Loading...  0%

Author: シュレーゲル 京 希伊子

翻訳家・通訳・ライター。東京都出身。1992年より2年間、在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部および米国大使館政治部にて、外交政策の調査・立案やスピーチ原稿の執筆を担当した。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学ゼロエミッションフォーラム事務局長補佐を経て、フリーに転身。2014年より再びシアトルに拠点を移し、バイリンガルの一人娘を育てながら、ITマーケティングを中心に幅広い分野で翻訳・通訳業務を手がける。2024年以降は、ドラマや映画などの映像翻訳(日⇔英)にも活動の幅を広げている。主な共訳書に、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』、『マクドナルド 7つの成功原則』、『よい環境規制は企業を強くする―ポーター教授の仮説を検証する―』などがある。高校時代にAFS交換留学生としてマサチューセッツ州で1年間ホームステイを経験。ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダでの居住経験もあり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、旅行、芸術鑑賞、読書、料理。TOEIC975点、英語検定1級、漢字検定2級、環境社会(eco)検定。

第4回 「訳せない言葉」を訳した明治の日本人〜通訳・翻訳の現場から見えるアメリカ文化

現役の通訳・翻訳家が、日々の現場で感じる日米の文化の違いや最新の翻訳事情など、英語を通して見えてくる「ちょっとした気づき」を紹介するコラムです。

第4回「訳せない言葉」を訳した明治の日本人

翻訳や通訳の仕事をしていると、「これは何と訳したらいいのだろう」と固まってしまう言葉があります。どう訳しても、その言葉が持つニュアンスまで伝えきれない。そんな言葉は、日本語にも英語にもありますよね。

例えば、「木漏れ日」。木々の葉の間から差し込む光を表すこの言葉は、英語には一語でぴったりと対応する言葉はありません。sunlight filtering through the trees と訳してみても、どこか説明調で、「木漏れ日」という一言から日本人が思い浮かべる、あの柔らかな光や静かな空気まで伝えることができないのです。

同じように、「しんしんと雪が降る」も訳しづらい表現です。「しんしん」は雪が降る音ではなく、雪に包まれ、辺りの音まで吸い込まれていくような静けさを表しています。これを Snow falls silently. と訳しても、日本語で表す情景とはちょっと違いますね。

もちろん、英語にも日本語で直訳できない単語はたくさんあります。最近、特に気になる言葉は、journey。日本人は文字通り「旅」をイメージするでしょうが、これはビジネスシーンでもよく使われる言葉です。

例えば、Start your AI journey today. のようなフレーズを見たことがありませんか。これは、「今日からAI活用を始めましょう」「今日からAIを活用した働き方を始めてみませんか」「今日からAI活用への第一歩を踏み出しましょう」のように訳すことができます。いずれにしても、本来の「旅」という意味ではなく、近年は「継続的な取り組みや成長のプロセス」を表す概念として使われることが多いですね。

resilience や well-being に至っては、使われ始めた頃こそ、それぞれ「回復力」や「幸福」「健康」のように訳されていましたが、今では「レジリエンス」「ウェルビーイング」というカタカナがすっかり定着しました。いろいろな訳語を当ててみても、どうしても元の言葉が持つニュアンスを取りこぼしてしまうからです。

そう考えると、明治の先人たちが生み出した訳語には、改めて感服させられます。「哲学 (philosophy)」「文明 (civilization)」「情報 (information)」「概念 (concept)」——。これらは、西洋の思想や文化を取り入れる中で、新たに生み出された日本語です。単に表面的な訳語を当てたのではなく、その概念を深く理解し、日本人の感覚になじむ言葉として定着させました。こうして百年以上経った今でも、違和感なく使われ続けています。私たちは、「哲学」や「文明」を、もともと翻訳によって生まれた言葉だと意識することさえありません。

AIやデジタル技術の進歩によって、今また新しい英語が次々と日本に入ってきています。翻訳者としては、「カタカナで済ませたくない。なんとか日本語にしたい」と思うものです。そんな時、明治の知識人たちなら journey や resilience をどんな日本語に訳しただろう、と想像するのも楽しいものです。

福原 たまねぎさん〜IT企業米国本社シニア・プロダクト・マネージャー

 

福原 たまねぎさん
〜IT企業米国本社シニア・プロダクト・
マネージャー〜

徹底した成果主義で知られる米国IT企業の本社で働きながら、定時退社は当たり前。週末はしっかり休み、長期休暇には旅行三昧。そんな理想的な生活を送る福原さんも、20代の頃は昭和型の「モーレツサラリーマン」でした。日本でごく普通の大学生だった福原さんは、どのようにして「成果と休みを両立させる働き方」にたどり着いたのでしょうか。その道のりと心の変化について、余すところなく語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

福原たまねぎ■横浜市出身。父親の転勤に伴い、幼少期をニューヨークとシドニーで過ごす。小学3年で帰国後、地元の公立小学校から私立中学校へ進学。早稲田大学法学部在学中にインドとベトナムでインターンを経験し、新卒でベンチャー企業に入社する。3年半勤務した後、2016年に米国IT企業の日本支社へ転職。2022年4月、シアトル本社へ転籍し、現在はシニア・プロダクト・マネージャーを務める。「福原たまねぎ」のペンネームでコラムも執筆。note創作大賞2025に入選し、5月には初の著書『世界の一流が休むためにやっていること』を出版した。

上昇志向と劣等感の狭間でもがいた少年時代

誰もが知るグローバルIT企業の米国本社で、シニア・プロダクト・マネージャーとして働く福原さん。平日は朝早くからシアトル・ダウンタウンのオフィスで仕事に没頭し、午後4時になるときっちり退社する。そこから先は、自分だけの自由な時間。平日の夜と週末は完全オフだ。「周りの同僚も、みんな4時頃には帰っていきます。それがアメリカに来て、一番驚いたことでした」。そう福原さんは語る。

福原さんは幼少期をニューヨークとシドニーで過ごした帰国子女だ。だが、英語は話せなかった。そのコンプレックスが、長いあいだ福原少年の心に影を落とす。1歳だったニューヨーク時代の記憶はないが、3歳で渡ったシドニーの記憶は鮮明に残っている。4歳上の兄はすぐに溶け込み、オーストラリア人に交じって楽しく遊んでいたのに対し、「僕は、全くなじめませんでした」と福原さんは振り返る。現地の幼稚園に入ったものの、「肌や髪の毛の色が自分だけ違う」。世界が分断されたような疎外感を覚えた。やがて中国系と思われる子どもたち数人と別室で授業を受けるようになる。1990年代前半のオーストラリアには、まだ白豪主義的な空気が若干残っていたのかもしれない。それを敏感に感じ取った福原さんは「現地校はイヤだ」と言い出し、日本人学校へと転校。どっぷり日本式の教育を受けることになった。「せっかく海外に来てまで、なんで……」と葛藤する両親の姿を、福原さんは今でも覚えている。証券会社に勤める父親は、16歳でアメリカに留学するほど、海外への憧れが強い人だった。「英語ネイティブになれる機会をみすみす逃すなんて」。そう思うのは致し方なかったのかもしれない。

オーストラリアの小学校で撮影されたクラス写真。2列目右端が福原さん

10歳の頃、親戚宅にて。理由は覚えていないが、なぜかマリナーズのユニフォーム姿

小学3年で横浜に戻ってからは、水を得た魚のように楽しい子ども時代を送った。だが、「帰国子女なのに英語しゃべれないの?」という同級生たちの一言が、その後も長く心に引っかかった。そしてこの時期、もう一つ重要なターニングポイントが訪れる。自分の意思で中学受験を決めたのだ。大半のクラスメートが公立中学に進むなか、「このまま地元の公立に行けば、いじめられるな」となんとなく感じた福原さん。12歳にして「腕力の強いヤツに勝てる気がしない」と悟ったが、それと同時に、「自分はもっとすごい人、頭のいい人と一緒にいたい」という上昇志向がムクムクと膨らみ始めていた。こうして自分の意思で塾通いを始め、私立中学校・高等学校に進み、早稲田大学へと順調に人生の駒を進めた。

幼い頃から釣りが大好きだった。大人になった今も、休日は釣りを楽しんでいる

就活に迷走した果てに、インドとベトナムで見えた未来図

「世の中を統治するガバナンスの仕組みを体系的に学んでみたかった」という理由で法学部を志望したものの、「授業は全く面白くなかったです」と苦笑する。ところが、3年生になって国際法ゼミに入ると、周囲はバックパッカーや留学・海外インターン経験者だらけ。しかも、中にはろくに英語が話せない学生もいる。福原さんの中で、何かがはじけた。「コイツが一人で10カ国も回れるなら、僕だってできないわけがない」。そう思い立った福原さんは、インド北部の都市チャンディーガルでインターンをする手はずを整えた。

派遣先は、視覚障害のある子どもたちを支援するNPO。得意なギターを弾き、英語の歌を歌って文字を教える。活動内容は単調だったが、世界各国から集まるインターンたちとの共同生活が楽しかった。職場はそれぞれ違ったものの、2カ月間寝食を共にし、週末になるとバス旅行に出かける。「これ、おいしいね」。そんな何気ない会話が通じるだけで、心が通い合った気がした。ギャップイヤー制度があるドイツからは、すでに社会人となった若者が実務経験を求めてやってくる。「帰ったら徴兵されるんだ」と話すのは韓国人。同じ世代でもこんなに違うのだと思った。

「矛盾するようですが、国際的なことにはずっと憧れがありました」。幼少期から抱えていた外国人コンプレックスをすっかり払拭した福原さんは、帰国後、海外出張や海外赴任のある企業に絞って就職活動をした。しかし、結果は全滅。「全く合いませんでした。浅はかな動機を見破られていたんでしょう」。高圧的な面接官の態度にも強い違和感を覚えたし、急にごまをすり始めた周りの学生にも悲しさを感じてしまった。周囲が次々と一流企業から内定を得ていく一方で、福原さんは「自分はレールから外れてしまった」と焦りを募らせた。孤独とプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、「逆に、自分の人生は自分で切り開く覚悟ができました」と当時を振り返る。

就職活動をきっぱり諦めた福原さんは、再び海外インターンに挑む。半年間休学して渡った先はベトナム。それが「テック業界」との出合いだった。派遣先のスタートアップ企業では、若いベトナム人エンジニアたちが、日本で人気の天気予報アプリを開発していた。「日本で多くの人が使っているアプリが、こんな遠いところで、しかも自分と同世代の人たちによって作られていたんだ」。その事実に衝撃を受けると同時に、福原さんは「テクノロジーは、モノさえよければ年齢も国境も飛び越える」ことに気が付いた。そして持ち前の上昇志向から、「いつかテックの本場アメリカで働きたい」と心に決めた。

帰国後、福原さんはきついことで有名だった渋谷のベンチャー企業に新卒で入社する。創業者は業界でも知られたカリスマ経営者で、その尖った姿に福原さんは強く引かれた。文系出身だった福原さんが任されたのは、子会社COOのアシスタント業務。早朝から深夜まで、身を粉にして働く生活がおよそ2年間続く。その後、部署移動を経て、要件定義、進捗管理、効果測定、レポーティング……。開発に必要な業務は一通り経験した。「とにかく鍛えられました」。その努力は、やがて大きく実を結ぶこととなる。

「いつかテックの本場で働きたい」という思いは日に日に強まり、福原さんは次のステップとして、米国IT企業の日本支社へ転職する。高い競争率を突破してつかんだチャンスだった。今でこそ巨大企業となったその会社も、当時はまだベンチャー的な社風を残していた。「面接官もベンチャー出身だったんです。だから僕を採用してくれたんじゃないでしょうか」。ベンチャーでは、業務が細分化された大企業とは違い、自ら考え、実行するのが当たり前。そうした経験が大きな武器になった。

新しい職場でも福原さんは馬車馬のように働いた。だが5年が過ぎた頃、日本支社で働くことへの限界を感じ始める。「やっぱり米国本社で働きたい」。その思いに突き動かされ、福原さんは社内のあらゆるツテを駆使してチャンスを探った。

アメリカ人の友人と東海岸へ。米国IT企業の日本支社への転職が決まった頃(2016年撮影)

「仕事」と「自分」を同一視しない働き方へ

米国本社への移籍を本格的に意識し始めてから約1年後。福原さんはついに、本社行きのチケットを手にシアトルへ渡った。そこで衝撃を受けたのは、「誰も残業しない」カルチャーだった。「世界中で使われているプロダクトやサービスを開発しているのに、働く時間は日本支社の半分程度なんですよ」。それにもかかわらず、米国本社チームの方が日本支社チームよりはるかに高い成果を出している現実があった。「明らかに一人一人の働き方が違う」。そのことに感銘を受けた福原さんは、周囲の働き方を徹底的に観察し、研究を重ねた。そしてたどり着いた答えが、「たかが仕事」というメンタルだった。

「日本もだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ『ハードワーキングカルチャー』ですよね。『やりがいの追求』と言えば聞こえはいいけれど、仕事にすべてを求めすぎなのかもしれません」。日本の多くの職場では、上司からの圧力や同僚へのライバル意識など、さまざまな制約のなかで山のようなタスクをこなし、それらを完了して初めて「自分の時間」になる。ところが、アメリカでは順番が逆だ。まず仕事の時間と夕方以降のプライベートの時間を明確に「ブロック」する。そして、その限られた時間の中で成果を出すことに集中するのだ。

ニューヨークの名門ジャズクラブ「ビレッジ・バンガード」の前で。米国移住後、コロナ禍の収束を機に全米各地を旅するようになった(2024年撮影)

福原さんが勤めるオフィスは、金曜午後3時ともなると、もぬけの殻だ。「金曜の午後に会議を設定しようものなら、大ヒンシュクです」と真顔で話す福原さん。「みんな、自分の時間を大切にしているんです。家族がいる人だけでなく、シングルの人も『自分の心を守るために』パーソナルスペースを大事にしています」。平日は全力で働き、週末は時間を忘れて仕事以外の何かに没頭する。それが「月曜日を笑って迎えられる」秘訣だったのだ。

アメリカでは日本と比べ、仕事とプライベートの線引きがはっきりしている。福原さん自身、ベンチャー時代には体を壊して休職に追い込まれた人を何人も見てきた。人によってキャパシティーは違う。誰もが創業者のような働き方をできるわけではない。

「自分の人生なのだから、自分に決定権があることが大事なんです」。当たり前のように聞こえるが、これを本当に実践できている人がどれほどいるだろうか。知らず知らずのうちに、仕事に人生を支配されていないだろうか。「僕自身、ずっと長時間労働で帳尻を合わせてきました。だからこそ、『働き方は変えられる』ということを伝えたいんです」そんな福原さんは、「福原たまねぎ」のペンネームでコラムを執筆している。その出発点はコロナ禍のシアトル生活だった。2022年、単身でシアトルに渡ったものの、コロナ禍の影響で出社は制限され、「日本語がたまっていく感覚」があったという。

そして再び、あの「上昇志向」が顔を出す。「中学受験を決めた時と同じで、やるからには一番上を目指したいと思いました」。「文章を書くからには、本にしたい」と目標を定め、戦略的に発信を続けた。noteでの発信が出版社の編集者の目に留まり、今年5月、初の著書『世界の一流が休むためにやっていること』が出版された。その前年には、note創作大賞2025のビジネス部門にも入選している。

30代半ばにして、次々と夢を叶えてきた福原さんだが、今後の目標や夢はあるのだろうか。「変化のスピードが速いテック業界ですから、5年後のことなんて誰もわかりません。僕だって、いつレイオフされるかわからないですし」。淡々と語るその口調に、気負いや悲壮感はまるでない。一方で、「いずれはまたスタートアップに戻りたい」という気持ちもあるという。

競争の激しいテック業界を、ひょうひょうと、しなやかに渡り歩く福原さん。10年後、どんな仕事をしているかはわからない。だがきっと、その時も「上昇志向」を失わず、自分の意思で人生の選択をしながら、しっかり働き、しっかり休んでいるのだろう。そしてその頃には、「当たり前のように休める」という価値観が、今より少し社会に浸透しているのかもしれない。

インターン先のインドとベトナムで開眼した福原さん。当時の写真は残っていないため、元イラストレーターの友人が福原さんの記憶をもとに描いたイラスト https://note.com/fukuharatamanegi/n/n12439b07ba96

『世界の一流が休むためにやっていること』
福原たまねぎ著/朝日新聞出版 定価1,760円(税込)

世界の第一線で働く仲間たちから学んだ「働き方」と「休み方」の本質をまとめた実践的ビジネス書。仕事に支配されず、自分の人生を取り戻すためのヒントが詰まっている。

詳細:https://note.com/fukuharatamanegi/n/n1fe7d1430364


 

第3回 英語にも敬語はある?〜通訳・翻訳の現場から見えるアメリカ文化

現役の通訳・翻訳家が、日々の現場で感じる日米の文化の違いや最新の翻訳事情など、英語を通して見えてくる「ちょっとした気づき」を紹介するコラムです。

第3回 英語にも敬語はある?

「日本語と違って敬語がない」と言われる英語ですが、実際には英語にも丁寧さや敬意を表す表現が存在します。

日本語では敬語ははっきりと体系化されており、主に次の3つに分けられます。

日本語の敬語は大きく3つ  
尊敬語:相手の行為を高める(行く → いらっしゃる)  
謙譲語:自分の行為をへりくだって表す(行く → 参る・伺う)  
丁寧語:文全体を丁寧にする (行く→行きます

敬語を使ううえで重要なのは、相手との距離や上下関係、場面です。誰に対して話しているのかによって表現が大きく変わります。

ところが英語では、日本語のように相手によって二人称の代名詞を変えることはありません。相手が先生でも上司でも親でも友人でも、さらには赤ちゃんであっても、基本的にはすべて “you” で表されます。(余談ですが、筆者は先日、時代劇の英語字幕に携わりました。「そなた、名は何と申す?」「拙者は〇〇と申す」といった古風な日本語も、英語にしてしまえば “What’s your name?” “I’m XXX.” となります。)

ここで、“Did you eat breakfast?”という文を例に挙げてみましょう。日本語では相手との関係性によって言い方が変わるため、次のようなバリエーションが生まれます。

日本語は敬語で関係性を示す  
カジュアル:朝ごはん、食べた?  
丁寧:朝ごはん、食べましたか?  
敬語:朝食を召し上がりましたか?

では英語はどうかというと、文の形を変えることで丁寧さや距離感を調整します。例えば「窓を開けてほしい」場面では、次のような違いが生まれます。

英語は構文で距離感を示す  
軽い命令:Open the window.  
丁寧な依頼:Could you open the window?  
より控えめな依頼:Would you mind opening the window?  

このように、英語には日本語のような体系化された「敬語」はありませんが、文の構造や語彙、言い回しによって、相手への敬意や距離感を細かく表現できます。つまり、英語に敬語が「ない」のではなく「異なる形で存在している」と言えるでしょう。こうした違いを意識して使い分けられるようになれば、立派な英語上級者ですね。

YOSHIKI〜究極の美学を追求――その生きざまを見てほしい〜スペシャルインタビュー

究極の美学を追求――その生きざまを見てほしい
YOSHIKI

取材・文:シュレーゲル 京 希伊子

美しいものを愛するYOSHIKIさんは、「美の追求」に人生を捧げています。90年代にロサンゼルスへ拠点を移し、数々の困難を乗り越えながら、音楽の枠を超えた表現を追い求めてきました。これまでの歩みを振り返る中で、「夢」という言葉を何度も口にするYOSHIKIさん。その胸に秘めた、これから成し遂げたいこととは——。7月に控えたロサンゼルス公演に向けた思いや、音楽への覚悟を語ってもらいました。

Photo Courtesy of YOSHIKI

YOSHIKI詞家、作曲家。X JAPANのリーダーとして、ピアノとドラムを担当。米ロックの殿堂マディソン・スクエア・ガーデンでの公演や、米クラシックの殿堂カーネギーホールでの単独公演など、数々の偉業を成し遂げてきた。着物ブランドやハイファッションブランドの立ち上げに加え、映画監督も務めるなど、その活動は多岐にわたる。2023年には日本人として初めて、米ハリウッドのTCLチャイニーズ・シアターで自身の手形・足形を刻印。慈善活動や文化発信にも尽力している。
Photo Courtesy of YOSHIKI

演出に合わせて自在に色を変えるクリスタルピアノ。世界に数台しか存在しない

—7月16(木)、17日(金)にウォルト・ディズニー・コンサートホールで開催されるロサンゼルス公演のテーマを教えてください。

クラシック音楽のスタイルではあるのですが、かなり奇抜な演出を考えています。アートの世界観を表現したいと思っていて、普通のクラシックコンサートとは大きく違う、派手なコンサートになる予定です。実は、ピアノだけでなくドラムも披露します。

—Yoshiki Classicalのワールドツアーという位置づけになるのでしょうか?

これまで多くの海外公演をしてきましたが、今までが「序章」だとしたら、ここから「第一章」が始まる。そういう意味でのワールドツアーになります。自分の故郷である日本からスタートし、ロサンゼルス、パリと、ゆかりの深い場所を巡ります。

ロサンゼルスで暮らして30年以上になるそうですね。アメリカでの生活はいかがですか?

ロサンゼルスは、音楽をはじめとするエンターテインメント業界で「世界の中心地」だと思っています。だからこそ、この地を選びました。もちろん、日本に戻りたくなることはこれまでに何百回もありましたが、「何かを成し遂げるまでは帰れない」。そんな気持ちで30年を過ごしてきました。今でも少しずつ階段を上っている途中です。

Photo Courtesy of YOSHIKI

YOSHIKIさんの美の結晶、クリスタルドラム

—YOSHIKIさんほどの方でも「まだ何も成し遂げていない」とおっしゃるのは大変驚きです。それは「まだまだやりたいことがある」という気持ちの表れなのでしょうか?

僕は総合的に芸術が好きなんですね。ファッションはもちろん、ワインをプロデュースしたりと、「美」というものに強くひかれています。そこに人生を捧げていますが、まだそれを追求しきれていません。もちろん僕は音楽家なので、作曲もしますし、そうした自分を含めて、「究極の美学」を追求する過程を皆さんに見ていただくことで、少しでも勇気を与えられたらと思っています。

—さまざまなことに挑戦し、成功を収めているYOSHIKIさんですが、もし生まれ変わったら、どんな人生を歩んでみたいですか?

僕がこれまで歩んできた人生は、正直、もう一度歩みたいとは思いません。素敵なファンの方々に恵まれ、感謝の気持ちは大きいのですが、それと同じくらいつらいことが多くあった人生だったので……。いや、過去形ではなく、現在進行形ですね。本当にもう、壊れそうになった瞬間というのは何百回、何千回とありました。同じ人生が待っているかと思うと、さすがにつらすぎて……。それでも、そういう人生だからこそ、自分にしか作れない音楽を生み出すことができたんじゃないかな、と前向きに捉えるようにしています。

Photo Courtesy of YOSHIKI

3月29日、鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GP決勝前セレモニーにて。深紅の衣装をまとったYOSHIKIさんが、13万人の観客を前に独自にアレンジした「君が代」を披露。ピアノの繊細さと、ドラムとエレキギターによる高揚感。荘厳さと沸き上がるエネルギーが見事に融合した唯一無二の「君が代」は、新たな歴史を刻んだ

YOSHIKIさんの背負っているものがあまりにも大きくて……画面越しにも伝わってきます。

「神様は乗り越えられない試練は与えない」と自分でも言い聞かせています。

そうですね、もし次に生まれ変わることがあれば、芸術とボランティアをやってみたいですね。僕はチャリティー活動もかなり長い間やっていますが、「人が救われる」ところに自分の生きている意味を感じます。でもやっぱり、来世でも音楽をやっているのかな。子どもの頃から音楽が大好きで、物心ついたときから、ずっと音楽に囲まれて生きてきましたから。

—音楽について伺います。ピアノとドラムでは表現できるものが違うと思いますが、どのように使い分けているのでしょうか?

