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Author: 佐々木 志峰

オレゴン大学でジャーナリズムを学んだ後、2005年に北米報知入社。2010年から2017年にかけて北米報知編集長を務める。現在も北米報知へ「一石」執筆を続ける。

岩隈久志氏がマリナーズ コーチ就任

シアトルのスポーツの盛り上がりを一手に引き受けてきたNFLのシーホークスがプレーオフで敗退。静かな冬を迎え、気が付けば1月がすでに終わりかけている。

 例年この時期は、大リーグマリナーズが地元ファンとの交流行事を開催してきた。昨年は再建期にあるため未開催だったが、今年は2週間にわたってオンラインを通じてファンとのつながりを築いている。

 新シーズンへ向けて着々と準備を進めるチームだが、その中で地元日系コミュニティーにうれしいニュースがあった。2017年まで6シーズンにわたって所属し、昨季をもって引退した岩隈久志氏が特命コーチとしてマリナーズに戻ってくることが発表された。

 イチロー氏が球団会長付き特別補佐を務めており、チームを支えた日本選手2人がサポート役を務めることになる。日本、または日本選手とのつながりが深いマリナーズならではだ。チームによると、マリナーズのみならずマイナーチームにも足を運び、日本でのスカウト業にも尽力するという。

 無安打無得点試合など活躍の姿が記憶に新しい。当時、筆者の主なマリナーズ取材は日系行事関連が中心だった。写真を撮るために球場に足を運んだが、打者を抑えてベンチに戻る際にレンズに入った気迫あふれる表情は今も強く印象に残る。

 2018年に故障復帰を目指して懸命にリハビリを行う岩隈氏を追った。復帰がかなわずごく少数の現場記者に退団の決意を伝えたときの表情。その数週間後、イチロー氏に始球式を投じてマリナーズへ別れを告げ、取材対応後に交わした握手。真摯な対応を覚えている。

 当時、チームからはコーチ就任を打診された。大きな実績を残した日本投手として、タイプは違うが菊池雄星投手のよき理解者となる事が期待されている。岩隈氏から背番号18を引き継いだ菊池投手は大型契約を結びながら成績が伸び悩み、言い訳の効かない3年目を迎える。

 岩隈氏は来月からアリゾナ州で始まる予定のスプリングトレーニングからチームに参加する。今年も日本との縁深いマリナーズが話題をもたらしてくれそうだ。

本紙による岩隈久志氏のインタビュー記事はこちら:http://soysource.test-alba.com/interview/interview-with-hisashi-iwakuma/

 

 

北米報知の歴史 -戦後編-

安否を気遣うコミュニティーの告知板

取材・文 佐々木志峰

第二次世界大戦の日系人強制退去で姿を消したシアトルの日本町は、戦後、収容所から戻る人々によって再生が図られていった。日本語メディアも復活を求める声が上がり、1946年6月、現在も続く邦字新聞『北米報知』紙が創刊される。戦前の邦字紙『北米時事』の発行人、有馬純雄氏が編集長、『タコマ時報』紙で編集長だった生駒貞彦氏が発行人を務めた。生駒氏は北米報知財団の事務局長を務めるイレイン・イコマ・コ氏の祖父でもある。

「報知」には、収容所から帰郷を果たした日系人同士が互いの安否を確かめ合う告知板(=ポスト)との意味があった。有馬氏は「創刊のことば」で邦字メディアの再出発について記している。

「……あの人はどこで何をして居るのだろう―とか―又は、あの人々は何をやらうとして居るのかしら―と思ひ浮かべても、杳として知る由もない、何か報道機関が、欲しいものだと言ふ聲が擧げられてから既に半歳にもなるので、それでは一つ週刊誌でも出して、各地の情報交換に便宜を與へたらば、と考へついた結果が、この『北米報知』なのであります」――。

事務所は日本町の6thアベニュー。創刊当初はタブロイド版8ページで週1回だったが、48年に週3日、翌年に週6日と発行を増やした。日本から戻る日系関係者も増え、購読者、広告主といった支援層も広がり、日系コミュニティーの再生が強く感じられる。

