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Author: Tomozo

シアトル生活7 年めの英日翻訳者。 livinginnw.blogspot.com 協力:シアトル建築財団(Seattle Architecture Foundation/SAF) シアトルの建築やデザインと人びとを結ぶことを目的に活動する非営利団体SAFは、シアトルの建てものを巡る楽しいツアーを常時開催中(英語のみ)。本コラムはツアーで紹介されるエピソードを中心に、SAFのエキスパートの協力を得ています。詳細はseattlearchitecture.orgへ。

メーシーズ (旧ボン・マルシェ)

メーシーズ (旧ボン・マルシェ)
300 Pine St., Seattle

3rd Ave.側の角には今も「The Bon Marche」の文字が残る
 

シアトル・ダウンタウンにあるメーシーズは、もとはボン・ マルシェというシアトルの老舗百貨店だった。創業は1890年。ドイツからの移民、エドワード・ノードフ氏が、パリで働いていた時に名高いボン・マルシェ百貨店の品ぞろえとサービスに感銘を受け、いつか自分も同じような店を開こうと大志を抱いたのが始まり。ノードフ氏は渡米後、シカゴで働いて資金を貯め、年若い妻と幼い子どもと共に、シアトル大火の翌年、全力を挙げて再建中だったこの町に移住して、小さな乾物店を開いた。早朝から遅くまでよく働いた甲斐あって夫妻の店は繁盛し、数年後には2nd Ave.に念願の百貨店を開くまでになったのだという。

アールデコの意匠が顕著な4th Ave.側の入り口

その後、現在の場所に移転し、何度か大手資本に買収されたが、20世紀を通してボン・マルシェの名は残り、米国北西部一帯で40店舗ほどを擁するブランドとなって、シアトル市民には「ボン」の愛称で何世代にもわたって愛された。2005年、ついに全米に展開するブランド、メーシーズに統合された後も、ボンの本店だったこのダウンタウン店の入り口の上には「ザ・ボン・マルシェ」の名が残され、今に至っている。

2nd Ave.にあった最初のボン・マルシェ 写真提供:www.pdxhistory.com

このビルの完成は1928年で、当然ながら当時大流行したアールデコ様式が取り入れられている。設計は、エクスチェンジ・ビルも手掛けたシアトルの著名建築家、ジョン・グラハム。もとは4階建てで、後に3階分が上に追加された。現在は少々くすんだ印象ではあるが、よく見ると細部に優雅な意匠がほどこされている。まず目に付くのは、周りにぐるりとめぐらされた金属製のキャノピーの装飾。写実的なヒラメやタツノオトシゴなどの海の生物と植物を組み合わせたデザインは、「マルシェ(市場)」の活気を表現しているのだろう。店内にも1920年代の思想を感じさせる装飾がいくつも残っている。

4階建てだった頃のボン・マルシェ 写真提供:www.pdxhistory.com

ビルの上層6階分にアマゾンのオフィスが入居する予定で、現在改装工事が進行中。そのため窓に板張りがされており、どこか物悲しいが、今夏にはオフィスが完成してアマゾニアンたちがここで働き始めるそうだ。飛ぶ鳥を落とす勢いの巨大Eコマース企業が老舗百貨店の上階に入居するというのも皮肉なめぐり合わせではあるが、誕生から90年を迎えるこのビルに新しいエネルギーが吹き込まれて、この一画にジャズ・エイジの華やかさがよみがえるのかもしれない。

ヒラメとタツノオトシゴが並ぶ庇の飾り

参考資料:www.historylink.org

[たてもの物語]

 

バナナ・リパブリック(旧コロシアム・シアター)

バナナ・リパブリック(旧コロシアム・シアター)
500 Pike St., Seattle

 

シアトルのダウンタウン中心部、Pike St.と5th Ave.の角にある優雅な建物は現在、ファッション・ブランド「バナナ・リパブリック」の旗艦店となっている。外壁は白いテラコッタで覆われ、ルネッサンス・リバイバル様式の華麗な装飾と、十字路に面してカーブを描くドラマチックなエントランスが 印象的だ。

▲ コロシアム・シアター開館初日の様子(1916年1月) CharmaineZoe at Cinema Treasures

もとは「コロシアム・シアター」という映画館で、完成は 1916年。開館当時のうたい文句は、「世界最大で世界一優雅な活動写真の殿堂」。映画産業が本格的に花開き、各地に豪華 な「パレス(宮殿)」と呼ばれる劇場が続々と造られた時代だった。この劇場も(世界一ではなかったにしても)西海岸で最大規模、内装も豪華絢爛だ。紳士用の喫煙室、広々した淑女用の化粧室、子どもたちのためのプレイルームも備え、ロビーの大きな鳥かごにはたくさん鳥が飼われていたという。

▲1970年頃のシアター Texus2step at Cinema Treasures

当時の映画はサイレント。コロシアム・シアターには8人編成(全員ロシア人)の専属オーケストラがおり、立派なパイプオルガンがあった。定員は2,461名という大劇場で、初日には長蛇の列ができ、ハリウッドから女優のアニタ・キングも招いた。オープンを飾った映画は、セシル・B・デミル監督、早川雪洲主演の「The Cheat」。雪洲がニヒルな悪役を演じて彼の大出世作となったものだ。しかし、役柄が「非道で好色な日本人」であったために在米邦人社会からは国辱として糾弾され、日本では公開されなかった。この時代の偏見をそのまま反映した映画ではあったが、雪洲はミステリアスなイケメン俳優として日本人初のハリウッドスターになったのだ。

▲館内の桟敷席 CharmaineZoe at Cinema Treasures

豪華なコロシアム・シアターは、シネコンが登場し始めた 80年代には採算が取れなくなり、1990年にはついに閉館。取り壊しの話も出ていたが、ダウンタウン復興計画の一環として保存する方向に話が進み、いくつかのテナントが検討した後でバナナ・リパブリックが改築に着手した。改築デザインはシアトルの設計事務所、NBBJが担当。シアター開館当初、エントランスの上にはイタリアの聖堂風のドームが付いていたが、これは50年代に取り壊されて、アールデコ風の円筒形の飾りと看板に替わった。1995年に店舗に改装する際には、それが金属の格子窓とガラス製のひさしに取り替えられたが、そのほかの外観はほぼオリジナルのまま。内部にも テラコッタ製の装飾などがかなり残されている。ホリデー・ ショッピングのついでに、オーケストラとオルガンのあった「映画の宮殿」の面影を探してみてはいかがだろう。

