Loading...  0%

Author: Elaine Ikoma Ko

Elaine Ikoma Ko is the former Executive Director of the Hokubei Hochi Foundation, a nonprofit that helps The North American Post with projects and events. She is a member of the U.S.-Japan Council, an alumnus of the Japanese American Leadership Delegation (JALD) to Japan, and leads spring and autumn group tours to Japan.

ブルース・ミヤハラさん/ライス・フォー・オール・コレクティブ代表 

日系3世のブルース・ミヤハラさんは、これまで医療畑ひと筋の半生を歩み、シアトルの地域医療に貢献。退職後は一転、ボランティア料理人となり、慈善事業のライス・フォー・オール・コレクティブ発起人として、アジア系住民の食と健康の充実に奔走しています。異なる分野をまたいでのブルースさんの活躍ぶりに、生粋のシアトルっ子の生きざまが表れます。

取材・原文:イレーン・イコマ・コウ 翻訳:大井美紗子  写真:本人提供、北米報知スタッフ

般若湯にて相馬シェフ、ラッセル・キング共同オーナーと(2019年)
ブルース・ミヤハラ(BruceMiyahara)▪️シアトル出身の日系3世。ワシントン大学大学院にて公衆衛生学を学び、地域医療に従事。キング郡保健局長、ワシントン州保健局長などを歴任した。退職後はシアトルの蕎麦店、かもねぎでの調理ボランティア、ライス・フォー・オール・コレクティブ発起人と、食の分野へ。コミュニティー活動の場をさらに広げている。 @older_than_i_5_OG-san
 
シアトルの一等地で過ごした幼少期
 
自身のSNSアカウントで「OG-San(オジサン)」を自称するブルースさん。1969年のI-5開通前からのシアトル史を知る生き字引だ。
 
アーリントン・グリーンハウス内の祖母、母、叔父たち(1935年頃)

父方の祖父母は広島県出身で、ブルースさんの父である長男のヒロさん、次男のタクさん、長女のリアさんと、3人の子宝に恵まれた。州都オリンピアへ移住した当時は、日系移民の多くが生業としてカキの養殖に携わり、やがてシアトルに移ると、日系コミュニティーからのビジネス支援を受けてダウンタウンでホテル・アパート経営に乗り出す。酒場の上に位置する古めかしいホテルは、禁酒法時代(1920~1933年)にジンの密造に使われたバスタブが残り、腐食が進んでいた。ブルースさんは、祖父母がかなり手を焼いていたことを今も覚えている。次に着手したベルタウンのラトーナ・ホテルは後に、並びのエース・ホテルと共にシアトル市の歴史建造物として認定を受けた。
 
強制収容所から解放された祖父と叔父たち。叔父ふたりはすぐに朝鮮戦争へと赴く(1948年頃)

母方の祖父母は静岡県、東京都、千葉県を転々とした後、ワシントン州にやって来た。ブルースさんの母である長女のキヨさん、長男のトッシュさん、次男のジョージさんはシアトル生まれだ。祖母は結核で早世。戦中は他の西海岸の日系人同様に、家族全員がミニドカの強制収容所に連行された。祖父はシアトルに戻って再婚後、グリーンレイク近くに温室を持ち、花や野菜をパイク・プレイス・マーケットで販売するように。続いて設けたアーリントン・グリーンハウスは長男のトッシュさんが受け継ぎ、ビジネスを成長させた。
 
ブルースさんは母方の祖父母のことを「グリーンハウスのジイチャン・バアチャン」と呼んで慕い、亡き母、キヨさんとよく訪ねた。別の親戚も野菜売り場を持っていたパイク・プレイス・マーケットや、宇和島屋のあるインターナショナル・ディストリクト(以下ID)周辺にも頻繁に出向いた。ブルースさんが小学校に上がるまで、まさにシアトルの一等地に住み、ダウンタウンを庭としていたブルースさん一家。しかし徐々に地価が上がり、古くからの住民は引っ越していった。ブルースさん一家も例外ではなく、1956年頃にはアパートを出て、キャピトルヒルへ、I-5建設が始まるとビーコンヒルへと居を移すこととなる。
父方の祖父母、父母と妹、叔父、叔母、いとこたちと。後列左端がブルースさん(1962年)
 
アジア系コミュニティーを守りたい
 
インターナショナル・ディストリクト・コミュニティー・ヘルス・センターの初代事務局長に就任。ブルースさんと同じく旗揚げメンバーのハイジ・パレノさんと一緒に働いた(1975年)

市内のフランクリン高校に入学後は、州内で名の通るジャズ・バンドのナイン・ライブスに所属。卒業すると、ワシントン大学による経済的困難を抱えたマイノリティー家庭のための教育プログラム(Equal Opportunity Program)を利用して、同大学の医学部に進学。建築学、生物学、植物学も学んだが、どれもぱっとしない。ブルースさんはナイン・ライブスでの活動を続けつつ、ビーコンヒルで週1回、夕刻に開かれる無料のクリニックで医療ボランティアを始めることにした。現在、ショアライン、ベルビューなどにまで規模を拡大するインターナショナル・コミュニティー・ヘルス・サービス(ICHS)の前身となるクリニックで、そのICHSを立ち上げたメンバーのひとりであるジャニス・コウ・フィッシャー氏と共に働いた。
 
 
収入や医療保険、文化、言語などさまざまな理由で一般的な医療サービスを受けることが難しいアジア系住民を助けること──それがクリニックの使命だった。ここに来れば、患者は母語と英語の2カ国語で診療を受けられる。ただ、全てがボランティア、有志の手弁当で運営されている分、資金面では苦労が多かった。診療スペースは、院長のユージン・コウ医師の厚意でジェファーソン・パーク・クリニックの一部を間借りしていた。
 
その頃、IDの日系コミュニティーは、崩壊の危機にあった。戦中の日系人強制収容によって、日本町を中心に築かれた日系コミュニティーはすでに大打撃を受けていた。I-5敷設で地域は真っ二つに分断され、加えて複合ターミナルやキングドームの建設といった大規模プロジェクトも進められ、追い打ちをかけた形だ。ブルースさんら日系、アジア系の若者、そして民族や所属グループの垣根を超えて活動家、支援者が集結し、組織的な建設反対運動へと発展した。
 
「反対運動と言っても、食と切り離せないのが、いかにもIDらしいところ。思い出深いのは、ダニー・ウー・コミュニティー・ガーデンで行われた豚の丸焼き大会です。伝説的な存在だった市民活動家のボブ・サントス、通称アンクル・ボブと企画しました。アンクル・ボブとは、行きつけのバーでよくビールを飲んでいましたね」
 
もともとIDのようなマイノリティー住民の多い地域は、公共サービスが行き届いていなかった。前述のビーコンヒルのクリニックも、ボランティア頼み。ブルースさんらは行政からの資金援助を訴え、キング郡の議会議員、ワシントン州やシアトル市の補助プログラム、はたまた国の看護師向け助成金など、ありとあらゆる方面へ根気強くアプローチした。そして1975年、ついに努力が実り、インターナショナル・ディストリクト・コミュニティー・ヘルス・センター(後のICHS)がIDに誕生。ブルースさんはその初代事務局長を務めた。
 
実務を通して組織の方針設定や経営に興味を見出したブルースさんは、ワシントン大学の大学院へ進み、公衆衛生学における衛生管理とプログラム計画について学ぶ。そして、シアトル・キング郡公衆衛生局で刑務所の衛生管理官の職を得ると、やがて地域保健サービス部門の部長となり、HIV/エイズ対策プログラムの計画に尽力。さらにはキング郡保健局長、ワシントン州保健局長にまで登り詰めた。マイク・ローリー州知事の下、局長に就任して最初の月に起こったジャック・イン・ザ・ボックスでの大腸菌集団感染で、ブルースさんは外食産業と大きな接点を持つに至る。
 
転機となった名シェフたちとの出会い
 
相馬シェフと一緒に川部メモリアル・ハウスへ弁当を配達(2022年、ビビアン・カタギリさん撮影)

ブルースさんは幼少期から食に興味を持ち、「いつか本格的に料理の勉強をしたい」と常々思っていた。退職後にレストラン業界へ転じるきっかけとなったのは、シアトルを代表するシェフ、トム・ダグラスさんが主宰する1週間の料理サマー・キャンプだ。妻のダナさんの熱心な後押しもあって、夫婦で毎年のように通った。7年経った頃には、調理はもちろん、レストラン経営の極意から地元食材の重要性までを理解していた。
 
 
ほかにも影響を受けた料理人に、相馬睦子さんらがいる。ブルースさんが相馬さんに初めて会ったのも、前述のサマー・キャンプだ。相馬さんは蕎麦打ちの講師として登壇していた。それまでブルースさんが知っていた和食と言えば、すき焼き、照り焼き、天ぷらくらい。「私の知る限り、トップを行くクリエイティビティーを持つシェフ」と、ブルースさんは相馬さんを手放しで絶賛する。
 
ブルースさんが仕込む、かもねぎ自慢の鴨つくね

当時、相馬さんがウォーリングフォードに出していた蕎麦店、雅フォーティーフィフスの門をたたいたブルースさん。2017年、相馬さんがフリーモントでかもねぎを開店すると、ブルースさんは助っ人を買って出た。それが料理の道への第一歩となる。相馬さんから任命されたのは「鴨つくね係」だ。「この6年間で、9万個はつくねを丸めたと思いますよ!」
 
2019年には姉妹店、般若湯はんにゃとう のオープニング・スタッフに。「今では日本酒の純米、本醸造、吟醸、生原酒、山廃の違いも説明できるようになりました」と胸を張る。
 
 
 
全ての経験を生かして
 
クリスマスに孫のグレイくん、マックスくん、妻のダナさんと(2021年)

現在、ブルースさんは再び医療業界に軸足を戻しつつある。高齢者に住み慣れた場所で医療サービスを含めた包括的ケアを提供することを目的としたプロジェクト、AiPACEをご存じだろうか。ICHSにより2015年に提案され、高齢のアジア系住民が介護を予防し、進行を防ぎながら、安心して歳を重ねられるようにコミュミニティーをサポートする取り組みだ。
 
約1年前、ブルースさんはICHSの昼食会に招待され、同プロジェクトの高齢者向け食事プログラムのフロアプランを見せてもらった。そこにはキッチンと広々とした公共スペースが備わる。「これを活用しない手はない!」。ブルースさんは、いっそのこと食事と同時に食育もかなうコミュニティー・キッチンにできないか、とひらめいた。
 
「コミュニティー・キッチンでは、レシピの考案から材料の準備、調理、片付けまでの一連の作業を行います。これまでの経験上、寄付集めやチーム作りの手段として最適だと考えました。知人のシェフや食通の仲間たちは皆、強い関心を示し、協力を申し出てくれています」。こうして、ブルースさんの立ち上げたプロジェクト「ライス・フォー・オール・コレクティブ」が動き出した。
 
過去に開催された4つのイベントのうちのひとつは、ブルースさんに大きな影響を与えたシェフ、トム・ダグラスさんとエリック・タナカさんがスポンサーとなり、シリアス・パイのピザ店で行われた。シェフのメイジー・スチュワート‐クックさんが、フィリピン出身の祖母が作る思い出の味になぞらえたコース料理を振る舞った。
 
トム・ダグラスさんの店、パレス・キッチンにて、パンデミック後の再オープンを共に祝う(2023年)

2つのイベントは般若湯が会場となった。最初のイベントでは、フィリピン系アメリカ人が営むグレイシーズ・パイズによるコース料理が並んだ。次のイベントは、ブルースさん自身が腕を振るい、特製の焼きおにぎりとお茶漬けを用意。かもねぎ、または近くに店を構えるピザ店、ルポでのカクテルの注文で、1杯につき1ドルの寄付が集まるようにした。4つ目のイベントは、ビーコンヒルにあるフィリピン・レストラン、ムサングのオーナー・シェフ、メリッサ・ミランダさんとのファンドレイジング企画だ。
 
懸念は、やはり資金面。「例えば大型冷蔵室が3万ドル、中華鍋に対応するコンロに4万ドル、それに椅子やテーブル、食器、調理器具となると、100万ドルでも足りません。今は、食材の小売・卸売業者に援助を求められないかと思案中です。イベント開催には、食材の寄付や調理ボランティアを募る必要もあります」
 
医療と食、一見異なる分野でも軽々と結び付け、新たなコミュニティーを形成するブルースさん。この料理プロジェクトが軌道に乗れば、シアトルのアジア系住民の支えとなっていくことだろう。「今後も、それを実現するためのパートナーシップをどんどん組んでいきたいですね!」

テリー・タケウチさん/テリーズ・キッチン店主

シアトルで生まれ育ったテリー・タケウチさんが手掛けるテリーズ・キッチンは、ベルビューにオープンして6年。地元の人たちがそれぞれの「おふくろの味」を目当てに集まります。あふれる地元愛、ロックダウン中の苦労、さらに強まった料理への思いなどを聞きました。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー 翻訳:シュレーゲル京希伊子
写真:本人、北米報知スタッフ提供
※本記事は『北米報知』2022年3月25日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

テリー・タケウチ(Terry Takeuchi)■シアトル生まれの日系3世。2014年までシアトル・シティー・ライトに勤め、2017年にベルビューのニューポートでテリーズ・キッチンを開業。妻、シェリー・チンさんとの間にひとり息子のジャスティンさんがいる。


Terry’s Kitchen
5625 119th Ave. SE., Bellevue, WA 98006
営業時間:火水日4pm~9pm、木~土4pm~10pm
     ※バーは11pm(日10pm)まで 定休:月
☎425-590-9545
www.terryskitchenbellevue.com

 
世界的に有名なレストラン経営者のサム・チョイ氏を囲んで(2021年)
 
