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Author: 越宮 照代

ライター、編集者。関西の出版社に8年勤務の後、フリーライターに。語学留学のため渡米。シアトルのESL卒業後スカジット郡に居住し、エッセイ寄稿や書籍翻訳などを手がける。2006年より『ソイソース』の編集に携わり、2012年から2016年まで編集長を務める。動物好きが高じてアニマル・マッサージ・セラピストの資格を取得。猫2匹と暮す。

INTERVIEW: 杉本製茶USA/スギモト・ティー・カンパニー社長 杉本恭平さん

シアトルに憧れ、大学を出て間もなく単身渡米した杉本恭平さん。家業の日本茶を全米に広めるため、2005年に杉本製茶の米国法人、スギモト・ティー・カンパニーを24歳で設立。2008年から本格的に自社ブランド販売を始めました。2008年1月売上ゼロの状態から12年後の現在、抹茶ブームを経て全米に販売網を構築しています。

杉本恭平■   杉本製茶の米国法人、スギモト・ティー・カンパニー社長。静岡県出身。杉本製茶の次男として育つ。幼少の頃から水泳を始め、順天堂大学ではスポーツ健康科学を専攻し、オーシャン・スポーツに熱中する。ライフセービングの世界大会にも出場した。2003年に父親と訪れたシアトルにひと目ぼれし、2004年に単身渡米。2005年には米国法人登記を行い、2008年に自社ブランド販売をスタートさせる。趣味はカヤック、スタンドアップパドル。休日はジムで走る。2008年に結婚。9歳の息子と、5歳の娘がいる。

取材・文・写真:越宮照代 
写真提供:スギモト・ティー・カンパニー

アメリカのマーケットに合わせた商品ではない。
でも自分は、親父の作った良質でおいしいお茶を売りたかった

水泳少年だった子ども時代

「2歳の頃から泳いでいたらしいです」と言う杉本恭平さん。よほど泳ぐのが好きだったのかと思いきや、中高時代は「イヤイヤやっていて、いつもどうやってサボろうかと考えていました」と笑う。それでも高校ではインターハイに出場し、大学はスポーツで知られる順天堂大に進んだ。大学時代に始めたのがライフセービング(アメリカではライフガード)。「これには大会もあって、ビーチフラッグスほか、海で泳いだり、サーフボードでスピードを競ったりします」。得意な水泳で良い成績が出せることもあって面白くなり、自ら練習に励んで世界大会に出場するまでに力をつけた。この経験が、後の杉本さんの人生哲学となる。「イヤイヤやるよりも、自分の意思で決めて行うほうが効果もあるし、それに勝るものはありません」と語る。

実家は静岡にある杉本製茶。家業は長男の兄が継ぐことになっており、次男である自分は大学を出たあとどうすべきか、具体的なプランが見えていなかった。「僕はどうしようもない若者で(笑)。やりたいことが見つけられていなかったんです」。大学の友人の多くが体育教師を目指していたことから、杉本さんも何となく教師の試験を受けたものの全滅。2000年代初め、就職氷河期の頃の話だ。資格はあるが職がないという状況の中、杉本製茶社長である父親に「出張するから一緒に来るか」と誘いを受けた。2003年、初めてのシアトル訪問。これが杉本さんの人生を変えることになる。「ちょうど秋口で、シアトルの街がすごくきれいだったんですよ。そこでお茶が売られていることにも感激したし、何よりこういうところに住めたらかっこいいなって(笑)」。すっかりシアトルにほれ込んでしまった杉本さんは、「シアトルで仕事をしたい」と父親に頼み込む。父親の本心はわからないものの、恐らくは次男が家業に関わってくれることをうれしく思ったのではないだろうか。アメリカでの販路を広げるべく、当時シアトルにあった杉本製茶の取引会社を手伝うことになった。

日本から入荷したお茶がぎっしりと並ぶ倉庫

渡米前の半年間、本社の製茶工場でお茶の勉強を兼ねて修行。それまで何も考えずに見ていた父親の仕事ぶりを改めて観察し、工場で1日中、袋詰め作業もした。「その経験があるからこそ『本社のみんなも頑張っているんだから』と、社員に言う話にも重みが出ると思うんです」

2004年、シアトルに来て最初の半年はコミュニティー・カレッジのESLで英語の習得に努めた。短期間だがビジネスのクラスを受け、ビジネス英語や国際貿易についても学ぶ。2005年には米国法人、スギモト・ティー・カンパニーの登記を済ませた。カレッジ在学中から少しずつ、小売店やレストラン、カフェなどに売り込みに行き、取引会社の営業を手伝い始めていたが、それで給料が出るわけではない。やりたいことがあっても、その決定権は自分になかった。もどかしい思いが膨らみ、独り立ちしたいと強く思うようになっていた。

2008年ついに独立し、スギモト・ティー・カンパニー社長として、ひとりで経営を開始した。シアトルで知り合った新潟出身の由美子さんと結婚したのも同じ年だ。「まだ仕事も軌道に乗っていないのに、なぜかこのタイミングで(笑)」と、自分で突っ込んでみせる。日本ではまだ学生で、仕事はアメリカに来てから、ほんの少し取引会社を手伝っただけ。「経験、知識、自信、ほぼゼロからのスタートでした」

自筆の書き初め「変化」を前にデスクに着く

5年間の赤字経営を耐え、抹茶ブーム到来

杉本さんは、わからないなりに自分が「正しい」と思うことから実践するよう心がけた。たとえば、ネクタイを締め、スーツを着る。ビジネスメールは丁寧な言葉づかいを心がけ、問い合わせには素早く対応。書類はできるだけプロフェッショナルに作成、といったことだ。「親からしつけられたことだと思うんですけどね」。最初の月は売り上げなし。オフィスにはお金がかかるし、自身も給料をもらわないとやっていけない。杉本製茶が後ろ盾にあったとはいえ、いつまでも赤字に甘んじているわけにはいかなかった。「とにかく、できることは全てやりました」。買ってもらえそうだと思えばどこへでも飛び込みで行き、慣れない英語で交渉した。紹介先があれば、ロサンゼルスやサンフランシスコにも飛んだ。平日は営業、週末は小売店やイベント会場でデモ販売をし、文字通り休みなしで働いた。夢の中でも仕事をしていたらしい。「寝言で『Would you like to try some tea?』と言っていたそうです(笑)」

起業した1月の売り上げがゼロ、2月は200ドル、3月は300ドル。ひたすら地道にやるしかなかった。そんなある日、営業に出かけた寿司店、アイ・ラブ・スシ・オン・レイク・ベルビューの当時のフロア・マネジャーから、「お茶は買ってあげられないけど宣伝を兼ねて、レストランのお客さんにお茶汲みしてはどう?」と提案された。持ち出しではあったが、毎週2回、仕事帰りに通った。「これが次に結び付くことがいくつかありました」。ある日、偶然居合わせた宇和島屋バイヤーにお茶を出したのがきっかけで、宇和島屋に商品を置いてもらえることが決まった。

その頃のシアトルは、他都市に比べると日本茶文化が浸透していたが、それでも「高い」と言われることが多かった。「最近では高い日本茶も普及してきましたが、当時はやっぱり高かったんですよ。アメリカのマーケットに合わせた商品ではない。でも自分は、親父の作った良質でおいしいお茶を売りたかった」。最初の5年は赤字が続いた。やめたいと思ったことはないかと問うと、「ビジネスを成長、成功させるためには、辛い経験をするのは当たり前。やめるという気持ちは全くなかった」とキッパリ。本社のサポートがあったことはもちろん大きい。だからこそ、前を向いて頑張るだけで良かった。「今考えると、プレッシャーはあったけれど幸せなことです」