▲豪華なカーテンで飾られた舞台 William at Cinema Treasures

[たてもの物語]

 

セーフコ・プラザ

セーフコ・プラザ
1001 4th Ave., Seattle

1969年に完成したこの50階建ての箱型ビルは、「シーファースト(Seafirst)」と呼ばれて親しまれた銀行、シアトル・ファースト・ナショナル・バンクの自社ビルだった。ミシシッピの西でいちばん高い建物を目指して建設されたものの、完成と同じ年にサンフランシスコの52階建てビルに抜かれてしまったので、西の王者のタイトルを獲得したのはほんの数カ月の間。シアトルでは1985年にコロンビア・セ ンターができるまでの間、ナンバーワンの座を保っていた。 現在の「セーフコ・プラザ」に名称が変わったのは、2007 年。セーフコ保険会社がユニバーシティー・ディストリク トのビルをワシントン大学に売却してこのビルを購入し た後のことだ。ちなみに、前述の銀行(当時の社名はシー ファースト・バンク)は80年代にバンク・オブ・アメリカに 買収された。

飾りのないすっきりとした長方形のデザインは、典型的な「インターナショナル」スタイル。ドイツ出身のモダニズムの巨匠、ミース・ファン・デル・ローエ(1969年没)の代表作のひとつであるニューヨークのシーグラム・ビル(1958 年完成)によく似ていると言われる。合理性とシンプルな機能美を追求するモダニズムが提唱されたのは1920年代だが、そのスピリットを体現するビルが実際に都市に現れ始めたのは第二次大戦後の1950年代。以降、80年代に「ポストモダン」が現れるまでの間、ストイックなまでに飾りを 排したインターナショナル・スタイル、つまりシンプルな箱型が高層ビルのデフォルトとなった。

ビルが完成した1969年 当時の様子。Courtesy of History Link

このビルができるまでシアトルのダウンタウンでスカイラインを制していたのは、1920年代後半に建てられたアールデコのビル群を始めとする、華麗な装飾を持つ建物だった。完成当時の絵葉書(右写真参照)には、巨大な四角い箱のようなこのビルの隣に優雅なアールデコ様式のシアトル・ タワーがことさらに小さく描かれている。それまでのダウンタウンでいちばん目立っていたシアトル・タワーは27階建て。その2倍近い高さの巨大なモノリスのようなビルの出現は衝撃的だったことだろう。地元の歴史家、ポール・ドーパット氏は『シアトル・タイムズ』紙のコラムで「シアトルの昔を知る多くの人にとって、このビルの出現は愛すべき 『オールド・シアトル』終焉の始まりだ」と書いている。シアトルの人たちはいつしかこの巨大な黒いビルを「スペース・ ニードルが入ってきた箱」と呼ぶようになった。スペース・ ニードルの完成は1962年だが、大きさといい形状といい、まさにぴったりの形容。飾り気のないモダニズムの「箱」と スペースエイジのロマンチックな夢を代表するスペース・ ニードルとが、シアトルに新時代の始まりを告げたのだ。

 

※このビルはシアトル建築財団主催のウォーキング・ツ アー「High Ambitions: Concrete, Steel, Glass & Egos」 で紹介されています。

[たてもの物語]

 

コロンビア・センター

コロンビア・センター
701 5th Ave. Seattle

今回ご紹介するのは、シアトル一の高さを誇るコロンビ ア・センター。完成は1985年で、それまで一番高いビル だった50階建てのセーフコ・プラザの1.5倍にあたる75 階建て。

どの建物にも、まずそれを建てようというビジョンを持 ち、土地を確保し、建築家を指名して、行政との間で調整を し、プランを実現する人々がいる。シアトル一ののっぽビ ルを構想したのは、名物ディベロッパーのマーティン・セリ グ。このビルはドイツ生まれのセリグのアグレッシブな野 心が結実したものだった。

当時、シアトル市は高層ビルの上限を50階にする意向 だった。しかし、セリグは公共スペースや商業施設、アー トなどを設置することを条件に「ボーナス」の面積を獲得し て、75階建ての高層ビル建設にこぎつけたのだという。こ のビルはシアトルのダウンタウンで一番傾斜のきつい坂道 に建っていて、4thアベニューに面した入口と坂の上の5th アベニューの入口との間には3階分の段差がある。この3 階分を公共のエリアとし、エスカレーターを使って誰でも 通り抜けられるようにするのも、建築面積を獲得するため の条件の一つだったそうだ。

さらに、このビルは当初の予定では1006フィート(約 306メートル)の高さになる予定だったが、シアトル・タコ マ空港が近いため連邦航空局が1000フィート以上の建物 に建築許可を出さなかった。そこで、階数を減らさないた めに、セレグは各フロアの高さを6インチずつ減らして、現 在の967フィート(295メートル)にしたという。

建築家はセリグと組んでシアトルのビルをいくつも建 てたチェスター・リンゼイ。ベルタウンの4thアベニュー とブランチャード・ストリートの角にある黒い鋭角の通称 「ダースベイダー・ビル」もこのコンビが手がけた。

コロンビア・センターは90年代以降何度か持ち主と名前 が変わり、現在は香港の会社が所有している。73階にある 展望室は一般に公開されている展望台としては西海岸で一 番高い場所にあり、360度の眺望が楽しめる。(チケットは大人$14.75)

また、このビルでは毎年、地元の白血病&リンパ腫協会の ためのチャリティとして、消防士によるレースが開催され ている。1500人もの消防士がフル装備をつけて1311段 の階段を登るもので、消防士によるレースとしては世界最 大規模だという。次回の開催は来年3月。

コロンビア・センターは、シアトル建築協会の「High Ambitions: Concrete, Steel, Glass, and Egos(野心、コ ンクリート、鉄鋼、ガラス、そしてエゴ)」と題されたウォー キングツアーでも紹介されている。高層ビルにまつわる ディベロッパーたちの野心について、面白いエピソードが たくさん聞けるツアーだ。

[たてもの物語]

ワシントン・アスレチック・クラブ

アールデコたてものツアー(5)
Washington Athletic Club(ワシントン・アスレチック・クラブ)
1325 Sixth Avenue/落成:1930年

シアトル建築協会のツアー「Diamonds & Gold: The Art Deco Skyscraper Northwest Style(ダイアモンド&ゴールド:ノースウェストのアールデコ高層建築)」で巡るビルをご紹介しているシリーズ。最終回は、ワシントン・アスレチック・クラブ(WAC)。