日系にルーツ、地域との強いつながり
 
新婚時代の両親、シゲオさんとユキエさん(1946年)
祖父母は父方、母方、共に福島県出身。父親のシゲオ・タケウチさんと母親のユキエ・モギさんは日系2世だ。どちらの家族も第二次世界大戦中、それぞれミニドカとツールレイクの日系人強制収容所に送られた。戦後、シゲオさんとユキエさんはセントラル・ディストリクトで新婚生活を始め、4人の男児をもうける。何度かの引っ越しを経て、やがてレーニアビーチに新居を構えた。
 
男兄弟4人の中で育つ。左から本人、ゲイリーさん、リックさん、前列はブライアンさん(1960年)

シゲオさんは、ボウリング場のインペリアル・レーンズなど、いくつもの職場を渡り歩いた。一方、母親のユキエさんは4人の子育てがひと段落すると、シーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)やYMCAに職を得て、最後はボーイング社で定年まで働く。「父は家族を養うために必死で働いていましたが、子育てを一手に担った母の苦労は相当なもの。特に私はやんちゃ坊主で『テリブル・テリー』と呼ばれていましたから」と、テリーさんは当時を振り返る。
 
母親の作る手料理や、近所の友人宅で振る舞われる多種多様な郷土料理が大好きだった。「シアトル市内を転々としたおかげで、南部料理のガンボやBBQリブ、フィリピン料理のアドボなど、各コミュニティーでいろんな国・地域の味に親しめました」。テリーさんたち兄弟は、父親の働くボウリング場で時間を過ごすことが多かった。ボウリングやビリヤードに興じ、あるいは友だちと遊び、併設するレストランで食事をした。「そこのハリー・イマムラさんの作るチャーハンが絶品でした。大人になっても決して忘れることはありません」。こうして、幼いテリーさんの味覚と料理への興味が育まれていった。
 
リトルリーグ、キャバリアーズのチームメートと(1966年)

リトルリーグに所属する野球少年でもあったテリーさん。60年代半ばには、驚きのエピソードも。「公園で練習をしていると、白塗りのリムジンから長身の男性が降りてきたんです。貧しい地域に住む少年たちに興味があったのだとか。気付いたら、彼がバッターボックスに立っていました」。その人物こそカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)氏だった。ピッチャーのテリーさんは三振を取ろうと渾身の力で投球。しかし、バットが何度か続けて空を切ると、すかさずコーチがテリーさんを外野に移してしまった。「今にして思えば、『世界最強の男』から三振を奪った、唯一の日系アメリカ人の少年になっていたかもしれないですね」と、悔しそうに笑う。
 
テリーさんは音楽活動にも熱心だった。日系人を中心に組まれたシアトル・インペリアルズ鼓笛隊に所属していた頃(1969年)
地 元 の R&B バ ン ド、Tamarawではホルンを吹いた。後列右から2番目がテリーさん(1973年)。「タワー・オブ・パワーの前座を務めたこともあります!」
 
勤め人から、地元で愛されるレストランのオーナーへ
 
20代のテリーさんは、歯科技工士として短期間働いた後、シアトル・シティー・ライト保全部門に転職し、2014年に退職するまで勤め上げた。勤続31年の間には幾度となくポットラックなど社内の集まりが催された。「同僚たちは知らないうちに私の料理の味見係となっていましたが、誰も気付かなかったでしょうね」と、テリーさんは茶目っ気たっぷりに語る。
 
仕事と平行して、日系二世退役軍人会(NVC)の昼食会準備を手伝うようにもなっていた。皿洗いからスタートして、1年経つ頃には調理場を任されるまでに。食材の調達や下ごしらえ、調理など、大人数を相手にした飲食サービスを実践で学べる、またとない機会となった。ここからテリーさんは、徐々に料理の道に引き寄せられていく。
 
「調理のスキル以上に、もっと大事なことを学びました。私はようやく、第二次世界大戦で日系1世と2世が多大なる犠牲を払った意味を理解したんです」。ほぼ身ひとつで砂漠地帯に送られた強制収容や、ヨーロッパ戦線に赴いた442連隊での決死の戦闘も、日系人の未来を思えば耐えるしかなかった。「私の家族や親戚は多くを語りませんが、そうした日系人の苦難はアメリカの歴史の一部です。後世に伝えていかなければなりません」
 
サウス・チャイナ・ペリー・コーズの名物料理を再現した「SCガーリック・チキンウィング」

毎週、仲間とボウリングに出かけては、ビーコンヒルにあるレストラン、サウス・チャイナ・ペリー・コーズで二次会となるのもお決まりだった。後に共同経営者となる同店オーナーのシド・コーさん、ダン・コーさん兄弟と出会ったのも、この場所だ。2004年に同店がベルビューに移転してからも、テリーさんは客として通い続けた。やがて、大きなイベントがある際は調理場の手伝いをするまでの仲に。この経験から、テリーさんは厨房の切り盛り、フロアと厨房のスタッフの意思疎通、大量の仕込みの要領などを覚えていった。
 
同店は惜しくも2014年に閉店。テリーさんは名物だったガーリック・チキンウィングの味を忘れられず、また、仲間と語り合える場を恋しく思っていた。そんな時、テリーさんにある考えが浮かぶ。帝みかどレストランなど、閉店してしまったお気に入りの日本食レストランの品々を思い出しながら、「自分が子どもの頃に食べていた、あの味を提供すれば、多くの人に喜んでもらえるのではないか」とひらめいたのだ。そこで、旧知の友人でレストラン・コンサルタントのテイラー・テラオ氏の協力を得て、インペリアル・レーンズのチャーハンやサウス・チャイナ・ペリー・コーズのガーリック・チキンウィングなど、人々の食の記憶を呼び起こすような「懐かしの味」のレシピ作りを始めた。
 
そして2017年7月、ベルビューのニューポートヒルズにテリーズ・キッチンをオープン。ビジネス・パートナーのキャシー・ミヤウチ氏を始め、多くの出資者、支援者が集まり、腕利きの料理人、フレンドリーなフロア係など有能なスタッフもそろった。開業に漕ぎ着けられたのは、そうしたみんなの力があってこそ、とテリーさんは言う。
 
テリーさんの狙いは大当たりだった。抜群の地の利もあり、かつての人気レストランのファンがテリーズ・キッチンに通うようになった。そうして瞬く間に、世代を超えて地域の仲間が集う場所として定着した。テリーさんがいつも心がけていることがある。それは、フロアに顔を出し、お客さんに挨拶すること。いつも温かく、居心地が良い雰囲気を保てるのも、このような努力の積み重ねがあってこそだ。誰もがほっとする「家庭の味」は大勢の常連客を虜にし、SNSなどで口コミが広がった今は、他州からのお客さんも少なくないそう。
 
4兄弟での近影。左からゲイリーさん、リックさん、本人、ブライアンさん(2017年)
 
パンデミックを乗り越えて気付いたこと
 
本記事を執筆したイレーン・イコマ・コーと並んで(2021年)

幼少期から、料理好きな母親から多くのことを吸収してきたテリーさんだが、料理に対する情熱が本格的に芽生えたのは、妻のシェリー・チンさんとの出会いが大きいと言う。シェリーさんの祖母の親戚筋に当たるウィルマ・ウーさんは、インターナショナル・ディストリクトにあった伝説のレストラン、クアン・タックを夫婦で営んでいた知る人ぞ知る存在。彼女たちの助けもあり、何年にもわたって数え切れないほどのレシピを考案してきた。
 
また、シェリーさんの祖父、ウォルターさんは長年、ダウンタウンのホテル内にあったレストラン、トレーダーヴィックスの調理場で働いた。プライムリブやローストターキーなどのコツを教えてくれたのはウォルターさんだ。祖母のリンダさんからは、伝統的な中華を教わった。ある日、テリーさんがリンダさんにレシピを尋ねると、こんな答えが返ってきた。「レシピなんて、ないわよ。作り方を知りたいなら、今度私が料理をする時に見ていてね」。こうしてテリーさんは、豚足の酢漬けから粽子(中華ちまき)まで、愛情のこもった家庭料理を学ぶことができた。
 
周囲はテリーさんがどうやって料理上手な「シェフ」になったのかを知りたがるが、テリーさんは決まってこう答える。「私はあくまで『家庭料理のプロ』。専門的な訓練を受けたシェフではありません。修行を積んだプロのシェフたちの足元にも及ばないんですよ」
妻のシェリーさん、息子のジャスティンさんと共に(2020年)
 
順風満帆の船出に思えたが、2020 年に入ると、新型コロナのパンデミックがレストラン業界を襲う。店内飲食が禁止され、テイクアウトのみでやっていこうと模索するが、先行きが不透明なまま、年内閉店も頭をよぎった。そんな中、親しい友人たちが、GoFundMeを利用してオンラインで寄付を募ったらどうかと提案してきた。他人に迷惑をかけたくない気持ちと、プライドが邪魔をして、なかなか踏み切れないテリーさんだったが、考えが変わったのは「これは自分だけの問題ではない」と気付いたから。「仲間と気軽に食事ができるテリーズ・キッチンに潰れて欲しくないという人たちはたくさんいて、みんなの思いがひしひしと伝わってきました。知り合いだけでなく、見知らぬ人からも多くの寄付が届きました」。テリーさんは自分に寄せられる期待の大きさに胸が熱くなり、涙を流した。「この厚意は一生忘れないでしょう」
 
テリーズ・キッチンには、著名人の来店も多い。これまでに、バスケ界のスーパースター、フレッド・ブラウン氏やガス・ウィリアムズ氏、ニュースキャスターのローリー・マツカワ氏、トニー・ヴェントレラ氏、ブレディー・ワカヤマ氏などが足を運んできた。テリーさんにとってうれしいサプライズもあった。2020年には、テリーさんの父親、シゲオさんがインペリアル・レーンズで働いていた当時の同僚、故カズ・ヤマサキさんの妻、フジエさんと息子のデイビッドさんが来店した。互いに顔を見ただけではわからなかったが、テリーさんがシゲオさんの息子だとわかると、フジエさんは懐かしさのあまり、テリーさんの手を握って泣き出したそうだ。また、小学校の同窓生たちが訪ねてきたことも。そこにはリトルリーグのチームメートもいて、55年以上ぶりの交流を楽しんだ。こうしてテリーズ・キッチンでは、旧友が旧友を呼び、懐かしい面々との再会が実現している。
 
最後に、テリーさんから、レストラン経営を目指す人たちへのメッセージをもらった。「夢を実現するために必要なもの、それは情熱です。レストラン経営は長時間労働で困難も多い。でも、心から湧き上がる情熱さえあれば、仕事を仕事と感じなくなります。そして、気持ち良く働ける仲間を集め、お客さんだけでなくスタッフや取引先にも常に愛情と優しさを持って接することが大事」
 
テリーさんにとって、料理とは自分を表現すること。自分の料理で人々を笑顔にしたいという願いが、テリーさんの原動力だ。「料理が大好き。何よりも、お客さんに楽しい時間を過ごしてもらいたい」。そう微笑みながら、テリーさんは今日もテリーズ・キッチンの厨房に立つ。
 
 

J.ケンジ・ロペス=アルトさん〜料理家/フードライター

 

日本人の母、アメリカ人の父を持つフード系インフルエンサー、J.ケンジ・ロペス=アルトさん。当代随一の人気を誇り、インスタグラムのフォロワー数は50万人超え、さらにYouTubeチャンネルは約133万人と『ニューヨーク・タイムズ』のクッキング・チャンネルより多い登録者数です。著書3冊はいずれもベストセラーになり、昨年10月にシアトルで開催された近著『The Wok』のサイン会も大好評でした。自身の生い立ちや仕事の原動力、著作に込めた思いを聞きます。

取材・原文: エレイン・イコマ・コウ 翻訳:大井美紗子 写真:本人提供
※本記事は『北米報知』2022月9月23日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

Photo: Aubrie Pick

J.ケンジ・ロペス=アルト(James Kenji López-Alt)■ 料理家/フードライター。ボストン生まれ、ニューヨーク育ち。ベイエリア移住を経て2020年から妻、娘、息子と共にシアトル在住。『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニストや、料理サイト「シリアス・イーツ」の料理責任者(現在は料理コンサルタント)を歴任する。2020年から YouTubeチャンネル「ケンジズ・クッキング・ショー」を開始。著書に『The Food Lab』『Every Night is Pizza Night』『The Wok』がある。

国際色豊かな食事で育つ

料理家、フードライターとしてこれ以上ないほどの経歴を持つケンジさんだが、幼い頃から料理に特別な関心があったわけではない。確かに、アメリカで最も有名な料理家のジュリア・チャイルド氏や、日本でも「世界の料理ショー」で知られるグラハム・カー氏の料理番組を観て育った。しかし、画家のボブ・ロス氏が30分で油絵の風景画を仕上げる「ボブの絵画教室」も同じくらい好きだった。

母方の祖父母、中西香爾さん、泰子さんの結婚写真(1947年)

料理に興味を持つようになったのは、父親の影響が大きい。父のフレデリックさんはペンシルべニア州西部の外れで育ったアメリカ人だが、中華料理に目がなかった。ケンジさんが生まれたボストンでも、その後転居したニューヨークでも、活気あるチャイナタウンに足しげく通った。ケンジさんは父親と中華料理を食べ歩き、週末には本格中華のレシピに挑戦して、料理への関心を高めていった。

日々の食事作りを担うのは主に母親だった。母の慶子さんは名古屋出身の日本人で、10代で単身カリフォルニアへ渡り、ジュニア・カレッジでデザインを学んだ。免疫学分野の遺伝学者となるべくスタンフォード大学大学院に通うフレデリックさんと出会い、1974年に結婚。一家の食卓に上るのは、伝統的な和食よりもハンバーグやカレーライスなどの洋食が多かった。慶子さんは『ニューヨーク・タイムズ』を見てはアメリカの料理を覚え、ベティ・クロッカーのお菓子レシピもよく取り入れていた。

