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Author: 坂元 小夜

横浜生まれ東京育ち。大学院進学のために2015年に渡米。2020年よりロサンゼルス在住。南カリフォルニア大学大学院の博士課程にて日本の戦後ポピュラー文化を研究。歌謡曲と任侠映画をこよなく愛する。

もしも中森明菜がいなかったら〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.21

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第21回 もしも中森明菜がいなかったら

 80年代の日本のアイドルを語るうえで欠かせないのは「花の82年組」の存在です。小泉今日子、早見 優、堀ちえみ、シブがき隊など、現在も活躍するスターを多く輩出しました。中でも異彩を放っているのが中森明菜(1965年生まれ)です。多くの82年組アイドルが1983年になってからヒット曲を生み出すようになったのに対し、明菜だけはデビューした1982年のうちから3曲目のシングル「セカンド・ラブ」でオリコン1位を獲得しています。 

 東京都出身で歌手を夢見た明菜は、アイドルの登竜門としておなじみのオーディション番組「スター誕生!」に出場3回目で合格し、デビューを果たしました。収録日はちょうど16歳の誕生日の2日前でした。決勝の際歌ったのは山口百恵の「夢先案内人」。明菜と百恵は、少女の中に大人っぽさとかげりのある雰囲気など共通点が見られます。オーディション本戦の1回目は岩崎宏美の「夏に抱かれて」、2回目は松田聖子の「裸足の季節」を歌いましたが、いずれもデビュー以降に明菜が築き上げたイメージとは異なっています。そう考えると、デビューのきっかけとなるオーディションの選曲はいかに重要かがわかります。 

 1982年5月に発売したデビュー曲の「スローモーション」は、来生たかお作曲、来生えつこ作詞で、恋の予感と戸惑いを歌った名曲です。実は明菜のデビュー曲をめぐって、他の候補曲が存在したという説があります。加藤和彦プロデュース、作詞は安井かずみ、そして作曲は高橋幸宏と細野晴臣というチームで作られた楽曲だそうです。加藤は60年代にザ・フォーク・クルセダーズ(代表曲「帰ってきたヨッパライ」)、70年代にサディスティック・ミカ・バンド(代表曲「タイムマシンにお願い」)を結成して活躍した、アイドルとは無縁のように思える音楽家です。安井は辺見マリの「経験」(1970年)や沢田研二の「危険なふたり」(1973年)など、70年代のヒット曲に数多く貢献している作詞家。そして、高橋と細野というYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)メンバーによる楽曲となると、一体どんな曲だったのだろうと想像が膨らみます。しかし、この曲は退廃的過ぎるとして却下されてしまったとか。 

 明菜は深く暗い世界観も歌える、むしろそういった曲こそ魅力を発揮する歌手へと成長しました。その過程にはアイドルからの進化が見られるわけですが、幻のデビュー曲ですでに退廃的な世界観を打ち出していたら、私たちの知っている明菜は存在していたでしょうか?もしも日本の歌謡曲の世界に明菜がいなかったら? 今年5月にデビュー40周年を迎える歌姫の誕生秘話に思いをめぐらせてみました。   

ベンチャーズ歌謡〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.20

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第20回 ベンチャーズ歌謡

60年代に一世を風靡したアメリカのインストゥルメンタル・バンド、ザ・ベンチャーズ(以下ベンチャーズ)が結成されたのはワシントン州タコマであることは知っていましたか? 1958年のことです。サーフ・ミュージックを代表する独特なギター奏法は日本でも「テケテケ」と呼ばれ、ベンチャーズの代名詞となり、エレキブームを巻き起こしました。 

 そんなベンチャーズですが、実は日本の歌手に多くの楽曲を提供しています。しかも、いずれもいわゆるアメリカンなロックではなく、60〜70年代の歌謡曲。きっかけは、1966年に加山雄三の「君といつまでも」のカバーを日本で発表し、大ヒットしたことです。「Ginza Lights」として彼らが作った曲に永 六輔が詩を付け、1966年に和泉雅子と山内 賢のデュエット曲として発売された「二人の銀座」がベンチャーズ歌謡の始まりでした。 

 これらの人気ぶりを受け、その後も奥村チヨの「北国の青い空」(1967年)を発表。1968年にギタリストのジェリー・マギーが加入すると、より本格的に日本をテーマにした楽曲を作り始め、渚ゆう子の「京都の恋」(1970年)、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」(1971年)など、次々とヒット曲が生み出されました。その曲名からはベンチャーズの楽曲とは想像しにくいですが、実際に曲を聴いてみると、やはりその独特のリズムやメロディーは健在で、意外にも日本の歌謡曲として面白い仕上がりになっています。 

 私のおすすめは牧葉ユミの「回転木馬」(1972年)です。いわゆる演歌調の歌謡曲ではなく、軽快なリズムと牧葉の清々しい歌声が魅力。この曲は、山口百恵がテレビのオーディション番組「スター誕生!」で歌って合格したことでも有名です。ちなみに百恵と同時代の大人気アイドル、桜田淳子も同じ番組で牧葉の「見知らぬ世界」を歌って合格し、芸能界入りしています。牧葉は活動約5年であっさり芸能界を引退しますが、彼女の曲が当時の二大スターをデビューに導いたのは興味深いですね。 

 さて、ギタリストのマギーは、2017年にベンチャーズとして来日公演をした際に体調を崩して以降、バンドを離れ、ステージから遠ざかっていたものの、2019年10月にソロとして再来日しました。ところが、日本ツアー中に心臓発作で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。親日家で、日本の歌謡曲に貢献したアメリカのギタリストが、日本の地で帰らぬ人となるとは、なんの因果でしょうか。20曲ほどあるベンチャーズ歌謡曲はベスト盤が出ており、現在はYouTubeなどでも親しまれています。興味があればぜひ聴き比べてみてください。  

シティー・ポップが今なぜ人気?〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.19

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第19回 シティー・ポップが今なぜ人気?

 1年くらい前のことですが、シアトルに住むアメリカ人の友人が、菊池桃子のレコードを手に入れたと言って感想を聞かせてくれました。シアトルのレコード店で手に入れたとか。中古レコードは、海外でも人気のある日本人アーティストや、おそらく日系人の方たちを経由して持ち込まれた古い演歌をよく見かけますが、菊池桃子とは珍しい。 

 しかし、すぐにピンと来ました。「シティー・ポップ」人気の影響かな、と。日本の70〜80年代のポップ・ミュージックが、海外でジャパニーズ・シティー・ポップと呼ばれ、人気が出始めたのは数年前のことです。2016年、主にインターネットで活動するNight Tempoという韓国のDJ/音楽プロデューサーが竹内まりやの1984年の楽曲、「プラスティック・ラブ」をアレンジしてYouTubeに投稿したのがブームのきっかけと言われています。シティー・ポップの代表的なアーティストはほかに、杏里や山下達郎、大瀧詠一、荒井由実などが挙げられます。インターネットの普及により、40年近く前の日本の音楽が、海外の聴衆に広く受け入れられたのは興味深いですね。 

 シティー・ポップ特有の、都会的で洋楽風だけれども日本語で歌われているという雰囲気が、海外の聴衆には斬新に聴こえたのでしょう。ある学者が面白いことを言っています。インターネットや音楽ストリーミング・サービスのおかげで古い音楽がいつでも聴けるようになり、ノスタルジーを感じることがなくなってきた現代、聴いたことがないはずなのに懐かしいような感覚を覚える、新しい音楽の感じ方が生まれているとか。まさにシティー・ポップの流行と重なるような説です。 

 シティー・ポップの「シティー」は、一体どこを指しているのでしょう。個人的には東京・渋谷をイメージするのがしっくり来る気がします。社会学者の吉見俊哉によると、日本の文化は盛り場の移り変わりと共に変遷してきたと考えることができるそう。明治以降、東京では戦前に浅草から銀座へ、戦後は60年代に新宿、そして70年代に渋谷へと文化の中心地が移り変わっています。 

 渋谷パルコが開業したのは1973年。渋谷は70年代から80年代にかけて、ファッションだけではなく、演劇、美術、音楽、映画など多方面から文化を発信していました。シティー・ポップは大雑把に言えば、渋谷が文化の中心にあった時代の空気感を反映しているのかもしれません。 

 インターネットのおかげで音楽を通して国境を越え、文化リバイバルが起きています。なんとも面白い時代になりました。 

漁師の歌〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.18

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第18回 漁師の歌

 皆さんはどんなお正月を過ごしましたか? 私は、元旦にちょっと変わった初詣へ行きました。アメリカに住むようになってからも、簡単ではありますが、おせちを作って新年をお祝いし、初詣も欠かさず現地の神社かお寺に出向いていました。昨年に続き、今年も神社やお寺に出かけるのは控えたほうが良さそうだったので、「それなら日本に縁のある場所へ」と思い立ち、ロサンゼルス市サンペドロのターミナル・アイランドにある日系人漁村跡地を訪れました。 

 ターミナル・アイランドはロングビーチ近くにある人工港で、現在は刑務所があるほかは、ほぼ産業地帯となっています。しかし、第二次世界大戦以前は約3,000人の日系人が暮らし、ほとんどが漁師か港の缶詰工場などで働く人たちとその家族でした。当時はにぎやかなコミュニティーを築いていましたが、開戦後に日系人は収容所へ送られることに。日系人の住居や工場、学校などは跡形もなく撤去されてしまいました。 