建築家が全米各都市のアスレチッククラブを視察して設計したアールデコ様式の21階建てビルで、建築費用は200万ドル以上という当時では破格の豪華な施設。用地の買収が完了したのは1929年10月30日、まさに株価が大暴落した翌日だったという。建設は大恐慌と同時に始まることになったが、西海岸の経済はすぐに影響を受けなかったため予定通りに進行し、1930年に華やかに開業した。

オープン当初は当然ながら男性中心のクラブで、入口もエレベーターもレストランも、男性用と女性用が分かれていた。開業記念のディナーパーティーは、男性メンバーのみ、男性メンバーとその妻、男性メンバーとゲスト、と3回開かれたという。

しかし、開業後まもなくシアトルにも不況の波が押し寄せ、多くの会員が退会して経営が立ちいかなくなった。地元の富裕なビジネスマン3人がクラブを買い取り、よりファミリー向けにするなどの工夫で数年間を乗り切った後、第二次大戦後にクラブのメンバー組織がビルを買い戻した。その後1950年代には拡張工事も行い、ホテルと3つのレストランも備える、米国最大のアスレチッククラブの一つになった。現在もシアトルのエリートビジネスマンたちが顧客とのカジュアルな会議に愛用する社交の場だ。

短いアールデコ時代の最後を飾るビルの一つで、縦のラインを強調して高さを感じさせるデザインに加え、いくつかの面白い様式が混在している。設計者はピカソのファンだったそうで、ビルの外壁にはキュビズム風の人物像が背中合わせに配され、その真ん中にシンプルにデザイン化された3段の滝とケルト風の植物の意匠が組み合わされている。ロビーではエレベーターが目を引く。オリンピック選手のレリーフとWACの紋章をあしらったピカピカのゴールドの扉がアールデコらしさ満点。

大恐慌を境にアールデコの時代は終わりを告げた。不況と戦争を抜け出した後、装飾を廃し、合理性と機能性を追求したインターナショナル・スタイルのビルがどの都市でも主流となる。20世紀半ばには古臭いキッチュとみなされていたアールデコ様式だが、現在ではクラシックな趣きが愛され、大切に復元されて、超モダンなビルが次々に建設されるシアトルの街に優雅なカラーを添えている。

[たてもの物語]

1411フォース・アベニュー・ビル

アールデコたてものツアー(5
1411 Fourth Avenue Building

シアトル建築協会のツアー「Diamonds & Gold: The Art Deco Skyscraper Northwest Style(ダイアモンド&ゴールド:ノースウェストのアールデコ高層建築)」で巡るビルをご紹介しているシリーズ5回目は、前回取り上げたグレート・ノーザン・ビルと同じR.C.リーマーの設計で、同ビルとほぼ同時期、1829年に完成した「1411フォース・アベニュー・ビル」。

一見したところはあまり面白味のない実直な四角いビルディングだが、よく見るとエントランスの上に彫られたケルト風の文様やビルの上の装飾が個性を放っている。外壁は全て近隣で産出された砂岩。入り口のすぐ横にはかつて煙草や葉巻を売っていた小さなガラス張りの売店があり、幾何学模様と植物の有機的な形を組み合わせたフレンチアールデコ様式の王冠のような装飾と、精緻な細工のある窓枠や扉が往時を物語る(現在は宝飾品と時計の修理店が営業中)。エレベーターホールも正統派アールデコの意匠でいっぱい。

このビルを建てたチャールズ・ダグラス・スティムソンは、ピュージェット湾周辺に豊富に生い茂っていた上質な木材に目をつけて19世紀末に中西部から移転し、木材業で成功したスティムソン家の跡取り息子たちの一人。シアトルの名士となった彼は不動産業でも成功し、シアトル初の都会的な本格ホテル、オリンピック・ホテル(現在のフェアモント・ホテル)の建設にも携わった。このビルの完成前に、スティムソンは不動産事業を一人娘のドロシーとその夫に譲った。ところがその2年後、夫が病気で急死してしまい、ドロシーは3人の子どもと共にとり残された。

誰もがこのビルは当然人手に渡るものと考えたが、ドロシーは周囲の反対を押し切って、ビルを自分で管理する道を選んだ。女性が実業界に進出するのは異常なことだと考えられていた時代に、自らテナントと渡り合って賃料を集め、大恐慌の時代を乗り切ったのだ。その後、ドロシーは再び周囲が反対する中、1947年にラジオ局を、1949 年に当時米国北西部で唯一のテレビ局だったKING-TVを買収。黎明期のテレビ事業を見事に軌道にのせ、報道に注力したテレビ局作りを果たして、6社を傘下に置く企業に成長させた。

やむなく実業界に入ったワーキングマザーが米国で初の女性テレビ事業主になり、さらに西海岸随一の放送事業に育て上げた生涯は、まるでドラマのよう。このビルは、ドロシーがその一歩を踏み出した記念すべき場所だった。

[たてもの物語]

グレート・ノーザン・ビルディング

アールデコたてものツアー(4)
グレート・ノーザン・ビルディング
1404 Fourth Avenue

シアトル建築協会のツアー「Diamonds & Gold: The Art Deco Skyscraper Northwest Style(ダイアモンド&ゴールド:ノースウェストのアールデコ高層建築)」で巡るビルをご紹介しているシリーズ。4回目は、まさにアールデコ最盛期の1928年に完成したグレート・ノーザン・ビルディング。

現在は1階に紳士服店「メンズ・ウェアハウス」が入っているこの4階建てビル、完成当初はグレート・ノーザン鉄道のチケット販売オフィスだった。この鉄道は現在のBNSF鉄道の前身で、ミネソタ州セントポールから終点のシアトルまでの全線が1893年に開通し、その後1929年にシカゴとシアトル/ポートランドを結ぶ旅客用の大陸横断列車「エンパイア・ビルダー」が運行を開始した。この列車とルートは今もアムトラックの列車に受け継がれている。

今ではマネキンが並ぶショウウィンドウは、当時はオリエント急行の客車や食堂車などをテーマにしたディスプレイで飾られ、深緑と茶色のカーテンも添えて豪華列車の内装を再現していたという。当時の鉄道旅行は多くの人にとって一大イベントだったに違いない。旅客列車の運行開始に合わせてオープンしたこのチケットオフィスは鉄道旅行の夢をかきたてるショウルームでもあったのだろう。