「子どもの頃は父と特別な料理を作るほうがずっと楽しかった。でも、今の僕は当時の母に近い立場です。子どもふたりの世話、それに食事作りは全て僕が担当しています。だから普段の料理は、楽しんだり工夫したりというよりも、さっさと終わらせるぜ!って感じですね」。ケンジさんが手掛ける料理は、調理工程を細かく分析してある一方、一般家庭でも気軽に挑戦できるものばかり。実験的な料理を楽しむ父親と現実的な料理をこなす母親、ふたりの姿を見て育ったからこそ、今日のバランス感覚に優れた姿があるのかもしれない。

ケンジさんいわく「ちょっとヒッピー」だった、父のフレデリックさんと母の慶子さん(1976年)

研究者一家から料理の道へ

両親は結婚後、母方の祖父母をアメリカに呼び寄せた。祖父は有機化学の世界的権威で、2019年の他界後に従じゅさんみ三位が授与されたコロンビア大学名誉教授の中西香こうじ爾さんだ。アメリカで職を得た初めての日本人有機化学者である。「祖父は亡くなる直前まで毎日職場に通う、根っからの化学者でした」。祖母の泰子さんはあまり英語を話さず、主に日本語で会話を交わし、孫たちを心から大事にする愛情深い女性だった。ふたりとも最期までアメリカの地を離れなかった。

父のフレデリックさんは現在もハーバード大学で遺伝学者として教壇に立ち、小児科病院で遺伝学研究所を取り仕切る。そんな遺伝学者の父と化学者の祖父に囲まれて育ったケンジさんにとって、生物学の道へ進むのは自然の成り行きだった。高校生の頃から毎年、夏休みになると生物学の研究所へ足を運んでいたが、3年目の夏、はたと気付く。「自分はそこまで研究を楽しんでいないな、と。僕は心が動くことならいくらでも努力できるけれど、そうじゃないものはまるでダメなんです。それで大学2回生の年を終えた夏、研究はいったん休もうと思いました」

釣りも得意。大物を捕らえてご満悦

夏休み中にできるバイトを探し、最初はウエーターをしようと考えていたところ、たまたま見つけたのが料理人の募集だった。レストランの厨房に足を踏み入れた瞬間、ケンジさんはもう夢中になっていた。レストランでの調理は、効率がカギ。20ものオーダーを、一度に一定の質を保って素早く提供する。19歳のケンジさんにとって、アドレナリンが放出される実に面白い作業だった。

こうして生物学から料理の道へと方向転換したものの、研究者魂は消えなかった。レストラン勤務時代も、料理に対する探求心を抑えることができない。「例えば、なぜパスタはこんなふうに調理するんだろう、肉をこのように焼き付けるのはどうしてだろう、といった疑問が次々浮かぶんです。でも、効率重視のレストランでは答えを探し求める時間はありませんでした」

効率と探求のはざまで葛藤していた時、友人がいい仕事があると教えてくれた。「当時住んでいたボストンで、料理雑誌『クックズ・イラストレイテッド』の実習料理人(Test cook)の求人情報が新聞に載っていたんです。調理だけじゃなく、レシピの試作や研究もできるなんて!と飛び付きました」。選考は1カ月に及ぶ厳しいものだったが、ケンジさんは見事に通過。編集部に「長年温め続けてきた料理に対する疑問を解決したい」と伝えると、二つ返事で許可された。

「化学のような話題はともすると無味乾燥になりますが、例えば普段食べているマカロニ&チーズにも化学が応用できると聞けば、読者はがぜん興味を示してくれることがわかりました」。自分が誰かに何かを伝える職業に携わるとは思ってもみなかったケンジさんだが、調理か試作をする以外の時間は全て執筆活動に注ぎ、文章力を磨いていった。そうして生まれたのが、フードライターとして初めての著作『The Food Lab』(2015年、邦題『ザ・フード・ラボ』)である。刊行までに5年の歳月を要した意欲作は、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー、ジェームズ・ビアード財団賞、IACPクックブック賞など多数の賞を獲得した。

料理書『The Food Lab』と児童書『Every Night is Pizza Night』はどちらもベストセラーに

2020年には、文章を担当した児童書『Every Night is Pizza Night』が出版された。絵本の主人公は、世界でいちばんおいしい食べ物はピザだと信じて疑わない女の子。自分と違う文化で育った子どもたちに出会い、各々に「世界でいちばんおいしい食べ物」があることを知っていく。「自分にとっての“いちばん”が相手にも“いちばん”かと言ったらそうではないし、今日“いちばん”と感じるものを、明日の自分も“いちばん”と感じるわけではない。でも、それでいいんだよ、と伝えたい。そして、何かを肯定するために誰かが好きなものをおとしめたり、自分の気持ちにふたをしたりする必要は全くないことを、子どもたちに知ってもらいたかったんです」

ケンジさん自身にとって、「おふくろの味」や「ふるさとの食」のように強い感情を抱く食べ物は特にないと言う。「都市部で育った私と同年代の40代であれば同じかと思うのですが、父や母の家に代々伝わるレシピを受け継いでいく、というような文化があまりないんですよね。食事はテイクアウトも多いですし、私の母がそうだったように、いろいろなレシピ本を参考に料理をしている」。特別な調理法や秘伝のレシピ、ここぞというときのお助けテクニックなどを持たない人が増えている現状に、ケンジさんはむしろ「どんなレシピも自分好みにアレンジできる」と肯定的だ。「技術的な知識と情報を手に入れていれば、ですがね」

昨年発表したばかりの新作『The Wok』は、まさに知識と情報を手に入れたい人のための本だ。「中華鍋(Wok)は、日本人にとってはなじみがある調理器具だと思います。だから中華鍋を長年使い、料理に満足している人に言うことはありません。ただ、中華鍋は近年、さまざまなアジア料理に用いられているので、レパートリーを増やしたい人にはぜひ読んでもらいたい」

最新作『The Wok』はアマゾンのおすすめ本に選ばれ、ニューヨークに巨大看板も出現ⓒMichael Byers

動画作成は「台本なし」がケンジ流

ouTubeチャンネル(@JKenjiLopezAlt)ではカレーなど日本風の洋食も作る

ケンジさんは、YouTuberとしての顔も持つ。基本的に動画で取り上げるのは家族に作る食事だ。ケンジさんには6歳になる娘と1歳の息子がおり、妻のアドリアナさんはコンピューター業界の会社員のため、フレキシブルに働くケンジさんが家事や育児を主に担う。とりわけ日々の料理は全てひとりで作っている。

50万人超えのフォロワーを擁するインスタグラム(@kenjilopezalt)より、娘のアリシアちゃんへの手作り弁当

「現実の生活の中、家にある材料で家族に作る料理。そのリアルさが僕の動画の魅力なんだろうと思います。こんなの作れない!と視聴者に思わせてしまう“出来過ぎ”な料理コンテンツもたくさんありますから」。撮影の際に台本を用意することもしない。「ノープランで調理するのが僕のルール。そうすることで、なぜこんなふうに作るのか、どうしてここではレシピ通りにしないのか、といった説明がしやすいんですよね。よく動画内でジョークにするのですが、なにしろ僕は自分の書いたレシピ通りに調理したことが今まで一度もないんです!」

執筆、動画撮影、育児で多忙を極める傍ら、地元のレストランにも足を運ぶ。「シアトルの飲食業界は居心地がいいですよね。育ったのはニューヨークですが、あそこは僕には大き過ぎました。終わりなき競争に巻き込まれ、常に何かを見落としているような焦燥感があります。でも、ここは違う。シアトルの街を端的に表すと『カジュアル&リラックス』ですかね。普段着でふらっと寄れる店がたくさんあるし、シーフードも新鮮で質が良いのに手頃な価格なのがうれしい」

昔から「なぜ」を問い続けてきたケンジさんの探求心は、今もこれからも衰えることがない。今度はどんな料理を掘り下げて、私たちの好奇心と胃袋を満たしてくれるだろうか。

本インタビューの様子は姉妹紙『北米報知』のYouTubeチャンネルにて動画を公開中(https://youtu.be/Ug-uKULOcJo

ジャン・ジョンソンさん〜パナマ・ホテル オーナー兼支配人

インターナショナル・ディストリクトにあるパナマ・ホテルは、戦前から続く日本町最古のホテルとして生きた歴史を今に伝えます。40年近く前にホテルを引き継いだ現オーナー、ジャン・ジョンソンさんの「歴史を守ろう」とする情熱はどこから来るのでしょう。その知られざる半生をたどっていきます。

取材・原文:エレイン・イコマ・コウ 翻訳:宮川未葉 写真:『北米報知』より転載                  ※本記事は『北米報知』2022年4月22日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ジャン・ジョンソンン(Jan Johnson)■ワシントン州オリンピア生まれ。イタリアで長年を過ごし、シアトルに戻ってから、1985年にパナマ・ホテルを購入。同ホテルのオーナー兼支配人として当初の造りを維持しながら改装し、生まれ変わらせた。

パナマ・ホテル■戦前からの調度品に囲まれながら、国や州、郡、市から数々の認定や賞を受ける歴史的遺産の建物に宿泊できる。全102室あり、バスルームは共用。Airbnbからの予約も受け付ける。地上階にパナマ・ホテル・ティー&コーヒーを併設し、その一角は日本町にまつわる展示を行うシアトル日系米国人博物館となっている。                  PanamaHotel                                    605 1/2 S. Main St., Seattle, WA 98104                       ☎206-223-9242 、reservations@panamahotelseattle.com www.panamahotelseattle.net                  

アートに魅せられた幼少期

ジャンさんはいつも忙しく館内を走り回っている。宿泊客のチェックイン対応から、ツアーの実施、ボイラー室での修理、各部屋に付くシンクの蛇口の金具交換まで―腰から下げた巨大な鍵の束をジャラジャラ鳴らしながら階段を上り下りする繰り返しだ。それぞれの鍵が102 室のうちどの部屋のものかを正確に把握しているのは言うまでもない。

パナマ・ホテルはシアトル初の日本人建築家、小笹三郎氏によって設計され、1910年に完成。戦前には日本からの出稼ぎ労働者が多く滞在した。地下に設けられた銭湯の橋立湯は今も当時のまま保存されており、日本式公衆浴場跡として北米で唯一無傷のまま現存する。ジャンさんは1985年に、前オーナーからパナマ・ホテルを購入した。

ジャンさんは、ワシントン州オリンピア生まれで、両親は離婚している。父親はオリンピアに、母親はジャンさんの祖父母と共にウエスト・シアトルに住んでいたが、ジャンさんは自分のルーツを知らない。「祖父母がヨーロッパのどの国から移住したのか正確にはわかりません。父はパスポートを持っていなかったようで、不法移民でした。『国境や言葉がない』場所の出身だと話していました。父が仕事を3つもかけもちしていた理由が今ではわかります」

父親からは木工について多くのことを学んだ。「父の仕事に付いていって、食器棚の内側を塗装したり、メンテナンスの仕事を手伝ったりしたのが楽しかった。特に森林から切り出してきた木材を使って作業するのが好きでした」。幼い頃からアートに引き付けられていた。7歳になるとバスを乗り継いでコーニッシュ・スクール・オブ・アーツに通い、彫刻、デッサン、木炭で描く静物画に取り組んだ。「アート、そして手作業は今も私の“レパートリー”の一部です」

イタリアで本物の芸術に触れたい

高校卒業後、ジャンさんはとにかく働いた。初めての仕事は、オリンピアにある州議会議事堂の敷地内で果物を売ること。お金の稼ぎ方を知ったのもこの時だ。「がむしゃらに働くしか能がなかったんです。完全に自活できていました」

自身を「視覚優位な人間」だと話すジャンさんは、「本物」の芸術をどうしてもこの目で見たいと、片道の航空運賃をためてイタリアに飛んだ。ローマ到着時、手持ちの現金はたった25ドル。イタリア語もわからず空港職員に笑われたと言う。ローマで最初に暮らしたアパートは美しいロトンダ広場に面し、パンテオンを見下ろしていた。「パンテオンのドームは、その時々の光の色で全く違うように見えます。とてもきれいで、いつもうっとりと眺めていました。でも、暖房がなくて寒さに震えました!」

ジャンさんはイタリアでも多くの仕事に就いた。ある日見かけた船員の求人は、「船員」という単語が男性名詞だった。にもかかわらず、船が好きで航海の経験もあったジャンさんは、この船で働くようになった。「メキシコから帆船に乗った時も、同じ年のサンクスギビングに知人家族の船で過ごした時も、船に使われている木材の美しさに魅了されました」。勤め先の船は、たまたまこの知人の所有だった。「イタリアからユーゴスラビアに航海し、その後ギリシャでさらに多くの船に乗って、さまざまな木材に触れられました」。芸術に長けたジャンさんは、イタリアで服のデザインを手伝う仕事にも携わった。「布地を扱うのも得意だし、デザインに興味がありました」

イタリアで長年暮らしたジャンさんだが、住んでどれくらいになるか意識することはなかった。「時間の経過を追うために時計を見ることもありませんでした。覚えているのは、パスポートを数回更新したことだけ」

パナマ・ホテルの歴史を受け継いで

1980年代に入ってシアトルに戻ったジャンさんは、インターナショナル・ディストリクトに魅力を感じた。「街に活気があって、青果など食料品を売るスタンドが並び、小さな店や会社が多い。まるでヨーロッパのようで親しみが湧きました」。ジャンさんは、インターナショナル・ディストリクトのNPホテルに滞在していたが、そのすぐ近くにあったのがパナマ・ホテルだった。パナマ・ホテルは当時、前オーナーの堀 隆たかしさんと妻のリリーさんが1938年に購入し、所有していた。

