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Author: ソイソース編集スタッフ

1992年の創刊から、シアトル情報を日本語で発信するライフスタイル誌。毎月第4金曜日発行。

COVID-19 患者にオンライン無料診療提供開始

ワシントン州保健局よりCOVID-19関連情報 (8月9日)

ワシントン州保健局からのサポートを受けて、州内の新型コロナウイルス(COVID-19)関連情報を日本語でお届けします。 

COVID-19 患者にオンライン無料診療提供開始

ワシントン州保健局は、重症化リスクのある患者がCOVID-19のオンライン無料診療を迅速に受けられるよう新たなオプションを提供。これまで保険加入者のみ対象だったが、保険の有無にかかわらず自己負担なしで利用可能となった。

電話予約(月8am~8pm、火~日8am~6pm):☎1-800-525-0127 ※通訳あり

オンライン予約(毎日8am〜8pm):https://doh.wa.gov/emergencies/covid-19/treatments

 

ワシントン州保健局からのCOVID-19およびワクチン日本語情報
https://doh.wa.gov/ja/covid-19

ワクチン接種予約が可能な医療機関の検索はこちらから
https://vaccinelocator.doh.wa.gov

問い合わせ:COVID-19情報ホットライン ☎1-800-525-0127

ソングズ・オブ・ホープ 子ども合唱団 参加者募集

四季折々の歌、歌い継がれてきた名曲や最近のヒットソングなどを、踊りや手話を交えて練習する。リズムアンサンブル、ミュージックベル、音楽劇にも挑戦。各学期末の発表会では作品を作り上げる楽しみを分かち合う。発声の基礎を作るトレーニングもあり。小学1年生以上が対象。通年申し込みの場合、10%割引に。

日程:土1:30pm~2:30pm ※秋 9月10日~12月10日(12回)、冬1月7日~3月25日(12回)、春4月15日~6月10日(8回)

場所:Bellevue Children’s Academy                                                                           14640 NE 24th St, Bellevue, WA 98007

料金:$300(秋・冬)/$200(春)

問い合わせ:sohkidschoir@gmail.com

詳細:https://www.facebook.com/sohkidschoir

JAL とANA のシアトル便運航状況

日本航空は10月29日(土)まで毎日運航を継続する。全日空は9月15日(木)まで週4便(火木土日)の運航を継続、9月16日(金)から10月29日(土)まで週6便(火水木金土日)に増便して運航する。

日本航空 問い合わせ・詳細:☎1-800-525-3663 

https://press.jal.co.jp/ja/release/202208/006854.html

全日空 問い合わせ・詳細:☎1-800-235-9296  

 https://flights.ana.co.jp/ja-us

窪田ガーデンで太鼓演奏

窪田ガーデンのテラス展望台で4つの地元グループによる太鼓演奏が行われる。太鼓の音が響く園内の散策を楽しもう。

日程:8月21日(日)1:30pm~3:30pm

Courtesy of Kubota Garden Foundation, Densho

場所:Kubota Garden  

9817 55th Ave. S., Seattle, WA 98118                                                                                         

料金:無料

問い合わせ:☎206-725-5060、info@kubotagarden.org

詳細:https://kubotagarden.org

オール・シングス・ジャパニーズ・セール

ワシントン州日本文化会館(JCCCW)で蚤の市が開催される。着物や茶道具から食器・おもちゃ・骨董品まで、さまざまな日本の品が販売予定。売り上げは全てJCCCWにおける日系人社会の歴史の保存と共有のための活動に充てられる。また、不用品の寄付も受け付け中。

日程:8月20(土)10am~5pm、21日(日)10am~2pm

場所:Japanese Cultural & Community Center of Washington                             1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144

問い合わせ:☎206-568-7114

詳細:https://www.jcccw.org/atjs

北米報知創刊 120 周年/ソイソース創刊 30 周年を市が認証

弊社の発行する『北米報知』が創刊120周年、「ソイソース』が30周年を迎える。7月18日、両紙のこれまでの実績が承認され、シアトル市より宣言書が授与された。

親の介護×不動産セミナー

海外在住邦人の遠隔介護を応援するサロンドハースが、野村不動産ソリューションズとコラボした新企画「今のうちに知りたい! 親の介護×不動産WEBセミナー」が毎月第3水曜日に開催する。定員は500名で先着順。第1回は7月20日に開催され、第2回は「介護にかかるお金の話」をテーマに、日本にいる親の介護にどれくらいの費用が必要なのかを専門家がポイントを紹介する。

開催日:8月17日(水)7:00pm〜7:40pm

参加費:無料

問い合わせ:hearth777@gmail.com

詳細:https://www.nomu.com/seminar/2022/detail220818_1.html

チップについて思うこと &アメリカの大麻事情〜みんなの広場

チップについて思うこと

​​チップは、レストランなどでサービスへの感謝の気持ちを伝えるオプショナルなもの。しかし、最近は半強制的になりつつあると感じる。払う側ならチップにあまり乗り気でない人もいるだろう。私もそんなひとりであったが、レストランでサーバーとして働き始め、もらう側の立場にもなった。いくつか印象に残ったエピソードを紹介したい。

​●チップの金額はチェックしている?​
「どうせサーバーはいくらチップを払ったかなんて確認しないだろう」と思うかもしれない。もちろん店にもよるが、シフト後の会計精算時にチップ額は自然とわかってしまうものだ。大半は10〜25%の範囲に収まり、あまり印象は残らないが、いつも20%以上をくれる常連さんには自然と好印象を抱く。だからと言って「普段チップが少ないからサービスは適当に」なんてことはない。ただ、過去に1度だけ会計100%のチップをもらった時のことはよく覚えている。

男女ふたり組で50ドルほど食べた客だった。女性からチップを50ドル、つまり合計100ドルと書いた領収書を手渡しされ、ふと金額が目に入った。「チップの額を間違えていないですか?」と思わずその場で確認すると、その女性は笑顔で「あなたのサービスが良かったからよ」と言って帰っていった。その時間帯をひとりで回していたこともあり、心がほっこりした。

●チップがゼロのクレーマー
ある夜、レストランが忙しい時間帯に4人で来店した家族がいた。あまり待たせずにドリンクを聞いて注文も取った。しかし、キッチンはフル稼働だったため、メインディッシュをひとりずつ出すという形になってしまった。温かいものはなるべく早めにと思い、全員分そろうのを待たずにサーブすると、1人目と4人目で10分ほどの時差ができた。サーバーを1年してきて、このようなケースは毎日のようにあるが、面と向かって文句を言う人は見かけない。だが、このテーブルの客は違った。

最後のメインディッシュを届けると「こんなに時間がずれるのはあり得ない」と言われたので、素直に謝った。こちらにも申し訳ない気持ちがあった。ただ食事の途中で呼ばれ、「おいしくない」、「スープが出された時間にも納得がいかない」などとまくし立てられ理不尽に思ってしまった。サーバーであっても、キッチンに対するクレームに対応しなければならない。ただ、自分ではどうすることもできないのに責められ続けては悲しくなるばかりだ。チップはゼロ。このクレームのせいで翌日まで気分が沈んでいた。
​
個人的には、もらう側を経験してみた現在でもチップ制度は必要ないと思っている。店側がしっかりと従業員に給料を払えば解決する問題であり、このシステムでは良い人だけが損をしてしまう。実際、こちらのサービスが良くても悪くても、寛大なお客さんは常にチップを多く払うものだ。良識のある人間としてチップを払うことをマナーだと考えているからだ。逆にクレーマーは基本的にチップをほとんど払わず、サービス側には負担をかける。もらう側としては、文句を言わない人のチップ額はあまり気にならないが、逆にクレーマーに対応するには労力を使うため、サービス料としてよりチップが欲しい。しかし、現実は真逆だ。何か納得がいかない。

(JJ/ボセル)

アメリカの大麻事情

ワシントン州では嗜好品としての大麻所持、使用が合法化されており、ディスペンサリー(大麻ショップ)が至るところにある。一方、日本では違法であり重く罰せられる。警視庁の調べによると、2021年の大麻関連での摘発者は年間5,000人を超え、芸能人の大麻関連の事件も後を絶たない。両国の違いは何なのだろうか。

まずアメリカでは、コロナ禍での外出自粛で生活必需品以外のビジネスが休業せざるを得ない中、ディスペンサリーは営業していたという事実がある。ほとんどのショッピングモールや映画館、ネイルサロンなどが営業休止となったにもかかわらずだ。つまり、アメリカで大麻は「人間が生きていくうえで必要不可欠」と見なされていることがわかる。

知り合いに、日常的に大麻を使用するアメリカ人女性がいる。彼女は、ストレスがたまるとお酒に逃げてしまう癖があったが、そのせいで身体を壊したため大麻に切り替えたそう。大麻を取り入れてからはお酒がほとんど必要なくなり、ストレスの緩和にも大きくつながったと言う。彼女が持っていたのは「ベープペン(大麻リキッド)」という大麻の成分を気化させて吸うもので、大麻特有の匂いが少なく手軽なため長く愛用しているらしい。アメリカでは、ただ楽しむという目的だけでなく、実際に大麻によって救われる人がいることから必要不可欠という認識もあるのだと思う。

日本では「違法ドラッグ」扱いをされている大麻でも、国が違うと「薬」として使われることがある。だが、日本人の大麻使用は違法。外務省のホームページにも【大麻(マリファナ)が合法の国であっても、日本で罪に問われることがあります】とはっきり記載されている。この現状を踏まえ、大麻への価値観についてもう一度考えてみたいところだ。

(中台涼葉/シアトル)


お便り、エッセイ、写真募集中!

