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Author: 室橋 美佐

ハイテク関連企業の国際マーケティング職を経て2005年からシアトル在住。2016年にワシントン大学都市計画修士を取得し、2017年から2022年まで北米報知社ゼネラル・マネジャー兼北米報知編集長を務めた。シアトルの都市問題や日系・アジア系アメリカ人コミュニティーの話題を中心に執筆。

シアトル広島県人会が四つ葉学院で平和教育

シアトル広島県人会の行方 令(なめかた つかさ)さんと倉本君枝さんが10月24日に四つ葉学院の土曜補習授業教室を訪ね、小学校高学年児童へ広島の地理や歴史についての特別授業を行いました。

取材・文:室橋美佐

 

シアトル広島県人会の行方さん(左)と倉本さん(右)による特別授業。ふたりとも優しい人柄がにじみ出る

「広島について知っていることはありますか?」との行方さんからの問いかけに、まず返ってきた声は「広島カープ」。お母さんがファンだという男の子からだ。さらに(厳島神社の)大鳥居、お好み焼き、牡蠣などが挙がる中、原爆についてはほとんどの子どもたちが知っていた。日本人の親に育てられながらアメリカで生活する子どもたち。どこかしら複雑な思いで耳にした言葉かもしれない。

行方さんが現会長を務めるシアトル広島県人会は1900年創設。太平洋戦争で活動停止後、1948年に再開した。広島市児童図書館(現・広島市こども図書館)の開館資金援助など、原爆投下後の広島への復興支援を積極的に行った。「現在は日系2世、3世の方と、新1 世と呼ばれる戦後渡米者の約150名の会員がいます」と行方さん。2010年からシアトルに住む被ばく生存者7名のインタビュー映像を英語字幕付きで県人会ウェブサイトに掲載。被ばく者の声をシアトル周辺で伝える平和教育活動も行う。

四つ葉学院での特別授業でも、被ばく者インタビューが上映された。内容は、広島赤十 字病院で看護学生として1カ月間にわたり被ばく者を看護した蜂谷モモエさんと、崩壊した建物の下敷きになるも通りかかった老人に助け出された田中りつ子さんが当時の体験を語るもの。蜂谷さんは、火傷で体中が真っ黒になった姿で苦しみながら亡くなっていった人たちを回想して「あの惨状はもう、何とも言えない」と伝えた。田中さんは、建物の下敷きになり取り残されて「ここで死ぬなら、せめて誰かに知ってもらいたいと思った」と死を覚悟した際の生々しい記憶を伝えた。

「原爆投下時点で、沖縄はアメリカ軍の手に渡っており、本土も大都市はほぼ空爆で焼け野原の状態。原爆投下の必要があったのか、私には分かりません」。行方さんは被ばく者インタビュー上映後、そう言葉を結んだ。原爆投下から1年のうちに広島で約12万人、長崎で約7万5,000人が亡くなった。子どもたちは神妙な顔つきで思いをめぐらせつつ、倉本さんから平和を願う折り鶴の説明を受けて色紙を手渡されると、笑顔で鶴を折り始めた。

今では友好関係にある日本とアメリカ。その両国をまたいで育つ子どもたちにとって、この特別授業は意味のある貴重な時間となったことだろう。

「紙芝居のたっちゃん」がシアトルにやって来る!

紙芝居師の「たっちゃん」こと川上竜生さん(左)と紙芝居イラストレーターの「てるくん」こと照喜名隆充さん(右)

紙芝居師として日本で活躍する川上竜生さんと、イラストレーターの照喜名隆充さんが来年2月にシアトルでワークショップを開催します。

取材・文:室橋美佐

最近では珍しくなった紙芝居師を本業に日本で活躍する「たっちゃん」こと川上竜生(かわかみ たつお)さんと紙芝居イラストレーターの「てるくん」 こと照喜名隆充(てるきな たかつみ)さんが、2018年2月にシアトルを訪れる。ふたりは、愛知県名古屋市を中心に活動する紙芝居劇団「マーガレット一家」のメンバー。同劇団は学校や文化会館のほ か、結婚式披露宴などでもオリジナリティーあふれる紙芝居を上演して人気を得ている。

今回のふたりのシアトル訪問は、マーサー・アイランドにある児童/青年劇団、ユース・シアター・ノースウエストでの特別講義が主な目的。アーティスティック・プロデューサーを務める交野(かたの)みみさんが、紙芝居のテイストを取り入れた「鏡の国のアリス」を企画。2018年5月上演に向けてのトレーニングの一環として、川上さんと照喜名さんによる特別講義が行われる。「日本文化を組み入れるプログラム制作をして欲しいとの指示があって、シアトルに住む子どもたちでも興味を持ちやすいものをと考えたとき、日本のアニメや漫画の原型になったと言われる紙芝居はどうかと思いつきました」と、交野さん。

上演の出演者候補として川上さんと照喜名さんの特別講義を受けるには、オーディションを通過して2018年3月から5月まで週5日間のリハーサルに参加する必要がある。日本のバックグランドをもつ出演者候補を探しているそうで、オーデションは11月12日の午後1 時から2時の間、マーサー・アイランドのエマニュエル教会で実施予定。

加えて、誰でも無料で参加できる日曜ワークショップも開催する。こちらは、気軽に紙芝居ライブを楽しんだり紙芝居制作を体験したりできる内容だ。「せっかくのシアトル訪問に合わせ、ユース・シアター・ノースウエスト以外でも、ふたりの紙芝居ライブを周辺の学校などで行いたい」と、交野さん。紙芝居ツアーの予約も受け付けているので、詳細は下記まで問い合わせを。

■出演者候補オーディション 11月12日(日)1~2pm
※小学4年生以上対象、受講料$1,322
■日曜ワークショップ 2018年2月4日(日)・11日(日) 18日(日)1~5pm
※小学4年生以上対象、参加無料
会場: Youth Theater Northwest:4400 86th Ave. SE., Mercer Island, WA 98040
問い合わせ: ☎206-232-4145 Ext. 102 メール: mimi@youththeatre.org

AIイノベーション・ミートアップで日本企業とシアトル企業をマッチング

10月4日~6日にコロンビア・タワーで行われたイノベーション・ファインダー・キャ ピタル(IFC)主催の企業向けミートアップ・イベントをレポートします。
(取材・文:室橋美佐 取材協力:池田明美)

