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Author: デイビッド ヤマグチ

テラオ清子さん〜敗戦直後の日本を出て新1世の先駆けに

いつも朗らかな印象で、手芸と社交ダンスを日々の楽しみとするテラオ清子さん。最初に日本からシアトルに来たのは、1959年のことでした。戦前の日系移民と区別し「新1世」とも呼ばれる日本からの米国移住者。その先駆けである清子さんは、どのような経験をしてきたのでしょうか。1941年12月7日の真珠湾攻撃による日米開戦から間もなく80年。戦争のこと、渡米の経緯、仕事、そして現在までの暮らしについて振り返ります。

取材・原文:デイビッド・ヤマグチ 翻訳:宮川未葉
写真:『北米報知』より転載

※本記事は『北米報知』2021年4月23日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

テラオ清子■愛媛県今治市で生まれ育つ。戦後は洋裁を学び、東京で洋裁師として働いていたが、姉の子育てを手伝うため、キャリアを中断して1959年にシアトルへ。一時的な滞在の予定が、友人を通じて見合いをした日系2世の男性から結婚を申し込まれ、長い移民生活が始まることに。18年前に夫が他界するまで、添い遂げた。手芸と社交ダンスが趣味。

日米開戦で女学生生活は一変

清子さんは愛媛県今治市の出身で、9人兄弟の7番目の子ども。父親は着物の家紋入れを仕事にしており、父親が紋を描き、一家の女性たちがそれを刺繍した。「いいビジネスでした」と、清子さんは言う。父親は子どもたち全員に高等教育を受けさせようとしていた。清子さんも今治精華高等女学校(現・今治精華高等学校)に進んだが、第二次世界大戦は、清子さんの女学生生活に大きな影響を及ぼした。

B-29による空襲を受けた都市。清子さんのいた今治は、広島から瀬戸内海を挟んで向かい側に位置し、距離も近い
(米空軍資料、1952年)

「男性たちは次々に出征していき、男手が少なくなったため、私や同級生たちは、それまでしたことのなかった稲刈りの手伝いなどをしました。夜は灯火管制が敷かれていたので、光が漏れないように押し入れに入って勉強しました。日米開戦1年目はそれほどでもなかったのですが、その後の3年間は少しずつ大変になっていきました」

今治精華高等女学校の卒業アルバム。左上が清子さん

1945年8月6日には、広島に原子爆弾が落とされた。今治はその数時間前まで、米軍のB-29による焼夷弾攻撃を受けていた。8月5日夜中から続いた今治空襲だ。今治では旧市内の約8割が焼失した。日本政府が降伏の意思を連合国に電報で知らせたのは、そのわずか4日後、8月10日のことだった。

清子さん

空襲の夜、清子さんは家族と山の洞穴に避難していた。父親ひとりが残り、家を守っていたが、焼夷弾で起きた火事を消そうとしたものの消せないと悟って逃げたと話す。「ひと晩で宿なしになってしまったの」と、清子さん。

住む家がなくなった次の夜、一家は仕方なく浜辺で寝た。盛夏のことで、蚊の大群に悩まされた。やがて近くの学校に一時避難したが、ほかにも家を失った多くの家族が避難してきていた。「近くで子どもが泣いていたりして、なかなか寝られませんでした」。今治は広島と瀬戸内海を隔てて隣り合うが、原爆投下時には何も見えなかった。しばらくして、広島で負傷した人々が助けを求めて小さな船で今治に来るようになった。

我慢、我慢の敗戦直後

学校の避難所には1カ月ほどいた。その後、9月の学校再開に合わせて一家は立ち退かなければならず、今度は銭湯で間借りすることに。その銭湯の建物はコンクリートでできていたため、空襲に遭っても焼け残った。夜は浴室のタイル敷きの床に寝た。

日本での同窓会にて

生活は困窮していた。一家は家の焼け跡に戻り、食べ物と交換できる、生活の足しになるような物を探した。「兄が以前に掘った庭の防空壕に着物が残されていたので、それを田舎に持っていき、農家で野菜と交換してもらいました。当時、農家の人はお金ではなく、着物を欲しがっていました」。それでも、食べ物は十分とは言えなかった。「いつもお腹をすかせていたことを覚えています」。電気は何年も使えなかった。ろうそくを使ったり、皿に入れた食用油にひもで作った芯を浸して火をともしたりしていた。「焼け残った家の窓明かりを見ては、うらやましく思いました」