全米各地の小売店に配送してくれる日系の食品問屋に商品を卸すようになってからは売り上げが伸び、現在は全米に販路を拡大。何と言っても大きかったのは全米を席巻する抹茶ブームだ。「急成長したのはここ5年くらいですね」。抹茶ブームのおかげで、食品会社などからパレットやコンテナ単位での大量注文が入るようになった。成長につれてオフィスも手狭になり、何度か移転して、現在のレドモンドにあるビルに落ち着いたのは2年前。社員数も10人に増えた。

2019年、サンフランシスコ・インターナショナル・ティーフェスティバル会場にて社員と。
左からノリ・アルガスさん、杉本さん、ミリアム・コルマンさん

日本の農家を救う

お茶という体に良い飲み物を扱う会社だからでもあるだろう、社員は健康や環境問題に意識の高い人が多いそうだ。そんな社員たちの後押しもあり、同社ではティーバッグから倉庫から出るゴミまでを、できる限りコンポスタブル(堆肥化可能)にしている。オフィスの電力も100%クリーンエネルギーを使用する。静岡の本社と提携する茶畑農家には、茶草場農法を行っているところがある。茶草場農法とは、良質茶の栽培を目的とし、茶畑の周りにススキなどを植えてそれを刈り取り、畑に敷草として施す伝統的農法だ。「こうするとお茶の質が良くなっておいしくなるということで、農家さんはずっと続けているんですね」。この農法によって地域の生物多様性が守られ、絶滅の危機に瀕している生物も含まれることから、2013 年には国連食糧農業機関より世界重要農業遺産システムに認定された。「ですから、うちのお茶を買ってもらうと環境保全に貢献することにもなります」

その一方で、日本のお茶業界は農家も含めて危機的状況に直面しているとも訴える。「日本の家庭ではペットボトルのお茶しか飲まないし、急須のある家はほとんどないでしょう。ティーバッグですら面倒だと言われます」。農家は良いお茶を作っても買い叩かれる。それならいっそのこと作らないほうがいい、となってしまう。アメリカでは、ペットボトルのお茶はまだ普及していないし、茶葉をポットに入れて飲む文化がある。さらに国土が広く人口が多いことから、お茶が普及する可能性は高い。同社の「日本の農家を救う」というミッションは、ここから生まれたものだ。「アメリカに進出したいと頑張っている日本のお茶屋さんは多いです。自分たちはそれを10年前からやっているので、アドバンテージはありますね」と、杉本さんはパイオニアとしてのゆとりを覗かせた。

社長として社員がこの会社で働くことにやりがいを持ち、
やる気になってくれるためにはどうすれば良いかを考える日々

レドモンドのオフィスで社員の皆さんと。左後方の壁の写真は、国連食糧農業機関(FAO)によって世界重要農業遺産システムに認定された「茶草場農法」を使用した茶畑

ブランドを広めるためのマーケティング元年

会社の規模が大きくなるにつれ、営業よりマネジメントの側面が強くなってきて、仕事への取り組み方も変わったという。「お茶のこともそうですが、社員さんのことを考えることが多くなりました」。日本では、「社会人として責任を持って行動せよ」と言われる。では、会社の社員に対する責任とは何だろう。それを考え始めたのが、自分の中での転機だと杉本さんは語る。考えて考えて究極的に行き着いたのが「社員を幸せにしてあげなければ」という思いだ。給与や福利厚生はもちろんのこと、その人の夢をサポートし、やりがいを持って仕事をしてもらいたい。「自分がやる気になってこそ、実力が発揮できる」という自身の哲学を胸に、社長として社員がこの会社で働くことにやりがいを持ち、やる気になってくれるためにはどうすれば良いかを考える日々だ。「売り上げをアップさせろとプレッシャーはかけますけどね(笑)」

スギモト・ティー・カンパニーは、2013年頃に始まった抹茶トレンドの波に乗り、急速な成長を遂げた。ところが2019年、業績が初めて伸び悩む。「大口のお客さんに頼り過ぎていたのが原因」と、杉本さんは分析する。トレンドに押されていただけで、自分がアクションを起こした結果ではなかった。「これからが本当の経営だと思います。業績が下がるのは好ましくありませんが、どこかホッとした気持ちもあるんです。それまでは、実力以上のものが出ていただけ」と打ち明ける。仕切り直しのタイミングを迎え、大きな顧客に頼るのではなく、自社ブランドを消費者に知ってもらうため、マーケティングに力を入れ始めた。SNS展開もその一環だ。「自社ブランドを売るには時間もお金もかかります。今年はマーケティング元年です」

杉本製茶USA/スギモト・ティー・カンパニー
静岡にある本社、杉本製茶の杉本博行社長の次男、杉本恭平さんが杉本製茶の子会社として2005年にシアトルで設立した米国法人。さまざまそろうお茶商品は「Sugimoto Tea」ブランドで知られる。杉本製茶は1946年創業で、1998年から北米向けに輸出を始めている。現在ではヨーロッパにも輸出しており、2018年の海外向け輸出量は100トンを超え、うち60トンが米国となっている。全米唯一のお茶展示会「ワールド・ティー・エキスポ」では数々の受賞を経験し、2017年には同社のほうじ茶が「ベスト・ホット・グリーンティー」に選ばれた。

Sugimoto Tea Company
4070 148th Ave. NE., Redmond, WA 98052
☎︎425-558-5552
www.sugimotousa.com

INTERVIEW:シアトルにおける江戸前寿司のパイオニア 加柴司郎さん

平成も終わる2019年3月25日、農林水産省から「日本食普及の親善大使」に任命された加柴司郎さん。太平洋戦争が始まる1941年に生まれ、激動の昭和を経て、令和の時代になお現役を貫きます。シアトルから世界へ、日本の食文化を広める司郎さんの寿司職人としての歩みを振り返ります。

取材・文:越宮照代 写真:本人提供

外国でおいしいお寿司を作ってサービスすること。
それがいちばん大事なんじゃないかと

寿司職人と西洋に憧れた少年時代

京都に生まれ、京都で育った。4人兄弟の3番目。父親は小学校の校長だった。寿司職人とは縁がなさそうな環境だが、この道に入るタネは少年の頃、すでにまかれていた。

終戦直後、当時の一般家庭では、外食は特別なことだった。子どもにとっては特にそうだろう。司郎さんもたまに一家で先斗町ぽんとちょうにある江戸前寿司の店に行くことがあった。「板前さんのかっこ良さに引かれたんです」。寿司を握る板前の「いらっしゃい!」という威勢の良いかけ声やキビキビとした動きに、すっかり魅了されたと言う。「(板前の仕事は)司郎に合うんじゃない」という母親の言葉も、強く心に残った。こうして「江戸前寿司の職人になりたい」という夢が、司郎少年の中にしっかりと根付いていった。

その頃、京都では駐留米兵が街を闊歩し、駆け寄ってくる子どもたちにチョコレートやガムを振る舞っていた。少しずつ普及し始めたテレビでは、アメリカのドラマが放映された。この時代に育った子どもたちは多かれ少なかれ、欧米への憧れを抱いたものだ。司郎さんの場合、父親が4人の子どもたちに「お前たちのひとりくらいは、外国に行って仕事をするのだろうな」と常日頃言っていたという。それも自分の夢として培われたのではと司郎さんは回想する。

