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Author: 渡辺 菜穂子

北米シアトル在住のライター/編集者。現在はフリーランスとして、シアトル情報全般に関わる取材&執筆を引き受けている。得意分野はアート&エンターテインメント、人物インタビュー、異文化理解。元『ソイソース』編集部員。ピアノ、さる、旅、日本語の文法分析が好き。

橋森ゆう希さん〜音楽家/バイオリン奏者

表紙写真とも©️Junichiro Matsuo

オーケストラの花形であるバイオリン奏者として、幼少期から認められ、稀有な経験を積んだ橋森ゆう希さん。今も多方面から仕事の依頼が絶えません。インタビューで興味深い逸話を聞かせてもらいながら、偏見がなく、物事に動じず、全てをあるがままに受け入れて生きているフラットな人だという印象を受けました。

取材・文:渡辺菜穂子 写真:本人提供

橋森ゆう希■埼玉生まれ。3歳よりバイオリンを始め、数々のコンクールに最年少で受賞。11歳でザハール・ブロン教授に師事し、ケルン音楽大学の特待生となる。バイオリン奏者として世界的に活躍する中、2007年、シュムエル・アシュケナージ氏に師事するため渡米。2011年にルーズベルト大学シカゴ校パフォーミングアーツ音楽院を卒業。現在は日米を往復する二拠点生活を送り、後進への指導やジャンルを超えた音楽活動などにも携わる。
 
幼少期からメディアで注目される
 
コンミスを務めるエール管弦楽団で早稲田大学ビジネススクールとコラボ。3月20日(水)には、鹿児島読売テレビ開局30周年記念イベントに出演予定
 
日本の若手音楽家が中心となり結成されたエール管弦楽団で、首席奏者であるコンサート・ミストレス(以下コンミス)として新しい形のクラシック・コンサートを作り出している橋森さん。TVドラマにおける、劇伴の演奏や俳優への音楽指導も担う。また、ソリストとして各国の交響楽団と共演したり、室内楽やソロ演奏を行ったり、世界的ミュージシャンのコンサート・ツアーやレコーディングへの参加もする。そのうえ、アフリカ学校建設プロジェクトのためのチャリティー・コンサート開催など、社会貢献にも積極的だ。後進への指導にも力を入れ、教えている生徒は3歳から大人までと幅広い。その活動は多岐にわたるが、「バイオリン奏者として演奏することと、そのほかの仕事をあまり分けて考えたことがないのです」と、橋森さんは言う。
 
「これまで師事した先生方から、どんなに演奏の仕事が忙しくても、人に教えることや伝えることを絶対に止めてはいけないと言われてきました。私自身、それを実践している素晴らしい音楽家たちに教わることができました。百年も前から生き残ってきた文化も、自分の中で温めているだけでは価値がありません。人に与えて、次の世代につなぐこと。それには、子どもたちにとって憧れとなる存在でもいなければ」
 
バイオリンを始めたのは3歳。両親ともプロの音楽家ではないが、音楽好きだった。「私は小さい頃も今もずっと小柄ですが、音楽を始めるのにバイオリンなら3歳の小さな手にも合う16分の1サイズの楽器があるんです」。幼い頃は友だちと遊んだ記憶もなく、ずっと練習の日々。しかし、強制されたわけではない。昼寝から覚めるとまた新しい日が始まったと錯覚して、再び「今日の練習」を繰り返すような子どもだったそう。
 
最初のTV出演は、小学2年生の時だ。巨匠、アイザック・スターン氏の公開レッスンを受けるというドキュメンタリー。全国からのオーディションで選抜された10人のうちの1人で、橋森さんは最年少。同時期に、数々のコンクールで最年少でありながら優勝したことで、「新・題名のない音楽会」や「たけしの誰でもピカソ」などの番組で特集が組まれるように。以降も、橋森さんの経歴にはさまざまな受賞、公演、仕事がずらりと並ぶ。
 
イギリス発の多国籍ボーカル・グループ、イル・ディーヴォの日本ツアーのリハーサルにて

「芸能人格付けチェック!」で(株)日本ヴァイオリン提供のストラディバリウスの聴き分け演奏を

 
クラシックを身体で理解
 
橋森さんの人生に最も影響を与えた出来事は、何だろうか。「ドイツ留学ですね。それが全ての始まりです。あの頃の、良くも悪くも壮絶な生活がなかったら、今の私の演奏スタイルもメンタルもなかったでしょう」
 
11歳の時、当時世界一と言われていた名教授、ザハール・ブロン氏の前で演奏をし、すぐに弟子入りを打診された。小学校卒業を目前としながらもドイツに発ち、ケルン音楽大学の特待生となる。と言っても、その暮らしはケルンにとどまるものではなかった。
 
ブロン教授は橋森さんを含む内弟子たちを連れて、国を移動しながら指導する。今週はフランス、来週はロシアなどと世界中を回り、その先々でレッスンとコンサート、時にレコーディングやTV出演もするのだ。「それをあの年齢で経験したことは貴重です。大人になってからでもできたのかもしれませんが、幼く、まだ概念などもないような時期にパーンと放り込まれたのが、今思えば良かった。日本の小学校にいては想像すらできない貧困の差にも直面しました。(1980年代後半の)サンクトペテルブルクでは、道端でおばあさんが亡くなっていて、布がかけられただけの死体が放置されているのです」
 
恩師であるアシュケナージ氏と

内弟子の中でも最年少だった橋森さんは、ケルンの小中学校に籍は置くも、たまに通えるくらい。「政治や戦争は、音楽から切り離せません。チャイコフスキ―の曲は、ロシアの、あの大きさや歴史から生まれたということを、身体で理解するのと、想像だけで演奏するのでは差が出ます。アジアの小さな島国にいたままではわからないことです」
 
アメリカでの学びも大きかった。世界を転々とする生活を終えた後に出会ったのが、シュムエル・アシュケナージ氏。高名なフェルメール・カルテットの第1バイオリン奏者で、ソリストとして独創的な演奏をするブロン氏とは異なり、室内楽奏者としてメンバーと共に曲を作り上げるスタイルに魅力を感じた。「私にないものを全て持っていて、まだまだ学ぶことがたくさんあると思いました」。そんなアシュケナージ氏が拠点とするシカゴに移住し、ルーズベルト大学シカゴ校パフォーミングアーツ音楽院に奨学生として入学した。
 
「アメリカの大学には、目に見えないものをどのように具体化していくかを学ぶ授業が多くあります。例えば、音楽をビジネスとしてどう取り扱うか。日本の音大などでは、そこが欠落しがちです。大学時代に日本で東日本大震災が起き、シカゴのメディアを集めていろんな企画を実現できたのですが、それもアメリカの教育で鍛えられた成果のひとつです」
シアトルでは「ジャパンフェア」や現地校などで、演奏、講演を行った
 
音楽と子どもとまた音楽
 
エール管弦楽団の衣装をコラボレーションで手掛けてもらったコシノジュンコさんと

橋森さんは大学卒業後に結婚し、米国内のいろいろな州に移り住みながら音楽の仕事を続けていた。しかし、出産を機に生活が一変する。仕事と子育てとの両立が難しくなり、日本の両親の近くへと、一時的に居を移す決断をした。
 
だが何より、自分自身そして音楽への影響が大きいと言う。「子どもを産んで、性格まで変わった気がします。それまで目に入っていなかった世界の存在も知りました。出産前も、バイオリンを教えながら子どもから気付きを得ることは多々あったのですが、わかったようなつもりでいただけでした」
 
子育てを通して、改めて音楽の大切さも実感。日本は「未就学児お断り」が多く、小さな子どもが本物のクラシック音楽に触れる機会は限られる。たまにあっても、うるさくして構わないような子ども向けの音楽イベントになってしまう。「そうじゃなくて、子どもこそ本物を聴かなければいけないし、生演奏に触れることが大事なんです」
 
橋森さんは日本の英語リトミック教室でゲスト講師もしている。子どもたちに至近距離で本物の生演奏を体感させることが目的だ。また、コンミスをしているエール管弦楽団では、4歳から会場に入れるよう定めた。「男の子を育てているのですが、3歳までは本当に座っていられなくて、4歳子どもこそ本物を聴かなければいけないならと。母目線での絶妙なさじ加減ですね」。もちろん、演目も大人が聴くものと同じ、本物のクラシック音楽だ。
 
英語リトミック教室で、16分の1サイズのバイオリンを紹介
 
2022年夏からは、一家でシアトルに暮らす。現在も日本で多くの仕事を抱えているため、日本から近いシアトルは移住地として最適だった。
 
今、シアトル x聞いてみた。「日本でバイオリンを頑張っている子どもたちを、こちらに呼んでみたいですね。若いうちに海外へ出る機会を作ってあげたいんです。あとは、クラシックの音楽祭ができたらと考えています。小さくてもいいから、何日間かにわたって、さまざまな楽器、アンサンブルを組み込み、マスター・クラスや演奏会もあって、大人も子どもも巻き込むような……」
 
橋森さんのバイオリンを「香り立つような揺らぎの音色」と評した人がいる。素敵な表現ではあるが、音楽は一言で語り尽くせるものでもない。「子どもにこそ本物を」と橋森さんが訴えるように、音を描写する語ご い彙を持たない子どもこそ、音楽の本質をそのまま受け取れるのかもしれない。幼少期から音楽家であった橋森さんは、自らの人生を通してそれを理解できるのであろう。
俳優の谷村美月さんにバイオリンを指導。TVドラマで谷村さん演じる役の吹き替え演奏の撮影に向け、同じ服装と髪型にしている
 
◀︎▲昨年12月には、日本を代表する声優陣と共に東宝の音楽朗読劇「ヴォイサリオン」に出演
 
 
 
Yuuki Hashimori Violin Academy

ベルビュー・スクエア付近で、3歳以上を対象に、初心者からアドバンスまでのバイオリン・レッスンを日英両語で提供。対面・オンライン・単発レッスンから選べ、学校での楽器選択授業、ソルフェージュの基礎までカバーする。料金や場所の問い合わせ、相談は下記まで。
yuuki.hashimori@gmail.com
www.yuukihashimori.com

2月11日(日)にミニコンサート開催決定! (詳細はニュースをチェック!)

稲垣久生さん〜在シアトル日本国総領事

パンデミック真っただ中の2020年夏、シアトルに着任した稲垣総領事。例年のように諸々の行事でお目にかかる機会のないまま、オンラインでインタビューさせてもらいました。ひとつひとつの質問に実に誠実に、丁寧に答えながらも、プライベートの話になると体の力を抜いて顔全体をほころばせて笑う様子が印象的でした。

取材・文:渡辺菜穂子 
写真提供・協力:在シアトル日本国総領事館

稲垣久生(ひさお)■三重県出身。1985年に東京工業大学修士課程(理工学研究科)を修了し、外務省入省。1991年にマサチューセッツ工科大学大学院修士号取得。外務省では情報通信課情報システム統括企画官、広報文化外交戦略課IT広報室長など、情報通信やIT分野に長年関わる。また北米局北米第一課やワシントンDCの在米国日本国大使館(1996~2000年)、在シカゴ日本国総領事館(2012~16年)勤務などを経て、米国事情にも精通している。2020年7月に在シアトル日本国総領事に就任。

技術革新と共に積まれたキャリア

専門は技術系。外務省に情報通信の先端技術を取り入れることに長年関わっている。「最近はIT化やDX(デジタル・トランスフォーメーション)と言われますが、同様の業務改革という考え方は、BPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)など、昔からありました」と、稲垣総領事。外務省の技術発展の歴史は、自身の入省前となる1963年、省内に初めてコンピューターが導入された時にまでさかのぼると説明する。「当初は、旅券発給や会計処理を行っていました」

日本食や日本産食材のプロモーションの一環として、毎月11日を「日本食の日」として広報活動

稲垣総領事は1985年に入省し、まずホストコンピューターに関わる業務に携わり、海外とのオンライン処理、人事や会計などの業務のさらなるシステム化も進めた。90年代に入ってからは各個人にパソコンを設置し、ネットワークでつなげて電子メールや情報共有体制を確立。90年代後半にはインターネット普及に伴い、電子メールやブラウザを通した情報収集・共有・連絡の体制を導入し運用管理する。そして2000年問題(Y2K)対応に追われた後、2000年代に入ってからは、技術進歩への対応と政府情報化計画の推進と共に、情報セキュリティー対策が重要事項として加わってくる。

「90年代後半はワシントンDCでの勤務でした。在米大使館内の情報システムはニューヨークの日系業者が対応していて、ワールド・トレードセンター・ビルの屋上を案内してもらったことがあります。ビルについての強烈な記憶がよみがえる中、同時多発テロ当日は東京霞が関の外務省内でテレビの映像を見守っていました。その日系業者の複数名が打ち合わせのためにビル内にいて閉じ込められ、亡くなったことを後日知り、胸が詰まる思いをしました。ご冥福をお祈りします」

法令の壁

思えば、情報技術の変革が進むにつれ、社会の仕組みもだいぶ変わった。そんな時代の変化は、官公庁内からはどう見えたのか。公務機関という性質上、新しいシステムを導入するには、さまざまな困難が伴うのではないだろうか。「省庁には昔ながらの人が多く、新聞は紙でしか読まない、キーボードは打てないという人もいました。まずはコンピューター化の利点を伝えるのですが、昔はパワーポイントなど使っていなかったので、紙とハサミを駆使して視覚に訴えたり、漫画にしたりして説明しました」と笑みを浮かべる。また、技術革新のスピードに比べて、人々が考え方やふるまい方を変えるのには時間がかかる。「日進月歩で進むIT技術に、まずは自分自身がついていき、理解しなければなりません。さらに、組織内で役職が上がると、システム開発会議の場で要件決定の判断を求められる立場にもなります。進捗管理と共に、全体を俯瞰しながら調整をする必要があります」

シアトル航空博物館と岐阜かがみはら航空宇宙博物館のパートナーシップ協定署名式に参加

そのうえ、法令等の壁が立ちはだかると言う。「役所の中では法令によって、法令に従ったシステム処理を構築するのですが、情報化がなかなかできない部分があるんです。最近、新しい働き方や業務の効率化のために、日本政府でもデジタル庁を作ろうという声が上がり、9月1日の創設につながりました。ただ、それを進めようと思っても役所は会計法令に基づくので、たとえばクレジットカードの利用さえ法令で許されていないのです。当然、IT化やリモートワークに合わせて法令を変えるという作業・努力はなされてきています。しかし、個人情報に関しても、過去の判例(裁判で下された法律的判断)に基づいて扱わなければならないという側面があります」

法律というのは、省内の業務だけでなく社会のシステム整備にも関わってくる。「SFの世界がすぐ実現するように思う人もいるようですが、現実的ではありません。AI(人工知能)が人間の代わりに自動的に判断してくれるとしても、どういうデータに基づいて、どういう経緯で判断をしたのか、そこを明確に可視化しなければなりません。その判断による責任を誰が持つのか、明らかにすることも重要です。自動運転の車を例にすると、運転操作をどこまでAIにやらせるのか、事故が起きたときに誰が責任を取るのかという問題があります。国土交通省や自動車会社も絡む、法律の問題になってきます」

レイクビュー墓地の日系戦没者慰霊碑の前で。日米友好関係の基礎を築いた日系兵士の苦労、献身と犠牲を偲ぶ

三つ子の魂百まで

個人ではコントロールできない問題を抱えると、ストレスがたまりそうだ。どう対応するのだろうか。「ストレス解消法はありません。難しい問題に直面しても忍耐強く、時間がかかっても、ただ目の前の必要なことをこなしていくだけです」。1990年代半ばに省内と在外公館でパソコンをひとり1台ずつ配備した時など、変革には予算獲得、周辺設備を含め実際に設置する実務、職員の運用など、組織のトップの協力も不可欠だ。変革をやり遂げたのは、多くの関係者の協力があったからだと、稲垣総領事は語る。人と人の間に立つのが上手なのかもしれない。「いいえ、もともと仕事と言えばひたすら文書に向かっており、人と接するのが得意ではありませんでした。でも、情報システムの専門用語をかみくだいてわかりやすく人に説明したり調整したりする仕事が増えて、その都度対応してきました」

三重県四日市の出身。「郊外の、田舎の出身なんです。子どもの時は周りが畑と田んぼだらけでした。最初にダムを造る計画が出て、そのうちにもうひとつダムができ、次に東名阪自動車道とバイパス(伊勢湾岸自動車道)が通り、さらに第二名神(新名神高速道路)を造り始めて」と、故郷の変化をうれしそうに振り返る。山が減って、団地ができ、人口がどんどん増加し、入学した中学校は超マンモス校になっていたそうだ。子どもの頃から優秀だったのだろうか。「トップではないんです。たいして勉強しなくてもできるというトップの層がいますよね。そこには入っていなくて、その下の層に。私は日々努力しないと、ついていけませんでした。田舎の平均的家庭で育ちましたので、外の世界に飛び出したいとも思っていました。父親が戦前の大正生まれの人間で、仕事をひたすら一生懸命やらないと生きていけないという姿を見て育ちました」