初めて堀夫妻に会うと、ジャンさんは大歓迎を受ける。ある日、ホテル地下にある銭湯跡に案内されたジャンさんは衝撃を覚えた。「20世紀初頭に造られたものが元の状態で残っていたんです。本当に驚きました」。同じく地下にあったのは、第二次世界大戦中に日本人・日系人が立ち退きを強いられて収容所に送られることになったため、堀さんが一時的に保管を依頼された家財道具や荷物だ。自身も収容所に行かなければならないため、堀さんはその間、友人にホテルの維持管理を託した。「そうした歴史を学んでこなかったので、置き去りにされたトランクが山積みになっているその光景が信じられませんでした。戦争の爪痕を目の当たりにして大きなショックを受けました」

後日、ホテル売却の計画を堀さんから知らされたジャンさんは悲しみに包まれた。「トランクが失われてしまう。遠くに出かけなくても必要なものが何でもそろう、かつての日本町がなくなってしまう。歴史が今、消えようとしている」。そんな思いに駆られたジャンさんは、堀さんにホテルを買い取る提案をした。しかし、頭金を支払うために融資を受けようと銀行を回ると、どこからも断られ続けた。

パナマ・ホテルの地下で、戦中に日系人が強制収容される際に残した家財道具と共に(1990年ごろ)  

最後にバンク・オブ・アメリカに行くと、借入申込書を受け取った銀行員はこう言った。「この建物を購入したいという人はこれまでも大勢いました。その中から堀さんに選ばれたあなたは、特別な方なんですね」。こうしてジャンさんは融資を受けられることになった。

経営を始めてみると慣れないことも多く、予想外のハプニングは多々あったものの、何カ月もかけて堀夫妻が丁寧に教えてくれたおかげで軌道に乗ってきた。夫妻の息子、娘、友人家族などからも手厚い支援を受けた。

強制収容から80年

ジャンさんは、建物やその内装、調度品などを当初のまま保存するように努 めている。「総革張りのフローリングと真ちゅう製の手すりを備えた壮大な正 面階段には感服します。昔の冷蔵庫は、併設するカフェ、パナマ・ホテル・ティー &コーヒーで今も現役。原生林からの木材が未塗装で使われ、冷蔵庫が入って いた箱も素敵なんです。この箱は、再利用してクローゼットにしました」

地下には、引き取り手のなかった荷物が現在も多数保管されている。カ フェの床の一部はガラス張りになっており、カフェの利用客はそこから地 下の荷物を見ることができる。荷物は戦後、堀さんが預け主に連絡して引 き取ってもらおうと試みたが、「処分して欲しい」と言われることがほとんど だったそうだ。

ジャンさんも、ホテルを引き継いだ後、預け主に連絡しようとした。1942 年4月8日の日付がある書きかけの手紙もそのひとつだ。「お父さんへ。立 ち退きの準備はかなり進みました。全部荷造りしましたが、まだ閉じてはい なくて」―手紙はそこで終わり、続きが書かれることはなかった。ジャン さんは、手紙を書いた本人の兄弟という人をついに探し当てる。「80代の方 でした。その手紙が保存されていたこと、そしてそのおかげで気持ちに区切 りを付けられたことをとても感謝されました」

この地下室と橋立湯跡(下)の見学ツアー詳細については直接問い合わせを
パナマ・ホテルに関する歴史報告書(https://historicseattle.org)

近年、パナマ・ホテルに残された生活史の保存と記録に対する関心が高 まっている。日系人史について書かれた『Sento at Sixth and Main』(2004 年)の共著者であるゲイル・ダブロウ氏の協力で、多数の物品を調査し、記録 した。8,500点の目録作成には、国立公園局の助成を受けることができた。 パナマ・ホテルを題材にしたジェイミー・フォード氏の著書『Hotel on the Corner of the Bitter and Sweet(邦題:あの日、パナマホテルで)』(2009 年)も出版され、話題になった。 

パナマ・ホテルには、かつての日本町の日常が今も息づいている。「強制収 容についてよく知らなくても、ホテルを訪れれば、真実の物語、『パナマ・ホテ ルの声なき声』を感じ取ることができます。言葉は必要ありません」

当時の家具が全て残るホテルの部屋。右のクローゼットは、昔の冷蔵庫が入っていた箱を再利用

ジャンさんは「地下に眠っていた日系人コミュニティーからの私物、写真、 体験談に、展示を通して思いを寄せて欲しい」と続ける。「強制収容と戦争の 苦しみが二度と起こらないようにしたいのです。この建物は地域社会だけ でなく、世界のための遺産。若い人たちが歴史を学べるよう保存すべきです。 歴史を守ることは未来を守ること。銭湯を復活させて、再び運営するのも素 晴らしいアイデアだと思いませんか?」

パナマ・ホテル前オーナーの堀さんと(1990年代)                Photo  courtesy of Hori family

 

カレン・マエダ・オールマンさん〜ブック・プロモーター

出版業界では近年、アジア系やLGBTQなど多様性を持つ作家の存在感が増しています。その陰の立役者が、カレン・マエダ・オールマンさん。キャピトルヒルにある独立系書店、エリオット・ベイ・ブック・カンパニーに勤務し、無名の著者から後のノーベル文学賞受賞者まで、幅広い書き手の作品を世に知らしめてきました。日本人の血を引き、同性愛者である自身も多様性を持つひとりです。

取材・原文: エレイン・イコマ・コウ
翻訳:大井美紗子
写真:『北米報知』より転載
※本記事は『北米報知』2022年1月28日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

カレン・マエダ・オールマン(Karen Maeda Allman)■元看護師で日本人の母親と、元パンク・ロッカーで白人の父親の間に生まれる。エリオット・ベイ・ブック・カンパニーに著者イベント・ブックセラーとして22年勤務。その間携わったイベントの数はおよそ1万回に及ぶ。書評や賞の選考なども行い、自身も名誉ある賞を複数受賞している。

アジア系移民への偏見にさらされて

カレンさんの母の前田俊子さんと父のジョセフ・オールマンさんは、東京で出会って神戸で結婚し、1957年にアメリカへ渡った。アジア系移民のアメリカ市民権獲得を認めるマッカラン・ウォルター法が制定されてからわずか5年後のことである。当時、異人種間での結婚はアメリカの約半数の州で違法とされていたため、俊子さんとジョセフさんは合法化されていた州のひとつ、カンザス州へと向かった。やがてカレンさんが生まれ、一家はカンザス州から沖縄を経て、アリゾナ州フェニックスに落ち着いた。

左から母の俊子さん、父のジョセフさん、カレンさん(1960年代に撮影)

フェニックスでの新生活は決して順調なものではなかった。異人種間の結婚が合法化されて間もないアリゾナ州では、アジア系移民に対する偏見がまだ根強く残っていた。俊子さんは英語に訛りがあるために無教養だと思い込まれ、カレンさんも学校で「おまえの母さんはゲイシャなのか?」、「母親に纏足(てんそく)させられているのか?」といった質問を受けた。じろじろ見られ、何かささやかれることはしょっちゅうだった。また当時、新1世(戦後、アメリカに移住した日本人)や、日本人、日系人以外と結婚した人々は必ずしも日系コミュニティーで好感を持たれていたわけではなかった。カレンさんたち一家はどこにも属さず、宙ぶらりんの状態だった。

カレンさんと母の俊子さん

それでもアリゾナの地に根を張って暮らすうち、一家は徐々に地域の人々に受け入れられ、親しい友人もできた。カレンさんの両親は生涯その地を離れることなく、2012年に俊子さんが、2016年にジョセフさんが永眠した。

夢だった同性パートナーとの結婚

カレンさんは大学院進学を機にフェニックスからシアトルに移り住む。しかし、シアトルの日系コミュニティーに溶け込むのもまた容易ではなかった。カレンさんは同性愛者であることを公言している。異人種間での結婚すら物議をかもすような保守的なコミュニティーで、同性愛者かつ白人とのハーフ、さらにシアトル出身でもない、よそ者のカレンさんは異端の存在だったのだ。カミングアウトをしたのは1978年のことだが、ある友人には「これできっと必要な助けを得られるようになるよ!」と、善意の「励まし」を受けた。

1980年代に作成した反ホモフォビアのポスター

一方で、支えてくれる多くの仲間に恵まれた。アジア・太平洋地域エイズ国際会議のメンバーのマユミ・ツタカワ氏やボブ・シマブクロ氏は、カレンさんと一緒にゲイ・パレードに参加したこともある。ジュディ・チェン氏、アルド・チャン氏とは共に反ホモフォビアのポスター・プロジェクト「Unite Against Homophobia」を立ち上げた。ポスター撮影に際してはさまざまなバックグラウンドを持つ人々が一堂に会し、被写体の多くは同性愛者の家族や友人であるストレート(異性愛者)の人々だった。ポスターはシアトルのインターナショナル・ディストリクトのそこかしこに張られた。「あまりにも多くの同志、特に若い人たちをエイズで亡くしました。だからこそ、私たちは勇気を奮い立たせることができたのです」とカレンさんは回想する。

1997年、カレンさんは同性パートナーのエリザベス・ウェールズさんと、かつてキャピトルヒルにあった気鋭の独立系書店、レッド・アンド・ブラック・ブックスで出会う。著作権エージェントのエリザベスさんとカレンさんには共通点が多かった。しかし、結婚は考えていなかったと話す。「私に結婚という選択肢が与えられているとは思ってもいませんでした。そこまで想像力が及ばなかったのです」。母の俊子さんは同性婚に懐疑的ではあったが、カレンさんとエリザベスさんとの関係は常に応援していた。

︎2012年12月6日、妻のエリザベスさんと共に、結婚許可証発行所にて

ワシントン州で同性婚を合法化する州法が施行されたのは、2012年12月6日。その当日、カレンさんとエリザベスさんは結婚許可証を取得した。お互い旅好きのふたりは、2019年に日本を訪れ、白川郷や京都、木曾谷、そして三重県にあるカレンさんの母方の実家を回った。エリザベスさんには子どもがふたり、孫もふたりいる。「新しい家族ができたことは、私にとって思いがけないギフトでした。孫たちは私のことを日本語で『バーチャン』って呼んでくれるんですよ」

マイノリティー作家の躍進を支える

両親はかなりの読書家だった。母の俊子さんは、『紀ノ川』(有吉佐和子)や『細雪』(谷崎潤一郎)といった日本の名作の英訳版をカレンさんに買い与えた。父のジョセフさんも、毎週土曜日になるとカレンさんを図書館へ連れて行った。そんな環境で育ったカレンさんが、やがて出版業界に関わる分野に進むのは必然だった。

エリオット・ベイ・ブック・カンパニーの木の温もりあふれる広々とした店内。奥には近所の人気カフェにより営まれるブックカフェ、リトル・オッドフェローズも(コロナ禍で一時閉鎖中だが、近日再オープン予定)

しかし、最初から書店の仕事に携わっていたわけではない。以前は精神科看護師、また看護師を養成する看護教員として20年間働いていた。ただ、看護の業界は保守的なところがあり、新しいことに挑戦したいタイプのカレンさんはもどかしく思うことが多かった。

シアトルに移住して間もない頃、前述の書店、レッド・アンド・ブラック・ブックスの組織にボランティアとして参加。日系コミュニティーになじめず、自分の居場所を探し求めていたカレンさんにとって、そこは理想とする共同体だった。女性、ゲイやレズビアン、黒人、アジア系、ラテンアメリカ系、ネイティブ・アメリカンなどいわゆるマイノリティー作家による素晴らしい作品群を知り、見聞を広めた。

当時はマルチレイシャル(さまざまな人種の出自を持つ)作家、トランスジェンダー(生まれ持った性別と自認する性別が異なる)作家の作品は数えるほどしかなかった。転じて現在は、多様性ある作家の作品の黄金時代だ。黒人(Black)、先住民族(Indigenous)、有色人種(People of Color)の頭文字を取った「バイポック(BIPOC)」の書き手はもちろん、アジア・太平洋諸島系アメリカ人、アラブ系アメリカ人、移民と実に多様な作家の作品がそろう。さまざまな言語で書かれた作品が英訳され、町の書店の本棚に当然のように並んでいるのを見ると、カレンさんの心は弾む。

日系アメリカ人に関する書籍が並ぶ棚。書店員の手書きポップは、エリオット・ベイ・ブック・カンパニーの名物となっている。もちろん、カレンさんによるポップも多数

カレンさんにとってキャリアにおけるハイライトのひとつとなったブックイベントがある。シアトル公立図書館が作家を招いて行う「シアトル・リーズ(Seattle Reads)」の2005年の回だ。『あの頃、天皇は神だった』(原題:When the Emperor Was Divine)で長編デビューした日系アメリカ人作家のジュリー・オオツカ氏を取り上げた。ビーコンヒルの会場は満席で、第ニ次世界大戦中に強制収容所に送られた経験を持つ日系人も多く見られた。会場前列には、フミコ・ハヤシダさんの姿もあった。1942年3月、ベインブリッジ島で退去命令を受け、幼い娘を抱きかかえながらフェリーを待つ姿が写真に収められて一躍有名になった女性だ。当時、まだ子どもだった非日系人の参加者も、ある日を境に日系人のクラスメートが教室から姿を消した衝撃と恐怖、何より自分たちの親が沈黙を貫いていた不気味さを今でも覚えていると、往時の記憶を分かち合った。

全米図書賞翻訳文学部門の選考委員を務めて欲しいとオファーを受けたのは、2018年。ちょうど翻訳文学部門が創設された年だった。その年の最終候補には後のノーベル文学賞受賞者であるポーランド人作家のオルガ・トカルチュク氏の作品もノミネートされていたが、受賞作に選ばれたのはドイツ在住の日本人作家、多和田葉子氏の『献灯使』。多和田氏は過去に、エリオット・ベイ・ブック・カンパニーで朗読イベントを開催したこともある。