最近思うこと、ちょっと笑える話、びっくりした事件、旅行記など、テーマは自由です。写真でもOK。お気に入りの店やアイテム、お得な情報もぜひシェアしてください。
①お名前(ペンネーム可)と②在住エリアを添えて、ソイソース編集部(info@soysource.test-alba.com)までメールでお送りください。楽しいお便りをお待ちしています!

夏のちょい旅に最適! コロンビア・リバー・ゴージ​ 〜ソイソースいち押し!

片道数時間のドライブと、程良い運動後に味わえるコロンビア川の絶景。汗をかいた後は滝で涼むこともできるこのエリアへ、家族や友だちと夏の思い出作りに出かけましょう!

取材・文:ジェジュン・ジョン

エンジェルズ・レスト・ルックアウト

90分かけて登頂。展望の素晴らしさに感動

ワシントン州とオレゴン州を南北に隔てているコロンビア川。西は太平洋まで続く大河の雄大な自然が作り出す景色は美しい。特に絶景を堪能できるスポットがエンジェルズ・レスト・ルックアウトだ。その場所にたどり着くには往復5マイル弱のトレイルをクリアしなければならないが、登り切った後の開けた風景を見れば疲れも取れるだろう。
シアトルから車で3時間半くらいの位置にトレイルヘッドがあり、ここからポートランドのダウンタウンまでは車で西に30分ほど。平均的なトレイルに比べると急勾配の難所が多い印象で、そのためか距離の割に体力が削がれた感がある。しかし、頂上での開放感はなかなかのもの。ぜひとも訪れてみて欲しい。

Angel’s Rest Lookout

行き方:シアトルからI-5を南へ。オレゴン州に入る手前の7番出口でI-205に乗り換え、22番出口でI-84に移る。28番出口を降りて0.4マイル進み右折をすると駐車場がある。
開園時間:6am~10pm
料金:無料
www.oregonhikers.org/field_guide/Angels_Rest_Trailhead

 

マルトノマ滝 ​

オレゴン州は滝の多さでも有名。地図上に表記されるレベルの滝だけでも230カ所以上あり、ワシントン州の約2倍だ。その中でもナンバーワンとの呼び声が高いのが、マルトノマ滝。高低差は186メートルで、ワシントン州にあるスノコルミー滝の147メートルをしのぐ。

滝の力強い流れに圧倒される​

水しぶきを浴びるほど滝に近付けるのもポイント。常に観光客でにぎわうが、今年から夏季のみ入場は予約制となっており、専用ウェブサイト(www.recreation.gov/timed-entry/10089144)にて事前登録が必要だ。2週間前から1時間単位で申し込むことができ、料金は車1台につき2ドル。直前でも空いていることがあるので、出発前に調べてから向かおう。​

Multnomah Falls

50000 Historic Columbia River Hwy., Bridal Veil, OR 97010
開園時間:9am~6pm
料金:車1台$2 ※夏季のみ
☎️503-695-2372
www.fs.usda.gov/recarea/crgnsa/recarea/?recid=30026

 

 

スナップショット~2022年独立記念日編~

 

ボセルの歴史あるパレードようやく再開されたボセル最大の年中行事、独立記念日パレードへ行ってきました。子どもたちが主役のチルドレンズ・パレードから始まり、100年以上の伝統を持つグランド・パレードへと続きます。地元のスポーツ・チームや高校のバンドから警察、消防隊まで登場し、市民が一体となって独立記念日をお祝い。とても素敵なイベントでした。(J)

 

ガス・ワークス・パークから花火を鑑賞

シアトル近郊で開催されるシーフェアの人気イベントのひとつ、サマー・フォースへ。ユニオン湖での打ち上げ花火をガス・ワークス・パークから見物しました。1時間ほど前に会場へ到着し、手荷物検査を受けて園内に入ると、すでに人、人、人! それでも日本の花火大会に比べると、まだ余裕があるかも? ノリノリの音楽に合わせて夜空を彩る花火は、日本のものとはまた違った美しさがありました。 (A) 

 

にぎやかなバーベキュー・パーティー
アメリカの独立記念日に欠かせないイベントと言えば、やっぱりバーベキュー! 今年は花火見物に加えて、久しぶりに友人宅のパーティーに参加し、楽しい1日を過ごしました。メインの手羽元チキンは、ケチャップや蜂蜜を入れた自家製だれに漬け込んでからじっくりグリル。サイドの野菜やシーフードの素焼きは、レモンや香草も添えてさわやか。一緒にレタスで巻いて食べました。(Y) 

戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史

姉妹紙『北米報知』の前身、『北米時事』の創刊から間もなく120年を迎えようとしています。北米報知財団がワシントン大学との共同プロジェクトで進めているデジタル・アーカイブ(https://content.lib.washington.edu/otherprojects/nikkei)から当時の様子がわかる記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史をたどります。                 

取材・文:新舛育雄 

※記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含みます。


新舛育雄■山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現・日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を北米報知で「新舛與右衛門 — 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。


戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史①

まず、北米時事の誕生と創業時の主筆たち、各地から数多く寄せられた寄稿について見ていきましょう。

北米時事スタッフ。1919年撮影(パナマ・ホテル内、有馬ファミリー所蔵写真より)

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戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史②

バラエティーに富んだ記事の内容と、北米時事社社員一覧、発行から5,000号目の記念に関してを振り返ります。

1918年3月29日で発行5,000号に達した

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戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史③

北米時事の120周年を祝う特集の最後は、1910年台の終わりからの大きな変化と、時代に翻弄され、休刊となった経緯を紐解きます。

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戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史 ③

購読料値上げ

1918年4月29日号に、それまで1カ月50セントだった購読料を翌月から60セントへ値上げするという告知が掲載された。第1面掲載の「随感随筆ずいかんずいひつ」で「本日5000号を期して紙面を拡張したが紙代の著しい上昇、労働賃金も四五割上昇によりやむなく値上げした」と説明している。50セントの購読料は創刊時からのものだった。
この頃の著しい物価上昇により同年12月1日より月間70セントとなり、さらに北米時事社、大北日報社共同で購読料を1919年12月1日より月間85セントとした。値上げ理由として「今後一片7仙セントという法外な高質の紙を使用せぬばならぬ」とある。
月間購読料85セントは当時の日本円で、約1円70銭。現在に置き換えると推計1,700円ほど。この月間85セントの購読料は、1940年4月1日号でも同額だった記述が残っているので、約20年間はそのまま保っていたようだ。

1918年4月29日号の値上げ告知

1918年には、創業者らの追悼会が行われた。7月29日号に「一昨日『万新楼まんしんろう』にて本社創立者前社長故隈元清氏、矢田貝柔二氏始め本社関係者で故人になった人々の追悼会が開かれ本社友諸氏を招待。有馬社長の挨拶と山田純牛氏の追悼談ありて盛会なりき」とある。
なお、北米時事は1934年に1万号を達成し、7月30日号では「昭和3年度を持って一時中断になっていた『北米年鑑』を復活し『西北部在留同胞住所録』を刊行し愛読者諸氏へ無料配布いたす」と社告を出して、北米年鑑を特別出版している。

1934年7月30日号の「社告」

日本人会長としての有馬純義

有馬純清が社長を退いた後、長男の有馬純義が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーで活躍した。