人にはいろいろな感情がありますよね。悲しかったり、楽しかったり、怒りが込み上げてきたり。僕の場合、ピアノでは悲しみや孤独感を、ドラムでは苦しみや怒りを表現する、といったように、自分の感情の表現方法として楽器を使い分けています。実はトランペットもやるし、ギターも弾くんですが、その中でもピアノとドラムをメインで演奏しています。

Photo Courtesy of YOSHIKI

自身がプロデュースするワイン「Y by YOSHIKI」のボトルデザインを、日本を代表する現代アーティスト、奈良美智さんが手掛けた。2人は奇しくも、米TIME誌『世界で最も影響力のある100人』(2025年)に同時選出されている

—YOSHIKIさんと言えば、クリスタルピアノですね。YOSHIKIモデルは、どのような経緯で誕生したのでしょうか?

僕は透き通ったものが好きというか、心もそうですが、ピュアなものが好きなんです。それと、ステージでの演出を考えると、クリスタルピアノは照明に応じて色を変えることができるので、好んで使っていく中で、僕のモデルが誕生しました。ドラムもクリスタルドラムを使っています。

—YOSHIKIさんにとって音楽は人生そのもの。3度の頸椎手術を経て、再びステージに立つ今の覚悟とは?

自分では、この身を捧げるつもりで演奏しています。何年にもわたって激しいドラミングをしてきましたし、ピアノも同じです。それはもう、ある意味で仕方がない。今後、4回目、5回目の手術があったとしても構わない。そういう覚悟で演奏しています。

最後に、アメリカ北西部で暮らす日本人、特に若い人たちへのメッセージをお願いします。

海外で暮らすというのは、大変なことも多いと思います。でも、海外に行きたくても行かれない方たちもたくさんいると思うんです。そういう人たちの分まで、夢を背負っているんじゃないかな。

僕が渡米した30年前は、日本人が海外で活躍するなんて想像することすら難しい時代でした。自分たちが頑張ることによって、日本にいる人たちを勇気づけることができる。皆さんもそう思って、頑張ってほしいと思います。

—「夢を背負う」。素敵な言葉ですね。やはり、夢を持ち続けることは生きるうえで大切ですよね。

自分の人生をどんなレンズで見るか、だと思うんです。暗いレンズで見てしまうと、すべての出来事がネガティブに感じられてしまう。僕は、意識的に努力をしながら、どんなことでも前向きに捉えようと心がけています。僕のレンズは、夢で満ちあふれているようなレンズです。皆さんもそんなレンズで人生を見てみると、きっと希望や夢が見えてくるんじゃないかなと思います。

ぜひロサンゼルスでお会いしましょう。

YOSHIKIロサンゼルス公演、チケット発売中!

4月の東京公演に続き、YOSHIKI CLASSICAL第2弾コンサートがこの夏、ロサンゼルスで開催される。題して「Scarlet Night」「Violet Night」。2日間にわたる公演は、それぞれ違うセットリストで構成される。2024年に頸椎手術を受けたのち、長期のリハビリを経て、アメリカでの本格的な復帰を飾る公演となる。

日程:
7月16日(木)、17日(金)8pm~
場所:Walt Disney Concert Hall
   111 S. Grand Ave., Los Angeles, CA 90012
料金:$44.50~$199
チケット・詳細:www.yoshiki.net/disneyhall2026

第2回 車のステッカーに垣間見えるアメリカ人らしさ〜通訳・翻訳の現場から見えるアメリカ文化

現役の通訳・翻訳家が、日々の現場で感じる日米の文化の違いや最新の翻訳事情など、英語を通して見えてくる「ちょっとした気づき」を紹介するコラムです。

第2回 車のステッカーに垣間見えるアメリカ人らしさ

アメリカで生活していると車の運転は欠かせません。長い信号待ちや渋滞でのノロノロ運転は日常茶飯事 ですが、そんな時、皆さんはどうやって時間をつぶしますか。筆者は、退屈しのぎに車に貼られたステッカーを 観察するのがひそかな楽しみです。日本では見られないような個性豊かなメッセージが並び、ちょっとした大 喜利のようです。  

Biden / Harrisのような大統領・副大統領候補の組み合わせは、選挙期間中によく見かけますね。でも何 といっても定番は、Baby on Board(赤ちゃんが乗っています)でしょう。周囲のドライバーに「赤ちゃんが乗っ ているので、特に気を付けて運転してくださいね」と知らせるサインですが、筆者は先日、こんなステッカーを見 て吹き出しました。  

Adults on Board. We want to live too!( 大人が乗っています。大人だって生きたい!)

「そりゃあ、そうだ」と心の中で大笑いしてしまいました。  

ところで、筆者が今まで見たステッカーの中で、一番秀逸だと思ったのは、テスラに貼られていたこの一枚です。  

Make Earth Great Again( 地球を再び偉大に)  
Send Elon to Mars( イーロンを火星に送れ)

これは言うまでもなく、トランプ大統領の掲げる標語MAGA(Make America Great Again)をもじったも のです。筆者は思わず「うまい! 座布団10枚!」とうなってしまいました。  

ご存知のとおり、テスラのCEOであるイーロン・マスク氏は一時期、トランプ大統領の右腕として政権周辺で 辣らつわん腕を振るいましたが、その時の言動は大きな波紋を呼ぶことに……。特にテスラのオーナーたちの反応は 敏感で、I got this before Elon went crazy.(イーロンがおかしくなる前に、私はこの車を買った)といっ たステッカーを貼る人があちこちに現れました。Anti Elon Tesla Clubというのもよく見かけましたね。  

アメリカ人とはつくづく、自分の意見を表明せずにはいられないのだな、と改めて感心しました。普段は他人 の目をあまり気にしないといわれますが、この時ばかりは、テスラに乗っているのが恥ずかしいと思ったのか、あ るいは一種の「ステータス」だったテスラのイメージが急落したことへの怒りや悔しさからなのか、「テスラには 乗るけれど、マスク氏のことは支持しない」との意思表示が広がりました。  

ちなみに、なぜ「火星」なのかというと、宇宙開発企業スペースXの創業者でもあるマスク氏が、人類の火星 移住計画を真剣に進めていることにかけたものです。実にユーモアが利いています。  

余談ですが、このテスラ用ステッカーをネット販売した男性は、1カ月で10万ドルを超える売り上げを記録 したとか。それもまた、実にアメリカらしい話です。

新連載! 通訳・翻訳の現場から見えるアメリカ文化 第1回

現役の通訳・翻訳家が、日々の現場で感じる日米の文化の違いや最新の翻訳事情など、英語を通して見えてくる「ちょっとした気づき」を紹介するコラムです。

第1回 Sorryの代わりに〇〇を使うアメリカ人

「アメリカ人は謝らない」とよくいわれていますが、本当でしょうか。おおむね正しい、というのが筆者の見解です。だからといって、詫びる気持ちがないわけではありません。表現の仕方が異なるのです。次の文章を見てください。これは、筆者が米系大手航空会社に苦情を申し立てた際に受け取ったメールの冒頭部分です。最初に英語の自動返信メールが届き、その後、日本のカスタマーサポートから連絡がありました。

Hello,Your Comment/Complaint case number is XXXXXXXX. Thank you for taking the time to write to us. As a valued customer, your feedback is important. We do read every submission and while some may take longer to review, we typically will respond within 14 days.

照会番号XXXXXXXXこの度は、過日6月21日、弊社XXX便の遅延にてXXXXX様ご一行様へご迷惑をお掛けしましたことお詫び申し上げます。また、現在Eメールでのお問い合わせが大変混み合っているため弊社からの返信が遅くなり申し訳ございません。

英語版はいきなりThank youから始まりますね。苦情を送って「ありがとう」と言われるのは、日本人の感覚だと違和感ありありです。「ここはお詫びの一言がほしい!」と感じるのが正直なところではないでしょうか。ところが、アメリカ人は実によくThank youを使います。ほぼどんな場面でも耳にしますよね。日本語の「すみません」に相当するといってもいいでしょう。 

例えば、誰かを待たせてしまった場合。日本人であれば、第一声は「待たせてすみません」ですが、アメリカ人で「I’m sorry that I kept you waiting.」と言う人は少ないと思います。ほとんどの人が「Thank you for waiting.」と言うのではないでしょうか。 

その背景には、言われる側にも「謝られるほどのことではない」という気持ちがあるのでは、と筆者は感じています。Sorryという語には強い同情や申し訳なさが含まれるため、言われた方は「そんなに同情されなくても……」という心理が働くのかもしれません。Sorryを違和感なく使える場面は、誰かの死や病気、けがなど、明らかに不幸な状況や、悪いことをして親に叱られた子どもが謝る時など、比較的限られています。それ以外の場面では、「ありがとう」と言われた方が、「ちょっといいことをしたな」と無意識に感じられ、アメリカ人にとってはうれしい響きなのだと思います。 

筆者も通訳の現場で、日本人が「Sorry, sorry」と連発するのをよく耳にしますが、それが時に「卑屈」に聞こえることも。知らず知らずのうちに、ある種の上下関係が生まれてしまうのです。日本人の感覚では、「えっ、この場面で『ありがとう?』」と思うようなときでも、アメリカ人相手には臆することなく、にっこり笑って「Thank you」と言ってみましょう。嫌な顔をされることは、きっとないはずです。

田形 ふみさん〜声楽家・ボイストレーナー・合唱指導者

声楽家・ボイストレーナー・合唱指導者
田形ふみさん

4世代さかのぼっても音楽家、という家に生まれた田形さんは、幼少期から声楽に親しみ、現在はソリストのみならず合唱指導者としても活躍しています。優しい笑顔が印象的な田形さんに、自身の声楽家人生を振り返ってもらうと共に、日本歌曲の魅力や異国の地で歌うことの意義について語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

田形ふみ■神奈川県出身。音楽一家に生まれ、幼い頃から声楽や楽器を習い始める。東京藝術大学声楽科を卒業後、1999年にワシントン大学大学院に留学し、カルメン・ペルトン教授に師事。2011年の東日本大震災を機に立ち上げた復興支援音楽グループ「ソングズ・オブ・ホープ」は、今年で15年目を迎える。現在はソリストとしてさまざまな舞台に立つほか、指導者として日本語の合唱団を主宰し、またイタリアの伝統的発声法「ベルカント唱法」をYouTubeでわかりやすく紹介するなど、幅広い音楽活動に精力的に取り組んでいる。
 
4代続く音楽一家に生まれて
 
音楽の道を究めるのは、並大抵のことではない。それが親や祖父母の代から続くとなると、相当に濃い「音楽家の血」が流れているに違いない。ましてや4代さかのぼっても音楽家だとしたら、どうだろう。田形さんは、母親が声楽家、祖母がピアニストというだけでなく、曾祖母が東京藝術大学の前身にあたる東京音楽学校で声楽を学んだという。「山田耕筰や瀧廉太郎が通っていた時代です。すごいですよね」と屈託なく笑う田形さん。叔母も従兄弟もプロの演奏家という、正真正銘の音楽一家で育った。母親は正統派の音楽に加えて新しいジャンルにも挑戦する人だった。当時、まだ目新しかったエレクトーンを購入。幼い田形さんは、弟と一緒に母の弾くピアノやエレクトーンの音色に合わせて歌うのが大好きだった。それが最初の「声楽」体験だった。さらに3歳から12歳までバレエも習っている。「かなり熱心に取り組みました。舞台に立った時の空間把握や立ち姿、所作などにも大きく影響しています」と振り返る。
 
マイクを持って歌う3歳の頃の田形さん。歌い出すと止まらなかった
大正生まれのハイカラさんだったピアニストの祖母、中島綾子さん。テニスや料理の腕前も上々だった
 
プロの音楽家を目指す人の多くが私立の中学や高校で専門教育を受ける中、田形さんは地元横浜の公立校に通い、外部の先生のもとで声楽を習った。そのことが後の藝大入試でちょっとした「伝説」を残すことになる。師事していた先生の出身校が国立くにたち 音楽大学だったことから、田形さんも同校声楽科を受験し合格。しかし先生から力試しにと藝大受験も勧められる。私立大学に比べ入試日程が遅い国立の藝大には、記念受験のように挑む人も多いそうだ。力試しのはずがとんとん拍子で三次選考まで進み、そこで初めて藝大の課題曲を知らないことに気づく。しかも先に国立音大の合格を決めていたため、先生はなんとイタリア旅行へ。今のようにインターネットもない時代で連絡手段はなく、頼る術のないまま試験会場へ出向いた。事情を説明すると同情した試験官たちは別室で協議を始めたものの、やはり「規定だから」ということでやむなく不合格となった。こうして最初の1年間は国立音大に通い、翌年に藝大を再受験して合格。「課題曲を歌えなかった前代未聞の受験生がいたらしい」と、藝大受験生の間でしばらく話題になったそうだ。
 
伝説の受験」の翌年に迎えた、藝大の入学式
 
晴れて藝大生となった田形さんは、幅広い経歴の仲間たちと切磋琢磨の日々を過ごす。藝大は国立大学ということもあり、自衛隊の音楽隊に所属していた元自衛官など社会人経験のある学生もいて、大いに刺激を受ける毎日だった。「声楽をやめたい」と思ったことは一度もないものの、発声に悩んだ時期はあった。「大学では『大きな声は良いこと』の風潮があり、元々軽い声のソプラノだった自分が、喉を痛めずにベストサウンドを作るにはどうすればよいのかが見えず、焦りを感じました」。しかし学外で素晴らしい声楽教師に出会い、新たな呼吸法を学んだりしたことで、自身の求めるべき方向性をつかむことができた。
 
藝大オペラハイライト「ラ・ボエーム」でムゼッタ役を演じる田形さん
 
被災地支援を通じて
声楽家から合唱指導者へ
 
田形さんは1998年、ワシントン大学大学院で声楽を学ぶためシアトルに渡った。「なぜ音楽大学ではないワシントン大学に?」と不思議がられたが、「そこが日本とアメリカの違うところです」と田形さんは言う。アメリカは日本ほど学閥の縛りが厳しくない。「アメリカの方が日本よりも個人主義なのでしょうね。優秀な指導者が一般大学に突然赴任してくることが時々あるんですよ」。田形さんが師事した高名なソプラノ歌手カルメン・ペルトン教授も、当時ワシントン大学で教鞭を執っており、そのことを古くからの友人である在米ピアニストから聞いて留学を決めた。
 
アメリカでは驚きの連続だった。「芸大の授業とはまったく違いました」と田形さんは振り返る。例えばマスタークラス。担当教授からマンツーマンで指導を受け、その様子を他の学生が聴講する、いわゆる公開レッスンだが、発表後に必ず「良かった点を2つ、改善点を1つ」挙げることが課され、学生同士でフラットに批評し合う。こういったスタイルは日本にはなく、新鮮だったという。「この経験は、後に自分が指導する側になった時の土台になりました。『聴く耳を育てる』という点でもそうですが、『良いところを見つける聴き方』を訓練されて、すごく勉強になりましたね」
 
ワシントン大学修士課程で現代曲に挑戦した室内楽リサイタルメンバーとともに。田形さん(中央)の右隣がペルトン教授
 
室内楽が必須だったことにも驚いた。声楽は単身またはピアノ伴奏で歌うことが多いが、室内楽アンサンブルとなると複数の楽器をそろえる必要がある。しかもメンバーは自分で探さなければならない。田形さんはパーカッション、フルート、バイオリンという珍しい編成を組んだ。選んだ曲目は20世紀に作曲された現代曲。「ピアノの弦を直接指で弾いたり、弦の上に鉄のボールをボンボンポンと落としたり……クラシックピアノの先生が聞いたら、卒倒しそうですよね」と笑う。「こうした体験は、絶対にアメリカでないとできないものでした。おかげで、自身の音楽の幅が大きく広がりました」修士課程に在籍中、田形さんはシアトルで出会った日本人男性と結婚し、そのままアメリカに残ることに。シアトル・マリナーズのジャパンナイトで2年連続、国歌斉唱の栄誉に輝くなど、声楽家として順調なスタートを切った。やがて一人息子を授かり、平穏な暮らしを送っていたが、2011年に発生した東日本大震災が田形さんの声楽家人生を一変させた。「テレビで映像を見ていましたが、家や車が流される様子が映画の特撮のようで、言葉を失いました」。岩手県花巻市に住む旧友とも何日間も連絡が取れず、心配で居ても立っても居られない田形さんだったが、「私にできることは支援コンサートしかない」との思いを固め、親しい音楽仲間に声をかけて立ち上げたのが「ソングズ・オブ・ホープ(Songs of Hope)」だ。
 
ルーメンフィールドで行われた浦和レッズレディース対シアトル・レインFCの親善試合で、「君が代」を歌った(2025年7月)
 
2011年5月1日、震災発生から50日目に第1回コンサートを開催。この時は田形さんを含む日米両国のプロ音楽家によるコンサートだったが、思いがけないほど多くの反響を得た。「シアトルにこんなに日本人がいたの? と驚くくらい、一般の方からも多くの支援の申し出をいただきました」。翌年の1周年メモリアルイベントでは一般参加者を募り、コミュニティ合唱団を創設。州外からも人が集まり、120人を超える大規模な合唱団となった。
 
田形さんと2人のピアニストで立ち上げたSongs of Hope。当初はコンサートのタイトルだったが、後にグループ名となり、ジャパンフェア等の日系イベントで演奏するなど活動の幅を広げながら被災地支援を継続。パンデミックの中、震災10周年イベントをオンライン配信したのを区切りに、周年イベント開催をいったん休止とした。しかし、グループの支援先である「いわき放射能市民測定室たらちね」との協働は今も継続している。
 
日本語の歌詞でしか表現できないもの 
 
2020年、世の中はパンデミックに突入し、声楽家である田形さんの活動も変更を余儀なくされた。生の歌声を届けることはできなくなり、代わりにコンピューターを駆使してオンライン合唱を行うなど、合唱の輪が途切れないように尽力した。その歌声の灯はしっかりと形になって、コロナ禍収束後も脈々と引き継がれている。
 
現在、田形さんは混声・男声・女声の3合唱団で指導しているが、いずれもレパートリーの中心は日本語の歌だ。日本語を話さないが日本語の歌を歌いたいという日系人、アメリカ人も参加しているそうだ。アメリカであえて日本語の歌を歌うことは、田形さんにとってどういう意味を持つのだろうか。
 
今年10月に開催されたピアノとのデュオコンサートにて、ピアニスト福田ゆり子さんと共演し、山田耕筰作曲「松島音頭」を歌う田形さん。ドレスの上に法被を着て和の雰囲気を演出
 
ベルカント・イン・シアトルの主宰者であり、歌の師である橋本美喜子さんとともに
 
「西洋の歌はLOVEがベースです。裏切られたとか、あの人が大好きだとか、愛についての歌詞が圧倒的に多いですよね。一方日本の歌は『枯葉が散った』。それだけで歌になります。自然を描写しながら、ちゃんと心のひだを映し出すのが日本歌曲ですね」。日本と西洋では文化の根っこが異なる。その違いをどこまでアメリカの聴衆に伝えられるかが挑戦であり楽しさだと田形さんは語る。
 
声楽では人間の身体そのものを楽器と考える。バイオリンやピアノと同じように、「音を出す」という意味では同じ楽器だが、そこには一つだけ大きな違いが。それは、歌詞を付けられる唯一の楽器であるということだ。だからこそ、「聴衆に歌詞が伝わることがとても大事」と田形さんは考える。歌い手は、歌う前に歌詞を深く読み込むことを怠らない。「役者のようにイメージを突き詰めて感情が入った状態に持っていくことを徹底して行います。そこに音を乗せていく。すると必然的にその文化のカラーが出てくるのです」
 
混声合唱団サウンド・シンガーズ 定期演奏会
 
日本語の歌詞の繊細さや余白の美しさを、アメリカ人だけでなく、アメリカで育つ日本人の子どもたちにも感じ取ってほしい。そんな思いを込めて、田形さんは舞台に立つ。「人に聴いてもらうと、その方たちから反応があって、その反応を受け取った私たちが、また次に新しい音で応える。現場ではいつも『化学反応』が起きています」。声楽家にとって、人前で歌うことは自分自身の音楽を伝えるだけでなく、聴き手との一期一会で生まれる奇跡の連続なのだ。
 
「表現をシェアできる空間を持つことが大切」。コロナ禍を経て、田形さんは一層その想いを強くする。そうした中で田形さんが数年前から始めた活動が、「ベルカント唱法」の研究と普及だ。ベルカント唱法とは、オペラ発祥の地イタリアで18世紀から19世紀にかけて確立された発声法のこと。「身体という楽器」を使い、いかに無理なく美しく響きのある声を出すか、そしてその声を基に最大限の表現を追求する歌唱法だ。楽器演奏の場合、楽器は職人が作り、奏者が演奏方法を習うが、声楽では「楽器」を作るところから始める。そこから最終段階の表現法まで一連のプロセスをベルカント唱法では網羅しているが、これを誰もが実践できるようにと、イタリアで長年研鑽を積み現在はシアトルに在住するソプラノ橋本美喜子さんが独自のメソッドを作り上げた。この橋本さんの「わかりやすく科学的に解説し、どんな人でもアプローチできる」という理念に田形さんは共鳴し、賛同者たちでYouTubeチャンネル「ベルカント・イン・シアトル(Bel canto in Seattle)」を開設。最近では視聴者からの要望を受けて、英語でも発信している。さらに年数回のライブコンサートも開催している。
 
男声合唱団エバーグリーン・グリー・クラブ(EGC)と女声合唱団キャビン・クワイアのジョイントコンサート
 
今から約130年前、明治期の日本に西洋音楽は本格的に導入された。その黎明期から現在に至るまでクラシック音楽教育の中核を担う東京藝術大学で曾祖母と同じように声楽を学んだ田形さん。今はこのシアトルの地で日本語合唱団を指導しながら、自らも舞台に立ち、イタリア伝統の歌唱法に則った美しい歌声を響かせている。16世紀末に遠く離れたイタリアでオペラが誕生してから約400年。現代を生きる田形さんのような声楽家たちによって、これからも新たな伝統が紡がれていくだろう。
 

主な活動・関連リンク

ベルカント・イン・シアトル

Youtube:www.youtube.com/@belcantoinseattle
ソングズ・オブ・ホープ 東日本大震災10周年イベント
Youtube:www.youtube.com/live/NnZ4ueqd2h8?si=GoZJBEpoI0tzBfyM
いわき放射能市民測定室たらちね
https://tarachineiwaki.org



ベルカント・イン・シアトル次回公演決定!

日程:2月14日(土)2pm~
場所:Rock of Ages Lutheran Brethren Church(Seattle)
   316 N. 70th St., Seattle, WA 98103
料金:寄付1人$20(任意)
問い合わせ:belcantoInseattle@gmail.com

第46回 ||最終回|| 映画のセリフを訳してみよう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第46回 ||最終回|| 映画のセリフを訳してみよう

【今回の例文】

Charlotte: Twenty-five years. That’s a…
Charlotte: Well, it’s impressive.
Bob: Well, you figure you sleep one-third of your life.
Bob: That knocks off eight years of marriage right there.
Bob: So you’re down to 16 and change.
Bob: You’re just a teenager at marriage.
Bob: You can drive it, but there’s still the occasional accident.

(出典:Lost in Translation)
 

【機械翻訳】

シャーロット:25年? それは…
シャーロット:すごいですね。
ボブ:人生の3分の1は寝ている計算ですよね?
ボブ:そうすると結婚生活が8年も短くなるんですね。
ボブ:つまり、16年ちょっとになるんですね。
ボブ:結婚したばかりなのにまだ10代ですね。
ボブ:運転はできますが、それでもたまに事故は起こります。

                                   
  (Google翻訳)

【修正後】

シャーロット:25年って…
シャーロット:長いわね
ボブ:人生なんて3分の1は寝ているんだ
ボブ:25年のうち8年だよ
ボブ:だから起きていたのは16年ぽっち
ボブ:結婚においては十代の若造さ
ボブ:運転初心者なんだ 事故だって起こすよ
                       
 
機械翻訳の精度は飛躍的に向上し、ビジネス文書なら及第点に届くようになりました。ところが、ルールの細かい映像翻訳では、まだ人の手に及びません。今回は映画『ロスト・イン・トランスレーション』のセリフに挑戦してみましょう。
 

今回のポイント✅

① 原文を正確に解釈する
このシーンは、結婚生活25年を迎えたボブが倦怠期に陥り、出張先で出会った若いシャーロットに自身の結婚観を話している場面です。「人生の3分の1は寝ているのだから、25年結婚しているといっても、起きている時間は16年と少し。人間の一生に当てはめれば、運転免許を取ったばかりの10代の若者で、そりゃあ時々は事故も起こすさ(=道も外すさ)」という原文のトーンを再現す
ることが重要です。

字数は極力少なく
映像翻訳には、原則「1秒につき4文字」というルールがあります。それ以上の文字数になると、視聴者が読み切れなくなってしまうからです。この字数制限を守るため、原文から離れても構いません。例えば、修正訳では、Thatknocks off eight years of marriage right there. を
「(結婚生活)25年のうち8年だよ」と原文にない25年をあえて補っています。

唯一の正解はない!
映像翻訳に唯一の正解はありません。訳者の数だけ訳文が生まれます。字数などの原則さえ抑えていれば、自分の感性に沿って自由に訳せるところが魅力ですね。そのためには、原文の正しい解釈が欠かせません。

まとめ  

本コラムは今回が最終回となります。4年半にわたりご愛読いただき、どうもありがとうございました。来年からはさらにバージョンアップした新連載がスタートします。どうぞお楽しみに!