皇太子夫妻、首相訪問を報道

1960年の皇太子、同妃殿下(現天皇、皇后両陛下)のシアトルご訪問では、10月5日付で「萬歳の聲に迎えられ皇太子ご夫妻ご到着 空港で日白人一千人が歓迎」と報じ、その後も日系社会の立場から来賓の歓迎ぶりを連日伝えた。1975年8月の三木武夫首相のシアトル訪問でも特集を組み、同記事は後日読売新聞に引用された。

紙面はノースウエストの日系移民史『北米百年桜』の著者、伊藤一男氏による「日本便り」をはじめ、コミュニティー記事、告知版、死亡記事、タコマ、スポケーン、ポートランドなど各地からの通信記事、小説、俳句、短歌などの文芸作品が掲載されていた。広告は航空、旅行、商店、美容院、レスランと日系ビジネスに加えて劇場、映画館、文化団体が名を連ねた。

一方、70年代に入ると、読者の中心となる一世の高齢化による発行部数減、郵送料のコスト増などが経営を圧迫し始める。廃刊の危機に直面するが、コミュニティーの厚い支援が窮状を救ってきた。74年は後援組織の寄付、81年は3カ月の休刊を経て日系社会幹部が「北米報知出版社」を発足し紙面発行が継続された。

北米報知出版社として再出発

1983年10月、事務所がジャクソン・ストリート沿いに移転。印刷方法の改革が行われ、活字を拾って組み上げるものから、和文タイプ打ちした記事を貼り付けるものに変換された。日本語ワープロも登場、当時の見出しには写植機が使用されていた。編集部、読者層は、戦後移民となる「新一世」が中心となった。

1988年は日系強制収容に対する米政府の賠償決定など、コミュニティーに歴史的意味をもたらした。北米報知でも当時宇和島屋のトミオ・モリグチCEO(当時)が発行人に就任。日系市民協会(JACL)全米大会のシアトル大会を機に姉妹英字紙『ノースウエスト・ニッケイ(Northwest Nikkei)』が月間発行されるようになった。同紙は2004年に北米報知英語面として吸収されるまで発行が続けられた。月間ビジネス紙『BZ JAPAN』も発行され、2002年には前身北米時事の創刊100周年号を発刊した。

1995年からコンピューターで組む現在のシステムを採用、2005年に無料配布開始、2010年に一部紙面をカラー化した。社屋は01年秋、ジャクソン・ストリートの事務所から旧宇和島屋ビルに移動。複合施設「Publix」の建設により、現在は区画内の平屋建て部分に移っている。

新聞発行ペースは徐々に落ち、現在は週刊となったが、創刊71年の今年も日英両語16ページで継続発行されている。

1946年に、戦前の「北米時事」が「北米報知」として新たに再出発した創刊号
1960年の皇太子、同妃殿下(現天皇、皇后両陛下)のシアトルご訪問を報じた北米報知の一面記事

 

 

北米報知の歴史 -戦前編-

初期日系移民の柱、シアトル邦字紙の代表 『北米時事』

取材・文 佐々木志峰

移民コミュニティー形成の中で欠かすことのできない情報共有の場。現在もさまざまなメディア媒体が情報発信の場となり、コミュニティーを支え続けている。シアトルの日系社会が形成された20世紀初期、日本語新聞は日系移民唯一の情報機関として大きな存在感を誇った。

日本郵船会社による新航路が開かれ、領事館もタコマから移転するなど、大きな成長を遂げた1900年前後のシアトル日系社会。コミュニティーの隆盛に合わせ、1890年代後半から次々と邦字新聞、雑誌が創刊されている。その中で最も大きな規模を誇ったのが『北米時事』紙だ。ピュージェット湾地域のみならず、ヤキマ、スポケーンなどノースウエストの日系コミュニティーに支局を置き、各地の活動を伝え続けた。

有馬純達著『シアトル日刊邦字紙の100年』によると、北米時事は「志の高い新聞」、「ゴシップ本位でない硬派の新聞」との評価を得ていたという。スタッフの中には著名人の名前もあり、第二次世界大戦前に外交評論家として活躍した清沢冽は、タコマ支部でジャーナリストとしての経験を積んでいる。

1902年9月1日創刊。米国で3紙目となる邦字日刊紙で、発行人は隈元清、ほか出資者があり、会社は現在のシアトル日本町内にあった。創刊時は6ページ、1905年に8ページに増刷。翌年新年号では32ページ、5千部を発行するまでに成長した。1913年に入ると、同紙発行の中心となる有馬一家が経営を担う。ポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、印刷部数は6千。1918年には英語面の掲載も始まり、息長い発行が続けられた。