レニアビーチの新型コロナワクチン接種会場にて。「先進的な医療研究と政府関係者の努力の結果、
ワクチン接種ができたことに感謝します」

子どもの頃になりたかったものは。「あまり記憶にないです。海外で仕事をするというぼんやりとしたものがあったような気がします。夢なんてなくて、ただ目の前にあることを頑張って、処理して、勉強してきました」と、当たり前のような表情で笑う。「今もそんな感じですね。ひたすら目の前にあるものを処理して日々が過ぎていきます。もちろん、特にIT化では、数年先を見て構想・計画を立て、それを日々の具体的作業に落とし込んでいるわけですが」

プライベートとシアトル

宇和島屋シアトル店で、宇和島屋2代目で本誌発行人であるトミオ・モリグチと、娘で3代目の現CEO、デニースさんと共に

趣味は、実益を兼ねた勉強だそう。「最近は、セキュリティー対策の一環としてランサムウェア攻撃の動向、AI、DX 、ML(機械学習)について、さまざまなウェビナーを受講しています」。また、家族と一緒に美術館や国立公園をめぐるのが好きだと言う。「ワシントンDCに住んでいた時に、妻がナショナル・ギャラリーとスミソニアンで絵の歴史の勉強をしていました。印象派の絵画が好きで、一緒にニューヨークやフィラデルフィア、ボストン、そしてパリも訪れました。シカゴにいた時は娘がいたので、ロードトリップでイエロー・ストーンやグランド・サークルといったアメリカの国立公園、またケネディ宇宙センターなどをめぐりました」。シアトルに来てからは缶詰状態でどこにも行けていなかった。ようやく出かけるようになったのは今年の夏頃。「まずはパイクプレース・マーケットに行きました。パンデミック前以上のにぎわいだと聞きました。レーニア山国立公園、オリンピック国立公園も訪れ、ハイキングを楽しみました」

オリンピック国立公園では、夫婦で自然を満喫

パンデミックでいろいろな活動が停止している中、人と直接会っての交流はいまだに限られる。オンラインを通して現地の日本人社会や日系社会に関わる人々とつながり、会話をして理解を深めているそうだ。「米国西海岸の都市というと、まだまだサンフランシスコ、ロサンゼルスが日本人にとって主流ですが、シアトルには日本との地理的近接性や高い教育レベル、グローバル企業の存在などの強みがあります。そんなシアトルの魅力を日本人に向けてもっと発信していきたいですね。パンデミック終息の折には、日本とワシントン州の交流がコロナ前以上に増えるよう、その一助となれば幸いです」

約4,000人がフォローし、折り鶴制作を日々見守る稲垣総領事のインスタグラムのアカウント(@hisaoinagaki)より

オンラインと言えば、話題になっているのが折り鶴のインスタグラム投稿だ。「鶴は長寿の象徴として知られ、折り鶴は江戸時代から折られてきました。おめでたい鶴が千羽そろう千羽鶴は『良いことが起きる前触れ』とされ、現在も病気やケガの回復、被災地の復興を祈って贈られます。パンデミックで皆さん大変な思いをしている中、皆さんの健康と平穏を祈りつつ、シアトルに到着してから毎日鶴を折り、動画をアップしています」

周囲の反応はどうか。「オンライン上では、Thank you(感謝)やKeep up(続けてください)といったコメントが多いですね。たまたま郵便局に行った際、マスクをしていたにもかかわらず、毎日インスタグラムを見ていますと挨拶されたことがあり、驚きました。SNSの力ですね」。ちょうど365日目を迎える頃に海外のメディアで取り上げられるようになり、今では英語のみならず、ロシア語、アラビア語、中国語などでもコメントが届くそうだ。

「9月24日でちょうど400になりました。日本のテレビでも報道され、思いがけず大きな反響があり、感謝しております。当地にいる間は続けて、高齢者施設などに寄贈することを考えていますが、大勢の方のフォローもあり、離任後も続けるかは未定です」

データサイエンティスト 工藤卓哉さん

工藤拓哉さんインタビュー

「懐の深い人」という印象。世界最大のコンサルティング会社、アクセンチュアでデータサイエンス部門の統括をする工藤卓哉さんは、名立たる企業のトップとつながり、助言を求められる立場に。「データが好きなんです。勘ではなく、データに基づいて意思決定をすることが」と、目尻を下げます。頭に入っている膨大な情報と共に、ソフトな口調で語ってくれました。

取材・文:渡辺菜穂子 
写真:アクセンチュアARISE analytics、本人提供

工藤卓哉■愛知県出身。1997年に慶應義塾大学商学部を卒業し、アクセンチュア株式会社に入社。2004年に退社し渡米。2005年にコロンビア大学で国際公共政策修士号、2010年にカーネギーメロン大学で情報技術修士号を取得。また、ニューヨーク市で統計ディレクターを務める。2011年から2014年まで東日本大震災の震災支援に関わる。2014年にシアトルに移住し、現在はアクセンチュア・データサイエンスセンターのグローバル統括として活躍する傍ら、株式会社ARISE analytics(アライズ アナリティクス)取締役を務めている。

データでどう世の中を救う?

データサイエンスを利用したコンサルティング業というのは、具体的に何をしているのだろうか。多くの事例は企業秘密に関わるため、なかなか表に出てこない。そんな中で話題となり、ビジネス誌『フォーチュン』の「Change the World(世界を変える企業)」にも紹介されたのが、佐賀県の救急車搬送システムを改良した件だ。その事例からデータサイエンティストの仕事内容を説明してもらった。

「まずは課題があります。佐賀県の場合は当時、救急車を呼んでもいわゆる『たらい回し』などで患者がスムーズに病院に運ばれないと相談を受けました」。もともと高齢化社会で医者も救急車も少なく、そのうえ、市町村統廃合により管轄エリアの道順がわからないというケースも発生していた。搬送に時間がかかれば患者の死亡率が高まり、受け入れを拒否する病院がより増えるという悪循環。

アクセンチュアによりYouTubeで公開されている動画「データサイエンスの力」で佐賀県の事例を紹介。工藤さん本人も登場(www.youtube.com/watch?v=pezRRsXGl2Q

「次に、いろいろな方面の関係者から話を聞きます」。救急車は、要請依頼を受けた緊急センターが車両を配車。現場に到着した救急救命士が状況判断をして病院に電話し、受け入れの承諾が得られたら搬送となる。「つまり、そこで救急救命士の勘に頼るところが多いのです。たとえば心臓発作の場合は、心臓外科医と手術設備が整っている病院を瞬時に判断したいのですが、経験の浅い救急救命士には難しい。1回電話して断られると1分20秒ロスすることがわかりました。心臓発作だと1回のロスで脳死状態になってしまいます」

多方面から情報を集めて現状を把握した後に、いよいよデータが登場する。「現在人間が担っている意思決定プロセスを、なんとかデータでシステム化できないかと考えます」。佐賀県のベテラン救急救命士が電話する時に思い浮かべるのは、病院の設備、専門医の有無と勤務スケジュール、病床が空いているかどうか、現在地からの距離。それらの情報をデータ化し、「心臓発作」と打ち込むと、最適な病院までの道順が示されるプログラムを作成して、iPadに搭載した。

このように、データに基づいた意思決定システムは迅速さと確実性を高める。佐賀県の事例はモデルケースとなり、日本全国に拡大している。データサイエンスで人を救うことができるのだ。

データサイエンスはコラボレーション

佐賀県で用いられたデータサイエンスの力は東日本大震災の復興支援にもつながっている。「九州佐賀県の緊急車両システムは、東北福島県の若者によってプログラミングされたのです」と工藤さん。

工藤さんは2011年から2014年の間、日本に移住し、被災地の復興支援に携わっている。福島県会津若松市にアクセンチュア・イノベーションセンター福島センターを、アクセンチュアで共に働く中村彰二朗さんと立ち上げた。中村さんは現在、同センター共同統括を務める。「被災地が本当の意味で復興するには雇用の支援が必要です。それがないと人が戻って来ません。データサイエンスは、クラウド・コンピューティングさえ使えれば仕事になるので、雇用の起爆剤になると思いました。震災で打撃を受けた会津若松から、世界を救うことができるのです」。効果は大きかった。今や会津若松は、日本有数のスマート・シティーとして、経済産業省や民間企業などの視察があとを絶たない。

佐賀県の山口祥義知事と医療政策について知事室にて懇談中

「この業界に興味のある仲間を募集しています」と話す工藤さんに、どういう人が向いているのかを聞いた。「僕はデータが好きで数学が得意ですが、あまりそこを押し付けるつもりはありません。ひとつの領域にこだわらずに、何でも学べる人がデータサイエンスに向いているのではと思います。フランス文学を専門としていた人が、トップクラスのデータサイエンティストになった例もあります。逆に、ハーバード大学で物理学の博士号を取っていたとしても、人とコミュニケーションが取れないとダメです。『データサイエンスは何か』と聞かれたら『コラボレーションです』と答えています。上下関係やバックグラウンドの違いにとらわれず、積極的にいろんな人から学ぶ姿勢が必要とされる仕事です」

インディ・ジョーンズと父親に憧れて

どもの時はインディ・ジョーンズに影響を受けて、考古学者になりたかったと話す工藤さん。大学の卒業時は、「決められた枠組みで仕事をするのではなくて、誰も解いたことのないパズルを解くように働けるのがコンサルティング業」と確信し、アクセンチュアに就職を決めたそう。「コンサルティングもインディ・ジョーンズも、答えのない状況から何かを探し求めていくという意味で共通しています。危険なところにも勇敢に飛び込み、世界中を旅行しながら未知への挑戦をしています。天職だったかなと思っています」

工藤さん率いるグローバル・チームは全世界22カ国に展開する

しかし、28歳で退社し、アメリカに留学した。それは父親の影響が大きかったと言う。消防署長だった父親は、ある日、叙勲旭日章をもらうことになった。「天皇陛下から旭日章をもらえるんだよ」と言う父親の顔が、生き生きとして見えた。「当時の自分は枯れていました。マネジャーになり、コンサルティング業務はルーティン化。このままでは30年後に父のように輝いていられないと思いました。それまで利益追求の仕事をしてきたので、人の命を救うような公共政策をやりたいと」

迷わず選んだ新しい道は、その後も一貫している。コロンビア大学で国際公共政策の修士号を取得し、ニューヨークのマイケル・ブルームバーグ市長(2002年〜2013年任)の元で働き始める。ニューヨークの格差社会は深刻だ。データサイエンスを用いて、メディケア、メディケイド対象の人々でも確実に医療を受けられるサポートシステムや、一部の公立校の腐敗を正すためのデータによる透明性の高い客観的評価システムを構築した。

アクセンチュアで初の女性CEOに就任したジュリー・スウィート氏(写真中央)と並んで

そんな頃に、東日本大震災が起きた。大混乱となっていた日本に「データに基づいた意思決定」の必要性を工藤さんは感じた。行動は迅速だった。日本に移住することを決め、家族を説得し、古巣であるアクセンチュアに打診をし、ニューヨークで所有していた家を処分。2011年5月には復興支援プロジェクトに手をつけていた。「妻にはすごく嫌がられました。日本に行ったこともない白人のアメリカ人です。しかも当時は、メルトダウンを起こして余震も止まらない状態。一応納得して仕事も辞め、ついてきてくれたのですが」

そんな家族の事情もあり、震災復興にある程度貢献できたと感じた段階で再び日本を離れ、2014年12月にシアトルに引っ越した。冒頭で紹介した佐賀県の事例は、工藤さんがシアトルから会津若松に指示を出し、プログラミングを仕上げた。「シアトルは子育て環境も整い、圧倒的に住みやすいですね。世界の通信パケットの70%を占める巨人企業があるので、データサイエンティストとしても、いい拠点です。マイクロソフトアマゾン、グーグルなどパートナー各社にも10分程度で行けるし、日本にも近いし、おいしいコーヒーもあるし」

ノミと子どもと仕事の可能性

個人的に今後やりたいことを尋ねてみた。「教育系ですね。今はまだ自分の子どもに精一杯なのですが、10年先くらい、退職した頃にでも。日本人ですから、日本に貢献したいです。内向きになっている若い日本人たちが、もったいないなぁと思います。

工藤さんと子どもたち。「週末は子どもと一緒に釣りや犬の散歩に出かけるなど、涙ぐましい努力をしています。コロナ禍の今は特に運動不足になっているので」

アメリカで働く日本人として、自分がやってきたことを多くの若い人たちに伝えたいという気持ちがあります。あと痛ましいのは日米共通ですけれど、日本は特に18歳以上の孤児に向けた国としての制度設計と支援の仕組みがないので、そこを支援するシステムができないかと考えています。すごく恵まれた環境にあるはずの自分の子どもたちが文句ばかり言うので『水も飲めない子どももいるのに』とよくさとすのですが、口にしている以上、支援もしなければと」

家庭ではどんな父親なのだろうか。「子どもには厳しいと思います。妻が優しい分、バランスを取るようにはしています」。子どもたちは興味を持って何かを始めるものの、飽きてはすぐ興味の対象が移ってしまうそうだ。習い始めたバイオリンをやめた時には、「自分が子どもの時は、バイオリンなんて高いものは……」と嘆いたことも。

子どもの七五三詣で家族と。「常に忙しいので、薪の炎の近くで何も考えずゆっくりする時間に幸せを感じます。温泉めぐりもしてみたい。ちゃんとした風呂を自宅に作ろうとリモデルも検討しています」

「妻からは『自分と比較したらダメ、比較すると枠組みの中に収まってしまい、大きくなれない』と言われました。確かにその通りだと思いました。特に日本の男性は、固定概念の強い人が多い気がします。日本に帰ると、子どもの失敗に真剣にキレている男親が目につきます。僕は自分では柔軟なほうだと思っていますが、それでも日本人男性です。だから、妻に言われることは素直に受けるようにしています」

工藤さんはデータサイエンスに関する講演をする時、ノミの話をよくするそうだ。ノミは小さいのに何十センチも飛び上がれる。しかし、コップに入れて1日育てると、コップの高さしか飛べなくなってしまう。「仕事も子どもも同じです。親やほかの子と比較すると、その高さしか飛べなくなってしまうから、絶対にしてはいけないのだなと思います。アメリカではよく言われますが、日本にいたら到底学べなかったことです」

INTERVIEW:シアトル・サウンダースFC アスレチックトレーナー 立浪シーラさん

サッカー界のトップアスリートたちに「彼女は最高だ」と評される日本人女性がいる。シアトル・サウンダースFC(以下サウンダース)のアスレチックトレーナー、立浪シーラさん。トレーナーという肩書きをはるかに超え、常にサッカー界全体を見据えている。

取材・文:渡辺菜穂子 写真:渡辺菜穂子、シアトル・サウンダースFC、本人提供

「サッカーには人々をひとつにする力がある」

ロッカールームで作る関係性

「私は裏方だから」と言うシーラさん。今回のインタビューに協力してくれたのは、9月21日にタコマで行われる米女子サッカープロリーグ(NWSL)の試合が、サッカーファンにとっても日本人にとっても見逃せない試合であることを伝えるため。アスレチックトレーナーとは、どんな仕事なのか。シーラさんを半日、密着させてもらった。

シーラさんは、朝一のコーチ・ミーティングに出席した後、練習前に食事したりくつろいだりする選手たちと共に過ごす。担当するアカデミー所属の最年少選手は14歳。全世界から選りすぐったアスリートたちだが、まだ幼い表情の残る選手や、親元を離れて暮らす外国人選手もいる。そんな選手たちとチームのカフェテリアで一緒に食事をし、ロッカールームを出入りしながら満遍なく視線をめぐらせ、声をかけ、アドバイスする。筆者に紹介してくれる時は、「昨年度のアメリカ代表に選ばれて、チーム・リーダーだった」「アカデミーから一軍に上がった最初の選手」などと、まるで自身の子ども自慢をしているかのように誇らしげだ。選手たちとシーラさんとの距離が近く、思ったより親密であることに驚かされた。

8月27日に行われたホームの試合で、選手のサポートに走り回るシーラさん ©Charis Wilson of Sounders FC

「彼らが最高のパフォーマンスでプレーするためには、苦しんでいることや悲しんでいることを、しっかり伝えてもらえる関係性を保っていかなければなりません。私が怖くて不調を打ち明けられない、というのは困るんです。監督はロッカールームに入らない。でも私は、ずっとロッカールームにいて、選手たちが気がねしない存在でいます」

 
選手が育つ環境を整える

シーラさんの目標は、二軍チームとアカデミー所属選手を毎年2名以上、一軍に上げること。ユースのトップ選手は17歳までにプロの試合に出し、21歳になるまでにプロの試合を100戦以上経験させる。アスレチックトレーナーは本来、選手が故障した時のケアをするが、シーラさんはそれ以前のケアに比重を置く。健康管理の仕方を教育し、メンタル面をサポートすることで、若い選手が育つためのベストな環境を作るのだ。最新技術を使ったデータ分析もしている。動きや心拍数を記録するGPSを選手たちに装備させ、睡眠時間や身体の不調などを朝晩報告するシステムも導入。あらゆる方法で情報をすくい上げ、どんな小さな変化も見逃すまいとする。

©Charis Wilson of Sounders FC

「管理しているということを選手に気付かせないようにするのが私のやり方です」。体の調子が万全でなければ、朝のミーティングでコーチと相談し、練習量を調整する。あからさまに練習を休ませるのではなく、接触の少ないポジションに配置するなどして運動量を減らすのだ。「選手たちには常に挑戦させながら、セーフティーネットを敷いておくのが私の役目。食事にしても、決めたものを食べさせるのではなく、必要なエネルギーを摂取するための知識と選択肢を与えて、最終的には選手自身に何をどれだけ食べるか判断してもらいます」。選手の不調や心配事は、チームの休みとは関係なく訪れる。24時間365日、稼働している。