1938年3月4日号の「日商臨時参事員会」

1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。純義は氷川丸船中からこの時の心境も語っている。

「有馬氏帰国」(1938年3月4日号)
本社有馬純義はかねて帰国準備中であったが、本日出帆の氷川丸にて家族同伴にて約3カ月の予定で帰国。

「有馬氏へ留任勧告」(1938年3月5日号)
昨日開いた日商臨時役員会で名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏の列席を求め、新たに選ばれた有馬会長辞任の件につき協議して、留任を勧告することに決し、ただちにバンクーバーに今朝入港する氷川丸までその旨打電。

「北米春秋:離愁」(1938年3月8日号)
僕の出発に当たり、二三の人々から「日本人会をどうするのか」と質問され詰問された。それに対して僕は答える言葉がない。しかしながら僕にはどういう責任があるのだろうか。一船延ばせぬかという忠告もあった。それには困るがまた感謝もする。
僕は自ら不正はしておらぬと確信している以上、たとえ一時の誤解を招くとも、必ずその誤解は分明すると信じているからだ。なぜ自分の信念が人々にわかってもらえないのだろうかと憂うることはない。やがてわかる。(中略)
僕が時に日会に対して苦言を呈するのは日会を愛するゆえにだ。どうでもよいと思えば何を好んで苦言など呈しようか。僕に日会長たるの野心ありと、ある人々が言っているそうだが、そんなにまで思われるほど、僕は不徳なのだろうか。もちろん僕は何の弁明の必要は認めぬ。だが残念に思う。僕は会長に選挙されてそれを知らぬふりして日本に帰るのではない。僕は最初から今日の事情においてそれをお断りしてある。一体この無理は何処にあるのか。そして何ゆえに追ってくるのか。僕はあえて一部有志家諸君の猛省を促さざるを得ぬ。而 しこうして大多数の同胞諸君の正しき判断に信頼するものである。(3月4日、氷川丸船中にて)

「本社の有馬氏帰米を延ばす」(1938年7月11日号)
有馬純義氏は健康を害し保養のため今春一時帰国したが依然健康を取り戻すに至らず。帰米を延ばす。(中略)今回帰米期を延期し健康回復の上で渡米する旨の通知があった。

「有馬会長の辞表受理」(1938年9月3日号)
日商臨時役員会が昨日開催され、有馬会長辞任の件に関し種々協議の結果、これを受理することに決した。

純義が日本人会長職を辞退した真相は定かではないが、本来奉仕機関のリーダーであるべきものが名誉職化されていることへの反発が辞任の原因ではなかったかと筆者は考える。純義はシアトル日本人社会のために働きたいという強い奉仕精神を持っていたようだ。

新聞記者としての有馬純義

純義が北米時事に投稿を続けた連載コラム「北米春秋」から、同氏の記者としての立場がわかる記事を取り上げる。

「北米春秋:移民地新聞記者の悲哀(一)」(1935年10月29日号)
移民地の新聞は比較的自由であるはずだ。日本のそれのごとく、官憲の直接の圧迫、干渉もない。記事の禁止などということもない。記者の自制—常識と見識の判断によって自ら制する以外に筆の自由の束縛するものはないはずだが、なかなかそうは行かぬ。「あそこの店は安くて品が良い」と書くと、こちらの店から不平が出る。あそこの店を除いて書くと「こちらのはまずいか」とおっしゃる。活動写真があったら必ず景気がよくて満員で、写真は文化的で教育的だと書かねば承知されない。この調子だと移民地の新聞記者はたいこ持ちでなくば務まらぬ。人口の年々減ずるこの時代には、誠実大儀に頭を下げるよりほかはない。編集のほうはとにかく、営業のほうではけんかが何より禁物だ。

有馬純義による連載コラム「北米春秋」

 

 

 

 

 

「北米春秋:一読者としての北米時事への注文」(1939年4月22日、24日号 )
僕は今、日本からも毎日、本稿の原稿を書いては、船便ごとに送っている。僕がポートランド支社で通信の筆を執るようになったのが1917年だから、それ以来北米時事とは二十何年かの関係だ。
僕は米国から送られてくる北米時事を一読者として読む。編集の諸君にも相談し、また一般読者諸君の要望はどうか、考えてみたいと思うひとつの問題がある。最近、あまりに日本のニュースのみを重く取り扱い過ぎることである。(中略)在米同胞が何より先に聴きたいのは日本からのニュースだ。それと同時にぜひとも知っておらねばならぬのは米国の事情だ。前者に対しては、邦字新聞は今や百パーセントのサービス振りだが、恨むらくは後者に対して十分に手が届いておらぬのである。(中略)米国議会のニュース、経済界の動き、あるいはシアトル市政の模様、米人社会の動きなどということは米国に在住する者としてぜひひと通り注意し知っておかねばならぬ事柄である。

1939年頃は日米関係が悪化してきた時期だが、有馬社長は北米時事がシアトルに住む日本人にもっとアメリカの情報を提供し、日本人が米国と共存共栄していけるようにすることが邦字新聞の役目だと主張している。

日米大戦突入と、社員による発行継続

1941年12月7日の真珠湾攻撃で、シアトルに住む日本人社会を激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄が自宅からFBIに連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、北米時事は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。
日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。

「社告」(1942年1月2日号)
米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思い、その筋の了解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。
その間本社は資産一切を封鎖されましたのでただちに特別ライセンス下附方を願い出し、許可のあるのを一日千秋の思いで待ちわびましたが、ついに昨年中の間に合わず、集金はもちろん、広告の整理等全くなし得ないままに越年したのであります。従って新年号の発行も全く不可能となり、そのうえ読者並びに広告主に非常な不便迷惑をかけましたことに対しまして甚だ恐縮しております。しかし今日まで本社員はほとんど無給料の状態で朝となく夜となく大きな犠牲を払って日本人社会の利益のため活動しているのでありますから、その点ご了承のうえ、ご寛容願いたいと思います。なお新年号に代えまして1月2日より平常通り本紙の発行を継続する方針でありますから、読者および広告主の理解ある精神的、経済的後援を願う次第であります。

本社員一同

当時の発行を続けた社員らの状況と、その思いが伝わる内容だ。大戦開始の翌日に発行ができた理由は、北米時事社の編集責任者代理となった日比谷が『ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ(Japanese American Courier)』紙(週刊英字紙)のジェームス坂本に依頼して、ワシントン州検事総長の了解をもらったからだと文献に記述がある。

1942年1月30日号の
「元気に自治生活」

1942年1月30日号に「元気に自治生活」として、開戦直後から連行されてモンタナ州のフォート・ミズーラ抑留キャンプへ収容された人たちが、役員を設けて元気に自治生活を営んでいる記事が掲載された。記事によれば、北米時事社でタコマ支社に勤務していた山口 正が購買部長として役員の一員を担っていた。

 

日系人強制収容と最後の発行

1942年2月19日には、フランクリン・ルーズベルトによる大統領令9066号が発令されて日本人および日系アメリカ人の強制収容が現実化することとなった。
そんな中、読者へ経済支援を切望する社告をたびたび出しながら、社員らは発行を続けた。手を差し伸べる人々もあったようで、2月24日号には「療養所内同胞患者からの後援に感謝」という旨の社告、2月25日号に「某氏から本社員へオレンジ一箱寄贈」という記事などがあった。

1942年3月6日号の
「社告」

3月6日号から11日号まで「経費節減と一日でも長く発行を続けるために発行部数の削減をし、一部の読者に発送の停止をせざるを得ない事態である。経済的後援を日比谷隆美宛てに送付して欲しい」との社告が出された。
3月12日、ついに北米時事の発行は終止符を打つこととなった。シアトル市内の日本人全てへ立ち退き命令が下された4月21日の1カ月ほど前だ。同日号第1面に、その終止符を打つ英文が掲載された。以下は全文とその日本語訳。

「これが最後の発行 」(1942年3月12日号)

1942年3月12日号第1面の「 This is our last shot in writing」と第3面の「本紙は一時休刊」

This Is Our Last Shot in Writing
Beginning tomorrow, THE NORTH AMERICAN TIMES will be no more. Just how long, we do not know.
But the final decision was reached when the United States Treasury Department this morning notified us that the TIMES must cease publication.
It must be disheartening news to all of our thousands of readers throughout the North-west who have always looked forward to each copy of the TIMES for its accurate account of activities among residence Japanese.
And it is also disheartening to us in that we – and much as we hated to see this come to a head – must suspend publication, especially in view of the fact that the TIMES, established in 1903, was the oldest Japanese language and English section family newspaper in the North-west.
And we are more so disappointed because we are no longer able to serve the Japanese public as a medium of the releasing valuable information for the United States Department of Justice, War Department and other government agencies.
Yes, regretfully disappointed because we felt that it was vitally necessary to have the TIMES continue, at least until the evacuation of the Japanese, so that resident Japanese of American ideals and democracy may be kept intact so as to comply sanely with army and government officials.
With this edition, the TIMES says “30” and with a “30” ending, the editors honestly hope the Japanese readers of this newspaper will not lose confidence in the United States and continue to support the cause for which the United States is fighting.