 現在のターミナル・アイランドには、その歴史を伝えるために2002年に建てられた記念碑があります。「大漁」の文字が掲げられた小さめの鳥居のレプリカと、日系人漁師2人の銅像、歴史をつづった壁などで構成されています。その壁には、こんな和歌もありました。 

 沖は黒潮 魚もおどる 父母の辛苦を偲びつつ 永遠に称えん いにしえの里 

 調べてみると、ターミナル・アイランドの日系人コミュニティーを懐かしむ人たちを中心に「ターミナル・アイランダー・クラブ」という団体が1971年に結成され、その会長を務めた方が作った和歌とのこと。日本からはるばるアメリカにやって来て、やっとの思いで築き上げた自分たちの居場所がなくなってしまった。そんな日系人たちの苦労に思いをめぐらせ、なかなか気軽に帰れない日本をいっそう恋しく思ったのでした。 

 港、漁師、故郷、いずれも演歌の重要なテーマとも言えます。漁師と聞いて私が真っ先に思い浮かべるのは鳥羽一郎です。三重県出身の鳥羽一郎は、演歌といえば「北」という法則にのっとり、北の海を歌った曲も多いのですが、「男だったら後には引けぬ」と歌う「熊野灘」や「好きな女にゃ死ぬまで惚れろ」の「俺の答志島」など、出身地の紀州の海を歌った曲もあります。ちなみに私が好きな曲は「あ〜海よ あ〜波よ」とロック調に歌う、2002年に発売された「海よ 海よ」です。USEN(有線)には漁師をテーマにした演歌専門のチャンネルもあるそうで、海を舞台とした力仕事に歌が必要なのもうなずけます。 

 しかし、鳥羽一郎は1980年代のデビュー。港や漁師などの演歌のイメージが定着したのも1970年代です。戦前、ターミナル・アイランドの日系人漁師たちはどんな歌に心を寄せていたのでしょうか?   

憧れのハワイ航路〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.17

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第17回 憧れのハワイ航路

 私が日本に住んでいた頃は正月をハワイで過ごす芸能人が多かったと記憶しています。最近はどうなんでしょうか? 当時は私もそんな正月休みに憧れていました。このご時世、海外から日本への一時帰国が難しくなり、もはや日本が私にとって憧れの地になりつつあります。 

 さて、1948年のヒット曲をテーマにした1950年の歌謡映画に「憧れのハワイ航路」があります。「晴れた空、そよぐ風」の歌い出しが有名な同名歌謡曲は、日本がまだGHQによって国民に対しての旅券発行を制限されていた時代に作られました。ハワイは行きたくても行けない正真正銘の憧れの土地だったわけです。 

 この曲を歌ったのは「オカッパル」の愛称で親しまれた歌手の岡 晴夫で、映画では撮影当時12歳だった美空ひばりと共演しています。1951年のサンフランシスコ平和条約締結により、日本政府は旅券発給の権限を完全に回復しました。しかし、移民ではなく一般の日本人観光客が自由に海外へ旅行できるようになったのは1964年のこと。映画では、岡演じるハワイ生まれの青年、岡田が中学進学のために日本へ帰国したものの、太平洋戦争が勃発し、終戦になってもハワイに住む父親と連絡が取れないという設定です。冒頭のワイキキ・ビーチの風景ほか、中盤にはカメハメハ像やフラダンスショーなどの映像もあり、観光映画的な要素も多く含みました。当時の観客は岡とひばりの歌を楽しむだけでなく、憧れの土地、ハワイの映像にも魅了されたのではないでしょうか。ハワイでの撮影がかなわなかったためか、岡田青年がハワイの地を踏むシーンはなく、日本郵船のハワイ航路便に乗り込み、父親の元へと向かうところで映画は終わります。 

 多くの歌唱シーンもまた、この映画の見どころ。注目すべきは岡とひばりのデュエットです。ひばりの歌唱力も目を見張るものがありますが、ギターで伴奏している岡がコーラスで入るところが特に素晴らしい。正直に言うと、ヒット曲ありきの歌謡映画かと甘く見ていましたが、1950年頃の風俗を垣間見ることができ、コミカルとシリアスが程良く混ざり合ったストーリーもよくできていて、なかなか見応えのある作品です。そして何より、ハワイに憧れる日本人の思いを通して当時のハワイ像を描いた立派な観光映画でもあります。 

 戦後とはまた別の理由で自由な旅行が難しい昨今ですが、憧れの地が舞台となっている映画を観て、旅気分を満たすのもいいかもしれません。  

 

夢は夜ひらく〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.16

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第16回 夢は夜ひらく

 藤 圭子という歌手を知っていますか? 1969年に演歌アイドルとしてデビューし、一躍人気歌手となりました。パンツスーツに白いギターを抱えて歌う姿は、当時としてはとても新鮮で、特に地方から集団就職で都会にやって来た若年層の圧倒的な支持を得ました。 

 圭子自身も東北出身。旅芸人の両親と共に苦労した少女時代が注目を浴び、ハスキーボイスで都会の夜を歌う彼女の歌唱スタイルは「怨み節」などとも言われました。現在の演歌のイメージとは程遠いですが、圭子の歌は若者の反骨精神を代弁していました。 

 彼女の代表曲のひとつに、「圭子の夢は夜ひらく」(1970年)があります。「赤く咲くのはけしの花/白く咲くのは百合の花/どう咲きゃいいのさこの私/夢は夜ひらく」の歌い出しが特に有名で、当時19歳だった圭子が、夜の街で出会った男性たちや自分の失敗を振り返って自嘲しつつ、せめて夜だけはこんな私も夢見ることができる、と歌って大ヒットとなりました。 

 実はこの曲はいくつもバリエーションがあり、多くの歌手に歌われています。原曲は、作曲家の曽根幸明が東京少年鑑別所収監時に聞いた曲を元に作ったと伝わります。発表当時のタイトルは「ひとりぽっちの唄」(1966年)で、鑑別所の若者の孤独を歌ったものでしたが、ヒットには至りませんでした。しかし同年、歌詞とタイトルを変更して園 まりが「夢は夜ひらく」として歌うと、これが大人気に。園 まりバージョンでは、思いを寄せる男性を待ちわびる女心が歌われています。 

 ほかにも、浅川マキの歌った「港の彼岸花」(1971年)は特に聴き比べる価値があると思います。歌い始めは「白い花なら百合の花/黄色い花なら菊の花/悲しい恋なら何の花/真っ赤な港の彼岸花」と、「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞とよく似ています。別れてしまった相手を思う切なさと故郷を思いこがれる心情などを織り交ぜ、何ともわびしい複雑な世界観を表現した歌の作詞は浅川マキ本人です。レコードの発売は後発ですが、ライブなどではずっと前から歌われていたとも言われています。どちらが先かは今となっては特定が難しいのですが、似ているようだけれど微妙に違う作品として展開されているのが興味深いところ。夜が長くなったこれからの季節、これらの曲に耳を傾け、違いを感じ取ってみてはいかがでしょうか?  

歌番組の歴史〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.15

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第15回 歌番組の歴史

 かつて、テレビが家庭の中心だった時代がありましたね。今は、インターネットの普及をきっかけとして、映像メディアをめぐる環境は日々変化しています。

 私も子どもの頃は、テレビの歌番組がとても楽しみでした。特に好きな歌手が出演するというわけでなくても、毎週金曜日の夜8時には宿題やお風呂を済ませて、いざその時間になるといそいそと居間に陣取り、夢中になって観たものです。当時の私にとって、何からも邪魔されたくない時間でした。翌週の月曜日、学校でクラスメートとその歌番組について話すのもまたうれしかったことを覚えています。

 さて、その番組とは、テレビ朝日系の「ミュージックステーション」です。この番組が始まったのは、1986年。放送開始当時は、「ファミリーで楽しめる音楽番組」がモットーだったそうです。それが、視聴率の低下などにより、10代から20代までの若者向けの音楽番組へと方向転換することになりました。実は、このミュージックステーションが軌道に乗り始める頃、長らく続いていた別の歌番組が相次いで打ち切りとなりました。「夜のヒットスタジオ」(1968〜1990)と「ザ・ベストテン」(1978〜1989)です。その終焉となった1989年から1990年にかけて、一体何があったのでしょう?