設計はイエローストーン国立公園の「オールド・フェイスフル・イン」や、オリンピック半島の「レイク・キノールト・ロッジ」を手掛けたR.C.リーマー。全体にすっきりとした印象のビルで、古典やモダニズムの要素に華やかなアールデコの装飾を合わせている。まず目につくのは1階の窓の上の外壁にぐるりとめぐらされたレリーフ。ゼンマイかシダを思わせる大胆な模様は、ネイティブ・アメリカンの羽飾りをイメージしたものとも言われる。ショウウィンドウの上を飾る金属板にも植物の美しいレリーフが施されている。

このほか最上階にも植物をモチーフにしたレリーフがあり、こちらにはマヤ文明の遺跡のデザインの影響が見られるそうだ。アールデコ建築には、この頃次々と遺跡が発見されていたマヤやエジプトといった古代文明のモチーフも多く取り入れられた。それまでの主流だった重々しく権威的な新古典主義に背を向け、新しい時代の価値観と気分を表すデザインを模索する試みの一つだった。

今では高層ビル群に埋もれた1920年代のビルたちには、時代を語る華麗なディテールが盛りだくさん。爽やかなシアトルの夏、ウォーキングツアーで街並みを再発見してみてはいかがだろうか?

[たてもの物語]

オールド・フェデラル・ビルディング

アールデコたてものツアー(3)
オールド・フェデラル・ビルディング
909 First Avenue, Seattle

前回、前々回に続き、シアトル建築協会のツアー「Diamonds & Gold: The Art Deco Skyscraper Northwest Style(ダイアモンド&ゴールド:ノースウェストのアールデコ高層建築)」で巡るビルをご紹介。3つめは、1932年に建てられたオールド・フェデラル・ビルディング。

ツアーで訪れた他のクラシックなビルはみな1920年代後半の数年間に建てられたものだが、これだけは大恐慌後、ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として建てられた連邦政府機関ビル。1970年代に道をへだてた向かい側に新しい連邦政府ビルが建てられたので、現在はこちらを「オールド」と呼んでいる。

政府機関ビルということもあって20年代の純粋アールデコ建築とは少しおもむきが違い、複数のスタイルが採用されている。例えば、エントランスを飾る動物の頭部などはボザール様式と呼ばれる新古典スタイルの踏襲だし、窓の上下の飾り板(スパンドレル)には当時最新の素材だったアルミニウム素材が使われていて、この後に来るモダニズム時代を予言しているようだ。とはいえ、垂直ラインを強調したセットバック(階層)型の外観、エントランス両脇の巨大な飾りつぼなどは明らかなアールデコ様式。ビル最上部の階層型の部分はノースウエスト地域の山々を模していて、白いテラコッタを使って雪をかぶった山の頂きを表現している。

テラコッタというのは20世紀前半の装飾的なビルに非常によく使われた素材。現在ではテラコッタというと植木鉢に使われている赤茶色でもろい「素焼き」材をさすが、この当時の建築素材として使われたテラコッタは釉薬をかけて焼いたものが多く、要するに「やきもの」材。石材よりも軽量で高層ビルに適していたうえ、石膏型を使って正確に同じ形の精緻なピースを作れるので、ボザール様式やアールデコ様式の華麗な装飾を作るのにうってつけの、20世紀前半のスター建材だった。日本でも大正から昭和初期にかけて洋館、商業ビル、官庁などの建築に装飾的な国産テラコッタがたくさん使われた。

このビルが建っている一画は、1889年のシアトル大火の火元となった家具工房があった場所。この大火でシアトルはいったん焼け野原になってしまった。その後ダウンタウン中心部では木造建築が禁止されたこともあり、シアトルの建築ではテラコッタが一世を風靡したのだった。当時はシアトル近郊にもたくさんのテラコッタ製造業者があったが、現在も稼働しているのは全米でもサンフランシスコにある一社だけだという。

[たてもの物語]

エクスチェンジ・ビルディング

アールデコたてものツアー(2)
エクスチェンジ・ビルディング
821 second avenue, Seattle

シアトル建築協会の「ダイアモンド&ゴールド:ノースウェストのアールデコ高層建築(Diamonds & Gold: The Art Deco Skyscraper Northwest Style)」は、シアトルのダウンタウンにある6つのアールデコビルを回る約2時間のウォーキングツアーだ。前回のシアトル・タワーに続いて訪れたのは、セカンド・アベニューにあるエクスチェンジ・ビルディング。

アールデコ建築はふたつの世界大戦の間に花開いた建築様式で、最盛期は1925年から1930年までのほんの5年間。この日に見たダウンタウンの6つのビルも、すべてこの5年間に建設されたものばかりだった。時は狂騒の1920年代、自動車や航空機といった最新テクノロジーが明るい未来を約束し、若い国アメリカはどんどん豊かになっていた。次々に派手な最新デザインのビルが競い合うように建設されていく20年代後半の街の活気は、建築用クレーンが立ち並ぶ現在のシアトルに少し似ていたのかもしれない。

このビルには「エクスチェンジ(取引所)」という名前の通り、4階にあたる吹き抜けのスペースに証券や商品の取引所が設置されていた。ツアーガイドのナンシーさんが教えてくれたアールデコの装飾性の特徴のひとつは、その土地に関係のあるものや建物に関連する意匠を取り込むところだという。このビルには小麦の意匠がふんだんに使われている。たぶん、当時の商品取引所の最重要品目のひとつだったからだろう。表通りに面したドアの上には、小麦をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。黒い大理石のパネルをはりめぐらせた玄関ロビーを入ると、豪華絢爛なエレベーターホールが広がっている。黒と金を基調としたゴージャス空間で、細かな浮き彫り模様のある天井も黄金色に塗られ、エレベーターの上にも、燦然と輝く太陽と小麦をデザインした華やかな真鍮製の飾りが、国の繁栄を讃えている。

しかし、このビルが完成したのは1930年。前年に株式市場は大暴落を経験し、世界大恐慌が始まっていた。ぴかぴかのエクスチェンジ・ビルでは、結局、証券も商品も取引されずじまいだったそうだ。そしてこの華麗なアールデコのビルたちの建築ラッシュのあとは、70年代になるまで、シアトルに新しい高層ビルが建てられることはなかったのだという。

[たてもの物語]

シアトル・タワー

シアトル建築協会の建物ツアー、「ダイアモンド&ゴールド:ノースウェストのアールデコ高層建築(Diamonds & Gold: The Art Deco Skyscraper Northwest Style)」に参加した。シアトルのダウンタウンに意外に多いアールデコ様式のビルを6つほど巡る2時間程度のウォーキングツアー。何回かに分けて、このツアーで訪れたビルをご紹介したい。