これが最後の発行
明日から、北米時事は休刊となる。どのくらい休刊が続くかよくわからない。しかし、今朝、米国財務省から北米時事の発行を中止せよとの命令があったため、最終的な決定に達した。
在留邦人の活動を正確に伝えることで評価されていた北米時事の記事を常に楽しみにしてきた北西部の何千人もの読者にとって、非常に残念なニュースだ。
1902年創刊の北米時事は北西部で最も古い日英両語の家庭紙であるのに、この重大な時局に断腸の思いをもって出版を中断しなければならないことに、私たちは落胆している。
また、米国司法省、戦争担当省、その他の政府機関に対して、貴重な情報を公開する媒体として在留邦人に奉仕できなくなったことに、私たちはより失望している。
少なくとも日本人が強制収容されるまでは、アメリカの理想と、民主主義国家の市民としての軍や政府役人への忠誠をそのまま維持できるように、北米時事を続ける必要があると思っていたので、その失望は大きい。
北米時事では「30」と言うこの「30」の版の結末で、編集員一同、本紙の日本人読者が米国への信頼を失わず、米国の国策としての戦争を支持し続けることを願っている。

「30」とは筆者の推測だが第1面英文の記事項目数「30」(大文字見出し総数に該当)と見た。30の全ては北米時事が精魂込めて書いた記事だった。英文の最後に「bf」と書かれており、英語編集者のバド更居ふくいが筆者だと推測される。
同日号第3面には日本語で次のように掲載された。

「本紙は一時休刊」(1942年3月12日号)
本社は米日開戦以来悪戦苦闘、今日まで同胞社会への奉仕を続けてきましたがついに本日政府の命令により一時休刊せねばならなくなりました。同胞社会にとって最も重大な時局において発行を一時でも停止しますことは本社員一同今日までの苦闘に鑑みましてもこのうえなく残念なのでありますが、政府の命令とあれば如何ともできないのであります。
しかし本社としましてはただちに各方面の発行許可を仰ぐべく交渉を開始しているのでありますから、この難関打開の道が開けるものと信じております。もし再刊の許可がありました際には再び全読者のご愛読をお願いしたいと思います。
最後に今日まで精神的にまた財政的にご後援を願いました読者、広告主諸氏に対し深く感謝の意を表すると共に前途の多幸を祈るものであります。

北米報知創刊号。1946年6月に生駒貞彦を発行人、元北米時事の有馬純雄を編集長として、週刊で再出発

北米時事最後の号は、1万2,278号だった。約40年間にわたりシアトル日本人社会を支え続けた同紙が1つの歴史に幕を閉じた。日米大戦という難局に、長い歴史で培った強烈な使命感を持って発行を続けた社員らには感服する。日比谷と狩野はその後、北米報知としての戦後の再生に加わり、北米報知編集長を務めることになる。

 

 

 

参考文献
1.『在米同胞発展史』(加藤十四郎、博文館、1908年)
2.『在米日本人史』(在米日本人会事蹟保存部編、在米日本人会、1940年)
3.『シアトル日刊邦字紙の100年』(有馬純達、築地書館、2005年)
4.『続・北米百年桜』(伊藤一男、日貿出版、1972年)
5.『アメリカ春秋八十年 シアトル日系人会創立三十周年記念誌』(伊藤一男、シアトル日系人会、 1982年)
6.『北米報知』創刊百周年記念号(2002年秋)

 

戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史 ②

社員についての記事も多彩

北米時事には、社員の異動や家族の状況を詳細に掲載している記事も多く見られる。社員を大切にする、思いやりのある新聞社だったのだろう。
たとえば、1918年1月22日、28日、2月1日、13日の各号には、濱野末太郎はまのすえたろうの退職についての記事が掲載されている。濱野は親族の事業継続でニューヨークに行くため1月末の退職となった。3年間の勤労をねぎらうために、本社員二十数名で送別会を盛大に行った。同時期に退職した広告係の平井修一郎の送別会も兼ねていたようだ。濱野が大陸横断鉄道で出発の際には、「停車場に多数の人が見送り、数日後に無事にニューヨークに到着した」と記されている。
なお、東 良三による1938年1月1日号への投稿記事によると、濱野はその後に南満州鉄道の東亜経済調査局の幹部となり、戦火の上海に特派された。そこで、戦後経済の組み立てを準備する役職に就いて活躍した。
1918年2月8日号には、永戸政治がサンフランシスコ『新世界』記者より入社した記事が掲載。同上の東の投稿記事によると、永戸はその後に『東京朝日新聞(現・朝日新聞)』の論説欄の専属となった。
本社員の木下 利、中川 丘が結婚し、妻が渡米した記事が1918年5月6日、7月26日の各号に掲載されている。両者共に、写真結婚(「日米紳士協定」が成立し新規移民が家族のみに制限される中、単身男性は写真による見合いと文通のみで結婚を決め、日本から花嫁となる女性を呼び寄せた)により妻が渡米してきたのではと推察される。中川については、1919年5月17日号に男子出産の記事もある。
社員二十数名が多忙な毎日の片時の休日に、和気あいあいと楽しい1日を過ごす様子が目に浮かぶ記事もある。

「本社員ピクニック」(1918年7月29日号)
昨日日曜日、本社員ピクニック。プレザントビーチにピクニックを催し、山に遊びあるいは三々五々海辺に出て貝拾いで楽しく一日を送れり。同地にグリーンハウスを有する北山、木村両氏はわれら一行のため、種々の便宜を与え大いに歓待せられ一行は満足感謝して午後7時当地発の小蒸気に乗じて帰途に就きたり。

1938年1月1日号、東 良三の投稿記事によると田村貞次郎は1914年頃、ワシントン大学に通いながら日曜版北米時事の編集主任をしていたが、外交官試験に合格して総領事にまでなった人物。田村に関して、その後がわかる記事もある。

「漢口シアトル会」(1919年7月21日号)
シアトル人士の漢口にある北京公使館に栄転せし田村貞次郎、郵船出張所主任蛯子磯治、住友支店支配人名村豊太郎、茂木商会支配人酒井浩七、三菱商事会社日𠮷朝郎の諸氏および本社漢口支店長、前本社員平井修一郎(前項参照)等にてシアトル会を開きおれりと六千マイル外にてしばらくシアトル出身者の落ち合えるは、広いようで狭いものなり。

日本郵船、住友銀行、三菱商事などは、北米時事の広告主であった。シアトル日本人社会の発展を支え、同紙ともかかわった人たちがその後に中国で活躍する中、北米時事社の元社員と一緒にシアトルから遠く離れた異郷の地、漢口でシアトル会を作り親睦を深めていたのだ。

女性社員の投稿記事

高谷しか子は1917年に渡米し、モンタナ駐在員として活動。渡米してまだ半年だが、自身の率直な意見として、移民地において日本人のために貢献的な役目を果たす新聞社に対する公的援助を、奇抜な具体案を挙げ訴えている。

高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」(1918年3月29日号)
私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望いたしたいことがある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油が切れては回せないからいかに聖職である教師もご飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私たちはそれに報いるに援助をもってしなければならないだろうと考える。
(中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左手のテーブルの上に小新聞ばかり六七種もあったのを見た。しかもこの紙を除き同シアトルで発行する新聞が二三種もあったように記憶する。このような小さい新聞ばかり発行する必要はないだろうと考える。それをもし合同して一つの物にしたら立派な新聞ができて経済的にも有益なものになる。
(中略)当地には日本人会というものがあって、有給幹事などを置いて同胞の統一を計っていると聞いている。所々に日本人会を置く費用をもって新聞記者を増やし、同胞のいる場所には必ず記者を置き、現日会幹事のする仕事をさせたらどうか。同胞が直接日会費を納める金で少し高い新聞を購読することにする。
領事の権威をもって津々浦々一人も残さず強制的にでも新聞を売りつけるようにしたら記者を置く費用は購読料から出てくる。