近所に住む友人と社交ダンス教室へ。2019年9月

両親は、バラック小屋のようなものを自分たちで建てた。今の日本では、2011年の東日本大震災のような大きな災害が起こると、政府が都市の復興や被災者の支援を助けるが、当時は違った。「日本は第二次世界大戦で敗戦したのです。家も食べる物もない中、支援の当ては全くありません。だから、我慢、我慢でした」と、清子さんは言葉を重ねる。

新1世の波

戦争が終わって、清子さんが新たに始めたことがある。洋裁の勉強だ。片道1時間半かけて松山洋裁女学院(現・松山ビジネスカレッジ クリエイティブ校)に2年間通い、洋裁師になるための訓練を受けた。1950年代後半には東京で洋裁師としてのキャリアを築いていた。

コロナ下、マスク姿の清子さん

日本で日系2世の男性と結婚し、航空会社で働く夫の仕事の都合でシアトルに渡っていた姉から、4人の子の世話を手伝って欲しいと言われたのはその頃。1959年、清子さんは初めてシアトルにやって来た。「アメリカに来るつもりはなく、来たいと思っていたわけでもなかったのですが、共働きでベビーシッターを必要としていた姉の再三の頼みを無下にはできず、洋裁を学ぶことにして学生ビザを取りました。アメリカに着いたのは、サンクスギビング前日でした」

このシアトル滞在中、清子さんに大きな転機が訪れる。英語を習う先でできた友人を通して見合い話が持ち上がり、父母は共に広島出身という日系2世のマサシ・テラオさんから結婚を申し込まれたのだ。期間限定のはずだったアメリカ生活は、現在までずっと続く長いものになった。

清子さん手製のエプロン

東京で洋裁師をしていた経験もあり、働き口はすぐに見つかった。25年間勤め上げたライトハウス・フォー・ザ・ブラインドでは、主に米軍から発注された縫製の仕事をしていた。軍服のネクタイほか、海軍の軍艦旗も作った。ネクタイの縫製は、ひと束48本ごとの出来高払い。「私が48本のネクタイをどれくらいの時間で作れたかわかる? 15分よ!」と誇らしげに語る清子さんは、作業が特に速い3人のうちの1人だった。スピードだけでなく質にもこだわって頑張る清子さんは、上司から「そんなに上手に作らなくていいから」とよく言われていたそうだ。得意の洋裁を日系人女性たちに自宅で教えたこともあった。

1世、2世、帰米、戦争花嫁と、日系社会の構成は時代と共に変容していくが、清子さんはその次のグループである新1世の最先端にいた。新1世は、戦後にさまざまな個人的理由で新たにアメリカへ移住してきた人々だ。日本人や他のアジア人の移民を停止した1924年の排日移民法以来、非白人に立ちはだかっていた障壁は、1965年の移民国籍法によって取り除かれた。そのため、ほとんどの新1世は60年代半ばになって米国に来ている。家の事情や生活の保障などのためではなく自らの意思で祖国を離れ、アメリカに移り住む日本人たち。清子さんのような人々が起こした新しい波は、現在も続いている。

とにかく手で物を作り出すことが楽しい

「日本の夢は見ますよ。夫の夢は見ないけれど(笑)。昔の同級生が夢に出てきます。同級生たちとはこれまで何度か集まりましたが、今はもうないですね」

精巧な手編みの膝かけと靴下カバー

この12月には94歳になる清子さん。今でも手を動かして何かを作り出すことが大好きだ。ほかの人がもらってもとまどうようなささやかな物も喜んで受け取り、アレンジを施す。たとえば、バケツいっぱいのプラムはジャムに、大量にもらったアウトレット店のパンはトーストやサンドイッチに、下の世代の友人が親の家を片付けて見つけた毛糸や布は帽子や毛布、ルームシューズ、エプロンに、といった具合。そうした手作り品は仲間への素敵なお返しやギフトとなって循環している。