ユニバーシティー・ディストリクトのファーマーズ・マーケットで買い物中の司郎さん

学べて、ご飯も出て、こんなありがたいことはない

「中学を出たら寿司店で修行したい」と父親に訴えた司郎さんだったが、高校くらいは卒業するようにと諭された。高校卒業と同時に知り合いのつてで、東京・銀座の与志乃という、江戸前では超一流として知られる店への弟子入りを果たす。与志乃の本店は京橋だが、司郎さんはまず数寄屋橋の支店で働くことになった。ドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」に登場し、アメリカでも一躍有名になった店だ。映画の主人公、小野二郎さんは当時すでに数寄屋橋店の支店長だった。司郎さんは他の従業員3、4人と住み込みで、朝早くから夜遅くまで働いた。「親父さんと一緒に市場へ行っては新鮮な魚の見分け方を学び、下ごしらえでは仕込みの仕方を学び、ご飯の炊き方から混ぜ方、包丁の使い方研ぎ方、魚のおろし方、何から何まで、全ての基本を体で覚えました」

地元で獲れたウニの下ごしらえをする司郎さんと鈴木安孝シェフ(写真左)

最初の1年半を数寄屋橋店で過ごし、その後、京橋の本店に移って5年。その修行時代の日々を、司郎さんは「毎日が楽しかった」と振り返る。「日本には四季があり、季節ごとに違った海産物が獲れます。それに合わせた仕込みが学べて、ご飯も食べさせていただいて、こんなありがたいことないじゃないですか(笑)。自分の道を自分で決められたのは、ラッキーだったと思います」

その土地で獲れた旬の魚を生で食す江戸前

寿司職人として充実した日々を送りつつも、外国へ行く夢は膨らむばかり。友人が外国に旅行すると聞けば、「日本料理店の情報が欲しい」とリクエストした。もらったレストランの箸袋にあるアドレスを手がかりに、何軒ものレストランに手紙を出すものの、ほとんどがなしのつぶてで、実を結ぶことはなかった。そんな中、シアトルとのつながりは意外にも身近なところから生まれた。貿易関係の仕事をする与志乃の常連客が、シアトルの日本料理店、田中のオーナーに司郎さんを紹介してくれたのだ。まだインターネットはなく、国際電話も高額な時代。文通で2年かけて信頼関係を築き上げた。当時の手紙は今でも司郎さんの手元にあり、2011年出版の自伝『SHIRO WIT, WISDOM & RECIPES from a SUSHI PIONEER』に、その一部が写真と共に掲載されている。司郎青年の情熱にほだされたオーナーが東京に来て、ようやく面接が叶うと、オーナー全面協力の下、渡米に向けて着々と準備が進んだ。司郎さんの真面目な人柄が気に入られたのはもちろん、銀座の名店、与志乃での経験が買われたことも大きかったようだ。

寿司かしばで提供される「刺身おまかせ」

1966年12月1日、シアトル・タコマ国際空港に到着した。その日のことを司郎さんは、「飛行機に乗ったのも生まれて初めて。何が何だかさっぱりわかりませんでしたが、この日を夢見て努力してきたので感激しました」と語り、微笑んだ。最初はオーナーの配慮で、シアトルには学生ビザで滞在することになり、コミュニティー・カレッジに通った。日本との貿易拠点となったシアトルには、日本料理店が田中以外に武士ガーデン、まねき、天勝など数軒あったという。顧客は日本人、日系人が中心だった。木材、漁業、ボーイング関係で、日本の商社からの駐在員が多く、また、日本と行き来するアメリカ人ビジネスマンも司郎さんの寿司をよく食べに来ていた。「田中には寿司カウンターがなかったので、キッチンで江戸前寿司を作って出していました」。田中に限らず、シアトルに寿司カウンターのある店は1軒もなかった。しかし、シアトルでアメリカ人の間にも少しずつ寿司は浸透していった。

ローカルのグイダックを使ったにぎりと刺身

その土地で獲れた旬のものを食べるというのが、江戸前の基本精神。「ローカルの魚介は、私が初めてお寿司にしたものがたくさんあります」。寿司ネタとしてすっかり定着しているグイダック、オーシャンスメルト、レーザークラムは、全て司郎さんがシアトルで初めて寿司刺身としてサービスしたものだ。当時は、タダ同然で入手できた。グイダックに関してはこんなエピソードがある。田中にグイダックを持参した客がおり、「これで何か作って欲しい」と言われて司郎さんが寿司にして出した。「そうしたら大喜びされて。ほかに売っているところはないですからね」。それまで地元で見向きもされなかった海産物を次々に寿司として紹介していった司郎さん。それらの多くが、今ではシアトルだけでなく全米、そして世界各地で、珍味として重宝されるようになっている。司郎さんが「パイオニア」と呼ばれるゆえんだ。一方で、そのために乱獲が進んでいる魚介もあり、少し責任を感じているとも話す。

シアトル初の寿司カウンター

田中はインターナショナル・ディストリクトの繁盛店だったが、オーナーが交通事故で他界。しばらくはオーナーの妻が引き継いで経営していたものの、結局は売りに出された。それを知った近所の店、まねきから声がかかり、司郎さんは同店で働くようになった。1970年のことだ。まねきのオーナーを説得して造ったシアトル初の寿司カウンターは、今も健在である。そこで1年働き、1972年には自分の店、日光をインターナショナル・ディストリクトに開業。間もなくして日本のバブル景気が沸騰し、シアトルには日本の商社がこぞって支店を開設したこともあり、日本からのビジネスマンが集まるようになった。まさに時代の波に乗っていた。そんな中、世界的ホテル・チェーンのウェスティンを買い取った青木建設(現・青木あすなろ建設)がその人気ぶりに目を付ける。オリジナルの日光レストランを青木建設に売却し、2年後にシアトルのウェスティン・ホテル内に青木建設が日光レストランをオープンする運びとなったが、1年後に司郎さんは退職した。シアトルに来て約20年、ほぼ休みなしに働いてきた司郎さんは、少しの間、休業することを決断する。

かつての師匠、与志乃数寄屋橋店長の小野二郎さんと2018年、東京で再会

「日本やヨーロッパを旅したり、ビジネスチャンスを模索してベトナムに行ったり、東京で友人の料理店オープンを手伝ったり。ゴルフを月に28回したことも(笑)。いろんなことをしましたよ。それまで、そういう時間はなかったですからね。日本をあまりにも知らなさ過ぎました。やはり見識を広めないと。大事なことだと思います」。有意義な2年半の骨休めを経て本職の寿司職人に戻り、1994年、新たな寿司店をベルタウンに開店。今では全米にその名を知られる、しろう寿司だ。20年後に同店をベルビューの寿司店グループ、アイ・ラブ・スシに売却。「引退!?」と世間では騒がれたが、2015年に協力者を得てパイクプレイス・マーケットに、寿司かしばをオープンした。言わずと知れたシアトルの観光のメッカで、寿司ネタの値段も土地の値段も高騰しているシアトルの一等地。決して気軽にふらりと入れる店ではない。客の半数以上が他州または外国からで、地元の人も特別な日に訪れることが多い。「おまかせがほとんどです。外国の人は魚の名前も知らず、何をオーダーしていいかもわからない。それで、おまかせという言葉が流行ったんですね。その代わり、作るほうには責任があります。楽しんでいただいて、喜んでもらって、お金を払っていただくと(笑)」