1918年3月29日号の「新聞と記者と読者と寄稿者」(高谷しか子)

以上の記事を読むと、北米時事の発展は多彩な卓越した能力を有する社員ひとりひとりの努力の結集によってもたらされたものだと強く実感した。
北米時事1918年1月1日、1919年1月1日の各号に、北米時事社社員一覧として掲載された人物名は以下の通り。文献などにより筆者が作成した(緑字は、本文に登場する人物。カッコ内の日付は、参照した北米時事の号)。

1918年1月1日号に掲載された、社員および寄稿者などの一覧

所在

名前

備考

シアトル本社

有馬純清(桜岳)

北米時事社社長。1913年に隈元 清から引き継ぐ

宮崎徳之助

北米時事5,000号祝賀大運動会の接待委員(1918年4月15日)、 司会者(1918年4月29日)

濱野末太郎

1918年1月末退職(1918年1月22日)

木下 利

妻渡米、結婚披露(1918年5月6日)、 大正観光団副団長として帰朝(1918年9月10日)

桝居伍六

ワシントン大学講演 (1918年3月15日)

井口順一

「工場勤務青年の日記」(1920年1月1日)

前野邦三

連載「歳の暮」(1917年12月26日~28日)、 「主婦と家庭教育」(1918年1月1日)を執筆

平井修一郎

広告係。1918年1月末退職(1918年1月28日)

宮内 平

スポケーン支社主任(1918年1月30日~3月8日)、本社事務部(1918年4月21日)

中川 丘

妻、鹿島丸で米上陸(1918年7月26日)

永戸政治

桑港新世界記者より入社(1918年2月8日)、 大運動会新聞委員(1918年4月15日)

有馬純夫

兄・純義を継いで日米開戦直前に主筆になる有馬純雄(推測)。1918年に渡米。戦後、北米報知創刊時の編集長

その他の名前

三澤直助

井上義隆

杉之尾一栄

武元以能子

浦川治平

中澤謙太郎

大橋源三郎(印刷部)

先山信夫(植字工)

石田千代子

川上太吉

岡ノ上よし子

古川藤太郎(植字工)

有馬千里

橋口良雄

深山庄作

山上 利

西尾正雄

西川いちよ

西宮豊年

中尾 佐

村上藤介

西田征司

中川てる

山本きぬ

中川吉野

 

東京

隅元 基

初代社長・隅元 清の親族(推測)

隅元政枝

隈元未亡人(推測)。東京で転居(1918年7月13日)

杉之尾正一

初期経営者のひとり

日本

濱野末太郎

帰国(1918年10月25日)

東 良三

寄稿「三昔前の憶ひ出 ―シアトルと北米時事と僕と」(1938年1月1日)

その他の名前

吉田興山

荒井達彌

ポートランド

有馬純義

1917年渡米、ポートランド支店主任(1918年8月24日)。パシフィック大学通学の傍らで働く。後に父を継いで社長・主筆

ロサンゼルス

藤岡鐵雪(紫朗)

1906年11月より北米時事社に勤務。寄稿「戦後の米国」(1918年1月1日)

清澤 冽

退職後帰朝(1918年9月23日)。宮川生糸商会入社(同12月3日)。1927年に東京朝日新聞社に入社。後に日米関係の評論で知られるジャーナリスト

サンフランシスコ

その他の名前

山中曲江

高村経徳

山本宗兵衛

 

オークランド

翁 六溪

大谷花壇

ニューヨーク

江之澤謙治

佐々木指月

モンタナ

高谷しか子

「5000号記念」寄稿(1918年3月29日)

バンクーバー

胎中橋右衛門

来沙 (1918年2月11日、3月21日)

山本一郎

 

漢口

田村貞次郎

元北米時事社員、その後に漢口領事館補(1919年2月14日)、北京公使館(1919年7月21日)

社友

山田純牛(作太郎)

創業当初の主筆

初鹿野梨村(詮次郎せんじろう)

初期北米時事総合指令役、後に寄稿者「発するに望んで」(1919年4月19日)

高畠淡影(虎太郎)

「一日一人人いろいろ」(1919年2月18日)、 シアトル国語学校(現・シアトル日本語学校)校長、以前に北米時事記者

中島梧街(勝治)

寄稿「北米時事と私」(1918年3月29日)、 「シアトル総まくり」で紹介(1918年1月1日)

山岡音高

1902年、新日本創刊。大学生倶楽部で講演(1918年3月2日)

その他の名前

藍澤崇山

大澤保次郎

佐々木黄瓦洞

松本秋堂

東 不泥

阿部雄三

 

5,000号記念

1918年3月29日で発行5,000号に達した

創刊から16年が経った1918年、発行5,000号に達した北米時事は、その節目を大きく祝った。創刊時発行人だった隅元から、会社の経営が有馬純清へ引き継がれた1913年から5年後のことだ。
1918年3月29日号の新聞は5,000号記念ということで、本紙に関係記事と付録32ページが掲載され、5,000号祝い一色となっていた。広告も全てに「祝5000号」と書かれ、シアトル在住日本人を挙げて祝した。
松永直吉領事は「北米時事の第5000号を祝す」として「創刊以来16年経過し、今日の盛況は本紙の経営者と従業員の不断の努力によるもので、敬意を表する。北米時事は在米同胞の大多数に対し知識と慰安を供給し、同胞社会の発展に極めて大きな貢献を果たした」と評した。後にアメリカ大使となる、当時サンフランシスコにいた埴原正直通商局長からの祝辞もあった。

1918年4月29日号の「本紙五千号運動会」記事と「シアトル少年義勇隊」写真

3月30日号「本紙5000号祝会」の告知には、「3年前、4000号の祝会を日本館で開きたる時、会衆場外にあふれて、不満足の向きも少なからず。この経験により、今回5000号祝会は野外において園遊会を開くことに内決。追って天候を見て期日場所その他順序を発表予定。在留同胞全部そろっての来会を希望す」とある。以下は、1918年4月29日号より。

「本紙5000号運動会」(1918年4月29日号)
昨日開催した本紙5000号祝賀大運動会は朝来まれなる快晴で大成功という一語につき、本社の光栄とするところである。会場リバチー野球場はシチーリーグの発起で昨年建造され同胞間、多額の株を応募している縁深い会場であったが、同地開設以来、3,000名もの入場者のあったことは記録を作った。(中略)宮崎記者の司会で、有馬社長の挨拶の後、連絡日本人会松見会長は「5000号が達成できたのは社員の奮闘、力の結果だ」と北米時事の社員を讃えた。来賓として松永領事夫妻、高橋東洋貿易、工藤正金銀行、菊竹正金銀行、古屋政次郎、郵船香取丸戸沢船長らが訪れた。(中略)子どもから大人までの各種競技、仮装行列が行われ、特に野球大会は盛況であった。競技の合間にシアトル少年義勇軍が日米両国旗を振りかざして行進し、最後に綱引きと社員競争があり、祝賀運動会は終わった。

③へ続く・・・

 

戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史 ①

北米報知とは

鹿児島出身の隈元 清くまもと きよしを発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9,000部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄ありますみおがFBIに検挙され、シアトル周辺で日系人強制収容が始まろうとしていた1942年3月に廃刊。終戦後、北米報知として再生した。

北米報知財団ではアーカイブ・プロジェクトへの寄付、ボランティアを募っている(https://hokubeihochi.org/donate)

邦字新聞の誕生

20世紀に入ると、シアトル日本人コミュニティーの発展と共に多くの邦字新聞が誕生した。北米時事は、歯科医だった隅元 清、平出商店創業者の平出倉之助、矢田貝柔二やたがいじゅうじ、山本一郎の4名が出資、山田作太郎さくたろう(鈍牛すみぎゅう)を最初の主筆として、1902年9月1日に日刊邦字新聞として創刊した。当時のオフィスは、S. Jackson St.沿いにあった平出商店の階下に置かれた。
『新日本』も同年に創刊。続いて1905年3月1日に『旭新聞』、1910年1月1日に『大北日報』が創刊された。邦字新聞はシアトルに住む日本人にとって、なくてはならない重要な情報源だった。

創業時の主筆たち

新日本に勤務した中島梧街ごがいが、ライバル紙の北米時事創刊当時の様子を、回想しながら克明に語っている。  

1918年1月1日号の「シアトル総まくり」と1918年3月29日号の「北米時事と私」(中島梧街)