もうひとつの楽しみは社交ダンスだ。2世復員軍人会(NVC)ホールの社交ダンス教室では、日系3世の若い友人が大勢できた。焼け野原になった戦後の今治で、社交ダンスが唯一の楽しみだったことから、それを再開しようと通い始めた。パンデミックで中断されてしまったのが惜しいと清子さんはこぼす。

持ち前の明るさとバイタリティーでパンデミックを乗り切ろうとしている清子さん。「テレビを見る時もただ座っているだけではなく、常に手を動かしています。春にはまた畑仕事も始まります」と、毎日を忙しく過ごす。友人とはよく散歩に出かける。「中華系の彼女は、料理がとても上手。散歩のたびに、残り物だと言って料理を手渡されます。今は住まいもあって、食べ物もたくさん。アメリカ人は食べ物を無駄にして、もったいないですね」

シアトルのインターナショナル・ディストリクトを飾る壁画群

日系アーティスト、作品に思い込め
シアトルのインターナショナル・ディストリクトを飾る壁画群

シアトルのインターナショナル・ディストリクトで、暴動から店を守るために店頭に木板が打ち付けられた後、店主たちは次に何をすべきかと考えました。日本町の工房アット・ヒゴでは、鳥居と共にブラック・ライブズ・マター運動を支持する声明が描かれていました。

取材・原文・写真:デイビッド・ヤマグチ 翻訳:長井智子(羅府新報)

※原文の英語記事は『北米報知』2020年7月17日号に掲載。

 日本町があるシアトルのインターナショナル・ディストリクト/チャイナタウン(CID)では、多くの商店が2020年5月のジョージ・フロイド事件に対する平和的な抗議デモに便乗して暴れる犯罪者の略奪に備えて、店頭のショーウインドウに板を打ち付けた。被害に遭った21店舗と、次は自分の店が被害に遭うかもしれないと恐れる近隣の店の板塀対策は、暴徒の標的にされているCIDを支援する地元のコミュニティー・グループとシアトル公共事業局が無料で提供した。現在も、CIDの店頭は板が打ち付けられたままだ。

 店主たちはアーティストたちの助けを受け入れた。打ち付けられた無垢(むく)の木の板をキャンパスに、約100枚の壁画を描く時間が寄付された。壁画は街を際立たせ、居住者と街の訪問者に希望を与えている。

工房アット・ヒゴの店頭に木板に描かれた鳥居のアートとブラック・ライブズ・マター運動を支持する声明

日本人、日系米国人、あるいは日本関連の店舗やビルで、どのような壁画が描かれたかを調べてみると、半世紀ぶりと言われるこの都市の混乱の只中で、アーティストやビジネス経営者が前向きに前進している道筋が見え、価値ある状況を認めることができた。新型コロナウイルスの外出自粛で家にいる多くの人々が見ることができない、「はかない芸術」だと言うこともできよう。

 まず、今ではCIDに残っている日系のビジネスがごくわずかであることは特記する必要がある。過去数十年の間に、家族経営のビジネスのほとんどは代替わりをせずに閉店した。経営者たちは子どもを育て上げるという人生の目標を達成し、やがてリタイアして店を閉じた。子どもたちは、限られた利益しか生まない店の経営よりも、自分たちの前に広がるより大きな機会に向かって前進した。

 私が調べた10店の日系店では、ほとんどの壁画は単に実用的な作品だった。板で覆われた店の名前と、店が営業中であること、それに、営業時間を知らせる内容。壁画の作品の出来栄えは基本レベルという程度。2020年6月14日付の『シアトル・タイムズ』紙にフランクリン高校の生徒の参加が紹介された記事があったが、なるほど、大方の作品は、それが高校生を動員したコミュニティー・プロジェクトであることを示唆している。