札 珠恵(さつ たまえ)さん〜航空機インテリアデザイナー・ 元女子アイスホッケー日本代表

航空機インテリアデザイナー・
元女子アイスホッケー日本代表

さつ 珠恵たまえさん

女子アイスホッケー日本代表のゴールキーパーとして世界の舞台で活躍した札さん。感性と探究心を軸にデザインの世界へ進み、現在は日本人女性初の航空機インテリアデザイナーとして国際的に活躍しています。オマーン航空やアメリカン航空のキャビンデザインを手掛け、数々のデザイン賞を受賞。スポーツで培った集中力と情熱を原動力に、挑戦を重ね、自らの力で新たな可能性を切り開いてきました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

札 珠恵■北海道生まれ。15歳で苫小牧苫小牧とまこまい市を拠点とするアイスホッケーチーム「苫小牧ペリグリン」に入団。女子日本代表として世界選手権に度々出場し、初の女子世界選手権ではオールスターに選出。長野五輪にも日本代表として名を連ね、日本女子アイスホッケー界をけん引した。競技生活と並行して建築を学び、竹中工務店北海道支店で10年間にわたり勤務。1998年に渡米し、建築会社やインダストリアルデザイン事務所で経験を重ね、2024年に独立。デザインスタジオ「STUDIO TAMA」を設立した。現在は年間100日以上、世界各地を飛び回る日々を送る。


STUDIO TAMA
航空機インテリアデザインのうちCMF(カラー・素材・仕上げ)に特化。シート、バーユニット、ギャレーなどのキャビンのインテリアデザインや照明デザインのほか、エアラインのブランディングも手掛ける。 📧tamae@studiotama.net studiotama.net

 

挑戦の原点は、小さなリンクから 

北海道・長沼町に生まれ、苫小牧で育った札さんにとって、アイスホッケーは幼い頃から身近な存在だった。冬になると氷が張り、スケートを楽しむ子どもたちの姿が当たり前にある——そんな土地で育った。「ゴールキーパーになりたい」と強く思ったのは8歳の頃。テレビ中継で見た試合に心を奪われ、「あのゴールキーパー、かっこいい。いつか自分もリンクに立ちたい」と憧れた。しかし、すぐにホッケーを始められたわけではない。シングルマザーの母は美容師として日々懸命に働き、家計を支えていた。その姿を見て育った札さんは「迷惑をかけたくない」という思いが勝り、夢を口に出せなかったという。

転機が訪れたのは15歳のとき。友人から苫小牧の女子アイスホッケーチーム「苫小牧ペリグリン」でゴールキーパーを探していると聞き、「私にプレーさせてください」と申し出た。すると、慢性のゴールキーパー不足に悩んでいたチームは大歓迎してくれ、用具まで貸与してくれるとのこと。夢への扉が一気に開いた。初めて身に着けた防具は想像以上に重く、思うように動けなかったが、心の中は喜びで満たされていた。チームには五輪のスピードスケーター出身の選手が多く、最年少だった札さんを温かく迎えてくれた。練習後に声をかけ、アドバイスをくれる先輩たちの存在が、彼女を大きく成長させた。「本当に素敵な先輩や仲間に恵まれました。厳しい中にも支え合う空気がありました。あの頃の経験が、今の自分の原点です」。練習はハードだったが、ゴールを守る責任と面白さ、そしてチームで戦う喜びを学んでいった。やがて全国大会で優勝を果たし、プレー3年目には日本代表候補に選出される。

苫小牧で過ごした日々は、決して華やかではなかったが、厳しさ以上に人の優しさにあふれ、夢を支える小さな絆があった。「リンクに立つと、全てを忘れて夢中になれた。あのとき感じたゴーリーをプレーする楽しさは、今も心の中に残っています」。その思いが、後に札さんを世界の舞台へと導く原動力となっていった。

全日本の正ゴールキーパーとして、初めて世界選手権に出場する背番号50の札さん(1987年)

世界女子アイスホッケー選手権(オタワ)でオールスターに選出された。2列目左から2番目が札さん(1990年)

建築とアイスホッケー、二つの夢を同時に追いかけた日々

高校卒業後、札幌で建築を学んだ札さんは、竹中工務店北海道支店に入社した。最初は事務職としての採用だったが、持ち前の感性と手先の器用さを見込まれ、次第に設計の仕事を任されるようになる。初めて手掛けた模型が社内で評価され、さまざまな建築プロジェクトにも携わった。「建築を作り上げるプロセスに魅力を感じ、どんどんのめり込んでいきました。自分の手で形が生まれていくことに喜びを感じていました」

竹中工務店札幌支店のデスクにて(1997年)

一方で、アイスホッケー選手としても快進撃を続けた。平日の勤務後や週末、片道2時間をかけて苫小牧まで通い、全日本代表としての活動を続けた。会社の業務とは関係ないにもかかわらず、人事部は「全日本に選ばれるなんて名誉なことだから、行っておいで」と理解を示し、試合の日には快く送り出してくれた。「周りの方々がいつもサポートしてくれたおかげです。仕事とアイスホッケー、どちらかを諦めるという選択肢は、私の中にはありませんでした」。全日本女子選手権ではチームを連続優勝に導き、1987年には第1回女子世界選手権大会に出場。1998年の長野五輪では、日本代表のゴールキーパーとして選手登録された。

ゴールキーパーは孤独だ。どんなにファインセーブを重ねても、たった一度得点を許しただけで試合に負けることもある。現役を離れた今、札さんは当時の自分をどのように振り返っているのだろうか。「ゴールキーパーは自分との闘いです。どんな結果であっても自分の責任として受け止める。だからこそ、成長できたのだと思います」。建築の現場で磨いた論理性と感性、そしてホッケーで培った集中力と精神力。その全てが、後のデザインキャリアへとつながっていった。

アメリカ人の夫との結婚を機に、シアトルへ拠点を移した。当地でも女子アイスホッケーチームに所属し、翌年の全米大会で5位入賞。その後、シアトルの男子2部リーグでプレーするという得難い経験もした。近年ではNHLシアトル・クラーケンのイベントでアメリカ代表金メダリストらと共にパネルディスカッションに登壇し、元日本女子アイスホッケー代表として経験を語っている。

長野五輪の日本代表チーム合宿にて(1998年)

女子アイスホッケー全米大会で5位に入賞(ゴーリーセーブ率は2位)。前列左から2番目が札さん(2000年)

異国の地で新たなキャリアを切り開く 

航空機インテリアデザインの分野には多様な専門職があり、札さんの専門領域は「CMFデザイン」。CMFとは、カラー(色)・マテリアル(素材)・フィニッシュ(仕上げ)の略で、キャビンの印象や質感を左右する重要な要素を担う。エアラインのコーポレートカラーやその国の文化を反映しながら、シートや壁面の質感、照明のトーンまで、全てを通じて乗客の体験をデザインするのが札さんの仕事だ。

「海外に行くとき、飛行機に乗った瞬間に『ああ、これからこの国に行くんだな』と感じることがありますよね。エアラインは言ってみれば『空のカルチャーアンバサダー』。その国らしさをデザインで表現するのが私の仕事です」と札さんは語る。

シアトルに移住して間もない頃、建築事務所で働き始め、空間と素材の関係を探る日々が続いた。やがて「航空機インテリアデザイナー募集」の告知を目にし、「幼い頃から飛行機に憧れていた」という純粋な動機で応募。これが現在のキャリアにつながる最初の一歩となった。

シアトルで入社したのは、航空機デザイン業界でも歴史ある企業だった。ボーイングやエアバスなど世界各国のプロジェクトに携わり、インダストリアルデザイナーやエンジニアとともに経験を積むと、徐々に責任ある仕事が回ってくるようになる。最初に任された小規模案件では、マテリアル選定からプレゼンテーションまで一人で幅広く担当した。転機となったのはオマーン航空のファーストクラス・ラグジュアリーキャビン開発プロジェクト。わずか3人のチームで挑んだこの案件では、安全性・快適性・文化性の全てを考慮したデザインを追求。「色の選定や素材ひとつを決めるにも、何度も試験と検証を重ねました」と振り返る。「キャビンインテリアのテクスチャ、カラー、マテリアル、照明——その全てが乗客の心理に影響します。ナショナル・キャリアはその国の文化の顔。その国らしさを空間体験として表現するのが、デザイナーとしての使命だと思っています」と語る。

アメリカン航空の機内デザインで用意したインテリアボード

同航空デザインチームと共に

札さんがデザインした同航空フラッグシップ ファースト

数々のデザイン賞を受賞したオマーン航空ファーストクラス

初飛行に搭乗し、座り心地を確かめる札さん

完成したボーイング787新型機は、洗練されたインテリアデザインが国際的に評価され、複数のデザイン賞を受賞した。これをきっかけに、アメリカン航空をはじめ世界的な航空会社のプロジェクトにも携わるようになる。5年がかりの大規模プロジェクトでは、デザインだけでなく、エアラインのブランド価値を高める総合的なブランディング戦略にも関わった。

札さんの現在の活動領域は商用機にとどまらない。プライベートジェットやeVTOL(電動垂直離着陸機)、さらには宇宙関連プロジェクトまで広がり、札さんのデザインは「地球の空」を越えつつある。「航空機デザインは、人の感覚を導く仕事だと思います。乗客が快適に過ごせるよう、エアラインと綿密に協議を重ねて形にしていくことがデザイナーの使命です。できることを丁寧に積み重ねていくうちに、自然と次の扉が開いていきました」と札さん。

クラーケン・アイスプレックスで女子およびジュニアのホッケー選手を招いたイベントが開催され、金メダリストたちと共にパネリストとして登壇した(2023年)

札さんのデザイン哲学を表す言葉がある。「Skate to where the puck is going to be, not where it has been(パックがあった場所はなく、パックが行くところへ滑れ)」。尊敬するアイスホッケー界のレジェンド、ウェイン・グレツキーの言葉だ。過去の成功や既存の枠にとらわれず、これからの空の体験をデザインする。アイスホッケーで培ったこの感覚は、今も札さんの中に息づいている。「過去ではなく、未来の体験を」。札さんは今日も、未来へ向かう空をデザインし続けている。

札 珠恵(さつ たまえ)さん〜航空機インテリアデザイナー・ 元女子アイスホッケー日本代表

航空機インテリアデザイナー・
元女子アイスホッケー日本代表

さつ 珠恵たまえさん

女子アイスホッケー日本代表のゴールキーパーとして世界の舞台で活躍した札さん。感性と探究心を軸にデザインの世界へ進み、現在は日本人女性初の航空機インテリアデザイナーとして国際的に活躍しています。オマーン航空やアメリカン航空のキャビンデザインを手がけ、数々のデザイン賞を受賞。スポーツで培った集中力と情熱を原動力に、挑戦を重ね、自らの力で新たな可能性を切り開いてきました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

札 珠恵■北海道生まれ。15歳で苫小牧苫小牧とまこまい市を拠点とするアイスホッケーチーム「苫小牧ペリグリン」に入団。女子日本代表として世界選手権に度々出場し、初の女子世界選手権ではオールスターに選出。長野五輪にも日本代表として名を連ね、日本女子アイスホッケー界をけん引した。競技生活と並行して建築を学び、竹中工務店北海道支店で10年間にわたり勤務。1998年に渡米し、建築会社やインダストリアルデザイン事務所で経験を重ね、2024年に独立。デザインスタジオ「STUDIO TAMA」を設立した。現在は年間100日以上、世界各地を飛び回る日々を送る。


STUDIO TAMA
航空機インテリアデザインのうちCMF(カラー・素材・仕上げ)に特化。シート、バーユニット、ギャレーなどのキャビンのインテリアデザインや照明デザインのほか、エアラインのブランディングも手掛ける。 📧tamae@studiotama.net studiotama.net

 

挑戦の原点は、小さなリンクから 

北海道・長沼町に生まれ、苫小牧で育った札さんにとって、アイスホッケーは幼い頃から身近な存在だった。冬になると氷が張り、スケートを楽しむ子どもたちの姿が当たり前にある——そんな土地で育った。「ゴールキーパーになりたい」と強く思ったのは8歳の頃。テレビ中継で見た試合に心を奪われ、「あのゴールキーパー、かっこいい。いつか自分もリンクに立ちたい」と憧れた。しかし、すぐにホッケーを始められたわけではない。シングルマザーの母は美容師として日々懸命に働き、家計を支えていた。その姿を見て育った札さんは「迷惑をかけたくない」という思いが勝り、夢を口に出せなかったという。

転機が訪れたのは15歳のとき。友人から苫小牧の女子アイスホッケーチーム「苫小牧ペリグリン」でゴールキーパーを探していると聞き、「私にプレーさせてください」と申し出た。すると、慢性のゴールキーパー不足に悩んでいたチームは大歓迎してくれ、用具まで貸与してくれるとのこと。夢への扉が一気に開いた。初めて身に着けた防具は想像以上に重く、思うように動けなかったが、心の中は喜びで満たされていた。チームには五輪のスピードスケーター出身の選手が多く、最年少だった札さんを温かく迎えてくれた。練習後に声をかけ、アドバイスをくれる先輩たちの存在が、彼女を大きく成長させた。「本当に素敵な先輩や仲間に恵まれました。厳しい中にも支え合う空気がありました。あの頃の経験が、今の自分の原点です」。練習はハードだったが、ゴールを守る責任と面白さ、そしてチームで戦う喜びを学んでいった。やがて全国大会で優勝を果たし、プレー3年目には日本代表候補に選出される。

苫小牧で過ごした日々は、決して華やかではなかったが、厳しさ以上に人の優しさにあふれ、夢を支える小さな絆があった。「リンクに立つと、全てを忘れて夢中になれた。あのとき感じたゴーリーをプレーする楽しさは、今も心の中に残っています」。その思いが、後に札さんを世界の舞台へと導く原動力となっていった。

全日本の正ゴールキーパーとして、初めて世界選手権に出場する背番号50の札さん(1987年)

世界女子アイスホッケー選手権(オタワ)でオールスターに選出された。2列目左から2番目が札さん(1990年)

 

建築とアイスホッケー、二つの夢を同時に追いかけた日々

高校卒業後、札幌で建築を学んだ札さんは、竹中工務店北海道支店に入社した。最初は事務職としての採用だったが、持ち前の感性と手先の器用さを見込まれ、次第に設計の仕事を任されるようになる。初めて手がけた模型が社内で評価され、さまざまな建築プロジェクトにも携わった。「建築を作り上げるプロセスに魅力を感じ、どんどんのめり込んでいきました。自分の手で形が生まれていくことに喜びを感じていました」

竹中工務店札幌支店のデスクにて(1997年)

一方で、アイスホッケー選手としても快進撃を続けた。平日の勤務後や週末、片道2時間をかけて苫小牧まで通い、全日本代表としての活動を続けた。会社の業務とは関係ないにもかかわらず、人事部は「全日本に選ばれるなんて名誉なことだから、行っておいで」と理解を示し、試合の日には快く送り出してくれた。「周りの方々がいつもサポートしてくれたおかげです。仕事とアイスホッケー、どちらかを諦めるという選択肢は、私の中にはありませんでした」。全日本女子選手権ではチームを連続優勝に導き、1987年には第1回女子世界選手権大会に出場。1998年の長野五輪では、日本代表のゴールキーパーとして選手登録された。

ゴールキーパーは孤独だ。どんなにファインセーブを重ねても、たった一度得点を許しただけで試合に負けることもある。現役を離れた今、札さんは当時の自分をどのように振り返っているのだろうか。「ゴールキーパーは自分との闘いです。どんな結果であっても自分の責任として受け止める。だからこそ、成長できたのだと思います」。建築の現場で磨いた論理性と感性、そしてホッケーで培った集中力と精神力。その全てが、後のデザインキャリアへとつながっていった。

アメリカ人の夫との結婚を機に、シアトルへ拠点を移した。当地でも女子アイスホッケーチームに所属し、翌年の全米大会で5位入賞。その後、シアトルの男子2部リーグでプレーするという得難い経験もした。近年ではNHLシアトル・クラーケンのイベントでアメリカ代表金メダリストらと共にパネルディスカッションに登壇し、元日本女子アイスホッケー代表として経験を語っている。

長野五輪の日本代表チーム合宿にて(1998年)

女子アイスホッケー全米大会で5位に入賞(ゴーリーセーブ率は2位)。前列左から2番目が札さん(2000年)

異国の地で新たなキャリアを切り開く 

航空機インテリアデザインの分野には多様な専門職があり、札さんの専門領域は「CMFデザイン」。CMFとは、カラー(色)・マテリアル(素材)・フィニッシュ(仕上げ)の略で、キャビンの印象や質感を左右する重要な要素を担う。エアラインのコーポレートカラーやその国の文化を反映しながら、シートや壁面の質感、照明のトーンまで、全てを通じて乗客の体験をデザインするのが札さんの仕事だ。

「海外に行くとき、飛行機に乗った瞬間に『ああ、これからこの国に行くんだな』と感じることがありますよね。エアラインは言ってみれば『空のカルチャーアンバサダー』。その国らしさをデザインで表現するのが私の仕事です」と札さんは語る。

シアトルに移住して間もない頃、建築事務所で働き始め、空間と素材の関係を探る日々が続いた。やがて「航空機インテリアデザイナー募集」の告知を目にし、「幼い頃から飛行機に憧れていた」という純粋な動機で応募。これが現在のキャリアにつながる最初の一歩となった。

シアトルで入社したのは、航空機デザイン業界でも歴史ある企業だった。ボーイングやエアバスなど世界各国のプロジェクトに携わり、インダストリアルデザイナーやエンジニアとともに経験を積むと、徐々に責任ある仕事が回ってくるようになる。最初に任された小規模案件では、マテリアル選定からプレゼンテーションまで一人で幅広く担当した。転機となったのはオマーン航空のファーストクラス・ラグジュアリーキャビン開発プロジェクト。わずか3人のチームで挑んだこの案件では、安全性・快適性・文化性の全てを考慮したデザインを追求。「色の選定や素材ひとつを決めるにも、何度も試験と検証を重ねました」と振り返る。「キャビンインテリアのテクスチャ、カラー、マテリアル、照明——その全てが乗客の心理に影響します。ナショナル・キャリアはその国の文化の顔。その国らしさを空間体験として表現するのが、デザイナーとしての使命だと思っています」と語る。

アメリカン航空の機内デザインで用意したインテリアボード

同航空デザインチームと共に

札さんがデザインした同航空フラッグシップ ファースト

数々のデザイン賞を受賞したオマーン航空ファーストクラス

初飛行に搭乗し、座り心地を確かめる札さん

完成したボーイング787新型機は、洗練されたインテリアデザインが国際的に評価され、複数のデザイン賞を受賞した。これをきっかけに、アメリカン航空をはじめ世界的な航空会社のプロジェクトにも携わるようになる。5年がかりの大規模プロジェクトでは、デザインだけでなく、エアラインのブランド価値を高める総合的なブランディング戦略にも関わった。

札さんの現在の活動領域は商用機にとどまらない。プライベートジェットやeVTOL(電動垂直離着陸機)、さらには宇宙関連プロジェクトまで広がり、札さんのデザインは「地球の空」を越えつつある。「航空機デザインは、人の感覚を導く仕事だと思います。乗客が快適に過ごせるよう、エアラインと綿密に協議を重ねて形にしていくことがデザイナーの使命です。できることを丁寧に積み重ねていくうちに、自然と次の扉が開いていきました」と札さん。

クラーケン・アイスプレックスで女子およびジュニアのホッケー選手を招いたイベントが開催され、金メダリストたちと共にパネリストとして登壇した(2023年)

札さんのデザイン哲学を表す言葉がある。「Skate to where the puck is going to be, not where it has been(パックがあった場所はなく、パックが行くところへ滑れ)」。尊敬するアイスホッケー界のレジェンド、ウェイン・グレツキーの言葉だ。過去の成功や既存の枠にとらわれず、これからの空の体験をデザインする。アイスホッケーで培ったこの感覚は、今も札さんの中に息づいている。「過去ではなく、未来の体験を」。札さんは今日も、未来へ向かう空をデザインし続けている。

第45回 観光ツアー案内を訳してみよう〜技あり!機会翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第45回 観光ツアー案内を訳してみよう

【今回の例文】

Tokyo Full Course Tour: 10 Must-Sees & Hidden Gems
Explore Tokyo’s must-see attractions and hidden gems and taste Japanese local daily food.

What you’ ll do
Meiji Jingu Shrine: Located in the heart of the city, surrounded by greenery.
Loyal Dog Hachiko: It is the most famous bronze statue of a dog in Japan.
Shibuya Scramble Crossing: It is the busiest intersection in the world.
Tsukiji Honganji Temple: It is an extra ordinally Japanese Buddhist temple.
Tsukiji Outer Market: 640 stalls in various fields await you.

