Loading...  0%

Author: 坂元 小夜

横浜生まれ東京育ち。大学院進学のために2015年に渡米。2020年よりロサンゼルス在住。南カリフォルニア大学大学院の博士課程にて日本の戦後ポピュラー文化を研究。歌謡曲と任侠映画をこよなく愛する。

第52回 藤圭子の恨み節〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

2020年より5年間にわたってお届けしてきたこのコラムですが、今回の第52回が最終回となります。これまで、日本の歌謡曲にまつわるよもやま話をご愛読くださり、本当にありがとうございました。

最終回は私の大好きな歌手、藤圭子について書きます。以前、このコーナでも彼女のヒット曲のーつ『圭子の夢は夜ひらく』について少し触れたことがあります。藤圭子は演歌の誕生にとても重要な存在です。彼女は1960年代後半、演歌がまだ対抗文化と強く結びついていた時代にデビューしました。今でこそ「日本の心の歌」と称される演歌ですが、当時はまだそのようなイメージはありませんでした。では、藤圭子が歌った演歌がどんなだったかというと、それは、ずばり「恨み節」です。北国育ちで旅芸人の両親とともに各地を転々とした苦労話が誇張され、地方から都会へ出てきた若者や労働者階級の人々の共感を呼び、大スターになりました。彼女が人気を得た理由は、つらい生い立ちと、ギターを背負って夜のネオン街を練り歩いて自分の曲を宣伝するという、汗と涙の苦労人としての姿が功を奏したからです。黒いパンツスーツに白いギターという、現在の演歌歌手とはほど遠いいでたちで、プロデューサー陣からは「笑顔を見せるな」ときつく指導されていたとか。デビュー曲の『新宿の女』(1969年)では、ドスの効いたハスキーボイスで、「バカだな、バカだな、だまされちゃって」と夜の街をさまよう少女の自虐的な姿を歌いあげます。彼女のイメージがたとえ作られたものだったとしても、夜の都会を舞台に響く藤圭子の暗い恨み節は、同じように地方から上京し、都会の波にもまれながら暮らす多くの若者の心をつかみました。彼女が舞台とした新宿は、当時、社会運動や前衛芸術の拠点でもあり、希望と挫折を隣り合わせた独特のエネルギーが渦巻いていました。そんな中、藤圭子の恨みがかった暗いムードの歌は、聴く人の心に光を灯しました。

演歌はその後、1970年に始まった国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなどのふるさとブームの波に巻かれ、望郷をテーマとする「日本らしい」歌謡曲へと変化していきます。この演歌の変へんせんき遷期にまたがり、北国の田舎と都会のネオン街、両方のイメージを背負った藤圭子はまさに境界を越える演歌歌手でした。しかし、皮肉にもイメージチェンジを図り「女性らしさ」を打ち出した楽曲『京都から博多まで』(1972年)あたりから彼女の人気は下降し始めます。

私は、藤圭子の初期のレコードを数枚持っていて、心が疲れたときには、彼女の恨み節が恋しくなって聴いています。皆さんの心にも、きっと歌が光を灯しますように。

関口愛子とタイムマシーン〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして 第51回

ハワイでは言わずと知れた有名人だったといわれる関口愛子。1960年代に女性歌手グループ「トリオ・こいさんず」のメンバーとして活躍し、その後、ハワイに渡りカラオケ教室を開いて成功しました。2014年に亡くなるまで、「おたまじゃくしの会」というカラオケサークルを主宰し、歌を通してハワイに住む日本人たちと交流し、たくさんの人々に親しまれたとか。

日本からハワイを訪れた美空ひばりや藤圭子とも親交があったそう。トリオ・こいさんずは大阪松竹歌劇団の同期生で、1960年に梅田のジャズ喫茶で歌っていたところをスカウトされました。デビュー後、その人気は急上昇し、1962年と1963年には紅白歌合戦にも出場。代表曲「イヤーかなわんわ」(1962年)は明るい音頭調のリズムカルな曲で歌劇団出身というだけあってその歌唱力には定評がありました。同じ芸能事務所の先輩、ザ・ピーナッツに続くスターとして、普及し始めたばかりのテレビや映画にも出演し、全国的な人気を集めました。

1968年に解散後、関口愛子はハワイへ渡ります。初めはナイトクラブで歌っていましたが、その後人気を集め、ついには自身の店を開き、さらにカラオケ教室を始めました。そして1979年、ハワイで1枚のレコード「My Home Town(マイ・ホーム・タウン)」をリリース。ホノルルを拠点に活動していた作曲家のデール・セナガとともに制作されたものです。ロサンルスへ飛び、ハリウッドの伝説的なミュージック・スタジオ、A&M Studiosでアルバム全楽曲のバックグラウンド楽器演奏とバックコーラスをわずか2日間で録音。その後、ホノルルに戻り、関口愛子のヴォーカルとセナガのシンセサイザー演奏が録音されました。このアルバムの中でも注目すべきは「タイムマシーン」。シンセサイザーとディスコリズム、関口のソウルフルな歌声が織りなすファンキーなサウンドが、シティポップとは異なる文脈でハワイで生まれていたなんて、驚きです。このアルバムは2016年にホノルルのレコードレーベルから再販され、再び注目を集めました。

私が関口愛子を知ったのは、イギリスに住むクリエイターが作成したYouTubeのプレイリストで「タイムマシーン」を聴いたのがきっかけでした。そのグルーブ感に衝撃を受けたのを今でも覚えています。45年近く前の日本語の楽曲が、こうして海外のリスナーの耳に届き、当時を知らない世界中の人々が簡単に聴けるようになるって、面白い時代になってきたな、と思いませんか?

『パーフェクト・デイズ』〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして 第50回

昨年公開された映画『パーフェクト・デイズ』は『パリ、テキサス』(1984年)や『ベルリン・天使の詩』(1987年)などで知られるドイツの映画監督、ヴィム・ヴェンダースによる東京を舞台にした作品です。主役の役所広司は、セリフが極端に少ない公衆トイレ清掃員の役を見事に演じ、カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞しました。

映画のタイトルはアメリカのミュージシャン、ルー・リードの楽曲「パーフェクト・デイ」(1972年)から。映画の中では、ザ・ローリング・ストーンズやザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、オーティス・レディングなど、1969年代後半から70年代のアメリカのロックの名曲が多く使われています。特に印象的なのは、日本語の歌が二度登場する場面です。役所広司が演じる平山が毎朝仕事場に向かう車の中で聴くカセットテープの中の一曲、金かねのぶ延幸子の「青い魚」(1972年)です。金延幸子は日本の女性フォークシンガーの草分け的存在で、その寂しげでのびやかな歌声には秘めた力強さがあります。映画では、早朝の首都高速道路が映し出されるシーンでこの曲が流れ、東京の風景と1970年代フォークソングとのペアリングがなんとも印象的です。

もう一曲は、映画の中で平山が通うバーの店主を演じる石川さゆりがイギリスのロックバンド、ザ・アニマルズの「ザ・ハウス・オブ・ライジング・サン (朝日のあたる家)」(1964年)を日本語で歌う場面です。これがじつに素晴らしい。ザ・アニマルズの曲は映画の冒頭で平山が職場に向かうシーンでも流れてきます。その曲を石川さゆりが今度は日本語で歌うわけです。この曲の原曲はアメリカのフォークソングで、「朝日のあたる家」とは、19世紀に実在した刑務所または娼館を指す呼称だったとか。ザ・アニマルズの曲は、娼婦に落ちぶれてしまった女性が半生を振り返って悔やむ心情が歌われます。その歌詞を浅川マキが訳詞で歌い、ちあきなおみや浜田真理子なども歌っています。石川さゆりも「朝日楼」のタイトルで今年6月にリリースしました。映画の中の石川さゆりの歌唱は、代表作「津軽海峡・冬景色」に見られる演歌の情念と社会風刺的なフォークソングの要素が合わさったような迫力です。

映画自体は、スローペースで大きな事件が起こるわけではないため、賛否両論あるようですが、私はいい映画だと思いました。でも映画よりもむしろ石川さゆりの「朝日楼」のパフォーマンスを、映画のシーンのように小さなバーで間近で聴くことができたら、と夢見るほどに感動してしまいました。

トーキョー・リディム〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして 第49回

皆さん、「リディム」という言葉をご存じでしょうか? レゲエやラヴァーズ・ロック、ダブなどジャマイカのダンスホール・ミュージックのリズムセクションを指す用語です。ここまで読んで、「おや、このコラムは日本の歌についてのものでは?」と思う人もいるかもしれませんが、実はジャマイカのダンスホール・ミュージックに影響を受けた日本の歌謡曲が存在するのです。

今年の1月、イギリスのレコードレーベル「タイムカプセル」から発売されたコンピレーション・アルバム「Tokyo Riddim 1976-1985」には、ジャマイカのダンスホール・ミュージックの影響を受けた日本の歌謡曲が8曲収録されています。ちなみに、私はこのコラムでも以前に紹介したシアトルの再販専門のレコードレーベル「ライト・イン・ジ・アティック」を通じてこのアルバムを知りました。タイムカプセルもライト・イン・ジ・アティックも決して大手のレーベルではありませんが、日本の音楽に特化した部門を持ち、独自の審美眼でキュレーションし、積極的に発信しています。

さて、本題のアルバムですが、もはや世界的なブームが落ち着き定着化しつつあるシティ・ポップが日本で人気を博していた時代に、路線の違う外国の音楽と接点を持った歌謡曲が存在していたことがわかります。また、ジャマイカと日本という文化的にも地理的にも遠く離れた音楽が出合うと、どんなポップソングが生まれるのか、という興味深い問いへの答えを示してくれています。

アルバムのライナーノーツによると、日本におけるレゲエ元年をボブ・マーリーとザ・ウェイラーズが来日した1979年とするのが一般的な見解ですが、それ以前からイギリス経由でジャマイカの音楽が日本に紹介されていたということです。ある日本音楽史研究者によれば、外国のリズムミュージックの受容は1955年頃から始まり、まずはラテンのリズム、次にマンボのブームが起こり、1960年代前半にはジャマイカのスカが紹介されていたとか。