和食店、まねきの窓には、地元で愛されたコミュニティー・オーガナイザーの故ボブ・サントス氏(左)と自警団の故ドニー・チン氏が描かれている

だが、特に目を引く2つの壁画の物語は興味深い。1つ目は、HTクボタ・ビル(6th Ave. S.とS. Main St.角)にある額装店、アートフォームの壁画。2つ目は洋装店のモモ、ギフトショップの工房アット・ヒゴ、飲食店のかなめが入るジャクソン・ビル(6th Ave. S.とS. Jackson St.角)の全体に広がっている作品だ。アートフォームの壁画は、20世紀初頭の白黒写真を基に日系1世と2世をペンとインクで描いたプロのアーティスト、ミシェル・クマタさんの作品だとひと目でわかる。

 クマタさんによると、この作品はアートフォームと同じビルにあるWkndスタジオのクリスタ・トーマスさんがコーディネートしたという。同ビルには他にも、ブライアン・オーノ・ギャラリー、ダダダ・ギャラリー、つくしんぼレストランなどが入っている。トーマスさんとクマタさん、2人のアーティストが協力してデザインし、ボランティアがペイントを手伝った。トーマスさんは、建築スタジオからクマタさんの作品の大型コピーを得られるように手配した。完成には約1週間を要した。

 アートフォームの壁画は文字を使わず、無言で作品がメッセージを語っている。アジア系米国人である私は、私のように見える人物の絵があまりにも少ないので、この壁画に気持ちが高まる。外を見つめる静かな顔はこう言っているように見える。「私たちも人種差別を受けてきた。私たちは、ここにいる」 クマタさんは以前、『シアトル・タイムズ』紙のグラフィック担当や、ウィング・ルーク博物館の展示ディレクターなど、長年にわたり芸術的な「日中の仕事」に就いていたアーティストだ。

 モモ、工房、かなめレストランに広く広がっている壁画は、肖像画とメッセージだ。最近亡くなった黒人の市民たちの肖像画。また、そこには鳥居で囲まれたパブリック・メッセージがある。

 「日系米国人のコミュニティーは、第二次世界大戦中の日系人への大規模な投獄に対して日系人と共に立ち上がった黒人、茶色の肌の人、先住民らの兄弟たちと揺るぎなく連帯する。われわれはアジア系米国人がこれまで白人至上主義に加担したことを認め、進行中の解体運動に尽力する。アジア系米国人の行動主義は黒人の行動主義に深く影響を受けてきた。その借りを返す時が来た。全ての人々の解放を達成するために、われわれの強さと特権を使用することを約束する。BLM。黒人の命は大切」

 宣言のあとには、名前が続く。ジョージ・フロイド、ブレオナ・テイラー、アーモド・アベリーから始まり、エミット・ティル、マーティン・ルーサー・キング牧師、マルコムXまで、83人の名前が列記されている。

額装店の店頭で、日系移民をほうふつさせるアート

メッセージを鳥居で囲むことの重要性について不思議に思って、インターネットで鳥居についてどのように書かれているかを調べてみると、「鳥居は、神社の入り口で最も一般的で伝統的な日本の門で、俗界から神域への移行を象徴する」とあった。

 壁画の背景をもっと知るために、私はエリン・シガキさんにメールを送った。壁画にシガキさんの署名はなかったが、人づてに彼女の作品だと聞いていた。奇しくも、ベルビュー・カレッジにあるシガキさんのパブリック・アートが汚されたことがニュースになっていた。

 シガキさんは主にグラフィックデザイナーとして生計を立てているが、シアトル市芸術文化事務所主催のパブリック・アート講習を受け、数年前からパブリック・アートの仕事を始めたという。「私は日本人の強制収容に関する作品を制作するためにジャクソン・ビルの所有者であるムラカミさん兄弟や、『デンショウ(伝承)』など、コミュニティーから多くの支援を受けている」と話す。

 「だからムラカミさんから板で打ち付けた建物を扱って欲しいと頼まれて、すぐに快諾し、チームをまとめた。自警団によるアーモド・アベリーの殺害の後、私はブラック・ライブズ・マターの壁画を作成するための壁を探していたのでタイミングは完璧だった。ムラカミさんは、材料費やスナックなどの費用、助手への報酬を支払い、労働力を提供してくれた。私にも数百ドルの謝礼を払うと主張したけれど、それは黒人の活動団体に寄付するつもりだ。制作には完成まで丸3日かかった。多くのコミュニティー・ボランティアがいなかったら、実現できなかっただろう」