数年前まで、カレンさんはアジア系アメリカ人作家の本と見れば全て、個人的に購入するようにしていた。今は数え切れないほどあり、とても買える量ではないし、もし買えたとしても読み終えることは不可能なくらいだとカレンさんはうれしい悲鳴を上げる。「特に注目すべきは、韓国系アメリカ人作家の躍進です」。中でも『Tastes Like War』のグレース・М・チョー氏や、『The Magical Language of Others』のE・J・コー氏は目立つ存在だと言う。

出版不況でも「本は友だち」

好きな本はと尋ねると、カレンさんはまず、ジュリー・オオツカ氏の『屋根裏の仏さま』(原題:Buddha in the Attic)を挙げた。20世紀初頭、日本からアメリカに嫁いだ「写真花嫁」たちの生涯を美しい筆致で描いた1冊である。オオツカ氏は、2022年2月に新作『The Swimmers』を刊行したばかりだ。また、詩人で活動家だった日系3世のジャニス・ミリキタニ氏の復刊本も挙がった。性的虐待サバイバーとしての経験を公の出版物で語った数少ないアジア系アメリカ人作家のひとりだ。

翻訳物では、小川洋子氏の『密やかな結晶』、オルガ・トカルチュク氏の『ヤクプの書物』を愛読する。いちばん好きなジャンルは回想録だ。推しは、ニコール・チャン氏による『All You Can Ever Know』。韓国系移民の両親の元に生まれ、オレゴン州南部の白人夫婦の養子として育てられた作家の複雑な生い立ちをつづった自伝である。「最近、彼女のように国や人種を超えて養子になった人々の物語が書籍や映画になることが増えています」

エリオット・ベイ・ブック・カンパニー主催で行われたZoomイベントに際し、作家のダニエル・ジェームズ・ブラウン氏とサイン本を作成。300冊あったサイン本はすぐに売れた(2021年)

オンライン化が進んで一般書店は苦境に立たされているが、カレンさんは「実際に書店を訪れることは何物にも代え難い体験です」と力強い。ふらっと書店に入り、書店員に話を聞いたり、本のカバーを目にしたり、本に添えられた推薦文を読んだりするうちに、「これこそ自分が探し求めていた本だ!」と1冊を手に取る経験は誰にでもあるはず。「そうした奇跡の出合いこそ醍醐味。オンラインでは味わえません」

エリオット・ベイ・ブック・カンパニーに足を運んでみよう。なかなか探すのが難しい本も、書店員の手を借りれば見つかる可能性が高い。黒人系日本人作家による小説や、強制収容時の日系家族を撮影した写真家の本も、カレンさんたちの手にかかればすぐにそれだとわかる。「スタッフおすすめ」の手書きポップを眺めるだけでも面白い。

カレンさんの父、ジョセフさんは「本は友だちだ」と口癖のように繰り返していた。「真心、興味、そして敬意の念をもって本を扱いなさい。書き手や将来の読み手にも思いをはせて、中身を味わいなさい。父はそう言いたかったのだと思います」。本と恋に落ちて欲しい。人生を豊かにする本を発見して欲しい。それがブック・プロモーターとしてのカレンさんの願いだ。


LGBTQ:性的マイノリティーとされるレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア(またはクエスチョニング)の各単語の頭文字を組み合わせたもの。多様なジェンダー・アイデンティティー(性自認)を包括するため、LGBTQの最後に「+」を加えることもある。

※反ホモフォビア/トランスフォビア/バイフォビア:同性愛者やトランスジェンダー、バイセクシャルなどの性的マイノリティーに対する権利侵害や差別に反対し、意識を高める取り組み。偏見や嫌悪をなくすための支援を行う。5月17日は「多様な性にYESの日」(国際反ホモフォビア/トランスフォビア/バイフォビア・デー)。

※写真花嫁(Picture Brides):排日感情の高まりを背景に、1907年から1908年にかけて日米間で交換された書簡、覚書により「日米紳士協定」が成立し、明治政府は出稼ぎ移民の自主規制に乗り出した。家族の呼び寄せは認められていたため、日本から花嫁となる女性が、写真によるお見合いと文通のみで結婚を決意し、海を渡った。

エリオット・ベイ・ブック・カンパニー

1973年にシアトル初のカフェを併設する書店としてパイオニアスクエアで創業。多彩なブックイベントが評判を呼んでおり、オバマ元大統領や作家の村上春樹氏など各界の著名人も訪れている。2010年にキャピトルヒルへ移転。

Elliott Bay Book Company
1521 10th Ave., Seattle, WA 98122
営業時間:日〜木10am〜8pm、金土10am〜9pm
☎206-624-6600
www.elliottbaybook.com

ビル・タシマさん〜日系コミュニティー・ボランティア

シアトルの日系・アジア系アメリカ人のコミュニティーで数多くの非営利団体に関わり、ボランティアとして受賞経験も持つビル・タシマさん。LGBTQなどの性的マイノリティー当事者として、悩みながらもここまで来たと話します。家族や友人から愛と支援を受け、アイデンティティーの獲得、そして受容へと至った自身の半生を振り返ります。

取材・原文:エレイン・イコマ・コウ
翻訳:宮川未葉
写真:『北米報知』より転載

※本記事は『北米報知』2021年5月28日号6月11日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ビル・タシマ■シアトルでコミュニティー・ボランティアとして活動。関わってきた団体は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)ワシントン州日本文化会館(JCCCW)敬老ノースウェスト、デンショウ(Densho)、鶴の折り紙で結束を(Tsuru for Solidarity)、日系コミュニティーネットワーク(NCN)、おかえり(Okaeri)、あやめ会など多岐にわたる。2015年に『ノースウエスト・アジアン・ウィークリー』紙のトップ・テン・コミュニティー貢献者賞を受賞。2017年にJACL最優秀殊勲賞を受賞。

性意識の目覚め

ビル・タシマさんは、日系アメリカ人市民同盟(JACL)を始め、ワシントン州日本文化会館(JCCCW)、敬老ノースウェストなど、数え切れないほどの非営利団体で活動してきた。「人と会って、いろいろなアクティビティーのお手伝いをするのが好きなんです。コミュニティーでのボランティア活動は親譲り。そういう家系なんです」と微笑む。

1983年に撮影された、両親、兄と妹、その家族と並ぶ写真。左端がビルさん

ビルさんはオハイオ州クリーブランド育ち。父母は共に戦時中の日系人強制収容を経験し、移転先となったクリーブランドで出会った。父親はJACLクリーブランド支部の初期会長。親からコミュニティーに貢献する伝統を受け継ぎ、ビルさんは1964年にジュニアJACLで活動するようになった。

オハイオ州の大学に進学すると、政治学を専攻。3年次はドイツに留学し、ハイデルベルクで過ごした。大学卒業後は、地元の別の大学で院生となったが中退。雑多な仕事をして、バーテンダーを3年間続けた後、70年代後半にクリーブランドの年金事務所で働き始めた。3年後、異動願いを出し、1981年にシアトルへ移る。「シアトルに引っ越してからはご多分に漏れず、ハイキング、キャンピング、サイクリングなど、アウトドア・ライフにのめり込みました」

一見、普通に思えるかもしれないビルさんの半生。「ひとつ違うのは、育ってきた過程で自分が同性愛者だと気付いたこと。ひと晩でわかったわけではありません。もともと男の子とのつながりが強かったけれど、女の子と遊ぶのも楽しかった」

70年代半ば、クリーブランドの日本食レストラン、サムライでバーテンダーをしていた頃(左端)。手前に写る日系3世の同僚、キャロル・ヤツ・ワイブルさん(左)とウェイン・イケダさんは生涯の友に

ビルさんは、男の子に対する自分の感情は一過性のものであり、そのうち状況は変わるだろうと考えるようになった。「でも、変わりませんでした。とはいえ、女の子と付き合うことはあり、いずれ結婚して“普通”の生活を送るんだと思っていました」

当時、同性愛者であることを公言するという選択肢は存在しないも同然だった。「家で同性愛者の話題が出たことは1度もありませんでした。家庭の外で耳にする同性愛者についての話は否定的なものばかりで、映画などでは同性愛者が極端になよなよした人物として描かれていました。肯定的に描かれていても、同性愛者であることを隠して生きていて、殺されるか自殺するかのどちらかでした」。同性愛者は社会的に追放されていた時代だった。

シアトルのゲイ・コミュニティーへ

ビルさんは、同性愛者であることを必死に隠そうとした。「接触を控えれば同性愛者ということにはならないと思いました。もし知られてしまったら、自分も映画のようになってしまうという恐怖に襲われ、絶対に誰にもさとられないようにしようと心に決めました」

2013年、友人たちに見守られながら、クリスさんと敬老ガーデンにて挙式。介添人は息子のコルビーさんが務めた

大人になると、大学や職場では「クローゼット」(自身のセクシャリティーやジェンダーを公表しないこと)、夜は「アウト」(クローゼットとは逆に本当の自分を表に出すこと)の二重生活を送ることに。ビルさんの悩みは深かった。「将来に希望を持てなくなることもありました。表向きは明るく装っていても、実は動揺し、葛藤を抱えていたと今になってわかります。若者がよくやるように、アルコールとドラッグで現実逃避を繰り返す日々を送っていました」

ビルさんは一念発起して、クリーブランドを離れ、シアトルで自分探しをすることに決めた。そして、クリーブランドの友人たちに、同性愛者であることをカミングアウトした。「みんな、信じられないくらい応援してくれました。この親友たちとは今でも交流があります」。しかし、家族には秘密を打ち明けていなかった。「本当のことを言わずに別れるのは嫌だったのですが、まだ言う準備ができていなかったんです」

2019年のクリスマスに、クリスさん、コルビーさんと共に

シアトルは同性愛者に対してよりオープンで、別世界だった。「シアトルに来て、初めてサングラスを取り、日光を浴びたように感じました。80年代のキャピトルヒルはゲイのメッカ。キャピトルヒルの街を歩くと、自分は歓迎されていると実感できました」。ゲイ・パレードを見ては、さまざまな立場の人々がありのままの自分に誇りを持って生きていることに感銘を受け、ゲイが集まるディスコでは、思う存分踊って自分らしくいられる解放感を味わった。しかし、職場ではまだ、ほとんどの同僚に隠したまま。シアトルでも二重生活は続いていた。「私の片方の人生は自由になりましたが、月曜日に仕事に戻ると、週末のゲイ・コミュニティーでの出来事はなかったものとして振る舞っていました」

愛する両親、パートナーの死

80年代のシアトルでビルさんがゲイ・コミュニティーでの生活を楽しみ始めた頃、世界では新しい病気、エイズ(AIDS)が表面化してきていた。最初は「ゲイのがん」と呼ばれることもあった謎の病のうわさはゲイ・コミュニティーを恐怖に陥れた。

今は亡きルーさんと部分日食を見に訪れたハワイにて。ビルさんにとって特別な思い出となっている

1984年、ビルさんは最初のパートナーであるルーさんに出会う。やがてグリーンレイクに家を購入し、一緒に住むようになった。同時期、母親の他界、父親の病気の進行も重なった。父親をシアトルの家に呼び寄せ、それまで兄や妹がしていた介護を代わりに引き受けることにしたビルさん。それでも、ビルさんの家族は、ビルさんとルーさんが恋人同士であることに気付かなかったと言う。

ビルさんは、仕事と父親の介護に明け暮れる毎日だった。病状の悪化した父親がシアトル敬老の介護施設に入ってからも見舞いを欠かさず、透析治療や診察にも付き添ったが、1989年に亡くなった。ルーさんが体調を崩したのは、その翌年のことだ。抗生物質その他の薬を数週間服用したが回復せず、その病気がエイズだということが発覚した。この知らせはビルさんに衝撃を与えた。

現在、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染の段階での治療が可能だが、当時は大きな効果のある治療法はなく、ほとんどの感染者はエイズ発症を避けられなかった。日和見感染症に対する薬は副作用が強く、それを軽減するためにさらに多くの投薬が必要になった。「でも、いちばんつらかったのは偏見でした。そのため、ルーは私たちの家族や友人にエイズであることを知られたくないと思っていたし、私たちがカミングアウトすることも望んでいませんでした」

さまざまな治療を試すも、ルーさんの病状は悪化していくばかりだった。ルーさんは、病院で死にたくないと言う。ビルさんはルーさんを家に連れ帰った。「彼は好きな音楽を聴きながら、リクライニングチェアで寝ることができました。50歳の誕生日の直前、安らかに永遠の眠りにつきました」

ビルさんはついに家族にカミングアウトし、事情を説明した。家族の反応は意外なものだった。「兄と妹、その家族も、信じられないほど協力的でした。アイルランドで暮らす兄は渡米して葬式の準備を手伝いたいとまで言ってくれて。妹と私は仲が良かったので、力になってくれることはわかっていたのですが、私がゲイだと知らなかったのには驚きました。みんなの愛情とサポートに、私は感動しきりでした」。ビルさんは、同僚や友人にも打ち明けた。「優しい言葉をかけてくれましたし、パートナーが亡くなったこと、私がひとりでそれに耐えなければならなかったことを気の毒がってもいました」

自分の経験を生かしてLGBTQの人々を支えたい

ルーさんが亡くなり、何年も人付き合いを避けていたビルさんだったが、50代を迎え、再び人と会おうという気持ちになれた。そんな頃、理想の伴侶に出会った。現在の夫、クリス・ベントレーさんだ。

トランプ前大統領の就任日となった2017年1月20日、ビルさんはボランティアとして、シアトル・センターで開催された大規模なワークショップで移民の市民権獲得を支援。写真はJACLシアトル支部会員のツキ・ノムラ・ヘンリーさん、セオ・ビッケルさんと