『Tokyo Riddim』に収録されているアーティストには、平山みき、小坂 忠ちゅう、小林ミミ泉美、りりィなどが名を連ねていますが、小坂忠とりりィの楽曲はボブ・マーリーの来日より3年前のリリースだそうです。アニメ『うる星やつら』の主題歌を作曲し、作曲からプロデュース、編曲までを手掛ける小林ミミ泉美は、現在はイギリスを拠点に音楽活動を続けており海外にも多くのファンがいます。収録された楽曲はいずれも、メロウなリズムが心地良く、日本語で歌われていることにも違和感はありません。当時の制作関係者たちにとって、ジャマイカ直輸入のグルーヴ感や演奏力は日本人には真似できそうもないものだったそうです。そこで、イギリスのレゲエ・ポップバンド、UB40やロックバンド、ポリスなどが演奏するレゲエを取り入れたスタイルを参考に楽曲作りをしたようです。

なるほど、いったんイギリスを経由しているところが面白いですね。トーキョー・リディムが、シティ・ポップに続き、日本発の混成ジャンルとして注目されると良いなと思います。

プリンセス プリンセス〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして 第48回


「プリプリ」と聞くと懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか。1986年にデビューした女性5人組のバンド、プリンセス プリンセス(以下プリプリ)は、1989年に女性グループとして初の日本武道館コンサートを行うなど、解散する1996年まで絶大な人気を誇りました。代表曲の「世界で一番暑い夏」(1987年)や「Diamonds」(1989年)などのメロディーを聞くと、ついつい歌詞を口ずさんでしまいます。 

ボーカルの岸谷香(旧姓:奥居)の歌唱力やバンドメンバーの楽器演奏スキルには定評がありますが、それもそのはず、メンバーはオーディションで選び抜かれた逸材ぞろいなのです。彼女たちがオーディションで出会ったのが1983年。その出会いから40周年となる昨年(2023年)には、当時のコンサートのフィルム上映やメンバーによるトークイベントが行われ、今年6月には記念アルバムがリリースされました。 

そんなガールズ・バンドの先駆者と言われるプリプリですが、実は彼女たちに先駆け1977年にメジャーデビューを果たした女性バンドグループがありました。その名もガールズ。前回紹介したタンゴ・ヨーロッパなどが後に続き、プリプリは、ガールズ・バンドというジャンルが確立されつつあるところに登場しました。前述した通り、プリプリは自らがバンドを結成しプロを目指すというルートとは異なり、オーディションで選ばれてレコード会社によるプロデュースの後押しを受けスター街道を歩み始めました。そう聞くと、ガールズバンドブームに乗ったアイドル的なイメージを抱きますが、本人たちはプロデューサーが求めるプリプリ像と自分たちのスタイルや音楽性との狭間で葛藤があったようです。 

人気が上昇していた1988年、プリプリは横浜の米軍基地敷地内でコンサートを行いました。横浜市設立100周年を記念したイベントの一環で、普段は一般人が入ることのできない米軍敷地が解放されたのは異例でした。ある研究者によると、当時はまだ米軍基地問題がさほど加熱していなかったとはいえ、日本人に人気のあるグループのコンサート会場として場所を提供することは、米軍側が日本の一般市民に対して友好政策を図ったものと指摘されています。そのコンサートで披露された曲「She」は、米軍兵と恋に落ち、アメリカへと旅立ってしまった親友への思いが込められた切ないバラードです。「Dear My Best Friend, 元気でいて 見知らぬ空の下」とアメリカは、大切な友人が連れて行かれた見知らぬ場所として歌われています。横浜で「異人さん(外国人)」に連れて行かれた女の子を歌った童謡「赤い靴」の内容に重なるものがあります。 

このコンサートで「She」を歌った意図についてはほとんど議論されてきませんでしたが、元はパンクムーブメントと縁の深いプリプリがささやかな反骨精神を垣間見せたと考えられるかもしれません。

タンゴ・ヨーロッパ〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして第47回

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

タンゴ・ヨーロッパ

皆さん、タンゴ·ヨーロッパというバンドをご存知ですか? 1980年代にデビューした女性5人グループのロックバンドです。先日、カリフォルニアの日本人タウンとも呼ばれるトーランス市にあるレコードショップに行き、偶然タンゴ·ヨーロッパのレコードを見つけました。1980年代の日本の音楽というと、今でこそシティー·ポップ系の楽曲をアメリカのレコード店でもよく見かけるようになったのですが、タンゴ·ヨーロッパのようなジャンル不詳であまり知られていないバンドのレコードに出会えることは稀です。ソーシャルメディアが普及した昨今、アルゴリズムのおかげで好みの音楽に出会う可能性は広がりました。また、過去の音楽ジャンルが時代や文化圏を超えて受け入れられるという、以前は考えも及ばなかったような現象も普通になりました。シティー·ポップの世界的な人気もその例の一つですね。だからこそ、レコード店に出向いて知らなかった音楽に出会う、この奇跡的な偶然を大切にしたいものです。 

タンゴ·ヨーロッパの音楽はジャンル性にとらわれない自由さを感じます。1982年にアルファ·レコードよりシングル「きらいDAIきらい」でデビュー。作詞は当時の人気作詞家、森雪之丞が多く手掛けています。3枚目のシングル「ダンスホールで待ちわびて」は細野晴臣による作曲です。プロデューサー陣から提供された楽曲を演奏するだけのアイドルバンドとは違い、楽器の演奏テクニックやアレンジ力の評価も高いのがタンゴ·ヨーロッパの特徴です。1984年にキング·レコードよりリリースされた4枚目のシングル「桃郷シンデレラ」はボーカルの斉藤美和子が作詞、ギターの是沢敦子が作曲、メンバー自身で編曲もしています。着物姿のボーカル担当斉藤と、メイドのようなユニフォーム姿で楽器を抱えたバンドメンバーのジャケット写真も印象的です。単なるストレートなガールズ文化の表現などではなく、一ひねりも二ひねりもあるポップセンスに思わずうなりたくなります。1983年に発表されたファーストアルバム『乙女の純情』のカバージャケットはひな壇の上で奇抜な髪型に白い衣装をまとって楽器を抱えたメンバー5人が並んでいます。乙女や女の子をテーマとしたビジュアルにどこか自由で明るい反骨精神が垣間見えます。「パジャマ·パーティ」「おさな妻の嘆き」「めざせ結婚」など、曲名からは恋する乙女がイメージされ、現在ならフェミニストの方に睨まれてしまいそうな路線かと思いきや、1984年発売のセカンドアルバム『フラストレーション』では、ハナ肇とクレージキャッツの「ホンダラ行進曲」をディスコ風にアレンジしてしまうセンスも持ち合わせています。メンバー自身が称した「ミーハーファンキー」というコンセプトの通り、既成のジャンルに収まらない音楽性や型にはまらない表現力が魅力です。40年以上経った現在に聴いても、いや今だからこそ、このバンドの奔放さに心をつかまれてしまいます。

ジブリ作品と歌(後編)〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして 第46回

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

ジブリ作品と歌
ー 後編 ー

スタジオジブリ作品のテーマソングを紹介するシリーズ最終回。まずは、2004年の「ハウルの動く城」について。この映画はオリジナルではなく、1989年の「魔女の宅急便」以来の翻案作品で、イギリスのファンタジー作家、ダイアナ·ウィン·ジョーンズの小説が原作です。主題歌には、木村 弓の楽曲「世界の約束」が起用されました。 

木村は「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」を作曲し、歌唱も担当しています。「世界の約束」は映画のための書き下ろしではなく、宮崎 駿監督がこの曲を気に入り、使用を依頼したとか。歌詞は詩人の谷川俊太郎が担当していますが、タイトルの「世界の約束」が何を意味するのか、抽象的でいろいろな解釈ができそう。「あなた」に語りかける言葉の連なりが、優しく切ない映画の世界観と一致していて心に染み入ります。 

主人公のソフィーの声を担当した倍賞千恵子の優しく懐の深い歌声も秀逸。ジブリ作品のテーマソングでは、一つの傾向として、優しさや温かさの表現が挙げられます。しかも、ほんの少しだけ、さびしさや切なさがあるのが魅力です。 

宮崎監督の審美眼は音楽にも生かされています。2011年の「コクリコ坂から」の主題歌は、森山良子の1976年の楽曲「さよならの夏」。映画のために歌詞に手が加えられ、手嶌 葵が歌いました。2006年公開映画「ゲド戦記」の「テルーの唄」でも披露された手嶌の透き通る歌声に心癒やされます。 

2013年の「風立ちぬ」のテーマソングは、「魔女の宅急便」以来2回目の起用となる松任谷由実。楽曲は1973年に発表された「ひこうき雲」です。この曲は、松任谷(当時は荒井)が高校生の時、小学生の同級生だった男子の死に際して書かれたそう。映画の内容と歌詞が伝えるストーリーとの間に少しギャップがあるものの、思いが空をめぐる、という点ではぴったりです。 

さて、最後の曲は2023年の「君たちはどう生きるか」の主題歌「地球儀」。米津玄師による書き下ろしで、宮崎監督が直々に依頼したとか。ジブリ作品としては珍しい男性ボーカルです。インターネット上で楽曲の発表を始めたという米津は、日本のミュージック·シーンの新世代。物語性のある楽曲が特徴的で、適度なポップ感がありながらも昔の歌謡曲にも通じるメロディーが広い世代に受け入れられています。 

米津が「地球儀」を初めて宮崎監督の前で披露した際、宮崎監督は涙し、それを見た米津も感動したのだそう。これまでも映画を通して社会に問いを投げかけてきた宮崎監督。この最新作は、まさにその集大成と言えるかもしれません。映画が公開になるたび引退をほのめかすことで有名な宮崎監督も、今回は引退を口にしていないとか。次回作とその主題歌もまた楽しみです。

ジブリ作品と歌(中編)〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして 第45回

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

ジブリ作品と歌(中編)

引き続き、スタジオジブリ作品のテーマソングについて。前編では1984年の「風の谷のナウシカ」から1989年の「魔女の宅急便」までの5作品が次々と発表された80年代にフォーカスしました。その時代にジブリの世界観が築き上げられたかのようにも見えますが、90年代に入るとさらに奥行きを持って広がっていきます。 