ローカルの魚介は、私が初めてお寿司にしたものがたくさんあります

日本食普及の親善大使としての役割

2011年、70歳を節目に何か思い出になるものを残してはどうかと進められ、自伝を出版。シアトルの出版社、チン・ミュージック・プレスが司郎さんにインタビューをしてまとめた。幼少の頃から現在に至るまでの司郎さん、そして料理の写真が多く掲載されている。最後のレシピコーナーには寿司飯の作り方から寿司の握り方、スメルトのさばき方まで、司郎さん直伝のコツが満載。英語だが、平易な言葉が使われているため読みやすく、カリフォルニア州の学校では教材に使われたそうだ。

現在、シアトルの和食シーンを盛り上げているシェフたちは、司郎さんの下で、あるいは共に働きながら学んだ人が少なくない。寿司割烹田むらの北村太一さん、航(わたる)の汲田航太郎さん、Wa’zの俵 裕和さん、みやびの石倉正昭さん、しろう寿司の小林 純さんなど、そうそうたる顔ぶれだ。それぞれが江戸前寿司を出す店で成功している。「弟子という気持ちはないですよ、仲間です。なんだかんだ言ったって、商売は競争ですからね。甘いもんじゃありません」と言いつつも、「せっかく何かやりたいという野望を持ってアメリカに来たのだから、彼らがその夢を実現してくれたらうれしいし、できるだけ手助けをしたい。外国人に対する日本の食文化への理解を広める1歩ともなります」と、自分の持っている知識や技術は惜しみなく披露する。

秋には松茸も調理する。もちろん地元で採れたもの

アメリカで江戸前寿司を広めることに専心してきた司郎さんだが、今では日本にも進出し、注目を浴びている。2018年、中部国際空港セントレアのボーイング787初号機を展示する博物館、フライト・オブ・ドリームズ内に寿司Shiro Kashibaを出店。「シアトルテラス」と呼ばれるシアトルを模したモールに、フランズ・チョコレート、ビーチャーズ・ハンドメイド・チーズ、パイク・ブリューイング、スターバックスなどシアトルを代表する店と共に並ぶ。同ウェブサイトでは、「シアトルで知らない人はいない『加柴司郎シェフ』が日本に凱旋」と紹介されている。

しかし、司郎さんは「シアトルにいるからこその話。私などは日本に帰ったら大勢の寿司職人のひとりに過ぎません」と、決しておごらない。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」とは、こういう人のことなのだろう。今年は日本農林水産省から、シアトルで寿司職人として長年にわたり活躍してきたとして「日本食普及の親善大使」に任命された。「名誉なことで、何をしようか迷っているところです。今やれることは、外国でおいしいお寿司を作ってサービスすること。それがいちばん大事なんじゃないかと。そう思っています」。そんな司郎さんに「引退は?」と問うと、「考えていません。生涯現役ですよ」と言って、にっこり笑った。

加柴司郎◾️1941年京都生まれ。1959年、江戸前寿司店、与志乃で弟子入り。1966年にシアトルへ渡り、寿司職人として日本食レストラン、田中に勤務。1970年、まねきに移り、1972年に独立して日光を開店する。1987年日光を売却。1994年にしろう寿司を開き、2014年に一時引退。2015年、寿司かしばをオープンし現在に至る。2018年には、中部国際空港内「シアトルテラス」にて寿司Shiro Kashiba出店。著書に『SHIRO WIT, WITHDOM & RECIPES from a SUSHI PIONEER』(Chin Music Press)がある。

INTERVIEW: デザイナー 筒井美恵子さん

ゴールがない。だから、好奇心が永遠に消えない。
もっと経験を積んで、いろんなことにぶち当たって、そこからまた学んでいけたらと思う

 

デザイナーハウスなどハイエンドの住宅を専門に手がけるシアトルの建築会社でデザイナーとして活躍する筒井美恵子さんに、仕事内容と、ここに至るまでの道のり、今後の目標について聞きました。

取材・文:取材・文:越宮照代

日本ではエステ、IT業界を経験

「日本で働いていた頃は、アメリカでデザイナーとして仕事をするようになるなんて、夢にも思っていませんでした」と語るのは、今年3月からイクマン・コンストラクションでアソシエイト・デザイナーとして働く美恵子さん。その経歴がちょっと面白い。

福岡県の高校を卒業後、地元の東洋医学のエステ専門学校でスキンケア、栄養学などを学んだあと、エステカウンセラーとして東京・青山で数年働いていた。「美容に関心があるという安易な理由でエステ業界に進んだように思います」。仕事の合間にと、趣味でCGデザインやプログラミングを始めた美恵子さんは、どんどんコンピューターに夢中になっていく。顧客のスケジューリングなどにも生かしていたが、やがて本業にしたい気持ちが強くなり、20代半ばにして心機一転、IT企業に転職する。「ここでは、ポスターやカタログのデザイン、展示会の空間デザイン、プレゼン資料の作成などを行っていました。外資系企業の顧客に英語で対応しなければならず、専門知識、交渉能力、英語力まで必要とされました」。数年間、必死で頑張ったが英語の壁は大きく、将来この業界で仕事をするうえで不安を感じ、留学を決意した。2002年のことだ。

「本当はニューヨークに行きたかったのですが、少し前に9.11テロがあったばかり。シアトルにいた友だちの勧めもあって、シアトル・セントラル・カレッジに行くことにしました」。ビジネスを専攻し、ワシントン大学編入も果たす。しかし、デザインへの思いは、筒井さんの心に引っかかったままだった。「ビジネスではなく、情熱を感じているデザインを追求しなくて良いのか、真剣に考えました」。デザインをいかにして職業に結び付けるかを考えながら、悶々とする日々を送った。

「思えば、子どもの頃から風景や家具を描くことが好きで、空間設計のようなものを遊びでやっていました」。それなのに、職業としてインテリア・デザインという選択肢が浮かんでくるまでには時間がかかった。「ワシントン大学に通う中で、インテリア・デザインという専攻があることを初めて知ったんです」。デザイン+ビジネス=インテリア・デザインという答えに、ようやくたどり着いた瞬間だった。

 

シアトルでインテリア、建築のデザインの道へ

将来の目標が見えてきた美恵子さんは、1年後にベルビュー・カレッジのインテリア・デザイン課4年コースに編入した。「その時点ではまだ、インテリア・デザインについての考え方はとても幼かったですね。色がきれいだとか、その程度で」と苦笑する。学校でいざ勉強を始めると、講師の多くが建築畑の出身ということで、建築家の視点からのデザインを学ぶことが多く、自然と建築への興味が湧いてきた。「インテリア・デザイナーは内装設計をし、建築家は外装設計をするというのが大きな違いです。自分の設計を基に1/4のモデルを実際に作る授業では、外壁や内壁の構造、角度による違いを目の当たりにでき、興味深いものがありました」