アールデコ様式は1925年のパリ装飾美術博覧会でいちやく時のスタイルとなった。フランス生まれだが本格的に花開いたのはアメリカで、エンパイアステートビルはじめ、建築の代表作はほとんどアメリカにある。スピードを感じさせる力強いシンプルなラインの建築は、ヨーロッパの老帝国が崩壊していくのを横目に自信と意欲にあふれる青年のような国だった当時のアメリカのキャラにぴったりのスタイルだったと言える。

この日のボランティアのツアーガイド、もと弁護士のナンシーさんが教えてくれたアールデコ様式建築の特長は、1)垂直のラインの強調、2)セットバック(上層が階段状に狭くなっている形)、3)装飾性の3つ。アールデコの装飾には実にいろいろなモチーフが取り込まれている。エジプト風もその一つ。1922年にツタンカーメンの墓が発見されたあと世界中にエジプトブームが起こり、アールデコ様式にも大きな影響をおよぼしたのだそうだ。

この日のツアーで最初に訪れたシアトル・タワー(1929年完成)には、まさにそのエジプト風趣味がこってり。もとは生命保険会社の本社屋として建てられ、ノーザン・ライフ・タワーという名前だったこのビル、1階ロビーはまるでファラオの墓の内部のように絢爛豪華。床は何種類もの大理石を使った幾何学模様でおおわれ、暗い色調の大理石の壁と緻密な装飾の銅板で飾られた天井が墳墓さながらの雰囲気を醸し出している。

外壁の煉瓦は27色。上に行くほど白みがかった薄い色が使われ、シアトルから見える雪山を模しているという。このビルは27階建てで、当時もっとも高かったスミス・タワーにはおよばないが、高台に建っているので完成当時はシアトルのスカイラインで一番目を惹く存在だった。しかも夜は300ものライトでカラフルにライトアップされ、オーロラのようだったので「ノーザンライツ・ビル」と呼ばれていたという。シアトル港に入ってくる船からも、このビルはダウンタウンの真ん中に輝いて見えた。狂騒の20年代に建てられ、その後数十年にわたってシアトルの顔だった美しいビルだ。

シアトル・タワー
1218 Third Avenue, Seattle

[たてもの物語]

スペースニードル

スペースニードルのないシアトルなんて、ちょっと想像できないのではないだろうか。今ではシアトルの代名詞的存在になったこのタワーは、1962年のシアトル万国博覧会のアトラクションとして建てられた。’ 62年は米ソ冷戦の緊張がピークに達し、全面核戦争へのリアルな不安が常に人びとの頭上にぶら下がっていた時代。その中で「Century 21Exposition(21世紀博覧会)」と題した万博は、科学技術がもたらす輝かしい未来を描いてみせた。ロケット打ち上げ競争でソ連に遅れをとったアメリカは国の威信をかけて全力で宇宙開発にとりくんでいたので、「科学と未来」にフォーカスした博覧会は連邦政府から破格の補助金を得た。

▲ 1962年のシアトル万博 ©Courtesy of Seattle Public
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ミノル・ヤマサキの設計になる科学館(現在のパシフィック・サイエンスセンター)は、その連邦予算で建てられたが、スペースニードルのほうは万博の実行責任者だった地元のビジネスマンたちが民間の資金を集めて、構想からわずか2年半という驚くべきスピードで完成させた。

「遠く雪山を望み、まわりを静かな湾と湖に囲まれたシアトルの美しい景観を遠くからの来場者たちにアピールしたい。展望ポイントにもなり、万博のアイコンにもなるタワーを作ろう」という実行責任者たちの思いが実現していく過程は、クヌート・バーガー著『Space Needle:The Spirit of Seattle』に詳しく語られている。

建築家ジョン・グラハムの指揮でデザインを磨き上げ、耐震性も含む強度設計を固めてから、科学館のとなりに建設用地を見つけ、出資者を確保するまでが半年ほど。この時点で万博開催日はすでに1年後に迫っていた。その翌月には建設許可を得て、基盤工事を開始。約9メートルの深さの基盤を掘り、コンクリ−ト5600トンを流し込み、鉄骨を組み上げ、円盤型の展望室を乗せたタワーが完成するまでの工事期間はたった8カ月。日に日に高く伸びていくニードルは、高層ビルがまだほとんどなかった街のどこからでも見えた。宇宙時代を体現するような姿に市民は感銘を受け、万博の前売り券が飛ぶように売れ始めたのだという。

「ニードルは、未来を象徴し、街のシンボルとなっただけでなく、建設に携わったすべての人びとの技術とノウハウの集積でもあった」とバーガーは書いている。設計を担当した建築家たちやエンジニアたちにとっても、地上150メートルの高さの足場で命綱もつけずに作業に取り組んだ職人たちにとっても、スペースニードルの建設は生涯の誇りとなる仕事だったのに違いない。

[たてもの物語]

スミス・タワー

新装された展望室にはカフェ&バー「Temperance」がオープン。週末は午後11時まで営業
▲ 新装された展望室にはカフェ&バー「Temperance」がオープン。週末は午後11時まで営業

 

 

 

シアトルの建物といえば、スミス・タワーを無視するわけにはいかない。ダウンタウンに優雅なおもむきを添える1914年(大正3年)落成の長老ビルは42階建てというまさに当時の超高層で、シカゴ以西で最も高いビルとして名を馳せ、なんと1960年代まで西海岸一の高さを誇っていた。第2回で紹介したシアトル初の鉄筋ビル、アラスカ・ビルディングが14階建てで1904年落成だから、そのわずか10年後に完成したこのビルがいかに野心的なプロジェクトだったかが窺える。

タワーの上にちょこんと三角屋根が乗ったデザインは、その頃世界一高いビルだったニューヨークのメトロポリタン・ライフ・タワー(50階建て)を模したもの。外壁に貼られた真っ白なテラコッタはシアトル製で、内装にはアラスカ産大理石やメキシコ産オニキスなど贅沢な素材がふんだんに使われている。

20世紀初頭のランドマークは人びとを熱狂させ、展望室の公開初日には4000人以上の見物人が詰めかけたという。ちょうどその時シアトルには日本海軍の練習艦隊が寄港していて、司令官の黒井悌次郎中将がぜひ展望室に行きたいと熱烈に希望して直接市長に私信を出し、あわてた市長が正装で迎えに飛んでいったというエピソードもある。