「彼はスポーツマンで、ダウンヒル・マウンテンバイクの全国チャンピオンです。何よりうれしいのは、私を毎日笑わせてくれること。結婚した日は、それまでの私の人生で最も幸せな日でした」。ふたりが出会った時、クリスさんの息子は8歳。「私は一夜にして熱心な“サッカー・マム”になり、スポーツの練習や試合の付き添いはもちろん、コンサートやイベント、先生との面談にも行きました。このような経験ができるとは思ってもみませんでした」と、ビルさんは話す。「愛するクリス、息子のコルビーと一緒になれて、おとぎ話のよう。私たちの生活はごく平凡なものです。ほかの家庭と何ら変わりはありません」

ビルさんは、LGBTQなどの性的マイノリティーに対する差別を撤廃するため、積極的に活動を続けている。2003年、ラスベガスで開催されたJACL全国大会にて、同性愛者を排除するというボーイスカウトの決定に抗議するかどうかについて議論されたことがあった。ビルさんは、シアトル支部会員のアーリーン・オキさんから、抗議する決議に賛成のスピーチをして欲しいと頼まれた。そのスピーチではこう述べた。

2011年、東日本大震災の被災地支援のため、ボランティアで募金活動を手伝うビルさん

「10代はつらいものです。自分ではどうにもできないことで判断され、決め付けられ、中傷されるのはどういう気持ちかは、皆さんもよくわかるでしょう。そんなティーンエイジャーが、それまで情熱を傾けていた集団から追い出されることになれば、間違ったメッセージを伝えることになる」

さらに、自分がゲイであること、そしてスカウト活動を通して得た素晴らしい経験と友人たちについて語った。決議は通過した。ビルさんが席に戻った時、アーリーンさんは泣いていた。「彼女は私がゲイであることを知っていましたが、『カミングアウトをして欲しいと思っていたわけではなかった』と言いました」。ビルさんは笑って、そんなアーリーンさんに「気にしないで。1対1で話す必要がなくなって、かえって良かった」と声をかけたそうだ。

2012年には、JACLシアトル支部でワシントン州の結婚平等キャンペーンに参加した。州議会は以前に同性婚を可決していたが、保守派の抵抗があり、投票にかけられることになったのだ。シアトル支部は結婚の自由を支持してきた長い歴史を持つ。このキャンペーンで、シアトル支部は地元紙に支持広告を掲載。ビルさんら会員は『シアトル・タイムズ』紙への寄稿も行った。投票では見事勝利し、可決へ。その祝賀会でも再び、ビルさんはスピーチを求められた。

「この勝利に抱く思いは、1952年にカリフォルニア州で排日土地法(外国人土地法)が廃止された時に1世が抱いた気持ち、そして1988年に市民自由の法の成立で、日系人強制収容への謝罪と補償が認められた時に2世が抱いた気持ちと同じだと述べました。結婚する権利を得て、ようやく完全なアメリカ市民になれたように感じたのです」

2016年には、藤崎一郎元駐米大使(手前左)を迎えて総領事公邸で開かれたプライベート・ディナーに招待された

ビルさんは、「おかえり」という団体の活動にも携わる。これは日系・アジア太平洋諸島系LGBTQ+の若者とその家族や友人のためのサポート・グループで、トランスジェンダーの息子を持つマーシャ・アイズミさんによって設立された。「『おかえり』という名前には、LGBTQ+の全ての若者に『あなたは歓迎されている』というメッセージが伝わるようにとの思いが込められています」

ビルさんは自らの経験から、LGBTQ+の子どもや孫がいる家族、そして自身がLGBTQ+という人々への呼びかけを止めない。「当事者である私は、ほかの何百万人ものLGBTQ+の人々と共通する経験を持ちます。人と違っていても大丈夫、決してひとりぼっちじゃないということを知って欲しい。私が経験したような苦痛を誰にも味わせたくありません。あなたたちは愛されているし、気にかけてくれる人がいる。私たちのようなサポート・グループの支援も受けられるのです」


※LGBTQは性的マイノリティーとされるレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア(またはクエスチョニング)の各単語の頭文字を組み合わせたもの。多様なジェンダー・アイデンティティー(性自認)を包括するため、LGBTQの最後に「+」を加えることもある。

ブルース・ハレルさん〜 シアトル市長選候補・元シアトル市議

シアトル市長選に立候補し、8月3日の予備選を勝ち抜き、11月2日(火)に行われる本選でロレーナ・ゴンザレス現市議会議長と対決するブルース・ハレルさん。当選すると、アフリカ系としては2人目、アジア系としては初のシアトル市長が誕生します。人生の大半をシアトルで過ごし、弁護士およびシアトル市議会議員として活躍してきたブルースさんは、「シアトルに育ててもらった」と自認しています。自身のルーツや幼少期の思い出と共に、市政への意気込みと抱負を語ってもらいました。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー 
翻訳:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

※本記事は『北米報知』7月9日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ブルース・ハレル(Bruce Harrell)■シアトル市長選候補。弁護士。2007年から2019年までシアトル市議。地元のガーフィールド高校、ワシントン大学、同法科大学院卒業。アフリカ系、日系のルーツを持つアメリカ人。シアトル市議会議長を務めていた2016年には外務省の在米日系人リーダー招へいプログラムにより初めて日本を訪れ、アイリーン・ヒラノ・イノウエ米日カウンシル会長(当時)らと共に安倍晋三首相(当時)を表敬訪問した。妻のジョアンヌさんとの間に3人の子どもがいる。 info@bruceforseattle.com  www.bruceforseattle.com @bruceforseattle

日系の母とアフリカ系の父の間に生まれて

ブルース・ハレルさんの祖母、タメノ・ハブ・コバタさんは大阪生まれ。夫のテイジ・ハブさんと1900年代初頭に日本からシアトルへ渡り、6人の子ども(ジャックさん、キミさん、ジョンさん、ユキさん、カコさん、マリーさん)に恵まれる。

新婚当初のブルースさんの両親。1953年頃

しかし、テイジさんは、若くして髄膜炎で命を落とす。死の床で、残される家族の世話を親友のジョン・コバタさんに託した。遺言に従って一家の面倒を献身的に見たジョンさんは、やがて未亡人だったタメノさんと入籍。そのふたりの間で5番目の末っ子として生まれたのが、ブルースさんの母となるローズさんだ。同じ父を持つ兄、姉にはジョージさん、ルイーズさん、フランクさん、ジョージさんがいる(いちばん上の兄、ジョージさんは早くに亡くなった)。一家は日本町に引っ越して、小さな食料品店を営んでいた。後に店は地元最大の花屋、チェリー・ランド・フローリストとして成功を収める。ローズという名前も、ジョンさんが花にちなんで付けたものだ。第二次世界大戦が始まると、ローズさんを含め親戚一同、アイダホ州のミニドカ収容所に送られた。戦中、アメリカに住む日系人は敵性外国人とみなされ、アメリカ国籍を持つ2世を含め、自宅のある地域から強制退去させられ、土地や財産を失った。ローズさんの家族もそれは同じだった。

結婚してシンボ姓となった次女のカコさんは、戦争が終わると夫婦で同じS. Jackson St.沿いに花屋を開いた。ガーランド・フローリストと聞けば、古くからシアトルに住む人なら、思い当たるかもしれない。また、長男のジャックさんは自動車修理工場を始め、息子が引き継いだ。現在もアート・アンド・ゴードン・ハブとして営業中だ。収容所からシアトルに戻ったローズさんはガーフィールド高校に通い、そこでブルースさんの父親となるクレイトン・ハレルさんと出会う。ハレル家はもともとルイジアナ州ニューオーリンズの出身だが、シアトルに居を移していた。クレイトンさんの父、ウィリアムさんは大工として生計を立て、3人の息子のうち2人をワシントン大学に通わせた。クレイトンさんの母のリリアンさんは、ファーストヒルにあったカブリーニ病院の新生児室に看護師として勤務していた。

幼少期に父のクレイトンさん、母のローズさん、兄のクレイトン・ジュニアさんと。1963年頃

ブルースさんの両親は意外な人物と高校の同級生だった。音楽界の大御所、クインシー・ジョーンズ氏だ。父、クレイトンさんはバンピー・ブラックウェルズ・バンドとして一緒にバンド活動を行い、シアトル界隈ではかなり名の知れた存在であったという。クレイトンさんとローズさんは1951年にガーフィールド高校を卒業すると、その2年後に結婚する。日系とアフリカ系という人種を超えた結婚を選択した若いふたりは、常に世間から好奇の視線を向けられた。当時のことをブルースさんはこう話す。「家族でダウンタウンを歩くと、人々は私の両親に目をやり、そして兄と私をじろじろと見るのです。まるで別の惑星から来たかのように」。それでもブルースさんの両親は互いを思いやる気持ちを決して失わず、文字通り「死がふたりを分かつまで」、50年にわたって添い遂げた。

葛藤を抱えた青年時代

日系とアフリカ系の血が流れるブルースさんは、幼い頃から「自分はどの人種グループに属するのだろうか」と自問していたという。書類提出の際など人種のチェック欄があると2つをマークしなければならず、人種について討論する場では自分の意見を発表するのをためらった。自分の境遇は特殊だと自覚していたからだ。

母、ローズさんの両親が日本町で営んでいたチェリー・ランド・フローリストが最盛期を迎えていた1940年頃の様子。ローズさんの姉、ルイーズ・サクマさんは、戦後にセントラル・ディストリクトでチェリー・ランド2号店を開き、その花屋を長年経営した

しかし、ワシントン大学に入ると環境は一変。自分と同じように異なる人種をルーツに持つ人たちとの出会いが急増したのだ。ほどなくして友情を築くのに人種は関係ないとブルースさんは気付く。友人たちは誰しも、人種に関係なくブルースさんの人柄を慕い、尊重してくれた。「人の活動の原動力となるのは『愛』なのだと気付きました。私はいつも愛に囲まれていました。誰かに心ないことを言われると、これまでの人生で私を支え、元気付けてくれた家族や友人たちのことを思い出します。彼らとの出会いは、今でも私の心の糧です。そこに人種は関係ありません」

ガーフィールド高校卒業式にて。祖母のリリアン・ハレルさんと共に。1976年撮影

ブルースさんは子どもの頃、ひどいあだ名で呼ばれ、よく喧嘩もしたと言う。そんなブルースさんの心のよりどころは両親からの愛情だった。「兄と私に惜しみなく愛情を注ぎ、自信を与え、混血に向けられる無知や偏見に立ち向かう強い心を育ててくれた。現在もアジア系住民に対するヘイトクライムがあとを絶たず、アジア系、アフリカ系、先住民、有色人種(BIPOC)は不当な暴力の恐怖にさらされています。私の最後の砦となるのは愛です。それは両親が亡くなった今でも同じです」

教育熱心な母親の影響

母、ローズさんは1933年にシアトルで生まれた。セントラル・ディストリクトのベイリー・ガザート小学校、ワシントン中学校、そしてガーフィールド高校と進み、ワシントン大学で会計学のクラスをいくつか履修した。「母親であり、職業人でもありました」とブルースさんは振り返る。ローズさんはイースト・マディソンYMCAで秘書として働いた後、現在でも発行されているアフリカ系アメリカ人向けの地元紙『ザ・ファクト』編集部を経て、アフリカ系の人権活動家でシアトル市全体の予算管理や市営公園の運営などを任されていたウォルター・ハンドリー氏の下で「シアトル・モデル・シティー」事業を担当するビジネス・マネジャーを務めた。その後はシアトル公共図書館で財務部長として長年働いた。

2012年に母のローズさんと。父のクレイトンさんは2003年にがんで他界。ローズさんは2014年、心不全により亡くなっている

ブルースさんの揺るぎない自信、身体能力の高さ、強靭な精神力は母親譲りだ。「母は真のスーパーウーマン。学ぶこと、物事に興味を持つこと、読書の大切さも母から教わりました。子どもの頃、夕食を終えて食器を手洗いする母に本を朗読するのが私の役目で、毎晩、毎晩、何年も続けました。どれだけ多くの本を読んだことでしょう」

当時、ローズさんは教会の日曜学校で子どもたちを教えており、PTA活動にも精力的に関わっていたが、ブルースさんの出場する試合には欠かさず応援に駆け付けた。ある日、こんな出来事があった。高校生だったブルースさんは、レスリングのトーナメント試合に出場。1回戦に勝ったブルースさんを見届けて、ローズさんは車に戻った。ブルースさんを待つこと4時間。その後交わされた会話が、いかにもおおらかなローズさんらしい。

「ずいぶん時間がかかったわね」

「えっ。試合が終わってすぐに飛んできたよ」

「でも試合が終わったのは4時間前じゃない」

「母さんったら。僕はあの後、もう2試合あったんだよ。トーナメント戦だもの。両方とも勝ったのに、見ていなかったの?」

「見ていなかったわ。本を読んでいたの」

ふたりはハンバーガー屋に立ち寄り、笑いながらバーガーを頬張ったそうだ。「母は私の元気の源でした」。ブルースさんにとって、忘れ難いエピソードだ。

政治家の道へ

2007年、ブルースさんは弁護士から政治家へ転身する。「世の中に恩返しをしたい」と思ったことがきっかけだ。長年、弁護士として活躍したブルースさんは、仕事を通じて企業、非営利団体などあらゆる分野で働く人たちと交流を深めた。その経験を市政に生かせると考えたのだ。

12年に及ぶ議員生活の中で、ブルースさんが特に誇りに思う政策がいくつかある。2013年、犯罪歴のチェック欄を廃止するバン・ザ・ボックス(Ban the Box)法が可決された。これは、職場の安全を損なうことなく、軽犯罪などの逮捕歴がある人が職を探しやすくすることを目指した雇用支援法で、ブルースさんが起草した。逮捕歴のある人は、シアトル市だけでも12万人以上、キング郡では42万人を超す。この法律が施行される前は、たとえ少量の薬物の所持や使用といった軽微な犯罪でも、前科があるというだけで仕事に就くことは非常に難しかった。そのような人に再起の道を開いたことになる。

