあって、趣味のお菓子作りや編み物、読書、ハイキング、ランニングは自宅近くで行いますし、通っている教会も近所にあります。それでも、私が所属するコミュニティーは、私自身の文化が根ざすチャイナタウンなんです」

キャシーさんのように、住む場所は違ってもインターナショナル・ディストリクトを「ホーム」と呼ぶ人は大勢いる。週末になると、人々は買い物をしにチャイナタウンへ帰って来る。家族のイベントがあればここで食事をし、子どもにアジア系アメリカ人の歴史を教えたければウィング・ルーク博物館を訪れるのだ。彼らを「お帰りなさい」と出迎えられるよう、キャシーさんはいつでも博物館のドアを開けて待っている。

キャシー・チン(Cassie Chinn)■ウィング・ルーク博物館副理事長。曾祖父母の代からシアトルに住む中華系アメリカ人の家庭に生まれ育つ。カリフォルニア大学バークレー校で美術史を学んだ後、シアトルへUターンして1993年から同館に勤務。家族と共にビーコン・ヒル在住。

※本記事は英語でのインタビュー記事を元に日本語意訳したものです。オリジナルの英語インタビュー記事は姉妹紙『北米報知』のウェブサイトでご覧になれます。

ウィング・ルーク博物館┃Wing Luke Museum of the Asian Pacific American Experience
719 S. King St., Seattle, WA 98104
☎206-623-5124
開館時間:火~日10am~5pm(第1木曜無料開館日~8pm) 定休:月
ウェブサイト

博物館が入るイースト・コング・イック・ビルでは、45分間のガイドツアー(火~ 日10:30am、11:30am、12:30pm、1:30pm、2:30pm、3:30pm)も楽しめる。1910年当時の様子のまま保存されたイック・ファン雑貨店、中華系アメリカ人組合が使用していた集会場などを見学できるPhotos by Alabastro Photography
日系アメリカ人ゆかりの地ガイド
日本町の過去と現在をめぐるトレイル・マップが今年3月からウィング・ルーク博物館、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)、クロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園で配布されている。42件の寄り道スポットを網羅する地図やイラストを制作したのは、これまで移民コミュニティーの研究でスケッチを行ってきた中村有理沙さんだ。同ガイドには、そのスケッチも使われている。英語版に加え、日本語版も今年5月には配布予定。ウィング・ルーク博物館によるウォーキング・ツアーもある。詳細は上記ウェブサイトで確認を。

中村有理沙さん

日本文学研究家 ジェイ・ルービンさん

村上春樹作品の翻訳家としてその名を知られる、ジェイ・ルービンさん。教職を退いた後も精力的な執筆を続け、 現在は近現代日本文学作品の英語訳アンソロジー(選集)作品に取り組んでいます。アンソロジー作品には村上春樹氏による前書きも入り、ペンギン・グループから出版される予定です。ルービンさんの執筆活動の拠点はベルビュー市内にある自宅書斎。そこで、アンソロジー作品、小説デビュー作『The Sun Gods』について話を聞きました。

取材:ブルース・ラトリッジ 翻訳:大井美紗子

 

こんなに編集が楽しかったのは初めて

「現在制作中のアンソロジー作品は、少し変わっているんです」と、ルービンさん。普通は作品を年代別に章立てするところを、同作品はテーマ別の編成にしている。たとえば「日本と西洋」という章があり、その章には日本と西洋のつながりをあえて書き続けた永井荷風や夏目漱石を収載。異性関係にまつわる物語を収めた「男と女」という章もあれば、ユーモア小説を収めた「現代生活とその他ナンセンス」という章もある。「作品のトーンや雰囲気で分けています。唯一、年代別にしたのが『天災と人災』という章です。作品の発刊年度ではなく、その災害が起こった年度順に並べています」。初めは1923年の関東大震災、それから戦争の時代に入り、広島にまつわる話もあれば、コロンビア大学出版会から発行された『Ground Zero, Nagasaki』という傑作も。戦中、戦後と続き、最後は福島の被災だ。

「戦後の作品としては、川端康成の名作もありますし、別のアンソロジーのために昔翻訳した『アメリカひじき』もあります」。アニメや実写など映画化もされた『火垂るの墓』の原作者として知られる野坂昭如著『アメリカひじき』は、両作品で直木賞も受賞。10代の頃に戦争を経験し、売春あっせんをする“ポン引き”などをして生活をつないだ男が主人公だ。「ポン引き生活から20年ほどが経って社会的な地位もやっと築いたある日、彼の妻があるアメリカ人夫婦を日本に招いたことがきっかけで心が千々に乱れるんですね。一方では敗戦前後に経験したあれこれを思い出し、もう一方ではアメリカ人が家にやって来たって平気だぞ、と強がる。すっかり記憶が逆戻りして、またポン引きになってしまうというわけです。笑いあり涙ありの、素晴らしい物語。今回収載できて本当にうれしいです」