1991年の「おもひでぽろぽろ」は、「ふるさと」と「思い出」がテーマ。演歌歌手の都はるみがその主題歌、「愛は花、君はその種子」を歌いました。アメリカの歌手、ベット·ミドラーの名曲「ローズ」に、監督の高畑 勲が訳詞を付けたものです。この曲、歌詞が素晴らしいんです。バラの花と聞いて、その種から育つ様子をなかなか想像しないですよね。きれいに咲き誇った花の状態で思い起こすことが多いと思います。種から手塩にかけて丁寧に愛情を込めて育てるからこそ咲く、だから花は愛だという内容です。都はるみの歌唱力は言うまでもないですが、哀愁感と懐の深さが伝わってくる感動的な1曲です。 

1992年の「紅の豚」の主題歌には、シンガーソングライターの加藤登紀子が起用されました。「さくらんぼの実る頃」はフランスのシャンソンの日本語版。都はるみと言い、実力のある女性歌手が続きます。海外の楽曲の日本語版というスタイルは1995年の「耳をすませば」の主題歌、「カントリー·ロード」にも見られます。オリジナルはアメリカの歌手、ジョン·デンバーがギターの弾き語りで歌う、アメリカ人なら誰もが知る有名曲。ジブリのバージョンは歌詞が違い、「旅立ち」がテーマとなっています。主人公の雫の声を担当した本名陽子が透き通る声で歌い上げ、全く違う世界を見せてくれます。 

主題歌に海外の楽曲をアレンジして採用するパターンはいったん終わり、1997年の「もののけ姫」では、主題歌としてオリジナルの楽曲が制作されました。歌うのは、クラシック歌手の米良美一。歌詞は宮崎 駿、作曲は久石 譲の黄金コンビです。「自然と人間」という壮大なテーマを、米良が中性的かつ神秘的な歌声で見事に表現しています。 

2001年の「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」は、歌手の木村 弓が作曲し、歌唱も担当。この曲も映画も、私の大好きなジブリ作品のひとつです。夢の世界のモデルになったと言われる台湾の九份にも行ってみました。現実と夢の世界を行き来する少女というのは、「となりのトトロ」などにも見られるジブリの定番テーマですね。この曲を歌った木村は、ライアーと呼ばれる竪琴を使った弾き語り演奏で知られます。「いつも何度でも」の伴奏にも、この竪琴の優しい音色を聴くことができます。次回、後編に続きます。

ジブリ作品と歌(前編)〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして 第44回

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

ジブリ作品と歌
ー 前編 ー

2023年にアメリカでも公開された、スタジオジブリの最新作「君たちはどう生きるか」はもう観ましたか? 日本が戦争に向かう1937年発行の吉野源三郎による児童小説をタイトルの由来とし、内容的にも影響を受けているとされます。少年が社会で人間としてどう生き抜いていくかを問いかける素晴らしい作品です。 

1984年、「風の谷のナウシカ」で日本のアニメ映画界に衝撃を与えた宮崎 駿監督。スタジオジブリがこれまでに世に送り出してきた作品と共に育ってきたという人は多いのではないしょうか。もちろん、私もそのひとりです。ジブリ音楽のファンもたくさんいますね。今回はスタジオジブリ主要作品の主題歌についてお話ししたいと思います。 

「風の谷のナウシカ」のテーマ曲を歌ったのは女優の安田成美。ただ、劇場版でこの曲が流れることはなく、その理由についてさまざまな憶測を呼んでいます。安田の声は透明感の中に若々しい力強さがあり、主人公のナウシカと重なります。歌唱力については賛否ありますが、歌手デビューしたばかりだからこその初々しい印象。元はっぴいえんどのメンバーであるふたり、細野晴臣が作曲、松本 隆が作詞を担当し、数多くのアーティストにカバーされています。今年、安田本人によるリメイク版もリリースされました。 

1986年の「天空の城ラピュタ」の主題歌「君をのせて」を歌ったのは歌手の井上あずみです。作曲は久石 譲で、同映画のイメージアルバムにある楽曲「シータとパズー」をアレンジしたもの。作詞は宮崎監督です。井上の歌声には歌唱力と表現力の両方が備わり、ジブリ主題歌にぴったり。その後も1988年の「となりのトトロ」エンディングテーマ「さんぽ」、1989年の「魔女の宅急便」挿入歌2曲、「めぐる季節」と「魔法のぬくもり」を歌っています。 

その「魔女の宅急便」のテーマ曲は、松任谷由実の「ルージュの伝言」と「やさしさに包まれたなら」。いずれも荒井由実として発表した70年代の曲が採用されました。松任谷の歌声もこの2曲の世界観も、魔女として独り立ちする主人公、キキのテーマとしてふさわしいものです。 

さて、「となりのトトロ」と同時に公開された「火垂るの墓」では? 原作は作家・野坂昭如の戦争体験を元にした作品で、親を亡くした幼い兄妹が終戦前後をどう生きたかが描かれます。実は、この映画に主題歌はありません。監督の高畑 勲は、イギリスのオペラ曲の一部で、日本人に昔からなじみのある「埴生の宿」を挿入歌として選びました。 

映画のメッセージを音楽によってどう伝えるか、どんな世界観を築き上げるか、作品によってアプローチが違うのも面白いですね。次回、中編に続きます。

いずみたくの時代〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして第43回

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

いずみたくの時代

アメリカ在住の皆さんは、日本のTV番組をどのように試聴されているのでしょう。最近は便利な方法がいろいろありますが、それでもやはり観られない番組も多いですよね。個人的には、知らない俳優ばかりが出演する話題のドラマよりも、私の子ども時代から続いているような長寿番組が観たくなります。 

当時は何気なく観ていたのに今は恋しい。その代表が、黒柳徹子の「徹子の部屋」です。1976 年から放送を開始し、2023 年には同一司会者によるトーク番組としてギネス新記録を更新したそう。黒柳の単刀直入な質問が時に笑いを誘い、出演するスターの素顔が垣間見られるのが面白いですよね。同年、アニメーション映画が公開されて大好評を得ている黒柳の著書『窓ぎわのトットちゃん』もまた、単一著者による最多発行の自叙伝としてギネス記録認定を受けたとか。 

さて、私のように「徹子の部屋」を恋しがるほどではなくても、そのテーマ曲と聞けば、誰もが口ずさめるのではないでしょうか。「るーるる るるる るーるる」のメロディーがすぐに浮かびます。これは、黒柳がオペラ歌手の島田祐子とふたりで上演していた即興音楽劇「二重唱」のテーマ曲を元に、いずみたくが再構成したもの。1976年にいずみが創設したミュージカル用の小劇場、アトリエフォンティーヌのこけら落としの演目だったとのことです。 

いずみは自身のモットー「歌はドラマである」を体現すべく、ミュージカルの創作や俳優の育成に励みました。また、幅広いジャンルで多くの曲を生み出しています。太陽をテーマにした作品が多く、アンパンマンの生みの親である、やなせたかし作詞による童謡「手のひらを太陽に」(1963年)や、フォーク・グループ、青い三角定規の「太陽のくれた季節」(1972年)は、小中学校の合唱コンクールで引っ張りだこに。ほかにも「伊東に行くならハトヤ」と歌うハトヤのCMソングから、音楽を手掛けていたアニメ番組「それいけ!アンパンマン」関連曲まで、いずみの作品は日本中で親しまれています。 

私が好きなのは、佐良直美が歌った「世界は二人のために」です。1967年に発売され、大ヒットとなりました。「愛 あなたと二人」で始まるシンプルな歌詞と軽やかなメロディーによる名曲中の名曲です。いずみの作品群は、日本の音楽界で一時代を築き上げたと言っても過言ではないでしょう。

歌は世につれ世は歌につれ〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.42

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

歌は世につれ世は歌につれ

歌が世の中のありさまを表し、世の中もまた歌にあるような世情をたどるとする「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉が知られます。90年代より前、J-POPではなく歌謡曲が主流だった時代は、この言葉も現実味がありましたが、今はどうでしょうか。 

タワーレコードによる2023年のアルバム売り上げランキングを見てみると、1位からSnow Man、King & Prince、SixTONES、JO1、なにわ男子と、5位まで歌って踊れる男性グループが占めています。しかもJO1以外は全て旧ジャニーズ事務所(注:新会社としてスタートエンターテイメント発足を発表)のアーティストです。旧ジャニーズ事務所に関するニュースが世の中を騒がせたという事実はありますが、2023年という年を俯瞰的に捉えたテーマはこのランキングからは見えてきません。シングル売り上げでも、JO1に代わって、その弟分であるINIがランクインしただけで、ほかは同じ顔ぶれです。おそらく、男性グループのファンの傾向として、推しの応援はもちろん、ノベルティなどの特典を手に入れる目的でCDを購入することがあるからではないでしょうか。 

それでは、2023年度上半期のシングル曲ダウンロードのランキングはどうでしょう。アーティスト名だけ列挙すると、1位からYOASOBI、Official髭男dism、10-FEET、MAN WITH A MISSION×milet、米津玄師と続きます。アニメ作品のテーマ曲やTVドラマの主題歌が多く、ロックバンドやネットから人気に火がつくケースなど、CDランキングとは全く違う傾向が見えてきます。いずれにしても、これらの楽曲から世の中のことはあまりわからないかもしれません。 

一方、50年前のヒット曲事情を調べてみると、1974年のシングル売り上げ1位は殿様キングスの「なみだの操」です。なかなかユニークなグループ名ですが、もともとコミックバンドとしてスタートし、後に歌謡コーラスグループに転向しています。男性ボーカルで涙ながらに復縁を乞う女性の心情を歌い上げ、大ヒットしました。ちなみに前年の1973年には、音曲漫才出身のグループ、宮 史郎とぴんからトリオの「女のみち」、「女のねがい」という女心を歌った曲が年間ランキングの1位と2位を独占しています。ここに顕著な傾向、男性コメディアングループによる女心の表現から時代性が読み取れるでしょうか。 