ブルース・ハレルさん一家。妻、子どもたちと孫に囲まれて。2015年撮影

2010年には、教育分野でのテクノロジー格差解消に向け、シアトル学区の低所得者世帯の生徒約2万人に月10ドル以下での高速インターネット・アクセスを提供。その功績が認められ、ブルースさんは全米電気通信諮問委員会(NATOA)からブロードバンド・ビジョナリー・オブ・ザ・イヤー賞を授与された。さらにブルースさんはシアトル市とサウス・シアトル・カレッジの提携を実現させ、公立高校を卒業した学生が無料で同カレッジに通える制度を整えた。「13年生の約束(13th Year Promise)」と呼ばれるこの取り組みは、ジェニー・ダーカン現市長にも引き継がれ、充当額は500万ドルまで増加。対象となるカレッジも市全域に拡大された。

もうひとつ、ブルースさんが関わった大事な法律がある。2015年に施行された最低賃金を時給15ドルに定めた法律だ。当時、ブルースさんはシアトル市が設置した所得格差是正諮問委員会の主要メンバーだった。この法案を可決するために、雇用者の代表グループ、自営業者や企業経営者、非営利団体、人権団体、飲食・サービス業界、製造業界で働く人々など大勢の協力を仰いだ。

ブルースさんの関心は安全な街づくりにも及ぶ。「私は治安維持に本気で取り組みました。公安委員長を務め、警察官を増員するために毎年予算を増額し、2016年末にはシアトル史上最多となる1,384人の警察官が任命されました」。この増員が警察官による不祥事や不当な暴力の増加につながらないように、2017年には「バイアスフリー」取締法を単独で提出し、2019年に可決された。この法律により、人種差別や偏見による取り締まりを受けた個人が裁判所に申し立てられるようになった。また、警察官が職務質問したり、一時的に身柄を拘束したりする割合が人種間で不当に偏っていないかを検証するために、シアトル市は詳細なデータ収集を義務付けられた。警察官は「バイアスフリー」に関する研修を受けることが必須となった。

市長選に再挑戦

ブルースさんは過去にも市長選に立候補している。今回、再び挑戦する理由は何だろうか。「私はシアトルで夢をかなえ、家庭を持ちました。恩義を感じているシアトルが現在、苦境にあえいでいる。その現状を打開したいのです。自分の経験や人脈など、私という人間を作り上げている全てを市政に注いで、街を活性化、再生させるために奉仕するつもりです」

警官による拘束中にジョージ・フロイドさんが死亡した事件での人種差別に抗議するBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動に参加。2020年撮影

ブルースさんは以下の重点政策を掲げる。人種の平等と社会正義、小規模ビジネス支援を中心とした経済活性化、公共の安全、ホームレス問題への対応だ。「日系とアフリカ系のルーツを持ち、長年シアトルで暮らし、実績を築いてきました。今、シアトルが抱える多くの問題を解決に導く資質が私には備わっていると信じています」

ブルースさんは次世代を担う若い人たちへもメッセージを送る。「キャリアを築くうえで助けとなるものは、人脈と知識です。幸い、これらは自分でコントロールできます。志に共感できるのであれば、多くの人を助けましょう。それは必ず報われます。そして世の中の傾向を知るために新聞や本を読み、ボランティアでも良いので率先して問題解決に取り組んでください。最後に、最も重要なのは、常に前向きな姿勢でいることです。人は最終的に、態度で評価されます。全ては自分の選択にかかっています」

アーティスト ミシェル・クマタさん

ミシェルさんの作品「Diáspora」(2019年、アクリル・水彩・鉛筆・紙・カンバス、24.5インチ×35.25インチ)。1927年、ミシェルさんの曾祖母、サキ・タカツさんとその子ども・孫数人が、故郷の三重県梶賀から「さんとす丸」に乗ってブラジルへと旅立った

アーティスト ミシェル・クマタさん

アートを追求してシアトルから大陸の反対側のニューヨーク、さらには南半球のブラジルへ。日系3世のアーティスト、ミシェル・クマタさんは、日系アメリカ人などをテーマとしたアート制作により自らのアイデンティティーを発見し、表現してきました。ブラジルでは、そこに住む親族への聞き取りを行ったアート・プロジェクトも敢行。ミシェルさんのアートの旅に目が離せません。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー 翻訳:宮川未葉 写真:本人提供 協賛:北米報知財団
※本記事は『北米報知』2020年10月23日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ミシェル・クマタ(Michelle Kumata)■シアトル出身のアーティスト。ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツで美術学士号を取得。『シアトル・タイムズ』紙のグラフィック・アーティストを10年以上経験。また、ウィング・ルーク博物館では展示ディレクターを12年務め、コミュニティーと協力して人々の体験を収集し、心に訴えかける展示にまとめ上げた。作品はこれまで、フライ美術館、センター・オン・コンテンポラリー・アート、バンバーシュート、ノードストローム、そしてニューヨークのソサエティー・オブ・イラストレーターズ美術館などで展示されている。ブラジルの親族を訪ねた日系ブラジル人移民アート・プロジェクトも行う。 www.michellekumata.com

アートへの関心は幼少時代から

地元紙『シアトル・タイムズ』の挿絵を手がけ、全米の文化センターや美術館、ギャラリーなどで作品が展示される一流アーティスト、ミシェル・クマタさん。アートに興味を持ったのは子どもの頃だと話す。「ひとりっ子のせいか無口で内向的でしたが、鮮やかな空想の世界に生きていました。アートで自分だけの世界を作り上げることが楽しかった。今でも、制作に没頭すると時間や空間の感覚が消えていき、われを忘れてしまいます」

ミシェルさんの曽祖母サキ・タカツさん(左)と祖母キヌエ・タカツ・カワグチさん(右)。1918年ごろ、三重県梶賀にて(カワグチ家蔵)

父親の影響も大きい。ミシェルさんの父親はアーティストで、一緒に絵を描くなどしてアートの手ほどきをしてくれた。「学校に持っていくランチの紙袋に父が絵を描いてくれていました。紙袋を手に、得意になって通学していた頃が懐しく思い出されます。祖母の家には、父がフランクリン高校時代に描いた立派な絵がいくつか飾ってありました」。母方の祖父母のところに預けられることもよくあったミシェルさんは、そこでもアートに親しんだ。「祖母は真っ赤なビーツの残り汁でよく絵を描かせてくれました。母方の祖父母は貧しいながらもやりくり上手で、何でも無駄にしない“もったいない”精神を大切にしていました」

ミシェルさんは、ニューヨークの美術大学、スクール・オブ・ビジュアル・アーツに進む。ニューヨークでの体験は何もかもが初めてのことばかり。「ハイペースな街、多様性のある文化、たくさんの美術館やギャラリーなど、ニューヨークで暮らすこと自体がとても刺激的で勉強になりました」。ミシェルさんは部屋が狭くても気にならず、最低限の物でやりくりしながら過ごしていた。「何もないところから素晴らしいものを生み出すのがアーティスト。私は、たくましく生き抜いた日本人移民の先祖の精神を引き継いでいると感じています」

日系人としてのアイデンティティーを芸術で表現

ミシェルさんの母方の祖父母は三重から米国に移住してきた。つまり、ミシェルさんの母親は2世に当たる。父方は、曽祖父母が広島から米国に移住し、祖父母は米国で生まれたため、ミシェルさんの父親は3世。父母共に第二次世界大戦中、ミニドカ日系人強制収容所で生まれた。「父にも母にも当時の記憶はほとんどありません。母は両親から強制収容について何も話を聞けなかったそうです。1970年代から80年代初め頃までは特に、1世と2世が強制収容について話すことはまれでした。恥や怒り、憎しみの感情、そして忘れてしまいたいという気持ちもあったのでしょう」

「Falling」(2020年、アクリル・紙、32インチ×12インチ)。ブラジルに移民する多世代家族が、未知の世界へとやみくもに飛び込んで落ちていく様を表現した作品

ミシェルさんの母親の家庭では主に日本語が使われていたが、母親がミシェルさんに日本語で話しかけることはほぼなかったと言う。父親は1世である祖父(ミシェルさんの曽祖父)のところに預けられていたので日本語を母語としていたが、成長するにつれて家庭で主に使われる言語は英語になっていった。「社会に溶け込もう、よりアメリカ人らしくなろうとして、日本語を使わなくなったのではないでしょうか」。ミシェルさんは中学で日本語の授業を取ったが、機会をうまく生かせなかったことを後悔していると打ち明ける。

しかし、ミシェルさんは日本文化やアジア系・日系人と深いつながりを持っている。そのひとつが「太鼓」だ。高校生の頃、地元の日系太鼓グループの演奏を見たミシェルさんは、「これだ」と思った。「太鼓は音が大きく毅然としていて、私の中での日系人の控えめなイメージを破るものでした。太鼓の音は体に直に伝わり、感情に訴えるものです。自分に自信がなかった私は、太鼓を演奏することで力が湧いてくるような気がしました」。太鼓を通じて得たものは、日系人コミュニティーとのつながりと、日系人としてのアイデンティティー、そして誇りだ。太鼓仲間の勧めで、ミシェルさんは、当時『インターナショナル・エグザミナー』紙の編集者だったロン・チュウさんに連絡し、新聞の挿絵の仕事をさせてもらうことになった。高校の最終学年の1カ月間、ミシェルさんは同紙での仕事からアジア太平洋系アメリカ人の歴史と問題について多くを学んだ。

ニューヨークからシアトルに帰って来てしばらくすると、ミシェルさんは、ウィング・ルーク博物館館長となったロン・チュウさんに採用されて、日系人強制収容を認める大統領令9066号についての展示を担当することになった。「強制収容の体験について直接話を聞いたことがなかった私にとって、これが転換点となりました」。アートを通じて日本文化や日系人の伝統を見直すようになったというミシェルさん。日本の昔話の絵を描くほか、シアトルの日本町に活気があった第二次世界大戦前、1930年代当時の日系人の写真をモチーフにした肖像画にも取り組む。また、ベルビューの日系人農民と強制収容をテーマにした大型の壁画も制作した。「自分のアイデンティティーを探り続け、声を上げられるようになりたかったのです」

ブラジルで親族のルーツをたどる

ブラジルにはミシェルさんの母方の親族がいる。ミシェルさんの祖母に当たるキヌエ・タカツさんはカメタロウ・カワグチさんと結婚して1918年、18歳の時にシアトルに移住したが、タカツ家で米国に来たのはキヌエさんだけだ。キヌエさんの母のサキ・タカツさんはキヌエさんの兄弟、妹たち6人を連れて、1920年代後半にブラジルに移民している。最初は米国に移民する予定だったが、1924年の移民法(通称「排日移民法」)によってそれができなくなり、ブラジルに行くことになったのだ。サキさんたちはブラジルで農業労働者として働いた。

ミシェルさんの曽祖父母とその子どもたち(リカルド・ハラグチさん提供)

ブラジルへの移民は、ブラジルの歴史的な労働者不足と日本の景気低迷によって後押しされたものだった。16世紀初期から1866年まで、ブラジルには世界のどの国よりも多い推定490万人のアフリカ人奴隷が送り込まれたが、19世紀後半には奴隷制度が廃止に。ブラジルはその後、ヨーロッパ諸国から労働者を受け入れたが、劣悪な労働条件のために定着しなかった。そこで、労働者不足を補うためにアジアに目を向けたのである。20世紀初頭、日本の農村は貧困にあえいでおり、日本政府は移民、主に米国への移民を奨励していたが、その米国は1924年の排日移民法によって日本人や他のアジア人の移民を停止。一方でブラジルには、1908年から1941年までに18万5,473人の日本人が移民した。現在、ブラジルは世界最大の日系人居住地で、2018年の日系人口は約150万人となっている。

続きを読む …

市民活動家  ルーサン・クロセさん ミカ・クロセ・ロスマンさん

ジョー・バイデン氏が勝利確実の11月3日の大統領選挙でも大きな争点となり、全米を取り巻く人権運動の高まりは、ますます世界から注目を浴びています。シアトルはもともと人権運動が盛んな土地柄で、特に知られているのがアキ・クロセさんから始まり、ルーサンさん、ミカさんと3代にわたって市民活動リーダーを生み出してきたクロセ家の存在。今回はルーサンさんの目から見た母親アキさんの軌跡をたどりながら、それがどのように子、孫へと引き継がれていったのか、そしてルーサンさん、ミカさんは現在のBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動をどう見ているのか、改めて語ってもらいました。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー 翻訳:シュレーゲル京希伊子
写真:クロセ家提供 協賛:北米報知財団

※本記事は『北米報知』9月11日号9月25日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ルーサン・クロセ(Ruthann Kurose)■市民活動家として、シアトルのコミュニティーを中心に多くの人権運動に関わる。ワシントン大学政治学部で理学士号を取得。ベルビュー・カレッジで評議員を15年務め、ワシントン州酒類管理局理事会、KCTS公共テレビ諮問委員会、シアトル美術館コミュニティー諮問委員会、ウィング・ルーク博物館キャピタル・キャンペーン委員会などでも貢献。
 
ミカ・クロセ・ロスマン(Mika Kurose Rothman)■ワシントン州弁護士。ニューヨーク大学、ワシントン大学法科大学院卒。マクドナルド・ホーグ&ベイレスに勤務し、人権問題を専門に扱う。法科大学院に入る前はオバマ政権でホワイトハウス内職員として不当な薬物取締により収監された囚人の恩赦に取り組む。日系アメリカ人市民同盟(JACL)メンバー。
 