中島梧街「北米時事と私」(1918年3月29日号)
私が米国に来たのは、1903年7月だった。(中略)その頃シアトルには北米時事と新日本という日刊新聞があって、北米時事は繁栄派を代表し、新日本は廓清かくせい派ともいう格であったが、もちろんシアトルを挙げて、黄金万能の時代だったから北米時事の勢力はなかなか強大だった。私は上陸した翌日、東洋貿易会社に山岡音高おとたか社長を訪ねて、威勢のいい説教を拝聴させられた後、新日本社に入社した。新日本の黒幕は山岡先生が大御所で、河上主筆始め他に二三の記者がいた。
北米時事は初鹿野梨村はつがのなしむらが総司令官役、今でこそ俳陣に隠れて活社会に顔を出さない梨村先生も、当時は飛ぶ鳥も落とす勢い、青年文士の随喜するところだった。
忘れてはならぬのは北米時事の隅元社長で、その経営惨憺さんたんたる中にあって執着力の強い奮闘振りは目覚ましかった。今は故人となられたが、北米時事の今日あるは隅元社長の寝食を忘れた努力の賜物たまものであると信じる。
(中略)北米時事は突飛的社会廓清には反対だった。むしろある時は急進派の計画を打ちこわしにかかることもあった。よく言えば温和主義、悪く言えば退嬰たいえい主義。そこに行く道を異にする二つの日刊新聞の筆戦が開かれた。(中略)私は梨村君の悪口を書くため毎日職工に言いつけて、名誉誹謗ひぼうの熟語を文選してもらい、取り換え引き換え使用した。梨村君と私の茶話にはよくこのことが話題に上がって、大笑いすることもある。
(中略)私が筆硯ひっけんを遠ざかって東華州かしゅう(ワシントン州東部)に赴いた間に、北米時事は一大変化を遂げて昔の下町新聞から解脱し、真面目で立派なデイリーペーパーとなった。私の記憶に残っているのは、藤岡鐵雪てつゆき(紫朗しろう)君の主筆時代の北米時事である。穏健で真率しんそつで同胞の諸問題を真面目に取り扱う誠意は確かに紙面に躍如やくじょとしていた。今日の同紙面の基礎は、否いな形式は藤岡時代に積まれたものだと思う。
今から9年前(1909年)に東華パスコに住んでいた頃、藤岡君に一書を送り、パスコ開発、同胞発展のために応援してもらいたいと頼んだ。すると藤岡君はただちに、快諾の返事を送ってきて私は喜んでパスコ開発の記事を北米時事に連載してもらった。新聞の効果は驚くべきもので、あの砂漠のような荒野に北米時事の記事を見たと言って来訪する同胞は意外に多かった。洗濯屋、雑貨屋が来る。料理屋、中華飯が開店。一時は広告の本尊であるところの私もその応接に忙殺されて底気味が悪く感じたこともあった。新聞紙が地方開発のために貢献した功績は大きかった。(中略)北米時事の悪戦苦闘と同胞の発展のために貢献した努力に対して、満腔まんこうの敬意を表したい。

有馬家の活躍

創刊から10年ほどが経った1913年に、北米時事のオーナーシップは隅元から有馬純清すみきよへ受け渡される。有馬家は、同紙が日米開戦後の日系人強制収容でその幕を下ろすまで、純清の息子である純義と純雄すみよしの代にわたって発行を続けた。社長と主筆を長年務めた純義は、シアトルの北米日本人会会長になるなど日系コミュニティーの中心人物だった。
純義は1941年10月頃に鹿児島で療養していた純清を見舞いに行ったまま開戦でシアトルへ戻れず、弟の純雄が社長を引き継いだが、純雄も真珠湾攻撃と同時にFBIに連行される。純雄は、戦後の北米報知創刊メンバーとして、再開後初の編集長を務めた。
1910年代に北米時事社に勤務した東 良三あずま りょうぞうは、有馬家が北米時事を受け継いだ頃の様子を次のように語っている。

東 良三「三昔前の憶ひ出」 —シアトルと北米時事と僕と— (1938年1月1日号)
僕が初めて北米時事にご縁を持つようになったのは1909年頃、隈元さんが社長の時代で、今、ロサンゼルスにおられる藤岡紫朗氏が主筆であった。(中略)当時、有馬桜岳おうがく(純清)先生は明治学院教授の職を辞して渡米され牧師としてタコマに在留されていたが非常に文章家なので、北米時事や大北日報なんかから「タコマ山人さんじん」というペンネームで盛んに随筆物を寄せて、僕たち文士仲間の相手となっておられた。(中略)
その後しばらく経って有馬桜岳先生は隈元氏から北米時事を譲り受けて社長兼主筆となった。(中略)現社長の有馬純義氏が父君経営の北米時事の人となったのも確かその頃(1917年頃)であって、ポートランドのカレッジを出たばかりのチャキチャキの青年学徒であった。ちょっとすっぱ抜いておくが、今の有馬さんのマダム(当時福田 環たまき)とのロマンスはポートランド時代に芽生えた。

広がる寄稿者の輪

北米時事を有馬家が受け継いだ後も、創業メンバーや初期の主筆らは、同紙と深く関わっていたようだ。また、元社員の多くが各地から記事を寄稿していた。
1918年1月1日号および1919年1月1日号に当時の北米時事社社員名一覧がある。これを見ると、シアトル本社に二十数名、ロサンゼルス、ニューヨーク、バンクーバーなどに十数名、日本にも数名の社員がいた。有馬純清社長は1919年には一時東京にいたようだ。1930年代には純義が社長を継いでいるので、20年代のどこかで日本へ帰国したのかもしれない。
新日本記者だった中島梧街、また同紙創業者の山岡音高の名前が、社友として並んでいるのは興味深い。中島はこの頃に多くの記事を投稿している。
創業期に主筆を務めた初鹿野梨村が社友として、藤岡紫朗はロサンゼルス駐在として記されている。主筆を退いた後の初鹿野と藤岡について書かれた記事を紹介したい。1918年9月9日号「アラスカ・オーカキャナリーへ赴きたる初鹿野氏は、詩囊しのうを肥して昨日来沙」の記事に対して、初鹿野自身が以下の記事を書いている。

初鹿野梨村「発するに臨んで」(1919年4月19日号)
北米時事が僕の北征を「詩囊を肥やす」云々と書いたので知人が「独り詩囊計りか」とからかうので僕も利かぬ気の、早速一絶をして見せたらハハハと笑って引き下がった。

1919年4月19日号の「発するに臨んで」(初鹿野梨村)

同号で初鹿野が投稿した「一絶の詩」は筆者の勝手な解釈であるが、「アラスカの荒海の恐怖にうろたえ鴎かもめに笑われ詩嚢を肥やすどころではなかった」という内容ではないかと推測している。からかわれたという知人とは、ひょっとして中島ではなかろうかと想像する。北米時事社創立時にふたりで行った激しい筆戦の延長のようなやり取りの気配を感じる。
1919年10月28日号に「初鹿野氏帰沙」と題し、「アラスカ遠征中なりし初鹿野梨村、昨朝帰沙せる(シアトルに帰る)が、本年は終わり頃になって鮭群寄せ来大漁なりしと語り居たり」とある。初鹿野はこの頃、毎年の鮭漁獲のシーズンにアラスカへ行って、その醍醐味に人生を謳歌おうかしていたようだ。
藤岡は、カリフォルニアへ渡って農園家として活躍する一方で、北米時事へ寄稿していたのだろうか。1918年2月5日号によると「羅府らふ(ロサンゼルス)日本人会書記長を辞任後、日加農業組合幹事に就任」とある。藤岡が自身の過去の様子について、次のように語っている。

藤岡紫朗「排日法案」(1939年3月29日号)
当時(1913年頃)私は北米時事記者生活の8年を終え、志を農園方面に立てて、ヤキマへ行った。しかし事業に失敗し1年後にシアトルに帰り恥をさらしていた。それを哀れんだか、古屋、松見両氏がカリフォルニア州行を世話してくれ、私は二つ返事で服装を整え翌日ただちに出発した。

中島梧街についての記事もある。文筆家であると同時に、家庭を大切にする人物であったことがうかがえる一文だ。

「シアトル総まくり」(1918年1月1日号)
北米日本人会の会員様にして口も八丁手も八丁、筆も八丁合わせて二十四丁程の技術を有す。(中略)三男一女の父として模範的家庭を作る。その宰する『ホーム誌』は彼がスイートホームの副産物にして家庭の人としてもまた八丁の手腕あるを証す。