ここでは全てを語り切れませんが、音楽表現も視聴の仕方も多様化した現代と比べて、50年前は歌と世の中がよりはっきりした写し鏡だったのでは、と想像します。

浪花節だよ人生は〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.41

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

浪花節だよ人生は

年の暮れに近づくと、日本の正月までのお祭りムードが懐かしく思い出されます。10 年前に日本に住んでいた頃は、忘年会に新年会、二次会のカラオケが常でしたが、最近はどうなのでしょう。 

宴会曲と言えば「浪花節だよ人生は」が挙げられます。細川たかしの代表曲ですが、実は1976年に、小野由紀子という女性歌手の歌唱によるシングルB面曲としてリリースされたのが最初でした。なるほど、サビの「浪花節だよ、女の、女の人生は」にも合点がいきます。浪花節とは浪曲のことで、三味線を伴奏にリズミカルな節回しで歌うように語る、語り物芸能のひとつ。その起源は江戸末期までさかのぼることができます。 

細川による1984 年のカバーの前には、東京・浅草出身の浪曲師、2代目木村友衛が歌っています。木村が作詞家の藤田まさとに直談判して発売にこぎ着けたとか。地道なキャンペーン活動により徐々に人気を博し、細川の大ヒットにつながりました。同じ1984年にはなんと13社ものレコード会社から、さまざまなアーティストによるカバー曲が発売されました。 

私が宴会曲と思い込んでいたのは、冒頭の歌詞に「飲めと言われて素直に飲んだ」とあるから。続きを聴けば、言われるまま、誘われるままに従ったゆえに人生を振り回されてしまった女性の嘆きが伝わってきます。タイトルの浪花節は、「人の情けにつかまりながら 折れた情けの枝で死ぬ」のドラマチックな一節に集約されています。 

浪花節は東京の貧民街で発祥し、ほかの語り物芸能の影響を受けながら明治時代に寄席芸として全国的に発展。「忠臣蔵」など義理人情に訴える演目が、昭和初期のレコードやラジオの普及に伴い庶民の心を捉え、戦時中は愛国浪曲なるものも作られました。テレビの登場により1970年代頃から衰退の一途をたどります。 

では、なぜ1984年になって歌謡曲の「浪花節だよ人生は」にスポットライトが当たったのでしょうか。当時は、1983年の任天堂のファミコン発売、東京ディズニーランド開園と、バブル前の新しい時代の予感が漂い始めた頃。アメリカの文芸批評家は、「人は激しい時代の変化に際して、よりノスタルジーを求める」と言っています。浪花節の義理人情の世界観とほろ苦い人生の語り節に、ノスタルジーを聴き取ったのかもしれませんね。

J-POP は翻訳できる?〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.40

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

J-POP は翻訳できる?

「なぜ、J-POPはK-POPと違い、アメリカなど海外で人気とならないのか」、という議論を耳にします。諸説ありますが、K-POPは初めから海外市場を意識してアーティストをプロデュースし、プロモーションしているから、とする見方が大半です。 

きゃりーぱみゅぱみゅPerfumeなど、海外で人気となった例もないことはないのですが、いずれも日本で活躍した後に海外へ進出しています。この2組は中田ヤスタカが楽曲を提供しており、翻訳を介さずオリジナルのスタイルのまま、海外の聴衆に異国の斬新なポップ音楽として受け入れられました。

 そもそも、ポピュラー音楽の翻訳は可能なのでしょうか? 文学であれば、日本文学やアメリカ文学など国ごとに分けられ、それぞれが文学のジャンル、学問の分野になっています。その基準はあくまで、作者がどこの国の人か、原著が何語で書かれているか。日本語で書かれた作品は、外国語に翻訳されて初めて国外の読者に届きます。一方、日本で大ヒットしたポピュラーソングの歌詞を翻訳しても、海外で売れるためには、音楽性、ダンスなどのパフォーマンス、ビジュアルといったさまざまな要素が海外の聴衆に響かなければいけません。 

先の2組は、その独特のパフォーマンスやビジュアルでも海外の聴衆を引き付けました。近年、シティー·ポップが注目を浴びているのは、ノスタルジックなムードがビジュアルやパフォーマンスの必要のない「聴く専門」の音楽として認知され、YouTubeやSpotifyなどの新しいメディアとも親和性が高かったことが大きいように感じます。個々のアーティストというより、そのジャンルに共通のサウンドが主役なので、翻訳は不要です。 

K-POPの場合、音楽もビジュアルもパフォーマンスも、もともとが海外規格。最初から英語圏向けに仕上がっています。逆に海外アーティストが日本でヒットを飛ばすケースを見ても、歌詞を日本語に翻訳したり、日本向けにプロデュースし直したりはしていません。もし、ポピュラー音楽が翻訳というプロセスを受け付けないのであれば、その時点で、J-POPが英語ではなく日本語で、海外ではなく日本の聴衆向けに作られる限り、K-POPのような海外での成功は難しいのでは、と思います。 

ただ、TVアニメ「推しの子」主題歌の「アイドル」で世界を席巻するYOASOBIは、アニメという武器を味方に、J-POPが海外の聴衆に届くことを証明しました。これからは他のポップカルチャーとのタイアップが成功の鍵になるかもしれませんね。

歌のちから〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがしてVol.39

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

歌のちから

8月に起きたハワイ・マウイ島の火災と被害の拡大は、きっと皆さんにとっても衝撃的なニュースだったのではないでしょうか。ラハイナの目抜き通りの変わり果てた姿に、東日本大震災のニュース映像がフラッシュバックしました。日本は地震大国です。あれから12年、被災地では力を合わせて地震や津波で壊されてしまった街を復興してきました。被災した人々の心を支えるもののひとつに、歌があります。 

関東大震災が起きて今年で100年が経ちますが、その頃に大流行していたのが、野口雨情作詞、中山晋平作曲による「船頭小唄」です。悲しげなメロディーと後ろ向きの歌詞は、まるで震災を予兆していたかのようで、人々は不吉だと離れ、作家の幸田露伴も「こんなものが流行ったからだ」と辛烈でした。 

一方、人々を元気付けたのは、大正の演歌師のひとり、添田さつきが歌った復興節です。演歌師とは、明治から昭和のラジオが普及するまでの間に活躍した流しの芸人のこと。添田は被災後に日暮里に流れ着き、演歌師仲間の依頼で復興節の歌詞を書いたそう。焼け野原のバラックで寝ながら月を眺めたり、お嬢さま育ちの少女が小豆売りをしたり、優雅に暮らしていた奥方が配給に群がる様子などを面白おかしく歌詞にしています。皆が打ちひしがれて静まり返った街頭で、不安ながらも報道歌(被害の状況などを伝える歌)を歌い始めると、みるみるうちに人が集まったため、軽快な曲調の復興節のほうも披露したところ、観衆に笑顔が戻ったのだとか。 

その復興節は、元芸妓の藤本二三吉が歌ったものがレコードに録音され、同年12月に震災以来初の新譜リリースのうちの1枚として発売されました。被災した銀座のレコード店から明るいメロディーが久しぶりに流れてきたと想像すると、それはきっと復興の第一歩として象徴的な瞬間だったのだろうなと思います。 興味深いことに、「帝都復興祝歌」といった「復興」と名の付く曲がレコードとして多く発売されたのは、震災から7年が過ぎた1930年。政府の帝都復興事業の目処が立ち、同年3月に復興祭が行われたことと関係があるようです。 

阪神・淡路大震災や東日本大震災でも数々の復興支援ソングが作られました。代表曲「花は咲く」は、花が咲き、新しい命が生まれることを歌い、復興のイメージにつなげています。先に紹介した、関東大震災時の流行歌「船頭小唄」の歌詞には逆に「花の咲かない 枯れすすき」とあり、なるほど、嫌われるのも無理はないと言えるかもしれません。個人的には、復興節のユーモアたっぷりの歌詞もまた、明るい方向へと導く大きな力を持つ気がします。

桜島と長渕 剛〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがしてVol.38

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

アメリカに住む日本人の皆さんは、日本の風景と聞いて何を思い浮かべますか? 私の場合、そのひとつに鹿児島県の桜島があります。親戚がいるため、幼い頃から何度も訪れているものの、桜島を眺めたのはおそらく1度か2度くらい。それでも、その時の印象が強く残っています。 

鹿児島湾に浮かぶ裾広がりの桜島は、鹿児島のシンボルであり、街中に灰を降らせる活火山として独特の存在感を放っています。70年代までの歌謡曲を専門に研究している私は、つい北国をテーマにした曲や歌手ばかり気になってしまいがちです。でも今回は、本州最南端の鹿児島を代表する歌手、長渕 剛について考えてみたいと思います。 

実を言うと、長渕の歌はストレート過ぎる気がして、なんとなく避けてきました。改めて聴いてみると、聴き覚えのあるメロディーやフレーズが多く、心に響く名曲ばかり。特に、本格デビューとなった1978年の「巡恋歌」、1980年の「順子」、1983年の「GOOD-BYE 青春」など、昭和が終わろうとしている1980年代半ばくらいまでに発表された曲に強く引かれます。 

80年代、長渕は「家族ゲーム」、「親子ゲーム」と立て続けに話題のドラマに主演。その主題歌も担当し、日常的な葛藤を歌い上げています。90年代になると徐々に視野は広がり、日本の未来を憂うような内容や、力強く生きることがテーマに。熱狂的なファンを魅了し続けている一方で、コンサートの際に日の丸を掲げるなどのパフォーマンスは、ナショナリストと批判されることもあります。 

アメリカで日本のポピュラー音楽を研究する学者が、長渕の歌のストレートな「語り」を高く評価していました。長渕は社会の暗黙のルールに従わないアウトローとして、出身地である鹿児島の家族や友人たちの延長線上に思い描く、絆の深い理想的な共同体への希望を真っすぐに歌い続けている数少ない歌手のひとりだと言います。この「共同体」を表現しようとすることで、時にナショナリストとして受け取られてしまうこともあるのでしょう。2004年8月には、愛する故郷、鹿児島・桜島でオールナイトのコンサートを行いました。国立公園の一部を整地するところから始まり、コンサート当日は観客をフェリーとシャトルバスで輸送するなど、まさに規格外。今も伝説のコンサートとして語り継がれています。 