社会の変革を求める活動家の両親に育てられて

偉大な市民活動家であったアキ・クロセさんの苗字である「クロセ」は、ここシアトルでは平和を目指す社会運動、コミュニティー奉仕活動と同義語である。アキさんはアジア系アメリカ人女性として初めてシアトルの公立校に名前が付くほど地域への多大な貢献が認められており、そのアキ・クロセ中学校は今もアキさんの志を受け継ぐ。低所得者向け住宅のアキ・クロセ・ビレッジにもその名が取り入れられるなど、シアトルでの社会運動の歴史を語るうえで欠かせない存在だ。その血は娘のルーサン・クロセさん、そして孫のミカ・クロセ・ロスマンさんに脈々と受け継がれている。

ルーサンさんの両親、ミカさんの祖父母でもある、ジュンクスさんとアキさん

ルーサンさんは、社会運動にはさまざまな形があることを両親から教わったと話す。母親のアキさんはよく自宅の居間で会合を開いた。父親のジュンクスさんは常に他人を思いやり、住む場所や食べる物に困っている知人がいると自宅に招き入れた。その絆は日系人社会だけにとどまらない。シアトルには当時、非白人の住居売買を制限する人種差別的な法律があり、クロセ一家はアフリカ系、アジア系、ユダヤ系が入り交じった地区に暮らしていた。そのことが必然的にクロセ夫妻の人とのつながりや政治的な考えに影響を与えたようだ。特にアキさんは公民権運動に積極的に参加するようになり、それは当時のアジア系アメリカ人女性には珍しいことだった。アキさんはCORE(人種平等会議)シアトル支部の一員として活動し、人種差別的な教育制度や住居売買制度を撤廃するなど、社会的弱者の生活の改善に大きく貢献した。

公民権運動が最高潮を迎えた1966年には、アフリカ系アメリカ人のリーダーたちがシアトル学区の人種隔離制度を撤廃するために抗議活動を行った。当時、アフリカ系アメリカ人の通う学校は予算や教職員が足りず、試験の成績も卒業率も低かった。教育委員会に何度かけ合ってもなかなか動かないため、2日間のボイコット運動が行われた。アキさんはアフリカ系リーダーのロベルタ・バード・バー氏と共に、アフリカ系教会やユダヤ系寺院を始めとするさまざまな宗教団体やコミュニティーと協力し、このボイコット運動を成功させようと尽力した。

この2日間、ルーサンさんと兄弟たちは学校へ行かず、代わりにフリーダム・スクールに行ってアフリカ系アメリカ人の歴史、アート、サイエンスなどを学んだ。その時の経験が若きルーサンさんに刻み込まれた。「平和的な抗議活動を通して市民が立ち上がると、正義と平等を求める人々の声に社会の関心を向けられることを実感しました」

アキ・クロセさんを突き動かしたもの

アキさんは日系2世として第二次世界大戦を経験した。戦時中、日系人は大統領命令により土地や財産を手放し、故郷から離れて収容所で生活することを強要され、人種差別や不正義の問題を目の当たりにすることになる。強制収容所で高校を卒業したアキさんは、カンザス州ウィチタにあるフレンズ大学に進学するため、収容所を出ることが許された。フレンズ大学は平和主義と非暴力を掲げるクエーカー教徒が設立した大学で、収容所に送られた日系人学生も受け入れていた。アキさんは大学を出るとクエーカー系のアメリカ・フレンズ奉仕団に入り、広島と長崎の被爆者救済活動を手伝うようになった。

アキさんを囲む子どもたち、マリエさん(左端)、ガイさん(後列右から2番目)、ルーサンさん、そして孫たち

ある日、年若いルーサンさんは衝撃的な光景を目にする。ワシントン大学病院で治療を受ける被爆者を自宅に受け入れていた時のことだ。ルーサンさんは、その被爆者の背中に漢字の焼け痕を見つけた。原爆の光線で、着ていたシャツの文字が皮膚に焼き付いてしまったのだ。「母は被爆者救済活動を通じて、戦争は悪であり、暴力の伴わない平和的な手段で問題を解決することが必要だと確信したのでしょう。その実現に生涯を費やしました」と、ルーサンさんは語る。父親のジュンクスさんも強制収容の体験者だ。多くの2世たちが当時の悲惨な経験を語りたがらない中、ルーサンさんの両親は声を上げた。人種差別や外国人を嫌悪する風潮が収容所送りへとつながったことから、正義や公正さについて公の場で話し合うことの大切さを実感していたからだ。

シアトル市教育委員会が人種隔離制度を撤廃した頃、教師だったアキさんは主に黒人やアジア人の生徒しかいなかった公立校から白人の多い学校へと移った。白人の保護者の中には外国人への嫌悪をあらわにする人もいて、担任がアキさんになるとクラス替えを要求する親もいた。それでもアキさんは怒りを抑え、生徒たちに平和や正義、自然科学、環境保護、さらに多様な文化を尊重する重要性について教え続けた。こうして、当初は反感を持っていた保護者たちも、いつしかアキさんの味方になっていった。

BLM運動とかつての公民権運動

当時の公民権運動と現在の動きが極めて似ている点は、この国の建国の理念を守るために、非白人の若いリーダーたちが大衆を動かして国の責任を問おうとしているところだとルーサンさんは言う。抗議活動と非服従を通して変革を要求する姿勢は、当時と変わらない。「公民権運動の象徴的な存在、ジョン・ルイスはそのような行為を『善い問題であり、必要な問題でもある』と言いました。私はBLM運動に希望を感じます。私たちの未来は、あらゆる人の尊厳が守られる世界に向かって声を上げて突き進む若い人たちにかかっているからです」

ジョン・ルイス氏とルーサンさん

ルーサンさんが初めて学生運動に関わったのは高校在学中のこと。当時はブラックパワー運動、人種に起因する教育格差の是正、アジア・太平洋諸島系アメリカ人の地位向上、さらに反戦運動などの活動が盛んで、平和と人種間の平等を第一に掲げた両親の影響を強く受けたルーサンさんは、他の多くのリーダーの活動に心を動かされた。自分たちのコミュニティー、そしてこの国をより良くするための取り組みに終わりはない、と活動家の誰もが感じていた。ワシントン大学に進学したルーサンさんは、人種差別や貧困問題の改善、ベトナム反戦を掲げた運動に傾倒していく。米軍のカンボジア侵攻に抗議するために高速道路を行進したり、アメリカ先住民の狩猟採集権の保護を訴える集会に参加したりした。中でもアンクル・ボブことボブ・サントス氏と共に、当時のキングドームの前で住民の立ち退きに反対する抗議活動を行ったことは忘れられない。これらの活動の目的はただひとつ。正義を守るため、大勢の人々に弱者の問題に気付いてもらい、社会問題に昇華させることだ。ルーサンさんは多くの会合を主催し、アジア系アメリカ人だけでなく、アフリカ系やメキシコ系、先住民の活動家たちとも交友を深めていった。

2008年、「アンクル・ボブ」サントス氏とミカさん

70年代後半、ルーサンさんはマイク・ローリー下院議員のスタッフとして働いた。ローリー議員は第二次世界大戦中の日系人強制収容について、米国政府の直接謝罪へと道を開いたひとりだ。補償運動の高まりを背景に、ついに日系人に対する人権侵害を補償する法案が提出される。法案自体は廃案となったが、当時の努力が実を結び、10年後の1988年に市民自由法として成立し、アメリカ政府は戦時中の過ちを公式に謝罪した。

「現在のBLM運動を見ていると、60年〜70年代に私たちが要求した社会の変化の必要性は増すばかりで、理想的な民主主義はいまだに実現されていないのだと実感します」と、ルーサンさん。「世の中を変えるために、危機感や緊迫感を持ってBLM運動を率いる若い黒人リーダーたちに心を動かされます。法律の世界には『正義の遅れは、正義の否定』という格言がありますが、私が若い頃参加した抗議活動では、よくこのフレーズを皆で叫びました。この格言は悲しいことに今でも事実です」

ミカ・クロセ・ロスマンさんが社会運動リーダーになるまで

アキさんから数えて3代目に当たるミカさんは、両親の影響を受けただけでなく、「アーント・ルース」ことルース・ウー氏や「アンクル・ボブ」ことボブ・サントス氏という、シアトルでは伝説的な活動家を師に持つ。両氏に見出されたミカさんは、人種の平等や社会正義を訴え続け、若い世代を率いる優れたリーダーとなった。

「私にとって祖母は、単に『アキおばあちゃん』というだけでなく、小学校で教える『クロセ先生』でもありました」と、ミカさんはアキさんについて振り返る。アキさんは孫のふたり、ミカさんと弟のモリさんをよく自分の教室に連れて行った。そこでミカさんが目にしたものは、床に描かれた大きな世界地図。「祖母は教師として、世界には多様な文化があること、そして世界中のみんながつながって、支え合って生きていることを子どもたちに教えようとしていたのでしょう。平和と非暴力を願う気持ちが、教室から広まっていくことを望んでいたのだと思います」。今でもミカさんが思い出すエピソードがある。自然を愛するアキさんは、昆虫を飼っていた。重なり合った枝に身を潜める虫は、保護色で容易に姿が見えない。それをアキさんは孫のミカさんたちに見つけてごらんと促し、そして見つかった虫を孫たちの手のひらにそっと載せた。「虫は天敵から自分の身を守るために体の色を変えて、存在を消そうとします。人間社会でもそれは同じ。声なき声であろうとも、どんな命でも大切にしなければならないと祖母は教えてくれました」

教育格差の是正、誰でも受けられる質の良い医療、人並みの生活ができるだけの賃金、適正価格の住居、こうした課題に生涯を懸けて取り組む人たちに囲まれて、ミカさんは育った。母親のルーサンさんは、幼い頃からミカさんと弟のモリさんをよく政治討論の場に連れて行った。地域の会合などに顔を出しては、人種の平等と正義、移民の人権などについて人々が討論しているのを聞く。それが幼いミカさんの日常だった。ミカさんは母親のルーサンさんの影響を受け、社会をより良い方向に変革したいという思いに突き動かされる。高校2年生の時、ミカさんは若手リーダーを育成する「ザ・サービス・ボード(tSB)」という1年間のプログラムに参加した。そこでシアトル全域から集まった仲間たちとコミュニティーにおける社会正義について討論し、プロジェクトを計画した。ホームレス・シェルターで食事を配ったり、市営公園の遊具を修理したりする経験を通じて、ミカさんは仲間と共に社会運動を行うことの意義を見出していく。

オバマ前大統領が立候補する中で行われた選挙集会に親子で参加するルーサンさんとミカさん。2007年6月、シアトルのワム・シアターにて

ニューヨーク大学に進学したミカさんは、マリア・キャントウェル上院議員のワシントンD.C.事務所でインターンの機会を得る。そしてある公聴会で、当時上院議員だったバラク・オバマ前大統領が平和外交の価値について話すのを聞いた。その言葉は平和と非暴力の原則を教え続ける祖母のアキさんと重なった。2007年にオバマ議員が大統領選への立候補を表明すると、何としても手伝いたいとミカさんは決心。早速、その夏劣勢だったアイオワ州に飛び、支持率を上げるための支援活動に没頭した。そして秋になって大学に戻ると、ミカさんはオバマ候補を応援する学生たちで支援組織を立ち上げた。初めての仕事は討論会のチケットを売ること。誰もがオバマ候補の演説を聞きたいと、チケットは飛ぶように売れた。その後、冬から春にかけ、ミカさんは仲間と共に学生寮を回って有権者登録するように呼びかけ、週末になれば予備選挙を手伝うために東海岸の州を飛び回った。民主党候補指名が確実になると、ミカさんは休学してシアトルに戻り、総選挙までオバマ陣営の選挙運動を手伝った。若い学生たちが大勢、熱心にボランティアに励んでいる姿がとても印象に残っていると言う。

2016年7月、クロセ家のミニドカ巡礼にて。左からポールさん、ケンジさん、マリエさん、ミヤさん、ミカさん、ルーサンさん

こうしたひとつひとつの経験を通じて、ミカさんは「集団の力」を実感した。さらに強制収容所での体験を祖母たちから直接聞くにつれ、法律は目的次第では悪用されることもあると学ぶ。社会を変革していくうえで、どのような「武器」を身に着けるべきかを考えていくうちに、自然と弁護士を志すようになった。さらに法律問題を扱う大統領上級顧問室に職を得て、多くの弁護士と共に働いたミカさんは、法律家であれば連邦政府の権限を利用して真の平等と正義を実現できることを知る。世の中を変革するには個人が集団となって声を上げ、古い制度を撤廃し、正義と平等の価値観に基づいた新しい制度を構築しなければならない。そう確信したミカさんは、ワシントン大学法科大学院に進み、現在は公民権問題を専門とする弁護士として活躍している。

社会正義を若い世代はどう考えるのか

現在、新型コロナウイルスが蔓延し、人々が貧困や人種差別に苦しみ、地球環境も危機に瀕している中で希望を見出すことは難しいとミカさんは言う。しかし、社会を変えるために人々が一致団結すれば、その力は無視できないほど大きくなるとも訴える。「私の家族は3代にわたって市民ひとりひとりの力の重要性を唱えてきました。誰もが世の中を変える原動力になれるのです」

ミカさんはまた「今起きていることを見ると、人種差別はこの国の制度に深く根差していることがわかります」と続ける。「BLM運動に参加する若者たちは、警官による残虐行為や非白人の有罪率が高いことなど、どうしたら制度的な問題を解決できるのかを話し合おうとしています。警察への予算を減らし、その分をこれまで虐げられてきた人たちに回して治安を回復させる。司法制度の改革により定員を超過している収監人数を減らし、代わりに社会の一員として迎える。そのための抗議行動は、有色人種たちの受けてきた被害を修復し、アメリカ社会の全員に真に機能する制度を築くことにつながると信じています」