(出典:Airbnbホームページより一部抜粋)                                   
 

【機械翻訳】

東京フルコースツアー:絶対に見逃せない10のスポットと隠れた名所
東京の必見スポットと隠れた名所を巡り、日本の地元料理を味わう。

ツアーの内容明治神宮:都心の中心部に位置し、緑に囲まれた神社
忠犬ハチ公:日本一有名な犬のブロンズ像
渋谷スクランブル交差点:世界一混雑する交差点
築地本願寺:極めて日本的な仏教寺院
築地外市場:640の店舗が様々な分野であなたをお待ちしています

                                     (DeepL翻訳)

【修正後】

東京満喫ツアー:絶対に見逃せないスポットと隠れた名所10カ所巡り
東京の必見スポットと隠れた名所を巡り、ローカルフードを堪能します。

ツアーの内容明治神宮:都心の中心部に位置し、緑に囲まれた神社
忠犬ハチ公:日本一有名なイヌの銅像
渋谷スクランブル交差点:世界一混雑する交差点
築地本願寺:異彩を放つ仏教寺院
築地場外市場:640もの専門店が軒を連ねる
 
機械翻訳もなかなか上手に訳していますが、細かく見ると修正の必要な箇所が散見されます。

今回のポイント✅

① 数字は要チェック
ツアー名にある「10」は、このツアーで訪れる「絶対に見逃せないスポット」と「隠れた名所」を合わせた合計数です。機械翻訳の訳では誤訳になりますので、注意しましょう。

築地本願寺は日本の伝統的な寺院?
一読しただけでは違和感はありませんが、築地本願寺の外観は実はインド等の古代仏教様式で、日本の一般的な神社仏閣とはかなり異なっています。「伝統的」と訳すと真逆の意味になってしまいます。

内容に合ったワードチョイスを考えよう
Japanese local daily foodを「日本の地元料理」と訳してしまうと「地域の郷土料理」のようなイメージが湧きますね。ところが、ここでは「築地場外で気軽に食べられる食べ物」を指していますから、「ローカルフード」としたいところです。また、stallも「屋台」「露店」と訳されることが多いですが、ここは築地場外であることを考えると「専門店」とした方がより自然です。

まとめ  

8月は観光シーズン真っ盛り。SNSが発達した今でも、やはり五感を刺激するリアルな体験は現地を旅してこそ得られるものですね。

第44回 詩を訳してみよう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第44回 詩を訳してみよう

【今回の例文】

Khalil GibranGenerosity is giving more than you can, and pride is taking less than you need.                               (出典:BrainQuote)                                           
 

【機械翻訳】

カリル・ギブラン

寛大さは、自分ができる以上のものを与えること。そして、誇りは、必要なものよりも少ないものを取ること。

                                     (DeepL翻訳)

【修正後】

ハリール・ジブラーン

真の寛大さとは、己の範はんちゅう疇を超えて他人に与えること。真の矜きょうじ持とは、己が必要とするときでも全てを受け取らないこと。
 
中東が生んだ偉大な詩人、ハリール・ジブラーンを取り上げます。難易度がかなり高く、正解はありません。自分の感性に従って訳してみましょう。

今回のポイント✅

人名は必ず調べる
レバノン出身の詩人ですから、日本語では、より原音に近いハリール・ジブラーンが定訳とされていますが、英語読みに近いカリール・ジブランも間違いではありません。どちらにしても、必ず調べましょう。

generosityの意味するもの
通常は「寛容」「寛大」と訳され、ほとんどの場合はそれが妥当ですが、今回の例文では少し工夫が必要です。一般的に「寛大」と聞くと、ミスなどをしても許してくれるような「心の広さ」がイメージされますが、ここでは「惜しみなく与える」意味合いが強いので、修正訳では「真の寛大さ」としました。ストレートに「真の施し」としても、よいかもしれません。

prideは誇りと訳して大丈夫?
ここで言わんとしていることは、「施しを与えられても、全てを受け取らない心意気」です。要は、「与えるときは気前よく、受け取るときは最小限に」という思想ですね。そこでprideを「プライド」と捉えてしてしまうと、ニュアンスが変わってしまうため、修正訳では「矜持」としました。「プライド」は「他者に認められることを前提とした相対的な自信」であるのに対し、「矜持」は「他人の評価にかかわらず、揺らぐことのない絶対的な自信」です。「誇り」はその中間くらいのイメージでしょうか。

まとめ  

『預言者』の著書として知られるハリール・ジブラーンは、1883年、レバノンの敬けいけん虔なクリスチャンの家庭に生まれ、のちにアメリカに移住しました。アラビア語、フランス語、英語に精通し、小説やエッセーなどのほかに彫刻や絵画の分野でも活躍。多くのアーティストや著名人が彼の思想に影響を受けたといわれ、ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンもその一人だそうです。

宇佐美 志都さん〜書家・文字文化文筆家

書家・文字文化文筆家 宇佐美 志都しづ さん

 

3歳から書道を始め、すでに書道歴45年になる宇佐美さん。たおやかでありながらりんとしたそのたたずまいは、まさに大和撫子そのもの。大学生時代に家業を継ぐこととなり経営者としての顔も併せ持つ。出産・育児を経て新たな境地を切り開くなど、活躍の場を常に広げています。「書を通して自分の中に揺るぎない根幹を築けたからこそ、新しいことにも挑戦し続けられる」。そう顧みる宇佐美さんに、書の神髄について語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

宇佐美志都■ 福岡県北九州市出身。書家・文字文化文筆家。明治時代から続く醸造業、宇佐美本店の4代目社長。書道教室を主宰していた母親の手ほどきを受け、3歳で書道を始める。福岡教育大学特設書道科卒業。漢字学の権威、白川静博士が理事長を務めていた文字文化研究所で「文字の成り立ち」について学び、最年少で文字文化認定講師となる。2009年にロンドン芸術大学へに留学。2010年に帰国し東京にギャラリーを開設。全国各地の企業や団体で講演を行うなど、活動の場を拡げる。2012年より日米を往来。年内にワシントン州に拠点を戻す予定。
 
書家になる天命に導かれて
 
私たちが日々使っている漢字。日本では小学校入学と同時に習い始め、一生のうちに相当数の漢字を覚えることになる。だが、実は漢字を使われてきた地域は世界的に見ても稀だ。「中国大陸、朝鮮半島、そして日本。いわゆる『東アジア漢字文化圏』です。漢字のおこりは中国大陸ですが、この地域一帯に漢字文化が醸成されてきたと書道界では捉えており、この東アジア文化を継承することで恒久平和につながれば、と私自身は意識しています」と宇佐美さんは話す。
 
3歳から筆あそびを始めた宇佐美さんだが、書の道を職業として明確に意識したのは中学1年の頃。将来の夢を聞かれ、「書道の先生になりたい」とはっきり答えた。やがて、迷うことなく福岡教育大学特設書道科へ進学する。全国でも数少ない書道教員免許が取得できる国立大学の一つだ。これには、母、幸子さんの強い後押しがあった。当時の書壇では、漢字または平仮名のどちらかを選択するのが通念。道具や紙が違うだけでなく、「手が違う」のだという。幸子さん自身も漢字を専門としていたが、娘には「どちらもできる人になってほしい」と願い、幅広く学べる道を応援してくれた。
 
みそ樽とともに。10カ月の宇佐美さん
 
3歳の七五三のとき。母の幸子さんと
 
書道がほかの芸術と異なる点は何か。それは「鑑賞眼を鍛えると同時に、思いや思想を言語化して的確に伝える」という明確な目的があることだ。「文字は喋り言葉を記録し、後世に伝えるために生まれたもの。そこにこそ、文字の使命があるのです」と宇佐美さんは力を込める。感情や思想などの内面を自由に表現するアートとは一線を画すものなのだ。「思いを書にすることが、自分の体質に合っていました。ですから、長く続けていても、飽きることはありません」。さらに「むしろ、同じことをやっていても、時代が変わってくれるおかげで、自分の職業を違った価値観で見ることができ、いつでも自分の役目を見出せるのです」と続ける。「ずっとやってきたからこそ、時代の変化をありがたく感じます」
 
田んぼで作業をする宇佐美さん(手前先頭)
 
宇佐美さんは書家としての歩みを順調に進めながらも、決して安住することはなかった。大学卒業後、高校の書道教員の職を得たが、「もっと漢字の根幹を学びたい」という思いが募り、京都の文字文化研究所の門をたたいた。そこで漢字学の第一人者である白川静博士に師事。「朝10時の講義に出るため、定期的に小倉から新幹線に乗って3年間通っていました。確か、6時32分発でしたね。今でもよく覚えています」と笑いながら話す宇佐美さん。京都での講義後、そのまま東京での書家活動に赴くことも多々あったという。そんな生活を続け、最年少で文字文化認定講師に任命された。
中国各地をのべ20地域以上歴訪。研究者や同級生らと山西省の雲岡石窟うんこうせっくつへ(1999年)
 
文字文化認定講師授与式にて白川静博士とともに。宇佐美さんの知見や理念を築いた勉学の素地(2004年)
 
アナログで鍛えた探究心-子育てで広がる新しい世界
 
順風満帆に見える宇佐美さんの人生だが、大きな試練もあった。「一番つらかったのは、母が他界したときです」。25歳のとき、幸子さんは病気でこの世を去った。56歳だった。宇佐美さんにとって、母親は書の世界にいざなってくれた師匠でもある。母親の死に際し、「死にざまは生きざま。生きざまは死にざま」との言葉が脳裏に浮かんだ。自分も尊く、一心に生きよう、そう決意した。
 
大学在学中には父親が脳梗塞を患い、宇佐美さんは20歳前ながら家業を継ぐことに。「長子ゆえ、子どものころから、周囲の大人が従事していることも自分のこととして捉え、常に跡継ぎとしての当事者意識を持って暮らしていました」
 
大きな転機となったのは1年間のイギリスへの留学。宇佐美さんにとって海外渡航といえば、中国やモンゴル。常に書道関連だったため、西洋文化を体験したいという気持ちがあった。そこで、社会人を受け入れているロンドン芸術大学に留学。テキスタイル(布地や繊維などを広く意味する)とファインアートを専攻したが、そこにはこんな経緯があった。さかのぼること数年前、宇佐美さんの個展に足を運んだアパレル会社の担当者から声がかかり、コムサイズムの浴衣のデザインを依頼されたのだ。2006年、宇佐美さんは漢字の成り立ちを女性向けの浴衣柄にして、5パターンを用意。いずれも即完売となった。好評を受け、翌年にはキッズやメンズのデザインも加わった。「書を生活の中に生かせたことに大きな喜びを感じました」。悠久ゆうきゅうの歴史を持つ書の世界が、現代の生活と融合。書の表現方法の一つとしてテキスタイルの分野に挑戦したことで、新しい世界の扉が開いた瞬間だった。
 
ロンドン芸術大学にて。英国生活では、欧州各地の美術館巡りも(2009年)
コムサイズムの浴衣。宇佐美さんが漢字の成り立ちを柄としてデザインした(2006年)
 
2010年に帰国後は東京にギャラリーを開設し、全国で講演活動も展開。講演では主に経営者を対象に、東アジアにおける漢字の成り立ちについて話す。日本人としてのアイデンティーと深く関わりのある漢字の歴史を振り返ることで、自分自身を顧みる機会にしてもらうのだそうだ。そうした活動を通じて、「書」が単なる芸術表現にとどまらず、社会や人々とつながっているという確かな手応えを実感する。「自分の書が、世の中と多面的な接点を持つことができると気づき、大きな自信につながりました」と宇佐美さんは語る。
 
さらに人生が変わる大きなきっかけとなったのが、出産と育児だ。縁あって2012年からカリフォルニアに往来するようになり、2014年、シアトルに転居。翌年には娘を出産し、2017年まで同地で暮らした。それ以降、北九州とワシントン州を子連れで行き来する生活を続けている。母となった宇佐美さんがシアトルに戻ってくるたび、ふと脳裏に浮かぶ光景がある。小学4年のときに体験した「山村留学」の記憶である。山口県のとある村で親元を離れて1年間、稲を植え、川で鮎を釣るという昔ながらの生活を送った。村おこしを目的に村が主催した企画。ひのき造りの寮で全国から集まった約20人の児童たちと一緒に暮らした。工業都市である北九州市で生まれ育った宇佐美さんとって、山や川と共に暮らす生活は、まるで昔ばなしの舞台のように感じられたという。「のどかな日本の原風景でした。あの時に心に深く刻まれた経験が、ワシントン州で子育てをしていると蘇よみがえります」
 
2016年および2017年はベルビュー図書館で、また近年は現地の小学校で、書道をボランティアで教えるなど、地域の子どもたちと関わる機会も増えた。そんな宇佐美さんは、子育てを「自分自身もこれからの時代をつくっていける一員であることを自覚できる機会」だと捉えている。当然ながら、子育て中は仕事に割ける時間は少なくなるが、その煎じ詰めた時間の中で、「どう自分を見失わずに、活路を見出すか」が問われるのだという。昨今は、社会構造変革の岐路に立たされているが、「課題のない社会など、どんな時代にも存在しません。いつ、どこで生まれようと、『制約のある中で生きる』ということは、多かれ少なかれ皆同じ。だからこそ、自分の中の葛藤に目を向けて、自分にとっての本質を見極めることが重要」だと考えている。
 
現地校で、漢字の成り立ちと書道をボランティアで教えている。漢字文化圏でない言語体系の子どもたちへ、東アジア文化理解の願いが発端。今後も継続したいライフワーク
出産育児時の恩返しをコミュニティーへ、という思いから「筆あそび教室」をボランティアで、ベルビュー図書館にて毎月開催していた(2016年)
 
悩んでいるとき、苦しみから抜け出せないときには、「お掃除ロボットが充電基地に戻るように、いつでも帰れる場所がある人はぶれない」と笑みを浮かべながら話す。宇佐美さんにとって、「文字の成り立ち」が帰る場所であり、根源なのだ。「志都」と命名してくれた祖父の思いがごとく、自分の「都」を「志す」人間として生きる姿勢が、また次の扉を開けていく。
 
書道と料理の共通点
 
宇佐美さん料理の腕前は、プロ顔負けだ。それもそのはず、家業が醸造業であり、和調味料の味の開発も常に手掛けているからだ。料理人には玄人向けの話を、一般消費者には親しみやすい言葉で、など伝え方にも気を配る。風味や味の違い、旬の食材との相性、そして伝統的な調理法からトレンドの最前線まで、料理の根源を知り尽くしていなければ務まるはずがない。そんな背景もあって、宇佐美さんは日本からシアトルに一風変わった自家製の食材を持参していた。
 
原木どんこ椎茸やエノキの自家製天日干しは、ワシントン州暮らしに備えたお守り。米国産品とうまく組合わせる
 
「これを見てください。エノキとどんこ椎茸を乾燥させたものです。土がついていないものでないと合法的でないので注意が必要なんですよ」。キッチンペーパーと新聞紙であらかた水分を取ったものを、天日干しで1、2週間乾燥させた「だしの素」たちだ。日本と違う食環境の中で、うま味食材は珍重。味覚の充足度は、心情的にも確保しておきたい。しかも秋から冬にかけて日照時間が短くなるシアトルでは、乾物となった菌生類は一層の恵み。「書と同じです。根幹をつかんでいれば、どうにでも加工できるのです」。白川文字学で漢字の成り立ちを極めた宇佐美さんだからこその視点であり、哲学だ。
 
COP10(生物多様性条約締結国会議)の表紙を揮毫きごうし、国連事務局長ジョグラフ氏(当時)と、会場の名古屋にて会談(2010年)
 
それは、子育てにも通ずる。紛争や災害などで、自宅や祖国を追われる人々が世界中にいるという現実を「他人事ではなく、自分事として捉える」ことを娘にも説いているという。「自分でもとを作れる人になってほしいのです」。さらにこう続ける。「自分の中に『素』を仕込んでおけば、誰にも奪われないし、それを自分のものにしてしまえば、どこでも生きていかれます」。それは戦争を体験した祖母からの教えでもある。
経営者向けに文字の成り立ちを講演。時勢を鑑みた演題で日本全国へ赴いた。コロナ禍以降はオンラインでの機会も多く、「集う」場の主宰も始動中
 
「いかに書くかではなく、どう文字の真髄に迫るか」という視点で書を学んできた宇佐美さんにとって、それは自らに最低限必要なものを吟味するプロセスでもあった。こうして選び抜いた大切なものを胸に秘め、それをもとに新たな「学びの素」を仕込んでいく。シンプルでありながら奥深い生き方だ。いにしえの東アジア地域に生まれた書の精神を現代に継承する宇佐美さんの眼差しは、どこまでも透明で美しい。
 
漢字の成り立ちを説いたYouTube動画、「Vignettes Kanji Stories」(www.youtube.com/@shizuusami)は日本の宇佐美さんの書室で撮影
 
「to write is to breathe」書くことは呼吸すること。照息「showsokuⓇ」は、Art Meditationとしての広がりをAI首都シアトルだからこそ、発信していきたいという

宇佐美本店の和調味料。ラベルは宇佐美さん揮毫(中央は亡母の書)。書家であるが、一方で、醸造・製造業を司っていることで複眼的になれる

第43回 人物評伝を訳してみよう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第42回 人物評伝を訳してみよう

【今回の例文】

Albert Einstein (1879-1955)

That he was one of the preeminent intellects in recorded history goes almost without saying; if a person is called “an Einstein” today, he or she is said to be among the most brilliant of the brilliant.

                  (出典:LIFE 100 People Who Changed The World)                                           
 

【機械翻訳】

アルバート アインシュタイン (1879-1955)

彼が歴史上最も優れた知識人の一人であったことは言うまでもありません。今日「アインシュタイン」と呼ばれる人は、最も優秀な人物の一人であると言われています。

                                     (Google翻訳)

【修正後】

アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)

アインシュタインは人類史上、屈指の天才であったことは言うまでもありません。今日、「アインシュタイン並みの頭脳の持ち主だ」と言われると、その人は相当高いIQの持ち主であることを意味するでしょう。
 
意味はわかるけれども、自然な日本語に訳すのが難しい典型的な文章です。こうした場合は、思い切って意訳しましょう。

今回のポイント✅

ルバート? アルベルト?
アインシュタインのファーストネームとしては、どちらも間違いではありませんが、正式な資料では「アルベルト」と訳されています。見落としがちですが、きちんと調べましょう。

形容詞を繰り返さない
機械翻訳では、「最も優れた知識人」「最も優秀な人物」と同じような言い回しが出てきます。面白さを問われる読み物ですから、日本語を工夫したいところです。修正訳では、「屈指の天才」「相当高いIQの持ち主」としました。

③ Einsteinになぜanがついている?
冠詞は日本人泣かせですね。ここは、アインシュタインを普通名詞として扱っていますので、「アインシュタインのような人」という意味合いになります。「アインシュタイン君」などと訳しても面白いですね。

まとめ  

LIFE誌が選んだ『世界を変えた100人』から物理学者のアインシュタインを取り上げました。日本人では唯一、紫式部が選出されています。『源氏物語』は30以上の言語に翻訳されているそうです。

角 潤一さん〜在シアトル日本国総領事館 首席領事

在シアトル日本国総領事館 首席領事
角 潤一さん

外務省の中で中東地域、特にイラン・ペルシャ語のスペシャリストとして活躍する角さんは、一般的な外交官のイメージを覆す「異色の外交官」として、多方面で業務に邁進しています。本業はもちろん、「アフターファイブ」にも全力投球する裏には、確固たる信念がありました。一度会ったら忘れられない強烈な個性を持つ角さん。これまでの任地での体験や自身の「オーラ」の源泉について語ってもらいました。

取材・文::シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

角潤一 1973年生まれ、島根県出身。青山学院大学国際政治経済学部を卒業し、1998年に外務省に入省。在外研修中にロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)で中近東学の修士号を取得。中東地域、ペルシャ語の専門家。外務本省のほか、イラン(2回)、アフガニスタン、イラク、ニューヨーク(国連代表部)に勤務。東京に妻と一男一女を残し、2023年3月から現職。
 
出雲から世界へ羽ばたくことを夢見た少年時代
 
角さんが生後間もない頃に住んだ家は現在、世界遺産の区域内にある。2007年に登録された島根県石見銀山いわみぎんざん の一角を占める大森銀山地区だ。そこから50キロ離れた出雲市に2歳の時に家族で引っ越して以来、高校卒業まで出雲で過ごした。生粋の「島根県人」であり「出雲っ子」だ。
 
子どもの頃は勉強にもスポーツにも秀でた少年だった。小学校では児童会長を務め、通年のサッカー部と吹奏楽部(ホルン)に加え、夏季には水泳部、秋季には陸上部、冬季には体操部に所属。中学校では生徒会議長に任命され、サッカー部でも活躍した。角さんの通った出雲第三中学校は、当時、身体能力の高い生徒はなぜか必ずサッカー部に所属するという暗黙のルールがあり、角さんが3年生の頃には全国大会にも出場するほどの強豪校になっていた。地元の進学校、出雲高校に進むと、一転してバスケットボール部に入部。一学年が11クラスというマンモス校だったが、特進クラスに選抜された。
 
目立つ存在だったにもかかわらず、角さんにはその頃の記憶がほとんどない。「とにかく、田舎から出たいという気持ちが強かったんです」。まだインターネットのない時代。都会との格差はとてつもなく大きく感じられた。「野球のテレビ中継で延長戦に入ると、『一部の地域を除いて放送します』と出ますよね。あの『一部の地域』というのに住んでいることに愕然としました」
 
出雲高校の卒業アルバムから。やんちゃな面影が残る
 
「絶対に東京、いや、海外に出たい」。同級生の多くが島根大学や広島大学、遠くても大阪方面に進む中、角さんはすでに海外を目指していた。念願通り東京の大学に入学したものの、それだけでは飽き足らず、3年次に自主休学してボストンとイギリス南部のブライトンに計9カ月の語学留学へ。帰国すると、4年生に進級していた友人たちは皆、就職が決まっていた。その後も角さん自身は進路の定まらぬまま、気付けば最終学年の春を迎えていた。そんな時、高校の同窓生を通じて外交官試験の存在を知り、「働きながら、2、3年も海外研修が受けられるなんて、これしかない!」と思った。
 
そこで学内の勉強会に入って本格的に試験対策を始めたのが4年次の12月のこと。翌年の6月に実施される外交官試験に向け、勉強に没頭した。生活を支えてくれたのは、当時交際中で後に妻となる有希子さんだった。無事一次試験に合格した角さんは二次試験の面接で、外務省に入りたい理由を問われ「オーラを放つ人間になりたいのです」と応じた。「我ながらよく言ったと思います」と角さんは笑う。「普通では会えないような人に会い、普通ではできないような生活をすることで、自分が変われるのではないか。今と違う環境で自分を試してみたい。そんな気持ちが強かったんですね」。要は変身願望に駆られていたのだと角さんは振り返る。結果は見事、合格。「出雲から世界に出たい」。その願いがかなった瞬間だった。
 
イランの専門家として奮闘する日々
 
外務省に入省後、角さんは「イラン専門家」としての道を歩み始める。持ち前の行動力と勘の良さで難解なペルシャ語を習得し、最初の研修先のロンドンでは、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)でイラン人の教授に師事し、中近東学の修士号を取得した。ロンドン滞在中は、新婚の妻と別居して、亡命イラン人作家宅にホームステイ。語学だけでなく、イランの風習や考え方を肌で吸収する最短の道だった。残りの1年半はイランに移り、2人のイラン人家庭教師による集中レッスンとテヘラン大学の付属機関でペルシャ語を学んだ。
 
故郷の出雲大社で結婚式を挙げた(1999年6月)
ロンドン研修時代にホームステイさせてもらった亡命イラン人作家と再会
 
そこからイラン専門家として、怒涛の活躍が始まる。イラン人社会に飛び込み、幅広い人間関係を構築して、正確かつ客観的に情報を収集・分析することに長けていた角さんは、イラン人特有の心の機微きびを理解できる貴重な人材として、両国の関係者から厚い信頼を寄せられる存在となった。
 
外交官の仕事には「リエゾン」(連絡調整役)と呼ばれる職務がある。総理や大統領などの要人が他国を訪問する際に同行し、現場での突発的な問題を解決する役割を担う。素早い判断力や機転が求められる仕事だ。角さんはこれまで、2019年6月、イスラム革命後初めてイランを訪問した安倍総理(当時)や同年12月に訪日したイランのローハニ大統領(当時)のリエゾンを務めたほか、2008年3月、アラグチ駐日イラン大使(現外務大臣)による信任状捧呈に際して天皇陛下の通訳も担当した。「こうした経験が自分の財産であり、自信につながります」
 
イランを訪問した安倍総理(当時)のリエゾンを務める角さん(右から3番目)2019年撮影
 
もちろん華やかな仕事だけではない。2003年11月、角さんの価値観を大きく揺るがす事件が発生する。イラクで2名の日本人外交官と大使館運転手が何者かに襲撃され、殺害されたのだ。当時イラクは戦争が終結し、国際社会が復興支援に乗り出していた。日本からも近隣諸国に駐在する外交官が代わる代わる応援に入っていた。角さんも、事件が起きる3カ月前にテヘランから出張して隣国イラクに滞在。殉職した外交官のうち1人は角さんと同い年のアラビア語専門家だった。
 
この事件を境に、「人生を3倍速で生きる。迷ったら挑戦。失敗上等。何もせずに後悔するのは御免だ」という気持ちで毎日を生きるようになった。角さんが救出に関わった命もある。かつてイランで日系米国人ジャーナリストが逮捕・拘禁された際、早期釈放を働きかける日本政府高官の発言ラインを角さんが起案。絶対に譲れなかった「イラン人の胸に突き刺さる文言」を盛り込み、イラン側のトップへと伝えられ、他の関係国らの働きかけもあり、紆余曲折を経てジャーナリストは釈放された。
 
アフガニスタンでも、死は身近なものだった。タリバン政権崩壊直後の2001年12月、角さんは志願してアフガニスタンに赴き、鳩山由紀夫民主党代表(当時)の通訳も担当。その後、2004年からはカブールの日本大使館に2年間勤務した。長らく紛争が続いていた同国で出会った部族の長には、生死を賭けた戦いを生き抜いた者だけがまとうただならぬ「オーラ」があった。角さんは、「そんなアフガニスタンでの生活も楽しい思い出がいっぱいです」と振り返る。毎日のように政府関係者や国連、独立行政法人国際協力機構(JICA)の職員らを招き自宅でパーティーを開いたという。情報収集と人脈構築が目的ではあるが、一期一会を大切にする角さんらしい。
 