 インターネット全盛にはまだちょっと早い、平成の始まりの時期。調べてみたところ、どうやらCDの普及と国内の音楽ジャンルの多様化に関係がありそうです。CDラジカセが爆発的人気となり、誰でも好きな音楽を好きな時に、気軽に聴ける時代へと変化しました。そう、週1回の音楽番組のために茶の間に集まらなくても良くなったのです。それはそれで寂しい気もしますが、こうしたメディアの進化によって生活様式は変化していくものです。音楽ジャンルの多様化については、「J-POP」の誕生が決定的でした。1988年に開局したFMラジオ局、J-WAVEがその用語を使ったのが始まりと言われています。

 こうした変化の中でテレビの歌番組は廃れていく、のかと思いきや、今も数え切れないほどの音楽番組があるようです。単に楽曲を紹介する番組に限らず、バラエティー寄りのもの、ひと組のアーティストに密着取材したもの、ジャンルを限定したものなど、あらゆる種類の音楽番組が存在していて驚きます。この背景にはテレビ局の細分化と音楽ジャンルの多様化、音楽を紹介するバラエティー番組の増加などがありそうです。

 歌番組ひとつとっても、歴史を紐解くと、世の中の動きとつながっていることがわかります。歌は世につれ世は歌につれ、とはまさにこのことですね。   

沖縄の唄〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.14

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第14回 沖縄の唄

 2年前の夏、沖縄に住む友人がシアトルを訪ねてきたことがあります。彼女は、沖縄民謡を中心に歌う音楽グループの歌手として活躍していた経験もある素晴らしい美声の持ち主です。また、巫女として神事に仕えていたと聞き、彼女の滞在中にアメリカ本土にたった3つしかない日本の神社のひとつ、シアトル郊外のグラナイトフォールズにあるアメリカ椿大神社に連れて行こうと思い付きました。

 訪れたのはちょうど、夏越の大祓の日でした。おはらいの行事に参加したあと、友人が突然言い出しました。「あの、私、こちらの神社でぜひとも歌を奉納したいんだけど」。神楽のように、歌や舞などの芸術パフォーマンスを神前に奉納することがあるのは知っていました。見知らぬ参拝客でも気安く奉納させてもらえるものだろうかと心配でしたが、いちかばちか神社の方に聞いてみたところ快く受け入れてもらえ、人も集まり、あれよあれよと奉納の儀式が始まりました。

 アメリカ椿大神社は芸道・芸能の神、天鈿女命を祭神としているとのことなので、スムーズに事が運んだのはそのご縁もあったのかもしれません。さて、友人は普段着のワンピースで、この日の行事に向け整えられた立派な本殿の中心にちょこんと座り、聞いたこともない沖縄の民謡を伴奏なしで歌い出しました。力強く透き通った、まさに天に届くような歌声で、とても神聖なパフォーマンスでした。奉納が終わると、神主さんもその感動を伝えていました。人間の声と、その声が生み出す節には、人の心に届く、とてつもない力があると実感した体験でした。

 沖縄音楽は特に、目に見えない力が宿っているように思います。私が大好きな沖縄の音楽家は、登川誠仁という三線の名手です。女性アーティストの歌う、のびやかな沖縄音楽のイメージとは少し違いますが、彼のややしわがれた声と三線のリズムで奏でられる沖縄の唄は胸にグッとくるものがあります。人気のある沖縄楽曲のひとつ、「十九の春」を彼が三線を伴奏にして歌っているビデオを観て、思わず涙がこぼれました。

 1972年にレコード化されたこの曲は、民謡ではなく流行歌の部類に入ります。鹿児島県与論島で作られた与論小唄が元唄とされており、実は本州の七五調で、琉球音階ではなく演歌調音階。与論小唄は戦前に沖縄本島の遊郭で歌われて流行したという背景があり、そこにどのような人の移動の歴史があったのか、想像が膨らみます。

 

踊るニッポン〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.13

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第13回 踊るニッポン

 夏も終わりに近づくといつも思い出すのが、子どもの頃に毎年楽しみにしていた夏祭りです。屋台でゲームをしたり綿菓子を買ったり。浴衣を着るのもうれしかったし、何より夜薄暗くなっても外で遊んでいていい、というのが子ども心にとてもワクワクしました。そんな夏祭りの記憶をたどると耳によみがえるのは、もちろん盆踊りの音楽。東京育ちの私は、盆踊りと言えば「東京音頭」です。恥ずかしくて人前で盆踊りを踊れない子どもでしたが、「ヤートナ、ソレ、ヨイヨイヨイ」のところで頭上に両手で丸い月を作るような振りを密かに練習したものです。

 この東京音頭が作られたのは1932年。作曲は中山晋平、作詞が西條八十という、1929年の同名映画の大ヒット主題歌「東京行進曲」と同じコンビです。まず、丸の内町内会がレコード会社の日本ビクターに依頼し「丸の内音頭」が作られました。その後、レコード会社主催による踊りの講習会が東京各地で開催され、また歌詞に武蔵野など東京の地名を取り入れて丸の内以外の住民も歌えるように東京音頭として改変すると、大流行に発展したとか。当初、レコード歌謡曲は映画主題歌とセットでヒットを生み出すことが多かったのですが、東京音頭のようにレコード会社によって歌と踊りがセットで企画されたのはこれが初めてだそうです。

 当時はダンスホールの大ブームの最中でもありました。実は、踊るという行為は戦前の日本において娯楽文化の重要な部分を占めています。ちなみに、この曲の大流行を通して、やぐらを囲んでみんなが同じ振りをそろって踊る、という盆踊りの形式が定着しました。戦前に大ヒットしたこの曲は、もともと1番から10番まである長い曲でした。しかし、戦後の連合国軍による思想取り締まりの対象となり、天皇や神を賛美しているような歌詞を削除するよう要請があったことから、現在の5番構成に変わりました。

 この夏に行われた東京五輪の閉会式では、北海道のアイヌ古式舞踊や沖縄のエイサーなどの踊りの映像が紹介された後に東京音頭が流れ、外国の選手たちも見よう見まねで楽しそうに踊る場面がありました。およそ90年前に一町内会のお祭りのために作られた曲が、国際的なスポーツの祭典で日本の踊りのシンボルとして採用されるなんて、当時の人々は想像したでしょうか。

 外国に住む私にとって、夏祭りと盆踊りが呼び起こすふるさとへの懐かしさはひとしおです。来年の夏こそ、日本の夏祭りで東京音頭を踊ってみたいものです。

雨の歌と言えば?〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.12

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第12回 雨の歌と言えば?

 2020年夏にシアトルからロサンゼルスに引っ越したのですが、一年中カラッとした天気が気持ちいいものの、これまで雨は数えるほどしか降っていません。あまりに降らないとさすがに雨が恋しくなります。シアトルは雨が多いだけでなく、雨が似合う街だと思います。傘を差さずに肩をすぼめて足早に歩く人々の姿や、雨上がりの街路樹の匂いを懐かしく感じます。

 さて、日本で雨が似合う街と言うと、どこでしょうか? 「長崎は今日も雨だった」という曲があります。1969年にリリースされた内山田洋とクールファイブの大ヒット曲。外国商船が行き交った港町、長崎に降る雨は確かに風情がありそうです。雨がテーマの歌謡曲は数多く存在しますが、私がいちばん好きなのは1980年にリリースされた八代亜紀の「雨慕情」です。歌謡曲のヒットメーカー、阿久 悠による歌詞の「雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれてこい」のフレーズが耳になじみ、ついつい口ずさんでしまいます。この曲は雨が素敵な人を連れてくるのを願う、いわゆる雨乞いの曲です。

 元来、雨は大地に恵みをもたらすありがたいもの。天の神に雨を乞う歌は古くから民謡として日本各地にあります。童謡「あめふり」の北原白秋による歌詞、「あめあめふれふれ かあさんが じゃのめでおむかえ うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」も雨の日がうれしいという内容です。ちなみにじゃのめ(蛇の目)とは傘のこと。雨が楽しいことや幸せを運んでくるものとして歌われています。一方、和歌では雨が涙を連想させるという修辞技法が多く使われてきたこともあり、古くから別れの歌や、故郷、故人を懐かしむ歌に多用されています。雨などの気象現象と人の感情を結び付けた表現は、和歌のレトリックのひとつです。

 演歌にも雨と涙がセットで登場する曲がたくさん。そのような演歌の世界観には伝統的な和歌のレトリックの影響が少なからずあるのではないでしょうか。そして、香西かおりの「雨酒場」や石川さゆりの「波止場しぐれ」など、雨と涙と来れば「酒」も付いてくるというパターンも。涙がテーマとなると女性演歌シンガーの曲が目立ちますが、演歌の女王、美空ひばりに雨の歌が少ないのは興味深いことです。

 日本では、雨が身近だからこそ、歌謡曲などにおいては感情や出来事を情緒豊かに表現する重要なエッセンスなのだと思います。 

演歌と浪花節 〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.11

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第11回 演歌と浪花節

 日本の歌謡曲、特に演歌には伝統芸能との深い関わりが見られます。「浪花節だよ人生は」という演歌があります。おそらく、1984年に細川たかしや水前寺清子が歌ったのがいちばん知られているかと思いますが、1976年に小野由紀子という演歌歌手の歌唱により発売されたレコードが最初。その後、多くの歌手によってカバーされている大変人気のある曲です。演歌の中でもリズムが軽快で明るい調子の曲ですが、恥ずかしながら私は「浪花節」とは単に大阪的なリズムのことで、この曲も大阪のご当地ソングだと長年思っていました。ところがそうではなく、浪花節は語り芸の「浪曲」のことです。

 浪曲が始まったのは明治時代の初め頃。三味線を伴奏に七五調の独特の節回しで物語る大衆芸能です。義理人情をテーマに涙と笑いを誘い、通俗的であることを「浪花節的」と表現するのを知ったのは歌謡曲の研究を始めてからでした。なるほど、「浪花節だよ人生は」とは、女の人生は義理と人情に振り回され、泣いたり笑ったりを繰り返すものだ、という曲なんですね。ここでは紹介しませんが、歌詞には恋に翻弄され踏んだり蹴ったりの女性の心情がつづられています。