 

②へ続く・・・

 

 

シアトル発!テクノロジーとネイティブスピーカー講師が融合した新しいビジネス英語トレーニング

エヌイーアイ(以下NEI)は、2017年2月より日本で社会人向けに英語トレーニングの提供を開始していますが、もともとはシアトルで誕生した企業。神戸オフィスの本格稼動を機に、日本国内でのますますの発展が見込まれます。

写真・資料:NEI提供

シアトルでNEIを起業したのは姉妹都市、神戸への留学経験者 

日本を始め、米国、ロシア、ウクライナ、トルコ、ウズベキスタン、カザフスタン、アゼルバイジャンなど、世界に4,000 人以上の登録者を持つビジネス英語学習プログラム「NEI」(https://nei-japan.com)。創業者でCEOを務めるのは、フリス・マイヤー氏だ。アラスカ州出身でワシントン大学大学院にて国際学の修士号を取得。ロシアや日本への留学経験もあり、神戸女学院高校で学んだほか、栃木県を代表する陶器、益子焼の修行も1年間ほど続けた。

MCC食品提供のクラムチャウダー、地産地消にこだわったオニオンスープ、香り高いバターライスを囲んで。日本語・英語で活発なコミュニケーションが育まれたイベントは大成功

NEIは神戸市による2019年の短期集中型起業家支援プログラムで資金調達を果たし、その後も同市のスタートアップ補助制度などを活用。神戸国際交流会館内のオフィス開業に向け準備を重ねてきた。そして、日本の入国規制緩和に伴い、マイヤー氏もようやく米国から教育ディレクターと共に念願の来日を果たす。「NEIはこれから神戸を皮切りに、日本企業のグローバル・トランスフォーメーションを手助けする企業になります」と、マイヤー氏は同社の神戸との縁を大切にしたいと話す。

在神戸企業のエコシステム発展のために地域ネットワークの拡大を目指して

6月3日、神戸ポートアイランド地域に展開する企業のネットワーキングの場として、NEIはオフィスが入る神戸国際交流会館にて「引っ越しクラムチャウダーパーティー」を開催した。神戸商工会議所ほか、IT、バイオテクノロジー、スキンケアなど、さまざまな業界からのゲスト27名が来場。日本伝統の「引っ越し蕎麦」にならい、シアトルを代表するメニューのひとつであるクラムチャウダーが、3月にポートアイランド工場をオープンしたばかりのMCC食品から提供された。「おいしい!」の声が飛び交い、会場は終始笑顔に包まれていた。MCC食品の広報担当・曽我笑夢(えむ)さんは、「食べることを通じて、異業種で一緒に前を向くきっかけとなり、食品メーカーとしてもうれしい限り」とコメントしている。

教育ディレクターを務めるダニエル・レスター氏(中央)。着用しているのは、MCC食品大阪支店長の佐々木孝文氏(左)から贈呈された阪神タイガース・梅野隆太郎捕手の法被

参加企業のひとつ、株式会社メディカロイドの豊辺晃子さんは「楽しく英語でコミュニケーションを取ることができた。このような交流の場はとてもありがたい」と感想を述べた。また、株式会社ナティアスの福井千春さんは「今後、会社が世界に羽ばたいていくための良い刺激になった」と語った。神戸医療産業都市推進機構クラスター推進センターの笹山美紀子さんは「神戸の企業が互いの強みを持ち寄って未来を語る姿は非常に力強く感じた」と、関係強化に期待を寄せる。

受講者の仕事内容や興味・関心に沿って完全パーソナライズされたNEIの英語トレーニングは日本でも製薬・IT・金融など幅広い業界で導入が始まっている。神戸を本拠に、これからどう成長していくのか今後も見守りたい。


仕事や興味関心に直結!AIとネイティブスピーカー講師による全く新しい英語トレーニング NEI

神戸オフィスのグランド・オープンを記念して、初月$100→$50の割引が受けられるチャンス! 申し込み:https://ne.institute/site/join

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コロナ体験談 〜みんなの広場

自宅で使える抗原検査キットが無料配布され、マスクの着用義務もほとんどなくなり、少しずつ社会が元に戻りつつあるように見える。だが、新型コロナウイルスそのものが完全に消えたわけではない。ワクチンを接種していても症状が重い人、感染してから数週間が経っても症状が残っている人もいる。個人差があることを前提に、あくまで一例として私の体験談も参考にして欲しい。

Day 0​
最初に違和感を覚えたのは6月3日の金曜日。いつもより体のだるさを感じた。1時間に1回ほど咳も出る。夕方に帰宅して熱を測ると36.5度と平熱で、検査キットも試してみたが結果は陰性だった。

Day 1​
深夜2時に急に目が覚めた。理由は体のだるさと関節痛。少しするとまた眠りに就くことができたので、朝8時に起き、ジョギングもした。しかし、このあとの外出で異変を感じる。立ちくらみが収まらず、咳をする頻度も上がっていた。早めに帰宅して検査すると今度は陽性を確認。のどの痛みも気になり始めた。

Day 2​
朝起きてものどの痛みと体のだるさが続く。熱は37.5度。のどにたんがあるような違和感に悩まされた。

Day 3
熱は36.5度に下がったが、のどの違和感と軽い関節痛・筋肉痛は残る。嗅覚や味覚は正常。昼に検査すると、2日前よりかなり濃いラインを確認できた。個人的見解だが、きっと今がピークなんだろうと感じた。

Day 4​
基本的には前日とあまり変わらない。熱は36.9度に上がった。

Day 5
のどの違和感と咳以外はほとんど症状がなくなった。検査をしてみるとまだ陽性だが、ラインの濃さは薄まっているように見えた。熱も36.4度の平熱に。

Day 6~8
咳はあるが、のどの違和感はなくなり始め、運動ができるまでに回復。検査結果もラインがずいぶんと薄くなっている。

 発症から約10日後に晴れて陰性。コロナにかかるのは今回が初めてだったが、3回接種したワクチンのおかげか、症状は比較的軽く済んだ。咳だけは陰性結果が出てからも1週間ほど残った。現在は検査キットがあるために自宅にいながら自分で陽性か陰性かを判断できる。陽性の人でも症状が軽い場合は外出してもコロナとは疑われない。さらに言えば、無症状の人や軽い症状だけの人は、そもそも検査すらしないで、陽性とも知らずに普段通り過ごすだろう。そんな人でもマスクなしで歩き回り、会社や学校に行ける。もちろん、大半の人は体調が悪ければ検査をしたり、他人のことを考えて外出を控えたりするだろう。しかし、今のシステムでは、そのような倫理的な問題は個人任せの節がある。

 ワシントン州での陽性者数はここ数カ月、データ上は横ばいだ。しかし、自分で検査でき、症状も重くならない今、全ての人がわざわざ陽性であることを公に報告しているとは考えづらい。これからもコロナに関して新しい動きが出てくる可能性はあるが、冷静に情報を分析し、行動していくことが大切だと実感した。 (匿名希望/シアトル)


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親子で楽しむ林間学校

アメリカに住む日本人の生活をサポートする非営利団体、JIAファウンデーションが林間学校(サマーキャンプ)を実施。日本語開催となり、日本語話者の保護者同伴で6歳以上の子どもが対象。日本風カレーを含むランチ、ハイキングやスイカ割りなどのアクティビティも含まれる。

日程:8月20日(土)10am~3pm

場所:Newcastle area(申し込み後に詳細を案内)

料金:家族で$20

問い合わせ:info@japaneseinamerica.org

申し込み・詳細:https://japaneseinamerica.org

車内にいながら動物の迫力を体感! オリンピック・ゲーム・ファーム

子どもから大人まで誰もが楽しめる、オリンピック半島で人気の観光スポット。この夏、一般の動物園では味わえない特殊な体験をしに訪れてみてはいかが?