 

選手からトレーナーに

もともとシーラさんはサッカー選手だったが、大学の選手としてプレー中に大ケガをしている。スポーツ医学を専攻していたので、ケガをした自分の身体も研究対象とした。修士号取得後、セミプロ選手としてサッカーを続けながら、2009年にオースティン・アズテックスのアスレチックトレーナーに就任する。「最初からプロチームに関われたのはラッキーでした。アスレチックトレーナーは普通、いろいろな下積みを積んでからプロチームの仕事に就くことが多いので」

米代表キャンプにてGK選手陣と練習前に。写真右端がホープ・ソロ選手、同左端は今年のW杯フランス大会でのスターティングGKアリッサ・ネアー選手

その後もDCユナイテッド・アカデミー、レアル・メリーランドFCなど、多くのプロチームにトレーナーとして招へいされる。特に印象的だったチームを問うと、ウエスタン・ニューヨーク・フラッシュという女子プロチームを挙げた。「NWSLの前に存在した米女子サッカープロリーグ、WPSが潰れた翌年の2012年にヘッド・トレーナーとしてチームに所属しました。それまで男子トップ選手に関わってきたので、女子選手にも同じレベルのケアをしたいと思いました」。女子のプロリーグがなくなるかもしれないという辛い時期、「たくさんの方々が観て楽しめるサッカー」を目指して一致団結。劇的な逆転優勝を果たした。「女子サッカーの未来について言いたいことはたくさんあったけれど、勝たなければ何も主張できないと思っていたので、この勝利には特別な意味がありました」

中国での大会で日本代表を破り、優勝セレモニーに臨むU-19米代表チームと
 
世界で認められるチームに成長

それから間もなく、シーラさんはシアトルに拠点を移す。「もう1度、男子リーグに戻り、今度はプロではなく、育成のほうに力を注ぎたいと思い始めました。日本を含め、世界では高校を卒業してすぐプロになる選手が多いのですが、その頃のアメリカでは、大学を出てからプロになることが普通でした。でも、サッカーでの選手生命を考えると、それでは遅いのです。まだ歴史も浅かったサウンダース・アカデミーに興味があり、シアトルに移ることを決めました」

コーチ・ミーティング。コーチたちが戦略やフォーメーションを吟味するのに対し、シーラさんは選手個々の体調に気を配る。調子の悪い選手がいれば練習メニューを調整するように提言する

弱小だったサウンダース・アカデミーは、シーラさんが所属してから間もなく、世界でもトップレベルのアカデミー・チームと肩を並べて闘える強いチームになった。「全米で強豪チームになってからは、国際トーナメントにも積極的に参加しています。イギリスの大会にエントリーして優勝したり、日本のプロチームと対戦したり。以前はこちらからお願いして試合をしていましたが、世界で認められるようになったのか、2年前くらいからFIFA主催の大会などにも招待されるようになりました」

アカデミー出身、16歳でサウンダース一軍選手になったダニー・レイバ選手(写真左)、アカデミーU-17所属の篠田大雅選手(同中央)と共に

実は、サウンダース在籍中にも誘いが来て、2013年に新しく始まったNWSLのポートランド・ソーンズFCや、レインFC(旧シアトル・レインFC)のヘッド・トレーナーを務め、共に優勝を飾っている。「ニューヨークでもそうですが、私が関わった女子サッカー全チームと優勝を経験しているんです」とにっこり。名トレーナー、シーラ・タツナミの名前は業界に知られ、アメリカ女子代表チームやユース代表チームにも呼ばれるなど、引っ張りだこだ。2020年の東京五輪にも同行するのだろうか。「私が決められることではないので。でも、呼ばれれば、ぜひ行きたいです!」

サウンダースのチーム・ランチを提供するナイジェル・テイラーさん(写真中央)、マイク・マーサーさん(同左)とカフェテリアにて。ふたりは、タクウィラにあるレストラン、ウォーターシェッドFCのシェフだ。栄養バランスを考えた朝食と昼食は、プロアスリートに欠かせない。シーラさんは選手たちと一緒に食事しながら、シェフとも密接なコミュニケーションを取っている
 

サッカー漬けの今の生活に全く不満はない

サッカーで日米交流を

シーラさんには仕事とプライベートの線引きも、職務内容の区分もない。「サッカー漬けの今の生活に全く不満はないです」と言い切る。「私の場合、仕事が仕事ではなく、趣味のようなものなので」

オースティンの大学でキネシオロジー(人間運動学)のクラスを教えていた時には、大学サッカー部を作るという話が持ち上がり、シーラさんはフィットネスの指導から、ユニフォームのロゴのプリントまで手伝った。また、スタッフが少ないチームに所属している時は、アスレチックトレーナーと備品管理マネジャーを兼務した。「選手の治療をしながら、その間に洗濯をしたりしていました」と笑う。

脳の動きのスピードを測るインパクト・テストを受ける北原壮太選手(アカデミーU-17所属)。ユース・アメリカ代表に選ばれているが、日米の国籍を持つため、両国で代表になる可能性がある

サッカーに関する技術の向上には貪欲だ。「ひとりで仕事をしていると、どうしても自己流になってしまうので、オフシーズンにはヨーロッパや日本のいろいろなドクターの下で最新技術を勉強します。私の選手たちには、常に最高レベルの治療やリハビリを受けてもらいたいので」。一緒に働いた監督がイギリスで著名なサッカー選手だったということもあり、名門マンチェスター・ユナイテッドのチーム・ドクターから最高峰の技術を学んだこともある。シーラさんの今の目標は、サウンダースで日本人選手がプレーする日が来ること、そして、アカデミーにいる日本人選手が日本代表やJリーグでプレーする日が来ること。「サッカーを通して、日本とシアトルの交流が実現できたらうれしい。サッカーって、人々をひとつにすることができるのです。サウンダースの応援団を見てもわかります。応援することによって一体感を得られます。シアトルに住んでいる日本人が異国で寂しく感じることがあっても、日本の選手の活躍に勇気付けられるはずです」

なでしこリーグのINAC神戸 レオネッサでプレーしていたこともあるべヴァリー・ゴーベル=ヤネズ選手(写真中央)を挟んで、宇津木選手(同左)と

NWSL試合:レインFC × スカイ・ブルーFC

今シーズンからスカイ・ブルーFCに移籍した川澄奈穂美選手が、「故郷」シアトルでプレーする。「9月21日の試合は川澄選手のためにも、スタジアムを満員にしたいと話しています。レイン在籍の宇津木瑠美選手もいるし、アメリカ代表の中心選手では、カーリー・ロイド選手やメーガン・ラピーノ選手らもそろい、観戦する価値のある試合になります」とシーラさん。応援バスがノースゲート、シアトル、タクウィラ、タコマのルートで往復運行し、スタジアムにアクセスしやすくなっている(https://rally.co/reign-sky-blue-sep21)。ぜひ出かけてみよう!

シアトル・レインFC試合後インタビューに応じた川澄選手(写真左)、宇津木選手(同右)と。シーラさんは通訳を務めた
FW川澄とDF宇津木の日本人対決!

日本で「なでしこ」フィーバーを盛り上げた代表経験者がそろい踏み!「川澄選手からは人としても選手としても学ぶことが多い。あの小さい身体で、大柄なアメリカの選手と戦っても負けないような体を作り、ケアや準備などをきちんとしています。宇津木選手は、自分の信念をきちんと持っている人。このふたりのプレーを生で観戦できる、またとない機会です」。この日、ホーム試合終了後の恒例ファン・サービスでは、川澄選手も一緒に登場する予定だ。

日時:9月21日(土)7pm〜
場所:Cheney Stadium
2502 S. Tyler St., Tacoma, WA 98405
料金:$18/$30
チケット・詳細:www.reignfc.com

川澄選手が代表に戻った際、花束を手に記念撮影
 

立浪シーラ(Sheila Tatsunami)■小学校に入った頃からサッカーを始め、インディアナ州立大学で選手として活躍しながら、アスレチックトレーナー、スポーツ・バイオメカニクス、エクササイズ・フィジオロジーを専攻し、修士号取得。2009年、ユナイティッド・サッカー・リーグ(USL)のオースティン・アズテックスでヘッド・アスレチックトレーナーに就任。以来、米代表チーム含め、全国各地でアスレチックトレーナーを務め、2013年からシアトル・サウンダースFCに勤務。現在は二軍(USL Championship Div)のタコマ・ディファイアンスのヘッド・アスレチックトレーナーとなり、サウンダース・アカデミーの選手育成に力を入れている。

コンテンポラリー・ダンサー 西友里江さん

昨年9月にシアトルのスペクトラム・ダンス・シアターに入団した西友里江さんは、 同団唯一のアジア人ダンサーとして活躍している小柄な身体の表現者。日本で生まれ育った26歳の女性が、アメリカという国で今伝えたいこと、今だから伝えられることを探ってみました。

取材・文:渡辺菜穂子 写真:本人提供

 

もっと自由に、自分を出して踊る

 

ひとりの人間として踊ること

「ダンサーとしてというより、ひとりの人間として踊りたいと感じています」と、友里江さん。大きな笑顔が魅力的で、小柄な身体に潔い短髪がよりいっそう印象を深める。肩書きはコンテンポラリー・ダンサー。「コンテンポラリー=現時代」というように、既存のジャンルやステップにとらわれず、自由な身体の動きで表現するダンサーだ。

子どもの頃はバレリーナ志望だった。海外のバレエ団に入ることを目指してバレエに打ち込んでいた。バレエ以外のダンスに目を向けたのはティーンエイジャーになってから。「バレエってポジションや型が決まっていて、それに嫌気がさした時期があったんです」。それでもバレエを続けながら、大学でヒップホップやジャズダンスを学び、卒業後により多くの経験を求めてダンス留学を決めた。

ニューヨーク地下鉄のタイムズ・スクエア駅構内で路上パフォーマンス

ニューヨークのダンス・スクール、ペリーダンス・カぺジオ・センターでは、さまざまなスタイルのダンスを学んだ。同時にオーディションで奨学金を得て、トロントのコンテール・ダンス・カンパニーやヒューストンのMETダンスのサマー・ワークショップにも参加。国境なき医師団への寄付公演「Let’ s Talk about Love」への参加を依頼された時は、自ら振り付けもした。

昨年9月にシアトルのスペクトラム・ダンス・シアターに入団。「ディレクターに求められることを何でもこなせるようなダンサーになることが理想です」。そんな友里江さんだが、決して順風満帆というわけではなく、アメリカでプロのダンサーとして成長するための厳しい洗礼を受けているところだという。友里江さんは、これまででいちばん大変なのは「今」だと打ち明ける。

念願だった入団は果たしたが、唐突に役を降ろされたり、踊る場面を減らされたりする。「最近はディレクターの目を気にするようになってしまって……。前回のツアー公演ではドレスリハーサルの時点でソロを外され、理由を聞いたら『考え過ぎだよ』と言われました。いつも『小さい、小さい。大きく踊れ』と言われていたので、それを考えながら踊っていたんですが」

それまで、ディレクターの指示に添うことを考えて踊っていたという友里江さん。しかし、当のディレクターは「その方法は効果ないね」と、そっけない。思い悩む友里江さんに仲間のダンサーが言葉をかけてくれた。「監督のために踊っているわけじゃないだろう? 誰のために踊るの? 踊るのは自分のためだよ」。そこから、友里江さんは自分のために踊ること、ひとりの人間として踊ることを意識するようになる。

ニューヨーク・ハドソン河沿いでの1枚

アメリカで、もっと自由に

友里江さんは、今後もずっとアメリカでダンスをやっていくつもりだ。「日本だとよりいっそう、怒られないようにペコペコしている自分が想像できて。それが嫌だなと思います。もっと自由に、自分を出していきたいです」。友里江さんがディレクターの目を気にしがちなのは、子どもの頃に所属していたバレエ団での体験がトラウマになっているためだ。初めてソロを任された小学2年生の時、「舞台でダメだと思ったら音を切るからね」と先生に言われた。ダンサーが舞台上で音を切られたら、どうすればいいのかわからない。子ども心に恐怖を感じながら、舞台に出た。その時の記憶が、いまだに頭をよぎると話す。

日本で踊ることとアメリカで踊ることの違いは何だろうか。「まず、アメリカのダンサーは目力がすごいです。眉間にシワを寄せて目を見開いて、目ん玉を光らせて。力強く、 エネルギッシュで、何かを訴えるように踊るんです」。一方、日本のダンスはしっとりとして、優雅で、美しい。日本にいた頃は意識していなかったが、アメリカに来て、自分が目を伏せて踊っていることに気付かされたと言う。ダンスの世界を取り巻く環境の違いも感じるそうだ。

ブルックリンのプロスペクト公園で

「シアトルや ニューヨークの人々は、興味を持つ対象が広く、パフォーマンスにお金を使う人が多い印象です」。豪華な劇場であろうとも路上であろうとも興味を引かれ、見て、楽しんで、それ相当の対価を払う。芸術をサポートする企業スポンサーも多い。そのためアメリカでパフォーマーがリスペクトされ、 多くの傑作が生み出される好循環となっているのだろう。 それと比べ日本では、ストリート・パフォーマンスをしている人に対してやや偏見の目が混ざる。ダンスが好きな人は多いが、お金を払って楽しむという感覚がなかなか芽生えない。「日本では踊りで稼ぐことが難しいです。踊れば踊るほど、上手くなればなるほど、踊る側がお金を出さなければならないという仕組みもあります」

 

ダンスを通して、見せたい自分

友里江さんが所属するスペクトラム・ダンス・シアターは、シアトルを拠点とするコンテンポラリー・ダンス・カンパニー。背丈、体格、踊り方、人種、性格、スキルが異なるダン サーが集まっており、その多様性を特長とする。ソロなどではダンサーが好きに踊っていい、というより自分の動きを見せていかなければならない場合もある。「力強い踊り方と か、繊細な動きとか個性がかなり出て、面白いです。各ダンサーがこれまでやってきたトレーニング方法や、生きてきた環境の違いが表れます」

所属ダンサーは友里江さん以外、アメリカ生まれかカナダ人。人種問題などアメリカ社会をテーマとした作品も多い。「アメリカのことを知っておくと、より深く作品を理解できます」。そう言う友里江さんは、入団直後、テーマや背景を知らずに舞台に立ったこともあるそうだ。ア フリカ系アメリカ人のダンサー仲間は多いが、人種問題を語り合う機会もそれを訴えるような舞台もこれまでなかった。

スペクトラム・ダンス・シアターによる作品「Occurence」

日本で生まれ、日本で育った友里江さんには、別世界の物語にも思える。「たとえば『銃を持っ ている』という動きや、『銃を持っていない』という動きもあるのですが、最初に指示を出された時は、全くついていけませんでした」。しかし、そうしたことも貴重な経験だと思っている。

苦労話をしていても、どこか明るい。そんな友里江さんから、何かに全力で打ち込み、全力でもがいている人間のエネルギーを感じる。「私にとってダンスは、自分の魂みたいなものです。体格も含め、ダンサーとして恵まれた条件がそろっているわけではないですが、それでもダンサーとして歩んでいます」。身長150センチを切る友里江さんは、かなり小柄だ。「舞台に立つと、どっちかなんですよね。目立つか、邪魔になるか」と笑う。

ニューヨークを拠点に活動するマイク・エスペランザというダンサー が好きだと話す。「彼は背も高くなく、丸っこい身体をしています。だから可動域も少なく、フレキシブルに動けるわけでもないのですが、すごく魅力的なんです。ベア・ダンス・カンパニーというコンテンポラリー・ ダンス・カンパニーを運営していて、振り付けも素敵です」。友里江さんも、将来は自分自身のダンスを構築し、伝えていきたいと思っている。

「見てくれる人に感動を与えたいです。それぞれがどんな日常を過ごし ていても、ダンスを見ている瞬間にスカッと幸せな気持ちになってもらえたらと思います」

 

それぞれがどんな日常を過ごしていても、
ダンスを見ている瞬間に
スカッと幸せな気持ちになってもらえたら

 

スペクトラム・ダンス・シアターのメンバーと

西友里江(にしゆりえ)■ ダンサー。大阪で生まれ兵庫県西宮 市で育つ。5 歳からクラシックバレエを始める。武庫川女子 大学健康・スポーツ科学部でヒップホップやジャズダンスを学 び、卒業後にニューヨークのペリーダンス・カぺジオ・センター にダンス留学。2018 年 9 月よりシアトルのスペクトラム・ダ ンス・シアターに入団。ジャイロキネシス ® の公認トレーナー。

 

次回の友里江さんの出演予定作品

ウエスト・サイド・ストーリー
West Side Story

1957 年初演のブロードウェイ・ミュージカル。ニューヨークを 舞台に、人種の異なる不良グループ「ジェッツ」と「シャークス」の抗 争と、その争いに巻き込まれる少年少女の恋と悲劇の物語。振り付 けはジェームス・ロビンズ。シェイクスピア『ロミオとジュリエッ ト』を原案として、アーサー・ローレンツが脚本化。スペクトラム・ ダンス・シアターとフィフス・アベニュー・シアターの共同公演。