 浪曲の起源は、最古の伝統芸能と言われている能よりも古く、800年くらい前と推定されていて、浄瑠璃や説経節などを基盤に大道芸として成立したと言われています。能や歌舞伎、文楽(浄瑠璃)などは視覚的な楽しみがありますが、目をつぶると理解するのが難しい。なぜなら、これらの演劇の語りはほとんど何を言っているかわかりませんから。ところが浪曲を始めとする語り芸は、その名も語りが芸の中心ですから、耳だけで聴いても面白い。さかのぼれば、鎌倉時代に成立した平家物語も琵琶法師によって口承で広められました。この語り芸の系譜が行き着いたのが今のところ演歌なのではないかと思うのです。義理人情は演歌の重要なテーマのひとつですし、涙を浮かべながら悲恋を歌うパフォーマンスも情緒的な浪曲と共通しています。

 数年前に東京・浅草の木馬亭という浪曲専門寄席に行ったことがあります。チケットは2,000円くらいでした。昼から夕方まで何人もの浪曲師が入れ替わり立ち替わり口演を行います。およそ100席の小さな会場に観客はたった10人ほど。現在では、浪曲が聴ける演芸場は数えるほどしかないそうです。大衆の好みは変わるので、大衆文化がそのままの形で継承されることは難しい。つまり、大衆芸能であった浪曲も、現在は伝統芸能になりつつあります。

 個人的に、演歌はカラオケがある限り存在し続けると思っています。そして、浪花節的な精神も、演歌の中に生き続けることでしょう。    

都はるみ「好きになった人」 〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.10

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第10回 都はるみ「好きになった人」

 私は日本の古い歌謡曲や演歌を研究していますが、残念ながら、そのジャンルのコンサートに行ったことがありません。アメリカで暮らしているうえ、興味があるのは主に1960〜70年代の歌謡曲なので、日本の演歌歌手のショーに行く機会はなかなか持てないのが現状です。でも、もしタイムスリップすることができるなら、ぜひ行ってみたいコンサートがあります。都はるみの引退コンサートです。

 歌唱力抜群で人気絶頂だった都はるみは、36歳で「普通のおばさんになりたい」と言って演歌歌手を引退してしまいます(その後、復帰しました)。そのラストコンサートが1984年12月30日に新宿コマ劇場で行われました。新宿コマ劇場と言えば、演歌の殿堂。多くの演歌歌手がショーを行った歴史的な劇場ですが、業績悪化と建物の老朽化により2008年に閉鎖されました。

 この都はるみのラストコンサートをYouTubeで初めて見た時には鳥肌が立ちました。最後に1968年のヒット曲「好きになった人」を歌います。1968年の日本は、大学紛争やベトナム反戦運動などで社会的に不安定な時期にありました。そんな時世に好きな人と離ればなれになる辛さを歌ったこの曲が大ヒット。都はるみはラストコンサートの最後で「一緒に歌ってください!」と言ってステージを降り、客席を練り歩きながらこの曲を歌います。観客の熱気もピークに達し、ファンが投げかける紙テープが入り乱れ、次々と握手を求められ、会場は混沌した状態に。もはや、音楽のコンサートと言うよりも、何か原始的な宗教のお祭りのような雰囲気です。

 私はこの映像を見て、当時の演歌歌手と熱烈なファンの関係は独特なものだと知りました。作家の中上健次は都はるみの大変なファンだったそうで、小説まで書いています。彼ももちろんラストステージを見に来ていて、駆け付けたほかの多くの歌手仲間や支援者たちと共にショーの半ばでステージにも上がっています。

 あるファン文化についての研究記事で、アイドルとファンの関係を高校野球児とそのファンの関係になぞらえているのを読み、なるほどと思いました。アイドルは未熟でなくてはならず、そのファンは、親になったつもりで育てて見守るような関係を望むのだとか。都はるみのファンは彼女が16歳でデビューしてからずっと応援し続けてきた人たちで、中上健次もそのひとりです。そんなファンに向かって「さよならさよなら、好きになった人」と涙をこらえて歌って別れを告げる演歌アイドル、都はるみの姿をぜひライブで見てみたかったです。   

世界に誇る「Sakamoto」 〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.9

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第9回 世界に誇る「Sakamoto」

 アメリカに住むようになって、事務手続きなどで身分証や書類などを提出する際、私の名前を見た係の人から「〇〇の親戚?」や「〇〇と同じ名前だね」など、ある日本のミュージシャンの名前をきっかけに話しかけられることがたまにあります。そのミュージシャンとは、坂本 九と坂本龍一です。

 アメリカでは「SUKIYAKI」として知られる「上を向いて歩こう」が大ヒットしたのは1963年、坂本 九が22歳の時。アメリカでは女性ボーカルのポップソングが人気を集めており、「上を向いて歩こう」も初めは女性ボーカルと聞き間違えられたとか。ひと足先にイギリスでリリースされていますが、それは歌のないインストゥルメンタルで、ジャズ・トランペット奏者のケニー・ボールによって録音されました。タイトルが「SUKIYAKI」になった経緯については諸説ありますが、どうやら誰でも知っている数少ない日本の単語ということで抜擢されたようです。

 さて、アメリカでの大ヒットのきっかけは、たまたまカリフォルニア・フレズノのラジオ局のDJが「上を向いて歩こう」のシングル盤レコードを手に入れ、番組でかけたこと。リクエストが殺到し、キャピトル・レコードの敏腕プロデューサー、デイブ・デクスター・ジュニアによって発売に至りました。その後、見知らぬ日本人が日本語で歌う「SUKIYAKI」は、アメリカのビルボード・ランキングでなんと3週間も連続で1位を獲得することになります。歌詞が日本語というバリアがあるにもかかわらず、日本語の曲がアメリカでここまで広く受け入れられた例はほかにありません。

 一方、もうひとりのミュージシャン、坂本龍一は、歌詞のある歌ではなく、映画音楽の分野でその才能が世界に認められました。1978年に日本でテクノ・ポップグループ、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)としてデビューした坂本龍一は、1983年に公開された大島 渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」の音楽を担当したことで世界を舞台に頭角を現し始めました。1987年に公開されたベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラストエンペラー」でも音楽を担当。この作品で数々の賞を受賞し、映画音楽家としての地位を確立します。

 坂本龍一の名を聞いて、「SUKIYAKI」の坂本 九を思い起こす海外のオーディエンスがどれだけいるかは知る由がありませんが、いずれも翻訳という過程を経ずに日本の音楽が世界で成功した貴重な例です。ちなみに、私の苗字の漢字は坂元なので、このふたりと何の縁もないのは確実ですが、おかげで何かとストレスの多いアメリカの事務手続きでも思いがけず話が弾むこともあり、密かに感謝しています。   

演歌はいつから北国のイメージになったのか?

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.8

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第8回 演歌はいつから北国のイメージになったのか?

演歌というと真っ先に思い浮かべる歌は何でしょう。今でこそ、特に若い演歌歌手は地域性にとらわれない演歌を歌うことが多いですが、それでも演歌というと北国を思い浮かべる人は少なくないと思います。

演歌のヒット曲で北国をテーマにした曲は、美空ひばりの「リンゴ追分」(1952年)、北島三郎の「なみだ船」(1962年)、都はるみの「北の宿から」(1975年)、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」(1977年)、細川たかしの「北酒場」(1982年)など、挙げればきりがありません。実は、演歌と北の結び付きには、前回の当コラムで紹介したカラオケの登場が深く関係しているようです。

演歌のジャンルとしての成立は1960年代の後半、カラオケは1970年代にスナックなどお酒の席の余興として登場したのが始まりですから、演歌は初めから北国のイメージをまとっていたわけではなさそうです。ご当地ソングと呼ばれる、地域をテーマにしたり題名に掲げたりした演歌の楽曲の中には、春日八郎の「長崎の女」(1963年)や都はるみの「アンコ椿は恋の花」(1964年)など、南をテーマにした曲も多くありました。では、なぜカラオケが演歌と北国を結び付けたのでしょうか。これにはいろいろな要因があるようです。

1970年代に入って若者へ向けた新しい音楽のジャンルが勢いを増してきたことへの対抗として、中年世代の主にサラリーマンたちが「懐メロ」の中でも特に感情に訴えかける演歌を好んで歌ったというのがまずひとつ。加えて、当初のカラオケはサラリーマン客とスナックの女性従業員が一緒に歌うことも多く、お酒やかなわぬ恋などをテーマにした曲が多い演歌がおのずとよく歌われたとか。そこへタイミング良くヒットしたのが「北の宿から」と「津軽海峡・冬景色」で、これらの楽曲が演歌は北というイメージを定着させたと考えられています。

ところで、互いに対抗するはずのニューミュージックと演歌がコラボレーションした画期的な曲があります。森 進一の「襟裳岬」(1974年)です。北海道の太平洋側に突き出した岬を歌ったこの曲を作曲したのは、吉田拓郎。アルバムからシングルカットして1972年にリリースした「結婚しようよ」を大ヒットさせた、ニューミュージックの立役者です。また、作詞は多くのフォークソングを手がけた岡本おさむが担当しました。この曲以前、歌詞にコーヒーカップが登場する演歌があったでしょうか。カラオケブームが演歌=北というステレオタイプ化に影響を及ぼすその前に、演歌とフォークソングが手を結んだ北国の歌が大流行しているのは何とも興味深いことです。 