在シアトル日本国領事館公邸で行われたレセプション・パーティーでは、 山田洋一郎総領事、ブライアン・ボンレンダー商務長官による鏡割りも

2016年から開催されてきた、AI分野のイノベーションを求める日本企業とシアトルのスタートアップ企業とをマッチングさせる同イベント。6回目となる今回はワシントン州商務省とオリック・ヘリントン・アンド・サトクリフ法律事務所が協賛スポンサーとなり、日本 からNTTデータ、富士通、セイコーエプソン、 日経新聞、TOTO、デンソー、OKWAVE、ルネサ ス、三菱商事、三井物産、双日、青山学院大学の 11社1大学が参加した。

IFC共同創設者の江藤哲郎氏とトム佐藤氏 は、共に80年代後半の日本マイクロソフト立ち上げにかかわった人物。その後に江藤氏は 電通のIT戦略を、佐藤氏はITスタートアップ企業の資金調達や成長戦略を担ってきた。ふたりは同ミートアップを企画しつつ、そこから実際のビジネスへ転じるプロジェクトやスタートアップ企業へ、ベンチャー・キャピタルとして投資をする。「シアトルにはAI 分野の産業クラスタが出来上がっている。マイクロソフトやアマゾンなどの大手プレーヤー、イノベーションを持つ スタートアップ、そして大学の研究機関がある。しかも、州政府と始めとする行政からのサポートも厚い」と江藤氏。

コロンビア・タワーでの個別商談会を前に、 10月4日には在シアトル日本国領事館公邸で「リバース・ピッチ」によるプレゼン会も開催された。リバース・ピッチとは、日本企業側からどのようなイノベーションを求めている か、集まったシアトル所在のスタートアップ企業に提示し、個別商談していくスタイルだ。 「コンベンションセンターで大掛かりなエキスポを行うよりも、ピッチ会と個別商談会の場を定期的に提供するほうが効率的」と佐藤氏。同イベントを機に、日本・シアトル企業間の新たなコラボレーションが生まれるかもしれない。次回は2018年1月24日~26日を予定。

 

シアトル出身のシンガーソングライター エミ・マイヤーさん

シアトル出身のシンガーソングライター
エミ・マイヤーさん
取材・文:室橋美佐

 

東京を拠点にシンガーソングライターとして活躍するエミ・マイヤーさん。今年9月にシアトルのジャズ・レーベル、 オリジン・レコードから新アルバム「モノクローム」を発売しました。第一子出産を間近に控え、ますます輝きを増す エミさんの素顔に迫ります!

新アルバムはシアトルのインディーズ・レーベルで

アルバム「モノクローム」は、日本、韓国、タイで2015年に発売しており、オリジナル曲「モノクローム」「イフ・アイ・シンク・ オブ・ユー」などに、スタンダートジャズのカバー曲を加えていました。今回、オリジン・レコードから出すアルバムでは、北米マーケット向けにスタンダードジャズを外し、オリジナル曲を中心に収録しています。新曲の「オデュッセイ」「パラソ」「肉と 骨」などは、オリジン・レコード創設者でドラム演奏者のジョン・ビショップらローカル・アーティストたちとコラボしています。

ジョンは、中高生の頃にジャズ・キャンプで教えてもらって 以来、私のメンターです。昔から憧れていた地元の老舗インディーズ・レーベルからアルバムを出せたことは、私にとって、それだけで意味のあることです。

新曲の収録は(マイクロソフト創設者のひとり)ポール・アレン氏のスタジオを使わせてもらいました。彼は素晴らしい 設備を提供し、地元のジャズ・ミュージシャンを積極的にサポートしています。最近は変わりつつあるシアトルですが、そいういうローカルのコミュニティーがあるのは、シアトルの素敵なところですよね。

中学時代に出合ったジャズの世界へ

クラシック・ピアノを子どもの頃から習っていました。中学校に入って、ジャズ・バンドでピアニストを探していると聞き、参加したのがジャズの世界に入るきっかけとなりました。同じピアノ演奏でもクラシックとジャズはとても違っていて、最初は戸惑いました。たとえば、ジャズではクラシックのような細かい譜面はなく、アドリブの演奏が大切です。ジャズが身近 にあるシアトルで、素晴らしいメンターに囲まれる環境に身を置くことができました。

母は日本人ですが、私はシアトル育ちなので、やはり日本語よりも英語のほうが強いです。作詞も英語で書くほうが得意。英語で歌うときは自然と感情が入るので、ひとつひとつの言葉がしっかりと聴き手に届くよう、発音に気を付けて歌います。日本語で歌うときは逆。発音に気を取られると感情が入らなくなってしまうので、発音は気にせず、感情を込めることに集 中します。

シアトルには実家があるので、よく帰省します。いつ来ても新しい店ができていて、レストランめぐりが楽しみです。グリーン・レイクを散歩するのも好き。でもいちばんの楽しみは、実家にあるグランドピアノを弾くことでしょうか。東京ではもっぱらキーボードなので。

東京は人がたくさんいて、ライブ会場もいろいろとあり、連続して週末ライブを開催しても「かぶる」ということがありま せん。客層も、会場の雰囲気も、協演者も、その時々で全く違っ たものになる面白さがあります。世界中から訪れるアーティ ストも魅力です。

生まれてくる子どものための新曲

もうすぐ母になるということで、周りからは「人生が激変する よ」と言われていますが(笑)、まだどんな風に変わるのか予想もつきません。でも、今は歌うときもピアノを弾くときも、お腹の中の赤ちゃんに聴かせている感じはあります。

新宿Flagsの2017年秋冬キャンペーン・ソングとなっている新シングル 「Tables Turn」は、マックルモアのプロ デューサーとして知られているBudo のプロデュースにより、シアトルで録音

ちょうど9月に、テネシー州ナッシュビルで次作アルバムを 収録してきたのですが、生まれてくる子どものために作った「ララバイ(子守歌)」という新曲も入っています。ここ数カ月はお腹の中で赤ちゃんの耳がつくられるころ。初めて耳にする曲に なるのかなって、不思議な気持ちです。ナシュビルは保守的で家族を大事にする土地柄。子育て中のアーティストが多く、スタジオに家族を連れて来ることも。東京やニューヨークでの収録は夜間に行われがちですが、ナシュビルでは昼間の収録が普通。子どもの学校が終わる3時ごろには収録を終えるなど、とても新鮮でした。

次のアルバムは来夏辺りにゆっくりと出していく予定。イベントやCMのお仕事も続けていきますが、しばらくは作詞・作曲に集中する時間を、これまで以上に大切にしていきたいと思っています。

取材協力:EN Pacific Service Inc.