 3店の日本語看板と米国の公民権メッセージの並置は視覚的に驚くべきものである。見る者の足を止め、考えさせると同時に、精神を高揚させる。

 この2つの壁画には2つの教訓が現れている。

 まず、公共の壁画を必要としている建物やビジネスのオーナーが、確立されたアーティストに制作を依頼することは、おそらく価値がある。プロのアーティストには複雑なプロジェクトをタイムリーに完了するための才能とネットワークがあり、店先を際立たせることができる。また、優れた作品はメディアに取り上げられ、ビジネスに有益となるかもしれない。

 次に、インターナショナル・ディストリクトの多くを占める単純な壁画と比べて、この2つの壁画は、あとから落書きされたりしていない。見事なパブリック・アートだけを残すことが暗黙の了解であるかのように、汚されることなく、輝いている。

桂 三輝さんのオンライン落語ストーリーテリング

カナダ出身の落語家、桂 三輝(かつらサンシャイン)さんによるイベントがUW和心会とタウンホール・シアトルの協力により開催されます。オンラインでも参加できる無料イベントを機会に、落語の世界を味わってはいかがでしょう。

取材・原文:デイビッド・ヤマグチ 
翻訳:加藤良子 写真:UW和心会提供

桂 三輝さんはカナダ・トロントに生まれ、劇作家や作曲家、ミュージカルのプロデュースなどを行ってきた。2008年、桂 文枝さんの15番目の弟子となり、桂 三輝と命名される。400年続く落語の歴史の中でも数少ない外国人落語家のひとりだ。

英語と日本語だけではなく、最近では中国語での落語にも挑戦し、新しい風となっている。NHKワールド番組「Dive into UKIYO-E」への出演を始め、昨年のG20大阪サミットのオープニング・レセプションで司会を務めるなど活動は多岐にわたり、今年に入ってからは3月12日までニューヨークのオフ・ブロードウェイ公演を行い、『ニューヨーク・タイムズ』紙といった大手媒体にも取り上げられた。

残念ながら新型コロナのため、シアトル公演は東京からのライブ中継に切り替わったが、落語に親しめるまたとない機会となる。開催に先駆けて特別にインタビューをさせてもらった。

Q.  日本人とアメリカ人ではお互いに越えることのできない文化の隔たりがあるように感じます。落語の世界にも同じことが言えるのではないでしょうか。アメリカ人はこの隔たりを越えられると思いますか。

A. アメリカ人は日本文化にとても興味を持っています。日本食、漫画、アニメ、歌舞伎、能、浮世絵、邦画、着物、柔道、空手、日本刀など……。アメリカ人の観客から「日本らし過ぎる」ことで文句が出たことはありません。むしろ逆で、アメリカ人には日本らしければらしいほど良いようです。ニューヨークでも同様ですが、これまで何度か公演してきたシアトルでもその傾向を強く感じます。この400年続く落語の世界を、海外にいる英語やフランス語話者にもわかりやすく伝える手助けができることは光栄に思います。

ニューヨーク、タイムズ・スクエアを飾った三輝さんの落語公演の広告

Q. ニューヨークのシアター界の批評家たちが公演を高く評価していますね。公演内容はどの程度、伝統に即したものなのでしょうか。ブロンド西洋人落語家としての個性を優先した内容になりますか。

A. 古典落語は師匠から弟子に伝えられるもので、たとえばジャズでスタンダード曲を演奏するように、弟子は同じ噺を同じように披露します。さらに、それぞれの落語家が自分なりの個人的な話、体験談などを盛り込んでいきます。観客はその噺を聞きながら、元ネタになっているのがどの噺なのか予測しながら楽しむのです。そういう意味では、英訳であるという点を除けば、ほぼ100%古典落語を元にパフォーマンスをしています。ちなみに、私は生まれつきのブロンドじゃないんですよ。ブロンドだと師匠が付けてくれた「サンシャイン」という名前にぴったりなので、あえて染めています。