カラオケ ~ニッポンの歌を探して Vol.7

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.7

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第7回 カラオケ

アメリカにしばらく暮らすと、無性に日本が恋しくなるときがあります。そんな時に私が具体的に思い描くのは、日本の温泉とカラオケボックスです。

シアトルには日本のように個室式のカラオケ店もありますが、私が初めてアメリカで経験したカラオケは、バーで曲をリクエストしてかけてもらい、ほかの知らないお客さんの前で歌うスタイルでした。知らない人の前で歌うなんて、歌唱力に自信がないとできないと思いませんか? 日本で発祥したカラオケが、アメリカに渡ると、なるほどこうスタイルまで変わってしまうのかと驚いた記憶があります。

ところが、今や個室スタイルが当たり前になっている日本のカラオケも、そもそもは1970年代にスナックなどの飲食店や宴会場でお酒の席の余興として始まったとか。現在の個室スタイルのカラオケボックスが登場したのは1980年代になってから。そこで初めて、お酒を飲まない人も知り合い同士だけで歌うことを楽しめるようになったのです。

では、なぜカラオケが日本で始まったのかを考えてみると、やはり日本人は歌うことが好きなんじゃないかと思うのです。歌謡曲という言葉が広く使われるようになったのは昭和初期で、文字通り「歌を謡う曲」の意味です。街角やラジオ、レコードで繰り返し流れている曲が耳に残り、口ずさみ、やがて曲に合わせて歌ってしまうのが歌謡曲です。

私の祖母は、日曜日の昼間に放送されている「NHKのど自慢」を欠かさず観ていました。「NHKのど自慢」は視聴者参加型の公開生放送で、日本全国各都市をめぐってアマチュアの出場者がその歌唱力を競う、1946年から続く長寿番組です。この番組が長く続くのは、やはり歌うのが好きな国民性のおかげではないでしょうか。そしてカラオケが、誕生当時のお酒のおまけとしてのオープンマイク式から、歌うことが目的のカラオケボックスに転じて大成功したのは、知り合い同士だけなら歌うことをためらわずに楽しめるという日本人の「内」と「外」にこだわる文化的な背景も関係しているのかもしれません。

海外では、いまだにバーなどのオープンマイク式が主流ですが、日本国内では、昼間から子連れでカラオケを楽しんだり、ひとりでカラオケに行く人も増えたりと、もはや老若男女に親しまれる文化として定着しています。カラオケを通して歌をめぐる日米の文化の違いを掘り下げてみるのも面白いかもしれません。 

服部良一 ~ニッポンの歌を探して Vol.6

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.6

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第6回 服部良一

今からちょうど28年前の1月の終わり、日本のポピュラー音楽史において最も重要な作曲家のひとり、服部良一が亡くなりました。 85歳でした。 彼が世に送り出した名曲は、「別れのブルース」「蘇州夜曲」「東京ブギウギ」「青い山脈」など、挙げればキリがありません。

1907年に大阪の下町に生まれた服部は、昼に働き夜は商業高校へと通いました。ちょうどその頃、大阪市の千日前にあった大きなウナギ屋の出雲屋が少年音楽隊を結成するという話が持ち上がりました。ウナギ屋と音楽隊、なかなか想像がつきにくい組み合わせですが、その出雲屋に奉公に出ていた姉の勧めで、15歳の服部は音楽隊の採用試験に合格して入隊。彼の音楽家人生はそこからスタートしました。

その後、音楽の基礎をみっちりと学び、商業的作曲家として頭角を現し始め、1933年に26歳で上京。人形町のダンスホール、ユニオンのバンドにサクソフォン奏者として加わり、1936年に作曲家としてコロムビアレコードと専属契約を結びました。ジャズやブルースなど西洋音楽のリズムを取り入れた曲作りを得意とした服部の曲は、戦時下に敵性音楽と見なされ取り締まりを受けたこともありました。それでも、軍歌など軍部に協力する曲は一切書きませんでした。そんな服部は、戦中にコロムビアレコードの慰安団として中国を訪れています。当時、「大陸メロディー」と呼ばれる主に中国をテーマとした歌謡曲のジャンルが流行しましたが、その代表作と言われる「蘇州夜曲」は服部が上海滞在中にインスピレーションを得て作曲しました。自分の葬儀にはこの曲をかけて欲しいと言い残していたと言われるほど気に入っていたようです。なるほど、服部の魅力は、日本に限定されないアジアのムードと西洋音楽のリズムのほど良いミックス感と言えるかもしれません。

服部作品は時代を経ても愛され、歌い継がれています。1974年に細野晴臣がプロデュースし、雪村いづみが歌った服部作品のアルバム、その名も「スーパー・ジェネレイション」はとてもおすすめです。

紅白歌合戦 ~ニッポンの歌を探して Vol.5

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.5

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第5回 紅白歌合戦

アメリカに住む日本人の方は、どんな年越しを楽しんでいるのでしょうか? 私が日本に住んでいた時、わが家では開始と同時に紅白歌合戦にTVのチャンネルを合わせ、終わるまでつけっ放しにするのが常でした。家族でご馳走を囲みながらチラチラとTVの画面に目をやり、各自バラバラに時間を過ごしたあと、11時を過ぎた頃にまた食卓に皆集まってきて年越し蕎麦をすすりながら紅白歌合戦の勝敗を見届けました。子どもの頃は、演歌や古い曲ばかりが披露されている印象で、あまり真剣に視聴していた記憶はありません。それが、いつの間にか私にとって紅白歌合戦は大晦日になくてはならないものになっていました。アメリカに住んでからも、最近では海外で日本のTV番組を視聴する方法はいくつかあるので、毎年欠かさずに視聴しています。

私がいちばん感動したパフォーマンスは、2012年の大晦日に放送された第63回紅白歌合戦の美輪明宏の「ヨイトマケの唄」です。歌、というよりはまるで芝居のようで、あまりに魂のこもったパフォーマンスに、息をするのを忘れるくらい見入ってしまいました。もともと1965年に発売されてヒットし、当時も紅白歌合戦出場の打診があったそうです。しかし、この曲は6分と長く、1曲当たり3分という番組の規定枠を大幅に超えるため、出演は実現しませんでした。そして、50年以上経った2012年、ついにこの曲が披露されることになり、美輪は77歳にして紅白歌合戦初出場となりました。

ヨイトマケとは、建設現場で地固めをする際に、重い岩を滑車に縄で吊るした槌を数人で持ち上げる時の掛け声だとか。シャンソン歌手として活動していた美輪が、筑豊の炭鉱町でコンサートを行った際に、集まった観客の多くが炭鉱労働者で、自分には彼らに対して歌える曲がない、とショックを受けたことが「ヨイトマケの唄」を作るきっかけになったそうです。こうして出来上がった「ヨイトマケの唄」は、多くの人の心をつかみました。

今年の第71回紅白歌合戦のテーマは「今こそ歌おう みんなでエール」だそうです。歌は、ときに人の心を大きく動かすことがあります。特に、つらい時、大変な思いをしている時にはなおさら、歌によって励まされることが多い気がします。2020年も、この1年を振り返りながら、紅白歌合戦と共に年を越そうと思います。

ザ・トーキョー・ハッピー・コーツ ~ニッポンの歌を探して Vol.4

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.4

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第4回 ザ・トーキョー・ハッピー・コーツ

日本ではほとんど知られていませんが、1960年代にアメリカで活躍した日本人女性5人組のバンドがいます。バンド名はザ・トーキョー・ハッピー・コーツ(The Tokyo Happy Coats)。そう、ハッピーと半被(はっぴ)をかけているようです。残っている資料がほとんどなく、詳しいことはよくわかっていません。

アルバムレコードは2枚あり、いずれも1970年代の前半にアメリカでキングレコードから発売されています。そのうちの1枚のジャケット写真は、スパンコールの衣装に、髪を大きく膨らませたレトロなヘアスタイルの5人の日本人女性が、なんと金閣寺の前に並んでいます。いやはや和洋折衷なアイデアです。ちなみに、彼女たちは姉妹ということになっていて、レコードのジャケットにはハコモリ・エイコ、ケイコ、ショウコ、トミコ、ルリコとクレジットされています。

レコードを発売する10年ほど前からアメリカ各地のクラブを演奏して回っていたとあるので、少なくとも1960年代の前半から活動していたと思われます。しかも、このハコモリ姉妹は26種類もの楽器を使いこなし、ツアーの際は荷物が44個にもなったとか。肝心のパフォーマンスはと言うと、歌唱力や演奏が並外れているわけではないのですが、ショービジネスで鍛え上げただけあって、聴く人を楽しませる勘所をよくつかんでいます。ヒット曲のカバーを自ら演奏して英語で歌う日本人の5人姉妹がアメリカで珍しがられたであろうことは容易に想像がつきます。

彼女たちは1966年に、ジャッキー吉川とブルー・コメッツやザ・ピーナッツなども出演したアメリカの人気バラエティー番組「エド・サリバン・ショー」に出演しています。その映像を観たことがありますが、いわゆる音楽バンドと言うよりも、エンターテイナーと言ったほうがふさわしい、こなれたステージ・パフォーマンスという印象。司会者のエド・サリバンとのやり取りも流暢な英語でこなしていて、いったい何者なんだ?と、不思議に思わずにはいられません。