歌詞が鹿児島弁で書かれた2006年リリースの「気張いやんせ」で、長渕は「前つんのめりで生きて行こや」とメッセージを込めます。青臭いけれど純粋。だからこそ、多くのファンの心をつかむのかもしれません。前述の研究者の指摘通り、長渕のような歌手は日本では貴重。そのブレない姿勢は、素直にかっこいいと感じます。

大阪ブギウギ〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがしてVol.37

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第37回 大阪ブギウギ

日本へ一時帰国中、大阪を訪れた時のこと。私は東京出身で、関西方面にはこれまであまり縁がありませんでしたが、そのにぎやかさには圧倒されました。大阪駅の地下街は広大な迷路のようで、いくつもの駅ビルに隣接していて買い物客の熱気にあふれ、商業都市ならではのエネルギーを感じます。ほんの短い時間に数カ所しか立ち寄っておらず、大阪について深く語ることはできませんが、よその土地からの通りすがりだからこそ見える大阪の風景もまた、大阪らしさの一面。「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うけれど、「歌は場につれ、場はまた歌につれ」でもあるなぁ、としみじみ思います。 

その「場」を作るのは、やはり人。つまりは歌が人を作り、人が歌を作るとも言い換えられるかもしれません。大阪の街が持つ独特の雰囲気、そして行き交う人々が大阪の歌を作り、また大阪の歌が大阪という場所を彩ってきたんだ、と改めて気付かされます。 

今回紹介したいのが「大阪ブギウギ」。「東京ブギウギ」の陰に隠れがちですが、同じ1948 年に発売されたご当地ブギの大ヒット曲です。「東京ブギウギ」と同様に、大阪出身の作曲家、服部良一と大阪育ちの歌手、笠木シヅ子の名コンビにより生まれた大阪ソングの金字塔。「ほんにそやそや そやないか」と痛快な大阪弁で始まる歌詞は大阪の名所を列挙し、服部のブギのリズムが堪能できます。

1950 年に発売された「買物ブギー」もまた、歌詞の「わてほんまに よう言わんわ」が印象的な、大阪ソングの代表格。この曲は服部が上方落語の演目「ない物買い」にヒントを得て作ったとか。このように大衆芸能の息吹が感じられるのも大阪ソングの特色です。 

一方、「道頓堀とんぼり 人情」は1985年に大阪育ちの歌手、天童よしみによって歌われヒットしました。「人情」という言葉は大阪ソングのキーワード。この曲の特徴は女の意地や根性、心意気を歌う歌詞にあります。歌謡曲によく表現される北国の「待つ女」のイメージに対して、大阪ソングは女性の情け深さを歌い上げます。そんな女性像は、大阪で大きく発展した近松門左衛門の浄瑠璃劇、「曽根崎心中」や「心中天網島しんじゅうてんのあみじま  」にそのルーツを見出すことができます。

「大阪ブギウギ」も「道頓堀人情」も昭和の大阪を描いた名曲。時代と場所の深い関係は、少し時を置くとよく見えてくるものです。歌によってその土地の「令和」という時代性が見えてくるのは、もう少し後になりそうですね。

いい湯だな〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.36

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第36回 いい湯だな

1年ぶりに日本へ一時帰国しています。私にとってアメリカ生活で何といっても恋しいのが温泉です。温泉旅館で湯三昧するのも、駅前の日帰り温泉でひとっ風呂浴びるのも、どちらもうれしいもの。滞在中は温泉を存分に楽しみたいと思います。温泉と言えば、今年の春に日本で公開され話題となった映画に「湯道」があります。銭湯が舞台となっており、興味深いのは、風呂の入り方や作法を華道や茶道に倣って「湯道」とし、日本ならではの文化として深く掘り下げているところ。大衆文化のイメージですが、入浴方法や銭湯のしつらえなどに定型があるのは、確かに伝統文化に通じるとも言えます。 

さて、温泉を歌った歌謡曲は多くありますが、私がまず思い浮かべるのはザ・ドリフターズの「いい湯だな」(1967年)です。実はこの曲、作詞が永 六輔、作曲がいずみたくのコンビ。男性コーラスユニットのデューク・エイセスが47都道府県を題材にしたご当地ソングを歌う、東芝レコードの「にほんのうた」シリーズの群馬県バージョンがオリジナルです。ザ・ドリフターズがデビュー曲「ズッコケちゃん」のレコードB面としてカバーし、後に伝説の番組「8時だョ!全員集合」エンディング曲となって大ヒットしました。 

1966年発売のデューク・エイセスが歌う「いい湯だな」の歌詞に出てくるのが全て上州の湯(草津、伊香保、万座、水上)なのに対し、ザ・ドリフターズのバージョンは全国の名湯、北国は登別、上州の草津、紀州の白浜、そして南国は別府と置き換えられています。サブタイトルにビバノン・ロックとある通り、アップビートで「ババンババンバンバン」に「アービバノンノン」や「アハハン」などの合いの手文句が愉快です。 

話は戻って「にほんのうた」シリーズですが、その曲目を眺めてみるとなかなか面白いタイトルがあります。例えば、山形県は「歌おう滑ろう」。雪国ならではのスキー・リゾートがモチーフでしょうか。神奈川県の「港のためいき」は横浜港の夜景が思い浮かびました。静岡県は「茶、茶、茶」。なるほど、チャチャチャのリズムでお茶所の静岡をアピールしています。徳島県の「踊り疲れて」は阿波踊りですね。ひねりがあるなと感じたのは、山梨県の「ロッコン・ロール」。富士登山の修行の際に唱える、六根清浄ろっこんしょうじょうからだと推測できますが、それをロックン・ロールとかけているのがユニークです。 

タイトルを見る限り、温泉をテーマにしているのは群馬県だけのようです。実は群馬の温泉は行ったことがないので、ぜひいつかオリジナルの「いい湯だな」で歌われている4つの温泉郷を制覇してみたいものです。

女性シンガーソングライターの先駆者、りりィ〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがしてVol.35

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第35回 女性シンガーソングライターの先駆者、りりィ

日本の女性シンガーソングライターの走りとして荒井(松任谷)由実の少し前に登場した、りりィを知っていますか? 憂いを帯びたハスキーボイスが特徴的で、1972年に「たまねぎ」というアルバムでデビューしました。当時、先行するシングル盤なしにアルバムでデビューするのはとても珍しいことでした。 

りりィは福岡県の出身で、小学生の頃からは東京で育ちました。米空軍将校の父親が朝鮮戦争で戦死したため、飲食店で働く母親とふたりの母子家庭でした。その母親も17歳の時に亡くなり、生活のためにスナックやバーなどで弾き語りを始めたのが、後の音楽活動につながったのだとか。1974 年には「私は泣いています」が大ヒット。この失恋ソングは、切ない歌詞もさることながら、ブルース調のメロディーや楽器使いが斬新です。何より、寂しげながらも芯のあるりりィの声が素晴らしく、歌手にとっていかに声のパワーが大切かを思い知らせてくれる一曲です。 

あるアメリカの音楽学者が、観衆は歌手の声質とその歌手の人生を重ねてその歌唱を聴く傾向を持つと論じています。りりィの場合も若くして両親を亡くし、夜の街で歌っていたという背景があり、そうした苦い経験をやや暗く憂いを帯びたハスキーボイスで表現しているかのように聴こえます。1973年に発表したシングル「心が痛い」でも、ドラマチックな曲進行で、感情のこもった歌唱を披露しています。「心がはりさけそう」と歌詞にありますが、聴いている側も同じ気持ちになります。 

同時期に音楽活動を開始した荒井と比較すると、荒井は吉田拓郎やかぐや姫などのフォーク・シンガーと並べて語られることが多い一方、りりィは当時のアバンギャルドなアーティストとのコラボレーションが目立ちます。デビューした1972年には大島 渚監督の「夏の妹」に出演。返還された沖縄を舞台に大島が批判をこめて作り上げた作品で、りりィはピアノ教師を演じました。1977年にはアングラ演劇作家として知られる別役 実のラジオドラマ「地下鉄のアリス」に、アリス役で声の出演をしています。歌だけでなく、ラジオドラマでもその独特の声の魅力は十分に発揮されました。 

70年代の音楽業界ではプロデューサーの力が強く、自らの音楽性を表現できるアーティストとなると、まだまだ男性が多かった時代。そんな中、自ら歌詞を書き、曲を作り、俳優としても自分の世界観を打ち出していた、りりィのようなアーティストは大変貴重です。ぜひ一度、りりィの世界に浸ってみて欲しいと思います。

心の旅〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがしてVol.34

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第34回 心の旅

この春、日本から悲しいニュースが届きました。作家の大江健三郎と音楽家の坂本龍一の訃報です。作品のファンというレベルとは違う次元で心から尊敬していたので、大変ショックを受けました。戦後の日本とこれからの行く末について真剣に疑問を投げかけ続けた大江、政治的発言をためらわず権力に対して「ノー」と言える坂本。偉大な芸術家で知識人のふたりが旅立ったと知ってからの数週間、心にぽっかり穴が開いています。 

1935 年生まれの大江は学生作家としてデビューし、1958 年に短編小説『飼育』で芥川賞受賞。1967 年には、後に代表作と称される『万延元年のフットボール』を発表しました。 

一方、1952 年生まれの坂本は1970 年代に入ってから音楽活動を開始。1978 年に細野晴臣、高橋幸宏と共にYMO(イエローマジックオーケストラ)を結成しています。作家の芸術性は、持って生まれた才能だけでなく、彼らが生きた時代が培うものだとしたら、『万延元年のフットボール』からYMOのデビューまでのおよそ10 年間はどんな時代だったのでしょうか。音楽は時代の空気を伝えてくれます。当時の日本の音楽をいくつか聴いてみたところ、その中で心に響く1曲がありました。チューリップの「心の旅」です。 