第二次世界大戦で日米関係がさらに険悪になるまでに有馬一家の多くは日本帰国を選択。米国に残った有馬純雄が発行人を務めたが、日米開戦でFBIに検挙されてしまう。一方で、リーダーを失った北米時事は緊迫する日系社会に従業員が力を合わせ記事発信を続けた。当時は検閲もあったのだろうか、英語面を1面に移し、日本語は2面から始まっている。日本語紙面の下には紙面発行を継続すべく、社告で支援を呼び掛けている。

廃刊は1942 年3 月14 日。39 年半、激動の日系移民社会の中心として1万2278号を発行した。当時のシアトル・タイムズ紙によると、印刷部数は9千部で、シアトル地域の日系人口を上回っていた。従業員は約50人。第二次世界大戦後のコミュニティー再生の中で生まれた北米報知紙の創刊時の中核を担うスタッフも含まれる。

北米時事はワシントン大学スザロ図書館のマイクロフィルム、もしくは同大学と北米報知財団による共同プロジェクトで行われたオンラインアーカイブ(http://content.lib.washington.edu/otherprojects/nikkei/)で見ることができる。(敬称略)

1917 年12 月23 日夕刊。日本や世界の情勢を伝える記事や、クリスマスとは何かを説明する記事も見られる
同じく1917 年12 月23 日夕刊の広告欄。魚屋、菓子屋、靴修理屋、銀行、レストラン、ホテル、英語学校など、様々な業種の広告が並んでいる

 

パブリックス カイ・マーケット 宇和島屋最新情報!

宇和島屋 最新情報!
パブリックス /カイ・マーケット

取材・文: 佐々木志峰

宇和島屋はスーパーマーケット経営のみならず、企業としてさまざまな事業を進めている。昨年はシアトル店の隣に「パブリックス(Publix)」と呼ばれるアパートと商業スペースの複合ビルを建設。今春にはレイクユニオン地区で、新ブランド「カイ・マーケット(Kai Market)」を開店する。

インターナショナル・ディストリクトでの不動産開発

パブリックスはインターナショナル・ディストリクト駅の正面、中華門の脇に建ち、当ディストリクト再活性化のプロジェクトの一つとして期待を集めている。宇和島屋は2000年に、シアトル本店「宇和島屋ビレッジ」の再開発にあたり、ビルの上階にアパートを建設したが、アパート部分は他社へ売却している。パブリックス内の上階アパートは他社売却されておらず、同社にとって初のアパートメント経営となる。

©️The Publix Seattle 2017

6階建て、125室のアパートは昨年に完成し、現在の賃貸率は9割以上だという。地上階は1万2000平方フィートの商業店舗スペースが広がる。4月現在、小籠包などの点心料理で人気の「Dough Zone Dumpling House」と、ハンバーガー店「Great State Burgers」の2店舗がリース契約を結び、今年中の開店へ向けて準備を進めている。両店舗ともローカル発のビジネスだ。

店舗招致についてデニース・モリグチCEOは「ローカルビジネスであればアジア系にこだわらない」と述べ、多様化の続くインターナショナル・ディストリクトに合わせた店の招致を進めていくと話す。同事業を担当するミエ・モリグチさんによると、パブリックスの事業が軌道に乗り次第、脇に並ぶ青い瓦屋根が懐かしい旧宇和島屋シアトル店の区画開発も検討されていくという。

パブリックスの北棟は1928年に建てられ、移民や地元労働者の生活の場となったパブリックスホテルの外観を残す。ロビーは当時の雰囲気が残り、建物の歴史、歩みに触れることもできる。

©️The Publix Seattle 2017
シアトル店の隣に建設された「パブリックス(Publix)」。地上階には1万2000平方フィートの商業店舗スーペースが広がり、点心料理レストランや、地元発のハンバーガーショップがオープン予定。

 

新ブランドの展開へ

もう一つ、宇和島屋の新しい事業として大きな可能性を秘めているのが、再開発で賑わいを見せるサウスレイクユニオン地区にオープンする小型食品店「カイ・マーケット」だ。オフィスビル「400フェアビュー」の地上階に、シーフードを中心にアジア系の食材、デリを加えた新ブランド店を立ち上げる。