アフガニスタンのパンジシール渓谷にて(2004年頃)
 
カブール近郊の地雷除去現場を視察(2006年頃)
 
角さんの活躍は、意外なところにも及ぶ。2020年、新型コロナウイルスが世界を襲った際、角さんは在イラン日本国大使館で総務班長(兼広報文化センター長)を務めていた。イランは当時、中国、イタリアに次いで世界で3番目に感染者数が多く、しかも日本の在外公館がある地域で感染症危険レベル3になったのはテヘランが初めて。国境封鎖が相次ぐ中、在留邦人の退避ルートを確保し、日本語での情報を提供するなど、大使のもとで陣頭指揮を執った。
 
自分にしかできないミッションに全力投球 
 
激動のイランや紛争地イラク、アフガニスタンを計12年近くも渡り歩いた角さんにとって、シアトルは刺激に欠けるのだろうか、との問いに「そんなことはありません。『退屈だ』と言っている人こそが退屈な人物なのです」と。シアトルでなければ経験できないことも沢山あるそうだ。例えば、日系コミュニティーとの交わり。日系人の歴史が古いシアトルには多くの県人会があるが、角さんはこれまでに10の県人会に個人で入会している。また、日系人や在留邦人、米国人、イラン人など当地でのネットワークを広げようと、毎月数十名から100名近い規模のパーティーを個人で主催している。
 
幼い長女を連れて街頭行進に参加。2015年3月、ニューヨークの国連代表部に勤務していた頃
 
角さんの「エンターテイナー」としての才能は評判を呼び、さまざまなイベントから声がかかるように。シアトル発祥のパブリック・トークイベント「イグナイト・シアトル(https://igniteseattle.com)」やJIA主催の成人式USAでのスピーチ、ジャパンフェアの大トリでの歌唱など、活躍の場は広がるばかり。プライベートでは、グイダック堀りやビール醸造など、面白そうなことには片っ端からトライ。「挑戦あるのみ」だ。
 
シアトルに赴任して以来、毎月開催するポットラックパーティーは、参加者たちの人脈づくりの場ともなっている
 
また、図らずも出雲との縁も感じている。日系社会の歴史が刻まれているワシントン州日本文化会館(JCCCW)の展示スペースに、国語学校(現シアトル日本語学校)の初代校長で日系人のリーダーだった三原源治氏の書簡が飾られている。実はこの三原氏は出雲の出身。また、あれだけ嫌で飛び出した故郷島根であったが、今では島根県知事からの委嘱を受け、県の親善大使である「遣島使」を務めている。「誇れる田舎があるのは、良いものですよ」
 
2022年から島根県の親善大使「遣島使」に就任
 
2024年のジャパンフェアで北島三郎の「まつり」の替え歌ジャパンフェア・バージョンを熱唱
 
さらに不思議な縁が待っていた。外務省で2期上のペルシャ語の先輩が、米国で研修したことは聞いていたが、それがシアトルだったとは知らなかった。ところが赴任してすぐ、立ち話をしたイラン人との会話で、その先輩が26年前に彼女の実家でホームステイしていたことを知る。そして、彼女の傍らに立ち角さんに名刺を差し出してきた女性が、当時その家にいた3歳の孫娘で、今では、イラン系アメリカ人女性で初の州下院議員になっていることがわかり驚いたという。こうした偶然が重なり、「シアトルに呼ばれたのかな、と思っています」と角さんは話す。
 
実はイランについて知られていないことは多い。角さんから見たイラン人は、「ペルシャ帝国の末裔だけあって、知的で頭がよく、コミュニケーション能力が高い」。義理堅く、日本の演歌の世界に通じるものもあるそうだ。また、イランには反米のイメージが強く、それも実態の一面ではあるが、一方で、例えば、2001年の同時多発テロ事件が起きた際、国民の多くは「どうか、実行犯がイラン人ではありませんように」と案じ、当時のハタミ大統領は犠牲者を悼むメッセージを出した。市民による追悼集会も開かれた。しかし、一部メディアでは別の画像や動画が恣意的に使われ、「祝砲を挙げている」と誤報されたこともあったという。
 
苦労して釣り上げたシルバーサーモン。次の狙いはキングサーモンだそう
シアトルビール部の一員としてビールを醸造する様子
 
角さんをよく知る人は、彼のことを「イラン人」と呼ぶ。ところが、世間にはそれを快く思わない人もいる。「テロリスト国家の片棒を担ぐ」と誤解されたり、角さんの書いた記事がバッシングされたりすることもあった。しかし角さんの気持ちは揺るがない。「中東の大国イランは、日本のエネルギー安全保障にとって極めて重要な地域にあり、シルクロードの東西の端に位置する両国は伝統的な友好関係を保っている。またイランは、1979年の米国大使館人質事件以来、アメリカと国交断絶しているため、アメリカが日本に『情報が欲しい』と頼む国、中東地域の安定にとり鍵となる国です。そんなイランを主戦場とし、『イラン人』と呼ばれることを、誇りに思います」
 
「オーラを放つ人間になりたい」。そう面接官に話した若き角さんは、現在、「異色の外交官」として唯一無二のオーラを放つ。それは、角さんが「自分にしかできない何か」を得たからにほかならない。高い「人間力」と「現場に飛び込む胆力」が角さんの魅力であり、優れた外交官としての資質である。角さんと関わった人は、日本人離れした、一般的な「役人」のイメージを覆す角さんに魅了され、自然と心を開いていく。そこが中東であろうとも、北米であろうとも、世界のどこであろうとも……。今日も角さんは目を輝かせながら、一度きりの人生を全力で駆け抜けている。
 

 

 

第42回 皇室報道の訳に挑戦してみよう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第42回 皇室報道の訳に挑戦してみよう

【今回の例文】

Emperor, Empress Welcome in New Year
The Emperor and Empress, along with other Imperial family members including the Emperor Emeritus and Empress Emerita, held their New Year’ s greetings at the Imperial Palace in Chiyoda Ward, Tokyo, on Thursday.
The first of their five scheduled appearances throughout the day, which started 10:10 a.m., was also attended by Princess Aiko, the couple’ s daughter; Crown Prince Akishino, Crown Princess Kiko and their second daughter Princess Kako; and Princess Hanako of Hitachi.
Prince Hitachi refrained from attending the event in consideration of his advanced age. Members of the Takamado and Mikasa Imperial families also did not participate, following the passing of Princess Yuriko of Mikasa in November.
This was the first New Year’ s greetings in two years as it was canceled last year in consideration of the massive Noto earthquake.
   (出典:1月2日付The Japan News)                                            
 

【機械翻訳】

天皇、皇后両陛下、新年をお迎えください
天皇、皇后両陛下は木曜、東京都千代田区の皇居で、上皇、上皇后ら皇族らとともに新年のあいさつを行った。
午前10時10分から始まった一日を通して予定されている5回の姿のうちの最初の回には、夫妻の娘である愛子さまも出席された。
秋篠宮皇太子、紀子皇太子妃、そして次女の佳子内親王。そして常陸の国の花子さま。
常陸宮さまはご高齢を考慮して出席を控えられた。 11月に三笠宮百合子さまが亡くなったことを受け、高円宮家や三笠宮家の方々も参加しなかった。
昨年は能登地震の影響で中止となったため、2年ぶりの新年の挨拶となった。
   (Google翻訳)

【修正後】

新年一般参賀にて天皇陛下がお言葉
1月2日、東京都千代田区の皇居で新年一般参賀が行われ、天皇皇后両陛下をはじめ、上皇ご夫妻ら皇族方が参賀者の祝意に応えられた。
午前10時10分から始まった一般参賀は計5回にわたって行われ、1回目には両陛下の長女愛子さま、秋篠宮ご夫妻、秋篠宮家の次女佳子さま、常陸宮妃華子さまも出席された。
常陸宮さまはご高齢を考慮して欠席され、また三笠宮家と高円宮家のご一家は昨年11月に三笠宮妃百合子さまが逝去されたことを受け出席を控えられた。
昨年は能登半島地震を受けて中止となったため、2年ぶりの新年一般参賀となった。
 
皇室の恒例行事、新年の一般参賀に関する記事を取り上げました。皇室報道は用語や内容が特殊ですから、よく調べて訳しましょう。

今回のポイント✅

① お祝いするのは誰?
一般参賀とは「天皇皇后両陛下が国民から祝賀をお受けになる行事」です。したがって、お祝いするのは国民である参賀者で、両陛下はそれを受けられる立場になります。

② Appearanceをどう訳すか?
“five scheduled appearances”を機械翻訳では「予定されている5回の姿」と直訳されていますが、これでは意味をなしませんね。appearanceは「一般参賀」の英訳です。ちなみに宮内庁のホームページでは、「お出まし」という表現が使われていますが、通常は「一般参賀」でよいでしょう。

③ 適切な情報を補おう
日本語のメディアでは、愛子さまについて言及する場合、必ず「天皇皇后両陛下の長女愛子さま」という呼称になっています。英語では単にdaughterですが、日本語で表す場合は情報を補足した方がいいですね。

まとめ  

今年の新年一般参賀は天候にも恵まれ、約6万人もの人々が訪れたそうです。世界に誇る日本の皇室。伝統文化の象徴として次世代へと引き継ぎ、大切に守っていきたいですね。

第41回 キティちゃん、50歳おめでとう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第41回 キティちゃん、50歳おめでとう

【今回の例文】

Hello Kitty at 50.
How a drawing of a face made up of three circles, six lines, and blank space (oh, and a bow, too) came to rule the world.
There’s something about Hello Kitty. In pop culture years, the character is practically Paleolithic. She debuted during the Ford administration, on a vinyl change purse that retailed for less than a dollar. Sanrio, the company that created her, didn’t think enough of her earning potential at the time to even give her a name. The BBC has described her reductively as a “narrative-free trademarked drawing.” Yet as Hello Kitty turns 50 this year, her button nose, dots for eyes, and matching whiskers form one of the most recognizable faces on earth.
     
(出典:TIME誌ハローキティ生誕50周年記念号                                                
 

【機械翻訳】

ハローキティ50周年
3つの円、6本の線、そして空白(それとリボンも)で描かれた顔が、どのようにして世界を征服するに至ったのか。
ハローキティには何かがある。ポップカルチャーの世界では、このキャラクターは実質的に旧石器時代の存在である。彼女はフォード政権時代に、1ドル未満で販売されていたビニールの小銭入れでデビューした。彼女を創り出したサンリオは、当時は彼女の収益性を十分に考えていなかったため、名前すら付けていませんでした。BBCは彼女を「物語のない商標登録された絵」と簡潔に表現しています。しかし、ハローキティが今年50周年を迎える中、彼女のボタン鼻、目玉の点々、それに合わせたひげは、地球上で最も認識できる顔の一つとなっています。
       (DeepL翻訳)

【修正後】

ハローキティが50歳に
3つの丸と6本の線、あとは余白だけ(そしてリボンも!)の顔が、いかにして世界中のハートを射止めたのか。
ハローキティには何か魅力がある。ポップカルチャー全盛の現代において、このキャラクターは実質的に旧石器時代の存在だ。ハローキティのデビューはフォード政権時代。1ドルもしないビニール製の小銭入れとして店頭に並んだ。ハローキティを世に送り出したサンリオは当初、ここまでのヒットを予想しておらず、名前すら付けなかった。BBCはかつて、ハローキティを「ストーリー展開のない商標キャラクター」と一言で評している。しかし、生誕50周年を迎えた今年、ボタン型の鼻、2つの黒丸、それらにマッチした6本のヒゲからなるハローキティの顔は、地球上で最もよく知られた顔の一つなのである。

日本が誇る最強キャラクター、ハローキティの生誕50周年を記念して、TIME誌が特集を組みました。その冒頭部分を訳してみましょう。平易な文章ですが、翻訳する上で注意すべき点が多くあります。
 

今回のポイント✅

事のトーンにあった単語を選ぼう
“rule the world”を「世界を征服する」と訳すと、かわいいキティちゃんのイメージと合いません。修正訳では、少し意訳して「世界中のハートを射止めた」としました。

一歩踏み込んで訳そう
There’s something aboutは、「何か引き付けるものがある」という意味で、よく使われる表現です。記事の冒頭ですから、「何とも言えない魅力がある」というニュアンスをはっきり出しましょう。

単純な文章こそ細心の注意を払う
a vinyl change purse that retailed for less than a dollarは、「1ドル未満で販売されていたビニールの小銭入れ」と直訳すると、いかにも翻訳調です。修正訳のように「1ドルもしないビニール製の小銭入れとして店頭に並んだ」とすると自然ですね。

まとめ  

今回取り上げたハローキティ特集号は、日本では未発売です。これだけでも、キティちゃんのグローバルな人気ぶりを物語っていますね。

光岡いずみさん〜ラ・レーチェ・リーグ 公認リーダー

教育者から表現者へ
人生を面白く生きる達人
ラ・レーチェ・リーグ 公認リーダー 
光岡いずみさん

母乳育児をサポートするラ・レーチェ・リーグの公認リーダーとして32年間活動してきた光岡さん。その一方で、長年にわたり理科教師を務めながら、ピアノやバレエの稽古に邁進し、NPOの運営にも関与するなど、仕事と趣味の垣根を越えて人生を謳歌しています。そんな光岡さんに「面白く生きる」ための人生哲学を語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

▲ 毎月1回開催されるラ・レーチェ・リーグの集い。悩みや相談ごとを気楽に話し合い、ポットラックランチを楽しみながら母親同士のつながりを深める。光岡さんが持っているのはカモノハシのぬいぐるみ!

光岡いずみ■1952年東京都生まれ。東京大学理学部修士課程を修了後、都内の高校で4年間、教鞭をとる。81年、夫の仕事の都合で渡米。91年にラ・レーチェ・リーグ公認リーダーの資格を取得し、現在までほぼ毎月集いを開いている。1995年から2019年までシアトル日本語補習学校の理科教師を務め、退職後はJIA主催の成人式USA運営委員に就任するなど、多方面で活躍。
 
マリー・キュリーに憧れて科学を志す
 
「リケジョ」という言葉が生まれるはるか前から、光岡さんは正真正銘の理系女子だった。小学校6年生までは国語が大好きで算数は苦手だったが、中学1年生の時、突如、理科に目覚めた。きっかけは学校の実験だった。「水を張ったメスシリンダーに重さ60グラムの石を入れたら、石の重さが40グラムになってるんですよ。え、どうして? 20グラムはどこに行っちゃったの?」当時12歳の光岡さんには、それがとても衝撃的だったという。「質量は変わらないが、重量は変わる」アルキメデスの浮力の原理を目の当たりにした瞬間だった。理科の先生は生徒たちに20グラム減った理由を徹底的に考えさせた。その時光岡さんは、こう気付く。「そうか。世の中って、ボケっと見ていたらダメなんだ」。そこから「物質の根源は何か」を徹底的に調べ尽くし、中2になる頃には高2の理科まで独学で学んでいた。
 
▲5歳の頃の光岡さん。父親と一緒によく野原で雲を眺めたり、花を摘んだりして、自然への興味が育まれた 
 
「急にリケジョになってしまったんです」と光岡さんは笑いながら当時を振り返る。「文章を書くことが好きだったので、文学者になろうと思っていました。人と関わるのが好きで、中学では生徒会副会長をやるくらいでしたから。もともと、文系なんです」。それが、あの実験を境に「マリー・キュリーになりたくなっちゃった」。マリー・キュリーの写真を机の前に貼り、自分も研究者になると決意した。2人の子どもを育てつつ、パートナーとともにラジウムを発見したマリー・キュリーは、女性ながらにノーベル賞を2回も受賞。彼女は、光岡さんにとって目指すべき存在となった。
 
▲ 生徒会副会長を務め、卒業生代表として答辞を読むなど、リーダーシップを発揮した中学時代
 
時は1960年代。まだ男女雇用機会均等法が成立する20年以上も前のことだ。女性の職業選択の自由は限られ、賃金格差も激しかったが、当時はそれが普通だった。「女性には参政権もない時代があったのですから」。光岡さんは、先人たちの活動に思いを馳せ、自分も何か行動を起こさなくてはという衝動に突き動かされていた。
 
光岡さんの母親は教師、いわゆる「職業婦人」だった。母方の祖父も商業高校の教師を務めていた。光岡さんの父親はエンジニアだったが、5人兄弟全員が教師だったことから、教師という職業は身近だった。光岡さんには間違いなく、教師の血が流れている。
 
こうした時代背景や家庭環境が影響し、光岡さんには「女性解放」に対する強い意識が芽生えていた。折しも、通っていた都立国立高校では上級生が改革を求め、校長室を占拠するストライキが発生。半年も授業が中断され、卒業式も行われなかった。日本中の学生が、「世直し」に熱くなっている時代だった。1年間の浪人生活を経て東京大学に進学した光岡さんは、「このまま出世街道を突き進むのではなく、東京大学に入った人間だからこそ率先して弱者を救わなくては。弱い者も含めた社会づくりこそがいい世の中を生む」との思いが湧き上がり、女性解放運動を標榜するサークルに入った。その頃、出会ったのが、後に夫となる則夫さんだ。
 
東京大学正門前で、女性解放運動のビラを配布。当時はガリ版で印刷していた
 
大学院では、水槽に異なる密度の塩水の成層を作り、海水の微細構造の成因を研究していた
 
一方で、勉学への熱意も消えることはなかった。大学3年で地球物理学科に進むと、流体力学の魅力に取りつかれ、海水データ採取のために観測船に乗りこみ船上生活を送ることもあった。そのまま修士課程に進んだ光岡さんは、順調に海洋物理学者への道を歩んでいたはずだった。
 
ところが、ある日突然、パニックアタックに襲われる。学会での発表を翌月に控えたことによる極度のストレスが原因だった。入院こそ免れたものの、3カ月間も自宅に引きこもる日々。「自分は社会に必要とされないダメな人間だ」と学会に出られなかった自分を責め続け、家から一歩も出られなくなった。そんな時、すでに社会人となっていた則夫さんが、デートと称してデパートの屋上にあるペット売り場に光岡さんを連れ出す。「そこでハムスターがぐるぐると回り続ける姿を見て、『ああ、がんばって生きてるんだな』と、なぜか救われた気がしました。主人の計らいにはとても感謝しています」。光岡さんの代わりに学会発表を行った研究室の教授にも「あなた中心に地球は回ってないんですよ」と言われたことで、何事にも気が楽になった。
 
修士号は取得したが、研究者には向いていないことを悟った光岡さんは研究の道を退き、教えることの醍醐味にひかれて高校の理科教師となった。そして間もなく、則夫さんと結婚した。
 
根底にあるものは、人助けと女性のエンパワーメント
 
▲長男が生まれたのは、母親の訃報を聞いた直後。長女はまだ2歳で、光岡さんは育児の重圧で大きなストレスを感じていた
 
1981年、光岡さんは則夫さんの独立を機にロサンゼルスへと渡る。29歳の時だった。全日制の日本人学校ロサンゼルス国際学園で教職に就き、やがて長女を出産。順風満帆に見えたアメリカ生活だったが、またしても精神的な試練に襲われる。肝臓がんで余命半年を告げられていた母親が亡くなったのだ。60歳だった。長男を身ごもり臨月だった光岡さんは葬儀に出席できず、墓前に手を合わせられたのは母の死から5カ月後のこと。2歳と0歳の子どもを抱える身で、母親の壮絶な闘病生活を聞かされ、心の整理がつかず虚脱状態に陥った。それでも「おっぱいが出なくなったらこの世の終わりと思うくらい必死でしたから、母の死の悲しみを棚上げしてしまったんですね。あれはつらかった」。何が光岡さんをそこまで追い詰めたのだろうか。「子育てを完璧にやりたかったのです。母がフルタイムで働いていたため、私たち姉妹は家政婦さんが家に来て面倒を見てくれるという家庭でした。私は、そうではなく、自分は子どもが小さい時は家にいようと思いました。そこに長男が生まれると上の子の赤ちゃん返りが重なり、精神的に参ってしまいました」。
 
光岡さんは長女を授乳中に「ラ・レーチェ・リーグ」(以下LLL)と出会っている。1956年にシカゴで発祥した、母乳で育てるために必要な情報と励ましを伝え続けるNPO団体で、今では世界中で活動を展開している。LLLから得られるものは知識だけではない。同じ悩みを抱えている母親同士の絆であり、先輩ママからの体験談や助言こそが、LLLの宝だ。「LLLを通じて、単に母乳育児のノウハウだけでなく、精神的なゆとりを得ることができ、子育ての重圧から解放されました」と光岡さんは語る。自分を救ってくれたLLLに恩返しができるならと、公認リーダーへの就任を打診された際、迷わず承諾した。今度は自分が「助ける側」へと回る番だった。
 
1991年に公認リーダーの資格を取得し、翌年ベルビューに引っ越すと、全米初となる日本語で活動する「ラ・レーチェ・リーグ-イーストサイド・ジャパニーズ」を立ち上げた。現在まで32年間、ほぼ毎月欠かさず集いを開いている。その原動力はどこから湧いてくるのだろうか。「女性を元気にしたいんです」。光岡さんの答えは明確だ。「医者の一言で母乳が出なくなったり、母乳で育てたい女性に正しい情報とサポートが届いていない現実を目の当たりにしてきましたから」。ただし、その役割も時代に合わせて変わりつつある。「今はインターネットで何でも情報が手に入る時代。お母さんたちが求めているのは、知識ではなくて『つながり』です。1カ月に1回会って、元気になる。これが一番大事」。
 
補習学校中学部 理科の授業(果物で電池を作る実験)
 
理科教師だった光岡さんには、生物の進化について教える際に欠かせないアイテムがある。カモノハシのぬいぐるみだ。実はここに、光岡さんが母乳育児を推奨する理由が隠されている。ほ乳類なのに卵を産むカモノハシは、アヒルのようなクチバシと水かきのついた足を持ちながら、胸にはお乳がにじみ出てくる乳腺もある。「脊椎動物が魚類、両生類、爬虫類、鳥類、ほ乳類と進化の過程をたどってきた中で、鳥類からほ乳類になりかかっているのがカモノハシ。つまり、動物は母体の栄養を子どもに与えるように進化してきたのです」と言う。
 
シアトル日本語補習学校にて。毎回、自分が教材になって授業を行うのが光岡さんのスタイル。実験用の器具や説明用のおもちゃなどをカートに載せて、教室移動していた
 
自分とは何ぞや-
伝えること、表現することを通して人生最大の謎を解く 
 
光岡さんは24年間教えてきたシアトル日本語補習学校を2019年に退職して以来、自由の身だ。「私には肩書がないから」と笑うが、携わっている活動を数え出したら片手では足りない。
 
60歳の時、イーストサイド音楽祭「PAFE」の大人部門でショパンのエチュードを演奏し、見事1位に輝く
 
3歳から18歳までピアノを習っていた光岡さんは再び鍵盤をたたきたくなり、48歳で先生に師事し本格的に再開。ドビュッシーの難曲にも挑戦し、毎年コンテストに出場するまでになった。「自分のためだけではなく、人のためにも弾きなさい」。演奏を通じて自分の喜びを伝えることで、人とつながっていく、という先生の教えに強く共感したという。
 
 ▲ ピアノ演奏に必要な体づくりと表現力向上のために始めたバレエ 
 
さらに、「バレエをやるとピアノの表現力が高まる」と言われ、53歳からバレエも習い始める。「身体表現による美とは何か」動き一つ一つに踊り手の哲学が反映されるようなバレエの世界は光岡さんを魅了した。今年の夏にはヨーロッパへ飛び、ハンブルグ・バレエ団の芸術監督ジョン・ノイマイヤー氏による最終公演「マーラー交響曲第3番」を本拠地ドイツで観劇した。本来はオーケストラのために書かれた交響曲をバレエで表現する作品だ。「これを観られたので人生に悔いはありません」。そう言い切れるほどの圧巻の舞台だった。
 