1973 年に発売された同バンドの3 枚目のシングルで、出だしの「あー だから今夜だけは 君を抱いていたい」のフレーズが有名です。恋人同士の切ない別れを描いた歌詞は、バンド・メンバーの財津和夫が担当。自身が福岡から上京する際の心情を思い起こして書いたそうです。歌詞には汽車が登場しますが、汽車の旅というのは70 年代を物語るテーマのひとつ。1970 年に始まった国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンは、国内の個人旅行や女性客の増進を促す一大プロモーションで、日本の地方の良さを再発見し、ふるさとのイメージ作り、東北地方の風景と演歌の結び付きなど、あらゆる方面に影響を与えました。チューリップは、ポップでありながらもロック・バンドの楽器編成で聴きごたえのある演奏により、ビートルズを彷彿させるとしばしば評されます。「心の旅」は、そのチューリップの優れた音楽性と、70 年代の汽車の旅ブームが相まっての大ヒットでした。

ラブソングとして聴いていたところで、「旅だつ僕の心を 知っていたのか 遠く離れてしまえば 愛は終わるといった」の歌詞にハッとしました。ふたりの偉大な芸術家がこの世を旅立っても、愛が終わることはないのです。これからも折に触れ、大江の文章を読み、坂本の音楽に耳を傾けていこうと思います。彼らが残した芸術は生き続け、その作品をめぐる私たちの心の旅は続くのです。

卒業ソング〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.33

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第33回 卒業ソング

アメリカ生まれの3 歳の息子が少しでも日本語に触れる機会を増やそうと、車での移動中にカーオーディオで日本の童謡を流しています。「一本橋こちょこちょ」、「おべんとうばこのうた」、「とんとんとんとんひげじいさん」など、意外にも歌詞を覚えていて、すらすら歌える自分に驚きました。ある日、その童謡のプレイリストを聴き終わり、自動再生で次に流れてきたのが「巣立ちの歌」。小学校の卒業式で歌って以来、ずっと聴いていなかったけれど、イントロが終わって合唱が始まると母校の懐かしい景色が一気によみがえり、気付いたら口ずさむどころか大声で歌っている自分がいました。「いざさらば さらば先生、いざさらば さらば友よ」のコーラス部分では、もう何十年か前の春の日に体育館で行われた卒業式で、涙をこらえながら歌ったことを思い出しました。 

暖かく明るい春の象徴でもある桜の季節に、なんとも言えず切ない気持ちになるのは、やはり春が別れの季節だからでしょうか。卒業式での合唱は日本ならではの慣習のひとつですが、どんなに長い時を経ても、歌を聴きながら当時の思い出に浸れるのはなかなか良いものです。「巣立ちの歌」や「旅立ちの日に」などの唱歌に加え、日本の歌謡曲やポピュラーソングにも素晴らしい卒業ソングがたくさんあります。 

世代によって意見が分かれるものの、個人的に好きなのは荒井由実の「卒業写真」(1975 年)と斉藤由貴の「卒業」(1985 年)。「卒業写真」は、男女 3 人のコーラス・グループ、ハイ・ファイ・セットのデビュー曲として荒井が楽曲提供し、メインボーカルの山本潤子が透明感ある素晴らしい声で歌い上げています。後に荒井もセルフカバー。歌詞は切ない恋の歌と読めますが、実は高校時代の女性美術教師を思って書いたそうです。 

そして斉藤の「卒業」は、卒業式では泣かずに「涙はとっておきたいの」という歌詞が、別れの寂しさや涙といった卒業式によくあるストーリーを裏切っていて貴重。この曲が発売された1985 年はほかにも菊池桃子、尾崎 豊、倉沢淳美が同じ「卒業」というタイトルの曲を発表しています。若いファンの間でカリスマ的な人気を誇った尾崎の「卒業」もまた、その反体制的な歌詞が、数ある卒業ソングの中で異彩を放っています。 

さて、ようやくマスク規制が緩和され、着用が個人の判断となった日本ですが、東京都教育委員会は感染予防対策として、卒業式での校歌斉唱や合唱を禁止する通知をしたとか。それでも、それぞれの思い出と歌を胸に桜の季節を迎えて欲しいものです。桜にまつわる名曲も数多くありますね。その話はまたいずれ。

民謡クルセイダーズ〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.32

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第32回 民謡クルセイダーズ

前回、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」について書きました。「Crusaders(クルセダーズ、クルセイダーズ)」には、十字軍戦士、改革運動者という意味があります。ザ・フォーク・クルセダーズの名に、「フォーク・ミュージックで新しい境地を切り開く」という意気込みを感じます。1960 年代初めに登場し、さまざまなジャンルの音楽的要素を取り込んで革新的だったアメリカのフュージョン・バンド、ジャズ・クルセイダーズから命名したとか。ザ・フォーク・クルセダーズも、音楽のジャンルを問わず「世界中の民謡を紹介する」という画期的なコンセプトの下に誕生しました。 

そして、日本の民謡と世界の音楽の融合を目指すバンドが、民謡クルセイダーズです。東京都福生市在住のギタリストである田中克海と、民謡歌手のフレディ塚本が酒場で意気投合し、2011年に結成されたそう。その歌唱法こそ日本の民謡スタイルですが、リズムやビートはラテン・アメリカ、カリブ、アフリカ、アジアから取り入れており、10 種類の異なる楽器編成もユニークです。民謡など日本の伝統的な歌謡芸能は手拍子とは切っても切れないもの。パーカッションありきのリズム・ミュージックとの相性が良いのは納得がいきます。 

ただ、こうして書いたところで、やはり実際にパフォーマンスを観ないことには、民謡クルセイダーズ独自の音楽性を知るのは難しいでしょう。彼らの音楽は世界でも注目の的で、2021年にはニューヨークで毎年1月に開催される音楽祭「グローバルフェスト」に招待され、集まった観衆を魅了しました。その際に収録されたコンサート映像は、YouTubeで見ることができます。民謡クルセイダーズによる全く新しい串本節や炭坑節が繰り広げられています。  

民謡クルセイダーズの国外での知名度をグンと上げたのが、アメリカの公共ラジオ放送であるNPRの音楽番組から生まれたビデオ・シリーズ、「タイニーデスク・コンサート」です。これはNPRのオフィス内で行われるライブ・パフォーマンスをビデオ収録したもので、2008年の開始以来、世界中で人気を集めています。日本人アーティストが紹介された例はまだ少なく、コーネリアスやガールズバンドのCHAIなど片手で数えられるほどです。  

ある人文学者が、伝統芸術を生かし続けるには、観衆が変化していくことだと説いています。伝統が神聖化され過ぎると、その新しい解釈や翻案は時に批判されてしまいます。民謡クルセイダーズの場合はどうでしょうか? 試されているのは観衆である私たちかもしれませんね。

イムジン河〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.31

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして 

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第31回 イムジン河

川は、日本人特有の切なさや望郷の念などの心情を歌うのにぴったりのテーマ。特に、ふたつに分断されたり、互いに行き来できなかったりする状況を歌で表現するにはうってつけです。「つれて逃げてよ」の歌い出しが有名な、ちあきなおみの「矢切りの渡し」(1976年)は江戸川の渡し船を舞台にした歌で、後に細川たかしなどが歌って大ヒットしました。ほかにも、対岸への思いをテーマにした名曲には「イムジン河」があります。元は朝鮮半島で生まれたこの曲は、日本で数奇な運命をたどりました。  

イムジン河(臨津江)は朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線近くにあり、その悲劇の象徴として語られてきました。日本のフォークグループ、ザ・フォーク・クルセダーズによる「イムジン河」は、メンバーの松山 猛が中学生の時に、サッカーの親善試合を申し込むために朝鮮学校を訪れてたまたま原曲を耳にしており、ザ・フォーク・クルセダーズを結成後に楽曲に仕上げたそう。1番は朝鮮学校生から伝えられた歌詞を訳し、2番は創作しました。その様子は、井筒和幸監督の青春映画「パッチギ!」(2005年)にも描かれています。  

ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」は、1967年の自主制作アルバム「ハレンチ」への収録前からコンサートなどで披露されており、ラジオで曲がかかるなど人気を得ていました。しかし、1968年に東芝によるレコード発売が決まり、3番を加えてスタジオ録音したものの、発売直前に中止となってしまいます。その理由ですが、著作権の認識不足から朝鮮総連から抗議があったと言われているものの、明確にはわかっていません。その後も「イムジン河」は、ほかのアーティストにより原曲に忠実なバージョンが発売され、松山作詞のバージョンを残すためだけに密かに結成されたグループが会員限定のレコードとして配布することもありました。90年代になると、より多くのアーティストがカバーしています。  

封印されたザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」も、1992年のコンピレーション・アルバム収録を経て、2001年に晴れて日本版の楽曲として著作権が認められます。シングル版CDが発売された2002年は、奇しくもサッカーの日韓合同W杯が行われた年。偶然か必然か、松山が原曲「イムジン河」を聴いて心を打たれたのも、サッカーの親善試合申し込みがきっかけでした。「イムジン河」という名曲が対岸に届くには、サッカーという架け橋が必要だったのかもしれませんね。ちなみに昨年には、2002年発表の「イムジン河・春」を改変した4番が加わり、新録版もリリースされています。

シティー・ポップはレトロ?〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.30

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第30回 シティー・ポップはレトロ?