35階にあるこの展望室は、今年8月に全面改装されたばかり。1階にはチケット売り場を兼ねたお洒落な売店が新設され、昔の事務所や電話交換室などを再現する展示も設けられた。必見は展望室へ向かうエレベーター。銅板と精緻な細工の真鍮をはりめぐらせた豪華なもので、パネルなど一部の部品を除いてほとんど建造当初のまま、1世紀以上現役で働き続けている。

展望室には禁酒法時代の秘密酒場をイメージしたバーが新設され、中国風の重厚な調度とモダンな家具を組み合わせた落ち着いた展望ラウンジになった。ここの名物の一つは、龍と鳳凰の彫刻がほどこされたどっしりとした「願いの椅子」。いつの頃からか、「結婚を望む未婚女性が座ると1 年以内にお相手が現れる」という伝説が備わった椅子だ。

莫大な費用をつぎ込んでこのビルを作ったスミス親子は、20世紀初頭の最先端産業だったタイプライター製造で財をなした。100年後の今、このエレガントなタワーには時代を牽引するIT企業が多数入居している。西海岸最古の超高層ビルは、急成長する都市のニーズに合った個性的な物件として再び華やかな注目を浴びている。

Smith Tower
506 2nd Ave., Ste. 220, Seattle,
Washington 98104
展望室利用は大人$12、ワシントン州民は$10。

[たてもの物語]

ワシントン大学スザーロ図書館

ワシントン大学スザロ図書館
ワシントン大学スザーロ図書館

前回の中央図書館に続いて、シアトルが誇る名物図書館をもうひとつご紹介。ワシントン大学のスザーロ図書館だ。ワシントン大がダウンタウンから現在の場所に移転してまもなく、1915年に学長に就任したスザーロ氏が「1000年後にも残る大学」を目指して壮大な改革に乗り出し、それまで暗くて狭い建物につめこまれていた図書館を一新。図書館は「Soul of the University(大学の魂)」なのだからと、この壮麗なゴシック聖堂のような建築を構想した。当初のプランでは中心に高さ100メートルの鐘楼を備える三面構成であったという。
見学は誰でも自由にできて、もちろん無料。建物好きなら一度は足を運ぶ価値ありの観光名所といえる。彫像が並ぶいかめしい入り口を通り、案内デスクとカフェテリアを横目に進むと、両側に石造りの優雅な大階段がある。ここをのぼると、有名な読書室の前へ。「静かに」と注意書きがある古めかしい扉の向こうには、ホグワーツ魔法学校の大ホール……を誰もが思い浮かべる巨大な空間が広がっている。ふつうのビルなら7階分くらいの高さがあるアーチ型の大天井の下に木製のデスクが何列も並び、高窓から柔らかな光が注ぐ。コンピュータが置かれているわけでもなく、21世紀の今では特に実用的な空間ではないのだけれど、おごそかな気持ちにさえさせてくれる、まさに「大学の魂」にふさわしい場所だ。

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聖堂をお手本にしたデザインではあるが、ここで讃えられているのは神の偉大さではなく、人類のあくなき知への探求とその成果。両端には手描きで彩色された大きな地球儀が吊るされ、探検者たちの名前が記されている。ステンドグラスには聖人や天使ではなく、珍妙な生きものの姿が。このヘンな生きものたちはルネサンス期に使われていた透かし模様を集めた書物の中から選ばれたものだそうだ。
広場に面した正面外壁には、テラコッタ製の像が18体並んでいる。当時の教授陣が選んだという「学問と文化への貢献を象徴」する知の偉人たちで、モーセ、パスツール、ダンテ、シェイクスピア、プラトン、ベンジャミン・フランクリン、ニュートン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベートーヴェン、アダム・スミス、ダーウィンなどが思想、芸術、科学、法律などの各分野を代表している。
この図書館には、まだ欧州に比べて若輩国であったアメリカの、しかもその中でもごく若い最西端の街の大学が持っていた、新時代の知性の担い手としての強烈な自負が溢れているように見える。
www.lib.washington.edu/suzzallo/visit/history
4000 15 Ave. NE, Seattle, WA 98195

[たてもの物語]

シアトル中央図書館

シアトルの人は図書館が大好き。

人口約65万人のシアトル市にある図書館の数は、なんと28館。東京・杉並区(人口約56万人)の13館、世田谷区(約89万人)の16館と比べてもかなり多く、米国内でも群を抜いている。シアトルでは1998年、「Library for All(すべての人に図書館を)」という名の包括的な図書館システム刷新プログラムのために2億9000万ドルの予算が住民投票によって確保された。全米でも前例がない規模のこの予算で、市内の図書館はすべて新築または全面改装されて、個性的でオシャレな28の公共空間が生まれた。もちろん、その中のスーパースターはダウンタウンにある中央図書館。

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▲ シアトル中央図書館 1000 4th Ave, Seattle, WA 98104

2004年にオープンした中央図書館は、オランダのレム・コールハースとシアトル出身のジョシュア・プリンス=ラマスによる設計。多面体を不規則に重ねたかたちのビルは、鉄骨とガラスの「皮膚」を通して外の風景と自然光を室内に取り込み、雨の多いシアトルで太陽光を最大に活かす構造。最上階の11階にあるリーディングルームからはエリオット湾も眺められる。

2016-0825-1s-minデジタル化の進む現代では、図書館の役割もこれからどう変わっていくのか予測がつかない。中央図書館のまんなかには、時代の変化を考慮してどんな活動でもできるような柔軟な空間が用意されている。3階(5thアベニューから入る地上階)には最上階までの巨大な吹き抜けの下に「リビングルーム」と呼ばれる広々としたロビーが広がり、蛍光イエローのエスカレーターでもう1フロア上に上がると、そこにも大きな空間。ここには無料で使えるコンピュータが並ぶ。館内には現在、一般利用者用に400台のPCが用意されている。
その上の4フロアは「スパイラル」と名付けられたアナログでオーガニックな空間。昔ながらの書架が4階分にわたってらせん状にぐるぐると続く。米国の図書館ではノンフィクションの書籍が19世紀からの図書分類法に従って000から999までの数字で分類されているが、その分類システムを目に見える形で表現したユニークな構造だ。

不況を受けた市の予算削減で、数年間にわたり図書館の開館時間も減らされていたが、2012年、シアトル市民はむこう7年間にわたり合計1億2300万ドルを図書館のために使う目的税にゴーサインを出した。ダウンタウンの中心で異彩を放つ、世界の一流建築家による最先端の建築物が、商業施設でも役所でもなく誰でもが無料で利用できる公共スペースであることを、多くの市民が誇りに思っている。