Music Video, “If I Think of You” ‘s production supporter

エミ・マイヤー(Emi Meyer)■シアトル-神戸ジャズ・ボーカリスト・コンペティションで優勝。デビュー・アルバム「キュリアス・クリーチャー」は 数々のジャズ・チャートで首位を獲得し、その年のベスト・ニュー・アーティストにも選ばれた。温かなスモーキー・ボイスは多くのCMでも聴くこと ができ、2015年に大ヒットした映画「ビリギャル」でも劇中歌3曲を歌っている。
公式サイト:Emi Meyer

 

日本酒を世界の高級ワイン市場へ 「MIZUBASHO – 水芭蕉」ブランドの挑戦

日本酒を世界の高級ワイン市場へ
「MIZUBASHO – 水芭蕉」ブランドの挑戦
取材・文:室橋美佐

 

世界の三ツ星レストランでワインリストに並ぶ日本酒「MIZUBASHO – 水芭蕉」。ニューヨーク最高峰のフレンチレストラン「ダニエル」や、世界一予約が取れないレストランと呼ばれたスペインの「エル・ブジ」のソムリエからも信頼をおかれる味だ。そんな水芭蕉ブランドを生み出した永井酒造社長が7月にシアトルを訪問し、「NAGAI STYLE(ナガイ・スタイル)」と呼ばれる日本酒と洋食コースのペアリングディナーを開催した。

(左)コーレス松美■永井酒造株式会社 海外統括ディレクター / 上智大学国際教養学部卒業後、シアトル・ワシントン州観光事務 所勤務などを経て2005年からシアトル在住。パイクプレース・ マーケットやベルタウンで食ツアーを企画運営しながら、ワイ ンの国際資格WSETを取得。2006年頃からワインの国際マー ケティングやワイナリー視察ツアーの企画運営に従事。2016 年から現職に就き、利酒師認定を取得。

(右)永井則吉■永井酒造株式会社 六代目蔵元 代表取締役社長 / 1886年から続く永井酒造の六代目蔵元。東海大学工学部建築 学科卒業後、1994年に永井酒造入社。酒造り修行の後、2003年 に工場長就任。世界初の瓶内二次発酵スパークリング日本酒「水 芭蕉ピュア」を2008年に発売し、世界的ヒットで日本酒業界で 一目を置かれるようになる。その後も熟成酒「リザーブ」など日 本酒界を驚かす商品を次々に開発し、世界の一流ソムリエが認め る水芭蕉ブランドを生み出す。2013年から現職。一級酒造技 能士。清酒専門評価者。

日本酒をワインのステージに

永井酒造は群馬県利根郡の川場村という人口約3300人の小さな山里にある。利根川など5本の一級河川の源流が湧き出る山々に囲まれ、その清らかな水と自然に惚れ込んだ初代が1886年に川場村周辺の山を買って源流を確保し、酒造りを始めた。「村に吉祥寺という寺があって、そこに水芭蕉が咲いているんです」と、咲き誇る水芭蕉の写真を見せてくれた永井氏。標高が高くて水がきれいな場所にしか生息しない花だという。水芭蕉ブランドの由来だ。

川場村で生まれ育った永井氏は、大学時代には村を離れて建築を学んだ。イギリスの建築専門学校への留学も予定したが、直前に取りやめて家業を継ぐ決心をした。「そんな折に、ある人生の先輩が『酒造りの道に入るなら世界のワインを飲んでおけ』と言って、白 ワインの王様と呼ばれているフランス産『モンラッシェ』を飲ませてくれたんです」と永 井氏。当時はワインの知識は全くなかったが、その味にとにかく感動したと言う。その感動が永井氏の出発点になる。永井酒造の跡取りとして酒造りの修行を始めた永井氏 は、一方でワインの知識も深めていった。

「ナガイ・スタイル」ペアリングディナーには、日本酒とワイン流通関係 者の他にウッディンビルの名店「ザ・ハーブファーム」の歴代ソムリエ 2名も参加した

日本酒は、純米、本醸造、吟醸、大吟醸というように造り方や精米度でカテゴリーやラン クが決められている。永井氏は、そういった規定カテゴリーで価格帯が決まってしまうことに違和感を感じていた。「ワイン業界を見るとカテゴリーによるランク分けはほと んどなく、ワイナリーのブランド力で金額が決まっていることに気づいたんです」と永井氏は話す。永井酒造もブランド力で世界へ勝負をかけたい。そして、日本酒より遥かに 大きいワインの市場に入り込むにはどうすべきかを永井氏は自問自答した。「フレンチ でも、イタリアンでも、高級レストランではソムリエが料理にペアリングしてワインを勧めてくるわけですが、日本酒にはそれがなかった」と永井氏。そこに目を付けた。世界の 一流レストランでワインが料理に合わせて出されるそのスタイルに日本酒を乗せること で「日本酒をワインのステージに引き上げよう」という答えに行きついた。

ワシントン州東部シュラン湖周辺にあるワイナリー 「ティラン(Tillan)」のマーケティングマネージャーも参加し、水芭蕉に あわせてティランのワイン銘柄もペアリングされた

現在、永井酒造は「MIZUBASHO – 水芭蕉」ブランドとして4タイプの商品をそろえる。乾杯酒としてアパタイザーに合わせるスパークリング酒「ピュア」、サラダやスープ など一品目に合わせる「純米大吟醸」、肉などのメインには熟成酒「リザーブ」、そして「デ ザートSAKE」だ。コース料理にあわせて、4タイプの日本酒を楽しむスタイルを「ナガイ・ スタイル」と呼んで、和食店以外のレストランへも提案する。

感動の味を目指した5年間

海外統括ディレクターのコーレス松美さんは、「日本酒がワインの市場に入ろうとするとき、ワイン通が好むようなフルーティーさを出してワインの味に近づけることもできるんです」と説明する。しかし、永井氏が目指したのは全く違うものだった。水芭蕉ブランドのこだわりは、酒ならではの米の味を最大限に引き出してさまざまな料理に合うバ リエーションを生み出すことだ。4タイプの日本酒は全て同じ米、麹、水を使い、米の精 米度も同じ。製法も日本古来の米と水だけで作る純米製法。それでいて、全ての商品が全く異なる味、香り、色、食感を持つ。「ぶどうの種類で味のバラエティを出すワインの世界からみると、これは本当に興味深いことなんです」と松美さん。