2022年2月に本コラムでシティー・ポップを取り上げ、日本のポップ・ミュージックが海外で人気を集めていることについて書きました。その後も勢いは止まらず、今や日本でも注目されています。 

音楽ライター、栗本 斉氏が日本の80年代のアルバムを100枚選出し解説する本によれば、シティー・ポップとは「パッと聴いた瞬間に摩天楼を想起させる都会的かつ、南国のパームツリーも思い浮かぶような音楽」だそう。一方、海外でのシティー・ポップ・ブームのきっかけを作った韓国のDJ/音楽プロデューサー、Night Tempo氏によると、日本のレトロな音楽は全てシティー・ポップと言うのだとか。日本の音楽ライターが曲の雰囲気やイメージを中心に定義したのに対して、その火付け役当人のあまりに大雑把な解釈に驚きつつも、「レトロ」という表現にはなるほど、とうなずけます。  

ある音楽学者が、異文化を受容する過程について、未知なものからエキゾチックなものへの興味関心へと変わり、それが普通になると懐かしさへと移行し、最後は古くさく感じると説明しています。

Night Tempo氏のシティー・ポップの定義を借りれば、海外の聴衆にとって、聞いたこともない日本の音楽にレトロな音色やイメージを感じ取るというのは、その受容過程と矛盾します。ただ、その日本のレトロな音楽は日本独自のものでなく、西洋の音楽からの影響を大いに受けて日本ならではのアレンジが加わり成立したものなので、海外の聴衆にとっても全く未知のものではないわけです。  

たとえば、1988年リリースのWinkの「愛が止まらない」は、同年にオーストラリアの女性アーティスト、カイリー・ミノーグが発表して大ヒットしたアルバムの楽曲「Turn It Into Love」のカバーです。曲のアレンジはとてもよく似ていますが、歌詞が織りなすストーリーが違います。Winkは、ガールフレンドがいる男性に思いが募る切なさを歌い、ミノーグのオリジナル版では、友だちから発展しそうな恋模様が描かれています。Night Tempo氏は、日本のポップ・ミュージックの特徴として「切なさ」を挙げていました。海外から取り入れられた音楽でも、日本風にアレンジされると、どうしてか切ない雰囲気が加わるそう。演歌を研究している身としては、これにも納得しました。切なさやもの悲しさに美しさを見出すのは、平安時代から受け継がれた日本の美意識の特徴と言えるでしょう。

話が少し逸れましたが、海外の聴衆が感じるシティー・ポップの懐かしさは、西洋音楽の影響と、日本のポップ・ミュージックならではのセンチメンタルな感性が生み出しているのかもしれません

中島みゆきの宇宙〜晴歌雨聴♪ニッポンの歌をさがしてVol.29

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して 

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第29回 中島みゆきの宇宙

YouTubeでの視聴が当たり前となり、Spotifyなどの音楽ストリーミング・サービスも登場したことで、音楽との出合い方は多様化しています。検索して該当する動画やプレイリストを再生し続けると、元の検索からAIが推測した関連音楽が自動的に再生されます。自分が気に入る可能性が高い曲をリストアップしてもらえるのはとても便利だと思いますが、一方で、以前よく聴いていた懐かしい曲に偶然「再会(再聴)」する可能性となるとどうでしょうか? 時間的な隔たりもあり、自動再生機能でヒットする可能性は低いような気がします。  

実は最近、とてもうれしい出合いがありました。日本人が多く住むカリフォルニア州トーランスに、BOOGIE MARU SOUNDSという、日本の音楽を中心に扱うレコード・ショップがあると友人から聞き、初めて訪れた時のことです。ふと目に入ったのが、中島みゆきの「寒水魚」というアルバム。両親の音楽コレクションにあったので、中島の曲は子どもの頃からよく聴いていました。収録曲を見てみると、普段からカラオケで歌っていた「悪女」が1曲目だったので、迷わず購入。原曲を聴いたのはもう10年以上前になりますが、レコードで「悪女」を聴いた瞬間、懐かしさが込み上げてきました。当時、小学5年生で転校した頃の記憶がたちまちよみがえり、また、その歌詞にある「ほろ苦い大人の恋愛」に憧れた気持ちまで思い出します。悪女が入っているレコードのA面だけを10回以上連続で聴いてしまいました。  

「寒水魚」は1982年に発売された中島の9作目のアルバムです。「悪女」はシングル・バージョンとは違うアレンジで、ロック色が強調されています。アレンジが違うのにこんなに懐かしさを感じるのは、その独特の世界観と歌詞の持つ力だと思います。中島は1975年にデビューし、70歳となる現在も素晴らしい曲を作り続けています。近年はテレビドラマの主題歌として採用されることも多く、幅広い世代に親しまれています。私が個人的に好きなのは中島の初期作品に多い、物語性のある切ない恋の歌。「悪女」もそうですが、「かなしみ笑い」(1980年)や「あの娘こ」(1983年)など、片思いのやや自虐的な歌詞に人間味があって魅力を感じます。初期の頃から歌詞ににじみ出ていたその人間性は、歌手本人と共に成熟し、人生や故郷など大きなテーマを持つ90年代以降の代表曲へと引き継がれています。  

年輪を刻みながら懐の深さが加わり、独自の宇宙観を作り上げている中島の音楽。ネットを通じてたまたま聴いたのではなく、自ら足を運んだレコード店で出合えて良かったな、と思いました。しばらくはこのレコードで中島みゆきの宇宙を堪能するつもりです

日本文化は誰のもの?〜ニッポンの歌をさがしてVol.28

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.28

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第28回 日本文化は誰のもの?

前回に続き、2013 年に結成された女性 5 人組のロックバンド、BAND-MAID(バンドメイド)の話をしようと思います。  

BAND-MAIDは2018 年のエイプリルフールに、BAND-MAIKO(バンドマイコ)への改名を発表し、ファンを驚かせました。その後、改名宣言は撤回したものの、翌年にはBAND-MAIKO 名義でミニアルバムをリリースします。メイド喫茶と舞妓で共通している点は多々あります。お客さまをもてなす職業であること、女性性が強調されること、その衣装が特徴的なことなどです。大きく違う点として、メイド喫茶が比較的新しい日本のサブカルチャーであるのに対し、舞妓は伝統的な日本文化と強く結び付いていることが挙げられます。  

日本間の派手な屏風の前で白塗りの化粧に艶やかな着物姿の5 人がハードロックを演奏している様子は、かなり見応えがあります。「祇園町」という曲のプロモーションビデオでは京都の街中や竹林などを背景にパフォーマンスが展開され、観光ビデオとしても楽しめます。しかし、このような典型的な舞妓のイメージを利用したパフォーマンスを、「文化の盗用(カルチュラル・アプロプリエーション)」と捉える見方もあります。これは、特定の文化的な要素を、その文化に属さない人が取り入れることを意味します。  

以前、アメリカ人の友人たちが日本のフォークソングをカバーするバンドとして活動し、歌詞も日本語で、原曲を丹念に研究したうえでユニークにアレンジしていました。小さなライブハウスなどで演奏をしていたところ、日本人でもないのに日本の音楽を演奏することをよく思わない人から苦情が入ったそうです。悩んだ末に、結局バンドを解散してしまいました。文化の盗用で定義される「その文化に属さない人」とは? 

日本人であれば良く、日本人でないなら、いくら熱心に努力して理解したとしても取り入れてはいけないのでしょうか。人によって判断基準が異なり、なかなか難しい問題です。商業目的の場合は特に批判を浴びやすいように見受けられます。  

BAND-MAIKOは日本人ですから、彼女たちの解釈でイメージを作り上げて発信してOKという考え方もあれば、文化の切り売りと捉えることもできるでしょう。何かを表現するなら、常に誰かの批判的な視線を浴びることは避けられません。BAND-MAIKOによるハードロックと舞妓の鮮やかなコントラストを目にして、ふとそんなことを感じました。

メイドインジャパン〜晴歌雨聴ニッポンの歌をさがしてVol.27

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.27

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第27回 メイドインジャパン

私はロサンゼルスの大学院で70年代くらいまでの演歌、歌謡曲を研究しているせいか、日本の最新曲には少し疎い傾向も。逆に、アメリカなど日本国外のオーディエンスの評判を通して日本のアーティストの活躍を知る、ということがたまにあります。  

たとえば、BAND-MAID(バンドメイド)は2013 年に結成された女性 5 人組のロックバンドですが、その海外での人気ぶりを知ったのは最近のこと。フェミニンなメイドの衣装とは裏腹に、ハードロックを全面に打ち出した重厚なパフォーマンスが高い評価を得ています。  

外見とパフォーマンスのギャップが海外で注目されたパターンは、2010 年に結成されたメタルダンスユニット、BABY METAL(ベビーメタル)にも見られます。どちらもそれぞれ、メイドとKawaiiファッションという女性性を強調した衣装をまとい、そのイメージからは想像が付きにくいハードロックとメタルという音楽ジャンルを選択しています。メイドとkawaii は海外で日本特有のポップカルチャーとして知られており、そのテーマ性も海外のオーディエンスに注目されたのでしょう。  

さて、BAND-MAIDに関して気になるのはやはり、なぜ「メイド」なのか、というところです。もし彼女たちがもともとは音楽性を追求していたロックバンドで、「売れるために」メイドの衣装を選んだとしたら? 音楽業界では、プロデューサーなどがアーティストのイメージを戦略的に作ることは珍しくありません。ですが、BAND-MAIDの場合は、ツインボーカルのひとりが秋葉原のメイド喫茶で実際にアルバイトをしていて、「メイド」ありきでバンド結成を発案し、ほかのメンバーを募ったとのことです。  

その時点で海外への進出は想定していたようで、2014 年に発売されたデビューアルバムのタイトルは「MAID IN JAPAN(メイドインジャパン)」。そして2018 年に発売された5 枚目のアルバムのタイトルは、世界征服という意味の「WORLD DOMINATAION(ワールドドミネーション)」です。2019 年にはBAND-MAID の「公式ライバル」として、BAND-MAIKO 名義でのミニアルバムも発表。舞妓とくれば、これまた外国人も知る日本文化のひとつですね。  

BAND-MAIDは約 2 年ぶりのワールド・ツアーを開始し、10月12日(水)にはシアトルのネプチューン・シアターでも公演予定です。

少年時代〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.26

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして Vol.26

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第26回 少年時代

夏の終わりになると聴きたくなる曲のひとつに井上陽水の「少年時代」があります。歌詞に「夢」や「思い出」が散りばめられ、特に「青空に残された 私の心は夏模様」のフレーズが秀逸。中学生くらいの頃、夏休みを名残惜しく感じ、新学期に頭が追いつかなかったときのぼんやりした気分が思い出されます。  

言わずと知れた大ヒット曲ですが、もともとは同名映画の主題歌として作られました。原作は1978年から79年まで『週刊少年マガジン』に連載された、藤子不二雄Aが柏原兵三の小説『長い道』を漫画化したものです。太平洋戦争末期、東京から富山に疎開した少年の出会いと交流を描いています。1990年に公開された映画の監督は篠田正浩で脚本は山田太一、そして製作は藤子不二雄Aという、なんとも豪華な顔ぶれです。  