今回のアンソロジーに入る全ての日本文学作品について、ルービンさんが翻訳・編集をしている。これはずいぶんと骨が折れる作業だったようだ。「1行1行じっくり見ていくと、他者が翻訳した文にも自分自身が過去に翻訳した文にも、修正したい部分がたっぷり見つかるんです」。アンソロジーは、1年以内には刊行される予定。本当は3年前に出ているはずだったが、制作は長期にわたり、昨年末にようやく編集に入ったという段階だ。「編集作業はとんでもなく楽しい経験。こんなことは初めてかもしれません」

翻訳するのが辛かった原爆文学

今はアンソロジー作品制作の最終段階に入っていて、村上春樹氏による前書きを訳しているという。前書きの翻訳 とは言え、ここ数年間にわたって村上氏と幾度となくやりとりをしながら仕上げている。過去のルービンさんによる翻訳・再訳作品『Rashomon and 17 Other Stories』(芥川龍之介『羅生門』、ペンギン刊、2006年)、『Sanshiro』(夏目漱石 『三四郎』、ペンギン刊、2010年)、『The Miner』(夏目漱石『抗夫』、アードバーク・ビューロー刊、2016年)にも村上氏が前書きを寄稿した。「村上さんはいつも素晴らしい前書きを寄せてくれる。今回も寄稿してくれると聞いて驚きました。(現代文学はあまり読まない)村上さんに現代文学を読ませることになりますからね。芥川や漱石など近代文学はわかるが、まさか現代の作品まで引き受けてくれるとは」

今回のアンソロジーの「天災と人災」の章について、ルービンさんの本音も漏れた。広島と長崎の原爆については、半ば意図的に目を背けていた時期があったという。再び向き直るには、自分を奮い立たせる必要があった。2つの原爆について、かなり多くの日本語資料を読み込んだ。「日本には『原爆文学』というジャンルがあるんです。その中でも、大田洋子という作家に引かれました。(この分野では)最も成功した職業作家のひとりです。アンソロジー作品には、彼女の『屍の街』からかなり長めの章を抜粋しています。鳥肌が立つような物語です。翻訳するのが辛かった。文章にするには、全てを想像しなければいけませんから。なんていうか、おぞましい作業ですよね。そんなふうに原爆文学をたっぷり読んだ期間があったのです。しかしその経験がなければ、『The Sun Gods』の長崎の章(最終章)を書くことはできなかったでしょう」

『The Sun Gods』 (邦題:『日々の光』)
ルービンさんの小説デビュー作。2015年、チン・ ミュージック・プレス刊。シアトル、ミニドカ収容所、日本が舞台。日本語版は柴田元幸氏、平塚隼介氏による訳。

カナダの日系人収容について

2017年夏にカナダのバンクーバーで開催された日系コミュニティーの夏祭り「パウエル祭」で、ジョイ・コガワ氏とパネル・ディスカッションをしたルービンさん。両者共に、日系人の強制収容について書いた作家というのが、パネリストとして呼ばれた理由だったようだ。ルービンさんは事前に代表作『Obasan』(邦題:失われた祖国)を含むコガワ氏の作品を読んだという。「とても引き込まれました。『Gently to Nagasaki』も良かった。この本は今、2回目を読み終わったところです。というわけで、カナダの強制収容については、パネル・ディスカッションの前にわずかながら知識を仕入れていました」

カナダの強制収容がアメリカのそれと大きく異なる点は、カナダ政府が人々の財産を没収したこと。「アメリカ人は、そこまでしなかった。日系人たちを有刺鉄線の奥に閉じ込め、マシンガンを突きつけた。ひどい話ですが財産没収まではしなかった。シアトルの日系人がミニドカ収容所へ連行される際には、やむを得ず全財産をスズメの涙のような金額で売り払いました。『The Sun Gods』の中でも、登場人物の女性が『そんなはした金をもらうくらいなら』と自分の陶器を投げ割ってしまう場面があります。結局、アメリカ政府は彼女の陶器を没収しなかったというストーリーです。カナダ政府は財産没収までしてアメリカ以上にひどかったわけです。家も車も仕事も奪った。その没収財産で強制収容にかかる費用を支払ったそうです。あきれますね」