「ザ・ハーブファーム」の現ソムリエのブルース・アクターマン氏

現在は社長として経営手腕を発揮する永井氏だが、そもそもは製造現場が専門だ。「月に1日は、スマホやPCから一 切離れて酒蔵にこもり、全商品の味をチェックします。それ が今でも一番大事な仕事です」という永井氏の品質へのこだ わりが水芭蕉ブランドの根底にある。社長就任前は、最初の ヒット商品になったスパークリング酒「ピュア」の開発に5年 以上を費やした。ピュアは、炭酸ガスを加える一般的な発泡 日本酒とは異なり、伝統的な純米製法にシャンパンと同じ瓶 内二次発酵を取り入れた画期的な商品。発売までに700回 以上の失敗と試行錯誤を繰り返したという。シャンパーニュ 地方に1カ月間の研修滞在もした。ようやく発売されたピュ アが、2009年にスペインの「エル・ブジ」で採用されると、水芭蕉ブランドは一気に世界へ広がることになった。「世界的 な一流ソムリエが『これまでにない味だ』と感動してくれた、 それで自信がついたんです」と永井氏。 

ピュア発売の翌年には、赤ワインに相当する深い味わいが 特徴の熟成酒「リザーブ」の他、4タイプの水芭蕉ブランドを 完成させた。

トップセールスで日本の酒文化を世界へ

「デザインにしても味にしても水芭蕉ブランドは絶対に トップセールスでいけると思ったんです」と松美さん。長年 にわたりワインの国際マーケティングに携わってきた彼女の 人脈とノウハウが永井酒造を後押しする。「1年半前にウッ ディンビルの名店『ザ・ハーブファーム』のオーナーにお願い をして、チーフシェフとソムリエを集めて水芭蕉ブランドを 利いていただいたんです」。最初は皆が静まりかえって緊張 感が漂ったという。「ワインに精通する人たちが、初めて体験 する日本酒の味を消化していた」時間だった。沈黙の後、素晴 らしいコメントが返ってきた。「ここで認められたら、いける」 と思った松美さんは、それから永井氏を連れてニューヨーク の「ダニエル」やナパ・バレーの「フレンチ・ランドリー」と、全 米の三ツ星レストランをまわる。ダニエルでは「ピュア」が、 フレンチランドリーでは全4銘柄が採用された。

料理はウッディンビルにある「ピクニック・テーブル」のオーナーシェ フ、ダニーロ・アマト氏が腕をふるった。ノースウエストの食材を生か した上品なイタリアンのコース料理が、酒とワインの共演を盛り立てた

世界的なブランドを意識する永井氏だが、「海外出張でど んな場所へ行っても常に片足は川場村に置いているつもり です」と話す。「グローバルで、なおかつローカルというのを 目指しているんです」。永井酒造は、改築した旧酒蔵で「蔵カフェ」というカフェレストランを直営している。酒と地元の 食材を生かした料理のほか、近くのケーキ屋とのコラボレー ションで作る酒粕ケーキや、仕込み水をつかった水出しコー ヒーも人気だ。「川場村は、美しい自然と美味しい食材に恵 まれていて、素晴らしい旅館も数々ある」と話す永井氏は、地 域の酒蔵や地ビール工房などと連携して「利根沼田酒蔵ツー リズム」という酒蔵巡りで地元に観光客を呼び寄せようとい う取り組みも行っている。松美さんが企画するナパ・バレー でのワイナリーツアーからアイディアを得たものだ。「川場 村発の日本酒が世界に認められることで地元に人を呼び込 んで活性化できれば」と永井氏。

「信頼や品質というのは大原則で、その上でいかに感動を 与え続けられるか」がブランディングだと永井氏は考える。 130年にわたり地元で愛され続けてきた老舗の味は、これか らさらに世界の注目を集めそうだ。

ラズベリーソースでアクセントが効いた鴨肉とワイルドライスのメイ ン料理には熟成酒「リザーブ」をペアリング。マイナス2度のセラーで 10年以上寝かせて熟成させた味は、赤ワインに相当する深み。柔らか い鴨肉のうまみに、上品で濃厚な熟成酒の味わいが絶妙に重なる

 

神戸ビジネスセミナー

神戸ビジネスセミナー
ビジネス拠点としての神戸の魅力を知る
取材・文:室橋美佐

 

今年は神戸市とシアトル市の姉妹都市提携60周年にあたる。1956年にシアトル市長が同市として初めての姉妹都市提携を神戸市に申し入れ、1957年に締結。60年間にわたってビジネスや文化、教育など幅広い分野で交流が続いている。神戸港とシアトル港も1967年に姉妹港提携をして今年が50周年だ。7月28日、シアトル港本部で記念式典が行われ、神戸市から玉田敏郎副市長や神戸市会議員、神戸・シアトル姉妹都市協会、おまつり大使などが出席した。前日7月27日には「神戸ビジネスセミナー」が開催され、神戸のビジネス投資環境について講演が行われた。

KOBE 海と山に囲まれた国際都市

神戸は古代から港町として栄えてきた。江戸幕府が鎖国政策を終えて1868年に神戸港をアメリカとの商取引のために開港すると、神戸の街は日本の国際貿易拠点として成長を遂げた。「神戸は古くから外国の文化を受け入れてきました」と神戸シアトルビジネスオフィス代表の染谷哲也氏は語る。開港当時からの洋館も街のあちこちに残り、独特な趣ある街並みが見られる。神戸市は交通標識や駅案内の多言語表示をいち早く取り入れており、同市に根付く外国人居住者を積極的に受け入れる文化がうかがえる。

「ネット社会になり、どこにいても仕事ができる業務形態が多くなった今、神戸をビジネス拠点として選ぶ人が増えています」と染谷氏。首都圏に比べると物価が安く家賃や食費などの生活費が安価であるうえ、生活環境が豊かだという。海と山に囲まれる神戸市は、その美しい景観が魅力。市街地は六甲山と瀬戸内海の狭間を横に伸びており、どのエリアに住んでいても山が間近に迫る。「神戸には『早朝登山』という言葉があって、多くの人が日常生活の中で気軽に登山を楽しんでいます。自然に囲まれた環境はシアトルに近いかもしれません」。

大阪駅まで電車で約20分、新幹線や飛行機を使えば東京へも約2時間余りと、都市へのアクセスは抜群だ。北米西海岸やアジアの中心都市へ直行便が出る関西国際空港へも、神戸空港から高速船で約30分だ。その一方で、日本最古の温泉として名高い有馬温泉や、神戸の美しい街並みを見下ろせる六甲山などの観光スポットへも1時間以内で気軽に訪れることができる。中心繁華街の三宮エリアにはレストランや居酒屋が集まり、「食」の面でも豊かだ。「スイーツも灘酒もおいしいですが、本場のKOBEビーフは最高ですよ」と染谷氏。