取材・文:ジェジュン・ジョン

シアトルからは車だと3時間前後でたどり着くオリンピック・ゲーム・ファーム。最大の特徴は、車から降りずに動物を見られることだ。いや、「降りてはいけない」が正しい表現かもしれない。

至近距離でヤクに餌を与える

ゲートでチケットと共に、動物に与える餌としてパンを1袋3ドルで買い、いよいよ入場。車を少し走らせて丘の上に行くと、いきなり驚きが待っている。パンを求めるラマとヤクが全方向から群がってくるのだ。車の両サイドだけでなく進行方向からも迫り、初めての人は恐怖すら覚えそうな勢い。筆者も運転しながら「このまま車を走らせると危険!?」と身構えたが、心配無用だった。皆が毎日エサをもらい慣れているため、席の窓側へのポジション取りも完璧。ただし、窓を全開にすると車内に顔を突っ込んでくるので気を付けよう。餌をあげるにもつい顔が引きつってしまい、ちょっとしたチャレンジとなるが、それもここだけの素敵な思い出となる。

ラマへの餌やり

さて、その大群ゾーンを抜けると少し落ち着き、檻の中に入ったシマウマやオオカミ、トラなどを眺めて動物園らしさを満喫できる。基本的に餌やりはできないが、大きなクマにだけは柵越えのスローイングでパンを与えられる。

そして和やかな鑑賞体験後に待つのは、「このあと洗車必須」ゾーンだ。入り口に「止まると車が傷付く恐れあり。リスクを承知のうえで入場を」と、これまでにないトーンの注意書きがある。動物が餌を求め車に近付くのは序盤と同じだが、巨大な角を持つバイソンや粘り強い走りを見せるエルクなど、なかなか手強い連中がそろうのだ。彼らをまくのは至難の業。子連れらしき前の車は、両サイドにエルクが10頭ずつ常に並走していた。車はなめまくられ、洗車なしに家までドライブすることはできないだろう。

両サイドで待ち受けるエルク

そんなこんなで約40分の園内ドライブは終了。道中はヒヤヒヤし通しだったが、ゲートを出る頃には「来て良かったな」と全員が満面の笑顔だった。家族旅行も良し、友だちや恋人と来るのも良し。皆さんにもぜひ、訪れてもらいたい。

Olympic Game Farm 
1423 Ward Rd., Sequim, WA 98382
開園時間:日〜金9am〜5pm、土9am〜6pm
料金:一般$20、6〜14歳・55歳以上$15、5歳以下無料
☎️360-683-4295
https://olygamefarm.com

ボランティア・パークの円形劇場が完成

ボランティア・パークでは、新たな円形劇場の完成を記念して、毎週木曜日にショーやパフォーマンスを無料上演中。観覧にはレジャーシートを用意しよう。演目はラテンジャスの演奏やダンスなどが予定されている。

日程:開催中~8月18 日(木)6pm~8:30pm

場所:Volunteer Park 1247 15th Ave. E, Seattle, WA 98112

料金:無料 ※チケット制

問い合わせ:info@volunteerparktrust.org

チケット・詳細:https://parkways.seattle.gov

国立公園の無料開放日

8月4日(木)は「グレート・アメリカン・アウトドア法」の記念日のため、国立公園の入場が無料。2020年に可決された同法は、毎年3億2,500万人もの来場者がある全国の国立公園、野生生物保護区などの維持改善、環境保全に多額の予算を割り当てる内容になっている。

詳細:www.nps.gov/planyourvisit/fee-free-parks.htm

ビ

中華街に夏のパレードが復活

昨年は中止された中華街のシーフェア・パレードが開催決定。獅子舞やドラゴンダンスも披露される。

日程:7月24 日(日)7pm~

場所:Hing Hay Park周辺(South King Street と South Weller Street)423 Maynard Ave. S, Seattle, WA 98104

料金:無料

問い合わせ:206−552−0818、info@seattlechinesechamber.org

詳細:www.seattlechinesechamber.org/chinatown-parade.html

現代アートのショーケースが復活

ルーメン・フィールド・イベント・センターで、2年ぶりに「シアトル・アート・フェア」が開催。地元、アメリカ国内、世界のギャラリーから現代アート作品が100以上集まる。

日程:7月21日(木) 6pm~9pm、22日(金) 12pm~8pm、23日(土) 11am~7pm、24日(日) 11am~6pm

場所:Lumen Field Event Center 800 Occidental Ave. S., Seattle, WA 98134

料金:1日券$25、通し券$50

問い合わせ:info@seattleartfair.com

チケット・詳細:https://seattleartfair.com

シアトル市内で路上駐車料金の値上げ続く

シアトル交通局(SDOT)は、7月11日からシアトル市内一部地域の路上有料駐車料金を変更。3月末に続き、午後の時間帯はほぼ全ての地域で1時間当たり0.5ドルから1ドル値上げされた。最も高額なのはデニー・トライアングル南部で、午後は1時間当たり4ドル。今後も春、夏、秋の年3回の料金調整が予定されている。

詳細:https://sdotblog.seattle.gov

暑い日は水遊びで涼もう

シアトル市は7月11日、ライフガード付きのビーチやプールのオープン状況を発表。マディソン・ビーチやマドロナ・ビーチなどは週末の午前11時から午後7時までライフガードの監視の下で安全な水泳が楽しめる。一方、マシューズ・ビーチ、スワード・ビーチ、イースト・グリーンレイク・ビーチは今夏も閉鎖となる。

詳細:https://parkways.seattle.gov

地震と津波には常に警戒を

7月7日、ワシントン州天然資源省は、ビュージェット湾地下の断層で発生し得るマグニチュード7.5の地震による津波のシミュレーションを公開。津波の高さは観覧車のある地点で12.8メートルと予想され、ルーメン・フィールドやTモバイル・パークまで到達するとしている。

詳細:https://twitter.com/waDNR

おいしい山形県産米をシアトルでも

日本食に欠かせない米に新たな選択肢が登場。山形県庄内平野のサンエイファームから、直接、高級米の「つや姫」、「雪若丸」、「はえぬき」などを仕入れ、オンライン販売するグレート・ライスは、徹底した温度管理による保管、ワシントン州内での精米により鮮度の高い米をシアトルに届けている。贈答品にもぴったり!

場所:Great Rice, LLC 6632 S. 191st Pl., Kent, WA 98032

問い合わせ:contact@greatriceus.com

詳細:https://greatriceus.com

ジャズミュージシャン、松居慶子シアトル公演

日本人で初めて、全米ビルボードチャートのコンテンポラリージャズ部門で3度1位を獲得している、国際的なジャズミュージシャンでピアニスト、キーボーディストの松居慶子さんがシアトルでコンサートを開催する。全米ツアー中、4日間の長期開催はシアトルだけ。

日程:8月25日(木)・28日(日)7:30pm~、26日(金)・27日  (土)7:30pm~/9:30pm~

場所:Dimitriou’s Jazz Alley 2033 6th Ave., Seattle, WA 98121

料金:$38.50

問い合わせ:☎206-441-9729

チケット・詳細:https://jazzalley.com

8月6日にシアトルから平和を願う

世界の平和を願 っ て 1984年から毎年続けられている灯籠流し イ ベ ン ト「 フロム・ヒロシマ・トゥ・ホープ」がグリーンレイクで開催される。広島と長崎の原爆投下から77年、米国西海岸の日本人、日系アメリカ人が強制収容された大統領令9066号から80年に当たる今年は、旭日双光章を授与されたばかりのローリー・レイ・マツカワ氏が登壇し、演説予定。音楽の演奏なども行われる。

日程:8月6日(土)6pm~

場所:Green Lake(Seattle Public Theatre at the Historic  Bathhouse付近)7312 W. Green Lake Dr. N., Seattle, WA 98103

料金:無料

問い合わせ:☎206-928-2590、fhthvolunteers@gmail.com

詳細:https://fromhiroshimatohope.org

リトル・サイ山でウォーミングアップ〜SNAPSHOTS

シアトルから東に35マイルほど行くとサイ山が見えてきます。登山で人気ですが、岩場もあって少々ハードルが高い。ということで、同じ場所にある入門編のリトル・サイ山に登ってきました。整備された山道は歩きやすく、ペット連れ、子ども連れも多数。片道1時間半ほどで頂上に到着すると、開けた眺望にはサイ山の姿も。次回こそ、この親玉に挑戦したい!(K)

シャッド(ニシン)釣りに挑戦〜SNAPSHOTS

「必ず釣れる場所」とされる釣りスポットが、シアトルから車で3時間半のコロンビア川、ノース・ボンネビルのダム近くにあります。この時期は1日に20万匹も遡上するため、釣っても釣ってもまだ釣れるのだとか。しかし、次々と釣り上げる友人を横目に、1匹も釣れないままアタフタして終了。それでも雄大な景色に癒やされ、リフレッシュできました。(K)