この5人姉妹はどういう経緯でアメリカのショービジネスの世界に飛び込むことになったのでしょうか。レコードのジャケットにある情報では、1970年代のリリース時点で母親が日本に住んでいるとあります。ハコモリ姉妹はアメリカで育った? それとも日本から移住? いつか、このミステリアスな5人姉妹のストーリーを深く探ってみたいものです。

映画と歌謡曲 ~ニッポンの歌を探して Vol.3

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.3

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第3回 映画と歌謡曲

かつて、歌謡曲と日本映画の間には切っても切れない関係がありました。映画の主題歌となれば必ずヒットする、という時代も。かの美空ひばりは150本以上の映画に出演していますが、そのほとんどが1950年から60年代です。歌手の彼女が銀幕スターでもあったという事実が物語っているのは、映画は歌謡曲のヒットになくてはならないプロモーションの役割を果たしていたということです。また逆に、銀幕スターが映画の主題歌を歌う、もしくは歌わされる、ということも少なからずありました。数々の映画で寡黙な任侠ヒーローを演じた高倉 健さえ、出演する任侠映画の主題歌を歌ったことがあるくらいです。

今では、歌が宣伝のために映画に登場するということはほぼなくなり、劇中に挿入歌として使われるくらいになりました。しかし、最近の日本映画でもごくたまに、懐かしい歌謡曲を耳にすることがあります。世界的に認められる映画監督のひとり、是枝裕和は、歌謡曲を劇中の重要な小道具として使っています。2008年の映画「歩いても歩いても」は、いしだあゆみの曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」の歌詞からタイトルが付けられ、劇中でこの曲のレコードを聴くシーンが重要な役割を果たしています。樹木希林演じる主人公の母親が何十年も前の夫の浮気を知っていた、ということが明らかになるシーンです。さらに、2016年の映画「海よりもまだ深く」も、タイトルがテレサ・テンの「別れの予感」の歌詞の一節。劇中でこの曲をラジオで聴くシーンがあります。母親が息子に人生についてしんみり語る背景で「別れの予感」が流れています。ちなみに母親役を演じるのは、やはり樹木希林。

実は私、幸運にも是枝監督に歌謡曲の使用について直接尋ねる機会がありました。2017年に是枝監督の「海よりもまだ深く」がシアトル国際映画祭に出品され、その舞台挨拶やプロモーションのために監督がシアトルを訪れた際に行われたワシントン大学での講演でのことです。大学院で日本の歌謡曲を中心に研究していると自己紹介し、いくつか質問をした後、「ところで、監督は歌謡曲が好きですね?」と聞くと、目尻を下げてうれしそうにうなずいてくれたのがとても印象的でした。またいつか是枝監督の新しい作品に歌謡曲が登場するのをひそかに楽しみにしています。

木ですら涙を流すのです ~ニッポンの歌を探して Vol.2

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.2

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第2回 木ですら涙を流すのです

アメリカの町でレコードショップを見つけると、必ず日本のレコードを探します。日本のレコードは、たいてい「ワールドミュージック」か「アジア」などと大ざっぱにジャンル分けされた小さなコーナーにあることが多いです。残念ながら、新品のコーナーに日本のミュージシャンのレコードを見つけることは少なく、中古のコーナーに古い歌謡曲や演歌、琴、童謡のレコードがたまにあるくらいです。

ところが数年前、シアトルに拠点を置くレコードレーベルが、アメリカのレコードショップではなかなかお目にかかれない日本のレコードを頻繁に扱っていると知りました。再販専門のレコードレーベル、ライト・イン・ジ・アティックです。スペース・ニードルのお膝元、シアトル・センターにあるラジオ局、KEXPの1階にあるギャザリング・スペースの一角にこのレーベルの小さなレコードショップがあります。そして2017年には何とも珍しいタイトルのレコードが同レーベルから発売。そのタイトルとは、日本語で「木ですら涙を流すのです」。1969年から1973年にかけてリリースされた日本のフォークロックを集めたコンピレーションアルバムです。50年近くも前の日本語の楽曲が、アメリカで発売されるのは非常に珍しいことです。

タイトルは、関西のフォークグループ、五つの赤い風船のリーダーだった西岡たかしの「満員の木」の歌詞から。2枚組のレコードには、東ははっぴいえんどや遠藤賢司、西は元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦や赤い鳥など、19組のアーティストの曲が収められています。ブックレットには各楽曲のアルバムジャケットの写真と共に、英語の解説と日本語の歌詞も付いています。

このレコードをプロデュースしたのは、自身もミュージシャンであるジェイク・オラル氏。10年以上前に、シアトルのレコードショップの在庫処分の箱に入って安売りされていた、アンダーグラウンドレコードクラブ(1969年に設立された日本初のインディーズレコードレーベル)のシングル集CD2枚組を買い、そのメランコリックな音楽性に夢中になったそう。それ以来、日本からレコードを買い集め、年月をかけてコレクションを増やした集大成がこのレコード「木ですら涙を流すのです」というわけです。当時の日本のアンダーグラウンドな音楽が、こうしてアジアの外の文化圏に紹介されるのは初めてのことです。

不死鳥・美空ひばり ~ニッポンの歌を探して Vol.1

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.1

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第1回 不死鳥・美空ひばり

2015年の夏、早稲田大学で行われたシカゴ大学教授のマイケル・ボーダッシュ氏の講演会に行く機会がありました。その講演会で、ボーダッシュ氏が運良く入手したという、1950年に美空ひばりがカリフォルニア州サクラメントで公演した際の貴重な音源を聴くことができました。ちなみに、この全米ツアーで、ひばりはシアトルとスポケーンにも立ち寄っています。

私は、この音源を聴いて、なんだか不思議な気分になったのを覚えています。1950年のひばりは、まだ演歌の女王ではありませんでした。むしろ、アメリカ的な歌を歌う天才少女として人気を獲得しつつある時です。そのひばりがアメリカ公演に出かけて現地の日本人の心を癒し、その音源が時を経て、アメリカより日本に持ち込まれるという、彼女をめぐる日本とアメリカの妙な縁を感じたのです。

ひばりは、演歌がジャンルとして誕生する以前の1940年代に若干9歳でデビューしています。デビューした頃のひばりは、すでに人気歌手となっていた笠置シヅ子を追うように、ブギウギ・シンガーとして活躍していました。演歌歌手へと転向するのは1960年代の後半、ちょうど演歌というジャンルが出来上がる頃です。典型的な旋律や着物姿で涙ぐんで歌う姿などから、演歌は古いジャンルだと思われがちですが、実は比較的新しいジャンルです。戦後の日本が目まぐるしい復興を遂げ、アメリカ文化を吸収し、1964年の東京五輪開催を経て、国内外に「日本らしさ」を意識し始める頃、故郷や日本独自の文化を讃える動きの一環として「日本の心を歌う演歌」が作り上げられていきます。それと同時に、アメリカ的だったはずのひばりは、作曲家の古賀政男と組んで、演歌の花道をのし上がっていきます。そして、いつしか、演歌の女王の位置を不動のものにしていくのです。

2019年末のNHK紅白歌合戦で、ひばりがAI技術で再現され、新曲「あれから」を披露して話題になりました。ステージに立つその姿を懐かしいと喜ぶ人もいれば、倫理的に良くないと思う人もいたようです。肝心のパフォーマンスは、彼女の独特の歌声が見事によみがえっていました。没後30年経っても紅白歌合戦という大舞台に登場してしまう、ひばりの歌手としての存在感はとてつもないものだなと感心しつつも、生前は歌で海を越え、没後も時を越えてよみがえる、まさに不死鳥のようだと畏怖の念すら覚えます。

インズリー州知事、支持率70% 新型コロナウイルス感染対策で強いリーダーシップ

ワシントン州で、ジェイ・インスリー知事の支持率が上がっている。地元テレビ局KING5が3月27日から30日まで行ったアンケートでは、約70 %がインズリー知事による新型コロナウイルス感染拡大の抑制対策における強いリーダーシップを支持すると回答。共和党支持者の56%も、民主党員であるインズリー州知事の危機対応策を支持すると回答した。

ワシントン州では、1月21日に全米初の新型コロナウィルス感染者が確認された。カークランド市内の高齢者介護施設でのクラスター発生などを受けて、知事は2月29日に米国内の他州よりも早い段階で緊急事態宣言を発行。その後、3月11日に大型イベントを禁止、3月13日に学校閉鎖、3月15日にレストランやバーなどの営業停止、3月23日に自宅待機命令など、強いソーシャル・ディスタンシング政策を採ってきた。

一方で、インズリー知事は積極的な緊急経済政策も早急に打ち出している。民主党知事連盟(Democratic Governors Association)の3月31日のプレスリリースによれば、インズリー州知事が公衆衛生の危機に対応するために発動している経済政策は、失業保険の対象拡大や待機期間の免除、賃貸料滞納による立ち退きの停止、零細企業への補助金など。ワシントン州が2018年から雇用者に義務化しているペイド・シック・リーブ(有給の病気休暇)のシステムも、感染拡大防止のための自宅待機命令に多くの州民が従ううえで活用されていることも指摘されている。

民主党知事連盟のイェルサレム・デムサス報道書記官は、「インズリー知事は専門家や連邦政府や州内の地域行政や市民らと根気よく連携して、科学的根拠に基づいた戦略を実行し、この危機を沈静化することに努めている」と高く評価。また、経済的打撃を受けている市民や零細企業を援助することでワシントン州を守り、強いリーダーシップと明確なコミュニケーションが事態を快方に導くという手本を示しているとコメントした。

3月23日に発表されたワシントン州の自宅待機命令は当初2週間の予定だったが、5月4日まで延長されることが4月2日に発表された。学校閉鎖も、今学期最終日の6月までに延期された。 長期戦と化した新型コロナウイルス感染拡大の収束と打撃を受ける経済への対応に挑むインスリー知事の手腕に、州内外からの注目と期待が集まっている。

ゲイツ財団、馬渕俊介さんの講演会に行ってきました!