日程:6 月7日(金)〜 6 月 23 日(日)
場所:5th Avenue Theater
1308 5th Ave., Seattle, WA 98101
料金:$29 〜
チケット・問い合わせ:下記ウェブサイト、ボックス・オフィス(月〜金 10am 〜 6pm、土日 12pm 〜 5pm)または☎︎206-625-1900 詳細:www.5thavenue.org/show/west-side-story

スペクトラム・ダンス・シアター
Spectrum Dance Theatre
シアトルを拠点にその作品を世界に発信するコンテンポラリー・ダンス・カンパニー。1982 年に創設。2002年から振付家、ドナルド・バードが芸術監督として率いる。 https://spectrumdance.org

 

 

シアトル宮城会 高村国子さん

箏曲家、宮城道雄。その名を知らなくても、宮城氏の代表作「春の海」は、正月の定番曲として日本人なら誰もが耳にしたことがあるでしょう。今回は、そんな日本の音楽史を語るうえで避けては通れない重要な人物、宮城氏の直弟子である、高村国子さんにインタビュー。
1959年にシアトル宮城会を創設し、以来60年にわたり、箏と三味線(地唄三絃)を教えてきた国子さんの、日本の伝統音楽と共にある人生に迫ります。

取材・文:渡辺菜穂子 写真:渡辺菜穂子、本人提供

 

宮城先生はとても静かな方でした。
「アメリカでお箏を広めてくださいよ」とおっしゃって。
忘れられません。

 

「現代邦楽の父」宮城氏との出会い

高村国子さんは、言葉遣いが柔らかく物腰がとても美しい。90歳を過ぎていると聞いていたが、とても見えない。不躾に年齢を尋ねると、「今年で96歳よ」と笑う。若さの秘訣はと問うと、「さあ、のんきだからよね」と微笑みを崩さず、おっとりとした口調で答えてくれた。そして、ひとり言
のように「若い方が来てくださるからね」と付け加えた。

周りの人への感謝がごく自然に口に出る。謙虚で丁寧な極上の品の良さが、そこはかとなくにじみ出ている。自宅兼稽古場で話を聞かせてもらう間、何度も電話がかかってきた。まだまだ、忙しい日々を送っているようだ。

国子さんは1923年に中国で生まれた。帝国主義が終えんに向かう中、争いが絶えない時代だった。両親の母国、日本に戻ったのは10歳の時。仕事のある父親がひとり中国に残り、母親と姉弟と共に東京で育つ。比較的恵まれた暮らしができていたという。箏を始めたのは女学生時代。「その
前もピアノを習ったり、長唄を習ったりしていたんですけれど、あまり合わなくてやめてしまいました。ピアノなんかは姉がとても上手だったから」。女学校で箏を教わった先生に勧められ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に進学した。

宮城道雄氏は当時、邦楽科の教授だった。盲目でありながら箏の名手、そして何より多くの名曲を生み出した大先生として知られていた。後に「現代邦楽の父」と呼ばれるが、その作品に西洋音楽の要素を取り込んで、世界的バイオリニストと共演するなど、その功績は並々ならない。そんな大
先生とのレッスンに、国子さんは常に緊張して臨んでいたそうだ。

しかし、時は第二次世界大戦の真っ最中。東京大空襲が始まった。「宮城先生と一緒に防空壕にも入りました。空襲で家が焼けましたから、私は神奈川県の湯河原に疎開しました。先生も疎開なさって、しばらく東京にはいらっしゃいませんでした」。しかし、戦後も大学卒業後も宮城氏の元
に通う。自身でも生徒を持ち、箏を教えながら10年ほど教えを受け続けた。

宮城氏との思い出でいちばん印象に残っていることはと問うと、しばらく間をおいて、おそらくいろいろな思いを頭にめぐらせながら答えてくれた。「宮城先生はとても静かな方でした。覚えているのは、やはり渡米を決めたことをご挨拶した時です。『アメリカでお箏を広めてくださいよ』とおっしゃって。忘れられません。本当にそんな力、私にはないんだけれどと思いながら」。それが最後の対面だった。宮城氏はその1週間後、突然の事故で亡くなる。結婚式を挙げたばかりだった国子さんは、新婚旅行中に訃報を聞いた。

1959年に宮城会を結成し、記念すべき第1回発表会

箏の音を届けるための渡米

国子さんがシアトルにたどり着いたのは、今は亡き夫との縁だという。尺八奏者だった夫は、生まれは日本だが父親の呼び寄せ家族として在米経験があり、アメリカ市民権を取得していた。「アメリカに何十年も住んでいて、日本に帰れない日本人たちがたくさんいる。そんな人たちに、お箏の
音を聴かせてあげて欲しい」。そんな言葉で誘われたそうだ。結婚した翌年、1957年に夫ゆかりのシアトルに移住した。ひと足先に渡米していた夫と、その音楽仲間が、日本からくる箏の先生を待っていてくれた。「準備はできていて、すぐにお稽古が始まりました」。戦時下の日系人強制収容所で三味線を手習った人たちも多く、最高峰の大学を卒業した本格的な先生は大歓迎された。

1959年12月にはシアトル宮城会を結成し、年に2回の定期公演を始め、数々の演奏会を開催するように。1962年のシアトル万国博覧会では、まだ幼かった長女のマーシャさんも箏を披露し、大喝采を受けたそうだ。シアトル総領事の依頼でモンタナまで出向いて1週間ほど出張演奏会をしたこともある。10周年や20周年など節目の大演奏会、ホテルやゴルフ場から頼まれる公演、フルート奏者でもある生徒とのコラボ演奏など、思い出話は尽きない。「小型飛行機でスポケーンまで演奏に行ったこともありました。飛行機が墜落しそうになってね。50年も60年もやっていると、いろんなことがありますね」。国子さんは、箏と日本の伝統音楽をアメリカに広めた功績を認められ、外務大臣や宮城会本部から表彰もされている。

尺八奏者だった亡き夫、高村氏と

叱るより自分が泣いてしまう

国子さんの人物像を問うと、「とにかく優しいんです」と弟子のひとり、川原律子さん。「もたもたしている生徒さんがいても、先生が何も言わないので、私が後ろから口を出してしまったこともあります。できない生徒さんに『少し家で練習して来られたら』などとは言わない、言えないでしょうね。全然、叱らないんです」

それを聞いた国子さんは、「叱るより先に、こちらが泣いてしまうんです」と目を細める。「何度説明してもわかってもらえないと、情けなくなります。自分の教え方の不甲斐なさに、涙が出るのです」。教えるのは難しい。つい自分で弾いてしまいたくなるのをこらえて、生徒が自分で考え、気付くのを願い見守る、それが国子さんの流儀。「誰でもわかる
時ってありますよね。できなかったことが、ある瞬間ヒュッとできるようになるんです。そんな時は、教えているこちらもうれしくて、『あら、できたじゃない』と一緒に喜びます」これまで、シアトルで教えた弟子は200人前後になる。

全盛期には出張してタコマでも教えていたそうだ。日本人や日系人も多いが、日本文化に引かれてやって来るアメリカ人も少なくない。「バション島からもう30年くらい、通って来ている白人女性のお弟子さんもいます」
文化や習慣が違い、育った環境も違う人に、時代も異なる伝統芸能を教えている。困ったリクエストをされるなど、大変だった生徒もいたと思うのだが。「そうね、いろんな人がいましたけれど、忘れました。大変なことは覚えていないわ」

全盛期は会員数も多かった。20周年では着物や袴をそろえてワシントン大学のミーニーホールで演奏

変わらないこと

1969年に『シアトル・タイムズ』紙の日曜版に掲載された記事を紹介したい。「インターナショナル・ディストリクトから小高い丘を上ったところの住宅街。外から見たらごく普通の家だが、その内部は古典的な日本間になっており、床の間があり、掛け軸がかかり、伝統楽器が並んでいる」。そんな書き出しの記事には、国子さんが弟子と共に着物姿で箏に向かう写真が多く使われ、箏や三味線に関する事細かな説明が続く。「KOTO、1本の木を削って作られる13弦の楽器。床に直接置く場合は、
生徒は床に膝をつけて演奏する。ほとんどの人にとって見慣れない楽器であるが、日本の映画やレコードで、その美しい音を耳にすることはアメリカでも可能だ」

しかし、現在シアトルで生まれ育った人間なら、日本にゆかりのない人でも、伝統楽器「箏」を、1度はどこかで目にしたことがあるだろう。それは国子さんを始め、シアトルにいながら日本文化を大切にしてきて、機会あるごとに公の場で披露してきた多くの人々の功績だ。

残念なことに、記事で描写された日本間は今はない。夫手作りの床の間は漏電で燃えてしまったのだ。全盛期と比べると会員も定期公演の数も減った。しかし、強力な助っ人がいる。長女のマーシャさんも指導を担当しているし、次女のシェリさんは、日本で箏の弦の張り替えを習い、力仕事が難しくなってきた国子さんの代わりに修理を請け負っている。

今も昔も変わらないのは、シアトル宮城会にはウェブサイトもなく、パンフレットもなく、看板も出していないこと。演奏会を見て話しかけてきた人や人づてで聞きつけてきた人、そんな縁で弟子ができる。国子さん率いるシアトル宮城会は、今秋60周年を迎える。久しぶりに本格的な演奏会を開くつもりでいるそうだ。

1969年8月24日付『シアトル・タイムズ』紙の日曜版記事

 

できなかったことが、
ある瞬間ヒュッとできるようになるんです。
そんな時は、教えているこちらもうれしくて

 

 

高村国子(たかむらくにこ)■1923年、中国生まれ。10歳から日本で暮らし、大学で担当教授だった宮城道雄氏に師事。宮城氏の門人が集まり、1951年に発足した「宮城会」で大師範となる。1957年にシアトルへ渡り、1959年に宮城会のシアトル支部「シアトル宮城会」を創設。シアトル宮城会:☎206-325-9285、seattle.miyagikai@gmail.com

代表曲はXbox Oneゲーム 「Halo 5:Guardians」 作曲家 陣内一真さん

取材・文:渡辺菜穂子
写真提供:陣内一真

Xboxの大ヒットゲーム「Halo」シリーズは、その世界観を作り出している音楽のクオリティーの高さでも評判。2011年にマイクロソフト社に引き抜かれ、「Halo 4」「Halo 5: Guardians」の作曲家として活躍してきた陣内一真さんは、この夏、満を持して独立したばかり。子どもの頃から好きなことを突き詰めてきて、作曲家として現在のポジションに立つ陣内さんは、どんな人生を歩んで来たのでしょうか。

原点は音楽とコンピューター

7月にマイクロソフト社を退社した陣内さん。フリーランスの作曲家となってまだ間もないにも関わらず、日本のテレビシリーズやロサンゼルス拠点の映画の作曲を手がけており、忙しい毎日を送っている。

「これまで会社に所属してゲーム音楽の作曲を主にやってきたので、独立をきっかけに、もっといろいろな作品に関われたらと思っています」。モノを作る人が醸し出す独特のオーラを持ちながらも、威圧感を与えない柔らかい物腰。「まずは収入を安定させて生活の基盤を作るのがいちばんですが」と、笑顔を見せる。来年にはゲームの仕事も数本入っており、順調なスタートを切っているようだ。

そんな陣内さんの原点は音楽とコンピューター。そもそものきっかけとなったエピソードが面白い。「音」を意識したのは幼稚園の時。先生の弾くピアノの音に引かれ、習いたいと親に頼むが「ピアノは大き過ぎて家に置けない」と言われ断念。しかし、小学3年生でフルートの音色に引かれた時には「それならば」と、習わせてもらうことに。ただ、後に進学するバークリー音楽大学ではギターを専門楽器とするのだが、実はギターに関しては弾きたくて始めたわけではないという。

「中学生の時はファミコンが欲しかったんです。親にお願いしたら『やりたいゲームはこれで作りなさい』とコンピューターを与えてくれました。それで、図書館でプログラミングの本を借りてきて、ゲームらしいものを作りました。しかし、ファミコンのゲームと比べるとやっぱり見劣りします。何が違うんだろうと考え、音が出ていないことに気付きました。自分のゲームに音を入れるために、作曲をしようと」

そこで、和音を奏でるための手軽な楽器として、ギターを手にした。フルートでメロディー、ギターで和音、コンピューターでリズムを作ったのが処女作に。15歳の時の話だ。その頃からギターと共にさまざまな音楽を聴くようになり、陣内少年の興味はゲームのプログラミングから音楽に移っていった。

 

現在の仕事場、自宅のスタジオ。現在は作曲家としてコンピューターで音源を制作するのは必須だ。「オーケストラで録音するにしても、コンピューターで事前にサンプル音源を作って提供します。スターウォーズの作曲家、ジョン・ウィリアムズはいまだにピアノで作曲し、紙とペンで譜面を書いて提供していますが、それは大御所だから許されるのです!」

仕事としてゲーム音楽に出合う

陣内さんはジャズや現代音楽の名門、バークリー音楽大学を卒業している。ジャズピアニストの上原ひろみさんとは同級生であり、今でも親友と呼び合う仲だ。「大学の頃は、フュージョン的な音楽を作っていました。頭の中で風景を思い浮かべながら『風っぽい感じ』などとイメージして作曲します。80年代に結成されたフュージョン・バンド、イエロージャケッツの曲の構成がすごく面白くて、こういう楽曲ができたらいいなと思っていました」

いくら名門音大を出ても、音楽で定職に就くのは難しい。卒業後しばらくは、手当たり次第に仕事をしていた。「CM音楽をやりたかったので東京に出て、最初は青山にある老舗の制作会社で制作補佐のバイトをしました。事務的な雑用をしながら、時には作家さんのためのサンプル音源を作るなどしていました。クリエイティブな部分の仕事は面白かったのだけれど、試用期間が終わる時に『今後どうするんだ?』と聞かれ、『僕は作曲がしたいんです』と答えたら、『じゃあ、今日で最終日だ。お疲れさま』と言われました。ちょうどクリスマスの夜でしたね」と、当時を思い出し、苦笑いを浮かべる。

その後は知り合いに片っ端から電話をして仕事を探す。歌手のバックバンド代わりにコンピューターで打ち込み演奏を作ったり、楽譜作成ソフトウェア「シベリウス」のローカライズやユーザーサポートをしたり。そんな生活を3年間続けたある日、転機となる1本の電話があった。

バークリー大学時代の同級生であり、当時コナミの社員であった作曲家/音楽プロデューサーの戸田信子さんから、新しいゲーム音楽の制作チームの一員として声がかかった。「最初は断りました。それまで学んだことや仕事にしてきたことと、ゲーム音楽の制作は全く違うので、やっていけるかどうか自信がありませんでした。すると戸田さんから『作り方や制作プロセスなど技術的なことは教えられるから大丈夫。重要なのは、いい曲がかけるかどうかで、絵的な要素を感じるあなたの曲はゲームに合うから、絶対にうまくできる』と言われました。自分の音楽をそこまで強く評価されることはなかなかなく、やってみようと思いました。どちらにしてもデモがダメなら落とされるので」。陣内さんはチャンスに挑み、見事につかんだ。社内で議論はされたそうだが採用が決まり、ゲーム音楽作曲家としてのキャリアがスタートした。

当てはめた音楽がコレだと確信できる瞬間があり、
そんな時は、いい仕事ができています

(写真上下)「Halo 5: Guardians」 のレコーディング・セッション。作曲した楽曲をオーケストラによる生演奏で録音

作曲家、陣内一真が求められる理由

一般的に想像される「作曲」と、ゲーム音楽の作曲は全く違う。「それまでは聴いて心地良い音楽を目指して作曲していましたが、ゲーム音楽には心理的な作用が関わってきます。僕がいちばん考えるのは、スピード感です。音楽でいうとテンポ。ゲームには、どの場面にも何らかのスピード感が存在します。どんな音楽を当てはめるかによって、プレイヤーをわざと焦らせるなどコントロールすることができるのです」

陣内さんの音楽が、多方面から求められる理由は何だろうか。「ディレクターの方に解釈を評価されることがあります。映像や体験に音を付ける場合、まずその場面をどう解釈するかが問題です。僕にとって永遠の課題ではあるのですが、当てはめた音楽がコレだと確信できる瞬間があり、そんな時は、いい仕事ができています」

映像解釈について興味深い話を教えてもらった。音大の授業で、まず無音の動画を観る。「若い男女がとある家からこっそり抜け出して車で走り去って行く。それを初老の男性が窓から見てニコッと笑う」という展開だ。作曲家のタマゴである生徒たちの課題は、その動画に音を付けて意味を持たせること。ある生徒は、心温まる曲で「こっそり駆け落ちする若いカップルを、全て理解して黙って見送る父親」というストーリーに仕立てる。一方、ほかの生徒は、サスペンスに満ちた音楽で、車が走り去った後に爆発音を鳴らし、そこに初老の男性が笑顔を見せる映像がかぶるように仕上げた。なるほど、音楽によって映像の持つ意味を大きく変えてしまえることがよく理解できる。

陣内さんは映像の解釈を学校で体系的に勉強したわけではない。ゲーム音楽の仕事を始め、実生活から学んだという。日々の体験で「コレをするとこんな気持ちになる」ということに意識を向け、「この場面でこういう音を聞くと、こう感じる」という音体験の記憶を積み重ねた。つまり、映像解釈において独自のアプローチを完成させたのだ。