Q. 落語家になる前は、トロント大学でギリシャ語を勉強し、古代ギリシャの喜劇作家の演劇にも通じているそうですね。こうした経験は、落語家としてのパフォーマンスに役立っていると感じますか。

A. はい。最初に落語と触れて夢中になった時にいちばん驚いたのは、これまでずっと興味を抱いて勉強してきたことは、全て落語の世界に続いていたのだと感じたことです。

Q. 最近の活動について教えてください。ずばり、もうかりまっか?

A. 今はYouTubeを利用して英語、日本語、そして中国語で落語を世に広めることに集中しています。本当は5月にトロントでNetflix向けの収録も予定していたのですが、パンデミックのため延期となってしまいました。ほかにはポッドキャスト放送をしたり、本の執筆を行ったりしています。

Q. 最後に読者へのメッセージをお願いします。

A. シアトルは2013年に始まった北米ツアーで最初に立ち寄った場所で、観客の皆さまに温かく迎えられ、素晴らしい経験となりました。今回の公演は計画し始めた1年前からずっと楽しみにしていたので、シアトルのタウンホールに直接行くことができず本当に残念です。皆さまにとって、この難しい時期を乗り越えた後、落語の公演に足を運んでもらえるきっかけになるよう、オンラインを通し落語の世界を広めていけたらと思います。

Katsura Sunshine (livestream) Rakugo Storytelling

日時:10月 20日(火)7pm~
料金:無料
問い合わせ:☎206-543-4996、asianll@uw.edu
詳細:https://townhallseattle.org/event/katsura-sunshine-livestream/
※イベント参加には、上記リンク先より要登録。英語での公演予定

イベントクローズアップ シアトル日本庭園、造営60周年で還暦祝い

6月5日に60周年を迎えたシアトル日本庭園では、「還暦」をテーマに特別プログラムを夏から秋にかけて開催予定。ウェブサイトではいち早くイベント・コンテンツを公開中です。

取材・原文:デイビッド・ヤマグチ 
翻訳:神谷友里杏 
資料:アーボリータム財団、北米報知、伊藤一男『北米百年桜』

※グループでの庭園訪問は5人以内。フェーズ移行期の最新情報、詳細はウェブサイトにて要確認。

 

出来事
1909 現ワシントン大学キャンパスで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会にて日本パビリオンと日本庭園が設けられた。地元の人たちが日本庭園に興味を持つきっかけとなる。
1934 オルムステッド兄弟がワシントン大学植物園を設立。
1937 園内における日本庭園の必要性が地方当局によって認められる。
1957 財団が造営のための資金集めを開始。
1958 財団の代表が、当時の東京都建設局公園緑地部長の森脇竜雄氏と面会。森脇氏は庭園建設予定地を視察し、造園設計と茶屋の提供を約束。飯田十基氏を含む造園設計家たちのチームが設計作業を始める。
1959 飯田氏が造営を監督するためにシアトル来訪。地元の日系アメリカ人の庭師や職人を雇い、石や草木の配置、木造建築を進めた。
1960 6月5日、日本庭園が一般公開。
1960 10月5日、日米修好通商条約100周年を祝う米国訪問でシアトルを訪れた当時の明仁皇太子殿下と美智子妃殿下(現上皇夫妻)による日本庭園訪問、日本桜と白樺(北米原産)の寄付。
1973 東京都から寄付された初期の茶屋が焼失(1981年に再建)。
2007-2009 建築のホシデ・ウィリアムズ、造園設計のナカノ・アソシエイツにより、入り口に新しい複合建物が完成。新しく中庭、集会室、トイレができた。ブロンズの門は彫刻家のジェラルド・ツタカワ氏による作品。

 

©︎Aurora Santiago 自然と調和する美しい景観は日本庭園ならでは

3.5エーカーもの広さを持つシアトル日本庭園は、まさに地域の文化的資産と言える存在。17世紀初めの回遊式庭園を元に設計され、その景色は日本のさまざまな自然の美しさを彷彿させる。流麗な滝その他の風景の特徴を再現するために、地元スノコルミー・パスのバンデラ山から、なんと800トンもの岩を運んだというから驚きだ。