ビル&メリンダ・ゲイツ財団 馬渕俊介氏講演会
ゲイツ財団、世界銀行での経験から学ぶリーダーシップの取り方

 

取材・文:坂元小夜

 

シアトルを拠点にグローバル企業で活躍するゲストとの座談会にて

シアトル・ネットワーキング・グループ(www.facebook.com/seattlewakate)の主催で、6月13日に行われた馬渕さんの講演会。ゲイツ財団が最も力を入れている、途上国などに対する保健医療の改善プロジェクトを担う馬渕さんの口から、現場での貴重な経験について語られた。

講演後の座談会では、ポケモンインターナショナルの永田香澄さん進行により、元ゲイツ財団職員で現在はフリーコンサルタントの渡辺佑子さん、マイクロソフトの大関聡子さんと共に、国際的な職場で働くことの難しさや面白さ、成功する秘訣についての意見が交わされた。

ここでも話題に上がったのが、日本的な考え方や仕事の仕方が国際舞台でいかに有効かということ。1対1で関係性を作ることや、協調性を大切にすることなどが、仕事のしやすさに大きく貢献するという意見で登壇者全員が一致。閉会予定時刻を過ぎても参加者からの質問が相次ぐ、エネルギッシュな会となった。

関連記事:馬渕俊介氏スペシャルインタビュー…はこちらから

INTERVIEW ビル&メリンダ・ゲイツ財団 馬渕俊介さん

リベリアで保健大臣と同副大臣に開いてもらった送別会にて

数々の国際的な保健医療プロジェクトに携わり、現在はシアトルに拠点を置くビル&メリンダ・ゲイツ財団(以下ゲイツ財団)で、副ディレクターとして発展途上国におけるヘルスケアの課題に取り組む馬渕俊介さん。華々しいキャリアを築くまでの経緯、リーダーシップやマネジメントのコツなど、気になる話をたくさん聞くことができました。

取材・文:坂元小夜 写真:本人提供

 

途上国の保健医療システムを改善して「避けられる死」をなくしたい
➖馬渕俊介

世界を渡り歩いた大学時代の旅が原点

「高校時代までは野球少年で、大学に入っても英語が苦手。まさか自分が、国際的な舞台で働くようになるとは思いもしませんでした」。そう話す馬渕さんが、どうやって現在のキャリアに至ったのか。転機となったのは、東京大学在学中に世界各国を回ったバックパッカー旅行だという。

「中米グアテマラでは、生活環境を改善したいと切実に願う先住民たちと生活を共にしました。ネパールやカンボジアでは、現地でできた友人が、自分と同年代にもかかわらず、将来のチャンスがごく限られているのを目の当たりにしたこともあります」。大学では文化人類学を専攻。先進国とは全く違う方向に洗練されている途上国の土着文化に魅了された馬渕さんだったが、旅行を経て、「多様な文化を理解・称賛するだけではなく、サポートする側になりたい」と思い始めた。それが、国際協力の仕事に就くことを志すきっかけにもなる。

大学卒業後は、日本の政府開発援助(ODA)実施機関として途上国への国際協力を行うJICAに就職。しかし、馬渕さんはそこで働くうちに、「自分が成し遂げたいことに近付くためには、英語力も専門力も足りない」と気付く。なりたい自分になるために次に選んだ道は、ハーバード大学ケネディスクールへの留学だった。「このハーバード時代に出会った人たちの影響で、視野が大きく広がりました」と、馬渕さんは振り返る。世界の公共政策、国際開発分野のリーダーになるべく集まった精鋭たちと共に国際環境で学び、働く力を磨いた。

ナイジェリア北東部アダマワ州のヘルスセンターを視察

その後、決まった就職先は、大手コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニー。馬渕さんは日本支社、南アフリカ支社に勤務した。さらに世界銀行へ転職し、在職中にジョンズ・ホプキンス大学で公衆衛生博士号も取得する。「グローバル・ヘルスの現場では、新しいプログラムを導入することによるメリットを、きちんと社会で実験したうえで各国に提案する、研究者的なアプローチが必要です。大学生の頃から、途上国開発の分野で博士号を取りたいと思い続けていました。家族ができたことや年齢的なことを考え、チャレンジするなら今しかないと思ったんです」と、馬渕さん。仕事と博士課程との両立で、さぞかし大変な日々を送ったに違いない。「仕事上のプロジェクトを研究課題にしていたので、全く別々のことを両立していたわけではありません。確かに、仕事と同時進行のため何度も中断することになり、時間はかかってしまいましたけれど……」。博士号を取得した後、馬渕さんは現在勤めるゲイツ財団に入団する。

 
ケニアのヘルスセンターでの打ち合わせ

転職のたびにオリジナリティーを拡大

国際開発と民間の経営コンサルティングの分野で、着実にキャリアを築き上げてきた馬渕さんは、自分の強みを「オリジナリティー」と説明する。「タイプの異なる職場で専門的なスキルを磨いて経験を積み、得意分野を増やしていくことで、たくさんのオリジナリティーが点ではなく、1つの面になる。さまざまな専門力を組み合わせられれば、ユニークなキャリア・プロフィールを形成できます」

ゲイツ財団から声がかかった理由も、途上国の保健医療システムへの専門知識と経験が買われたのはもちろん、世界銀行での重要なプロジェクトにおける確かな洞察力、経営コンサルティング流の的確な問題解決テクニックや緻密な戦略を組み立てる能力を見越してのこと。そんな人材はほかには見つからない。それこそが、まさにオリジナリティーだ。

国際的なチームの中でリーダーシップを取り、プロジェクトを成功させるのに必要なことは何だろうか。「気合と情熱と愛情。あとは、日本人的な考え方」と、意外な回答が返ってきた。「和をもたらす力は、国際的な現場でも強みになるんです。日本的な考え方は欧米では通用しないと思われがちですが、欧米的な論理的思考力や説得力も備えたうえで、相手の立場や感情、人間関係、どういう利害関係を持っているかをきちんと理解、配慮して関係を作っていくと、特に途上国では良い結果を生むことがあります」。それは、過去の失敗から学んだことだと馬渕さんは打ち明ける。「リベリアの保健大臣との交渉の際、こちら側の提案だけを論理的に推し進めてしまった。そのために、交渉が難航したことがあります」

和をもたらす力は、国際的な現場でも強みに

 

一緒に働いたリベリアの保健省チーム

緊急事案だけでなく難問を解決できる仕組みを

2014年、西アフリカでエボラ出血熱が大流行したことは記憶に新しい。馬渕さんは世界銀行勤務時代、約140万人が感染するのではと危惧されたこの大流行を食い止めるために、チームリーダーとして最前線で活動。感染規模の縮小化と終息に大きく貢献した。「この時の経験や達成感は、後の私の仕事観に大きな影響を与えました」

ゲイツ財団では、戦略・企画マネジメント担当の副ディレクターを務めている。ここでの仕事は企業や国際機関とは違う面白みがあるそう。「資金力もそうですが、新しいテクノロジーやアプローチに投資するなど、リスクを取れるのが魅力的です」

現在は、チーム内の組織改革や母子保健ファンドの運営などを担当している馬渕さん。それぞれ個人の突き抜けた能力を生かし、メンバー同士の強みと弱みをバランス良く補い合うのが、馬渕さん流のチーム作りだ。アメリカの企業では、その職場の求めるスキルにそぐわないと成功しにくいと思われがちだが、馬渕さんが実践している方法はいかにも日本的。「そういう仕事の仕方をする人は欧米には少ないけれど、和のもたらす力は大きい。とてもバリューがあると思っています」

そして、母子保健ファンドにも、馬渕さんは情熱を持って取り組んでいる。保健医療システムが発展途上であるばかりに、助けられるはずの命が助からない。そんな「避けられる死」をなくしていくことこそが、達成すべき最大の目標だとしている。

自身が子どもを持ったことで、その思いはさらに強くなった。馬渕さんの長女は5歳、長男と次男は3歳の双子。息子たちは難産で、生まれる時は母子共に危険な状態だった。「当時を思い出すたびに考えてしまうんです。これが途上国だったら、僕は2人の子どもと妻をいっぺんに失っていただろう、と」

将来的には、エボラ出血熱流行のような緊急事態でなくても、必要な力が集まって難問が解決できるような仕組みを作りたいと馬渕さんは教えている。医療環境に苦しむ世界の子どもたち、そして環境改善を願うひとりひとりの思いに寄り添うような、大きく世界を見据える夢。それを支えるのは、3児の父としての強い思いだ。