最近入手したシンセ(手前)。「機材が好きです。これは中身が別売で、ケースの規格に合わせて色と形と機能を考えながら選びました。これがないと仕事ができないというわけではないので趣味ですね」

ゲーム産業の街、シアトル

「Xbox『Halo』の楽曲には、思い入れがあります。すごくいいチームで制作できたし、特に『Halo 4』はこちらに来て初めての仕事であり、作曲した曲をオーケストラで録音するという経験も初めてで、いろいろなプロセスが特別でした」。陣内さんをシアトルに導いたのは、コナミ時代の上司、戸島壮太郎さんが「Halo」のオーディオ・ディレクターに就任し、そこから声がかかったことがきっかけだ。

ゲーム産業の街、シアトルならではの「ゲーム・オーディオ・コミュニティー」の存在が素晴らしいという。「ゲーム音楽の制作に関わっている人々のコミュニティーです。ライバル会社に所属していても不思議と競争にはならず、みんな協力的で横のつながりがとても大事にされています。そこで飲みに行くような友だちもできました」

好きなお酒も趣味の機材も、音楽友だちと楽しむ。「家ではあまり飲まないので、家族が寝てしまった後に近所の友だちと飲みに行きます。同業者で、同じバークリー出身という、とても才能のある若者です。音楽機材について詳しく、月に1度は自宅スタジオでビールを飲みながら一緒に音を作って遊んでいます」

好きなものを突き詰めて仕事につながった理想的なキャリアだ。「子どもの頃から、バカのひとつ覚えみたいに、ハマるとずっと同じことをやっています。今後何か新しいことを始め、いろいろな発見が続くとより興味が深まり、そこでアドレナリンが放出して、ますますハマっていくのです。今後やりたい仕事は、プロジェクトの内容もそうなんですが、この人と思う人と一緒に仕事ができたらいいですね」

ゲーム産業の街、シアトルならではの
「ゲーム・オーディオ・コミュニティー」の存在が素晴らしい

 

全39曲を収録した「Halo 5: Guardians」オリジナル・サウンドトラック(CD2枚組)。オーケストラの生演奏と最先端のシンセサイザーや音楽ソフトウェアを駆使し、ゲーム音楽の常識を超える壮大な楽曲が収められている
「Halo 5: Guardians」 のミキシング・セッション。「ダンケルク」やバットマン「ダークナイト・トリロジー」なども手がけたミキシング・エンジニアのアラン・マイヤーソン氏と

 
陣内一真(じんのうち かづま)■広島県出身。2003年にバークリー音楽大(Contemporary Writing and Production)を卒業。2006年から映画やテレビ番組向けの音楽、株式会社コナミデジタルエンタテインメントにて「メタルギアソリッド」シリーズなどゲーム音楽の制作に関わる。2011年からマイクロソフト343 Industriesにて「Halo」シリーズの作曲を担当。2018年7月に独立し、現在はフリーランスとしてゲーム、映画、テレビシリーズなどの作曲を請け負っている。
ウェブサイト:www.kazumajinnouchi.com
 
 

シアトル総領事 山田洋一郎さん

昨年6月にシアトルに赴任してきた山田洋一郎総領事。公の場のスピーチで、家族の話なども交えながら軽快に語る姿が見られます。そんなところに親しみが湧くのか、密かにファンクラブもできているそう。今回は山田総領事の人となりに迫ります。

取材・文:渡辺菜穂子
写真提供・協力:在シアトル日本国総領事館

 

シアトルに住む日本人を代表して
声にならない声を届ける

 

価値観が変わる瞬間

在シアトル日本国総領事館ホームページの「総領事のシア トル見聞録」でも、山田総領事の肉声がうかがえる。シアトルに赴任して以来、多くの場に足を運び、さまざまな人々と出会い、学んだことや感じたことを発信。「赴任した土地の事情をよく理解して、その土地の多くの人と知り合いになる」ことを、総領事の仕事の基盤としているそうだ。まずは、これまで外交官として世界各地で勤務しながら直面した出来事を聞いてみた。ご自身の価値観を覆えされるような出来事を3つ挙げるとしたら。「私にとって価値観が変わる瞬間というのは、自分が世の中を知っていると思っていて、実は全くわかっていなかったと気付く時です」と、山田総領事。

「まずはケニアです。日本から見ていると、貧しいアフリカは教育水準も低いと思われがちですが、現地に赴任してみると、いろいろな面でレベルの高さに驚かされました。ケニアには実に優秀な人が多いです」。2010年から13年までケニア公使としてナイロビに滞在していた。当時、すでに携帯電話で送金や決済ができる電子マネー「M-PESA(エムペサ)」が広く普及しており、ロンドンの『エコノミスト』誌などが画期的なアイデアであるとして何度も大きく取り上げていたそうだ。「あんなシンプルな携帯電話を使いながら、こんなに進んだことができるのかと思いました」。ケニア国民は平均3カ国語を自由に操る。生まれたエリアの部族語を母語とし、後にスワヒリ語と英語を習得するのだが、教科書もなく鉛筆もロクにそろわないような教育環境の中で学んでいる。「ケニアの新聞で使われている英語の語彙も非常に高度でした。そんな新聞を皆で回し読みし、共通語である英語やスワヒリ語で政治や経済の議論が活発に行われるのです」。日本から派遣されたケニア公使として生活水準や衛生基準を高めるような国際協力をしていたが、与えるだけでなく学ぶこと、与えられることも多く、目からウロコが落ちるような気付きを得られたという。

 

総領事の役割とは、人と人とをつなぐこと

 

シアトルでも価値観を覆されることがあった。「ひとつは、日系アメリカ人の存在の大きさです」。2017年は、第二次世界大戦中の日系人強制収容が行われた年から75周年に当たり、シアトル総領事としてその歴史を振り返ることが多かっ た。「日系人の方々は、アメリカ国内の偏見と戦い、日本人からは日本を捨てた人という目で見られながら、アメリカの良き市民であることを証明し、努力と労働によって地位と信用を築き上げてきました。この街で政治家や軍隊関係者たちと話をしていると、彼らの中で日系人に対する敬意が非常に高いことを感じます。第442連隊が英雄視されていることもよく話題に上がります」。強制収容の歴史を知識として知ってはいたが、実際にその歴史を築いた社会に身を置き、歴史を生きてきた人々に会うことで、改めてその影響力を実感したそうだ。「現在、一般の米国民が日本に寄せる信頼の土台として、日系人の存在が貢献していると思います」

3つ目として、シアトルに赴任してから耳にした日本人女性の問題を挙げた。アメリカ人男性と離婚した後に、子どもの 養育権などを盾に辛い生活を強いられているケースが非常に多いという。ワシントン州では離婚の際、結婚している間に 築いた財産や権利を夫婦で共有するという制度がある。情報不足や言葉の壁により、その権利を放棄させられ、不利な離婚が行われたという話もある。「しかし、そのような問題は、普通に生活していてもあまり目にしないし、外交の仕事でも出合わない。大きなニュースになることもないのです。そのような声にならない声を届ける必要があります」。そこで、山田総領事は州都オリンピアに自ら足を運び、ワシントン州の政治家たちに問題提起をしている。「不公正な部分に目をつぶった状態で豊かな日米関係が築けるとは思わないですから」

シアトルでの総領事の役割

「総領事の役割とは、人と人をつなぐことだと思っています。ひとりでどんなに頑張っても、それほど大きなことはできないですが、総領事という立場で、大きな力になってくれる人たちとの橋渡しになることができます」

シアトルには総領事としてやれることが多いという。「個人レベルで何かをやりたい人、何らかのプロジェクトをされている人が多くて、私はそういう人たちから話があれば、お手伝いしています。政治家や行政府との関係が深いので、民間企業とそこをつなげることでプロジェクトをより大きくしたり、スムーズにしたりできます」。では、総領事自身が進めようとしている分野はあるのだろうか。「私がシアトルのことをよく知っているわけではないので。いろいろなことをやろうと思っている方のお手伝いをするほうが、効率が良いのです」。なるほど、理にかなっている。

日米間の人材招へい・派遣を行う「カケハシ・プロジェクト」のひとつとして、沖縄から訪れた高校生に歓迎の挨拶を

一般的には、パスポートやビザの発給を行う場所というイメージが先行する領事館。実際には多様な役割を担っているが、その多様な部分を、総領事という責任者の立場から説明してもらった。

「第一には『文化と経済交流』です。管轄地域であるワシントン州とモンタナ州ー日本の間で人と人が行き来して、取り引きをして、関係を深め、信頼感を増すことの手助けをします」。投資やビジネスの橋渡し、(日本の学校に海外の青年を招致する)JETプログラムなどの教育における協力、日本文化の紹介、姉妹都市交流のサポートなどが含まれる。第二に「日本人の利益の保護」が挙げられる。「日本人に対しての支援は、われわれの仕事の重要なところです。先ほどの離婚した日本人女性のケースもそうですが、直接お金をあげるなどという支援ができるわけではない。しかし、情報の提供、社会的な意識の覚醒、政治的交渉などはできます。この地で困窮している日本人がいれば、何ができるのかを考え、できることを実行します」。第三に「政策広報」。「領事館には外交交渉の役割はないですが、日本の立場や政策を理解してもらうことは重要です。日本が国際協力として途上国のために支援をしていることや、地球温暖化のために行なっていること、そして領土問題などにおける日本の立場などを、折に触れて説明します」

将来の文明のあり方が見えてくる

総領事にとって、シアトルはどんな街に見えるのだろうか。「ひと言で言えば、素晴らしい街です。非常にオープンな場所だと思います」。地理的にも東アジアに近く、日本の氷川丸が最初に停まったのもシアトルだし、トランプ政権の入国制限令に抵抗し連邦裁に提訴したのもシアトルだ。「また、将来の文明のあり方が見えてくる場所でもあります」。マイクロソフトやアマゾンなど世界的なハイテク産業の中心であり、日本のハイテク業界の人々の注目を集めている。「ダイナミックで学ぶことが多い都市です」

仕事柄、どこで暮らすのも楽しめるほうだという山田総領事。「ですが、家族はそうとも言えず、住みやすいところや住みにくいところがあります。シアトルは日本に住んでいるのと同じぐらい、もしかしたらそれ以上に居心地がいいようです。個人的には人が優しく、丁寧な街だと思います」。シアトルでお気に入りの場所を聞いてみた。「遠出をすることはあまりないですが、最近よく出かけるのは、マグノリアにあるディスカバリー・パークです。住んでいるところから15分くらいで行けるし、森があり、海岸があり、何時間いても退屈しないですね」

2018年「サクラコン」の開会式にて。ドラゴンボールの「ピッコロ」や「イチロー」を従えて、悪代官のコスプレをして開会宣言を行う

人として重要なこと

山田総領事の口調は、どちらかといえば静かで控えめ。ただ口数は多く、温和な笑顔を浮かべ、よく話してくれる。キャリアと家族があり、人生を楽しみ、名実共に成功している人なのであろう。予定していない質問だったが、ふいに気になって生き方のポリシーを聞いてみた。少し考えて、しかし、きっぱりとした口調で答えてくれた。

「生きるということはその場その場で、いろいろな判断をするわけですが、人に説明できないようなことは放置しないようにしています。胸に手を当ててみて、やましいと思えば自分ではやらないし、世の中の『おかしいのではないか』と感じることにも黙っていないで、問題提起を一応はしてみます。それがうまくいくかどうか、受け入れられるかどうかは別ですが、相手が誰であれ言います。それで疎まれたり嫌われたりすることもありますが」。その穏やかな口調からは、ちょっと想像できないが、激しく相手を糾弾するようなこともあるのだろうか。

「感情的になって言う必要はないです。でも、おかしいと思ったことを口に出すのは、人間として重要なことだと思います。それを言わなかったから、戦前の日本は戦争に向かってしまったのだし、現在世界中で起きている人権侵害なども、言えない環境ができていることが問題です。何が善で何が悪かは相対的なことですが、多様な意見のひとつとして『私はこうあるべきだと考える』と言えないような社会や組織は活力が失われると思います」。密かにファンクラブができるほどの人間的魅力は、こんなところにもあるのかもしれない。

最後に在米日本人向けのメッセージをいただいた。「ここに在住している日本人の方々は、慣れている日本を離れて外国生活をしているわけなので、お手伝いできることがあればできる範囲で協力したい。総領事館として難しい立場に陥っている方たちもサポートしたいと思っているので、気軽に声をかけてください」

ひとりでどんなに頑張っても、
それほど大きなことはできない

山田洋一郎■神戸生まれ、主に埼玉県春日部市で育つ。1984年に東京大学で学士号(教養学部国際関係科)、2004年にコロンビア大学で修士号(行政学)を取得。1984年に外務省入省。モスクワ、ブリュッセル、ワルシャワ、ニューヨーク、ナイロビで勤務し、うちケニア公使(2010~13年)、ベルギー公使(2013年~17年)を歴任。2017年6月に在シアトル日本国総領事に就任。家族は妻と息子。趣味はゴルフ、碁、ピアノ、読書、散歩、オペラ。

同インタビュー記事を英語で読む:

https://napost.com/interview-with-yoichiro-yamada-consul-general-of-japan/

 

パシフィック・ノースウエスト・バレエ・スクール講師 中村かおりさん

ロマンチックな舞台で、ふわふわのドレスを着て、華麗に舞う。たいていの女の子が一度は憧れるバレエの世 界。そんな憧れを実現した中村かおりさんは、シアトルの誇るパシフィック・ノースウエスト・バレエ(PNB)団 のトップダンサーとして、長年舞台の中央で踊り続けてきました。現在は、同バレエ・スクール(PNBS)の指導者 として活躍する中村かおりさんの人となりに迫ります。

取材・文:渡辺菜穂子 写真クレジット:©️Angela Sterling

バレエの伝道師

「白鳥の湖」「ジゼル」「ドン・キホーテ」など、数々の古典作 品で主役として舞台に立ってきた。トップダンサーとして 長年、舞台の中央に立ち続けることは並大抵ではないと思うが、どうモチベーションを保ってきたのだろうか。「バレエというものが私にとって、生活の一部になっていて、自分がやりたいことをできるまで続けてきただけです」と、気負いのない穏やかな口調で語る。2014年に、惜しまれながら引退した時は44歳。舞台上では最後まで、元気でお茶目な少女にも、恋に憂う情熱的な女性にも、高貴な姫にもなった。「歳を重ねるごとに、踊り方や、役の解釈の仕方も変わってきて、それもおもしろく感じていました」

「無邪気さのような、しかし明らかに確固とした魅力がある。その上、驚くほど真剣に芸術を追求する心は、彼女と共に働いた全ての人に賞賛されている」と話すPNB創設者のケン ト・ストウェル、フランシア・ラッセル両氏は、ダンサー中村かおりをうまく描写している。だが、本人に自分でどんなダン サーだと思っているかを問うと、「わからないです」と苦笑いする。「私は与えられた役を、ただ一生懸命やるだけです」と。

中村かおりさんと話していると、バレエというのは西洋の伝統芸能なのだと改めて実感する。代々受け継がれる様式美。そして、それを理解し継承することに全力を注ぐ人がいる。バレエとは、そんな伝道師たちのおかげで、時間をかけて形成されてきた芸術のひとつなのだろう。

チュチュとトウシューズで舞台に立つ。ロナルド・ハインド振付「眠れる森の美女」より、オーロラ姫を。

愛情と厳しさを

現在は講師として、後輩ダンサーたちの指導に当たって いる中村かおりさん。講師としても評判は高い。PNB芸術監督でありPNBSディレクターのピーター・ボール氏は「彼女は理想的な先生です。世界的バレリーナであった頃と全く同じように、指導者としても中心的な役割を果たしています。温かい励ましやサポートと共に、最高水準のテクニックを教えています」と評価するが、本人に言わせるとやはり、どんな先生であるかは「わからない」そうだ。

ただ、イメージしているのは日本の恩師、山本禮子先生だという。「山本先生は、バレエだけでなく、私生活にも厳しい方でした。私は先生の所に住み込んで、掃除洗濯に食事の準備などもやりながら、挨拶や礼儀作法も叩き込まれました。 厳しくて、厳しくて、でも愛情を注いで私を実の娘のように扱ってくれました」。そんな恩師に倣って、自身もバレエの テクニックに限らず、マナーも教えようとしている。「どちらかというと厳しい先生かもしれませんね、小さい子には特に。おしゃべりしている子、集中していない子には、『何であなたはここにいるの?』『レッスンに来ているの、遊びに来ているの?』と優しく諭します」。温和な声のトーンと優し い微笑み、しかしその真剣な眼差しを向けられると、インタビュー中のこちらまで思わず背筋を伸ばしてしまう。

パシフィック・ノースウエスト・ バレエ・スクールのサマー・ コースにて

「私はバレエを、ただの習い事ではなく、プロ意識を持ってやって欲しいと思っています。踊りにはその人の心が映し出されるので、プロダンサーになるには人間性も大事です」。もちろん習い事のつもりで来ている子どももいるので、そこは難しい。「小さい子には楽しんでもらわないとバレエは続かないし、頭ごなしに戒めて子どもたちをビクビクさせてしまってもダメです。愛情を込めた厳しさが必要です」