[たてもの物語]

展覧会「BOOM: Changing Seattle」

シアトルはいま、空前の建築ブーム。2010年以降、なんと毎年平均1万4500人も人口が増え、毎月のように新しいビルが増えている。シアトルは19世紀末のアラスカのゴールドラッシュのおかげで急激に成長した都市だが、現在の成長率はその創成期以来の勢いだという。

SAF( シアトル建築財団)併設のThe Center for Architecture & Design(1010 Western Ave. Seattle, WA 98104)で開催中の展覧会「BOOM: Changing Seattle」は、シアトルの急成長がもたらしているものを振り返る。シアトル市内で最も急激に変化している4つのエリア、バラード、セントラル・ディストリクト、サウスレイクユニオン、そしてサウスシアトルを流れてエリオット湾に注ぐドゥワミッシュ運河流域にスポットを当て、それぞれの地域の過去を振り返り、将来に向けての課題を考える構成。

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もともとは運河沿いの漁師町だったバラードは、近年、ことに若い専門職やファミリーの人口が増え、古い町並みを利用したオシャレなバーやレストラン、ブリュワリー、カフェなどが次々にオープンしているが、生活物価が高くなると同時に昔ながらのブルーカラーの仕事が減っている。
ダウンタウンの近くに位置するセントラル・ディストリクトは、ジミ・ヘンドリクスやクインシー・ジョーンズも通った高校を中心に広がる、絆の強い黒人コミュニティだった。近年の地価高騰でこの地域も激変。黒人経営の銀行や、地域の交流場所だったソウルフードの店もなくなり、活発だったコミュニティが消えつつある。
そして言うまでもなく、ここ数年のシアトルで最も変化が目立つのはサウスレイクユニオン。建設中のアマゾン本社はじめ多くのIT企業や最先端研究機関が集中し、シアトルへの人口流入を牽引する新たな中心街に変わったこのエリアには、ほんの数年前まで残っていた70年代風の低層建築が連なる景色はもうほとんど残っていない。
シアトル港の港湾施設へつながる産業要路として今も活発に利用されているドゥワミッシュ運河は、もとは自然の川だった。20世紀半ばから環境汚染に注目が集まりはじめ、汚染を軽減し、川を浄化して、魚や鳥の住む環境を取り戻すための地道な努力が現在も続けられている。
展覧会には、失われたコミュニティに捧げるビデオ作品や、なくなってしまった街角の風景を記念する品を来場者が置いていく参加型の「メモラビア」コーナーも設けられ、成長を続ける都市が失っていくものに目を向けるよう呼びかける。
会期は8月27日まで。火〜金 10am~6pm、土 1pm~5pm

[たてもの物語]

「シンキング・シッ プ(沈む船)

今回主役のたてものは、パイオニア・スクエアの真ん中にある駐車場。イェスラー通りとジェームス通りが45度くらいの鋭角で出会う三叉路の角に建つケーキのような三角形の建物で、「シンキング・シップ(沈む船)」という別名でよく知られている。たしかに正面から見ると、おしりから沈んでいく大きな船のへさきに見える。

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坂の途中にあるので、4階建てにもかかわらずどの階も地上から直接出入りできる便利なパーキングではあるけれど、この建物が有名なのはその便利さや美しさや建築的重要性からではなくて、その反対の理由から。コンクリートそのまんま、まったく飾り気なしの形状は、どこかほかの近代的な街角にあったなら特別どうということのないふつうの駐車場かもしれないが、優雅な装飾をほどこした煉瓦のビルが並ぶ歴史エリアの、しかもよりによって一番目立つ角に出現したとあって、1962年の完成時にはたくさんの人にショックを与えた。持ち主の家族までが「シアトルで一番醜い建物」と言うほど、悪名高い建物になってしまったのだ。
この場所には、シアトル創成期には「オキシデンタル・ホテル」という優雅なホテルがあり、1890年に一帯が焼け野原になった大火のあとにもすぐに三角形の「シアトル・ホテル」が再建された。その後ホテルはオフィスに姿を変え、パイオニア・スクエアが中心街としての役目を終えてだんだんと寂れていくにつれ、20世紀半ばにはすっかり空きビルに。当時のパイオニア・スクエアは時代に取り残された治安の悪い地区とみなされていて、古いビルをみんな取り壊してダウンタウンに通勤する人のための駐車場にしようという、今から考えるとかなり乱暴な開発計画が説得力を持っていた。そればかりではなく、今ではシアトルの貴重な観光資源になっているパイク・プレイス・マーケットも時代遅れだとして取り壊され、駐車場にされてしまうところだった。
1961年、そんな再開発の第一陣としてシアトル・ホテルの建物が取り壊され、その後にこの「沈む船」駐車場が現れた。地元の歴史家によれば、あまりにも無愛想で周りとそぐわないこの建物がシアトルの歴史的建築物保存運動を盛り上げ、その結果、パイオニア・スクエアは歴史地区に、パイク・プレイス・マーケットは歴史登録財に指定されたという。不名誉な注目のされ方ではあったが、このビルは煉瓦の町並みと活気ある市場を救うきっかけになるという大きな役割を果たしたのだった。

[たてもの物語]