井上は藤子と飲み友だちで、この映画の主題歌を藤子から直接依頼されたと言います。しかし、楽曲がなかなか出来上がらず、製作陣はヤキモキ。漫画家として編集者から催促を受けるつらさを知る藤子は、井上に一切催促をしなかったそう。当時、ややスランプ気味だった井上は4週間スタジオにこもり、主題歌の制作に打ち込みました。ギリギリになって完成した楽曲には、藤子が事前に提供した歌詞は全く使われていませんでしたが、藤子はそのイメージ通りの出来栄えに感激したとか。  

曲の冒頭、「夏は過ぎ 風アザミ」とある歌詞の風アザミは日本語にない言葉で、メロディーと共に井上の頭に浮かんできたもの。鬼アザミであれば、夏から秋にかけて咲くキク科の多年草として実在し、紫色の大きい頭状花を付けます。風アザミのイメージは、とげとげしい鬼アザミとは少し違う、ゆらゆらと風にそよぐアザミでしょうか。制作秘話といい、この造語といい、逸話が尽きません。  

さて、映画で曲が流れるのはラストシーンです。東京へ戻ることになった主人公の少年。上野行きの列車を待つ駅のホームに、疎開先で親友となった少年は来ていません。軍歌しか知らないという男性が音頭を取り、軍歌の合唱で見送られる少年と母親。列車に乗り込むと、寿司詰めの列車の中で兵士たちがかき込んでいる弁当を、他の乗客たちが固かた唾ずを飲んで恨めしそうに見ています。そんな戦争末期の息苦しさを伝えるシーンの後、列車の窓の外をずっと見ている少年の目に親友の姿が映ります。そこに主題歌「少年時代」がかかるわけです。列車から身を乗り出して手を振る少年と、緑一色の田舎道を疾走して列車を追いかける少年。心を揺さぶられるシーンです。皆さんの夏の終わりの1曲は何ですか?

表拍子と語り物〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して Vol.25

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第25回 表拍子と語り物

  毎年夏になると、日本の風物詩を思い出しては懐かしい気分になります。蚊取り線香の匂いやスイカ、浴衣に花火、夏祭りのにぎやかさなど。盆踊りと東京音頭については本コラムでも以前書きましたが、日本の夏にまつわる歌と踊りには語ることがたくさんあります。
 先日、たまたまAJATEという日本のバンドを知ったのですが、アフロビートと祭囃子を絶妙に組み合わせたダンサブルな音楽でとても面白いと思いました。アフロビートと日本の伝統的なリズムがうまく融合しているのには驚きです。

 一般的に、日本の音楽は表拍子で、西洋の音楽は裏拍子と言われます。裏拍子の代表はジャズやファンクなどの16ビート。表拍子というのは、手拍子するときに1、2、3、と数字のところで手を打ち、読点で休むリズムの取り方です。逆に裏拍子は読点でリズムを取ります。タン・タン・タンの「タ」に拍を置くのが表拍子、ンタ・ンタ・ンタと「タ」の前にひと呼吸入れて拍を置くのが裏拍子です。
 日本の歌は長い間、表拍子で作られてきました。それは日本語のアクセントとも関係しているようで、日本語の言葉は大抵、頭にアクセントを置きます。盆踊りの曲などは表拍子ですが、これに手拍子と共に合いの手を入れることがよくあります。「あ、そーれ」「よっこいしょ」などですが、いずれもアクセントの位置は最初の「あ」と「よ」です。多くの音頭は民謡由来で、日本の歌の真髄である「語り物」の特徴がよく表れています。

 中世に成立した「平家物語」は、語り物の元祖と言われます。琵琶法師と呼ばれる人が琵琶を弾きながら語り、文字を読むことのできない庶民の心をつかみました。日本人はその頃から、語りとリズムの融合に慣れ親しんできたわけです。日本で楽器文化よりも歌文化が発達したのは、元来日本人が楽器の演奏自体よりも、語りや歌のほうが好きだったからかもしれません。

 語り物の伝統は大阪の河内音頭にも見られます。戦後、鉄砲光三郎という歌手がジャズの影響を受けてリズムに改変を加え、エレキギターを使って演奏した河内音頭のレコードを発表して大ヒットしました。河内音頭は冒頭にいわゆる名乗り口上、自己紹介の挨拶があります。これも語り物の特徴のひとつです。もちろん、「ハァ、イヤコラセー、ドッコイセー」と合いの手も入ります。

 河内音頭のすごいところは、いろいろな物語が歌詞になることです。明治時代に実際に起きた殺人事件が語られるバージョンは「十人斬」と呼ばれます。音頭と殺人事件は意外な組み合わせですが、とても親しまれています。河内家菊水丸という河内音頭家元は、自分の後援者の立身出世話を題材にして歌詞を作り、祭りに集まった人はその歌でやぐらを囲んで踊るのだとか。老若男女が何重も輪を作って踊るその光景を一度見てみたいものです。 

古関裕而とオリンピック・マーチ〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.24

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第24回 古関裕而とオリンピック・マーチ

 約3年ぶりに日本へ一時帰国しました。3年前と今日で東京の景色を大きく塗り替えたのは、やはり新型コロナウイルスのパンデミック。さらにもうひとつ、大イベントとなった2021年の東京五輪でしょう。ちょうど新国立競技場に立ち寄る機会があり、パンデミックに翻弄された東京五輪について思いを馳せました。 

 スポーツと音楽は切っても切れない関係にあります。2020年に放送されたNHK連続テレビ小説「エール」は福島県出身の作曲家、古関裕而(こせきゆうじ)の人生を描き、人気を博しました。1909年生まれの古関は1964年の東京五輪のために行進曲を作り、その作品は昨年の東京五輪でも使用されました。 

 古関は音楽好きの父親の元で育ち、小学校の担任教師も音楽の指導に熱心だったことから、子どもの頃から作曲にいそしんでいたとか。1923年、14歳の時に福島のハーモニカバンドに入団し、作曲や指揮を担当しました。この時にヨーロッパやロシアの近代音楽と出合い、衝撃を受けたことが後のクラシック音楽を基盤とした格式の高い古関の作風に大きく影響していると言われています。 

 1930年、コロムビアと専属契約。戦時中は多くの軍歌を作曲し、戦地に赴く若き戦士たちを鼓舞激励する形で戦争に協力しています。当時の音楽家の中には、日本軍の帝国主義に一切加担しない者、服部良一のように中国へ慰安団として送られたことがきっかけで、その異国情緒を表現する者、古関のように日本軍の視点で音楽を発表する者に大きく分かれます。たとえば、ジャズの素養のあった服部の作風に比べ、古関の作風はもともと行進曲や軍歌に応用しやすかったなど、音楽的な事情もあったかもしれません。古関は自身の戦争加担について苦悩があったとも伝えられていますが、そうした実績が戦後、スポーツの応援歌へと生かされていきます。 

 誰もが知る阪神タイガースの団歌「六甲おろし」ですが、実は古関の戦前の作品で、そのあと読売巨人軍の初代団歌も発表。戦後になって、中日ドラゴンズや巨人軍の現行版などの団歌を作曲しています。スポーツの応援歌は単純なリズムや明快なメロディーで歌いやすく、一緒に歌うことで士気を高める目的もあるでしょう。古関は1948年には全国高校野球の大会歌として「栄光は君に輝く」を発表します。そして1964年に「オリンピック・マーチ」を作曲するのです。歌詞こそありませんが、明るく品格を感じるメロディーで、古関作品の傑作のひとつとなりました。 

 国立競技場を一周しながら、東京を舞台に繰り広げられた熱戦を思い起こす中、いつの間にか私の耳にも「オリンピック・マーチ」がよみがえっていました。  

おニャン子クラブ〜晴歌雨聴〜ニッポンの歌をさがして

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌を探して  Vol.22

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

第22回 おニャン子クラブ

 前回、「花の82年組」の代表スターである中森明菜について書きました。当時のアイドルたちが築き上げた文化は歌謡界だけでなく、80年代の日本のポップカルチャーに大きな影響を及ぼしました。そして、アイドルの向かい側にいるファンからの影響もまた、アイドル側に反映され、両者で時代のムードを作っていたと言えます。 

 ファンにとってのアイドル像は、彼らの生活様式や同時代の流行などからも影響を受けます。当時の日本でどんなことがあったのか調べてみると、特に1983年には歴史的な出来事がたくさん見られました。任天堂の「ファミリーコンピュータ」の発売、NHK連続テレビ小説「おしん」やフジテレビ系列の深夜番組「オールナイトフジ」の放送スタート、東京ディズニーランドの開園などです。これらの文化イベントを経験したファンの求めるものがアイドル像にも反映される中、その一例として誕生したのがおニャン子クラブです。 

 前述の「オールナイトフジ」の夕方版として同じ制作スタッフにより85年に開始された「夕やけニャンニャン」。番組アシスタントとして、「どこにでもいそう」、「ちょっと気になる、かわいい同級生」というコンセプトから、女子高生を中心としたメンバーで結成されました。デビュー曲「セーラー服を脱がさないで」は大ヒットとなり、一世を風靡(ふうび)します。 

 「夕やけニャンニャン」はクイズやゲーム企画を盛り込んだ公開生放送の番組で、人気絶頂だったとんねるずがレギュラー出演をしていました。その観客の大半は男子高校生や大学生。番組は2年後の1987年に終了してしまい、おニャン子クラブも同時に解散となりました。現在でも活躍しているのは、工藤静香、渡辺満里奈、渡辺美奈代、国生さゆりなどです。 

 さて、「セーラー服を脱がさないで」を作詞した秋元 康ですが、ご存じAKB48の生みの親でもあります。AKB48は2005年のデビューですから、おニャン子クラブ誕生からちょうど20年経っていることになります。親近感のあるアイドル像を目指したことなど共通点は多く、いわばおニャン子クラブはテレビの時代、AKB48はインターネットの時代に登場した身近なアイドルです。「セーラー服を脱がさないで」の歌詞はかなり大胆ですが、同じテーマがAKB48の初期の楽曲「スカート、ひらり」に控えめに受け継がれています。こうして、アイドルを通して時代を俯瞰するのも興味深いですね。