カナダでは、日系人の収容が終戦後の1949年まで続いた。カナダ政府は本国送還、疎開、そんな呼び名でごまかしていたが、実情は投獄のようなものだったとルービンさんは語る。「日本へ帰ることもできる」と言ったところで、ほとんどの人は日本へ行ったことすらない。日本とのつながりは何もなかった。アメリカで収容された人数は12万人で、カナダでは2万1,000人から2万2,000人と言われている。アメリカのほうがずいぶん多いのは、カナダでは約4,000人が日本への帰国に同意したから。「いや、帰国ではなく渡航というべきかな。『The Sun Gods』の中にも、日本への送還を選び、スウェーデンの大型船であるグリプスホルム号に乗る人たちが出てきます。日本へ送還された人たちがその後どうなったのかはわかりません。うまくいったのか、そのうち何人が自死を選んだのか。4,000人が送還された後、残った人々はカナダ中に散り散りになりました。日系人コミュニ ティーが作れないよう、あえてバラバラにされたんです。実に卑劣なやり方です」

『Sanshiro』
(ペンギン・クラシック)
ルービンさんが最近手掛けた、夏目漱石『三四郎』 再訳。村上春樹氏による前書きも入る。

日本語を勉強し始めたのは「なんとなく」

シカゴ大学2年生の時に日本文学に出合ったルービンさんは「もしかしたら中国文学や中国史を選んでいたかもしれない」と話す。そもそも大学では英語学か哲学を選ぶつもりだったという。「専攻教科を決める3年生になれば専攻以外のクラスを受講する時間がなくなるので、その前に何か珍しいものを学びたい。だったら西洋以外のものを学ぼうと思ったんです」。ちょうど中国史のコースがあったが、ルービンさんには、「なんとなく」日本文学のほうが魅力的に見えた。日本文学クラスが始まると担当の教授は英訳本と日本語元本の両方を使って翻訳について話し、原文を読めるほうがどんなにいいかを教えてくれたという。「日本文学クラスを終えて夏休みに入ると、日本語教科書を買って日本語の勉強を始めていました。そしてどっぷりのめり込んでしまったんです」。3年生からの専攻は東アジア言語を選択して日本文学学士を修了。それでも学び足りないと思って大学院へ進み、そのまま日本文学の博士号を修得した。

『ノルウェイの森』ルービンさんが翻訳した村上春樹作品の1つ

『The Sun Gods』に、主人公のビルが明治時代のような恰好をした老紳士に会うという場面がある。それはルービンさんが実際に経験したことだ。「四ツ谷駅の近くに草が茂った土手があって……あれは公園ですかね。その辺りを歩いていたら、まるで明治時代から抜け出してきたような日本人の男性がいたんです。『おじさん、アメリカから来たんだ ろう?』と、英語で聞かれました。かつてニューヨークのコニー・アイランドでポップコーンを売っていたそうです!」

『1Q84』ルービンさん翻訳の村上春樹作品

 

プライベートでは最近、強制収容をテーマにしたジョージ・タケイ主演ブロードウェイミュージカル「Allegiance」(邦題:アリージャンス/忠誠)を鑑賞したというルービンさん。「素晴らしい出来映えで、2回も観たくらいです。これは 観る価値がありますよ」。日本にもたびたび訪れている。「日本へ行くのは仕事の話をしたりリサーチしたりもあるけれど、実はそれ以上に楽しみにしていることがあって」。翻訳家でアメリカ文学研究家の柴田元幸氏らとギター・ジャム・ セッションを楽しむのだという。

Jay Rubin(ジェイ・ルービン)■日本文学の英語翻訳家として第一線で活躍。日本を代表する現代作家、村上春樹氏の作品を数多く翻訳していることで知ら れる。ワシントン大学とハーバード大学で教鞭をとった後、2006年に退任。2015年に長編小説『The Sun Gods』を刊行。妻と共にベルビュー在住。

 

本記事は英語でのインタビュー記事を元に日本語意訳したものです。オリジナルの英語インタビュー記事は姉妹紙『北米報知』のウェブサイトでご覧になれます。

ポップアーティスト ケン・タヤ(Enfu)さん

異文化問題を浮き彫りにしたり、綿菓子のように甘くライトなモチーフを描いたり。ファンからは  Enfu(猿風)の名で知られる、ケン・タヤさんのポップアートは、シアトル地域の街角、レストラン、ショッピングバッグなどで、多くの人の目に触れている。アメリカで日本人両親の元に生まれ、日米文化の狭間で育った自身の体験談と、その影響を受けたアート作品について語ってもらった。

 

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:渡辺菜穂子

 