世界銀行内でエボラ対策チームが受賞した際にチームのメンバーと

成功の秘訣はたくさんの修羅場をくぐり抜けること

6月13日に、ワシントン大学で講演を行った馬渕さん。そこで何度も口にしていたのは、「修羅場をくぐり抜けること」の大切さだ。

チャレンジによって人は成長し、自分が活躍できる場を自分で作り出すモチベーションにつながる。また、日々の努力も欠かせない。「たとえば、アメリカ人はプレゼンテーションやディベートが得意だと思われているけれど、実はそうでもないんです。僕が一緒に働いてきたアメリカ人は努力して、そのスキルを磨いていました」

そして、これまで数々の課題をどう乗り越えてきたのかと問われると、「乗り越えたとは思っていない」とキッパリ。「乗り越えるために、現在も日々努力しています」と、答えた。馬渕さんの輝かしいキャリアは、初めから約束されていたわけではない。チャレンジ精神と日々の努力によって、築き上げられたものなのだとわかる。

関連記事:講演会「ゲイツ財団、世界銀行での経験から学ぶリーダーシップの取り方」に行ってきました!…はこちらから

多様な文化を理解・称賛するだけではなく
サポートする側になりたい

 


ゲイツ財団によるルワンダでのワークショップの様子

ビル&メリンダ・ゲイツ財団

マイクロソフト創業者のひとり、ビル・ゲイツ氏と妻のメリンダ氏によって2000年に創設された、シアトルに本拠地を置く世界最大の慈善基金団体。「全ての生命の価値は等しい」という信念の下、国際開発、グローバル・ヘルス・プログラム、米国プログラムを3本柱に据える。中でも発展途上国の保健医療システム開発・支援は最大のプロジェクトとなっている。

Bill & Melinda Gates Foundation
500 5th Ave. N., Seattle, WA 98109
☎206-709-3100
www.gatesfoundation.org

馬渕俊介 東京大学卒業後、JICA(独立行政法人国際協力機構)入構。2007年にハーバード大学ケネディスクール公共政策修士号取得。マッキンゼー・アンド・カンパニーの日本支社、南アフリカ支社を経て、ジョンズ・ホプキンス大学にて公衆衛生修士号、世界銀行在職中に同博士号を取得。現職はゲイツ財団戦略・企画マネジメント担当副ディレクター。

シアトルで和太鼓公演 木村優一と大地の会

シアトルで和太鼓公演
木村優一と大地の会

神戸出身の和太鼓奏者、木村優一さんと太鼓楽団「大地の会」コンサート「ソング・オブ・ジ・アース:大地の奏で」が、4月14日、キャピトルヒルのブロードウェイ・パフォーマンス・ホールで行われました。舞台の様子を直前のインタビューを交えてお届けします。

取材・文:坂元小夜

歌いながら打つ八丈太鼓

 

大地の会をプロデュースする木村優一さんは、これまで単独の海外公演を重ねてきたが、今回が満を持しての初アメリカ・ツアーだ。ウィスコンシン州、ミネソタ州、オレゴン州など各地を回り、ツアー千秋楽となったシアトル公演。満員の会場が、観客の熱気で包まれた。

午後2時に始まった公演は2部構成。第1部では木村さんと大地の会メンバー3人による息を飲むような迫力満点のパフォーマンスが繰り広げられた。第2部は八丈島の伝統曲「八丈太鼓」や、大地の会メンバーによるコミカルなパフォーマンスを取り入れた演目の披露、シアトルの太鼓グループ「デコボコダイコ」との共演などがあり、出演者全員での「大地」の演奏でフィナーレとなった。

大地の会との一瞬も乱れることのない圧巻のパフォーマンス

楽曲「大地」は、木村さんの代表作。阪神・淡路大震災から5年後に、犠牲者の鎮魂の思いを込めて作曲したものだ。今回は世界平和への願いも込めて演奏したとのこと。出演者全員の魂が込められた音が会場にこだまし、観客の心をつかんだ。演奏が終わると、観客から鳴り止まない拍手とスタンディングオベーションが送られた。

高校3年生の時に和太鼓同好会に入り、和太鼓を演奏するようになったという木村さん。1995年に、地元である神戸で起きた阪神・淡路大震災の激励演奏を機に本格的な活動を始め、高校卒業後にプロの太鼓演奏者を志した。18歳で時勝矢一路氏のヨーロッパ・ツアーに参加し、初舞台となったフランスでは、観客のダイナミックなリアクションと一体化した演奏を体験。その興奮が忘れられず、自分もリーダーとなって海外で演奏活動がしたいと心を決めた。

クライマックスの「大地」。出演者全員で演奏

2011年に、演奏家としての活動の幅を広げるため独立し、大地の会を結成。また、別のユニットではジャズやラテンといった他ジャンルとのコラボレーションも積極的に行っている。「自分は『太鼓打ち』です。太鼓の真の音を打ち込むんですね。ただ鳴らすのではなく、和太鼓の良さを生かしながら他ジャンルと共鳴していきたいと思っています」と木村さんは語る。今回のアメリカ・ツアーでは、各地の太鼓コミュニティーとのワークショップを多く設け、たくさんのことが吸収できたという。シアトル公演でも地元の若い太鼓チームとの共演が叶った。「もっともっと大きくなって、この地にまた帰って来ます」

『進撃の巨人』士貴智志さんにインタビュー!

今年もサクラコンが開催
特別ゲストは漫画家、士貴智志さん!

サクラコンでは毎年、日本からの特別ゲストに注目が集まりますが、今回は漫画家の士貴智志(しきさとし)さんが日本から参加。会場の様子をレポートすると共に、士貴さんへの貴重なインタビューもお届けします。

取材・文:坂元小夜  

マリオ・シリーズのキャラクターに扮するグループ

4月19日から21日までの3日間、ワシントン州コンベンション・センターで開催された「サクラコン2019」。人気のアニメやゲームが勢ぞろいする一大コンベンションで、今年21年目を迎えた。1998年にタクウィラで行なわれたアニメ・ファンのためのイベントがそもそもの始まり。その後、またたく間に成長し、北米最大規模のアニメ&ゲームの祭典となった。今回も全米各地から、多くのコスプレーヤーが、シアトルのダウ ンタウンに集結。連日、大いに盛り上がった。

日本のゲーム機が設置され、ゲームセンターさながら。

アニメ・ブームは驚くことではない?
プロの漫画家の本音

うる星やつらの功績

私が中学生の頃、週刊漫画誌『少年サンデー』に高橋留美子さんの『うる星やつら』が掲載されていました。当時、少年漫画と少女漫画はまったく別で、こうあるべきというような、見えない強固なバリアがあったんです。それなのに、『うる星やつら』は、ビキニを着た宇宙人の天真爛漫なラムちゃんがメイン・キャラクター。少年向け、少女向けのジャンルの壁をぶち壊していて、大きなショックを受けました。読んでいてとても開放感があり、私も自由な作品を作りたいと、漫画家を志すようになったんです。

漫画家として駆け出しの頃は、漫画やアニメが世界中でこんなに受け入れられる未来はまったく想像していませんでした。その後のテクノロジーの進化と、メディアの発達のおかげです。日本で漫画を描いていると実感が湧かないので、サクラコンのような海外イベントに呼ばれて初めて、世界的なアニメ人気の高まりを感じる自分がいます。実は、今ここに自分がいるというのは、少し不思議な気分なんです。昔の自分に言ってやりたい。「おまえ、世界で呼ばれてるぞ」って(笑)。

今は漫画で表現できる幅も広がり、アマチュアもプロも、読者に作品を手軽に届けられるようになっています。使われる音楽、声優、キャラクター・グッズ、コスプレ衣装など、ファンが楽しめるコンテンツも増え、ビジネスの可能性が広がりました。昔を知る世代は、最近の盛り上がりについていけないという感覚を抱くかもしれません。私は、漫画の世界に長くいるので、ストーリー以外のコンテンツを愛するファンたち の活動やそれを支える文化が、実は水面下でずっと育まれてきたことを知っています。アンダーグラウンドの文化がようやく表に出られる環境が整ったのだと理解しています。

漫画家として大切にしていること

日本の漫画やアニメは、外国人が日本に興味を持つきっかけになり、また、日本の経済や文化の面で重要な役割を果たしています。漫画家として、自分の描く世界がどのような影響を与えているかなんて、正直そこまで考えていないんです。あくまで、日本で描いた日本の読者に対する日本語の作品。いいシーンを描きたい、固定観念にとらわれない自由な発想の作品にしたい、そう思って描くだけです。 私はまず、自分が描きたいシーン、イメージを絵にして、「この絵を描きたいから作る」というスタンスで作品を作っています。たとえば『進撃の巨人』のように原作者が別にいる場合でも、自分のイメージを絵にしてから原作にストーリーを肉付けしていきます。自分が描きたいシーン、そのキャラクターにいちばん合う表情、アクション・シーンが上手に描けた時は素直にうれしい。その喜びが、作品作りの原動力になっています。

プロになって改めて思うのは、うる星やつらを読んだ時の感動、作者の高橋留美子さんに対する尊敬が、自分にとっての原点だということ。 常にそれを忘れず、読者に息苦しさを感じさせない、自由な作品を届け、壁を壊していきたいと思っています。

士貴智志(しき さとし)◼️漫画家、イラストレーター。愛知県出身。代表作に『進撃の巨人 Before the fall』(原作・諫山 創)『RIOT』『神・風』『光と水のダフネ』『XBLADE』など。現在、『チャンピオンRED』(秋田書店) にて『どろろと百鬼丸伝』(原作・手塚治虫)を連載中。