1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市。しかし、計画的な復興で2008年にはユネスコ創造都市ネットワークのデザイン都市に認定されている。神戸港内に作られた人工島「ポートアイランド」には、震災直後から医療関連企業や研究所が誘致され、現在では日本一の医療バイオテック産業クラスターが形成されている。また、久元喜造(ひさもと・きぞう)市長が2013年に就任してからは、IT分野のスタートアップ企業誘致も積極的に行っている。染谷氏は「シアトルには医療バイオテックやハイテク分野で成功を収めている企業がたくさんあります。そうした企業関係者へ、アジア進出拠点として神戸にオフィスを置くメリットを伝えたい」と、神戸ビジネスセミナーの意図を説明してくれた。

染谷哲也(そめたに・てつや)■神戸シアトルビジネスオフィス代表。神戸で生まれ育つ。大学で法律を学んだ後に神戸市役所に入庁。1991年にワシントン大学でMBAを取得。都市計画局に勤務し、1995年の震災直後は街の復興業務に関わる。2015年から現職。

続いては神戸ビジネスセミナーの様子

ワシントン州日本文化会館事務局長 カレン・ヨシトミさん

 

1902年に創設されたシアトル国語学校校舎を継承し、現在の日本語学校や日系コミュニティー集会所として運営するワシントン州日本文化会館。同会館の事務局長を務めるカレン・ヨシトミさんに、自身の日系家庭について、リドレス運動について、JCCCWの歴史とこれからについて語ってもらった。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 翻訳:室橋美佐

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)
事務局長
カレン・ヨシトミ
Karen Yoshitomi
■ ワシントン州日本文化会館事務局長。スポケン生まれ。高校時代はタコマで過ごす。ワシントン大学で心理学を学んだ後、Japanese American Citizens League (JACL)で20年以上にわたり勤務。2014年から現職。

日系の歴史を始めて知った学生時代

幼い頃はスポケンで過ごしました。スポケンでは、日系人である我々家族はまさに「マイノリティー」。人種差別もありました。家族の会話でも、日系人としてのアイデンティティーや戦争中の強制収容の話をすることは一切ありませんでした。しかし、初めて他の日系人家族に出会った時、両親は待っていたかのように「キャンプへ送られた?」「どのキャンプにいたの?」と話し始めたんです。私も、他の兄弟も、何のことだか分かっていませんでした。

ワシントン大学でアメリカ民族研究プログラムとアジア研究プログラムを履修しました。それを機に、幼い頃に耳にした「キャンプ」の意味を初めて知りました。テツデン・カシマ教授の授業で、戦時中の日系人強制収容と投獄について学び議論する機会を得たのです。当時、私たち家族は祖父母と同居していたので、彼らに話を聞きました。祖父は既に80歳を過ぎていました。もっと早くから話を聞けていたらと思います。祖父はあまり多くを話したがりませんでした。苦い思い出だったのでしょう。祖母からはたくさんの話を聞くことができました。といっても、私が聞き出さなければ、祖母も自らは多くを語りませんでしたが。

大学を卒業してJACLで働き始めました。ここでさらに日系移民の歴史について私の好奇心が広がりました。当時は80年代後半で、リドレス運動(アメリカ合衆国政府に対して、日系人強制収容に対する謝罪と補償を求める運動)が終結を迎える頃でした。(レーガン元大統領の日系アメリカ人補償法署名後に)司法省が、補償の対象になるべき日系人を定める業務を手伝いました。この業務の中で、何年にもわたって自身の経験や想いを語ることのできなかった人々に出会いました。この戦後補償実現は、そうした人々にとって本当に意義のあることだったんです。残念ながら私の祖父は、レーガン大統領が署名した1988年には既に他界していました。しかし、私の祖母、母、叔父や叔母にとっては大きな出来事になりました。私の母は1930年生まれなので、強制収容へ送られたのは母が12歳の頃だったはずです。

日本文化会館のルーツ

1902年に創設されたシアトル国語学校の木造校舎。20世紀初頭のシアトルで生活した多くの日系人生徒たちが、この校舎で日本語を学んでいたと思うと感慨深い。校舎内には、様々な写真や遺品も展示されている

日本文化会館は1902年に「国語学校」として始まりました。創設時の文書などを読み返すと、「日本の言葉を伝え、文化を伝える」ことが目的だとあります。校舎は学校としてだけでなく、集会所としても使われていました。県人会、庭師協会、商業団体などが集会やイベントを開催する場でした。実のところ、100年以上たった現在でも日本文化会館として全く同じように機能しています。

変化している部分もあります。かつて日系コミュニティーはシアトル社会全体からは孤立し、内に閉じた存在でした。日系社会に対して大きな誤解、偏見、差別がありましたから。しかし今は違います。現在では日系の血を継いでいなくとも、日本の文化、芸術、言語に興味をもつ人々がたくさんいて、そうした人々全てに支えられています。素晴らしいことです。色々なバックグラウンドを持つ人に日本文化を伝える、外に開かれた状態と言えます。

20世紀初頭に建設された校舎は、公的補助金を受けて必要な改修などが施されながら歴史的建築物として保護され、会館施設として使われています。定期的なプログラムとして日本語学校の他に、柔道、合気道、誠道空手、少林寺拳法、太鼓グループが活動しています。会館内の稽古場は外部の道場にも貸し出され、夕方はとても賑やかです。昼間もさまざまな団体が集会や稽古に会館施設を使っています。非営利団体であれば低料金で、メンバーであれば無料で貸し出されています。日英両言語の書籍が並ぶ図書館もあり、毎週火曜日と金曜日にボランティアによって運営されています。

ストーリーを伝えることの大切さ

 

日本文化会館の「Omoide」プログラムは、強制収容の歴史を経験者自らが自身のストーリーとして伝えていくプロジェクトです。JACLでも同様の活動があり、そこでは「The Power of Words」と呼ばれています。あえて「強制収容」とか「撤去」という言葉を使わないのは、そうした直接的な言葉を使えば、逆に誤解を招くからです。「Omoide」は、過去の経験を気兼ねなく語れる場です。(注:Omoideで語られるストーリーは、北米報知新聞の毎月第1木曜日号に掲載されている)

歴史の多くは男性によって語られます。それが戦時中の話であれば特にそうでしょう。女性が語るストーリーは男性とは違う視点になります。女性は家族をまとめ、文化を保っていく立場にいましたから。女性は公の場で自身の経験を語るような機会がなかなかなかっただろうと思います。Omoideでストーリーを語る女性の多くは、自身の経験は人に語るほど大それたものではないと言います。それぞれの局面でやるべきことをやってきただけだと。しかし女性が語るストーリーは、時に驚くほど壮絶です。