ひるがえって、光岡さん自身が「きのこ道」と呼ぶ「ピュージェット・サウンド菌類学会(Puget Sound Mycological Society)」の活動もまた、趣味の域を優に超えている。光岡さんは1994年から同学会に所属し、きのこへの愛情は並々ならぬものがある。日本語補習学校でも生徒の間で「光岡先生といえば、きのこ」とまで言われていたという。光岡さんにとって、きのこの魅力とは? 「この世の中は、生産者(光合成をする植物)、消費者(動物)、分解者(菌類)の三者で成り立っています。菌類がいないと世界はゴミと糞尿だらけになってしまうでしょ。有機物を無機物に還す大事な役割を持っているんです」。どこまでも科学者視点だ。探してきたきのこは必ず学名を確認するため、英語と日本語の分厚い専門書にはあちこちに下線が引かれている。毎年10月に開催される同学会主催の「きのこショー」では、各地から集まった会員がそれぞれ採取したきのこを持ち寄って見せ合うそうだ。
 
 ▲ 夫の則夫さんと。コロナ禍に結婚40周年を迎えた
 
JIA林間学校にて。生徒が採取した石の成り立ちや種類などを教える光岡さん
 
光岡さんは、JIA(Japanese In America)Foundation という2014年に立ち上げられたNPOの活動にもかかわってる。毎夏恒例の林間学校では自然教育を担当し、そこで理科の面白さに目覚める生徒も少なくないという。また、来年で6回目を迎える成人式USAは、1月にベルビューのメイデンバウアー・センターで行われる予定だ。光岡さんはその運営委員も務めている。
 
▲2020年から毎年開催しているJIAの成人式USA。光岡さんは第1回目から運営委員を務めている 
 
多方面で活躍する光岡さんを支える人生哲学とは何だろう。「小説家の開高健が『人生最大の謎とは自分である』と言っていますが、全く同感。自分自身をひもといていくのを面白がるのが、私の人生哲学です。偶然のように見えても起こったことは全て必然。まるで、縦横無尽のきのこの菌糸からきのこが出てくるように」。さらにこう続ける。「世の中は複雑系ですが、そのからくりは、意外とシンプルなんです。けれども、今信じられている法則はあくまでも全部仮説。もし500年前に生まれていたら、誰もが太陽が地球の周りを回っているって信じていますよね。それと同じ。世の中の当たり前はどんどん変わって、パラダイムシフトしていくのですよ。人類の叡智の進化ですね」。難解で退屈な理科の話も、光岡さんから学んだらきっと楽しいだろう。育児で悩んでいる時に、光岡さんに励ましてもらったらきっと元気が出るだろう。こうして育つ人の輪は、これからも地域や世代を超えて広がっていくに違いない。
 
▲ラ・レーチェ・リーグの集いでは、いつも笑いあり涙あり。「わたし一人じゃない、という『悟り』にも似た境地に到達すると、育児は育自になる」と光岡さんは語る

第40回 人気アニメ作品のあらすじを訳してみよう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第40回 人気アニメ作品のあらすじを訳してみよう

【今回の例文】

Spy x Family– For the agent known as “Twilight,” no order is too tall if it is for the sake of peace. Operating as Westalis’ master spy, Twilight works tirelessly to prevent extremists from sparking a war with neighboring country Ostania. For his latest mission, he must investigate Ostanian politician Donovan Desmond by infiltrating his son’ s school: the prestigious Eden Academy. Thus, the agent faces the most difficult task of his career: get married, have a child, and play family. A Spy/Action/Comedy about a one-of-a-kind family!         (出典:SPY X FAMILY MANGA ONLINEから一部抜粋)                                                
 

【機械翻訳】

スパイ×家族 –「トワイライト 」と呼ばれるエージェントにとって、平和のためなら背伸びは無用。ウェスタリスの名スパイとして活動するトワイライトは、過激派が隣国オスタニアとの戦争を引き起こさないよう、たゆまぬ努力を続けています。最新のミッションは、オスタニアの政治家ドノヴァン・デスモンドを調査し、彼の息子が通う名門エデン・アカデミーに潜入するというもの。こうして諜報員は、結婚し、子供を産み、家族を演じるという、彼のキャリアで最も困難な課題に直面することに。唯一無二の家族を描いたスパイ・アクション・コメディ!(DeepL翻訳)

【修正後】

Spy×Family – 平和のためなら、どんな任務でも引き受ける諜報員。コードネーム「黄たそがれ昏」。西国(ウェスタリス)の凄腕スパイとして活動する彼は、過激派が隣国の東国(オスタニア)と戦争を引き起こさないよう、日々、諜報活動に当たっている。新たな任務は、オスタニアの政治家ドノバン・デズモンドの動向を探り、彼の息子が通う名門イーデン校に潜入するというもの。こうして黄昏は、結婚し、子どもを作り、仮初めの家族を演じるという、彼のスパイ人生で最も困難な課題に直面することに。唯一無二の家族を描いたスパイ・アクション・コメディー!

海外でも大人気となったアニメ作品のあらすじを訳してみましょう。元が日本語ですので、訳語を勝手に作らないことが基本です。
 

今回のポイント✅

① 固有名詞は必ず調べましょう
Twilight は「黄昏」、Donovan Desmondは「ドノバン・デズモンド」、Eden Academyは「イーデン校」です。また、OstaniaとWestalisは作品中ではそれぞれ東国(オスタニア)、西国(ウェスタリス)と呼ばれています。固有名詞は作品中での設定をしっかり確認しましょう。

作品に合わせた訳語をチョイス
「黄昏」は、スパイである主人公のコードネーム(暗号名)です。「~と呼ばれる」と訳すのではなく、スパイ作品らしく「コードネーム」という単語が出てくるといいですね

男性が子どもを産む?
have a child は、主人公の男性スパイに課された任務の一つですから、「子どもを産む」と訳すことはできません。「子どもを作る」または「子どもを持つ」とするのが自然でしょう。

まとめ  

架空の国や学校が描かれている作品ですが、いかにも実在しそうな設定やネーミングに作者のセンスを感じます。世界中の若者を魅了する作品は、物語の基本設定がしっかりしていますね。

在シアトル日本国総領事館 総領事 伊従 誠さん

自由主義の推進とこれからの繁栄を請け負う  
アジア外交のエキスパート

在シアトル日本国総領事館 総領事 伊従いより  まこと さん

東西冷戦が終結して間もない1990年に外務公務員になり、主にアジア諸国と日本との関わりを担当してきた伊従さんは、日本のアジア外交のエキスパートです。東南アジアと日本との知られざる深いつながりや、混沌とした国際情勢における日米関係の重要性、さらに総領事としての抱負などについてうかがいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

伊従 誠■1965年、東京都生まれ。東京大学経済学部を卒業後、1990年に外務省入省。アジア太平洋局地域政策課長、国際交流基金総務部長などを歴任。在外勤務はカナダ、インドネシア、フィリピン、ワシントンDCに続き、シアトルで5度目となる。余暇には読書やスポーツ観戦、ワシントン州の自然を楽しんでいる。 
 
経済学を専攻し外交の道へ
 
2023年10月末に総領事として在シアトル日本国総領事館に赴任して、間もなく1年。伊従さんはシアトルという街をどのように捉えているだろうか。「ボーイングやアマゾン、マイクロソフトなどがよく知られていますが、ITや生成AIだけでなく生命科学や宇宙産業の分野でもスタートアップが数多く活動していますよね。奥が深くて、ワクワクします」。第2のシリコンバレーとも呼ばれるシアトルは、伊従さんの知的好奇心を大いに刺激するようだ。
 
ひとくちに外交官といっても、専門とする地域や分野は多岐にわたる。伊従さんは、1998年のアジア通貨危機の際に本省で「新宮澤構想」の取りまとめに奔走したり、アジア太平洋地域政策課長としてASEANをはじめとしたアジア外交のかじ取りを担ったほか、インドネシアやフィリピンで経済協力担当参事官や経済公使を歴任するなど、ODA(政府開発援助)を軸にした経済協力の分野に関わってきた。鉄道の敷ふせつ設、発電所や港湾の建設といったインフラ整備や、外国人労働者の受入れ制度など、ハードとソフトの両面から国家間の円滑な関係を後押しするスケールの大きな任務だ。
 
東京都杉並区で育った伊従さんの子ども時代は、水泳やサッカーなどのスポーツに明け暮れる毎日だった。水泳では中学時代に杉並区第3位に入賞した経験も。地元の都立高校を卒業して東京大学経済学部に進学した伊従さんだが、「あまり勉強はしませんでした」と当時を振り返る。実は大学4年生の時に国家公務員試験を受けるも落ちてしまう。そこで友人に誘われて外務省試験に挑戦し、見事に合格。伊従さんが大学時代を過ごした1985年から89年は、ちょうど冷戦末期で激動の時代だ。「1985年はゴルバチョフが登場し、プラザ合意で円高が加速しました。翌年にはフィリピンでマルコス政権が倒れ(エドゥサ革命)、チェルノブイリ原発事故があり、東京でG7サミットも開催されました。台湾や韓国での民主化、ビルマでの軍事クーデター、天安門事件など、大学時代は国際情勢上の大きな出来事があった時期と重なりました。世の中が大きく変わりそうな空気に満ちていて、外交って面白いかもしれないな、と思いました」
大学のゼミ合宿での一コマ。故・小宮隆太郎教授(後列左)とジェフリー・サックスの論文を読みながら、
国際金融や開発について熱い議論を交わした。前列左が伊従さん
 
外務省に入省した1990年の夏、イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発した。入省1年目の伊従さんは、予定していた夏休みを返上。「早くて終電、普通で午前3時、下手すると朝まで帰れない」という、霞が関の役人として手痛い洗礼を受けた。それでも、テレビのレポーターが外務省庁舎前から連日中継する様子を見て、「ニュースの中心となっている場所で仕事をしているという実感が沸きました」と言う。
 
▶︎2001年から2004年まで駐在したオタワにて。自宅前を流れるリドー運河は、毎年2月になると天然のスケートリンクになった
 
1年間の激務に耐えた伊従さんは、1991年7月、晴れて在外研修生としてイギリスのケンブリッジ大学へと赴く。後に妻となる優子さんとは遠距離恋愛を成就させたが、まだインターネットのない時代だ。「電話は週2回、1回10分以内に留めようと決めていましたが、揉め事があったりすると、月末の請求が何千ドルの世界でした。この話を息子にすると、『お母さんと話すためだけに、なんという無駄遣い!』と非難されます」。2年間の研修を終え、日本に戻ってからしばらくの間は、本省勤務が続いたが、2001年、初めての在外勤務が命ぜられる。赴任先はカナダのオタワだ。小学校1年生の長男と3歳の次男も帯同し、家族4人で海を渡った。任期中にはカナダのカナナスキスでG7サミットが開催され、日本からは小泉首相(当時)が訪問。また着任直後にアメリカで発生した同時多発テロ事件の影響を受け、外交の現場では混乱が続いたが、プライベートでは家族でスキーやスケートに挑戦するなど、カナダの大自然を満喫した。
 
アジア諸国との関係強化に尽力
 
ジャカルタ郊外のボゴール宮殿。現在は大統領官邸だが、元はオランダ総督府だった
 
その後、伊従さんは2度の東南アジア勤務を経験する。2008年に赴任したインドネシアでは、日本の援助の下、大規模な地下鉄プロジェクトが進行中だった。主な移動手段がバイクと自動車だった首都ジャカルタでは、交通渋滞と大気汚染が深刻化。公共交通機関の整備が喫緊の課題であった。そこで日本政府は、日本基準の鉄道技術やノウハウを注ぎ込んだインドネシア初となる地下鉄の敷設を主導した。「確か、何年か前に開業したはずです」と語る伊従さんの表情は誇らしい。2006年のプロジェクト開始から開通まで約13年。現在はジャカルタ市民の快適な通勤の足となっている。
 
◀︎ インドネシアの古都、ジョグジャカルタにそびえ立つプランバナン寺院にて
 
日本からインドネシアに「輸出」されたものは、それだけではない。「母子手帳や交番、鑑識も日本式がモデルとなって現地に定着しています」。日本人にとって当たり前の安全・安心な生活を支える仕組みが、海を渡り世界の人々の暮らしに役立っているとは、多くの日本人が知らない事実だろう。在勤中はスマトラ島北部のアチェをたびたび訪れた。この地域は2004年末に巨大地震が襲い、甚大な津波被害に見舞われた。その復興支援を日本政府が行っており、フォローアップするのも伊従さんの重要な任務の一つだった。もともと分離独立運動が盛んで、30年近く内戦状態が続いていたが、皮肉にも災害支援をきっかけに、インドネシア政府と反体制派との間に和平が実現。州知事には元武装勢力の指導者が就任した。「長年闘争に明け暮れていた元ゲリラの知事です。眼光の鋭さは、今でも目に焼き付いています」。対面した時の印象を、伊従さんはこう話す。
 
スマトラ島沖は2009年9月にもマグニチュード7.5の地震に襲われた。伊従さんは地震発生の翌日に現地入りし、停電、通信障害、ガソリン不足、というサバイバル状況の中、日本の緊急援助隊や自衛隊の部隊の派遣受入れ準備を整えた。「このことは大きな自信になりました。インドネシア勤務時代の一番の思い出です」
 
インドネシアは世界最大のイスラム国家だが、日々の暮らしはどうだったのだろうか。「毎日5回、街中のスピーカーからコーランが流れるので、イスラム社会にいる感じは強くありました。とはいえ、戒律は中東諸国に比較するとそこまで厳格ではなく、ビンタンビール(インドネシア原産のビール)も人気でした」。一方で、英語がほぼ通じないインドネシアでは、現地の人と意思疎通を図るためにインドネシア語を学ぶ必要があった。「今でも家族全員、片言は覚えていて、ふざけてインドネシア語を使うこともあります」
 
2015年12月、MILFの本部(アジト)を訪れた際の写真。前列左端が伊従さん。周囲には武装した元ゲリラの姿も
 
2015年から4年間滞在したフィリピンでも、手に汗握る経験をした。同国のミンダナオ島では、長らくモロ・イスラム解放戦線(MILF:Moro Islamic Liberation Front)が武装闘争を続けていたが、2014年、日本政府の仲介でようやく包括和平合意にこぎ着けた。経済公使として赴任した伊従さんは、着任早々、MILFの本部(アジト)を訪ねることに。「機関銃で武装した元ゲリラがそこら中にいました」。今だからこそ笑って話せるが、このように、外交官の仕事は時として身の危険と隣り合わせなのである。
 
廃虚と化したミンダナオ島・マラウィの復興支援会議に向かう公共事業道路大臣(中央左)のプライベートジェットにて。
交通の便が極めて悪い地での同乗の申し出に感謝
 
フィリピンではインドネシア同様、通勤鉄道の敷設や幹線道路の建設、沿岸警備隊への巡視船供与などハード面での援助に携わったが、ソフト面でも重要な局面に立ち会った。「外国人材受入れ制度」の整備だ。2017年に創設された「国家戦略特区制度」で家政婦としてフィリピン人の受入れが始まり、同じく同年、「技能実習制度」の下で介護枠の受入れも開始された。さらに2019年には「特定技能制度」が誕生する。毎年のように日本国内で新たな制度が発足するたびに、人材を送り出す側の在外公館はその対応に追われた。「フィリピン政府が日本に労働者を送り出すことに前向きだったことは救いではあったが、制度毎に調整しなければならない事項が膨大で、毎回ヒヤヒヤしながらフィリピン側と折衝を重ねました」。少子高齢化社会に突入した日本は、多くの産業で働き手が足りず、すでに外国人労働者なくして暮らしが成り立たないのだ。この現実に目を背けることはできない。
シアトルのシンクタンク「全米アジア研究所(NBR)」主催の安全保障に関するフォーラムで、パネリストとして登壇
 
優しい眼差しが印象的な日本通のツガデ交通大臣(当時▶︎
 
伊従さんは、ドゥテルテ政権の閣僚たちとも親交を深めた。強面で知られたロドリゴ・ドゥテルテ前大統領はミンダナオ島ダバオ市長として名をあげた人物で、側近にダバオ出身者を多く登用した。実はこのダバオ近郊には戦前、約2万人の日本人・日系人が住んでおり、東南アジア最大の日本人街があったことから、閣僚の多くは日本通だった。ドミンゲス財務大臣(当時)もその一人だ。「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についての考察や、遠藤周作の『沈黙』の奥の深さについて議論を吹っ掛けられました」。というから驚きだ。また、ツガデ交通大臣(当時)も、かつて日本企業と事業をしていたことがあり、毎月のように神田駅のガード下で飲んでいたそうだ。「日本の大臣がフィリピンを訪問する際、『おしぼり』を出すタイミングについて相談されたこともありました。ただ、ODA事業の起工式の日が『大安』じゃないとクレームを言ってきたのには閉口しましたが」。何とも微笑ましいエピソードである。
 
モンタナ大学に設立される「マンスフィールド記念日本及びインド太平洋研究チェア」の発表式典に出席。2024年5月2日撮影
 
シアトルから支える日米両国の絆
 
◀︎ ドミンゲス財務大臣(当時)。フィリピンを離れてからも親交は続いた
 
今、世界を見回してみると、各地で紛争が起こり、平和とは程遠い状況にある。伊従さんが外務省の門をたたいた1990年当時は、ソ連が崩壊し、自由主義が勝利したかのように見えた。「自由や民主主義、法の支配は普遍的価値だと思っていました。その価値観が現在、世界中で挑戦を受けています」。冷戦の終結から30年余り。国際社会は、新たな情勢の出現により混迷を極めている。「日米両国は基本的な価値観を共有する同盟国です。日米関係の重要性が今ほど増している時はありません」。今年4月の岸田総理の訪米を振り返り、伊従さんはこう付け足す。「岸田総理が米議会で、『日本はこれからもアメリカと共に歩み続ける。それはアメリカに愛着があるからではなく、日本の国益にかなうからだ』という主旨の演説をしました。全くその通りです」
 
特にシアトル周辺は、日米関係において重要な位置づけにある、と伊従さんは言う。「日本周辺の防衛に深く関与する全米第3の規模の海軍基地があり、日本有事の際に真っ先に駆け付ける陸軍第1軍団もオリンピア北部の基地に駐留しています。経済的な結びつきが強いだけでなく、安全保障面でも日本にとって非常に重要な地域です」
 
桜の植樹に合わせて日系人と桜の関係を記した銘板(めいばん)をシアトル市が作製。その除幕式にて。2023年12月6日撮影
 
2月に移転した最新のシアトル・サウンダーズFC本部施設をオーナーのエイドリアン・ハナウアー氏の案内で視察。2026年にはFIFAのW杯がシアトルで開催される ▶︎
 
伊従さんは総領事の任務を3つ挙げる。「一つ目は、邦人保護。日本人が住む地域の市長や警察署長と面会し、必要な時に連携できるよう関係を構築しています。二つ目は、アメリカの人たちに日本を正しく理解してもらうように努めること。セミナーに登壇したり、有識者と意見交換したり、また日本文化や和食などを含めたトータルな日本像を積極的に紹介したりなど、米国全体の日本に対する認識の向上に努めています。三つ目は、シアトルを訪れる日本の要人に、この地で起きている出来事を正確に伝えることです」。そのため、伊従さんは政治家や研究者に加え、マイクロソフトやAWSの首脳陣などIT・AI分野の第一人者とも精力的に会合し、知己ちき を得ている。
 
伊従さんいわく、シアトルは「社会の在り方を変える街」。ITのみならず生成AIイノベーションをリードする一つの核だと言う。「生成AIの登場は、ホワイトカラーの産業革命と言う人もいます。そうした中で、日本がその波に乗り遅れないようにするには、どうしたらいいのか。ここシアトルで、自分なりに答えを探ってみたいと思っています」
 
ケビン・P・レノックス准将(前・米海軍第3空母打撃群司令官)宅にて。同氏は、東日本大震災の発生を受け米軍が実行した災害救援活動「トモダチ作戦」でも重要な役割を担った
 
知識欲の旺盛な伊従さんが目下勉強中なのは、「核融合」について。「核融合の仕組みや実現に向けての課題などを、専門書を読んだりYouTubeを見たりしながら勉強しています」。その背景には、シアトルを代表する世界的IT企業、マイクロソフトの存在がある。同社は2030年までに「カーボンネガティブ」を実現するという野心的な目標を打ち出した。つまり、自分たちが排出した二酸化炭素の量よりも多くの二酸化炭素を大気中から除去するというのだ。その目標を達成する手段の一つとして、同社は昨年、エバレットに本社を置く、核融合発電を手掛けるスタートアップ企業と2028年からの電力購入契約を結んだ。「そうした動きを、シアトルを管轄する総領事として日本からの訪問者に的確に説明できなければなりません」。一見、外交とは無関係に思える核融合に興味を持ち、基本的な原理を理解できるのも、「中学や高校で物理を学んだ基礎があるから」だと伊従さんは言う。役に立たない勉強はない。そのような思いから、シアトル日本語補習学校の中学・高等部2024年度入学式では、10代の若者たちに向けて、このような祝辞を述べた。「皆さんが現在勉強していることは、たとえ今、無意味に思えても、将来必ず役に立つことがあります。それをぜひ覚えていてください」。資源の乏しい日本にとって、人材こそが最も価値ある資源だ。未来の日本を担う若者たちに、伊従さんの思いはきっと届いたに違いない。
 

第39回 英文法の参考書を訳してみよう(2)〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第39回 英文法の参考書を訳してみよう(2)

【今回の例文】

Ageism
Ageism, also called age discrimination, is described by the World Health Organization (WHO) as “stereotyping, prejudice, and discrimination against people based on their age”.

Quick Tips:
− Don’t use women or an older relative as a substitute for ‘novice’ or ‘beginner’. For example, don’t say “something is so simple to use your mother (or grandpa) could do it”.
− ‘Older persons’ or ‘seniors’ are usually preferred terms over saying ‘the elderly’.
− Avoid negative terms such as ‘over the hill’, ‘little old lady’, ‘grandfathering’, ‘fogey’, or ‘geriatric’.


(出典:Inclusive Language: A Writing Guide on Respecting Diversityより一部抜粋)
                                                
 

【機械翻訳】

エイジズム
エイジズムは、年齢差別とも呼ばれ、世界保健機関(WHO)はこれを「年齢を理由とした固定観念、偏見、差別」と定義しています。

ちょっとしたヒント:
「初心者」や「初級者」の代用として、女性や年配の親族を例に挙げるのはやめましょう。例えば、「お母さんや(おじいちゃんでも)できるくらい簡単なもの」などと言わないようにしてください。
「高齢者」や「シニア」という言葉は、「お年寄り」という言葉よりも好ましい表現です。
「老いぼれ」、「お婆さん」、「おじいさん」、「老いぼれ」、「老人」などのネガティブな表現は避けるべきです。
                  

(DeepL翻訳)

【修正後】

エイジズム
「エイジズム」とは年齢差別を意味し、世界保健機関(WHO)によると「年齢に基づいた固定観念、偏見、差別」と定義されています。

役立つヒント:
novice(初心者)やbeginner(初級者)の代用として、女性や年配者を例に挙げるのはやめましょう。例えば、「お母さん(または、おじいちゃん)でもできるくらい簡単なもの」という言い方は避けるようにしてください。
the elderly(お年寄り)は、older persons(高齢者)やseniors(シニア)に置き換えた方が好ましい表現になります。
over the hill(老いぼれ)、little old lady(お婆さん)、grandfathering(既得権を認める)、fogey(老いぼれ)、geriatric(老人)などのネガティブな表現は避けましょう。

英文法とは少し違いますが、「ダイバーシティとインクルージョン」を考慮した英文ライティングの参考書から「エイジズム」の項目を取り上げました。
 

今回のポイント✅

① Ageismとは? 
ageismとはage(年齢)+ism(主義)を合わせた造語で、年齢による偏見や差別のことです。「エイジズム」と訳され、日本語としても定着してきているでしょう。○○+ismの組み合わせで代表的なものに、人種差別を意味するracism(race+ism)があります。近年では、見た目で人を判断したり、容姿に基づいて差別したりする「ルッキズム(lookism)」もよく目にします。

② the elderly、older person、senior……どの言葉を使うべき? 
例外的な措置ですが、今回は「日本人向けに訳された英作文の参考書」と位置付け、原文の英語はそのまま残すことにしました。the elderlyには多少、差別的な意味合いが含まれるようで、older personやseniorに置き換えることが推奨されます。

③ grandfatheringの使用には特に注意 
grandfatherが動詞になると、「既得権を認める」「特例として免除・除外する」という意味になります。語源は南北戦争にまでさかのぼり、黒人の投票権をはく奪し、白人には特例を認めるという人種差別に根差した表現ですので、使用は避けた方がよいでしょう。  

まとめ  

英語、日本語を問わず、「言葉は生き物」といわれるように、時代に即したマナーが求められます。知らずに差別用語を使ってしまうことのないように、語彙のアップデートに努めましょう。

第38回英文法の参考書を訳してみよう(1)〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

第38回 英文法の参考書を訳してみよう(1)

【今回の例文】

Comma

Commas are separators. Often, a comma indicates a pause. But it’s a mistake to think that the only guideline for using commas is to insert one in any place where a pause would go. For example, compare the following:I talked to my brother Steve. (I have more than one brother.)I talked to my husband, Stan. (I have only one husband.)Both of these can be correct due to the comma’s job of setting off nonrestrictive, that is, nonessential information. For sentences like these, thinking of a comma as merely a pause would lead to errors.
                                                (出典:The best punctuation book, period.)