「建築家としての経験から設計上の問題点をいち早く指摘できるので、それは重宝してもらっているかなと思います」

2014年に卒業し、就職したのはシアトルにある建築会社、デザイン・コレクティブ。国内外の劇場、商業施設、一般住宅など幅広いジャンルの建築デザインを手がける。「私の母胎と言ってもいい会社。入社当時はマーケティング分野のグラフィック・デザインを担当していました」。ベルビューにある映画館の商業設計書類、インテリア・デザインにもチームの一員としてかかわり、グラフィック・デザインも担当した。「本当にいろいろなことを学びました」。一生働きたいと思ったほど気に入っていた会社だが、自分の成長のためには今違う分野を経験しておかないと一生その機会はないかもしれないと考え、4年勤めた後、社長の理解を得て転職した。「社長のジェームズ(ブリセット氏)とは今でも仲良くしてもらっています」。人とのつながりを大切にする美恵子さんの一面が見える。

デザイン・コレクティブが建築設計をしたベルビューの映画館。
美恵子さんはインテリア・デザインをサポートし、グラフィック・デザインも担当した
写真提供:The Design Collective

次に入った会社では6カ月の契約で、建築ドラフターとインテリア・デザインを担当。インテリア・デザインの高いスキルを求められたが、経験の浅かった美恵子さんは自分の仕事に完全には満足できていなかったと打ち明ける。「建築に関することには自信があった分、インテリア・デザインの仕事については心残りがありました」。もっといろいろな経験を積みたいと思っていた美恵子さんは、かかわったプロジェクトが完了した時点で、次に契約の決まっていたサンドラー・アーキテクツへ移り、住宅設計書類、カスタム家具の詳細図、インテリアの設計書類を手がけることに。筒井さんを入れて4人という少数精鋭の会社だった。密接に学べるという利点はあるが、保険など福利厚生は整っていない。「悩みどころでした。これから猫2匹を養っていかないといけないし……(笑)」。思案していた時、業界での経験豊富なイクマン・コンストラクションが「経験を持つアソシエイト・デザイナー」という条件で募集をかけていると知り、応募。無事採用された。

イクマン・コンストラクションの同僚たちと。左端がステーシー・イクマン社長

 

デザイナーとして認められ、
指名で仕事の依頼が来るようになるのが夢

 

全米で通用する資格取得が目標

イクマン・コンストラクションは高級住宅の新築、改築を専門とする建築会社。顧客とのコンサルテーションから設計、完成までを一貫して請け負う。現在、約10件のプロジェクトが進行中で、筒井さんはほぼ全てにかかわっている。自分の知識と技術で、どれだけ顧客の要望に添ったデザインが提供できるか、というところにやりがいを感じるそうだ。「顧客に直接会って話を聞けるのがメリット。ここでは学ぶことがたくさんあります。自分の時間を削ってでも勉強していかないと」。シアトルはエココンシャスの街と言われ、環境に配慮した公共建築物や商業施設が見られるが、一般住宅はまだまだだと言う。「その点では日本のほうが進んでいるかもしれません。ソーラーパネルや雨水の再利用などは、すごくいいアイデア。提供できるサービスの種類は多ければ多いほど良いので、これからの課題かな」

イクマン・コンストラクションではノース・シアトルにあるカフェのデザインも手がけた。「今後、この経験を生かして、商業施設の仕事も増やしていきたいですね」
写真提供: Eakman Construction

シアトルの建築、インテリア・デザイン業界で働き始めて5年が経つ。さまざまなプロジェクトに携わってきた美恵子さんは、「今では、デザインが一生の仕事だということは、はっきりしています」と断言する。現在は学生時代からの目標でもあるインテリア・デザインの資格、NCIDQ(National Council for Interior Design Qualification)取得に向けて勉強中だ。「この資格を取ると、建築家に近い権限が得られて仕事の幅が広がるんです」。ワシントン州ではまだだが、他州では商業施設の場合、NCIDQ取得者の承認があれば建築認可が下りるところもあると言う。「目標をひとつずつクリアしていきたい。デザイナーとして認められ、指名で仕事の依頼が来るようになるのが夢ですね」

ミッドセンチュリー・スタイルに改装したカークランドのB邸は、美恵子さんが中心で進めているプロジェクト
イメージ提供: Eakman Construction

建築、インテリア・デザインの世界を知れば知るほど、奥が深いことに気が付いたと話す美恵子さん。「ゴールがない。だから、好奇心が永遠に消えない。もっと経験を積んで、いろんなことにぶち当たって、そこからまた学んでいけたらと思う。将来的に、それを若い人とシェアできる時が来たらいいですね」

 
イクマン・コンストラクション

イクマン・コンストラクションは、主にハイエンド住宅の新築、改築を行っている。美恵子さんはクライアントとのミーティングを始め、その要望に添って設計図(平面図、断面図、3D)、建築許可申請書類の作成をし、配管、照明、床、壁、ドア、ドアノブなどを選び、見積もりを出す。「こうした多岐にわたる作業はひとりでできるものではなく、先輩デザイナーの蛭沼亜矢さんを始めとするチームの仲間、外部の業者の技術と協力を得て初めて実現します」と、美恵子さん。1つのプロジェクトには実に多くの人々がかかわっている。

Eakman Construction
9226 Roosevelt Way NE., Seattle, WA 98115
☎︎206-972-2275 www.eakmanconstruction.com

筒井美恵子デザイナー。大分県出身。ベルビュー・カレッジのインテリア・デザイン課を2014年に卒業後、ジュニア建築家、インテリア・デザイナー、スタッフ建築家としてシアトルで経験を積む。2019年3月、アソシエイト・デザイナーとしてイクマン・コンストラクションに入社。現在も建築、インテリア・デザイン分野で幅広く活躍中。家では2匹の猫と暮らす。

新施設完成!シアトル・ヒューメイン

昨年12月に、ワシントン州で最大のアニマル・シェルター(動物保護施設)、シアトル・ヒューメインが新築オープン。築約60年の老朽化した建物を解体し、最新設備を整えたモダンなアニマル・シェルターとして生まれ変わりました。新施設をいち早く見ようと訪れた日本人グループの見学ツアーに同行しました。

取材・文:越宮照代

想像を超える最新設備が整う

見学ツアー参加者に、クリニックの設備を紹介するスコットさん

新施設見学ツアーに参加したのは、日本人愛犬家グループ、ワン友会のメンバーを中心にその他の犬好き数人を交えた28人。企画したのは、ワン友会のメンバーでシアトル・ヒューメインのボランティアでもあるスワンバーグ恵子さんだ。同施設のプランドギビング(特定寄付信託)ディレクター、スコット・フレージャーさんがツアーを構成した。

猫コンドや個室など特製ケージの中で過ごす、飼い主募集中の猫

まず、スコットさんが、シアトル・ヒューメインの歴史と活動内容について説明。3,000人ものボランティアが登録し、動物の世話や各種イベントに協力していると聞いて、一同驚く。さらに、アダプション担当のジュリー・コーティノさんが、ここに来る動物の40%は飼い主がなんらかの理由で連れて来たもので、あとは他のアニマル・シェルターから引き取ったものであること、他のアニマル・シェルターでは安楽死させられるようなケースでも、ここではリハビリテーション・プログラムを用いて、新しい飼い主が引き取り可能になるまでトレーニングすることなどを紹介。同施設では、犬を引き取ると、避妊手術と予防注射の完了、最初の医療費の割引、無料ドッグ・トレーニングなどさまざまな特典があるという。