アークティック・ビルディング

Arctic Building
700 3rd Ave., Seattle, Washington, 98104

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前回取り上げたアラスカ・ビルディングからチェリー通りの坂を1ブロック登った角にあるのが、シアトルでも指折りのユニークな外観が愛されているアークティック・ビルディング。なにしろ外壁にぐるりと牙も立派なセイウチの頭部が並んでいる、インパクト強烈なビルなのだ。
名前とセイウチたちが示すとおり極北に縁のあるビルで、クロンダイク・ゴールドラッシュによって盛んになったシアトル−アラスカ間の事業にたずさわる紳士の団体「アークティッククラブ」のクラブハウスとして1916年に建てられたもの。このクラブはアラスカ・ビルの最上階を会場にしていたアラスカクラブと1908年に統合した。会員資格として特別に極北圏との関わりは問われなかったが、ほとんどの会員はアラスカに赴いて事業を行ったことのある人やシアトル−アラスカ間の蒸気船の船長など、北方ビジネスに縁の深い人びとだったという。このクラブは70年代まで存続し、その後しばらくの間はシアトル市がこのビルをオフィスとして使用していた。
現在はヒルトン系のホテルとして活躍中で、外も内もすっかり修復され、その昔に入り口でクラブのメンバーを出迎えていたというシロクマの大きな像だけはなくなってしまったものの、ほぼ完璧に往時のままの姿が再現されている。エントランスホールの壁にはかつてのクラブ会員たちの写真が並び、ロビーにはシンプルで重厚なバーとビリヤード台が備え付けられ、客室も控えめながら北方探検を思わせるレトロな内装でととのえられている。圧巻なのはドーム型の天井を持つ大宴会場で、ステンドグラスと精緻な花綱の装飾を交互に組み合わせた巨大なブローチのような天井の下、タイタニック号の時代を彷彿とさせる華やかな空間が広がっている。
オフホワイトにブルーとサーモンピンクをあしらった外壁はテラコッタ(素焼きの陶材)製 。シアトルでは初の色付きテラコッタのビルで、現在でも充分目を惹く砂糖菓子のような外観は、1916年の完成当時は街中の耳目を集めたのに違いない。
19世紀末に起きた大火災のあと燃えない建材の需要が急増したこともあり、シアトルはアメリカ西部随一のテラコッタ製造拠点だった。いくつもの製造業者が技を競っていただけに、見事なテラコッタで外壁を覆ったビルが多いのも20世紀初頭のシアトル建築の特徴なのだそうだ。
アークティック・ビルディングはSAFの「Design Details Tour: Lions, Griffins &Walruses, Oh My!」ツアーでフィーチャーされている。

[たてもの物語]

アラスカ・ビルディング

アラスカ・ビルディング618 Second Avenue

resize079814階建てのアラスカ・ビルディングは、シアトルで初めての鉄骨建築のビル。今ではビル群の中に埋もれて目立たない存在だが、1904年の落成時は、他に並ぶもののない「超高層建築」だった。外壁に白いテラコッタを張り巡らせ、2階までの部分には砂岩の外壁に大きな天使の頭像や蛇などの彫刻を施した優雅なビルディングで、最新技術のエレベーターもついていた。20世紀のはじめ、当時の中心街だったパイオニア・スクエアから少し離れた丘の中腹にそびえるこのビルは、新しい時代を象徴するキラキラした存在感を誇っていたのに違いない。
このビルができた頃のシアトルは、北国のゴールドラッシュのおかげで驚異的な急成長を遂げていた。黄金が発見されたのはカナダ北東部のユーコン準州クロンダイク。多くの人々が海路でアラスカへ入り、そこから陸路で険しい山道を登るか、ユーコン川の急流を遡って黄金の里を目指した。金を目指して殺到した約7万人のうち、推定3~4万人がシアトルで装備を揃えてアラスカへ船出したという(もっともそのうち、冒険に見合う黄金を手にしたのは300人程度だった)。この一攫千金を狙う人々の群れを送り出す港としての大盛況が、辺境の港町だったシアトルを都会に変身させた。1890年からの10年間で人口は約4万人から8万人へと倍増、街路は舗装され、路面電車網が急激に発達した。
アラスカ・ビルディングは、ゴールドラッシュで一躍本格的な都市になったシアトルの、都会としてのデビュー宣言だったともいえる。最上階には実業界紳士の社交場「アラスカ・クラブ」があり、船の窓を模した丸い窓から活気のある港が見渡せ、アラスカで産出する鉱石やアラスカに関する新聞や資料の図書室も用意されていた。ビル正面の扉にはクロンダイクで見つかった黄金の粒が埋め込まれていたという。現在はマリオット系のビジネスホテルとして営業中。黄金の粒つきのドアはもうないが、外観はほぼそのまま保存されている。建物の裏側に大きく描かれているALASKA BUILDINGという文字もそのまま。
アラスカ・ビルディングがシアトル一の高さを誇ったのは7年間だった。セカンド・アヴェニューにはあっという間にビルがひしめきあうようになり、1911年にはすぐ斜め向かいに17階建てのホーグ・ビルが、その3年後には38階建てのスミス・タワーが完成。シアトルはゴールドラッシュの記憶を後に、20世紀の冒険に乗り出したのだった。

[たてもの物語]

レーニア・タワー

どんな建物にも、それぞれに物語がある。有名ランドマークからあまり知られていない歴史的ビルまで、それぞれ個性的なシアトル界隈の建物のストーリーを追いかけてみたい。筆者は専門家ではなく、ただの建てものファンなので、建築のプロが案内してくれるSeattle Architecture Foundation(シアトル建築協会/SAF)にご協力をお願いした。同協会では定期的にビル鑑賞ツアーを催行し、気になるビルの「そうだったのか!」を楽しく紹介している。

resize0702第一回目の注目ビルは、ダウンタウンの真ん中にあるレーニア・タワー。まわりを高層ビルが取り巻いているのであまり目立たないが、これはちょっとほかに例を見ないくらいヘンな形のビルだ。上のほうはごく真っ当に四角いビルなのに、足もとだけ一本足のキノコ的な形状。なぜ?
設計したのは日系二世のミノル・ヤマサキ。1912年生まれ、ガーフィールド高校からワシントン大学に進んだ生粋のシアトル人だ。第二次大戦前の白人社会の中で大きな設計事務所の主任として頭角を表したのだからよほど優秀な人だったのに違いない。が、現在では不運な建築家として知られている。
彼の作品中もっとも有名なのは、なんといってもニューヨークの世界貿易センタービル。米国を代表する建築物として国際都市のスカイラインに君臨したツインタワーだったが、911の同時テロの標的となり、文字通り粉微塵になってしまった。
もう一つの代表作は1950年代に作られたセントルイスの集合住宅「プルーイット・アイゴー」。低所得者に良い住環境を提供することを目指したプロジェクトだったが見事に失敗、住宅は荒廃して犯罪の温床となり、完成後わずか16年で取り壊された。予算の削減によって、当初予定されていた公園などのコミュニティ用スペースを作らなかったことなどが敗因とされ、のちの都市計画の反面教師となった。建築物にストイックなまでの合理性を追求するモダニズムの論理が「理屈どおりにいかないこともあるよね」と、ひとまず見直されるきっかけになった事件だった。
モダニズムを体現する建築家だったヤマサキがそのすぐ後に手がけ、1977年に完成したレーニア・タワーのこの思い切った形状は、ビルの足元である地上部分に光と風をたくさん通すために考案された形状であり、同時にコンクリートの力強い構造を強調する。77年はモダニズムの反動の「ポストモダン」という考え方が登場した時代でもある。レーニア・タワーのキノコ的形状には、「その次」を模索していたモダニズムの「自分探し」的な内省が見えるような気もする。

 

 [たてもの物語]