 

【機械翻訳】

カンマ

カンマは区切り文字です。多くの場合、カンマは一時停止を示します。しかし、カンマを使用するための唯一のガイドラインは、一時停止が入る場所にカンマを挿入することであると考えるのは間違いです。例えば、以下を比較してください。私は弟のスティーブと話しました。 (私には複数の兄弟がいます)夫のスタンと話しました。 (私には夫が一人しかいません)非制限的な情報、つまり必須ではない情報を示すカンマの役割により、これらは両方とも正しい可能性があります。このような文の場合、コンマを単なる一時停止と考えると間違いが発生します。                   (Google翻訳)

 

【修正後】

カンマ

カンマは区切り記号です。多くの場合、カンマは休止を表します。しかし、カンマを使用する上で、「文章の区切りに挿入すること」を唯一の決まりだと考えるのは間違いです。例えば、以下を比較してみましょう。私は弟のスティーブと話しました。 (私には複数の兄弟がいます)夫のスタンと話しました。 (私には夫が一人います)どちらも正しい文章です。というのも、カンマには非制限的な情報、つまり本質的でない情報を区切る役割があるからです。しかし、このような文の場合、カンマを単なる区切りと考えると誤用につながります。


今回は、英文法の参考書から「カンマ」の項目を取り上げました。読みやすさや文章のつながりに気を付けて訳してみましょう。
 

今回のポイント✅

① 不自然な日本語は主語を変えてみる 

機械翻訳の「カンマを使用するための唯一のガイドラインは、一時停止が入る場所にカンマを挿入することであると考えるのは間違いです」という文章は非常にわかりにくいですね。その理由は、「ガイドライン」が主語になっているからです。修正訳では、「『文章の区切りに挿入すること』を唯一の決まりだと……」のように、主語を変えました。さらに、ガイドラインを決まりに訳し替え、「 」で括ることで、かなり読みやすくなります。

② 私には夫が1人だけ? 

my husband, Stanのようにカンマを挟むことで、夫は1人だけだと限定されます。「私には夫が一人しかいません」と訳した機械翻訳も間違いではありませんが、「一人しかいなくて残念だ」のようなニュアンスになってしまうため、修正訳ではシンプルに「夫が一人います」にしました。

③ 接続詞を補おう 

最後の段落は、「これらの文章は文法的には正しいが、気を付けないと誤用する可能性がある」ということを説明しています。英語では、前後の関係が明確な場合、andやbutが省略されることがよくあります。そのため、日本語では意味を補った方が親切です。

まとめ  

普段よく使っているカンマですが、挿入する位置を間違えると、大きな誤解を招くこともありそうです。日本語同様、英語も句読点の用法は奥深いですね。

小田切信之さん〜東レ・コンポジット マテリアルズ アメリカ社元副社長兼シニア・テクニカルフェロー

東レ・コンポジット マテリアルズ アメリカ社のシニア・テクニカルフェローを最後に、退職を迎えた小田切さんは、約40年にわたり素材業界の最前線を走り続けてきました。通算16年のシアトル駐在生活を終え、日本に帰国する直前に、今だからこそ話せる炭素繊維の開発秘話やボーイング社との提携への道のり、会社人生を振り返っての思い出などを語ってもらいました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

小田切信之■1955年、岩手県生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科の博士前期課程(応用化学)を修了し、1981年に東レ株式会社に入社。複合材料の研究開発に従事する。2000年から2008年まで、東レ・コンポジットアメリカ社(タコマ)に勤務。2015年から再びタコマに赴任し、副社長兼シニア・テクニカルフェローとして陣頭指揮を執る。2021年に東北大学大学院から博士号(航空宇宙工学)を授与。2023年から24年までシアトル日本商工会会長を務めるなど、業界の枠を超え多方面で地域貢献に尽力した。5月末に東レを退職し、現在は日本で第二の人生をスタートさせた。

化学の無限の可能性を夢見て
岩手県盛岡市で生まれ育った小田切さんは、幼少期から自他共に認める「理科少年」だった。愛読書は『子供の科学』。大正時代に創刊され、現在でも刊行されている日本最古の子ども向け科学雑誌だ。小学生の小田切さんは、父親が定期購読してくれたこの雑誌が毎月届くのを楽しみにしていた。「恐竜の世界はどうだったか、宇宙の果てには何があるのか、モノを小さく見ていったらどんな風になるのか。そんなことが書かれていました。好きなページは何度読み返したか、わかりません」。日光青写真を撮ったり、簡単な実験をしたり。「ふろく」も楽しみ一つだった。
 
NHK番組「みんなの科学」も毎日欠かさず見ていた。中高生を対象にした内容だったが、小田切さんは夕方になるとテレビにかじりついた。番組では、哲学者のアリストテレスをはじめ、ニュートン、キュリー夫人など、偉大な科学者たちの生い立ちも取り上げられた。そうした「科学史」もお気に入りのジャンルだった。そこには父親の影響もあったのかもしれない。小田切さんの父親は教員で農芸化学が専門だった。岩手が生んだ詩人・童話作家、宮沢賢治も学んだゆかりのある分野で、農業や食品を化学的側面から研究する学問だ。化学を身近に感じる環境で育った小田切さんは、「今で言うSTEM教育を知らないうちに受けていましたね」と話す。
 
冬の岩手は、マイナス10度の世界だ。小田切さんが通う中学校では、真冬になると、全校生徒が中庭に集まって雪を踏んで固めた。そこにプールから水を引き、一面にまく。何日も繰り返すと地面が凍る。自家製スケートリンクの完成だ。生徒たちはスケート靴を持って朝早くに登校し、スケートを楽しんだ。「体育の授業では、スキー板を背負って近場の山まで行ったりもしました」。小田切さんは懐かしそうに語る。
 

15歳になると、小田切さん一家は父親を残して横浜に引っ越した。光化学スモッグがピークに達していた70年代当時、化学は「公害をまき散らす世の中の悪だ」とバッシングの対象だった。小田切さん自身も、自宅付近から富士山が見えたことはなかったという。しかし、「公害をまき散らすのも化学なら、公害を解決するのも化学を担う人の役割なのではないか」。化学の力で、世の中をよくすることはきっとできる。そう考えた小田切さんは、大学で応用化学を専攻した。「化学は手品みたいなものです。帽子の中から鳩が出てくるように、何もないところからモノを作り出すことができるのですから。化学の力は無限です」。修士課程に進むと、人工血管などに用いられる医用高分子材料の開発に取り組む研究室に所属し、高分子学会にもたびたび参加した。そこでひときわ興味を引いたのが東レの研究者の発表だった。通常、民間企業の発表は機密事項などの制約に縛られる。そんな中、東レの世の中の基礎研究領域の促進に役立つ部分は積極的に公開していくという姿勢は、とても魅力的だった。「この会社なら、自分のやってきた研究が生かせるかもしれない」。それが東レを選んだ理由だった。

炭素繊維の開発から
ボーイング社の認定取得まで

東レが炭素繊維の研究に着手したのは1960年代。鉄に比べて10倍の強度があり、何より軽い。そんな夢のような炭素繊維だが、実は古くから存在する。かのエジソンが白熱電球の実用化に用いたのも、京都の竹を蒸し焼きにしてできた繊維(フィラメント)だ。その後、ナイロンやポリエステルなど、さまざまな原料が用いられた中で、大阪工業技術試験所(現・産業技術総合研究所)の進藤昭男博士が、炭素繊維の製造にはアクリル繊維が向いていることを突き止め、特許を取得。すでにこの分野で開発・研究を進めていた東レが同試験所からライセンス許諾を受け、1971年に炭素繊維の商業生産が始まった。

しかし社内では炭素繊維の用途が明確に定まっておらず、社員にアンケートを取ったこともあったという。小田切さんが入社する前の話だ。一時期はギターやマリンバなどの楽器も試作した。「それこそ、『屍の山』でしたよ。作ってはみたものの、値段は高いし、このままでは世の中に通用しない」。しかし社内には、この素材は「いずれ大化けするだろう」との期待があった。

折しも時は70年代。石油危機をきっかけに省エネが叫ばれていた時代だ。軽くて丈夫な炭素繊維に目を付けたのは、アメリカのNASAだった。実はNASAでは、スペースシャトルの部材に炭素繊維複合材(炭素繊維に樹脂などを染み込ませた材料)を採り入れており、その性能を測っているところだった。そこに石油危機が重なり、宇宙産業だけでなく、航空業界でも軽量化が死活問題となっていた。商用機の尾翼やフラップなどにも試験的に採用され、炭素繊維への期待は高まったが、5年以上かけて収集された膨大なデータからわかったことは、「炭素繊維複合材は衝撃に弱い」。金属と違って、炭素繊維複合材は衝撃を受けてもへこまず、外側からはわからない。しかし超音波で検査すると、複合材の内部が損傷し、強度が半分以下に落ちていることもあった。これでは主翼、胴体、尾翼など飛行機の主要な構造部材に使えない。それがNASAの報告書の結論だった。

 
それを受けて、ボーイングは新しい材料の仕様を細かく定め、80年代の初めに公開した。ざっくり言うと、「衝撃を受けた後の残存強度を2倍に上げてくれ」というものだった。すぐに世界中のメーカーや研究者を巻き込んでの競争が始まった。東レも当然、その難題に挑んだが、なかなか解決の糸口をつかめず、壁にぶち当たっていた。そこで少人数のタスクフォースが結成され、31歳の若さで小田切さんがチームリーダーに抜擢されたのだ。入社5年目に訪れた転機だった。「予算は心配するな。何をやってもいい。ほかの誰にも口出しさせない。その代わり、3年以内に突破してくれ」。研究所の所長にそう命じられた小田切さんは、「3年も悶々とするのは嫌だな」と思った、と笑いながら当時を振り返る。
 
チームに課された唯一の条件が「3カ月は実験するな」。そのため、徹底的に調べて、考えて、議論を尽くした。侃侃諤諤かんかんがくがく の言い合いもざらだった。チームメンバーにはそれぞれ本業が別にあり、集まれるのは夕方から。それにもかかわらず、あっという間に100を超えるアイデアが出た。原理だけではなく製法も考え、「そもそもこの原理は成り立つのか」。そんな議論をしながら、優先順位を絞っていった。そして満を持して最初の実験を行うと、一発目で見事に成功。従来品と比較して、圧縮強度を2倍にできたのだ。それでも小田切さんいわく、「単にコンセプトが証明されただけです」。
 

異なる環境下でも同じ結果が出るのだろうか。例えば、熱やアルコールにはどれくらい強いのか。塗料や燃料などの化学物質に対してはどうか。疲労させたり、ねじったりしたらどうか。成形できるのか。機体メーカーが現場で百発百中の確率で部材を作れるのか……。実験が成功した後も、途方もない検証プロセスが待っていた。また、研究所だけでなく、技術、製造、工務、知財、法務、営業、購買など、工業製品に仕上げるまでには、ありとあらゆる部署が関わった。まさに総合力の賜物だ。さらに、信頼できる原料メーカーと提携し、安定したサプライチェーンも構築しなければならない。「100万ピースのパズルうちの最初の1ピースを私たちが埋めただけです」。小田切さんの謙虚な発言には、そうした背景がある。

ボーイングの材料認定を受けるには、それだけのプロセスを全て全て積み上げて、FAA(アメリカ連邦航空局)のお墨付きをもらわなくてはならない。しかし、航空機材料に求められる基準は果てしなく高い。ビス一本までロット管理されているのが飛行機の世界だ。事故があった際、どのロットの樹脂を使ったのか、その硬化剤は何を使ったのかなど、あらゆる素原料のロット番号までトレースできること。それが事故原因を究明し、再発防止を可能にするためにFAAが求めている基準だった。「こんなことまで資料にするのか」。汎用材料との大きな違いに、小田切さんは面食らった。

ボーイングが80年代初めに材料を募集してから、14年の歳月が経ち、ようやく777型機が初めて試験飛行したのは1994年のことだ。尾翼には東レの製品が使われた。すでに日本に帰国していた小田切さんに代わり、その日、タコマ駐在の社員がエバレットまで初飛行を見に行った。「行ってきました……。飛びました」。電話の向こうの同僚は感無量だった。胸に込み上げてきたうれしさを、小田切さんは今でも忘れない。777型機は翌1995年にユナイテッド航空に納入され、就航した。

故郷岩手を彷彿させるノースウェストで
異業種交流に尽力

 

通算16年の駐在生活で、ノースウェストの大自然を満喫した1992年、東レはワシントン州タコマに製造拠点となる東レ・コンポジットアメリカ社を設立した。小田切さんは2000年から2008年まで、そして2015年から2024年5月までと、2度にわたり同地での駐在を経験している。最初の赴任では、技術部長という立場もあり、もっぱら社内業務に従事したが、2回目の赴任では副社長とシニア・テクニカルフェローの両方を経験して、社外にも交流を広げていった。さらに、2023年にはシアトル日本商工会(春秋会)の会長にも就任したことで、日米協会とイベントを共催したり、沖縄県人会や日系二世退役軍人の集まりに参加したりなど、「日本にいたら絶対に接点がないような人たちと知り合うことができました」。相手が日本人とは限らない。シアトルという土地柄、ロシア、中国、台湾、フィリピン、ベトナムなど、さまざまな民族や人種を身近に感じながら生活した。「彼らともっと交流を深めたかったですね。それだけが心残りです。きっと多くの発見があったはず」。プライベートでも持ち前の社交性で多くの人と友情を育み、スキー、カヤック、ヨット、テニスのほかに、カニ釣りや松茸狩りなど、ノースウェストの大自然を満喫した。
 

収穫品のあさり、わかさぎ、松茸

異国に住む日本人として、小田切さんは先人たちへの感謝も忘れない。この地で受け入れられ、ビジネスできるのは、「19世紀後半から海を渡って移住した人たちが、脈々と築いてくれた信頼のおかげ」。今では国の重要文化財に指定された氷川丸も、かつては横浜とシアトルを結ぶ定期船として大活躍した。「その後、戦時中に多くの日系人が強制収容所に送られたことなど、日本の教科書で教えない歴史についても、もっと学ばないといけません」。
 
タコマ近隣のルイス・マコード統合基地(JBLM)にて

40年以上もの間、ものづくりに携わってきた小田切さんが、一番伝えたいことは何だろう。「『水を飲むときに、井戸を掘った人のことを忘れてはいけない』。何事にも必ず最初に苦労した人がいます」。水脈があるとわかって掘ったのではない。何遍掘っても空振り。でも、執念と努力の末に掘り当てた人がいる。そういう人の存在は忘れられがちだが、それは違う、と小田切さんは語る。「この話をアメリカ人にもするのですが、英語で”Remember those who dug the well.”と言うと、ちゃんと心に届きます」
人の歴史にも、会社の歴史にも、必ず鍵となる出会いがある。「好奇心を持って飛び込んでいくと、芋づる式に人脈がつながっていきます。人との出会いは宝物です」。第二の人生に向けて第一歩を踏み出した小田切さんの挑戦は、まだまだ続く。この先、どんな出会いと発見が待っているのだろうか。小田切さんの興味は尽きない。
 
▼ルーメン・フィールドでシーホークスの試合を観戦
▼ワシントン州日本文化会館(JCCCW)主催のイベントで桜を植樹。在シアトル日本国総領事やシアトル市長も一緒に
◀︎カリフォルニア州のマンザナー強制収容所を訪ねて
帰途に立ち寄ったアラバマ・ヒルズ
 
 

▲日米草の根サミットでマシュー・ペリーさんと。マシューさんはペリー提督の5代目の子孫

米日カウンシルの仲間と共に。左端が小田切さん

親しい仲間に別れの挨拶。小田切さんは、弊誌発行人のトミオ・モリグチとも親交を結んだ

第37回 移民に関するニュース記事を訳してみよう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

 

第37回 移民に関するニュース記事を訳してみよう


【今回の例文】

Advocates want work permits for all undocumented immigrants and DACA *applicants, not just migrants

Chicago Mayor Brandon Johnson met with community groups Thursday who are pushing to extend work permits to all undocumented immigrants, not just migrants.A letter from Mayor Johnson and other American mayors is expected to go to President Joe Biden to get movement on work permits for migrants in coming weeks. Johnson’s office said the letter has the support of some local organizations that want to see legal work options for new residents as well as undocumented residents who have been in the Chicago area for a long time.

(出典:2024年4月4日付ABC Chicago)

【機械翻訳】

移民だけでなく、すべての非正規移民とDACA申請者に労働許可を求める擁護者たち

ブランドン・ジョンソン・シカゴ市長は木曜日、移民だけでなく、すべての非正規移民に就労許可を拡大するよう働きかけている地域団体と会談。ジョンソン市長と他のアメリカの市長たちからの書簡は、数週間以内に移民の労働許可についての動きを得るために、ジョー・バイデン大統領に送られる予定。ジョンソン市長の事務所によると、この書簡は、シカゴ地域に長く住んでいる非正規滞在者だけでなく、新しい居住者にも合法的な就労の選択肢を望むいくつかの地元団体の支持を得ているとのこと。

          (DeepL翻訳)

            ⬇︎          

【修正後】

移住労働者だけでなく、すべての無登録移民とDACA申請者に労働許可を求める支援団体

シカゴのブランドン・ジョンソン市長は木曜日、移住労働者だけでなく、すべての無登録移民に対して就労許可が下りるように働きかけている地域団体と会談した。今後数週間のうちに、移民の労働許可に関する何らかのアクションを得るため、ジョンソン市長は他の市長と連名で、ジョー・バイデン大統領宛に書簡を送る予定。ジョンソン市長の事務所によると、この書簡は、シカゴ地域に新たに移住してきた外国人労働者だけでなく、長期にわたり居住している無登録滞在者にも合法的な就労の選択肢を与えるべきだと訴える地元団体の支持を得ているとのことだ。

*Deferred Action for Childhood Arrivalsの頭文字で、幼少期に親に連れられて米国に不法入国し、そのまま米国で育った若年層の移 民に対して強制退去処分を猶予する措置


シカゴの移民問題に関する記事です。難しい文章ではありませんが、背景知識が求められます。

今回のポイント

immigrantとmigrantの違いは?
どちらも「移民」と訳せますが、一つの文章で同一の訳語を当ててしまうと意味が重複し、文章が成立しません。通常、immigrantは「その国に永住する意思のある移住者」を指すのに対し、migrantは「就労目的で移住してきた短期労働者」を含みます。そのため、修正訳では、migrantを「移住労働者」と訳出しています。

不法移民とはもう呼ばない?
これまでillegal immigrant(不法移民)という語が一般的に使われていましたが、昨今では、undocumented immigrant(無登録移民)という語に置き換わりつつあります。移民を取り巻くアメリカの複雑な状況が反映されています。

③ 事実関係を確認しよう
最後の一文は、機械翻訳では一見正しく訳されていますが、実は誤訳です。この記事のテーマが、タイトルにあるとおり、「新規の移住者だけでなく、これまで法の保護から漏れてしまった、古くから(不法に)滞在している人たちにも就労許可を与えよう」とする動きであることがわかれば、as well asの前後の順番が逆だと気付きますね。

まとめ
アメリカと移民問題は切り離せません。特に今年は大統領選挙を控えているため、移民政策について耳にする機会も増えるのではないでしょうか。

第36回 ウサギに教わる人生論〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

 

第36回 ウサギに教わる人生論


【今回の例文】

Everything I Need to Know I Learned from my Bunnies

Meditate and reflect on life frequently Be selective about who you let touch you
Snuggle and kiss with your beloved often Digest the newspaper daily
Eat a good share of fresh vegetables and fruit each day Kick up your heels once in a while
Be curious about everything in life
Keep yourself well-groomed at all times and don‘t forget to wash your ears
Avoid those who growl at you Never take yourself too seriously
No matter where you live, you can make it homey and fun with a little rearranging of things
When frustrated or angry, play with your toy, throw some sand or get someone to hold you

(出典:HareLine Graphics for the House Rabbit Society)

【機械翻訳】

ウサギから学んだ、私が知るべき全てのこと

頻繁に瞑想し、人生を振り返りなさい
自分に触れさせる人を選ぶこと
愛する人とよく寄り添い、キスをすること 新聞を毎日読む
新鮮な野菜と果物を毎日しっかり食べること
たまにはかかとを蹴り上げましょう
何事にも好奇心を持ちましょう
常に身だしなみを整え、耳の洗浄を忘れずに
うなり声を上げる人は避けましょう 
自分を甘やかし過ぎない
どこに住んでいても、ちょっとした模様替えで家庭的で楽しい場所にすることができます
イライラしたり怒ったりしたら、おもちゃで遊んだり、砂を投げたり、誰かに抱っこしてもらいましょう

          (Google翻訳)

            ⬇︎          

【修正後】

人生に必要なことは全てウサギから学んだ

気軽に瞑想して人生を振り返ろう
自分の体に触っていい人を選ぼう
大好きな人を抱きしめて、キスしよう 新聞をよく読もう
新鮮な野菜と果物を毎日しっかり食べよう
たまには羽目を外して楽しもう
何事にも好奇心を持とう
常に身だしなみを整えて、耳掃除も忘れずに
敵意を見せる人は避けよう 
深刻に考え過ぎないどんなところに住んでも、ちょっとした工夫で居心地の良い空間を作り出そう
イライラや怒りが募ってきたら、おもちゃで遊んだり、家族に八つ当たりしたり、誰かに抱きしめてもらおう


ウサギから人生を教えてもらう!? 原文のようにユーモラスなトーンを出せたらいいですね。

今回のポイント

① 定番フレーズは外さない
Everything/All I need to know I learned…は、書籍のタイトルでもおなじみですね。日本語では「人生に必要なことは…で学んだ」のような言い回しになります。

辞書を引くクセを付けよう
Kick up your heelsは、文字通り「かかとを蹴り上げる」ですが、「浮かれる」「はしゃぐ」の意味もあります。ここでは、ウサギがぴょんぴょん跳ね回っている様子とかけています。

Throw sand はどう訳す?
Throw sandは、「砂を投げる」のほか、「真実を隠す」「妨害する」意味で使われます。ウサギと違い、人間は砂を投げるわけにはいきません。修正訳ではかなり意訳ですが、「八つ当たり」としました。

まとめ
ウサギの教えもなかなか含蓄に富んでいますね。すこやかな毎日を過ごす秘訣は、ウサギも人間も一緒のようです。

川崎和博さん〜エバーグリーン州立大学名誉教授

画家を目指し、22歳で海を渡ってから早60年。かつて前衛芸術に引かれた青年は美術史家になり、教壇を離れて20年経った現在は「人生を楽しむこと」に新たな境地を見出します。時折英語が交じりながらも、美への飽くなきこだわりを語る川崎和博さん。穏やかな笑顔の中に、アートへの熱き思いがあふれます。

大学時代に描いた絵は今も2枚残る。右が大学1年、左が大学4年次の最後の作品

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

川崎和博 1942年、宮崎県生まれ。九州大学医学部を中退して上京後、4年間はイラスト描きなどをして生計を立てる。父親の紹介でアメリカ人の商談に同行し、その縁で1965年にシアトルへ渡る。ショアライン・コミュニティー・カレッジからワシントン大学に編入し、油絵画家を志すも、美術史に転向。1972年に修士号を取得し、モンタナ州立大学で助手を務めながら、1975年に博士課程満期退学。1976年からエバーグリーン州立大学で約30年にわたり美術史を教える。その間、調査研究のため、金沢に2年、パリに1年滞在。2004年に退職してからは、世界各地を旅行し、趣味の料理と美術、野菜作りを楽しむ毎日を送る。
 