見学ツアーでは普段は一般公開していないところも見られるとあって、みんな興奮気味だ。見学したのは、飼い主募集中の犬・猫セクション、リハビリ中の猫の部屋、洗濯室、犬の運動場、ペット用品店など。特殊なプラスチック使用の透明ケージには防音効果があり、見通しは良いが外の音は聞こえにくい造りで、犬と猫にとってストレスが少ない。特に犬舎に至っては、他の犬の姿が見えるとストレス度が高くなるため、お互いの姿が見えない構造になっている。猫コンドと呼びたくなる大きな部屋には、複数の猫が収容されており、人が立ったまま入ることができる。驚かされたのが、最新設備を導入した開放的で広々としたクリニック。レントゲン室から手術室までそろい、人間の病院かと見まごうばかりだ。

訪れた人が、それぞれの犬、猫の本来の姿に触れることができ、家族に迎え入れたいと思えるようにと、隅々にまで配慮された施設だと感心させられた。

シアトル・ヒューメイン┃Seattle Humane
13212 SE. Eastgate Way, Bellevue, WA 98005
www.seattlehumane.org

アダプション・センター 
☎425-649-7563
開館時間:日~水11am~6pm/木~土11am~8pm

 
 
これまでに見たこともない明るく開放的な施設に、「暗い」「かわいそう」といった、アニマル・シェルターに対する従来のイメージが払しょくされたという、見学ツアー参加者の声が多く聞かれた。
 
ツアー参加者とガイドのみなさん

ナオミさん(ワン友会の会長)

ブラックラブ1匹を飼い、グレイハウンドのレスキュー犬を預かっています。クリニックの設備といい、建物が素晴らしいですね。日本でもペットのグループに参加していますが、日本ではペットショップで動物を買う人が圧倒的に多く、パピーミル(繁殖優先の悪徳ブリーダーの通称)への意識もそれほど高くない。アメリカのこうした取り組みが日本にも広がると良いと思いました。

栄里子さん

古い施設も知っているので、新しい施設はうれしいサプライズ。空気がきれいで動物臭はなく、犬の鳴き声もしない。多くの人に来て欲しいし、自分もまた来たいと感じました。

ブライアンさん

清潔で、モダンで、スタッフはとても親切。ハッピーな場所だと友だちにも教えたいです。

りかこさん

自宅では犬2匹、猫2匹、オカメインコ2羽を飼っています。ここでは98%の動物が安楽死させられていないと聞き、感心しました。最新設備が充実するクリニックは感動ものです。

光さん

日本の大学の獣医学部に在籍し、現在はハイライン・カレッジに留学中です。何もかもが大きくて、特にクリニックの規模には驚きました。手術室や診療室がガラス張りでオープンになっていて、しかも何室もあるのにはびっくりです。

珠恵さん

これまでシェルターは暗くて臭いというイメージを持っていて……。でも、ここに入った第一印象は、「ホテルみたい」でした。また来たいし、ボランティアをしたいとも思いました。日本とはボランティアに対する感覚が違うので、ここでいろいろ学びたいです。

次ページ、シアトル・ヒューメインで犬、猫の命を守るスタッフたちのお話し

タブロー・ソフトウエア 鷹松弘章さん

世界的IT企業、マイクロソフト社で主幹マネジャーという重要な役職に就いていた鷹松弘章さん。1年前、20年近く勤務した同社を退職して、シアトル発祥のスタートアップ企業、タブロー・ソフトウエア(Tableau Software)に転職しました。「これからのライフワークを見つけたから」という鷹松さんに現在の心境、そして、さまざまな社外活動について話を聞きました。

取材・文:越宮照代

スポーツ少年からITエンジニアへ

少年時代の鷹松さんはスポーツ好きで、野球、サッカー、バレーボール、スキーと、スポーツに明け暮れる、のびのびとした健康的な日々を送った。同時に、鷹松さんの将来を構築する基礎となったコンピューターとの出合いも当時すでに生まれていた。「小学3年の頃、友人の家で見たコンピューターに魅せられ、父親が会社から持ち帰ったお古のアップル・コンピューターを相手に、雑誌を読みながら独学でプログラミングを覚えました。“スポーツのできるおたく”を目指していたんです(笑)」

高校に進学すると、2歳から始めた競技スキーの腕を見込まれ、競技スキー部に所属した。トレーニングのため、夏はオレゴンのマウント・フッドやニュージーランドに海外遠征、冬は国内のスキー場に行ってスキー三昧の日々。学校の出席日数が1年に40日にも満たず、「頼むから期末試験だけでも受けて」と担任から言われるほどだったが、それでも情報処理のクラスだけは成績が良かったという。大学受験はスキー推薦を考えていたところで高校3年の1月、関東大会出場中に転倒して右足靭帯を損傷し、最後のインターハイは棄権。スキーでの将来の道が閉ざされた。卒業目前という土壇場に来て鷹松さんは気持ちを切り替え、「国連の弁務官になりたい」という、もうひとつの夢に向かって留学を決意。卒業式の数日後にはカナダに向かう飛行機に乗っていた。

「大学入学時の英語力テストでは100点満点の3点でした。自分では勉強していたつもりですが、実際には英語が全く分からずに留学したんです」。鷹松さんはそう言って笑う。最初の夏休みを迎えて学校の寮を追い出され、カナダを旅行したが、土地勘もないのでモーテルにこもって1日中テレビをつけっ放しにして過ごした。「それが良かったんでしょうね。学校に戻ると英語がわかるようになっていました」

元来しゃべるのが好きな鷹松さんは、積極的にボランティア活動をするなどして英語社会に溶け込んでいき、どんどん語学力を身に付けていった。大学ではビジネス・マネジメントを専攻し、勉強漬けの毎日。コンピューターのクラスを取った際、すでに鷹松さんが基礎を習得していたことから、教師に請われて助手になり、結果としてコンピューターのスキルに磨きがかかることになった。

就職活動では、英語もコンピューターもできる鷹松さんは、いわば金の卵、即戦力になるとして引っ張りだこに。日本は就職氷河期に突入したばかりの時代だったが、後に入社するマイクロソフト株式会社(現・日本マイクロソフト)を含め、いくつものコンピューター関係の会社から内定通知が来る。「では、その方向に行くか」と決め、鷹松さんはロータス株式会社を選んだ。「人事の女性がすごくきれいだったんで す(笑)」

大学は、学部トップの成績で卒業。卒業式では「在学中に最も成績が伸びた学生」に選ばれ、卒業生総代で挨拶をした。「入学時、3点でしたからね」と鷹松さんは愉快そうに言う。日本ではロータスに4年在籍し、その後、日本マイクロソフトに転職した。しかし、自然たっぷりのカナダで学生時代を過ごした鷹松さんにとって、満員電車に揺られて通勤する日本の会社員生活は窮屈なものでしかない。数年後、ワシントン州レドモンドのマイクロソフト本社に転職した。1996 年に結婚した妻との間に誕生した娘は、この時1歳だった。