ポップアーティスト
ケン・タヤ (Enfu)さん
Ken Taya(田谷健太郎)■ シカゴで生まれ、デラウェアと仙台で育つ。シアトル地域を拠点として活躍するポップアーティスト。アーティスト名はEnfu(猿風)。Blue C Sushiレストランの壁絵、宇和島屋のショッピングバッグ、インターナショナル・ディストリクトのゴミ箱など、地域に根ざした作品に加え、ポスター、ステッカー、印刷物、帽子、ヘアバンド、画集なども販売されている。KOBO at Higo、Kinokuniya、Pink Gorilla、Giant Robotなどで購入が可能。ジャパンフェスティバルや西海岸のコミック・コンベンションなどに積極的に参加している。また、「Scribblenauts」や「Halo 3」などのヒットゲームを手がけたベテランのゲーム・デザイナーでもある。現在は、妻のイクコさんと娘のエリカちゃんと共にベルビュー在住。

自分の道を見つける

アジア系のポップカルチャー雑誌『Giant Robot』と、その編集長であるエリック・ナカムラ氏(雑誌は現在廃刊、エリック氏は同名会社を経営中)との縁がなければ、アーティストになっていなかったと思います。ワシントン大学在学中、たしかシニアの年に『Giant Robot』を目にして、アジア系アメリカ人のアーティストが存在するのだと知りました。私は美術館に足を運ぶような人間ではなく、それまで知らなかったのです。この時初めてアジア系アメリカ人によるポップカルチャーの世界を発見し、「私にもできるかもしれない」と思ったのが、自分の道を考え始めるきっかけとなりました。当時は運送業者として働いており「時計を眺め、5時になるのを待つ」ような仕事に疑問を感じていました。かといって別に目的もなく、何をしていいか分からず、ただ毎日が過ぎていく。一つ確かなことは、親に言われるがままの人生は嫌だと思っていました。

子どもの頃からアートが好きでしたが、大学を卒業してから本格的に始めました。アートを志し、自分が好きなものを2つ考えました。日本のモノとゲームです。それで何ができるのか、どんな会社に需要があるのかを考え、任天堂にたどり着きました。そして、任天堂(Nintendo of America)に就職する近道として、デジペン工科大学(DigiPen Institute of Technology)を見つけました。デジペン工科大学に2年間通い多くの絵を描きましたが、卒業はしませんでした。アートの世界では、学位はポートフォリオほど重要ではありません。それよりも自分自身の作品を仕上げることに時間を費やしました。

以来、15年間ゲーム業界で働いています。これまで所属した会社はゾンビ(Zombie Studios)、NST(Nintendo Software Technology)、モノリス(Monolith Productions)、 バンジー(Bungie, LLC.)から、 5th Cell、DoubleDown Interactive、NC2 Mediaまで。ゲーム業界は変化が多いので、多くの人が会社を転々とします。実は、ワシントン大学時代に建築にも興味を持ちましたが、建築科の学生がいつも机の下で寝るほど忙しそうなのを見て、そんな生活を送りたいとは思いませんでした。しかし、結局3D 環境のゲーム制作を手がけ、建築分野の最も楽しい部分であるコンセプト設定、モデリング、構築の仕事をしています。

デラウェア州から仙台市へ

私が小学生の頃、父が東北大学に就職し、7年生の時に家族で仙台に引越しました。アメリカ生活を引き上げ、日本に永住するつもりでした。子どもだった私は「やっと自分の国で暮らせる」と思い、とても嬉しかったものです。でも、甘い考えでした。日本人コミュニティのないデラウェア州で育った私は、それまで十分な日本語教育を受けていませんでした。私の日本語力は同年代の子と比べて遅れていました。

日本では、今考えると自分でも不思議なほど多くの失敗をしました。登校初日に、校舎内には靴を脱いで入ると教えられたとは思うのですが、真っ黄色のコンバースのハイカットを履いたまま4階の教室まで行ってしまいました。周りからは反抗期だと思われたけれど、ただ無知だっただけです。また、先生を呼ぶための「you」という日本語を考えていて、授業中に先生に向かって「キミ(君)」と言ってしまったのです。クラス全員が絶句し、まるで「ちびまる子ちゃん」のワンシーンのように冷たい空気が流れました。

ガタイが良くパンチパーマをかけた 体育の先生に呼ばれて、「英語のスラッグを教えろ」と言われたこともありました。「スラング(slang)」のつもりだったのでしょうが、私は「ナメクジ(slug)」だと思って、変だなと思いながらも黒板にナメクジの絵を描くと、先生はイライラして「違う、違う、違う」と 。