無一文で上京し、前衛芸術に傾倒

川崎和博さん(以下ヒロさん)の自宅には、40年以上かけてコレクションした絵画が整然と並ぶ。時代や作風も異なる多彩なジャンルの美術品は、吸い込まれそうな迫力の抽象画、フランス人画家による繊細なタッチのリトグラフ(石版画)、ポップアート、知人の画家やかつての教え子の作品、浮世絵、さらには大のお気に入りだという在米日本人アーティストによる竹細工の花器までそろう。リビングルームで読書をしながら、ソファーの正面に飾っている抽象画と対話するのが日課だ。

▲廊下からリビングルームまで、まるでギャラリーのような自宅。飾る絵は定期的に入れ替えるそう

また、リビングルームの一角を埋め尽くす観葉植物は、柔らかな光をいっぱいに浴びて、生き生きとした表情を見せる。ベランダには苔で覆われた坪庭も。近所の畑で自ら育てた自慢の野菜を料理し、客人に振る舞うのがヒロさんにとって至福のひとときだ。「ディレッタントが僕に喜びをもたらすのです」。

ディレッタントとは、自分の美学に基づき、趣味として芸術をたしなむことを指す。まさに現在のヒロさんだ。初任給で買った絵はスペイン人画家が描いたもので、当時の価格で300ドル。決して安い買い物ではなかった。「価格は問題ではありません。どれだけ毎日の生活を豊かにしてくれるか、それがいちばん大事」。美術は、ヒロさんの人生の糧なのだ。

▲ヒロさん作のボタニカル・アート。ローズヒップやピーマンのほか、しし唐、紫玉ネギなど、収穫した野菜を主役に

若い頃にどっぷりとハマったのは、前衛芸術。自由で未来志向な表現方法に、「何かワクワクするものを感じました」と話す。出合いは1961年、五輪を控え、東京が沸き立っていた時代だ。ヒロさんは現役で九州大学医学部に入学するも、3カ月を待たずに中退。解剖の授業で麻酔をかけたウサギにメスを入れ、ピクッと動いたのを見て気絶してしまったのだ。情けなさで親と顔を合わせられず、勘当同然で東京へと向かった。下町・深川の倉庫を改造した一室で、ヒロさんは前衛芸術に没頭する見知らぬ人たちと共同生活を始める。

ヒロさんも大いに感化された。記憶の底に刻まれた光景がある。同居人に誘われ、開通したばかりの首都高を望む高架橋へ。そこには、純白のウエディングドレスに身を包んだ女性が座っていた。ドレスの裾の周りには、弧を描くように洋裁用のはさみが置かれ、こんなメモ書きが添えられている。「通行人の皆さまへ。このはさみでドレスの裾を切って、その切れ端を家に持ち帰ってください」。迷わず実行したヒロさん。その女性がオノ・ヨーコさんだったらしいと後に判明するが、今となっては確かめようもない。あの繊細なレース生地をジョキジョキ切った時の不思議な緊張感だけは絶対に忘れられない、とヒロさん。「当時の東京は面白かったですよ。日本でも、ネオ・ダダやフルクサスと呼ばれる前衛芸術が盛んで」。帝国ホテルの一室を借り切った個展では、ドアを開けると部屋中にお札のコピーが貼り付けられていた。紙幣の複写は違法だが、「まあ、前衛芸術は、本来そういうものですから」と屈託なく笑う。

▲22歳で画家を目指し、アメリカへ。バンクーバー経由でシアトルに向かう(1965年)

さまざまな職を転々としながら、服飾デザイナーのイラストレーターを務めるなど、貧しいながらも充実した日々を送っていた。ある日、父から手紙が届く。「東京で大したことはしていないのであろう。古くからの知り合いのアメリカ人が商談で訪日するから、同行しなさい」。父からの命令だった。お駄賃も出るというので断る理由もない。来日した彼に、本当は画家になりたいのだとヒロさんが打ち明けると、「絵の勉強をしにシアトルにいらっしゃい」と誘われた。そこで1965年、ヒロさんはイギリス客船に乗り込み、バンクーバー経由でシアトルへと旅立つ。22歳。故郷を後にしてから、4年が経っていた。

別れの挨拶をしに宮崎の実家に戻ると、父親は「そういうことだろうと思っていた」と言う。こうしてヒロさんはアメリカの地を踏み、ショアライン・コミュニティー・カレッジで1年履修後、ワシントン大学に編入。本格的に油絵画家を志すことになった。

ありのままを見つめることこそ美術の真髄

来る日も来る日も熱心に絵を描き続け、腕前も相当上がったが、何かが足りない。「そうだ、僕には絵の才能がないのだ」。ヒロさんは大学4年次にいったん絵筆を置く。それがヒロさんの結論だった。

専攻を変えて間もない頃、カリフォルニアにて。当時のファッションに身を包んで(1970年)▶︎

もう絵の具の匂いを嗅ぐことすら耐え難い。再び失意のどん底に落とされたヒロさんは、心を癒やすためにふらりとサンフランシスコへと旅立つ。着いた翌日には、コーヒー・ショップで女性ふたりと知り合い、掃除や料理を引き受ける代わりに屋根裏部屋に住まわせてもらうことになった。料理は得意だ。ヒロさんは空いた時間に、好きなだけ絵を描いた。締め切りも、周囲の評価も、全く関係ない。「こんなに幸せだった日々は、人生でほかにはありません」

家主はヒロさんの作品に関心を示すわけでもなく、それでいて画材は全て購入してくれた。3カ月が経ち、出席率の関係で大学に戻ったヒロさんは、専攻を美術史に変えた。そこからは美術史家として文人画を中心に研究し、34歳でエバーグリーン州立大学に職を得ると、教え子たちの育成に情熱を注いだ。

◀︎ミレニアムを前に「原始時代の生活を再現しよう」という同僚の歴史家の誘いで、5年かけて髪を伸ばした。2000年1月3日、パリにて散髪

ヒロさんが学生に美術を教えるに当たり、何よりも心を砕いたのは、アンビギュイティー(ambiguity)の本質をわかってもらうこと。「日本語に訳すのは難しいのですが、何も考えずにあいまい(vague)にしておくこととは違うのです。アンビギュイティーはその真逆で、科学のように明確な答えのない事象を追究した結果、到達するもの」

それは描く側も見る側も同じだ。ヒロさんは「美術に携わる者の業」と表現する。人生はアンビギュイティーの連続で、二元論では捉え切れない。その状態を面白がることは、学ぶ上で必要な心構えだとヒロさんは力説する。

パリのモンマルトルにある、ピカソのアトリエ跡地を訪問(1996年)▶︎

「どうして自分はこの絵に引かれるのか、答えを自分で見つけてほしい。美術には、宗教、政治、経済、その時代の全てが映し出される」。画家の生きていた世界と画家自身の人間性が反映されている、そういう視点から絵を通して自分自身を見つめる作業。答えは、自らが手探りで探らなければならない。それは教える側にも言える。

「例えば、これが答えだと教えてしまうと、やること全てがそれに向かっていく。何かを学ぶのに答えを求めてはいけない。そうでなければ学ぶ意味がありません」。その瞬間、ありのままの自分を見つめること。それが答えであり、美術の真髄なのだとヒロさん。かつて絵を描いていたからこそ出る言葉なのだろう。「どう表現できるかは、描いてみないとわかりません。頭の中で思っていてもダメ。描いているうちに、色、絵の具、筆、キャンバスが反発してくるから。これは、自分と画材との闘いです」

絵と鑑賞者の対峙もまた続く。「モナ・リザはなぜ名画なのか」と、ヒロさんは学生に問う。ヒロさんの見解はこうだ。500年という年月をかけて、大勢の人がこの絵を前に気持ちが揺さぶられ、その気持ちが絵に吸収され、それが作品の一部になる。その数は今後も日に日に増え続ける。モナ・リザは現在も「豊潤さを蓄積するプロセス」にあり、見られ続けることで名画の重みを増していく。

一方、他人の評価や視線に耐えられず、画家の道を諦めた20代のヒロさん。「若い頃の僕は、自分に批判的でした。学者になってからも、自分が他人に与える影響ばかり気にしていました」

エバーグリーン州立大学で教える学生の共同作品の前で。奥右端に立つのがヒロさん(2001年)

実家の温室で絵を描く日々が今につながる

80代となったヒロさんは、そうした葛藤とは無縁だ。誰の目も気にすることなく、好きな絵を描く。数年前からボタニカル・アートも習い出した。

◀︎ヒロさんの父方の祖母、ナツさん(1964年)

ヒロさんが生涯、愛してやまない絵画と植物。その原点は、幼少期にあった。「うちは江戸時代から続く庄屋でしたから、小作人たちが植える苗を管理する温室があったのです。幼い頃は祖母に連れられて、広大な温室で1日中過ごし、絵を描いていました」。3歳頃の記憶がおぼろげにある。「見渡す限り、緑でした。それだけは覚えています」

父方の祖母、ナツさんは、小学校を出てすぐに女中としてヒロさんの祖父の家に奉公に出され、やがて跡取り息子である祖父と結婚。以降も、小作人としての立ち居振る舞いは抜けなかった。母親が病弱だったこともあり、4人兄弟の末っ子だったヒロさんは、そんなナツさんに育てられた。だしの取り方や魚のさばき方を教えてくれたのも、ナツさんだ。

長兄の武典さんと(1958年)▶︎

ヒロさんは5歳の時、色覚異常と診断された。治療のため、宮崎大学美術学部の学生が雇われ、色遊びをするようになった。小学校の入学祝いはクレヨン。昼休みになると、ヒロさんはみんなと校庭に行かず、教室に残って窓にクレヨンで木や川などの絵を描いた。宮崎の太陽に照らされた窓ガラスは、熱い。「描いているうちに、クレヨンが溶けるんです。女中さんがいつもカミソリを持って駆け付け、あとで削っていました」

6年生になると、日本全国からヒロさんを合わせ5人の子どもの絵や習字が選ばれ、返還前の沖縄や香港の学校で展覧会が開かれた。文化交流使としてヒロさんも一緒に現地を回った。1952年、53年のことだと言う。1942年生まれのヒロさんに戦争の記憶はない。ただ、15歳年上の長兄は違う。地元の超エリートで将来を嘱望され、江田島の海軍兵学校へと進み、特攻隊員になる訓練を受けた。しかし、出征を2週間後に控えて終戦を迎え、生きる目標を失ってしまったことで、つらい晩年を過ごしたそう。

父親も、戦争に翻弄されたひとりだ。リベラルな思想の持ち主で、日本の軍国主義に対して批判めいた発言をしたところ、台湾に2年間「島流し」され、満州へと送られた。戦後は、前科者のレッテルを貼られ、事業を続けることもできずに、仕方なく自宅で書道を教えた。ヒロさんの名前は、平和と博愛から1文字ずつ取って、「和博」と書く。日本の家族との手紙は検閲されるが、軍部に悟られないように、命名に戦争反対の思いを込めたのだとヒロさんは後に聞かされた。

戦後、ヒロさんは自由な空気を吸いながら育った。若い頃は女性との同居生活も経験したが、30代半ばで銀行員だったビルさんに出会うと、正式なパートナーとして生涯を共にすることを誓う。芸術を愛し、世界中を旅行する同志だった。そこから40年の歳月が流れ、2021年、ビルさんは闘病の末に他界した。

自宅でビルさんと共にクリスマスを祝う(2018年)

気落ちするヒロさんを見かねて、ビルさんの成人した息子たちがボタニカル・アートのオンライン・クラスに招待する。自分が目指した抽象画は画家の個性ありきだった。しかし、ボタニカル・アートは誰が描いても同じでなければいけない。ヒロさんは、反骨精神がムクムクと顔を出し、実際にはない影を強調するなどして講師からたしなめられる。

ハワイ滞在中、料理の腕前を披露(2022年)

丹精込めて育てた野菜を使い、手作り懐石でおもてなし

「自分の美意識がどこから来ているのか、それを追究したいですね」。まだまだやりたいことはたくさんある様子。そう語るヒロさんの眼差しには、少年の心が宿っていた。

ビルさんと3人の息子、その家族たちと。全員がヒロさんにとって家族のような存在

第35回 イースター(復活祭)〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

 

第35回  イースター(復活祭)


【今回の例文】

What is Easter?

Easter is a Christian holiday celebrating the resurrection of Jesus Christ. According to Christian history, Jesus was crucified on a Friday (Good Friday) and rose again three days later on Easter Sunday.Easter marks the culmination of the Passion of Jesus, occurring after 40 days of Lent where Christians fast, pray and undertake acts of penance. Easter is considered the holiest day of the year.                                                  (出典:Twinkle)

【機械翻訳】

イースターとは何ですか?

イースターはイエス・キリストの復活を祝うキリスト教の祝日です。キリスト教の歴史によれば、イエスは金曜日(聖金曜日)に十字架につけられ、3日後の復活祭の日曜日に復活しました。イースターは、キリスト教徒が断食、祈り、悔い改めの行為を行う40日間の四旬節の後に起こる、イエスの受難の最高潮の日です。イースターは1年で最も神聖な日と考えられています。             (Google翻訳)

            ⬇︎          

【修正後】

イースターとは

イースター(復活祭)は、キリスト教徒がイエス・キリストの復活を祝う日です。キリスト教の歴史によれば、イエスが十字架にはりつけにされたのが金曜日(聖金曜日と呼ばれる)で、その3日後の日曜日に復活しました。それがイースター・サンデー(復活の日曜日)です。イースターは、キリスト教徒が断食し、祈り、懺悔を行う40日間の四旬節後に当たり、イエスの受難が頂点に達した日とされます。そのため、イースターは1年で最も神聖な日と考えられています。


3月31日(日)は、クリスマスに並んで重要なキリスト教の祭日、イースターです。毎年、この日を迎えると春の訪れを実感します。

今回のポイント

① 日本人はイースターを知っている? 
イースターと聞いても、意味はよくわからない、という日本人は多いかもしれません。初出時だけ「復活祭」と補足すると親切ですね。

冠詞に注目 
原文は a Fridayとなっています。冠詞が付くことで、キリストが磔刑されたのが最近の金曜日ではなく、「大昔のとある金曜日」だと理解できます。日本語でそのニュアンスを出すのは難しいのですが、少なくとも意味を正しく把握したうえで訳出しましょう。

③ イエスの受難の最高潮? 
culminationは、最高潮、全盛、絶頂などの意。だとしても、「受難の最高潮」では違和感があります。修正訳では、イエスの受難(犠牲の愛)が「頂点に達した日」としました。

まとめ
アメリカなど、キリスト教文化が根付く国や地域ではなじみの深いイースター。エッグ・ハントも、子どもたちには楽しみのひとつですね。

第34回 能登半島地震の報道〜技あり!機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

 

第34回  能登半島地震の報道


【今回の例文】

Tomita rescued two of her four cats after the quake, but the local evacuation centre in Suzu refused to let her stay with her pets, forcing her to sleep sitting up in a car for a month.
She moved into a pet-friendly evacuation centre that opened on Sunday and slept lying down for the first time in weeks that evening.
“If I hadn’t made it to this centre, I feel I might have buckled” under the mental strain, Tomita said.
Eventually, she wants to move out of the evacuation centre for the freedom of her cats, who now must remain caged or on a leash. But with no word on whether temporary housing will become available to her, she says she has no other option but to stay.

(出典:2月1日付 Reuters)

【機械翻訳】

震災後、富田さんは4匹の猫のうち2匹を保護しましたが、珠洲市の避難所ではペットとの同居を拒否され、1カ月間、車の中で座ったまま寝ることを余儀なくされました。 
彼女は日曜日にオープンしたペット可の避難所に移り、その日の夜、数週間ぶりに横になって眠りました。 
「もしこの避難所にたどり着けなかったら、精神的な負担で腰が引けていたかもしれません」と富田さん。 
いずれは避難所を出て、ケージに入れたり鎖につないだりしなければならない猫たちの自由を取り戻したいと考えています。しかし、仮設住宅が空くかどうかもわからないため、ここに残るしかないと富田さん。

(DeepL 翻訳)

⬇︎          

【修正後】

地震後、富田さんは飼い猫4匹のうち2匹を見つけましたが、珠洲市の避難所ではペットの同行避難を拒否され、1カ月もの間、車内泊を余儀なくされました。 
この日曜日にはペット可の避難所が開設され、そこに移動した富田さんは、その晩、数週間ぶりに体を横たえて眠ることができました。 
「もしこの避難所にたどり着けなかったら、精神的なストレスで心が折れていたかもしれません」と富田さん。 
現在、2匹の猫は、ケージに入れるかリードにつながなければならず、もっと自由にさせてあげたいと考える富田さんは、いずれは避難所を出るつもりです。しかし、仮設住宅が空くかどうかもわからないため、ここに残るしかないのが実情です。


元日に能登半島を襲った大地震は、世界各国で報道されました。今回は、その後の避難生活に関する記事を取り上げます。

今回のポイント✅

1. 内容に沿う単語をチョイス 

機械翻訳では、避難所が「オープンした」と訳されていますが、楽しい施設かのようで不適切な印象を受けます。この場合は「開設された」のほうがふさわしいでしょう。

2. I might have buckledとは? 

動詞のbuckleは、「シートベルトを締める」(buckle up)などのほかに、「屈服する、負ける」といった意味もあります。後ろにunder the mental strain(精神的なストレス)と続きますので、機械翻訳の「腰が引けていた」から修正訳では「心が折れる」としました。

3. 語順に気を付けて 

関係代名詞で文章がつながっていても、無理にまとめず、わかりやすく切って構いません。機械翻訳の「ケージに入れたり鎖につないだりしなければならない猫たちの自由」では、かなり無理がありますね。

まとめ  

近年、災害時のペットの扱いが問題となっています。社会全体で解決すべき課題のひとつと言えるかもしれません。

第33回 映画賞シーズン!〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

 

第33回   映画賞シーズン!


【今回の例文】

Time to catch up

A great year for movies, as 2023 was, means a lot to look forward to as awards season begins. Things get started tonight with the Golden Globes ceremony, and later this week it’ s on to nominations for the Screen Actors Guild and Producers Guild of America Awards. The big one — the Academy of Motion Picture Arts and Sciences — will announce its nominations for the 96th Oscars on Jan. 23.

(出典:1月7日付 The New York Times)

【機械翻訳】

追い付く時間

2023年がそうであったように、映画にとって素晴らしい年であったということは、賞のシーズンが始まるのを楽しみにすることがたくさんあるということだ。今夜のゴールデングローブ賞授賞式で幕を開け、今週末には全米映画俳優組合賞と全米映画製作者組合賞のノミネーションが始まる。大本命の映画芸術科学アカデミーは、1月23日に第96回アカデミー賞のノミネートを発表する。

(DeepL 翻訳)

⬇︎          

【修正後】

賞レースの行方は?

2023年は映画の当たり年でした。それだけに、映画賞シーズンの幕開けに期待が高まります。今夜のゴールデングローブ賞授賞式を皮切りに、今週末には全米映画俳優組合賞と全米映画製作者組合賞のノミネート発表があります。大本命の第96回アカデミー賞は、映画芸術科学アカデミーが1月23日に各部門の候補を発表する予定です。

 


アカデミー賞を始めとするアメリカの映画賞が続々と発表される季節になりました。新聞記事ですので事実を伝えつつ、読者に期待感を抱かせる工夫をしましょう。

今回のポイント✅

1.Catch upをキャッチーに表現


確かに「追い付く」という意味ですが、そのままでは日本語訳として通用しません。ましてや見出しですから、記事内容を表す簡潔なフレーズを心がけたいところ。修正訳では、「最新情報を知る」という意味合いを一歩深めてアレンジしました。

2. 書き出しのつかみが大事


冒頭の一文は、なかなかキレがありますね。日本語訳もそのトーンを失わないようにしましょう。修正訳では、かなり意訳ですが、全体的にスッキリさせました。

3. アカデミー賞はひとつ?

アカデミー賞には計23部門があり、原文もOscars(受賞者に授与されるオスカー像。また、アカデミー賞の別名)と複数形になっています。それが明確にわかるように、修正訳では「各部門」と追加しました。

まとめ  
昨今のアメリカの映画界では多様性が重視されるようです。日本作品も注目を浴びていますね。皆さんのお気に入りはありますか?

第32回サンタクロースに手紙を書こう〜技あり! 機械翻訳達人への道

機械翻訳の精度は飛躍的に向上。でも、よく読むと「あれれ?」な部分も。ちょっとしたコツで見違えるほど自然な日本語に直せる技を紹介します。

 

第32回   サンタクロースに手紙を書こう


【今回の例文】

Writing to Santa

The North Pole is now accepting letters. Here’s how to get your letter to Santa.
Share Your Details Include first name, last name, full return address, and your holiday wishes
Send It to Santa Put Santa’s address and postage stamp on the envelope
Be On Time Make sure you postmark it by December 11

Make Your Letter Even Better
Santa has a lot of letters to read, so here’s how you can make his job easier:
Write legibly
✓ Include your full name and address in the letter
✓ List the gifts you want in order of preferences
✓ Be specific about the gifts you’re asking for
✓ Don’t ask for gifts that might be too expensive

(出典:USPSホームページ

【機械翻訳】

サンタへの手紙

北極では手紙を受け付けています。サンタさんへの手紙の書き方はこちら。
詳細を共有する 姓、名、返送先住所、年末年始のご希望をご記入ください
サンタに送る 封筒にサンタさんの住所と切手を貼る
時間厳守 12月11日の消印有効

手紙をもっと素敵に
サンタさんはたくさんの手紙を読まなければなりません:
✓ 読みやすく書く
✓ 手紙には住所と氏名を明記する
✓ 欲しいプレゼントを好きな順に並べる
✓ 欲しいプレゼントを具体的に書きましょう
✓ 高価過ぎるプレゼントは頼まない

(DeepL 翻訳)

⬇︎          

【修正後】

サンタさんへ手紙を書こう

現在、サンタクロース宛ての手紙を受け付け中です。サンタさんへの手紙の書き方はこちら。
自分の情報を伝える 氏名、返送先住所、サンタさんへの願いごとを記入します
手紙を投函 封筒にサンタさんの住所を書き、切手を貼ります
期限を守る 12月11日の消印有効です

手紙を読んでもらうためのヒント
サンタさんにはたくさんの手紙が届きます。サンタさんが読みやすいように、次のことに気を付けましょう。
✓ 文章は読みやすく
✓ 自分の住所と氏名をはっきり書く
✓ プレゼントを欲しい順に並べる
✓ 欲しいプレゼントについて、具体的に書く
✓ 高価なプレゼントは頼まない


米国郵政公社(USPS)では、毎年、サンタクロース宛ての手紙を受け付けています。その仕組みを紹介した文章を訳してみましょう。わかりやすい日本語にすることが大切です。

今回のポイント ✅

1.The North Poleは北極?
英語ではよく、同じ言葉の繰り返しを避けるために、地名で人を表すことがあります。例えば、Tokyo(東京)は日本政府、Moscow(モスクワ)はロシア政府というように。例文の場合、北極とはつまり、サンタクロースですね。

2. holiday wishesはどう訳す?
機械翻訳では、「年末年始のご希望」と訳されていますが、これでは伝わらないですね。修正訳では、希望がかなうとは限りませんが、プレゼントのリクエストという意味で「サンタさんへの願いごと」としました。

3. 思い切って意訳しよう
Send It to SantaやMake Your Letter Even Betterなど、直訳するとわかりにくい表現が多くあります。そんな時は、読み手に伝わるように意訳してOK。修正訳ではそれぞれ「手紙を投函」「手紙を読んでもらうためのヒント」としています。

まとめ  

USPSが1912年から実施している「Operation Santa®」(サンタ大作戦)。サンタさんに手紙を書くと、返事とプレゼントが届くそうです。たくさんの人の善意で成り立っている素敵な取り組みですね。