教えるようになってから、バレエの難しさを改めて感じるそうだ。現在、自身がレッスンを受けるときは、より頭を使って考えるようになった。「自分が舞台に立っていたときは、あまり考えていなかったのですが、今はレッスンを受けながら常に自分の体をチェックして、生徒に教えるために筋肉の働きや使い方を意識しています」。バレエは全てが「ターンアウト」、足を横向きにし股関節を外側に開くこと、だという。しかし、それが生まれながらにできる子もいれば、そうでない子もいる。「生徒一人ひとりによって体が違うので、一人ひとりへの言い方、教え方、伝え方も変わります。難しいです、バレエは」

現在、8歳から18歳を対象としたクラスで、レベル1から プロフェッショナル・ディビジョンまでを担当している。また昨年からPNBSサマー・クラスのオーディションを日本で も開催し始めるなど、活動の幅が広がっている。「これからはもっと日本で教える機会も増えて欲しいと思っています」

バレエひと筋で突っ走ってきた

7歳でバレエを始めた。「踊りたいというよりもトウシューズとチュチュへの憧れがきっかけです」。小学4年生で初めてコンクールに出て、5年生で3位に、6年生で2位に、中学生で1位になった。そして勧められるがままに世界的バレエダンサーの登竜門、ローザンヌ国際バレエ・コンクールに出場し、優勝。スカラシップを得てニューヨークのスクール・オブ・アメリカン・バレエに1年間留学した。とんとん拍子にトップバレリーナへの道を歩んできたようだが、挫折や、他の道を考えたことはなかったのだろうか。「練習が辛いとかできなくて辛いとか、そういうことはしょっちゅうですが、バレエをやめようと思ったことはないです」

楽屋で準備中

こうと決めたらやるしかないと、バレエひと筋で突っ走ってきたそうだ。「高校も行かなかったんです。バレエをやるなら高校に行っても仕方ないと思い、親を説得しました。今思うと子ども心の未熟な考え方だったのですが、若かったから怖いもの知らずで。ブレーキがなかったです」。それで、高校の代わりにニューヨークに行ったのだから、両親はさぞ心配だったことだろう。30年以上前の日本ではバレエで生活していくことが想像できなかったし、けがをして踊れ なくなる可能性もある。当時は何も言わなかったが、特に父親は、本当は高校くらいは行って欲しいと思っていたようだ。「それでもやらせてもらったので、両親には感謝しています。あの時高校へ行っていたら、今どうなっていたかわからないですね」

現在は自身にも6歳になる娘がいる。それでは、自分の娘が「高校へ行かずにやりたいことに専念したい」と言ったらどうするのだろうか。「うーん、まず反対すると思いますね。親としては」と、笑みがこぼれ母親の顔になった。「娘は4歳でバレエを始めて、5歳で引退しました。気が強い子だし、じっと我慢してゆっくりやることが苦手なので、バレエには向いていないですね。今は体操をしています」

プロとはやるべきことを一生懸命やること

中学生で決意したバレエの道を、迷うことなく進んで きた中村かおりさん。となると、現役ダンサーからの引退は、大きな変化だったのではないだろうか。「ダンサーを引退したことで、バレエを教えることに専念できるようになりました」と、返ってくる返事は、やはりバレエだ。まさにバレエが生活の一部で、バレエというものの中で、できることをやっている。何の変哲もない、ごく普通の言葉のようにも聞こえるが、実際ここまで徹底している人は珍しい。子どもたちにも持って欲しいと願う「プロ意識」とは、どんなものなのだろうか。「プロとは、やるべきことを一生懸命にやることです」

バレエと共に生きている中村かおりさんに、シアトルのオススメのバレエ公演を聞いてみた。「日本だとバレエの世界はかしこまっていて、関係者しか見に行かないというイメージがあるのですが、シアトルではもっとい ろいろな人が見に来てくれます。バレエを見たことのない人は、まずは気軽にPNB公演を見に来て欲しいです。 毎年、ホリデー・シーズンに行われる『くるみ割り人形』 は、わかりやすく、楽しい作品です。公演前のロビーでは イベントが行われるし、ドレスアップした子どものお客さんも多く、かわいいです。2015年にバランシン振付版にリニューアルしたので、以前見た人も、違うバージョンと見比べることができます。あと今シーズンは、2月にバレエの名作『白鳥の湖』も行われます。とても注目されている人気作品です」

アレクセイ・ラトマンスキー振付「ドン・キホーテ」にて、キトリを

中村かおり■群馬県出身。山本禮子バレエ教室とアメリカ随一の名門 校、スクール・オブ・アメリカン・バレエでトレーニングを受ける。日本 国内コンクール受賞歴に加え、1986年にローザンヌ国際バレエ・コン クール優勝、1988年にヴァルナ国際コンクールで銅賞受賞。1990年 にカナダのロイヤル・ウィニペグ・バレエに入団し、1995年プリンシパ ルに昇格。1997年にパシフィック・ノースウエスト・バレエに入団し、 翌年プリンシパルに昇格。2014年からパシフィック・ノースウエスト・ バレエ・スクールの講師陣に加わる。

 

パシフィック・ノースウエスト・バレエの今後の公演

場所:Marion Oliver McCaw Hall at Seattle Center | 321 Mercer St., Seattle, WA 98109 | McCaw Hall ウェブサイト

 

くるみ割り人形  George Balanchine’s The Nutcracker®

11月24日(金)〜12月28日(木) The Nutcrucker(PNBウェブサイト)

「白鳥の湖」「眠れる森の美女」と並ぶチャイコフスキー3大バレエのひとつ。少女クララが、クリスマスにくるみ割り人形をもらったことから、おとぎの世界に連れ出される。ネズミの王さまや金平糖の精などが登場するファンタジックな物語。20世紀を代表する振付家、ジョージ・バランシン氏 による作品で、子ブタの絵本『オリビア』を手がけたイアン・ ファルコナー氏が舞台セットとコスチュームを担当する。

白鳥の湖  Swan Lake

2018年2月2日(金)〜11日(日) Swan Lake(PNBウェブサイト)

王子ジークフリートとオデット姫の悲しい恋物語。主役のバレリーナが白鳥オデットと黒鳥オディールを一人二 役で演じる。性格の違う2つの役を踊り分けなければならないこと、32回連続フェッテなど高度な技巧が含まれ るなど、難易度の高い作品。ケント・ストウェル前芸術監督による振付。聞き覚えのある美しくも物悲しいメロディーは、チャイコフスキー作曲。

 

パシフィック・ノースウエスト・ バレエ・スクール

1974年設立。全米トップ3のバレエ研修機関として知られている。シアトル校(301 Mercer St., Seattle, WA 98109)とベルビュー校(1611 136th Pl. NE., Bellevue, WA 98005)を合わせ、1,000人以上の生徒が所属する。オーディションなしで受けられる7歳までのChildren’s Division、8つのレベルに分かれたStudent Division、プロダンサーを目指すProfessional Divisionの3つのコースがある。「モダンやパドドゥ・クラスなど、さまざまなクラスがあります。練習に毎回ピアニストさんがいるのも素 晴らしいです」と、中村かおりさん。バレエ団の併設学校として、全幕物の子役、6月のスクール公演など、生徒たちが舞台に立つ機会もある。「生徒が舞台に立つのを見るのは、自分が踊っているのと同じぐらいうれしいですし、心配ですし、ヒヤヒヤします」

ウェブサイト:Pacific Northwest Ballet School

シアトル・レインFC所属プロサッカー選手 川澄奈穂美さん

全米女子サッカー・リーグ(NWSL)のシアトル・レイン FCに所属する川澄奈穂美選手。今季3シーズン目を終え、地元メディアに「Naho Kawasumi」の名を見かけることも珍しくなくなってきた。そんな川澄選手に、女子サッカーとシアトル生活について聞いてみた。

取材・文:渡辺菜穂子

プロのサッカー選手であること

今年度、惜しくもプレーオフ進出を逃したシアトル・レインFC。しかし、川澄選手の活躍は目覚ましく、トリッキーなボールさばきやダイナミックなプレーが際立ち、5月には1 試合最多アシスト記録を更新した。シアトル・レインFCで の3度目のシーズンは、チーム内でどんな役割を担っていたのだろうか。「今シーズンになってメンバーが結構変わり、昨年の中心選手が支えていた部分をもっともっと自分がやっていかなければと思っています。ただ、チームメイトから慕われているのか、かわいがられているのか、どちらなのかといえば、後者だと思います。年齢的にはかなり上のほうですが、みんな私の年齢を知らないのではと(笑)。日本でもいい意味で年下からからかわれるタイプなので」。9月に 32歳となった愛されキャラ。今年4月に満面の笑顔を振りまいてシアトル・マリナーズの始球式に登板した時も話題となった。

©Jane Gershovich

とはいっても、キャリアも経験も豊富。日本代表としてワールドカップ優勝やオリンピック銀メダルを勝ち取り、日本の女子サッカーリーグでは長年、INAC神戸レオネッサで活躍してきた。日米の女子サッカーリーグを知る川澄選手は、プロとしてどう女子サッカーを盛り上げるかを考える。「私は、見に来てくれたファンの方に満足して帰ってもらう試合をするのが、プロだと思っています。そのために、驚きや感動を与えるプレーをしようと意識しています。アメリカはプロリーグなので、シーズン中にトレードやクビがあっても当たり前。そのため、選手ひとりひとりのモチベーションが高いです。一方、日本の女子サッカーはプロリーグではありません。個人的にプロ契約をしている選手はいても、それはごく一部の選手です。だから、『プロだから言い訳はできない』と決めつけることができません。日本もプロリーグがあれば、全員のモチベーションがもっと明確になると、私は考えます」

また、アメリカはPRがうまいと川澄選手は言う。「SNSでの告知や試合のテレビ放映が効果的になされ、YouTubeでハイライト動画がすぐに配信されます。また、ゴール・オ ブ・ザ・ウィーク(週間最優秀ゴール)、プレイヤー・オブ・マンス(月間最優秀選手)などを選ぶことで話題を作り、ファン投票できるシステムも、とても楽しいと思います」。川澄選手自身は、2009年から始めたブログを1日も欠かさず更新し続けている。「女子サッカーは発信が少ないです。人の興味は継続させることが大事で、そのために、こちらからどんどん発信して、1日1回でも女子サッカー情報に触れられる機会を作りたいと思っています。『選手のこんな一面が見られるんだ』と思ってもらえるような情報を発信しています」。サッカーのこと、シアトルのこと、日常のちょっとしたことを、友だちとおしゃべりするようにつづる。その気取らない 語り口に引かれる読者も多い。シアトル・レインFCに移籍してからは、このブログにより、日本のサッカーファンがシアトルを知り、シアトル・レインFCを知り、アメリカの女子サッカー事情を受け取っている。

継続することが大事

シアトルは今、サッカー少女が増えている。シアトル・レ インFCのファンには、そんな子どもたちも多い。幼稚園生の時にサッカーに出逢った川澄選手は、小学校2年生の文集にすでに「将来はサッカー選手になりたい」と書いていたそうだ。

「サッカーを嫌いになったことは1回もないですし、ほかの道に進みたいと思ったこともないです」。もともと家族全員、運動好き。3つ上の姉に付いて行ったのが、サッカーとの出逢いだ。地元、神奈川は女子サッカーが盛んで上手な子どもたちも多かったが、年上の先輩たちに混ざって小学3年生ぐらいから試合に出ていたと言う。 全国レベルで技能が高いと自覚したのはいつごろなのだろうか。「いや、思わなかったです。小さいころから体が小さく、特に小学生の体格差は大きくて、足が速かったりキックが強かったりする子がたくさんいましたから。ただ、自分より年上だろうが体格が良かろうが、とにかくどんな相手にも負けたくないという思いは、人一倍強かったです。負けたくないと思っているうちに、ここまで来ました」

©Jane Gershovich

とはいっても、負けず嫌いなだけで世界的選手になれるのだろうか。一流になるためのヒントを探ってみる。「継続することが何より大事だと思います。意識してやっていることが、当たり前にできるようになるまで、とにかくやり続けました」 たとえばトラップひとつとっても、最初のうちはボールがあちこち飛んで行ってしまってうまくできない。でも、慣れれば意識せずできるようになるので、その分、次のプレーのことを考えられる。トラップやパスなど基本のプレーのほか、「ボールが来たら必ず前に行こう」と決めたら、まず「前に行くにはどうしたらいいのか」「どこにポジショニングを取ったらいいのか」を考え、いいポジショニングが無意識にできるようになったら、今度は「全てのプレーを2タッチ以下でやろう」、そのために「ボールが来る前に次のプレーをどうするか決めておかなければならない」と。「そういう細かい練習を何度も、何度も繰り返し、自分がやりたいと思うプレーをひとつずつ獲得しました。特に中学から大学くらいまで、すごく意識してやっていたことです」と、川澄選手は教えてくれた。

住みやすい街、シアトル

遠征や試合のない日は、午前に練習参加、午後は家でひた すらリラックスしているそうだ。時々、ダウンタウンやベルビューのショッピングモールに買い物に行く。そして、シアトルで知った楽しみが、スポーツ観戦。「シアトル・マジックですね。日本でいろいろなスポーツを見ようとすると、多少足を運ばないと行けないのだけれど、シアトルではこんな近いところで、男子サッカー、アメフト、バスケ、野球が見られます。ストーム(女子バスケ)の試合はよく行くので選手たちに顔を覚えられているし、サウンダーズFC(男子サッカー)もマリナーズ(野球)も行きました。シーホークス(アメフト)はシーズンが違うのでなかなか行けなかったのです が、先日初めてプレシーズンの試合へ。アメリカはスポーツ観戦がひとつのエンターテインメントです。好きな選手がいるとか、結果がどうとかを抜きにして、観客が客席にいる自分自身を楽しんでいるのがいいですね。応援するというより、フィールドの選手自身になりきって審判のミスジャッ ジに本気で怒ったり」

©Jane Gershovich
川澄選手は2017年のNWSLレギュラー・シーズン終了時点でアシスト・ランキング1位と、まさに“アシストの女王”。ここシアトルでも、なでしこ魂を見せつける活躍ぶりだ

川澄選手は人が好きだ。ブログにもチームメイト、友だち、その他にも実に多くの人が登場する。シアトル・ストームに 所属する女子バスケの渡嘉敷来夢選手もそのひとり。「いろいろ話せる、いい友だちですね。アスリート同士なので、 ドーピングの話題で2時間くらい話し込んだこともありま す。こういう検査があったとか、抜き打ちでこんなことされ たとか。サッカーで当たり前のことが、バスケではあり得ない習慣だったりとかも」。日本から訪ねてくる友だちも多い。もちろん川澄選手の試合観戦が目的だが、シアトルの観光スポットを案内することもあるそうだ。「まずは、ダウンタウ ンとパイクプレース・マーケット。時間の余裕があればスノコルミー滝に行ったり、レイクユニオンでカヤックしたりも します。マウントレーニアも素敵だったので、オフが長ければ行きたいのですが、往復6時間かかるので日帰りはきついです。2連休というのはあまりないので」

最後に『ソイソース』読者に向けてメッセージをいただいた。「シアトルは、海外でこんなに住みやすい街はほかにないと勝手に思っているくらい大好きな場所です。国際大会含め海外での試合で、シアトルのように、スタンドにいつも日本人の姿が見えるというのもあまりないので。これからも応援していただければうれしいです」

川澄奈穂美(かわすみなほみ)1985年生まれ、神奈川県出身。ポジションはフォワード。 幼稚園生の時に、姉の影響でサッカーに出逢い、小学校2年生からクラブチームに所属。日体大を卒業後、2008年からINAC神戸レオネッサに所属。2011年の女子ワールドカッ プ優勝と、2012年ロンドン・オリンピックの銀メダル獲得、そして、2015年ワールドカップ準優勝に貢献。INAC神戸レオネッサでは、2011年から3シーズン連続でリーグ優勝。 2011年にはリーグ得点王になり、2011年と2013年には、リーグMVPに輝く。皇后杯では、 6度の優勝を経験。2014年に、全米女子サッカー・リーグ(NWSL)のシアトル・レインFC に移籍し、リーグ年間ベストイレブンに選出され、2017年シーズンには、リーグアシスト王に輝く。国際Aマッチ82試合出場、20ゴールを記録(2017年9月現在)。

★川澄選手のブログ「Road Runner」はコチラから

★川澄選手がソイソースについて書いてくださいました!(コチラ) ありがとうございます!

ドレスアップしてバレエ公演に

こんばんは、バレエ好きライターのNaokoです。

芸術の秋です。各種パフォーマンス・シーズンが始まっています。シアトルのパシフィックノースウエスト・バレエ(PNB)の開幕はカクテルパーティーが行われ、このエリアでは珍しくフォーマルなイブニングドレスに身を包んだ人々が目につきます。「エメラルド」「ルビー」「ダイアモンド」の小品三作を集めた『ジュエルズ(Jewels)』は、ちょっとドレスアップして楽しみたい、ゴージャスなバレエ作品です。

Pacific Northwest Ballet principal dancers Rachel Foster and Benjamin Griffiths in Rubies from Jewels, choreography by George Balanchine © The George Balanchine Trust. PNB is presenting Jewels, with new sets and costumes designed by Jerome Kaplan, September 22 – October 1, 2017. Photo © Angela Sterling.