今年から始まった新しい試みとしては、グリーン・レガシー・ヒロシマ(GLH)との特別共同企画がある。GLHは、戦時中の原爆被害を生き抜いた樹木の種を配る活動をしている非営利団体だ。1月、シアトル日本庭園は、そのGLHの種を受け取ったノースウエスト初のパートナーとなった。過去に起きた出来事を今一度心に刻みつつ、緑化と共に美しい未来の創造を目指す。今回の共同企画はこれまでに培ったシアトルと日本における友好関係をさらに前進させる大きな1歩となったのではないだろうか。

©︎David Rosen
園内には茶屋もあり、茶道の教室やイベントなどに利用されている
©︎David Rosen
2009年に完成した新しい入り口

アメリカでのシアトル日本庭園の位置付け

100以上もの日本庭園が存在するアメリカにおいて、シアトル日本庭園は指折りの名園として知られている。ランク付けを行っている専門誌『数寄屋リビングマガジン』、旅行情報サイト「USシティー・トラベラー」、日本文化情報サイト「ジャパン・オブジェクト」などを見ても、シアトル日本庭園は常に5位前後に入っている。

開園した1960年には現上皇夫妻が訪れ、日系人会主催の歓迎式典も行われた(いけばなインターナショナル提供)

なお、アメリカの日本庭園の変遷においては、日米関係が大きく影響し、ほとんどがサンフランシスコ講和条約(1951年、発効は1952年)後の流れで造営されている。戦争終結のために制定されたこの平和条約締結以降、日本庭園の技師たちが再び伝播のために北米へと渡った。

◆北米の主な日本庭園の創設年と規模

造営年 名称 場所 面積(エーカー)
1894 ゴールデン・ゲート・パーク ジャパニーズ・ティー・ガーデン(アメリカでは最古) カリフォルニア州 5
1915 ブルックリン植物園 ジャパニーズ・ヒル・アンド・ポンド・ガーデン ニューヨーク州 3
1951 サンフランシスコ講和条約    
1958 フェアマウント公園 松風荘 ペンシルベニア州 1.2
1960 ワシントン・パーク植物園 シアトル日本庭園 ワシントン州 3.5
1960 ブリティッシュ・コロンビア大学 新渡戸記念庭園 ブリティッシュ・コロンビア州 2.5
1963 ワシントン・パーク ポートランド日本庭園 オレゴン州 12
1974 マニトー公園 西宮蔦川日本庭園 ワシントン州 1.5
1977 森上博物館日本庭園 フロリダ州 16
1977 ミズーリ植物園 清和園 ミズーリ州 14
1978 アンダーソン日本庭園 イリノイ州 12
1982 シカゴ植物園 エリザベス・ヒューバート・マロット日本庭園 イリノイ州 17

シアトル日本庭園再開!

年間10万人以上の来園者を誇るシアトル日本庭園。今年は新型コロナ感染拡大の影響からしばらく休園が続いていたが、営業が再開された。ただし時間制で、事前にオンラインで予約する必要がある。園内は一方通行となり、一部のエリアは閉鎖中。来園の際はフェイスカバー着用のこと。庭園のガイドツアーはまだ利用できない。駐車場無料。バスは11番が利用できる。リンク・ライト・レールのワシントン大学駅からは徒歩25分。庭園の自然保護のため、ピクニックや結婚式、三脚の設置、ペットの連れ込み(介助動物を除く)は禁止されている。

Seattle Japanese Garden
場所:1075 Lake Washington Blvd. E., Seattle, WA 98112
開園時間:10am〜7pm 休園:月 ※9月以降は変更となるのでウェブサイトで要確認
料金:大人$8、ユース・学生・シニア$4、子ども(5歳以下)無料
問い合わせ:☎206-684-4725
詳細:www.seattlejapanesegarden.org

イベント情報
60周年記念バーチャル展示「シーイング|シーズ|ストーリーズ」
60th Anniversary Virtual Exhibit: ‘Seeing | Seeds | Stories’
開催中~8月31日(月)11:59am

60周年をお祝いし、ストーリー仕立てで描かれる5人のアーティストによる作品。公式ホームページにて8月いっぱい公開され、2021年にはエリザベス・C・ミラー図書館でも展示される予定。 参加アーティスト:キャサリン・アトキンス、キャシー・ハットリ、ミシェル・クマタ、エライジャ・パスコ、マーケル・ウリウ