コミュニティーの絆を繫ぐ

隔月第3木曜日には、日系コミュニティー・ネットワークという会合が行われています。県人会、敬老ノースウェスト、日米協会など約30団体からの代表者が集まり、情報交換をします。日系イベントの日程が重ならないように調整したりもしています。

最近の新しい動きとして「Friends of Japantown」も会合を行っています。かつて栄えた日本町を残し伝えていこうという試みです。ウィングルーク美術館では、日本町のツアープログラムも開始されました。8月26日には「Nihonmachi Night」のお祭りも開催予定です。日本町の中心に位置するパナマ・ホテルは現オーナーが売却を予定していますが、同ホテル内にある銭湯跡などは何かしらの形で残されるはずです。

日系アメリカ人としてのコミュニティー意識は少しづつ薄くなっているとも言えます。しかし若い人たちも、自分たちの中に残されているDNAに興味を持っているのも確かだと思います。これまでの日系コミュニティーの意識は、「保護する」という点にありました。自分たちのコミュニティーを外部から守らなければならなかった。現在においてはそれは違ってきていると私は思っています。私の仕事は、この旧校舎やコミュニティー集会所としての文化会館を残していくことにあります。ただ残すだけでは意味がなく、さらに成長させていかなければなりません。そのためにこの場がより幅広い人々に利用されるようにしていきたいと思っています。

7月にはサマーキャンプを開催して、日本文化に興味を持つ子どもや若者を受け入れます。8月は「All Things Japanese sale」も開催します。同セールスイベントでの売り上げは文化会館の運営資金になりますので、日本に関連する品なら、ぜひ何でも寄付してください。本当に素晴らしい寄付品が毎日のように持ち運ばれてきています。ある男性は鋳鉄製鍋を20点以上も届けてくれました。大量に寄付いただいた漆椀には、「Made in Occupied Japan(占領下日本)」の印がありました。歴史と、人と、コミュニティーとつながりを深められるこの仕事は、私の天職です。

ワシントン州日本文化会館

Japanese Cultural and Community Center of Washington(JCCCW)
住所:1414 S Weller St, Seattle
詳細:www.jcccw.org

ポール・ムラカミさん シアトル日本町活性コミュニティー

ここ数年の不動産ブームで、急激に変化するシアトルの町並み。そんな中、ジャクソン・ストリートに昔ながらの趣を残すビルがある。「KOBO at Higo」「Momo」「かなめ居酒屋」などがテナントとして入り、日本町の中心になっているジャクソン・ビルだ。同ビルオーナーのポール・ムラカミさんに、ビルの歴史や、日本町への想いを語ってもらった。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 訳:室橋美佐

ポール・ムラカミ(Paul Murakami)
■ジャクソン・ビル所有者。日系3 世としてキャピトルヒルで生まれ育つ。両親と祖父母は日本町でホテルや商店を営んでいた。父親の従兄妹にあたる叔母から受け継いだジャクソン・ビルに新しい日系店舗を呼び込み、日本町再活性の中心的人物として知られる。

マサ叔母さんとアヤ叔母さんのお店

叔母二人は、とてもお洒落な人たちでした。私たちの家へ遊びに来るときには、いつでも髪を綺麗にセットしていたのを覚えています。冬には毛皮のコートに身を包み、まだ子どもだった私と弟は、二人の叔母のことを「まるで貴婦人だ」と思っていました。とにかく優しかった。子ども好きで、熱心に私と弟の話に耳を傾けてくれたものです。

私と弟は、叔母さんたちの店「ヒゴ・バラエティーストア」へよく遊びにいきました。店にはかすかに防虫剤の匂いが漂っていて。それが当時の私たちには心地よく、叔母さんたちの店は安心して過ごせる場所でした。今でも叔母さんたちのことを考えると、あの匂いを思い出します。

妹のマサ叔母さんはお喋り好きな人でした。時には、姉のアヤ叔母さんと、一緒に店に立っていたカズイチ叔父さんに、「喋ってばかりいないで仕事をしろ」と叱られていることもありました。しかしいま考えれば、時間を惜しまずにお客さんとお喋りしていたマサ叔母さんが、近所の人々を店に呼び込んでいたのだと思います。

ビル運営を受け継ぐ

やがてカズイチ叔父さんもアヤ叔母さんも亡くなると、マサ叔母さんが一人で店に立っていました。叔母さんたち兄弟姉妹には、誰にも子どもがいなかったのです。2000年を過ぎた頃から、マサ叔母さんの体も徐々に弱っていきました。物忘れがひどくなって、請求書の支払いを忘れていたり。私は週末に店を訪れては、会計の手伝いをするようになりました。いつしか、叔母さんからすっかり色々なことを任されるようになりました。建物はすっかり老朽化していました。「屋根、電気、上下水道、この3つが建物の基本インフラだから、そこから直していこう」とマサ叔母さんに説明をして、少しずつ手をつけていったのです。屋根や下水管を取り換え、古くてすぐに停電していた電気系統を新しくして、といった具合に。

修復したビルに最初にテナントとして入ってくれたのは、現在のMomoのオーナーである、レイ・アン・シラミズです。当時はコピーライターをしていた彼女が、2階のオフィスを使ってくれました。若くてエネルギッシュな彼女は、日本町の歴史、そしてジャクソン・ビルの歴史に関心を寄せてくれました。2003年にマサ叔母さんの店を閉店した時には、店の整理に進んで力を貸してくれました。

こんな流れの中で、私も決断をしました。当時勤めていたキング郡公衆衛生課での仕事を辞め、ジャクソン・ビルの管理をフルタイムで行うことにしたのです。

ジャクソン通り沿い、6thアベニューとメイナードアベニューの間にあるジャクソン・ビル。今年8月26日には、当ビル店舗が中心になり「日本町ナイト」を開催予定

KOBO との出会い

私はサンフランシスコにある「Ichibankan」という雑貨屋がとても好きで、その店を呼び込めないかと考えていました。サンフランシスコへも足を運んだりして、可能性を探っていました。そんな折、友人のテリー・タテウチがKOBOの話を持ってきてくれたんです。「KOBOのビンコとジョンが、ヒゴ・ストアー閉店後のスペースに興味を持っているよ。ヒゴの歴史を継続していくことにも」と。