 

知っているとより楽しめる2つの逸話をご紹介します。

まずは、そもそも特定のダンサーに「アテガキ」された作品であるということ。1967年ニューヨーク・シティ・バレエによって初公演された本作は、振付家バランシンがダンサーを決めてから振り付けしました。PNBでは、そんなオリジナルダンサーたちを招いて指導を受けているが、今回その様子をまとめた貴重なビデオを公開しています。

さらに、各小品は3つの都市がテーマとなっています。「エメラルド」はパリ。フランス人作曲家による音楽に、ひざ下丈のドレスとエレガントな動きで中世フランスの優美な世界が広がります。一転して雰囲気を変える「ルビー」は60年代ニューヨーク。ジャズの要素を取り入れた音楽に、スピーディーでモダンな動きに目が離せません。最終幕の「ダイアモンド」は、バランシンの故郷サンクトペテルブルク。チャイコフスキーの音楽にのせて大勢のダンサーによる華やかなフィナーレが待っています。2階席からは、ダンサーが舞台上で作り出す幾何学模様が壮観です。

Pacific Northwest Ballet company dancers in Emeralds from Jewels, choreography by George Balanchine © The George Balanchine Trust. PNB is presenting Jewels, with new sets and costumes designed by Jerome Kaplan, September 22 – October 1, 2017. Photo © Angela Sterling.

今年50周年を迎える作品『ジュエルズ』。PNBではコスチュームとステージデザインをリニューアルして、新たな顔を見せてくれます。10月1日まで、シアトルセンターのMarion Oliver McCaw Hallにて。

チケット&詳細は、www.pnb.orgから。

2017年9月22日

ホームレス支援ボランティア 田村美紀さん

シアトルでは近年ホームレスが急増し、2015年に市長が緊急事態宣言を出すほど問題が深刻化。そんな状況で、ボランティアとしてホームレス支援を続ける一人の日本人女性がいる。問題を解決するために必要なのは「人と人との関係を築くこと」と田村美紀さん。人と関わることで自身も困難から立ち直った体験談を交え、ホームレス問題について語ってくれた。

取材・文:渡辺菜穂子

ホームレス支援ボランティア
田村 美紀さん
Miki Tamura(田村美紀)■東京生まれ。高校時代に交換留学を経験したことで渡米を決意。現在はIT専門家として働くかたわら、シアトルのホームレス支援団体「Seattle’s Union Gospel Mission」などの活動に参加している。シアトル市認定のホームレスキャンプ 「Camp Second Chance」では、設立初期からのボランティア。

「ホームレスは怖い」という偏見

現在、ホームレス支援のためのいろいろな活動にボランティアとして参加しています。シアトルのホームレス支援団体「Seattle’s Union Gospel Mission」主催のサーチ・アンド・レスキューでは、毛布や食べ物などを積んだワゴンで街を巡り、必要とされるものを配ります。これは深夜1時ぐらいまでかかり、大変な重労働です。

▲ Union Gospel Missionのサーチ・アンド・レスキュー (毛布や食べ物を積んだワゴンで街を巡るボランティア)

同団体のディナー配膳ボランティアや、社会復帰した人たちのランニングチー ムにも参加しています。いずれの場合も、とにかくみんなに声をかけ、うつむい ている人がいたら積極的に話しかけて顔を上げてもらうようにしています。 支援活動をする上で、危ない目にあったこともあります。薬中毒の人に追いかけられたことも。その時は本当に怖い思いをしましたが、よく考えると、ホー ムレスではない人たちの中にも殺人犯や薬中毒の人が大勢いるんです。決し て「ホームレスだから怖い」のではありません。私にできる対策として、護身用 に柔術を学びました。今は追いかけられても平気です。むしろ「かかってこい」 と思います(笑) 。

また、個人的にホームレスのコミュニティーにも足を運んでいます。ウエストシアトルの「キャンプ・セカンド・チャンス」では、ホームレス・キャンプの存在に反対する近隣住民の理解を得るために、フェイスブックのページを立ち上 げ、キャンプの写真や住んでいる人たちを紹介しています。反対する理由は、 ホームレスのことをよく知らないから「怖い」と感じるのだと思うので。

人間関係を築く支援活動

レジーさんという50代のアフリカ系アメリカ人のおじさんがいます。30 年ほど刑務所にいて、出所しても仕事はなく、公園に住んでドラッグを使い出 していました。初めて会った時に「何か必要なものはある?」と尋ねると、「出 ていけ!」と怒鳴られました。

でも私は、彼の気持ちが分かります。心が傷ついている人は、かたくなに自分を防御してしまうんです。これ以上傷つけられないように。だからその日は「分かった。来週また来るね」とだけ言って帰りました。次の週にまた訪れて声をかけたら、テントから出て来てくれて、その次の週はサンドイッチを食 べてくれて、そのうちに「手袋が欲しい」など具体的な要求をしてくれるように なりました。だんだん会話も増えて1年以上かけて人間関係を築くと、レジーさんが変わってきました。ドラッグから抜け出すためのリハビリに行き始め、現在は社会復帰して低所得者用のアパートに住んでいます。

ホームレス問題を解決するために援助物資が足りないという声もありますが、シアトルには非営利活動を行う団体がたくさんあり、私の感覚では足りていると思います。問題は、ホームレスの人たち自身に「助けが必要だ」という自覚がないこと。その自覚の扉を開けられるのが、人間関係です。「自分なんてどうでもいい」と思っていた人 が、まず誰かから名前で呼ばれ、他人を名前で呼ぶように なって、自分は一人ではないと思うことができれば、この状況をなんとかしないといけないと考えるようになる。 そこで初めて、人の助けを借りて立ち直ろうという気持ちになれるのです。

人間関係を築くには、人対人の対等な付き合いが必要で す。私がボランティアをしていると、ホームレスの人から 「あなた、なにじん?」と聞かれることが多いのですが、そんなときは大抵「当ててみて。1回間違えたら5ドルもらうよ」と返します。「中国人」「違う、はい5ドル」、「韓国人」「違う、はい10ドル」。すると、みんなゲラゲラ笑います。「ホームレスだからお金ないだろう」ではなく、対等な人間同士として、冗談も言えるような関係性が大切です 。

▲ ニコールとの再会。20代後半で薬中毒のホームレスだった彼女が更生してボ ランティアをしていた

死にかけて、人の優しさを知った

私がこの活動を始めたきっかけは今から6年前、事故にあったことです。ロッククライミングで7.5メートルの高さから落ち、大けがをしました。1年ほど体がほとんど動 かない状態になってしまったのです。それまでの私は、フ ルマラソンやハイキング、スノーボードで日々の悩みを発 散していました。育った環境の影響で、もともと精神的に不安定な部分があったのですが、常に体を動かして忙しくすることで、自分自身の問題から目をそらしていたのです。 それが、事故をきっかけに一気にうつになりました。精神科医からうつ病と不安障害と診断され、二度自殺を図るま でに至りました。

そんな状態の私が救われたのは、友人や近所のコミュニ ティーのおかげです。当時、毎日のように誰かが私を訪ね てくれました。家に引きこもって人に会いたくなかった私が「帰れ」と言ってもそばにいてくれました。また、全然知 らない人にも優しくしてもらいました。外をよろよろ歩い ていると通りすがりの人が私に声をかけてコーヒーを買ってくれたり、スーパーでうつむいて買い物していた私と一 緒にご飯を食べてくれたり。それまでの私は他人をあまり信じない人間でしたが、人の優しさをありがたく思うようになりました。

体が動くようになり、私を救ってくれたコミュニティー にお返しをしたいと考えていた時、近所の「テント・シ ティ」と呼ばれるホームレス居住地をめぐり、地域住民から立ち退き要求が出て騒動になっていました。そんなある日、職場のミーティングルームに食べ物がたくさん余っ ていたので、それを持ってテント・シティに行くことを思 いつきました。

最初は恐れも戸惑いもありました。しかし、段ボール箱いっぱいの食べ物を持って遠慮がちに足を踏み入れると、 思いがけないほどの大歓迎を受けたのです。それから頻繁に通うようになり、多くのことを知りました。昔はホーム レスの人々のことを「援助に頼らず自分で稼ぐべき」と思っていたのですが、実際はほとんどの人が仕事をしています。 ただ、交通違反金の未払いなどちょっとしたミスをしたり、 盗難やDV(ドメスティック・バイオレンス)の被害にあったりで、家に住めなくなっただけなのです。

私たちはホームレスと紙一重

▲ ホームレス・キャンプ「キャンプ・セカンド・チャンス」にて

薬中毒の人を見ると、昔の私と同じだと思います。私が常に体を動かし忙しくしていたように、ドラッグを使って、自分の問題を見ないようにしているのだと思います。アルコールやショッピングに依存する人も同じです。「We are all one paycheck away from being homeless(たった1 回分でも給料が出なければ私たちもホームレス)」という言葉があります。ホームレスは決して特殊な存在ではなく、明日誰がホームレスになってもおかしくありません。

ホームレス支援を通して、私自身の考え方も変わりました。以前は家を買ったら「もっと大きな家が欲しい」、車を買った ら「もっといい車が欲しい」と思っていました。しかし、ホー ムレスの人々は、家があってありがたい、蛇口から水が出てありがたいと考えます。その影響で私も今は朝目覚めると「今日も生きている」と、ありがたく感じるようになりました。こ れまで見えていなかった幸せが見えてきたのです。

誰かを助けたいと思って始めたボランティアですが、同時に私も支えられていることに気が付きました。仕事などで辛いことがあった日も、キャンプに行けばみんなが慰めてくれます。

 

一流アーティストたちが奏でる予測不能なアート

こんにちは、ライターのNaokoです。

自由で予測不能な舞台芸術、コンテンポラリーバレエ。パシフィックノースウエスト・バレエ(PNB)は、そんな魅力がたっぷり詰まった作品3点を公演中です。

6月2日に行われた初日は、バレエ関係者や目の肥えた長年のファンが目につき、スタンディングオべーションが続出しました。演目となった3作品は、全てPNBにとって初演。これまで見たことのない動きや演出に、感嘆のため息や思わず漏らす笑い声が会場に広がっていました。

 

Pacific Northwest Ballet principal dancers Jerome Tisserand and Carrie Imler in La Source (choreography by George Balanchine © The George Balanchine Trust), which PNB is presenting as part of PICTURES AT AN EXHIBITION, June 2 – 11, 2017. Photo © Angela Sterling.

一作目は、20世紀の巨匠バランシン振付「La Source」。フランスロマン派ドリーブの音楽に合わせて、オレンジのチュチュを着たバレリーナたちが、音符が踊り出すかのように舞台を跳ね回ります。小刻みの速いステップが小気味よく、可愛く楽しい作品。

Pacific Northwest Ballet principal dancers Noelani Pantastico and James Moore with company dancers in Jerome Robbins’ Opus 19/The Dreamer, which PNB is presenting as part of PICTURES AT AN EXHIBITION, June 2 – 11, 2017. Photo © Angela Sterling.

二作目は、一転して心に強く訴えられるような作品「Opus 19/The Dreamer(ロビンス振付)」。プロコフィエフ作曲の同名バイオリン協奏曲にのせて、唯一白い衣装を身にまとった男性ダンサー「夢見る人」が、印象的な存在感を見せつけます。その他のダンサーは、青い照明に溶けこむような色の衣装で、影のように振舞い、時に舞台上から消え入りそうです。初日は、日本人の血をひくダンサー、ジェームズ・ムーアが「夢見る人」として観客の心を掴み、拍手喝采を得ました。

 

Pacific Northwest Ballet principal dancer Rachel Foster with company dancers in Alexei Ratmansky’s Pictures at an Exhibition, which PNB is presenting as part of a triple-bill with works by George Balanchine and Jerome Robbins, June 2 – 11, 2017. Photo © Angela Sterling.

最後に、現在最も多忙な振付家、ラトマンスキの振り付けた「Pictures at an Exhibition」。ムソルグスキーの名曲「展覧会の絵」をピアノソロで演奏し、カンディンスキーの絵をモチーフにした映像に、変幻自在とも言えるクリエイティブな衣装、綿密に計算された斬新でユニークな動きをPNBトップダンサーたちが実現し、一流アーティストたちの技術のハーモニーが、総合芸術となって、楽しませてくれました。

 

6月11日(日)まで。

チケット&詳細はwww.pnb.org

シアトル教育特集2017年版「日本式?それともアメリカ式?」

日本式?それともアメリカ式? ーシアトル学校特集2017年版

日本とアメリカ、国が変われば教育スタイルも違います。今回は日米の教育システムの内側を知る2人の先生からお話を聞きました。シアトルで受けられる日本語の教育機関もあわせてご紹介します。

取材・文:渡辺菜穂子、小村侑子

 

アメリカ教育の良さ

自由でも、やるべきことはきっちりやっている

高場政晃(マサ)先生

日本の現役高校教師が、マカティオ市のカミアック高校に1年間在籍した。兵庫県とワシントン州による教員派遣制度により、学校レベルの国際交流をはかることが目的だ。日本語クラスの授業をしながら、他教科や他校の授業見学、マカティオ学区の教育委員会参加など、幅広く活動しアメリカの教育事情にどっぷり浸かった。「とにかく学校が大好き」と言うマサ先生が、アメリカ式教育の良さを語ってくれた。

取材・文:渡辺菜穂子

学校システムについて

アメリカの学校では、学習・進路カウンセリング、生徒指導、成績や出席管理などをそれぞれの専門職員が行っているため、教師が授業に集中できます。日本の学校では限られた人員で多大な業務をカバーしなければならないため、教師が授業にかけられる時間が限られてしまいます。アメリカは教育にしっかりお金をかけて、必要なところに適切に投資できている環境だと思います。

また、IT機器が整っていて、先生たちがそれを有効活用していました。例えば、社会のクラスで生徒たちが回答ボタンを使って4択問題に答え、その動向がスクリーンに反映されたり、グループワークで各自ノートパソコンを操作して「Googleドキュメント」などの共有ソフトで同時編集したりします。日本では指導要領に「コンピュータを使った授業を推進」とあっても、実際は設備が追いついていません。コンピュータ室に行けば生徒各自のコンピュータがありますが、各教室に揃っているわけではありません。私は以前日本での授業でコンピュータを使おうと試みた時期があるのですが、ノートパソコンとプロジェクターを各教室に持ち込み、接続し、授業後に外してまた次の教室へ移動するといった手間がかかりすぎて、続けられませんでした。

授業スタイル

日本で最近よく話題になる「アクティブ・ラーニング(生徒主導の学習法)」が、アメリカでは全ての授業で実践されています。例えば日本語クラスでは、漢字を書いて覚えるのではなく、漢字にストーリーをつけて発表します。感心するぐらい面白い発想がどんどん出てきます。新しい語彙に関しても日本だったら「ここを覚えなさい」で済ませるところを、言葉の定義を作らせるなどして考えさせます。このようなクリエイティブなクラス活動は、ぜひ日本の授業でも取り入れていきたいです。

生徒の達成度

アメリカでは、日本のように授業の内容をノートにとるというシステムがありません。これで毎時間学んだことが頭に残っていくのかと最初は疑問に思いました。 しかし、アメリカの授業は何かを覚えることが目的ではなく、例えば国語の授業で「物語に対する批評を書く」など、各生徒が独創的に何かをすることが目的なので、ノートをとる必要がないのだと思い至りました。
そのため、授業中の規則は日本と比べてかなり自由。それでも生徒たちはやるべきことを案外きちっとやっています。いろんな授業を見学しましたが、生徒たちには常に積極性が求められているので、みんな真剣です。

印象に残った出来事

派遣されて間もない頃、授業中に生徒を怒鳴ったことをよく覚えています。クラス活動に参加しない生徒を注意しても聞き流されるということが続いて、ある日スイッチが入って「何しとんじゃ、コラー。何回も言うとるやんか、お前」と怒鳴ったのです。つい日本の学校のような怒り方をしてしまったのですが、こちらにはこちらのやり方があると反省し、翌日大きい声を出したことを謝りました。そうしたら、その生徒たちが態度をコロッと変え、「先生」「先生」と慕ってくるようになりました。結果的には、怒って良かったというか、ダメなことをダメと言うのは万国共通で、そこは自然体でいこうと思いました。ただ、それ以降は怒鳴っていません。私自身の度量も大きくなり、冗談を言いながら注意するという技も覚えました。

日本でアメリカ式の教育を取り入れるには

まずは雰囲気作りです。生徒が積極的に授業に参加し、人前で発表することを恥ずかしがらないようなクラスにしたいです。日本では「黙って座っていればよろしい」という雰囲気があり、授業を聞いていなくても聞いているフリができれば良し、教師側も聞いているフリをしない生徒を注意しなければならないというプレッシャーがあります。ですから、授業中も態度の悪い生徒が目につき、それをえんま帳に書き込んでいく「減点方式」となります。でも減点法では生徒が萎縮してしまいます。
アメリカでは基本的に頑張った生徒を褒め、そこに注目します。生徒の授業態度に関しても、許容量に幅があります。そうすると、どんな生徒も居場所があり認められていると感じます。井上先生の日本語クラスでは(注:マサ先生は、井上先生の日本語クラスで第2教師としてチームティーチングを行っていた)、SAD(社会不安障害)と診断されている生徒たちも、伸び伸びと授業に参加していました。一時的な授業態度などにこだわるのでなく、長い目で見て学習達成すれば大丈夫だという考え方にしていきたいと思っています。

高場政晃先生
幼少時は親の転勤のため各地を転々として過ごす。1996年高知大学教育学部(小学校教員養成課程)卒。中学校教諭を5年、翻訳会社勤務6年を経て、2010年から神戸北高校教諭。担当教科は英語。
「大学を卒業してから中学教師になったのですが、しんどくて一度辞めました。でも、生徒から手紙が来て辞めたことを後悔しました。それで再度教員採用試験に挑戦し、毎年受け続け、7年目に採用されました」
兵庫県教育委員会とワシントン州教育省が教育交流の一つとして行っている1年間の相互教員派遣制度により、2016年4月から1年間マカティオ市にあるカミアック高校に赴任。本教員の井上善誉(いのうえよしたか)先生について、日本語クラスを担当。
「この教員派遣制度に参加したおかげで、多くのことを学びました。唯一残念なのが1年で終了してしまうこと。1年目に多くの人と会って人間関係を築いたので、2年目があったら色々なイベントを企画したりなどもっと貢献することができるのにと思います」
2人の娘の父親でもあり、「ファザーリング・ジャパン関西(fjkansai.jp)」のメンバーとして、父と子がもっとワクワクするために活動中。趣味の落語では「猿山亭もん吉」の名で高座に上がる。

カミアック高校

マカティオ学区の教育委員会最高責任者(右)と

カミアック高校本教諭日本語担当の井上善誉先生(左)と

WAFLT(ワシントン州外国語教育会)で、外国語教授法について発表

高場ファミリー。「アメリカは家族との時間がたっぷり取れるから素晴らしいです」

日本文化紹介として英語で落語を披露。「普段全く勉強しない生徒が『おもしろかった』とわざわざ言いにきてくれました」

 

次ページは、日本教育の良さ
ソコリック奈緒子先生

宏徳エンタープライズInc. CEO/エージェント代表 菅沼秀夫さん

新インタビュー企画 「私がシアトルにいる理由」vol.1

本号より始まる新インタビュー企画。シアトルで活躍する日本人と日系アメリカ人に、仕事やコミュニティーでの活動についてインタビューしていきます!