フリーウェイI-5の出入り口やシアトル・タイムズ社屋が面する通りで、建物の中の広いスペースには地元経営のカフェやバーが並ぶ。シーフードの鮮度を保つ大きな水槽など、従来の宇和島屋のイメージに新たな一面を加える店構えも注目される。

絶好の立地から、テイクアウトで大きな人気を集めそうだといった地元食品関係者の声もある。店前には食事や休憩用の席も設けられており、周辺ビジネス関係者で賑わいを見せそうだ。デニース・モリグチCEOも、目まぐるしく変化を遂げるサウスレイクユニオンの需要に応えていきたいと意気込む。新ブランドとしての事業展開も視野にいれている。うまくいけば「地元と食」を結び続ける宇和島屋の新しい挑戦が始まっている。

カイ・マーケットがオープンする「400フェアビュー」地上階のイメージ。

宇和島屋はスーパーマーケット経営のみならず、企業としてさまざまな事業を進めている。昨年はシアトル店の隣に「パブリックス(Publix)」と呼ばれるアパートと商業スペースの複合ビルを建設。今春にはレイクユニオン地区で、新ブランド「カイ・マーケット(Kai Market)」を開店する。

 

愛媛大学グローカル地域研究プロジェクト

シアトルの日系スーパーマーケット、宇和島屋(うわじまや)。コミュニティーに根づいた家族経営を行う同店は、米国で最も成功した日系スーパーとして日本からも注目されています。今回はそんな宇和島屋の歴史をひも解きます!

取材・文: 佐々木志峰

ノースウエストでの宇和島屋の成功は、日本からたびたび注目され、今では森口ファミリーのゆかりの地、愛媛県の大学研究プロジェクトにも取り上げられている。愛媛大学の「グローカル地域研究ユニット」は、最近2回にわたり調査チームを派遣、創業ファミリーの森口一家や宇和島屋顧客へのリサーチを行っている。

研究では愛媛という「ローカル」な場で培われた物、意識、技術が、「グローバル」に広がり根付いていく過程を分析。「愛媛生まれ」の宇和島屋が、「米国で最も成功した日系スーパーマーケット」と評価されるまで発展した要因や、日系移民として日本とのつながりと影響を探る。調査チームも「宇和島屋の実践・経験は、地方発の日系企業が海外で事業展開する際の参考となる」と捉えている。

昨年9月には、「地元米国人に認知され、アジアのシンボル的な存在」となった宇和島屋とコミュニティーの関係について、研究リーダーの佐藤亮子准教授が聞き取り調査を行った。今年3月はシアトル、ベルビュー両店で一般客へのアンケートを実施、日系、アジア系にとどまらない幅広い客層から支持される宇和
島屋の姿を追った。

宇和島屋の歴史をひも解くと、労働者への現地販売、第二次世界大戦後のシアトル移転と移民増加、現在に続く日本文化への理解とアジアブームなど、「時代ごとの商機」という追い風に乗ってきた。佐藤准教授は「日系のアイデンティティというものが他と混じっていく中で、これから『日本』がどのような強みとして残っていくのか。何を大事にするかという考え方も愛媛として興味深いです」と話している。

調査報告は一部ウェブサイト(ipst.adm.ehime-u.ac.jp/glocas)で見ることができる。報告書は論文にまとめられ、国際シンポジウムなどでの発表機会を伺っていくという。

宇和島屋CEO デニース・モリグチさん

地元日系社会の「食」を支え続ける宇和島屋。今年2月、創業89年になるビジネスのトップに、モリグチファミリー3世代目を代表してデニース・モリグチさんが就任した。「祖父母、父親、叔母、叔父、親戚の献身や、会社の歴史に支えられています」――。日々の実感を明かす若干40歳の新CEOの目に映る宇和島屋とは。新たなチャレンジ、家族やシアトルの縁、地元コミュニティーなどについて語ってもらった。

取材・文:佐々木志峰


デニース・モリグチ

■宇和島屋CEO。シアトル出身。高校卒業後、東海岸に移りボウディンカレッジで経済、アジア研究を学び、マサチューセッツ工科大学でMBA を取得した。バイエル・ヘルスケアなどに勤めたあと、2013 年にマーケティング部長として宇和島屋へ。去年4月に社長、今年2 月にCEO に就任した。2 児の母。