アメリカで訪れた人生の転機

フリーモントにある2017年 3月に完成したばかりの近代的なタブロー・ソフトウエアの本社。実際に会うと、鷹松さんはとても気さくなジェントルマンという印象

「子育てをきちんとする」と決めていた鷹松さんは、マイクロソフト本社に入社した最初の数年は、昼間仕事に行き、夕方は子どもの食事の時間に合わせて家に帰るという生活を続けた。まさに「イクメン」の先駆け。しかも、世界最大のIT企業であるマイクロソフト本社には世界から優秀な人材が集まり、競争も激しい中で生き残るのは並大抵のことではなく、大量解雇もしばしば行われる。「最初の3年くらいは昇進もしませんでした」。そうした厳しい環境の中で、鷹松さんは社内でさまざまな職を経験。2008年からはシニア・マネジャーに、そして 2012年には、上には経営陣のみの主幹マネジャーという重要なポジションに就いた。4,500万ドル(約5億円)もの予算、40人近くの部下を管理し、同時にウィンドウズのネットワーク・デバイス部で技術アップデートとセキュリティ更新プログラムを取り扱う仕事もした。ミスをしたら世界中のウィンドウズ利用者に影響がおよぶという大変なプレッシャーの中で、仕事に打ち込んだ。「日本の企業ではできないような、幅の広い経験をさせてもらいました。やっているときは一生懸命で、特にプレッシャーや厳しさは意識していませんでしたね」

心理的な転機が訪れたのは4年前。離婚がきっかけだった。ちょうどその頃、会社で大規模なレイオフが行われ、マネジャーとしてチーム・メンバーに解雇を言い渡さなければならなくなり、自分も厳しい状況に置かれる中、「これからの人生において自分の責任とは何か」と考え始めるようになっ た。「人生で学んできたものを次の世代に伝えたい」。それが鷹松さんの出した答えだった。

どのようにしてそれを行うか、方法への展望が見えてきた 2016年10月、転職活動を開始した。鷹松さんのキャリアを考慮すると当然のことと思えるが、転職活動を始めるとすぐに、アマゾンや日本の大きなIT企業など、いくつかの会社から声がかかったそうだ。しかし、その中から鷹松さんが選んだのは大企業ではなく、2012年に株式公開したばかりの若い会社、タブロー・ソフトウエア。「この会社を選んだのは、社会貢献に対する同社の姿勢です。設立と同時にタブロー・ファンデーションというNPO(非営利団体)を創っています」 NPOでは、データを可視化できる同社のソフトウエアを用いて社会貢献をする。最初に取り組んだのは、ザンビアのマラリアを2021年までに根絶するという目標。「2012年の時点で、ザンビアの子どもたちはマラリア感染で1分に1 人のペースで死亡していました。死亡者根絶を目標に掲げ、PATHというシアトルの別の医療系NPOと協力し、わずか2 年後の2014年には死亡者をゼロにしたんです」。データを可視化する技術によって、マラリアの発生地の傾向が視覚的にとらえられたことで成功に結びついた。

「マイクロソフトもそうですが、自社製品の性能を宣伝しながら、同時に社会貢献もする企業のこうした取り組みは、アメリカではよく見られます。こうした瞬間にアメリカ人って天才だな、と思うんですよ」。社会貢献が自社の利益にもつながるという、一石二鳥の合理的な発想を日本に伝えたいと考える鷹松さんにとって、こうした企業姿勢は魅力的だった。しかも同社には社員にボランティア活動や社外活動を自由にやらせてくれる文化があり、会社そのものがお手本になって実践してくれる。そこに引かれて入社を決意したのだ。

2016年には再婚した。相手は19歳の時にカナダで知り合い、告白して振られた相手。フェイスブックを通じて数年前に再会していたそうだ。彼女にも子どもがいて離婚しており、しかも重度のリューマチを患っていて車椅子生活だった。「マイクロソフトで走り続けてきた自分を振り返り、後世に残すとは何か、本当の幸せとは何かとか、いろんなことを考えて決断しました」

アメリカで学んだ徳の循環

2016年には、東京大学経済学部でグローバル・マネジメントをテー マに講義を行った

「アメリカで学んだのは、次の世代や周囲の人に、お金や優しさという、徳の循環を振りまくこと。そうした話や経験談を、日本の人たちや周りの人たちに伝えたい。それがライフワークです」。お金のない日本人留学生を自宅に呼んで、手料理をご馳走するのも徳の循環を振りまくためだ。

学生時代から始まって、ボランティア活動は数え切れないほどしている。シアトル日本語補習学校のPTAもそのひとつで、非営利団体にしたのも鷹松さんのアイデア。そのおかげで、企業からの寄付を受け取れるようになった。コーチとして発足したサッカー部は「当初は15人だったのに今では120人以上にもなっている」と、うれしそうに話す。スポーツ少年だった鷹松さんならではだ。ひとり娘が所属したPNB(パシフィック・ノースウエスト・バレエ)でも、ボランティアを約10年続けた。「どれもこれも、特にボランティアをしようという気負った意識ではなくて、やりたいことを好きでやっているという気持ちですね」。鷹松さんの言う「徳の循環」のひとつなのだろう。

シアトル周辺にはマイクロソフトを筆頭にIT関連の企業が多いが、それに従事する日本人も多い。そこで日本人IT従事者が集まって活動をしようと、2010年にはSIJP(シアトルITジャパニーズ・プロフェッショナルズ)が発足。子ども対象のコンピューター講座を開いたり、学生のキャリア・イベントを行ったりしている。ITとシアトルが好きなら誰でも入会可能だ。鷹松さんは発足当初からのサポーターで、ボードメンバーを2年務めた後、2017年初めから4月まで会長職に就いた。「現会長で発起人の今崎憲児さんは、純粋な気持ちで子どもたちにプログラミングを教えてあげたい、学生たちと一緒に活動したいと頑張っています」。鷹松さんは今後も活動をサポートしていきたいと考えている。日本では、ITというとシリコンバレーと考える人が多いが、「今ではポートランド、シアトル周辺のほうがIT従事者は多いんです」と、鷹松さん。つまり、シアトルは世界最先端のIT情報と人脈に密着した場所なのだ。「この有利な条件を体験しつつ、日本にも恩返ししたいので、今はシアトル、西海岸のベースを変えるつもりはないですね」

シアトルは鷹松さんの大好きなスポーツや野外アクティビティーの場としても恵まれた環境。「スキーにしても、コンピューターにしても、私の好きなものって全部シアトルにあるんですよ」。2007年にはひとり旅でモンタナ州とアイダホ州へ。写真のブラウン・トラウトは約15分の格闘の末、釣り上げた

 

鷹松弘章(たかまつひろあき)■埼玉県出身。ソフトウエア開発・IT関連企業で25年近く勤務。マイクロソフト本社ウィンドウズ・チームの主幹マネジャーとして開発およびマネジメントに取り組 む傍ら、採用、給与、等級の決定からレイオフまで携わる。在籍中、イノベーションや特許アイデアの功績でGold Star Award を4回、社長賞を3回、計7回の受賞経験。2017年1月、タブロー・ソフトウエアに入社し、現在はエンジニアリング・マネジャーとして働く。東証一部のスターティア株式会社で社外顧問を務め、講演会やビジネス・コーチング、大学や企業のアドバイザーなどの社外活動も行う。2017年4月までNPO団体SIJP(Seattle IT Japanese Professionals)のディレクター・会長を務める。フェイスブック→fb.me/TakamatsuOfficial

 

SIJP:Seattle IT Japanese Professionals ┃シアトルITジャパニーズ・プロフェッショナルズ
シアトルを基盤とする非営利団体(NPO)。シアトル周辺のIT関連企業、マイクロソフト、アマゾン、グーグル、任天堂アメリカなどで働く日本人のITプロフェッショナルたちが集まり、専門技術・知識を通してコミュニティーに貢献することを目的に活動。子ども、学生、大人向けに、面白くてためになるイベントを定期的に開催している。ITに興味があれば基本的に誰でも参加可。シアトル近郊の日本人大学生で構成されるSIJP学生部もあり。 ウェブサイト
 