そんなこんなで日本に馴染むことができず、だんだん心が壊れていきました。ただ今思うと、この時の経験から私自身のアイデンティティを構築し他者に共感する力が養われたと思います。後にアメリカの高校で インターナショナル・クラブに関わり、英語にアクセントのある留学生と交流するようになります。

小学6年生から中学1年生までを過ごした仙台の生活は、キツかったです。小6の時の美術クラスでの出来事をよく覚えています。絵を描く時間でした。先生の絵の具を借りて描いた絵を、「本当に初めてなの? それにしては 素晴らしい絵だ 」と褒めてもらったのです。とても印象に残っています。深いうつ状態にある時のささやかな光でした。絵を描くことはそれまでも好きでしたが、その時の先生の言葉で、よりアートの世界に目を向けるようになったのかもしれません。

学校で一度、泣き叫んで先生に訴えたこともあります。「みんなボクのことを笑っている。これ以上ここにはいられない 」と。すると先生は放課後にクラス全員を集め、しかし私を廊下の外に待たせて、ドアを閉めて怒鳴りました。「みんな、英語が話せないよな。その状態で、アメリカに引越してみろ。今すぐ荷造りをしろ」。とても強い口調でした。「みんながアメリカで、どれほどうまくやっていけるか見てみたい」と。

私はどうしていいか分からず、その場から離れました。すると何人かの男子生徒が探しに来てくれて、「ごめん。僕たちが悪かった。先生の言う通り、日本語や日本文化に慣れていないのは、キミのせいじゃないのに」と、態度を一変させました。そこからいい方向に流れが変わりました。先生は全面的に擁護してくれ、私の肩の荷はすっと軽くなりました。私の絵を褒めてくれた先生と同じ先生です。

しかし結局、私の父が仙台での生活は子どもにとって良くないと考え、アメリカに戻ることになりました。そして、デラウェア州の学校で 8年生を始めました。しかし、今度は英語が混乱していました。簡単な言葉まで忘れていて、「of」を「uv」とつづったりしたのです。恥ずかしくて、ますます臆病になり、内にこもるようになりました。最終的には克服しましたが、アメリカに戻っても私には逆カルチャー ショックが待っていたのです。

Enfuさんの作品「Niko Niko Boy」

絵を描くことの意味

モノを作ることで、私は元気になります。楽しみであり、リフレッシュの手段です。絵を描くのはとても孤独な作業です。多くの人が私のことを外向的でおしゃべりで陽気な人間だと言い、そういった面ももちろんありますが、白か黒かと両極端に判断できるものでもありません。私たちはみんな、いろいろな色が入り混じった性格で、そんな絵を描くことで私は自分自身でいられます。

インターナショナル・ディストリクトの日本町( Japantown)のプロジェクトのように、120から150時間かかるような大規模な制作をしていた時のことです。永遠に続く広いキャンバスに向かって絵を描き、その後朝方までゲーム「Scribblenauts」の制作に取り組むような生活で、疲れきっていました。それでも描く体力は残っていて、ささやかな達成感が欲しくて小さな作品も作り始めました。そして、「ハムスターホーク(Hamster Hawk)」のようなキャラクターが出来上がりました。数百の小さなモノが何千もの小さなモノになります。そのパターンを作るためのツールセット「Enfusoft」も作りました。城ではなくレゴのブロックを作り始めたのです。そして、それらを集めた世界「Enfutown」も作りました。

「芸術は自分のためだけにある」と言われたことがあります。「本当の意味で芸術家になりたければ、作品を仕上げて自分のガレージに保存するべきだ」と。しかし、アートは実用的で、みんなが楽しめるべきものだと私は思います。壁にかけたり、ゲームにしたり。そのためには街角や、レストランや、ノートパソコンや、携帯電話などの身近な場所やツールに作品が現れ、人の目に入ることが大事です。そこで初めて人と人が関わりあう輪の一部となります。何かを作って自分だけで楽しむこともできるけれど、他の人を楽しませることもできるのです。誰かに花をあげたら、その人が笑顔を返してくれるのと同じです。私が積極的にコミコンに参加する理由は、リアルタイムでそんな反応を得られるからです。

私が最初に描いた「Blue C Sushiレストラン」の壁絵は、アジア的なモノで満たされています。宇和島屋も背景に入っています。当時、 多くのアジア人が集まる唯一の場所で、アジア人にとっては安全で居心地の良いスポットでした。

「絵のアイディアは、どこから来るのか」と聞かれることがよくあります。それをうまく説明するのは難しいですが、私は何も書かれていない白い紙が好きです。何にでもなれます。私の可能性でもあるのです。