2月に就任、新世代のCEOとして

2月25日にCEOに就任しました。次期CEOと認められてから時間もあり、準備も進めてきましたので気持ちも落ち着いています。もちろんCEOとしては新人ですし、まだ学んでいるところです。ただ眼前に広がる大きなチャンスに興奮しています。

近年はアジアに関する興味や注目がさらに高まっています。健康的で味も良いことから、アジアの食材も多く求められています。新しいレストランに行き、今度は自分で料理したい、また新しいソースや今までと違う調味料を試してみたいと宇和島屋に来る人も増えました。アジアの食材をさらに学びたいというお客さまに、我々も知識や商品でしっかりと応えたいと思います。

3月の愛媛フェアは大成功でした。日本人のお客さまには、こうした物産展が喜ばれます。県の名産が直接届き、懐かしい思いを持たれるのでしょう。日本人以外の方も「日本で買われている本物を手に入れる」「新しいものを試してみたい」という体験を楽しんでいるようです。物産展でのブースでの交流も大変温かみがあります。食べ物を超えた「文化の架け橋」ですね。

物産展は各県の海外進出に協力する日本政府の存在もあります。日本のものをPRすることは政府にとって価値がありますし、我々も喜んで協力したいと考えています。最近では愛媛、青森、島根といった物産展を開きましたが、各県と宇和島屋に大きなメリットとなるパートナーシップができあがっています。

新たなチャレンジ、宇和島屋の可能性

シアトル、ベルビュー両店で1年半前からアマゾン・プライムの配送サービスを開始しました。街の変化とともに客層が変わり、若い人々が宇和島屋の近くに移ってきました。ショッピングの概念も変わる中で、我々も違う形で客を取りこみたいと考えています。今後も力強く生き残るうえで、従来と異なることを試みる必要もあり、配送サービスはその一例になります。

幸い、店内の売り上げは変わっていません。配送オーダーはシアトル・ダウンタウンからも多いです。バスに乗れば近いですが、部屋のドアまで配送されるほうが便利でしょう。新しい客層に彼らの購買方法で商品を提供し、宇和島屋に興味を持って将来的に店に足を運ぶようになってもらえればと考えています。オーダーの品目は様々でラーメン、お菓子から一般食材まで幅広いです。

カイ・マーケットも楽しみですね。従来の宇和島屋に比べ、店舗サイズは8分の1から10分の1程度です。全く違う規模、コンセプトになるので宇和島屋の名前は使いません。実はグロサリーとレストランを合わせた「グロセラント(Grocerant)」といった候補もありました。カイという名前には、特別な漢字や意味合いはなく、まず呼びやすいということです。シーフードに力を入れていることから、海や貝に由来すると思われますし、アジア的でもありますが、まずは誰にでも通じるという部分が重要でした。

カイ・マーケットはまだ初期段階ですので、今後もいろいろと改善点が出てくると思いますが、我々はサウスレイクユニオン以外でも通用するコンセプトと考えています。将来的に店舗数を拡大していきたいと考えていますが、まずは1店目の運営をしっかりすることが大切。まだ新店舗のリース契約などは行っていません。

自分を見つめる、シアトルを離れた20年間

私は高校を卒業した後、シアトルを20年近く離れました。メイン州の大学に通い、ボストンの会社に就職し、ビジネススクールにも通いました。そのあとはニュージャージーとカナダのトロントです。

仕事は最初の5年は企業戦略、調査、データ収集や分析などを行う小さなコンサルティング会社で働きました。MBA修得後は、バイエル社でビタミン剤やヘルスケア商品のマーケティングを担当し、企業の成長戦略やPR、流通、販売など一連の業務経験を積みました。

シアトルは故郷ですし特別な街です。ただ個人的には、少し離れて新たな自分を見つけることも大切なことでした。コミュニティーや家族から離れ、少し自由を持って、自分でやりたいことを見つけ、就職し成果を出して昇進する。私にとって大変意義ある人生経験でした。