SIJP子ども向けイベント情報
「IT教育プラットフォーム Seesaw」
日時:1月14日(日)4:30pm~6pm
場所:Redmond Library Room 1 15990 NE. 85th St., Redmond, WA 98052
レドモンド図書館で2部構成の無料コンピューターサイエンスワークショップ(英語)を開催。1部ではコンピューターテクノロジーが子どもたちの将来の仕事をどう変えていくかを考える。2部ではコンピューターサイエンスの基礎である2進法について「魔法の手袋」を使って学ぶ。タブレットかコンピューターを持参(貸し出し可)。8歳以上対象。
 
 

ハリー・ポッター大図鑑を翻訳した 宮川未葉さん

特撮を駆使した魔法の世界で観客を魅了してきた映画「ハリー・ポッター・シリーズ」。いかにしてヴォルデモート卿の顔が作られたかといった特撮の裏話や苦労話などを交え、舞台裏を写真や図入りで紹介する贅沢な大図鑑がシリーズで出版された。日本語版を翻訳したシアトル在住の宮川未葉さんに話を聞いた。

取材・文・写真:越宮照代

魔法の世界を映画にするための試行錯誤のプロセス

実はファンタジーってあまり好きではなかったので、ハリー・ポッターの本も映画も見たことがなかったんです。訳すにあたっては、表現を一致させる必要がありますから映画を観て本も読みました。特に翻訳と関係するところは英語版と日本語版の両方を見ています。

ハリー・ポッターは魔法の世界の話なので、登場するのは実在しないものばかりなんですね。訳していて、本から映画の世界に生命を吹き込むために大変な数のスタッフが試行錯誤して、いろいろなアイディアを出しながら実現したのがよくわかって感動しました。面白かったのがヴォルデモート卿の鼻です。鼻がえぐれたようになってるんですが、それを作るのに顔全体にマスクをつけて鼻をえぐると顔の表情がわからなくなる。そこで普通の鼻のまま撮影して、後からコンピューターグラフィックを使って映像を1コマ1コマ加工しているんです。それにはびっくりしました。ドローレス・アンブリッジのピンクの色の服も、同じピンクなのに登場するたびに変えているんです。衣装でもストーリーを作っていくのがすごい。アンブリッジは好きなキャラクターですね。強い女性が好きなんです(笑)。

1冊訳すのに平均1カ月半かかりました。本を訳している時にはそれにかかりっきりで、他の翻訳はできません。家事とか料理とか、すべてを捨ててやっています(笑)。

ハリー・ポッター大図鑑各巻の特徴

各巻の特徴は、1巻が魔法生物、2巻が魔法界名所大図鑑で、主にセットなどについての解説。3巻の魔法族大図鑑は登場人物それぞれの衣装、役作り、セリフについての解説です。4巻の魔法グッズ大図鑑は小道具の紹介。全巻を通してのセールスポイントは、豪華な写真とイラスト、普段見られないコンセプトアートなどがふんだんに使用されていて、映画作りの裏側を垣間見ることができるところです。

大図鑑はこの4巻ですが、秋にはハリー・ポッター映画の新シリーズ『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』の関連本の翻訳も4冊出ました。写真がふんだんで、仕掛けや付録が付いているものもあり、魔法界を楽しく体験できます。

▲左から「魔法界名所大図鑑」、「魔法生物大図鑑」、「魔法グッズ大図鑑」、「魔法族大図鑑」、「魔法使いと魅惑の名舞台」

 

翻訳は天職だと思う

翻訳を始めたのは13年前。その前は「ソイソース」の編集長をしていたのですが、3人目の子どもを妊娠して、3人育てながらフルタイムで働くのは大変だなと思って退職し、家でできる翻訳を始めました。ずっと前から翻訳をしたいと考えていたので、全米翻訳者協会の認定をとっていたんです。認定を持っている人限定で翻訳者を探していることが多いので役に立ちました。翻訳を始めてみて、「自分に向いている。天職だ!」って思いました。楽しく出来て、褒められるからいいなあって(笑)。

ハリー・ポッター大図鑑を翻訳することになったのは、数年前にかつての上司に連絡を取って会ったのがきっかけです。現在は編集関係の会社を経営されているんですが、その時に私が「本の翻訳をやってみたい」と言ったのをその方が覚えていてくださって、その後ハリー・ポッターの翻訳の話が来た時に声をかけてもらったんです。他にも候補者が何人かいたので一応テスト翻訳をしたうえで選ばれました。

実務翻訳と文芸翻訳の違い

普段やっている翻訳は実務翻訳と呼ばれるもので、企業のマニュアルとか、ビジネス関連の書類とかで一般の人の目には付かないものですが、そちらの方がずっとお金になります。ハリー・ポッターのような文芸翻訳は表現を工夫しないといけない。そこで時間がかかります。意味がわからないものもあるし、類語辞典を使ったり、インターネット上のデータベースの辞典なども活用します。ハリー・ポッターは普段の翻訳以上に意訳を大胆にしました。日本の実情に合わないところは割愛したり……。そういう時は、一応注をつけて出版社の方に見てもらいます。

どんな翻訳も基本は「正しく訳す」ですが、文芸はそれプラス文学として出版物として耐えうる文章をさらに練っていくところが難しい。実務翻訳の時は訳した後の見直しは2回です。まず英文と見比べながら、抜けがないかをチェックし、2回目は主に日本語の方だけを見て文章をチェックする。でもハリー・ポッターの場合は4回チェックします。1、2回目は実務翻訳と同じ。3回目は文章の流れに気をつけながら日本語だけを声に出して読みながら見直します。声に出すとミスに気が付きやすくなります。4回目は日本語の文章として少しでもおかしいところがないかチェックしてより磨きをかけます。

文芸翻訳は苦労も多いですが、やりがいがありますし、訳していても楽しい。出来上がると名前が出て親戚にも見せられます(笑)。今後も両方をバランスをとって続けていきたいと思います。

宮川未葉(みやがわ みよう)
■シアトル在住の英日翻訳家。『ハリー・ポッター魔法生物大図鑑』をはじめとするハリー・ポッター大図鑑シリーズのほか、最近の訳書に、『魔法使いと魅惑の名舞台(J.K.ローリングの魔法界 ムービー・マジック第1巻)』、『映画「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」オフィシャルガイド』などがある。横浜出身。1992年渡米。

シアトル初の猫カフェ Meowtropolitanへ行ってきました!

室内では10匹近くの猫が部屋の中を自由に動き回っていて、猫耳のスタッフのお姉さんが、質問に答えてくれます。室内では10匹近くの猫が部屋の中を自由に動き回っていて、猫耳のスタッフのお姉さんが、質問に答えてくれます。

 

遊ばれ疲れて、高いところで寝ている猫もいます。遊ばれ疲れて、高いところで寝ている猫もいます。

ちょっと臆病なニャンコが、バックルームからこちらをうかがっているところ。ちょっと臆病なニャンコが、バックルームからこちらをうかがっているところ。

ここにいるのは、みんな新しいファミリーに受け入れ可能な猫たちばかり。猫を飼いたい方は、ぜひお出かけくださいね。 https://seattlemeowtropolitan.com/

ここにいるのは、みんな新しいファミリーに受け入れ可能な猫たちばかり。猫を飼いたい方は、ぜひお出かけくださいね。

●ウェブサイト:https://seattlemeowtropolitan.com/