取材・文:渡辺菜穂子

シアトル日本人コミュニティーの中で最も有名な人物の一人、宏徳エンタープライズInc.の菅沼秀夫さん。母親の菅沼愛子さんとともに、不動産という業務に限らず多様な貢献をシアトル日本人社会にもたらしている。温かい笑顔を浮かべ穏やかな口調で話しながらも、その内容は明確で分かりやすい。そんな秀夫さんに、ご自身と日本人コミュニティーについて語ってもらいました。

すがぬま ひでお
■宏徳エンタープライズInc. CEO /エージェント代表。父親の仕事で東京とシアトルを行き来しながら幼少期を過ごす。1993年にワシントン大学卒業後、20年以上にわたりワシントン州の不動産業界に関わる。趣味はスポーツ全般。一児の父。

シアトルへの縁、不動産業への縁

生まれは東京ですが、父の仕事の都合により1歳の時に渡米し、ポートランドとウエストシアトルに8年間住んでいました。当時の70年代は日本人があまりおらず、友達はアメリカ人ばかり。家の中で日本語で話しかけられても、英語で答えていたと思います。唯一日本語を話すのは補習校。ただ補習校も今ほど厳しくなかったので、友達同士の会話は英語でした。

小学校3年生の時に東京に戻り、日本の学校に通っていたのですが、中学3年の途中でまたこちらに来ました。1985年のことです。ベルビューに住むことになり、私も母も「なんでそんな田舎に家を借りたんだ」と文句を言いました。1回目の帰国当時のベルビューには何もなかったので。

2度目の渡米の直後、父に肺ガンが見つかり、亡くなりました。当時ベルビューの高校に通っていた私は、父の仕事関係のビザから学生ビザに切り替え、そのままワシントン大学に進学しました。学生ビザは大学卒業とともに切れるため、その後は日本で働こうと就職活動をして、ブリヂストンに内定をもらいました。「JAL/ANAの機体にブリヂストンのタイヤを履かすため、ボーイングに売り込みに行く」という売り文句で (笑)。

ただ、内定と同時にグリーンカードの抽選が当たったのです。日本に帰る必要はなくなったけれど、アメリカで就職活動もしていなかったので、どうしようかと迷いました。

当時、母が始めていた宏徳エンタープライズは、その時は不動産業というより便利屋みたいな会社だったのですが、とりあえずそこに不動産業を加えるつもりでライセンスをとりました。

最初は他社の不動産会社で修行したり、知人の依頼で食材の配送をしたり、他業務をしながら必要な宏徳エンタープライズの仕事に携わっていました。徐々に仕事が増え、フルタイムで不動産業務に携わるようになると同時に、会社の規模を拡大し、マネージング・ブローカーのライセンスを取り、そして今に至ります。

日本ではブローカーという言葉はあまり良い意味に取られないこともあるようですが、アメリカでは非常にステイタスのある言葉です。保険も旅行業務もみんな、ブローカーであることにプロ意識と誇りを持って仕事に臨んでいます。

日米両文化の影響を受ける

日米両方の教育を受けて育ちましたが、 私は仕事面ではアメリカ的だと思います。白黒はっきりしています。同時に日本人のことも理解していますので、アメリカ人エージェントと一緒に日本人のお客様の相手をしている時に、白か黒かという結論を迫るアメリカ人に対して、グレーの部分も説明できるのが自分の強みだと思っています。

日米では不動産に関する考え方も違います。例えば、日本では広い土地に価値を見出す場合が多く、傾斜があって使えない土地であっても、その広さに価値がつくと考える人もいます。また、売る直前にリモデルをして価格を上げるという習慣が日本ではあまりないので、中古の家にお金をつぎ込んで価値を上げるというアメリカ式の考え方が理解しにくいようです。それにより30万ドルでしか売れなかった家が、60万ドルになることもあるのですが。

日本の方にとって気にならないことをこちらの方が気にするケースも多々あります。例えば高圧線の真下に建っている家などがその一つです。過去にアメリカでは高圧線から受ける人体への影響が大きな問題となったことがあり、その後科学的に人体への影響はないと証明されながらも、今でも安全面を気にされる方が多く、価格が下がってしまいます。日本では気にしない方が多いのですが、売却時のチャレンジポイントをきちんと伝えることは大切だと思います。高速道路の真横なども同じです。日本の方は騒音をあまり気にしませんが、アメリカ人にとっては重要なポイントになることが多いです。駅前、バス停に近い、駅徒歩5分は日本ではところによってセールスポイントになりますが、アメリカではマイナスポイントになることもあります。

住みやすさと日系社会の歴史

不動産エージェントとしてこの地域の住みやすさを語るとすれば、まず「食」です。食材にしてもレストランにしても、寿司やテリヤキに限らない、きちんとした和食があります。次に「東洋人に対する受け入れ」の良さです。東洋人の人口比率が高く、移民の歴史も長いので、現地の人は東洋人に慣れています。 「日本への距離」が近いのも重要です。飛行機の乗り換えなしですぐ日本へ帰れるというメリットがあります。また四季があって「気候」が良く、「日本語のサポート」も充実しています。日本語対応のビジネスが多く、病院でも通訳がつき、日本語のみでも生活できます。そして子どものいる家庭には重要なポイントとなる「教育水準」が高いです。

現在のシアトルは、とても住みやすく素晴らしい街です。しかし、それは初代日系人たちが苦労して作り上げ、日系社会の歴史とともに在米における日本文化が段階的に積み上げられた結果です。初代日系人がこの土地にコミュニティーを作り上げた時代は、想像を絶する環境だったと思います。彼らが大変な時期を過ごしてくれたおかげで、我々が今シアトルで居心地よく過ごせるのだと思います。

大切にしているのは、出会った人々

私が一番大切にしているのは家族です。母親と、妻と、娘を含めた家族です。さらに、自分の友達、そして仕事や趣味を通してご縁をいただいたすべての人たちが、とても大切です。

不動産業は状況の流れの中で始めた仕事ですが、過去を遡ってまた人生を選べるとしたら、やっぱり同じ道を選ぶと思います。その理由は、この仕事を通してこれまで出会った人たちとのご縁がない人生というのは、自分にとってあり得ないからです。私にとって人との出会いはそのくらい大事です。

体を動かすことが趣味で、スポーツを介した友達も多いです。今はラグビー、ゴルフ、サッカーをしています。シアトルの日本人ラグビー・チーム「ラクーンズ」では、創設時からずっと活動しています。インドアサッカー・チーム「ドリンカーズ」にも所属していて、名前の通り、運動した後にお酒を飲んでいます。仲間とお酒を飲む雰囲気が大好きなのです。日米協会や敬老ノースウエストのゴルフトーナメントにも参加しています。

今後も家の総合管理から人生のサポートまで

現在、日本から来た方々のために、家のことはもちろん、お子さんのための学校選びや、ケーブルテレビの契約や設置など、頼まれれば生活に必要なありとあらゆるお手伝いをしています。不動産エージェントというより、ライフラインのサービスです。アフターケアもします。「問題が起きて大家さんに伝えたいのだけど、英語が通じなくて困っている」といった依頼にも対応しています。

将来的にも考え方は同じで、分野を広げていきたいです。日本人が手軽に移住できるシステム作りができれば、もっとシアトルが注目されるようになります。一般の人だけでなく、アメリカでビジネスを拡大しようとする日本企業がその拠点をシアトルにしてくれたらいいなと思います。

そのために、税金や法律など不動産以外の専門分野も勉強していこうと思っています。自分自身とともに会社も成長させ、家の総合管理だけでなく、生活や人生のサポートができるように。

私はアメリカでの暮らしの方が長く、もう38年になります。母国である日本のことも考えます。日本ではできないことがアメリカでできそうだという企業があれば、それをサポートさせてもらいたいです。今年9歳になる娘が、アメリカで育った日本人として自立する頃に、どちらの国もちゃんと住みやすい場所であってほしいと思います。

ビジネスインフォメーション

1992年に設立された宏徳エンタープライズInc.は、初めて日本人によって設立されたワシントン州公認不動産会社。物件売買をはじめ、賃貸物件紹介、100件以上のリース物件を管理するなど、総合的にワシントン全域で不動産関連サービスを提供する。近年では、ベルビュー中心地の空き地を200万ドルで売買成立させるなど、ミリオン以上の物件売買も数多く手掛けている。アメリカでの不動産取引になじみのない日本人に、きめ細やかなサポートを行っている。不動産売買、ローン会社、登記手続きなどのプロセスを日本語で詳しく説明する「不動産無料セミナー」を開催している。また1998年から始めた無料セミナーでは、現在に至るまでのべ760時間を提供している。

KOHTOKU ENTERPRISE, INC
14823 SE 58TH ST BELLEVUE, WA 98006
営業日:年中無休
☎425-644-7437
info@kohtoku.com, hsuganuma@kohtoku.com
詳細:www.kohtoku.com

ジャズピアニスト 上原ひろみさん

なぜ「Hiromi」のライブにはリピーターが多いのか
昨年リリースされたアルバム「SPARK」が全米ビルボード・ジャズチャートで初登場一位を記録した。しかし、上原ひろみの魅力はやはり生演奏だとファンは言う。自身の率いるトリオ公演「Hiromi- The Trio Project」は、毎年世界を巡り膨大な回数のライブをこなす。
3月初旬のシアトル公演に先立ち、上原ひろみライブの人気の理由を探ってみた。

取材・文:渡辺菜穂子

音楽活動はライブ中心という上原さん。昨年のツアーで印象に残った出来事は?

とにかく去年は色々ありました。メンバーの体調不良だったり、公演が突然ソロや デュエットになったり。そのことで自分は、ライブが「好き」というレベルを超えて、ライブに「飢えている」のだと実感しました。トリオが実現せず代替公演をしなければならなかった時に、どうしたら自分が納得でき、お客さんにも満足してもらえるかを考えながら、毎日全力疾走していました。結果的に、ミッシェル・カミロ(ラテンジャズ・ピアニスト)やタップダンスの熊谷和徳さんなどとのデュエットが実現したのは、いい音楽体験でした。

移動の連続や思わぬパプニングで、自分の気持ちが乗らない時もあるのでは?

ライブに対して気持ちが乗らないことはないです。人生で最も好きなことですから。ステージをやれるなら、元気になります。「初心を忘れないようにしよう」と思ったこともないです。初めてステージに立った時と全く変わらない気持ちで、今もライブができると思うと毎回嬉しいです。

演奏中に顔の表情がコロコロ変わりますが、何を考えているのですか? 即興演奏にストーリーのようなものを思い描いているのでしょうか? 

説明しづらいのですが、宝探しをしているようなイメージです。一人の時もメンバーと一緒の時も、ライブはその日にしか見つけられない宝物を探しに行く冒険旅行です。一曲の中では、物語でいう「起承転結」の「起」と「結」が決まっていて、毎回違うルートを通って「結」に辿り着きます。迂回してみたり、まっすぐ行ってみたり。すると、昨日は見えなかった世界が今日は見え、また違う道を明日は探します。宝物が見つかった時はすごく嬉しいですし、これと言って見つからない日もあります。でも、見つけるために毎日果敢に冒険しているのは一緒です。そんな冒険にお客さんが付き合ってくださっている感じです。

気になる日本のミュージシャンは?

「レキシ」というバンドが好きです。あと、「矢野顕子」さん。去年の9月に一緒にレコーディング(『ラーメンな女たち –LIVE IN TOKYO–』)して、今年もそのアルバム・ツアーをします。
本当に尊敬するミュージシャンです。それから、シアトル関連で、ゲーム音楽「Halo 5」の作曲家「陣内一真」が素晴らしいと思います。バークリー音楽院時代の同級生なのですが、このアルバムもよく聴きます。

現在はツアー中でなく、休み明けの一発目がシアトル公演ですね。どんな公演に?

ツアー初日は「ステージに戻ってきたな」と感じ、嬉しさが増します。 シアトルなど毎年訪れるところはリピーターの方も多く、「毎回素晴らしいね」と言ってくださるお客さんも多いです。しかし、それは自分が成長していないと、いただけない言葉だと思っています。一度見たものは、最初と同じ感動を、絶対に、与えないのです。

あと、ライブに来てくれる皆さんは、それぞれ別の人生があって、忙しい時間を割いて足を運んでくれます。「来て良かった」と思ってもらえるための、最善の努力をしたいです。

シアトルに思い出はありますか?

前回パイクプレイス・マーケットに行って、すごく素敵だったので、もう一回行きたいなと思っています。前回はたまたま1日オフがあったのですが、実はツアー中はほとんど観光できません。ライブ明けは脳が興奮していてすぐには眠れず、リラックスする時間をとってからしっかり寝て、起きたら翌日のリハーサルが始まってという感じです。 シアトルにはおいしいものがたくさんありそうなので、(住んでいる方々が)羨ましいです。

シアトルに住む方々へ。
毎年ライブでシアトルに戻れるのはとても嬉しいことです。ライブ会場で何か分かち合えるものがあるといいなと思います。足を運んでいただければ、こちらは全力でその気持ちにお答えします。

Hiromi – The Trio Project

日時 : 3月2日(木)〜5日(日)
  7:30pm&9:30pm
場所 : Dimitriou’s Jazz Alley
   (22033 6th Ave., Seattle)
料金 : $33.50
詳細 : www.jazzalley.com

上原ひろみ
■1979年静岡県浜松市生まれ。6歳よりピアノを始め同時に作曲を学ぶ。
ボストンのバークリー音楽院在学中の2003年に、アルバム「Another Mind」で世界デビュー。2011年に「スタンリー・クラーク・トリオ feat.上原ひろみ」でグラミー賞「ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム」を受賞。
公式サイト:www.hiromiuehara.com

今年度いちおしバレエ公演

パシフィックノースウエスト・バレエ「サンドリヨン」

こんにちは、ライターのNaokoです。バレエ好きの私が、今年度最も楽しみにしていた、パシフィックノースウエスト・バレエ『サンドリヨン』を観てきました。フランス語で「シンデレラ」を意味する本作は、誰もが知っているストーリーを、セクシーに、優雅に、コミカルな味付けを加えたコンテンポラリー・バレエ作品です。

私のツボにはまった見どころポイントを3つ紹介します。

まずは、芸術性の高いエンターテインメント作品であること。ダンサーの動きも衣装もシンプルかつ斬新! 美しさの中に遊び心があります。

そして、本作独自のキャラクターが魅力的です。物語を導く妖精がシンデレラの亡き母という設定なのですが、要所要所に表現力豊かなダンスで魅了し、心を揺さぶられます。ドレス選びで大活躍したマネキン役は、大いに笑いを取っていました。

さらに、大人の演出も気が利いています。シンデレラの父親が亡妻を想いながらも色気たっぷりの後妻に翻弄されたり、王子はガラスの靴の代わりに自身の脚フェチ能力を使ってシンデレラ探しをしたりします。

私の大好きな振付家、モンテカルロ・バレエ団のマイヨー氏の作品で、バレエ好きも、そうでない人も、大人も子供も、心を動かされ十分満足する公演です。3月12日(日)まで。チケット&詳細は pnb.org