もちろん、いろいろな会社で働いた経験は、シアトルに戻った時に宇和島屋という会社を見るうえで役立っていると思います。

家族のそばに、2013年にシアトルへ

▲ 森口デニースさんと、父親の森口富雄さん。子供時代に宇和島を訪れた際の写真

シアトルに戻ったときは、様々なタイミングが重なりました。叔母のトモコが引退を考え、次のリーダーが必要になったこともあります。家族としては、能力があれば一族の誰かに引き継いでもらいたいという考えがありました。私もその資格があれば、ぜひこのビジネスと大きなチャンスに携わりたいと思っていました。

もう一つは、親戚に囲まれて育った私自身の経験から、生まれた娘にも同じ環境で育ってほしいという思いがありました。長女は生後6カ月でシアトルに来ました。それから毎週末、いとこや家族と時間を過ごすようになりました。

私には18人のいとこがいます。興味深いことに男性はわずか4人です。女性が多いので、男性をたてることなく平等の扱いを受けてきました。宇和島屋は女性2人がCEOになり、大変進歩的との印象を持たれていますが、家族を見渡すと自然な成り行きといえるかもしれません。

完璧な母親になるのは大変難しいことです。仕事も両立となるとなおさらです。私は夫に子育てを頼る形になっていますが、夕食をはじめ、家族との時間を作るようにしています。

子どもたちには良い人間に育ってほしい。もちろん我々の歴史や文化を知ってもらい、ルーツのありがたさも感じてもらいたい。幸い日本や中華、アジアの食べ物が好きで、餅や日本の菓子が大好物なんです。

宇和島屋で受け継がれる哲学

まず従業員、顧客を常に大切にすることです。祖父(創業者の森口富士松氏)は私が生まれる前に亡くなっていますが、従業員、顧客が助けを必要とすれば、喜んで手を差し伸べたと聞いています。夕食の席や自宅のソファには、家族以外の知人の姿が常にあり、誰でも受け入れ、世話をすることをいとわなかったそうです。彼の考えは、親族の1人1人に受け継がれてきています。

2つ目として、品質があります。我々の商品の質は常に強みとなってきました。売るもの、売り方は変わっても、常に高い品質を維持していくように心がけています。

最後はコミュニティーです。従業員、顧客ともにコミュニティーという輪の中でつながり、お互いが関わりあい、助け合うことでビジネスが保たれてきました。この3つの哲学を、宇和島屋創業の初日から変わらずに守り続けています。

祖父のことを直接は知りませんが、祖母のことはよく覚えています。とても優しく、親切でした。デリで働いていることが多かったと記憶していますが、私やいとこ、友人で行くと、すしなど食べ物を用意してくれました。我々家族をつなぐ接着剤のような人でした。

我々の伝統として、年末に店に立つのも大変良い経験になっています。オフィスに座っているだけでなく、お客様や従業員と交流し、どのような商品が買われているのか肌で知ることも必要です。何よりも我々のビジネスの成功はお客様があってこそ。とても忙しい時期ですが大切にしていきたいです。

宇和島屋の今後のため、ブランディングも続けています。食べ物を通じパン・アジアの文化を紹介する方向性になると思います。日本食は我々の強みですが、他のアジアの食べ物や商品をアジア系の顧客以外に紹介することでチャンスを広げ、客層、小売店のトレンドの移り変わりに対応しながら成長し続けたいです。

質、客、従業員を大切にする我々の哲学を軸に、新しい人々、ビジネスの期待、機会に応えていきたいと思います。

ビジネスインフォメーション
宇和島屋は、アメリカ北西部最大の日系スーパーマーケット。日本食をはじめとするアジア系食材や、日本からの雑貨なども販売している。創業は1928年。愛媛県出身の森口富士松氏が、タコマで日系人労働者に向けて豆腐やカマボコなどをトラックの荷台に積んで売るようになったのが始まり。現在では、インターナショナルディストリクトにあるシアトル本店に加え、ベルビュー、レントン、オレゴン州のビーバートンにも店舗を構える。今年夏には、レイクユニオンに、新ブランドの小型食品店「カイ・マーケット」もオープンする。スーパーマーケット経営に加え、インターナショナルディストリクト内の不動産開発も行う。

UWAJIMAYA
シアトル店:600 5th Avenue South, Seattle, WA
ベルビュー店:699 120th Avenue NE, Bellevue, WA
レントン店:501 South Grady Way, Renton, WA
ビーバートン店:10500 SW Beaverton-Hillsdale HWY, Beaverton, OR
詳細: www.uwajimaya.com