それが今のジャクソン・ビルにつながる最初のきっかけでした。KOBOとの出会いで、叔母から受け継いだジャクソン・ビルとヒゴ・ストアーの歴史を残し、日本町らしいビジネスに人々が集まるような場所を作っていく、そういう方向への道筋ができたんです。KOBOは、ジャクソン・ビルのアンカー店です。

KOBOの開店はまさに、「みんなの」プロジェクトといった感じでした。ビンコとジョンが友人たちも巻き込み、壁を塗り替えたり、電気を取り換えたり、キャビネットや家具を新しくしたりと、大がかりな作業。多くの仲間が、もちろん私と弟も含めて、毎晩遅くまで一緒に作業しました。実に楽しい時間でしたよ。

日本町を失いたくない。集まった新しい仲間たち

現在のMomoのオーナーであるレイ・アンが、いつか自分の店を開くという夢を持っていたことは知っていました。だから、いつかここで店を開いてほしいと約束していたんです。1階で眼科を営んでいた老夫婦がクリニックを閉めて、ほどよいタイミングでスペースに空きが出ました。コンクリートの壁に色を塗って、デモ商品を置いてみると、なんともいい感じの店になりそうでした。ここでもまた、レイ・アンの仲間が大勢集まっての共同作業になりました。旦那さんのトムはグラフィックデザイナーなので、デザイナー仲間が壁や棚のデザインをしたりして。まさに、みんなの愛がつまった作業でした。誰もが、「日本町の再生」というアイディアに心をおどらせていました。日本町を失くしたくなかったんです。

かなめ居酒屋は、かつて「たこ八」という日本食レストランがあった場所でした。たこ八のオーナーもまた年老いて、店を閉めることを考えていました。私はどうしても、また日本食のレストランを呼び込みたかった。そこに現れたのが、トッド・クニユキです。トッドの義兄は、日本で居酒屋店舗のデザインをしていました。雑誌でその居酒屋デザインを見ると、なんともクールで。かなめ居酒屋の店舗は、トッドと彼のお義父さんが、たくさんの資金、そして彼らの「血と汗」をかけて作り上げました。この居酒屋と、焼酎バーは、日本町の新しいアクセントになりました。

6thアベニュー通り側に「Osami」という床屋がありました。昔からあった店舗で、彼らが閉店した時はとても寂しかった。Osamiのオーナーには、床屋のスモックも、髪をとめるクリップも、古い看板も、思い出として何もかも残していってもらった。この店舗はしばらく空いていたけれど、2016年にブライアン・ジャガーが「パイオニアー・バーバー」という新しい床屋を開店してくれました。ブライアンは私たちと同じパッションを持っていて、今ではすっかり日本町の新しい仲間です。Osamiの古い看板は、今ではブライアンの店の中に飾られています。

今、私たちは「フレンズ・オブ・ジャパンタウン」というグループを作っています。今年8月26日には「日本町ナイト」というお祭りを開催します。日本町では毎年夏に祭りが行われていた。そんな過去の記憶を思い起こそうという取り組みです。

歴史と今を残していく

私の父は、メインストリートと5thアベニューが交差するエリアで生まれ育ちました。母はイェスラー通りで育ちました。母はこの通りのことを、昔ながらの呼び名で「スキッド・ロード(*)」と呼んでいました。母方の家族は日本町でホテルを経営し、その傍らでクリーニング業も営んでいました。日本町中のホテルのリネン類をクリーニングしていたそうです。この日本町は、私たち家族にとっての故郷なのです。

戦時中、私の両親はミニドカ強制収容所へ行きました。父は第442連隊戦闘団へ志願して、ヨーロッパ戦線に参加しました。父は戦争前にはSand Point Naval Base(シアトルにかつて存在した海軍基地)で働いていたんです。しかし戦争がはじまると解雇されたので怒りを感じ、強制収容所へ入れられるとすぐに兵役志願をしたそうです。祖母と叔母たちは、志願を取り消すように試行錯誤したらしいのですが。

今は私にも大きくなった子どもたちがいます。やがては彼らの世代へ引き継ぐことになります。「テナントを大事にすること。もちろん利益は手にするのだけど、そこに集まる店やコミュニティーを大事にしてほしい」と伝えています。
このジャクソン・ビルが壊されて、新しいビルが建てられるようなことは考えたくない。歴史と今を、残していきたいと思っています。

*イェスラー通りは19世紀にシアトルが林業で栄えていた頃、丘の上で撮った木材を港へ運ぶ道筋であった。そのことからスキッド・ロードと呼ばれていた。

オリジナルの英語インタビュー記事は、北米報知6月1日号をご覧ください!

 

社会構造の変化にどう対応するか

多くの人が悩む敬語の使い方について、『新・敬語論/なぜ「乱れる」のか』(井上史雄著、NHK出版新書)は、文化庁やNHKなどの行った敬語の調査データを分析している。敬語は「乱れている」「誤用」とよく言われるが、社会構造や人間関係の変化を反映し、上下関係を表すのではなくお互いを配慮しあう言葉として合理的に変化しているからではないかという視点を具体例をあげて示している。
 2040年代後半、日本の人口は1億人を割るだろうと言われている。1966年、1億人を超えた時に7%弱だった65歳以上の高齢者の比重は、2040年には4割に迫ると予測されている。『シルバー・デモクラシー/戦後世代の覚悟と責任』(寺島実郎著、岩波新書)の著者は、有権者人口の5割を高齢者が占め、「老人の、老人による、老人のための政治」時代の到来を目前にした今、高齢化が後の世代へのコストと重圧にならないように、高齢者が参加し、少しでも貢献するような仕組みを模索する必要がある、とうったえる。
 『超ソロ社会/「独身大国・日本」の衝撃』(荒川和久著、PHP新書)(写真)の著者によれば、少子高齢化より深刻、というのが日本のソロ(ひとり)社会。人口減、未婚化、非婚化、離婚率の上昇、配偶者の死別による高齢単身者の増加で、多くの人がソロ(ひとり)で生きる、という選択肢を迫られる時代が来る。若者を中心にSNSなどで使われている「ソロ充」という言葉を、ソロ(ひとり)が充実している、ひとりを楽しむことができるポジティブな言葉として紹介している。
 自ら「ソロ」と名乗るのは、友だちがいなくて孤独と思われる「ぼっち」や「おひとりさま」と見られたくない、という思いで生まれた言葉でもある。「ひとり」でも孤立するのではなく、職場や家族、恋人に依存せず、能動的に選択と自己決定ができるのが、これから必要な「ソロ」という生き方だとしている。

ネットニュースのビジネスモデルとジャーナリズム

『ネットメディア覇権戦争/偽ニュースはなぜ生まれたか』(藤代裕之著、光文社新書)(写真)は、2016年アメリカ大統領選の際にも問題となった偽(フェイク)ニュースを切り口に、紙の新聞からデジタルへの移行期から現在まで、新聞社やそれを取り巻くネットニュースのビジネスモデルがどう変遷してきたかをたどるメディア史になっている。
 著者は、ネットで偽ニュースが生まれた背景には、ネットニュースのビジネスモデルが大きく関係していると指摘する。当初はメディアから提供を受けてニュースを流通させる役割だけであったヤフー等のプラットフォームが、当初の方針を転換して自らオリジナル記事つくり始めるようになり、メディアとプラットフォームの境界はあいまいになってくる。ネットでのニュースにおけるマスメディアの存在感は低下し、偽ニュースがまぎれ込む「隙」が生まれやすくなった、と指摘する。
 さらに、スマホでニュースを読んでいると、検索アルゴリズムによりいつの間にか自分にとって興味・関心がある、自分の見たいニュースだけに接触するようになっていることにも無自覚となってしまう場合が多いという。ネット時代のジャーナリズムの役割や、ニュースの接し方の「バランス」など受け手側に必要な意識改革について考えさせられる。
 『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか/ネット時代のメディア戦争』(武田徹著、新潮新書)も、タイトルからは若干わかりづらいが、ネット時代の「コンテンツ」と「メディア・プラットフォーム」の攻防戦の最先端について、取材を交えながら紹介している。スマホの登場でコンテンツは小分けにされ、断片化され、「1円」といった廉価販売の競争にさらされている。新聞・出版・テレビに復活の可能性はあるのか。ネット時代・スマホ化後の新しいジャーナリズムについても考える。
 2011年、福島第一原発の事故当初、マスメディアによる報道は「大本営発表」ではないかと不安を抱き、ソーシャルメディアの情報に頼る人々がいた。 STAP細胞論文に関する問題では、マスメディアは理化学研究所という権威を過信し、論文の信憑性の疑わしさに気づくことができなかった。『科学報道の真相/ジャーナリズムとマスメディア共同体』(瀬川至朗著、ちくま新書)は、長年新聞社で科学報道に携わってきた著者が、マスメディアの科学報道が抱える問題を分析する。

トランプ後の日米関係と世界

2015年11月14日、大統領選投開票日の1年前から「トランプが本命」と支持する層が多い地区を徹底的に取材した記録が『ルポ トランプ王国/もう一つのアメリカを行く』(金成隆一著、岩波新書)(写真)である。
 ここでいう「トランプ王国」とは、共和党の候補者を一人に絞り込む予備選でトランプが圧倒的に勝利した地域をさす。朝日新聞ニューヨーク支局の記者である著者は、「トランプは選挙戦からいずれ脱落する」という声が大半を占めるニューヨーク、ワシントンなどの大都市では見えてこないトランプ支持者層に会うため、オハイオ州、「ラストベルト(Rust Belt: さび付いた工業地帯)」を中心とする地方の「トランプ王国」を見て回る。不法移民が増え続けることに不満をもち、「壁」の建設を本気で望む「もう一つのアメリカ」からの生の声を拾い上げてきた。決して番狂わせではなかったトランプ大統領誕生の背景を読み解く。
 『トランプ政権と日本/総力取材!』(NHK取材班著、NHK出版新書)(写真)も、NHK取材班がチームで追いかけた「トランプ現象」取材の記録である。ワシントンと東京から追いかけた複数のNHK取材班による、予備選挙から大統領選当選までの軌跡。トランプ当選の原動力となった「不満のマグマ」とはいったい何だったのかを分析し、トランプ後の日米関係、国際関係の今後を予測する。
 『対米従属の謎/どうしたら自立できるか』(松竹伸幸著、平凡社新書)(写真)では、日米同盟信仰といってもおかしくないほどの対米従属状態に陥っている日米関係がなぜ継続してきたかの「謎」にせまる。
 選挙戦最中のトランプによる「日本の核武装容認発言」は単なる暴言ではなく、自国の世界戦略を疑い始めたアメリカ国民の「本音」に根ざしたものだと著者は指摘している。トランプ政権の出現を、日米両国ともに防衛問題を「本音」で議論し、確立していくきっかけにすべきである、と提言している。 トランプ大統領の出現は日本にとって「対米自立のチャンスである」としながら、全く別の解決策を論じていくのは、『日米対等/トランプで変わる日本の国防・外交・経済』(藤井厳喜著、祥伝社新書)。対米自立、つまりアメリカと日本が対等になるためには、憲法9条を改正して集団的自衛権をフルに行使できるようにし、アメリカがピンチのときに助けに行けるイギリスやフランスのような「普通の国」になるべきだ、という持論を述べている。
 やはり「対米従属と決別せよ」と、アメリカ依存の安全保障から自立、日本の安全保障を再構築するべき、とするのが『トランプ大統領で「戦後」は終わる』(田原総一朗著、角川新書)。著者は日本の安全保障が矛盾だらけなのは、政治家や官僚だけでなく、国民の多くが「戦争は嫌だ」「戦争のことなど考えたくもない」と強く思うあまり、戦争が起きる事を前提に安全保障を考えてこなかった結果だとしている。
 日米関係を語る上で避けては通れないのが沖縄。『沖縄問題/リアリズムの視点から』(高良倉吉編著、中公新書)の編者の高良氏は琉球史を専門とする学者であり、他4名の執筆者は沖縄県庁の職員として、日々理念と現実のはざまに苦しみながら長年実務に取り組んで来た経験をもつ。
 1879年に断行された「琉球処分」(沖縄県設置)以降の歴史的経緯をふまえつつ、経済振興と米軍基地問題という二つの大きな課題を中心に、県政の実務がどうだったのかを具体的に記していく。米軍基地問題は「沖縄問題」ではない。この国の安全保障のあり方を問う「日本問題」として国民全体で論議すべき、としている。
 『入門 東南アジア近現代史』(岩崎育夫著、講談社現代新書)は、現在11カ国ある東南アジア諸国(ASEAN経済共同体)について、「多様性の中の統一(協調)」をキーワードにその理想と現実を解説する。
 史上初の社会主義国家樹立の契機となったロシア革命の勃発から100年。『ロシア革命/破局の8か月』(池田嘉郎著、岩波新書)は、ロシア史のなかでの1917年に注目し、二月革命から十月革命までの「破局の8ヵ月」によって失われたもの、新しく生まれたものは何だったのかをさぐる。